はてなキーワード: PCエンジンとは
毎年6月24日や8月6日を不謹慎だ叫ぶ人々や、3月11日を「何らかの記念日だし普通の日とすべき」と書かれたアンサイクロペディア、これら全てに怒りを感じたので増田は何ならそういう日の幸福な側面を扱ってやるというリストを作りました
それがオールラッキーデイズ(All lucky days)です
今日は何の日か分かってるよナ
本番は翌日に発表するゼ
ここ40年位の日本のゲームの歴史をハードの性能などを交えて取り敢えずプレステ辺りまでを解説して下さい
ここ40年間の日本のゲームの歴史は、多くの革新と発展がありました。以下は、主要なゲームハードウェアとその性能に関する概要です。
ファミリーコンピュータ (Famicom) / Nintendo Entertainment System (NES) - 1983年発売
任天堂が開発したファミコンは、8ビットのプロセッサ(1.79MHz)を搭載し、最大52色のグラフィック表示が可能でした。これにより、スーパーマリオブラザーズやゼルダの伝説などの名作ゲームが生まれました。
セガ・マークIII / Sega Master System - 1985年発売
セガが開発した8ビットの家庭用ゲーム機で、プロセッサは3.58MHzでした。最大64色のグラフィック表示が可能で、アレックスキッドやファンタジーゾーンなどのゲームが人気を博しました。
PCエンジン / TurboGrafx-16 - 1987年発売
NECとハドソンが共同開発したPCエンジンは、8ビットのCPU(7.16MHz)と16ビットのGPUを搭載し、最大482色の表示が可能でした。このハードは、R-TYPEや悪魔城ドラキュラなどのゲームで知られています。
スーパーファミコン (Super Famicom) / Super Nintendo Entertainment System (SNES) - 1990年発売
任天堂が開発した16ビットのゲーム機で、3.58MHzのCPUと最大32768色のグラフィック表示が可能でした。スーパーマリオワールドやゼルダの伝説 神々のトライフォースなどの名作が多数リリースされました。
セガ・メガドライブ / Sega Genesis - 1988年発売
セガが開発した16ビットのゲーム機で、7.67MHzのCPUと最大512色のグラフィック表示が可能でした。ソニック・ザ・ヘッジホッグやストリートファイターIIなどのゲームが人気を博しました。
セガが開発した32ビットのゲーム機で、2つの28.63MHzのCPUを搭載していました。最大対応色数は1677万色で、バーチャファイターやパンツァ
セガが開発した32ビットのゲーム機で、2つの28.63MHzのCPUを搭載していました。最大対応色数は1677万色で、バーチャファイターやパンツァードラグーンなどのゲームが特徴的でした。また、CD-ROMを採用し、高品質なサウンドやムービーの再生が可能でした。
ソニーが開発した32ビットのゲーム機で、33.87MHzのCPUを搭載し、最大対応色数は1677万色でした。CD-ROMを使用し、ファイナルファンタジーシリーズやメタルギアソリッドなどのヒット作が登場しました。3Dポリゴン技術の進化により、リアルなグラフィック表現が可能となりました。
任天堂が開発した64ビットのゲーム機で、93.75MHzのCPUを搭載していました。最大対応色数は1677万色で、スーパーマリオ64やゼルダの伝説 時のオカリナなどの革新的なゲームがリリースされました。カートリッジを採用していたため、読み込み速度は速かったものの、データ容量が限られていました。
以上が、おおよそ40年前からプレイステーションまでの日本のゲームの歴史とハードウェア性能の概要です。この期間には、技術革新やゲームデザインの進化が急速に進み、多くの名作ゲームが生み出されました。
中学校の時、パソコン部に入っていたけども、当時は90年代後半だってのにWindowsがなく、PC-98をカタカタ使っていた。当然インターネットなんで繋がっていない。
やることといったら部室にあった教育用のゲームか、キューブでお絵描き、あとはBASICの本に載っているゲームのプログラミングを丸写しして作ったゲームで遊ぶくらい。
それでこの時遊んだ教育用のゲームを思い出してググってみたけど、マジで情報がないな。
辛うじてタイトルを覚えている2本について書いておくよ。
PCエンジンに「カルメン・サンディエゴを追え! 世界編」というソフトがあるおかげで名前だけはヒットする。ただし、俺が遊んでいたのは日本国内しか回らない内容だった。PCエンジン版では「世界編」と付いているのは、おそらく「日本編」としてパソコンゲームの存在があるせいだと思う。
でもカルメン・サンディエゴの国内版のPCゲームの話は見つからない。ウィキペディアにはカルメン・サンディエゴシリーズそのものの話はあるが、基本的にはアメリカのゲームだし、PCエンジン版以外はアメリカ版の話しかない。俺が遊んだ日本編は幻だったのか……?
