はてなキーワード: 自然現象とは
多様性というのは「現実にそこにある以上、認めるしかないもの」でしかない。
功罪共にあったとしても、その流れを断ち切ることは不可能なんだから、それに合わせて社会を変えていくしかないって話。
それは共産主義が失敗したことと本質的に同じ。「人類の活動」という自然現象を、少数が政治でコントロールするなんて無理だということ。
LGBTを認めようが認めまいが、当事者たちは現実にそこにいる。
「人権は守られるべき」という標語は「多様性」とは何ら関係がない。多様性があろうがなかろうが「人権は守られるべき」である。
LGBTは、女性は、人種的マイノリティは、別に「社会の多様性を担保するために存在している」わけではない。それぞれが生きるために生きているだけだ。彼らの存在が社会の多様性を広げようが狭めようが、そんなこととは関係なく「人権は守られるべき」である。
「多様性が不快なものの許容だ」という人たち、さぞ多様性が不快なんだろうなあと思う。実際は、快か不快かに関わらず、人権にのっとり受容すべきものは受容すべきなのであって、受容すべきでないもの(レイシズムなど)は受容すべきでない。多様性はその結果として生じる。— 北守 (@hokusyu82) January 23, 2020
新しいポケモンの化石ポケモンが話題になっていて、ずばりギリシャ神話のキマイラのことではなくて、普段からよく話題になる想像上の生き物で「複数の動物の特徴を掛け合わせているやつがいたなぁ」って思ったりしてたんですよ。
そいつ「ドラゴン」とか「龍」とかいう呼び名でよばれているんですけど。
個人的な分類なのでそれが常識ということは全然ないので構えずに聞いていただければ幸いなんですが、ドラゴンって呼ぶ時は西洋伝承の竜、「龍」って呼ぶ時は東洋伝承のリュウを意識しています。西洋伝承との比較の話題のときにはわざわざ東洋龍をドラゴンとかよんだりして自分からルールを破るので、本当にそこは私事ですよね。
ちょっと前にNHKの特集でドラゴン伝説に関する番組があったりしたんです。
テロップに「人類学者」「歴史学者」「宗教学者」って表示される人の他には、古生物学者さんとか比較生物学者さん、気象学者さんなんかもコメントしていたのが印象に残ってます。あと世間話でドラゴンって話題に出すときには、地理学を勉強している知人と話していることが個人的に多かったりもしますね。結構、色んな分野からドラゴン伝承というものを話題にすることができるってのは面白いなと思います。
古生物学的な知見から語るドラゴンとはずばり恐竜の化石の話でした。僕たちの世代ともなると人間何人ぶんくらいの恐竜の化石が見つかったとして、それは人類が成立する前の時代の、大昔の生き物の痕跡であって「こんな生き物がいまも生きて闊歩している」とは咄嗟にも思わない訳ですが、それは今日に至るまでの研究成果とそれを知識として普及できる教育の賜物であって、それがなかった時代の人たちはそうは思えなかったって話です。
番組ではルーマニアで有名な翼竜の化石が見つかっていると言及されていましたが、ルーマニアはドラキュラ伝承の元になったヴラド・ドラクル公の故郷ですよね。「ドラクル」という別名は彼の自称で「悪魔の子」って意味だとよく言われますが、本当は「竜の子」とかそういう自称だそうです。言語には明るくないのでもっと正確な意訳ができず恐縮でありますが、無知の身上なので「音が似てますもんね」とか言います。どうしてそれが「悪魔の子」だなんて受け取られ方をしたかと言えば後述したいと思いますが「ドラゴンは当時の人々にとっておそろしい敵役で、悪魔に連なるキャラクター」だったからです。竜の子なんて自称するのはその宗教的事情を考慮するならば自ら悪魔の敵役を名乗る型破りなことだった訳ですね。かなり話が脱線しましたが、竜の子ヴラドの伝説的な話が根付くルーマニアで、空を飛ぶ恐竜の化石が見つかっているという話がなんだか面白いなと僕は思う訳です。「無関係とは言えないだろう」とか僕なら思っちゃうし言いたいですし、当時の文献記録に化石の発掘らしき出来事の記述とかあるならそれは想像が捗るので素敵な話だと思います。
比較生物学的な見地からはいまも生きている生き物、特に蛇が槍玉に挙がっていました。ずばりって感じがします。番組では「何故ドラゴンは火を吐く?」という疑問に対して、蛇がちろちろと舌を出す様子に触れつつ、この蛇の習性が「誤った情報伝達の仕方をして」ドラゴンに火を吐かせるようにしたのではないかという話をしていたのでこれが面白かったですね。
まずドラゴンという想像上の生き物が成立する。次に「ドラゴンは想像上の生き物で、実物を人前に持ってきて伝えることができないから」人間は想像を絵に描いて伝えようとします。この間に、ドラゴンというのは実在しない生物なので、かわりに実在する他の生き物の特徴を取り込んでイラストとして出力されてしまう訳です。無いものを描くことはできないので、かわりに実際に有るものの特徴を代用して想像を膨らませていく。会話で比喩表現を使うようなもんですよね、「奴は蛇のようにずる賢い性格なんだ」とか「鳩が鉄砲で撃たれたような顔してるぜ」とか。
それで番組に出てきた絵なんですけど、たぶん火を吐いてなかったんですよ。イラストの横に難しいラテン語でびっしり説明文書かれていましたが、「これは火を吐いている絵ではなく、蛇のように舌をちろちろさせているドラゴンのイラストです」って言われたら僕はそれで納得してしまいます。そんな絵でした。
ところで遠い土地に住んでいる人に自分の描いた絵はこういうものだと事細かく説明できますか? 僕はそういうのが得意ではないので、しばしば伝言ゲームみたいになっちゃうんですよ。これが誰もが当たり前にまだラテン語を読めなかった時代で、聖書の記述すら読み書きの技術を持つ教会の神父様に読み聞かせていただかなればならなかった時代となると、もっと大変だったと思います。もちろん、そういう誤解が広がらない為にバチカンの偉い司祭様たちは色んな対策を立てたと思いますが、果たして「悪魔の姿形まで全員の意見を一致させようと手を回す余裕があったのか」はわかりません。イラストというのは文字や言葉より強烈です、写真の無かった時代ならそれは写真の代わりすらつとまったほどに。それでもやはり限界はありますよね。実際にあるものを観察して正確に描いたものなら兎も角、空想の風景を自分が見たことのある風景に喩えながら暗中模索で描きあげたらしいドラゴンのイラストですから尚更。もちろんそれを見せる相手が目の前にいたなら言葉にして説明できたでしょうが、その絵が本に載って遠い土地にいる人たちの手に渡った時、そして彼らが字を読み書きできないとかそもそも違う言葉を喋っている人たちだったりしたら、蛇の舌の絵が火を吐いているように受け取られたりしても即座に訂正したりできないのでそのまま広がってしまいますよね。
ここでちょっと本旨に触れていますが、空想上の生き物は実際にはいないのでそれが絵や銅像といった形にされる際、実在する動物の特徴をつぎはぎにして成立する時がある、というのが比較生物学的な知見で言いたかったことであるように思います。
恐竜の化石にしたって、伝説に語られるファブニールやヒドラそのものにしか見えない代物が発掘されている訳じゃありませんから。そもそも恐竜の化石から想定した想像図が最近すこしずつ変わっているらしくて、僕が映画で見たティラノサウルスはコモドドラゴンじみた堅そうなウロコに覆われた姿でしたが、いまは鳥のように羽毛が生えていたのではないかと言われているそうです。ここはもう少し言及すると、恐竜の末裔はいまも空を飛んでいる鳥、特に渡り鳥である、なんて話にも波及していきそうですが、僕はそのへん浅学なので触るだけで容赦していただきたく思います。