内容としては、カルメン・サンディエゴという怪盗を追う話で、ヒントのための情報の聞き取りをして回り、カルメン・サンディエゴの逃亡先を各々地方に関する内容を地名を伏せて知らされるので、それがどこの地方であるか推測して日本中を回る話。まあ地理の勉強について役に立つ?という内容。まあファミコン時代にありがちなアドベンチャーゲームのスタイルだったかと思う。
割と普遍的っぽい名前の上に同名の韓流ドラマがあるおかげで、ググっても探しにくいのなんの。
ちなみに「未来の選択」と書いて、「みくのせんたく」と読みます。作中に出てくるキーパーソンが「未来(みく)」という名前なので、まあダブルミーニングってやつ。
内容としては、災害だったかタイムスリップだったか忘れたけども、主人公たちが荒れ果てた島にやってきて、その島を再建するというシミュレーションゲーム。
ロボットが事実上の通貨であり、工場を建ててロボットを作り、そのロボットを使って島の各エリアを開拓していく。ただし教育用のゲームなので環境には気を使わないと行けない。
クリアまで30ターンで、ターンの終了時に工場がロボットを作り、それを用いて次ターンで開発を進めていく。ターン終了時には環境の悪化具合、住民(一体どこにいたのか、どこからきたのか)の健康被害みたいなものが伝えられて、まあうまいことやりくりしないとならなかったな。最終的には火力発電所や水力発電所を全部撤去して原子力発電所にする、工場からの環境汚染は二酸化炭素を中和する機械みたいなものを大量に買い込んで浄化するというのが勝ちパターンだったような。
40代と50代前半は、ゲームの進化を多く見てきた世代で一番楽しんでいる世代だと感じる。
50代はインベーダーに夢中になった人が居た。喫茶店にすらテーブル筐体が置いてあるのも珍しくなかった。
社会人になると50代はゲームから離れる人も少なくなかったが、カラーゲームというTVゲームも発売されゲームセンターのゲームもどんどんタイトルが増えたのを楽しんだのは50代だ。
そして40代はファミコン(1983)が発売され、瞬く間に当時の子供たちを魅了した。彼らはファミコンというゲーム機を通してゲームの進化を見てきた世代だ。
ファミコンカセットでの容量が増える度にゲームの質も良質に変わっていった。ディスクシステムといった新たな試みを40代はリアルタイムで楽しんだわけだ。
そして、SFC・MD・PCエンジンと様々なゲーム機が発売された頃の40代は中学生から高校生、やはり一番楽しめた世代だろう。
なにせ、アニメーション・ボイス・ムービーも含めて走りを経験しているのだから。
一方で、50代はPC88や98などのパソコンをビジネスと娯楽に使えるようになり、違う世界を楽しんでいた。
40代が高校生になる頃、PS・SS・PC-FXが発売された。さらに進化したゲーム機を経験したのだ。
ドットと単音から進化を見てきた今の40代・50代はゲームの進化を目にし、ひたすら楽しめた世代だと思う。
同じように30代よりも若い世代は、これからの進化したゲームを楽しめるのだろうと思う。
最近はゲーム自体進化が止まってきたとも、たまに言われているが進化が止まったというよりもユーザーがグルメになりすぎたのだと感じる。
こればっかりは、次々と進化を求めるユーザーがいる以上仕方のない事だと思う。
そういう意味も含めて考えると、40~50代の人らはネットが普及する以前の情報の少ない時代で、
便利なんだよ~。いちいちメニュー開いてそこからサブメニュー選んで、みたいな手間が減ったから。
{ちなみにファミコン→スーファミ、セガサターン、PCエンジンまでは順当に対応してきて、64のアナログスティックの感度で躓きかけながらも、ゼルダのためになんとか乗り越えて、その辺(PS2)からしばらくゲームから離れて、Switchとsteamで戻ってきた}
ブレワイ久しぶりにやろうと思ったら、何にもできない。
盾とか弓とかが、直感的なボタンになってない。復帰用のチュートリアル必須レベル。
それでリハビリしてもまた他のゲームやろうとしたら一から覚えなおし
インディーのシンプルゲームが売れる理由のうちのひとつは、安いしそこそこ楽しいし、操作がシンプルで覚えることが少ないからなんだと思った
1より2が有名になったやつは、ストリートファイターとかMOTHERとかプレイバックとかいくつも思いつくけど、