最後に歴史学、人類学、宗教学、あとすごく恐縮なんですが地理学から見たドラゴンの話をしたいな、と思います。ここがすごく自分が興味ある分野になるので話が長くなりそうなんですが、そのほとんどが他の人からの受け売りの知識・聞きかじりの知識であることを先に明言してから話したいと思います。この話を僕にしてくださった皆様に限りない御礼と尊敬を。
まず、先程までドラゴンが火を吐くのは、蛇の舌の特徴を取り込んで描いた想像図を見た別の人が、その絵の様子を「火を吐いている」と誤解して広がったからではないのか、と話題にしていました。さらにここを掘り下げて「何故火を吐いている姿に見えた(誤解した)んだろう?」という話をしようかと思います。
ドラクル公の話にも戻りますが、西洋ドラゴンは悪魔に連なる存在であり、人々にとっておそろしい敵役だったと言います。これは特に難しい理由がある訳ではなくて、人間より大きく、翼を持っていたり、人間の頭を咥え込める大きな口にずらりと牙が並んでいたり、ずばり「人間に噛みついて攻撃してくる蛇という生き物が人間よりでかかったら食べられそうで怖い」という恐怖心が、当時の宗教的道徳観で形成されている独特の恐怖心とつよく結びついた結果だと思います。恐竜は人間を食べそうだから怖い、ドラゴンは人間を食べるから怖い、悪魔は地獄にいて人間に悪いことをするから怖い、というのが全部同じ話になってしまった時、「ドラゴンは悪魔の手先である」という話になるんですね。そこにバチカンの神父様まで話を合わせはじめるともう誰も待ったをかける人間がいなくなる。恐怖とは使い方があるのです。「食べ物を粗末にすると目が潰れるからしてはいけない」なんて言い回しが日本にはありますが、本当にそうなのか?といえば絶対にそんなことないですよね。それが本当の話になってしまうと、目が見えない障がいと向き合って生きている人たちはみんな「食べ物を粗末にした」罰でそうなったという理屈が通じてしまうので大変失礼な話になります。ぶっちゃけこの言い回し、嘘か本当かで言えば嘘の話ですよね。でもいま食卓に並んでいる食べ物を、少なくないお金を支払い、少なくない労力を駆使して調理し、なんとか苦労して食卓に提供し続けている親からすれば、それを子供に台無しにされるのはひどくつらいことであるしその悪癖を矯正しないまま大人になっても子供のためにはならないからなんとかやめさせたいと思うのは当然なわけです。しかし、突然の家庭不景気に陥れば金銭交換ままならず明日にでもご飯が食べられなくなるという話を、お金の単位すら知らない無知の子供に納得してもらうまで言い聞かせるのは大変な交渉スキルと言語センスを必要とされます。これが「何故人が人を殺してはいけないのか?」「何故人が人から物を強奪してはいけないのか?」というレベルから説明しなければならないとなれば途方もない気分になってきますよね。なのでそれを説明する側は、悪いことをしてはならないという理由として「悪いことをすれば怖い目に遭う」と方便…つまり一種の嘘を用いるという苦肉の策を導入することにしました。これが日本で言えば「目が潰れる」とか「人攫いにあう」とかで、キリスト教が国教である場所では「悪いことをすれば悪魔のいる地獄に落ちるぞ」とか言われるようになる訳です。ドラゴンに食べられるのは誰だって嫌ですよね、僕はジュラシックパークでティラノサウルスに食べられるレベルから嫌ですしサメだって怖いですから、悪行に対する応報としての悪魔、地獄で罪人を責め苛む悪魔がドラゴンを操るなら当時の人たちにとって2倍の怖さになる訳で、時の宗教家たちはおそろしいドラゴンを悪魔に与えることでみんなが神の御言葉をもっと信じて慎ましく穏やかに生活する世界(=悪人が悪魔とドラゴンをおそれて悪行を思いとどまったり、間違えてからでもそれを悪いことだったと反省して償いをする世界)が形成されることを期待したわけです。なので実は違う種類の複数の恐怖が、宗教道徳という枠組みの中で融合するのは全然難しい話ではないってことですね。ドラゴンが英雄に退治される話が多いのも似たような理由です。人間の勇者が悪いドラゴンを退治して財宝と美しい伴侶を獲得して幸せに暮らす…というのは敵が強いぶん本当にそれを乗り越えられるならば素晴らしい成功であるように思える訳ですね。実際に、ドラゴン退治の伝説は宗教に組み込まれた結果、聖ジョージのドラゴン退治など、有名な宗教説話としてたくさんの人々に親しまれています。強いドラゴンが悪であったほうが都合がよかった時代や場所があったということです。
この長い前提があって、ドラゴンが火を吐く話が続きます。まず多くの宗教において死者の国・地獄とは地下世界に想定されます。そして程度の差はあれど、地獄とは炎の世界で、罪をおかして死んだ者はその炎に焼かれてずっと苦しむと説かれます。これはキリスト教も例外ではないというか、悪魔が住む地獄とはその典型例であるように思いますね。何故地獄が燃えているかと言えば、人間が火に焼かれる痛みを強烈に忌避する話の他に、古い時代の街並みが火災に弱いというのが挙げられます。日本でも江戸時代の平屋づくりなんか想像してくだされば分かりますが、木材を含む家屋が道の両脇にずらりと並んでいるのは火災に脆弱なんですよ。火災の真の恐ろしさとは「燃え移る」「燃え広がる」ことです。デマゴーグが人々の間であっという間に拡散して個人の名誉毀損の度合いがもう取り返しがつかなくなってしまう様子を「燎原の火」などと喩えますが、あれは草原に火を放つと一瞬で更地になるほどの規模の火災になることのようだと言っています。この草が家に置き換わったようなことが頻発しやすい都市計画というのが密集した家屋群にあたります。隣の家同士の距離が近ければ近いほど深刻だという認識で間違いないと言えます。対岸の火事なんて言い回しもあるんですが、実は一つの川を挟んだ対岸で火事が起こっているとしても、風向きと風速次第では火の粉が飛び火してきて火事になることも珍しくないらしいです。キリスト教の地獄の話をしているのでその圏内にある国の歴史を話題にするなら、ロンドンのテムズ川を挟んだ両岸の街々が飛び火が原因の大火事の被害に見舞われたことがあるそうです(これはNHKのドラゴン特集の受け売りです)。時代が昔に遡れば遡るほど消火技術というのが未熟なので、燃え盛る地獄のイメージが成立したほどの大昔となると一度家に火がつけば街一つ灰になるのも特に珍しくなくて、それが冬越し前ともなれば家の壁と屋根なしで厳しいヨーロッパの冬を耐えなければなりません。みじめなんてものではなくて、死にます。火事から助かったとしても家も財産も食べ物も燃えてしまっていて、最悪の場合助けてくれる隣人の家まで飛び火で火事になってて誰も助ける余裕なんかないとなれば、そういうのを「地獄のような風景だ」と言うのでしょう。これを避ける為に毎晩高台に見張りを立てるなどの習慣が根づいたそうです。ファンタジーでやぐらに立つ見張りといえば敵国の侵略者を瀬戸際で発見するだとか怪物が村や街に侵入しないようにする為だとかいうイメージで、もちろんそういう意味での見張りもありますが、一番怖かったのは火事だそうです。というか、敵国の兵士に火付けされることだってあります。火攻めとか言われる戦法で、この場合は侵略者と火事が同時にやってきます。侵略者は火で街の財産がすべて灰になる前に大急ぎで火事場泥棒をはたらくので容赦する時間的余裕はありませんし、火をつけられた街の住人だって火に焼かれるか人に殺されるかの極限状態ですから狂乱しています。ただの火事より、もっと大勢が死ぬでしょう。侵略者はまさに地獄からやってきた悪魔や化け物に見えたでしょうね。そうやって実際にあった大火災の惨事の記憶が、架空の風景である地獄のイメージを補強して、いまの地獄絵図というものがあるそうです。だから「悪魔の手先であるドラゴンが火を吐く(操る)のは当然だ。地獄からやってきたのだから」と言われれば、なんだかすごく話の筋が通っているように思いませんかね?