1でも2でもなく3が有名なやつは中々思いつかないので絞り出してみる。
・丑三つ時
→草木が眠ることでお馴染み。現代の時間でいう、午前2時から2時半くらいのこと。
丑一つ時でも丑二つ時でも丑四つ時でもなく丑三つ時なのは、語感が良いからなのだろうか
ワンクールアニメを3話までで判断する人が増え、制作側もそういう意識の元で話を作ることが一時期増えた気がする
→初代、2代目がとどのつまりEXILEなのでズルい気がするが、ユニットとしては3代目が有名で活動期間も長い
・若乃花
初代は成績や貢献度の大きさから伝説だし、2代目も間垣親方としての活躍が有名なので微妙だが、世間一般の知名度では3代目が一番ではないか
→スーファミ版の2から受けてた気がするが、3で大ブレイクした印象
→スーファミのスーパー桃鉄3で人気を不動のものにした印象があるが、ファミコンやPCエンジンの時点で名は知れてた気もする
→上に同じ
→だから年齢がバレるって言ってんだろ
って、いつくらいなんだろう。
ふと思っただけなんだけどさ。
昔は当たり前だけどファミコンよりゲーセンのゲームの方が明らかにグラフィックも綺麗でハイクオリティだった(からファミコン持っててもゲーセンに通ってた)。ファミコンのグラディウスの細切れレーザーに慣れた後にアーケード版の揖保乃糸のようなレーザーの美しさに仰天したもんだが、そもそもファミコンにグラディウスが移植されること自体が話題になるような時代だった。
そんな調子でマークIIIのスペハリに仰天し、PCエンジンのR-TYPEに仰天し、アーケードの源平討魔伝に仰天した後にファミコン版にガッカリする青春時代を過ごしてきたが、メガドライブあたりからそんなに仰天しなくなってきた。以前はプレーできるだけで有難かったのに、家庭用ゲーム機の性能が上がるにつれ有り難みがどんどん薄れてきた。
PS、サターンくらいだと、まだアーケードの方が上なのかな。サターンのVF2は少ししょぼかった気がする。PS2のVF4とかはもう違和感無かったから、この辺りが肩を並べた瞬間なのかも知れない。
もちろん今の時代の方がゲーマーにとっては恵まれているんだけど、スト2が50円のゲーセンを求めて、2つ先の駅まで自転車漕いだ時代もまた懐かしく魅力的だった。女神転生5終わったから、次何遊ぼうかな…
横田ですけど、自分の場合は小2くらいには同級生の性的なこと(といっても知識がないからキスとかパンツくらいが限界)を考えながら自慰してたし、恋愛とかエッチな内容を含む創作物を学ぶよりも先に性欲があった
で、ついでに元のエントリにあったAVとか風俗の話。風俗は子供の頃はよくわからず、キャバクラ、キャバレー、ノーパンしゃぶしゃぶ、風俗、売春、このへんの区別がつかなかった。で、段々と雑誌や深夜番組で知識を得て、分化して行った。どうも思わんかったと思う。社会勉強って感じ。潔癖症な部分があるから風俗はいまも行ったことないし行く気もないです
AVの話。これは存在自体は知識としてはあったはずだけど、実際に見たのは小学4、5年生ごろ。U局のエッチな深夜番組で少しだけAVを流すコーナーが毎週あった。短いし刺激的なシーンはそんなに流さないけれど、録画すればオカズにはなる。毎週のように録画してお世話になっていたが、フェラにはめっちゃ驚いた記憶がある。「咥えるんだ!」って
自分の場合、少年漫画はほぼ通ってないので特に思い入れはない。ただ、当時は地上波のドラマが結構性的なことに突っ込んでた記憶がするね。あとゲーム雑誌を買うと、お目当てのSFCのゲームの横にPCエンジンの際どいゲームが紹介されていて刺激的だった
(続き)
といった問屋関係の逸話が当時バンバン登場した。メーカーも対抗すべく(?)ダンピング出荷、返品受付などで一本でも多くソフトを売りさばこうと必死だった。このあたり、問屋も小売店もメーカーも、市場の異常さに気が付かずもがいていた感じが否めない。初心会と二次問屋は、問屋の本分である「日本全国に適正量の在庫のゲームソフトを流通させる」という機能を忘れ、ただただゲームソフトを動かすことで得る利益をあげることに無我夢中だった。