その上で更に別の解釈を交えます。地獄は地下世界にあると先述しましたが、地下にあると言えば何を想像するでしょうか。道具や芸術品の材料や貴重品そのものとして今でも生活の身近にある鉱石や宝石も地面の下から採掘される資源です。しばしばドラゴンは財宝と関連づけられることを思い出させられますね。化石も地下から現れることが多いです。ドラゴンが地獄に住まう悪魔のペットであることと、ドラゴンのイメージを形成するのにひと役買ったらしい恐竜の化石とがつよく関連づけられるような気がしますね。それで、マグマも地下には流れていますね? マグマによる火災被害、つまり火山の噴火というのはそれほど頻繁に起こる訳ではありません。少なくとも、毎日地球のどこでも火山が噴火しているともなれば人間の生存圏はもっと狭くて、地球は人間には住みづらい星だったでしょう。将来的にそうなるかもしれませんけどね。それはそれとして、噴火は頻繁に起こらないので毎日人間がマグマに殺されているというほどではないと思いますが、それ故に今でも予測して対策が立てづらく一度起こってしまえばおそろしい被害規模となる天災でもある。邦画にもなった漫画テルマエロマエの舞台くらい昔のローマにおいては、伝説的な火山の噴火によって当時の大国が大打撃を受けたらしい…そしてそれはただの伝説という訳ではなく、地質学や考古学的な研究からも実際に大災害が起こっているという史実的な話だそうです。ところでテルマエロマエという作品に触れましたが、これはお風呂をテーマにした漫画です。日本でも観光地各地が抱える温泉施設というのは間欠泉という自然現象を利用したお風呂であることは周知ですね。この間欠泉…温泉というのが、地下の水源がマグマによってあたためられて地表に噴き出す現象で、多くの温泉はそのまま人間が入浴するには適さないほど高熱だったりします、死ぬような大火傷を負うほど熱いこともあります(程度の差はあり、中には最適な Permalink | 記事への反応(1) | 14:56
二次創作でネタがかぶるのは自然現象だと思うんですけどそれを本人がどの程度気にするのか、教えて差し上げたほうがいいのかどうかということを迷っている
ネタをパクったりはしない方なので本当にたまたまだと思う、もしかしたら読んだことがあって忘れている可能性もあるかもしれないけど意図的なパクリでは絶対ない
次の同人誌で描こうと呟いてらしたネタがあってその呟きの内容だけだと
別の字書きさんが書いた同カプ本の1エピソードと設定も流れもほぼ同じかなあという印象でなおかつそこまで定番ってほどでもない話なんですけど
自分が後から描(書)く側だったらその場合は既にあるものを読んた上で違う組み立て方したいので知っておきたいけど
知らないままのびのび話を作るほうがいいって考え方ももちろんあり得るしその人がどっちなのかわからないし
どっちですかって聞いた時点で「匂わせ」なので聞けない…
マシュマロとかでいうのはなんか悪意と取られそうでそれは本意ではないので
言うなら自分で言おうとは思うけど
ああっ、知らないで描いたらかぶっちゃってた
ってわかったときに
まあいっか!ってなるならもうほんと
黙っておくんだけど
誰か言ってよーーってなるなら
描く前に伝えたほうがいいのかなあ…って迷っている…
私の思考はネトウヨ寄りだ。天皇陛下を敬っているし、安倍政権すら他に任せれる所無いから理論で肯定的に見ている部分が多い。
さすがにネトウヨ煽り系まとめサイトのコメントとかには嫌悪感があるが、基本日本大好きな右寄りである。
なのにこのネトウヨでない人にも響いているっぽい天候ネタに自分でも不思議なくらい拒否感がある。
なんでだろうって考えたら、私は自然現象が大好きだったんだなと気づいた。
自然現象の偶然を、人が引き起こした奇跡であるかのように語られるのにエセ科学を聞かされたような嫌悪感があったのだ。
私の仕事は自然を壊す仕事の一端を担うタイプのものだ。だからこそ自然のどうしようのなさや理不尽さも知っているつもりだ。
そんな私が自然が自然であることを否定する色を持つ言説に強烈な嫌悪感を持つほどにそれを敬っていたんだと気づけたのは僥倖だったように思う。
1つのアニメ・漫画・ラノベ・ゲームのメインキャラの1人が巨乳だとすると、それらの作品を100個集めたら100人の巨乳が集まる。
そうすると巨乳率の高さが現実離れして二次元キャラは巨乳ばかりという印象ができる。
クリエイター達が協会を作って、巨乳を何人、どの作品に登場させるかを月ごとに審査して決めるべきだろうか?