ここで注意をしておきたいのが、「任天堂や初心会が、一方的にサードパーティや小売店から利益を吸い上げている」という既存の論調は近視眼的だ、ということだ。スーパーファミコン市場に参入したサードパーティはおよそ200社。このうち途中で撤退を決めたのは10数社で、しかもこれら撤退したメーカーの多数は異業種メーカーであり、本業での業績が低下したためだったり、バブル期の不動産に手を出して大やけどして倒産…といったもので、ゲームと直接関係あっての撤退ではないのだ。
小売店も同じことで、当時はファミコン-スーパーファミコンという新しい分野での市場拡大に手を出す小売店が多数いた。ただ問屋に苦しめられるだけの業種であるなら、こんなことは起きるはずがない。甘い蜜はそれなりに存在していたわけだ。ざっくり要約すると「不満はあるが儲けもある」といったところか。むしろPCエンジン・メガドライブの有力ソフトをスーパーファミコンに移植して一旗あげようとするサードパーティのほうが多かった。それほど有望な市場であるがゆえ、いろんな輩が入り込もうとやっきになったわけだ。
市場が拡大している間はそれでもよかった。しかしスーパーファミコンが円熟期を迎え、対抗馬として「次世代機」の姿がちらつくようになってきた頃に、いよいよおかしくなってきた。多数現れた三次問屋が小売店と二次問屋の中にねじ込み、己の利益を吸い取ろうとし始めた。手法としては品薄になりそうな人気ソフトを抱きかかえ、「小売店に小売価格そのままで」卸したりした。商圏を無視して跨いで他社の領域に食い込んで商売するところもではじめた。初心会の中にゲームソフトを投機商品のように扱う問屋が現れ、二次問屋三次問屋が喜んで利益の分前を頂いた。その分小売店に負担が偏り、結果的にはプレイヤーにも巡り、最終的には市場に悪影響を及ぼす。スーパーファミコン市場は歪んだまま大きくなり、そしてついに縮小を始めた。
衝撃が大きかったのはプレイステーションの登場だ。なんと問屋を使わず、ソニーが直接小売店にものを卸すという。革命的なやり方だった。返品なし、定価販売というところがネックになったが、どの商材も掛け率が一定であることに小売店は喜んだ。今までは問屋ごとに掛け率が違ったり、注文する本数によって掛け率が変動したり、そもそも抱合せで仕入れるしかなかった(違法? しったことか!)からだ。
こんなことが可能なのはプレイステーションがCD-ROMを採用しているからだった。リピート生産がROMほど時間がかからない。お金も自前の工場だからさほどかからない。最悪在庫になっても簡単に破棄できる。それゆえ最初こそ少量生産で行い、売り切れたら即リピート発注すればよい。こうすれば過剰な在庫にメーカーも小売も苦しめられずにすむ。値崩れ・抱合せも心配いらない。
ROMカセットを採用していたらすべて実現不可能なことだった。ちなみにセガもサターンでCD-ROMを採用しているが、他社の工場での生産だったためなかなかリピートが上手く行かなかったらしい。(なお、詳しく書かないがここで上手くいった改革は現在すべて崩壊している)
一方、任天堂はROMカセットの採用を64でもやめなかった。ディスクシステムに手を出してそのあまりに長いロード時間に苦慮したことの経験があるからだ。そしてこれを機にもう一度市場のリセットを図ろうとした。市場にはスーパーファミコンのワゴンセールが始まっている。なんとかして初心会内外にあるゲームの投機的扱いをやめさせなければならなかった。ソフトの数が少なくなれば、そのような動きはできにくくなる。そのためサードパーティのソフトをとにかく減らし、少数精鋭路線で進もうとした。初心会外に取引を広げ自前で流通を行うという選択肢もあったが、これは取らなかった(実はSFC時代にトイザらスが日本進出をしてきたとき、任天堂や各大手メーカーに直接取引を持ちかけてきたが、これは上手く行かなかったようだ)。山内社長はファミコン時代の遥か昔から取引を続けていた初心会を切ることに抵抗があったからだ。それに「絶対に売れない」といってたファミコンも買い取ってくれたのは初心会だ。この前もバーチャルボーイというズッコケハードを出したが任天堂は全量初心会にハードを買い取ってもらっているので被害は最小で済んでいる。(その負債は初心会が被り、さらにその負債は小売店に押し付けられた構図だ。)
しかしそれでも、初心会と二次問屋たちは目先の利益を追い求めるのに夢中だった。