巨乳が存在することは自然現象なのでおかしいなんてことはなく、どんな作品でも世界をくまなく探せば巨乳が1人ぐらいは見つかりそうなものだが、創作物だからキャラクター造形に必ずストーリー上・世界設定上の意味がなければならない。
作品のメインテーマが巨乳そのものかエロでなければ、巨乳は作者の趣味か想定読者・視聴者・プレイヤーの趣味だ。
巨乳が趣味のクリエイターや、エロがなければ作品の中身がなくて読者を集められないと自覚している制作側も、ぜひ自分のところから巨乳キャラを出したいと思うだろう。
そういう人達の意見をまとめて、じゃあ今月はAさんのところから1人、Bさんのところから1人、C社さんからは2人出しましょう。何月にはD社さんから新作が出るので1人出す予定です。
最近エスカレータ歩けキャンペーンとかやってるらしいが、あのエスカレータラッピングには限度があるだろ。
俺は重度のトライポフォビア症候群なんだよ。小さな丸の集合体とか耐えられねえんだよ。
吐くかと思ったよ。生まれて初めてエスカレータ駆け上がったわ。
あんなの耐えられるか。中野坂上駅の奴らは俺を恐怖でつぶしたいのか。
ふざけるんじゃない。
確かに田舎住んでた時はたまに自然現象でああいうお目にかかかるから見て毎回気持ち悪いと思ってたさ。
でも上京してそういうのはほとんど見かけなくなって自分がそうであることすら忘れかけてた。
まさか俺はあんな形で思い出すことになるとは夢にも思わなかったわ。
最悪だ。
「僕が?」
「あの文章が書かれた場所は、この家だってのが分かった。つまり、書いたのもタイナイだろ」
まるで自分が書いていないかのように語っていた時、一体どういう気持ちだったんだ。
こうなってくると、俺に説明していたことも本気だったかすら怪しいし。
「それがどうやって分かったのかはともかく、しらばっくれても誤魔化せない雰囲気だね……じゃあ、白状しよう」
その時の俺は、失望とか徒労とか懐疑とかでグチャグチャだった。
タイナイの返答次第で、それをどう発散するか決めるつもりだったんだ。
「僕が“M”ってのは半分正解だ。いや、1割正解と言うべきか」
だけど返ってきた答え合わせは、俺が思っているよりも肩透かしなものだった。
1割って……それだとほぼ不正解じゃんか。
「なんだよ、それ」
「正解といえなくもないってことさ。“M”を名乗り、あの文書を拡散させたのは僕だしね」
「……いや、だから、お前が“M”なんだろ?」
ここにきて、まだ他人事みたいな言い方をしてくる。
なんで、そんな回りくどい表現をするんだ。
「厳密には違うね。“M”ってのは個人を指していないのさ。不特定多数の集合体というべきか」
「はあ!? どういうことだよ」
そうして語られた真実が、俺が想像していたよりも底が知れない、と同時にくだらないものだった。
今から数週間前、タイナイがいつも通りネットの海を漂っていた時。
ひょんなことから、『Mの告白』の原文を見つけところから始まった。
それは取るに足らない、ただの愚痴みたいな内容だったらしい。
「告発系の怪文書ではあったけれど、自意識が前のめり過ぎてね。論旨もとっ散らかってて、真面目に読むような内容じゃなかった」
でも、その時タイナイは思ったらしい。
これをもっと人目につく場所で、もう少しコンパクトにして拡散すれば話題になるんじゃないかと。
「まずは、パッと見で分かるような問題点をまとめて羅列した。そして無関係な各論を繋ぎ合わせ、一つの大きな問題のように仕立てるのさ。ところどころ事実や、尤もらしい主張を織り交ぜつつ、全体的な印象に引っ張られるよう誘導するわけだ」
後は放っておいても大盛り上がりになるようだ。
「数珠繋ぎの自然現象さ。誰かがどこかで話題にすれば、それを聞いた誰かが別のところで話題にする。それが大規模に起これば、もう止められない」
「じゃあ、タイナイは軽く添削しただけで、自分が書いたものですらなかったってこと?」
「“M”だと名乗って、何かの関係者だと自称すれば、ほとんどの人間は本当か嘘かなんて分からない。代表者のように語るとウケがいいんだ。ダイエット法を語るなら、デブより痩せてる人の方が説得力はある」
「書かれた内容を鵜呑みにしてもらう必要はない。情緒的で関心を引くものに対して、人は“何かを語りたい”って衝動が沸き起こるからね。虚実の按配なんて、赤の他人にとっては瑣末な部分なんだよ」
つまり“M”ってのは、そういう文章を書く人間、それに影響を受けた人間全てを指しているわけだ。
少し前、「リテラシーで大事なのは“嘘か本当か分からない場合の対応”だ」と言っていたけど、その意味が分かった。
大半の奴らはリテラシーなんてないって、タイナイは言いたいわけだ。
「タイナイは何がしたいのさ。何が望みで、こんなことに加担したんだ。リテラシーのない奴らを、陰で笑いたいとか?」
「別に大した理由じゃない。強いて言うなら“気になったから”。些細で不健全な動機だけど、ほとんどの人間はそんなもんだろ」
本当に大した理由じゃなかった。
ここまで大騒ぎになっている出来事が、蓋を開けてみればこんなことがきっかけだなんて。
「じゃあさ、本当の、最初の“M”ってのは、どこの誰なのさ」
あっけらかんと返すタイナイに、俺は「そうだね」と言うしかなかった。
結局のところ“M”の存在は、まるで掴み所のないまま。
たぶん“M”は、これからもどこかで、何かを告白し続ける“関係者”でい続けるのだろう。
今回の件で走り続けて俺が得られたのは、しこりのように残る感覚だけだった。
前提1 老人は他人を平気で殺す(論拠 元事務次官の息子殺し)
前提2 今どきの老人は割と生活が苦しい (論拠 2000万円発言)
以上の2点から、もしも年金が本当に崩壊したら老人による強盗殺人が頻発することが予想されます。
食えなくなった老人が何も言わず死ぬことを期待してはいけません。
包丁、猟銃、自家用車等で武装して不意打ちを行えば、体力の差なんてもはや関係ありません。
若者の皆さん、老人に殺されたいですか?
嫌なら年金を払いましょう。
老人だって、相手が年金を収める金蔓だと思えば心理的にも少しは手を出しにくくなるはずです。
彼らは、無敵の人となる可能性を武器に我々から年金を無言で強奪してきます。しかし、それに立ち向かおうとすれば、真に無敵なる者が若人の命と明日のおにぎりを引き換えにする世界が始まります。
人口オーナスの究極の闇に立ち向かおうとしないでください。
それは自然現象なのです。
命を、命を守ってください。
自分にできるのはせいぜい溺れないように気を付けるとか、流れに乗りながらやりたいようにやるとか岸に上がって遊ぶとかその程度で、流れを変えるなんて不可能だと、自然現象と同じ受け止め方をしていた。
最近気付いたのが、社会、もしかして流れるプールなのでは? ということである。
流れるプールって言ってもレジャー施設のああいう、機械がどうこうして流れを作ってるようなやつじゃなく、イメージとしては小学校のプールの授業でやるアレだ。
25mプールの壁にぐるりと沿うように立って、みんなで同じ方向に進むと、流れができてあーたのし〜、っていうあっちだ。泳ぐの下手で毎度溺れていたけれど、アレはわりと好きだった。遊びです感が強いから。
レジャー施設の流れるプールでも根は同じといえば同じなんだけど、要は「流れって人が作ってるものだな」って思った。そりゃそうだ。人間社会は人間でできている。
「こうあってほしい流れ」があったとして、一人で流れを変えるのも、新しく作るのもわりと無茶な話だけど、自分一人だと思うから無茶なのだ。
実はきっかけがないだけで同じ流れを作りたい人がだいぶいるかもしれないし、シンプルに他人を勧誘することもできるし、ちょっと動いてみたらたまたま他の人も一緒に動き出してやったぜ、みたいなことが起きることもある。多分ある。
選挙がわかりやすい例だと思うんだけど、一人がどうこうしたところで別に大局が変わらないことのほうが多い。きっと多い。
でも一人だと思うから変わらないのであって、もしかしたらたまたま同じ候補者に投票する人がめっちゃいるかもしれないし、いないかもしれない。
選挙、「あなたの一票で変えよう」くらいのノリで広報(?)されてることが多い気がするんだけど、そういうふうに期待値を上げていくと、ダメだったときに「変わらないから無意味だった」ってなりやすいのかもしれない。他の人はわからないのであくまで自分の話で。
まあ変わらないかもしれないけど、ちょっと意思表示はしとくか、くらいのテンションで臨んだほうが、精神衛生上いいしモチベも逆に続くのかも。
選挙権なんか全然ない頃の政権交代がわりとトラウマで、仮に表面上マシそうだったとしても安易に野党に投票したら、それで政権代わっちゃった場合死ぬほどグダグダ社会になってしまうのでは……という不安がすごいので、「まあ行くか」くらいのテンションになれたとしても「じゃあどこに投票すんのよ」という段階でまた悩むんだけど、心配してるより気軽な感じでいいのかもしれない。
いや気軽に投票とか言うとちゃんとした人に怒られそうだけど……何の不安もなく投票しようとするとめちゃくちゃ調べものしなきゃいけなくなるし、自分の現在の生活で手一杯なのでそんなこの政治家は過去こういうのやらかしていてこの法案はこういう懸念があって社会学的にこういう論文が出ていて外国はこうで、とかまで考える余裕が……あまり……ないんだよな……
っていうか別に選挙だけの話ではなく、生きてて引っかかるいろんなこと、結局人が起こしてる場合が多いので「全く変えられないこと」だと思わなくてもいいんだな、って思った話でした。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
これを傘の骨組みに使われている金属が防いでくれるのだ。
電波は脳に強く影響を及ぼすため、差すことに意味があるわけだな。
もちろん、一番いいのは頭にアルミホイルを巻いておくことだが、なんせ蒸れる。
なにより見栄えが悪い。
その点、台風での傘は不恰好じゃないし、不自然じゃないだろう?