スーパーファミコン市場末期の1995年発売の聖剣伝説3は初回出荷は70万本だったが、実は初心会からの注文本数は合計140万本だった。前作がミリオン超えをしていたのでそれだけ期待があった、という表側の理由だが、ようするにこれも投機的に扱われることが明白だった(そもそも前作聖剣伝説2も結構な数がワゴン行きしていた)。あまりに酷い値崩れを嫌ったスクウェアは出荷本数を半分の70万本にし、かつ卸値を10%引き上げると初心会にアナウンスした。こうした動きに一部の問屋がなんと小売店に対して「スクウェアを公正取引委員会に訴える!」と言いまわってしまった。もちろんスクウェア側には一切の非はない。運が悪いことに(それとも狙ったか)スクウェアは夏休みに入ってしまったので、小売店は真相を確認することができず業界の一大事が起きたのではないかとパニックになったところもあるという。この話は巡り巡ってなぜか「任天堂が悪い」ということになった。PSが発売されて半年以上経とうとする頃でも、初心会に危機感は全くなかった。
その年の末発売のドラゴンクエストⅥの発売にあたっては、初心会とエニックスの間で注文数の予測で大紛糾だった。初心会の予測は250万本。エニックスの予測は300万本。エニックスは自信満々だったが、初心会はそこまで売れないと踏んでいた。初期出荷は250万できまり、エニックスは自前で50万の在庫を抱えることになったが、この読みは的中する。即リピート発注がかかり、エニックスは二次出荷を行った。
最終的に320万出荷を果たすわけだが、売上予測ができない問屋にメーカーは価値を見出すだろうか?
そして、ついに、終わりのときは訪れた。
1997年2月21日。任天堂本社で毎年のように行われる初心会の懇親会。その幹部会の席上にて初心会会長である河田会長が宣言した。
幹事会は静まり返った。関係者には事前に知らされていなかったのだ。解散は任天堂山内社長と、初心会河田会長のトップ会談で秘密裏に行われた。今後一切の取引は商品ごと個別に行われ、しかも初心会内の特定10社のみそれが行われる。今までゲームソフトを投機的に扱って儲けを吸っていた会社は任天堂から拒絶され、二次問屋に落とされた。しかも64の少数精鋭路線のおかげでこれから商材はどんどん減る。今までのような振る舞いは不可能になった。
任天堂はスーパーマリオクラブの立ち上げにより売上予測をするようになった。つまり、予測のノウハウを自ら身につけつつあった。そうなれば商材を投機的にあつかう問屋は不要だ。「どれほどのソフトが売れるか、我々にはわかりようがない。流通のプロに任せるしかない」。かつての山内社長の言葉だが、流通のプロがプロに値する仕事をしないのなら、切られても仕方がないというわけだ。
実はこの流通改革に前後してプレイステーションでも問題が発生した。デジキューブだ。スクウェアがプレイステーションに参入する条件として、コンビニに自分たちで卸すデジキューブをSCEに許可させた。
もともとプレイステーションはすべてSCEが自前で小売店に流通することを売りにしていた。ところが後から来たスクウェアはSCEを通さず自前で流通させるという。
このあたりを詳しく解説する。SCEはソフトメーカーと協議し、ゲームソフトの初回生産量を決める(ということになっているが、実質決定権はSCEにあった)。
SCEは特約店(一部、ハピネットといった問屋も使用していたが)からの受注数がその初回生産量に満たない場合はSCEが自腹で在庫を抱える(ように努力いたします、という注釈付きではあった)。
と、ソフトメーカーにかなり親切のように見える。しかしこれには問題が含まれていた。初回生産量はSCEが決め、実際に流通させているのもSCE自身だ。ソフトメーカーが営業をしかけ多くの受注を獲得したとしても、SCEがOKを出さない場合、本当にそのソフトは流通しなくなる。実際に飯野賢治がプレイステーション版Dの食卓で自分たちで在庫を抱えてもいいから多くつくるべきだと要望を出しても、SCEはそれを良しとはせず、結果売り切れを引き起こし機会損失を生んだことがあり、飯野賢治はセガ陣営への鞍替えをしたことがあった。
ソフトメーカーからしたら、リスクも多いが儲けも大きい自社流通に切り替えたがっていた時期だったが、任天堂もSCEもそれを良しとはしなかった(ただし任天堂は初心会通しであるため、一社が売れないと踏んでも他の問屋が受注してくれる可能性はあるし、このときPSの取扱店はまだ初心会流通よりは少なかった)。しかしスクウェアだけには特例としてそれを認めるというわけだ。SCEは流通に関わらず、スクウェアが直接小売店とコンビニにゲームソフトを卸すわけだ。当然、初回生産量も自由に決められる。