今回、学ぶべき教訓は「自然現象には自然に振舞うのが一番」ということだ。
くれぐれも頭に金属を埋め込んだりしないように。
いくつか方法はある。
まずは諦めずに残りの日数通い続けるのだ。
朝のラジオ体操なんてやっているような奴らだ。
多少の情と、菓子の詰め合わせの余りは持ち合わせているはず。
もし余りがないのなら、菓子を手に入れた他の参加者に“分けて”もらえ。
朝のラジオ体操なんて真面目にやるような奴らだ。
菓子だけのために参加するわけもないから、多少貰っても文句は言わないさ。
くれぐれも、変なズルはしない方がいいぞ。
私は拾った体操カードを持って、「娘が風邪なので代理で来た」と言って菓子を貰おうとした。
だが、運の悪いことに、その係の奴が本当の親だったのだ。
だから、どうしても菓子が欲しければ最寄のスーパーなどで購入したまえ。
夏休みを控えている老若男女は是非とも参考にしてくれたまえ。
「与えられた入力へ対して決められた出力を返す」というのが機械の絶対条件
つまり「ユーザーがAという操作をしたらBという挙動を示す」「ユーザーがαという操作をしたらβという挙動を示す」のが機械
もし「ユーザーがAという操作をしたらCという挙動を示す」や「ユーザーがAという操作をしたらβという挙動を示す」みたいなことがあったら、それは神の意思か自然現象か、謎の高い再現性を弾き出す桶屋理論だ
もちろん機械は人の手で作られるので、それを設計した者は人間であり、設計が誤っていたのならば変な挙動を示して大事故に繋がるかも知れない
だから機械設計者は「Aという操作とBという操作は切り離して設計する」ものなんだ
どういうことかと言えば「アクセルペダルとブレーキペダルは切り離して設計されているものでブレーキペダルを踏んだら自動車が前進する」という設計はしない
そもそも「ユーザーがAという操作をしたらCやβという挙動を示す」という余地を一切残さないのが安全設計というやつなんだ
ブレーキペダルを操作してアクセルが作動するなんて状況は、たまたまブレーキシステムが漏電していて、その漏電がアクセルシステムの電気信号と同じ符号波長を示すくらいのオカルト現象
もっとわかりやすく言うと、友達と電話で話そうとダイヤルしたら何故か勝手に矢文が飛んで行ったくらいのオカルト現象なんだ
いくら高齢者の主観でブレーキペダルを踏んだと証言されても、機械的にはほぼ100%に近い確率で間違いなくアクセルペダルを踏んでいる踏み間違いである可能性が極限と表現したいくらい可能性が高い
まだ人体工学や脳科学ではプリウスのアクセルペダルとブレーキペダルの配置がたまたま人間の認識がバグを起こす配置だったというほうが圧倒的に納得できる
ちなみに完全自動運転システムはアクセルシステムとブレーキシステムが連動しているけど、中間に制御システムがあるからアクセルシステムとブレーキシステムが電気信号的に混ざり合うなんてことは絶対にない