いったいどういうことだ、SCEはロンチから頑張ってきたメーカーに対して不義理じゃないのか。こうした理論で反発したメーカーがいた。コナミである。
コナミはSCEに対して自社流通を求めた。ゲームをつくる製造委託費とロイヤリティは支払うから、お前のところの流通網は使わんぞ、ということだ。こうすることでコナミはSCE流通分の費用を削ることができる。5800円の小売価格のうちの取り分を増やすことができるわけだ。もちろん在庫リスクや小売店へのやりとりはコナミ自身がやらなければならないから、自社流通が完璧というわけではない。結果的に大手メーカーはみな自社流通になっていくが、ナムコだけは付き合いもあってか(ナムコはかなり初期からPSに絡み、ライブラリの整備も行うほどだった。自社プラットフォームを諦めたかわり、PSに注力したということだろう)SCE流通を使い続けた。
プレイステーション側でこのようなことが起きてるのだから、当然余波は任天堂側にも及ぶ。コナミは64やゲームボーイの自社ソフトに対して「これから初心会を使わず自前の流通網使いますから」と一方的に任天堂に要求した。かつての任天堂ならば決して受け入れるはずのない要求だろう。だかしかし、任天堂は簡単にこの要求を飲んだ。そして門戸が開かれた自主流通のおかげで、ゲーム業界の流通改革は全メーカーを巻き込んだ。最終的にはコナミ、カプコン、コーエー、スクウェア、エニックスといった大手は自前で流通網を持ち、中小サードパーティはそこへ委託流通する形に落ち着いた。つまり元初心会の問屋たちを全く必要としない流通を実現してしまった。
解体された初心会はボロボロになった。合併倒産が相次ぎ、その多数が姿を消した。残された10社は直接小売店と取引するようになり、二次問屋三次問屋は居場所がなかったからだ。
しかも任天堂から選ばれた10社も順風満帆ではない。10社のうちモリガングはバンダイ系列のハピネットに買収された。石川玩具はタカラへ事業譲渡した。松葉屋はラスコムに事業譲渡し、そのラスコムも後年自己破産している。そんな一方テンヨー、カワダ、カマヤは今でも元気に問屋業を営んでいる。(名前が出てこない他の会社は調べても出てこなかった。情報plz)
そしてジェスネットは任天堂の子会社となり、アジオカは事業譲渡を行って「任天堂販売」となったが、これはなんと2016年の話だ。初心会が解体されて20年近くたったが、完全に自前で任天堂が流通するようになった。
こうして初心会は歴史の中に消えていった。良い面悪い面両方ともあったわけだが、特に末期には悪い面が強く出すぎていた。しかしこうして羅列してみると、「初心会があらゆるあくどいことを駆使して不法に市場を牛耳っていた」というわけではなく「初心会が市場を牛耳っていたのでいろいろとあくどいことができた」ということに気がつくだろう。その市場も確固たるものではなく急激に膨らんだ不安定なものであり、なおかつ悪行も任天堂の山内社長の怒りが落ちない範囲内の話でしかなかった。
悪徳の町、ソドムとゴモラは神の怒りに触れ一夜にして滅んだ。初心会も同じ運命を辿ったのだった。
参考文献
東洋経済 1997年3.22号 盟友・初心会を抜き打ち解散した山内・任天堂 焦りの流通改革
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH
大森田不可止 @omorita
そのとおりで、
APUやiGPUというものができてもう20年くらいになるけど、
いまだにオンチップのSoCとディスクリートGPUでは性能に雲泥の差があるのは面白い。
1978年のインベーダーから1988年のPCエンジンまで10年で、
結論、グラフィックとサウンドでは処理の難しさが天地ほど違うということだと思う。
https://btopc-minikan.com/note-gpu-hikaku.html
それに関連して、
GPUの仮想化もマイクロソフトがRemoteFXっていう技術で開発してたけど性能が悪くて断念した。
最近は日本人技術者メインにGPU-P(GPUパーティショニング)っていうものが開発中で、
これがもしオーバーヘッドなしで、