はてなキーワード: 画材とは
給食とか事実上、スケジュールに組み込まれている「教育」なんだから無償にしろよ、と思うのだが、がっつり教育と言うか授業に必要な物品も、家計負担になっていることが多い。
私が小学生だったのはもう40年前なので、今の学校がどうなっているかは分からないのだけど(子供もいないので、本当に分からない)、自分のことを思い出しても、あれやこれやの出費があったと思う。ソロバン、定規、コンパス、水泳着、水着袋、水泳キャップ、運動着、帽子、画材、絵の具、クレヨン、リコーダー、鍵盤ハーモニカ、諸々諸々。授業に用いる器具まで私費負担を強いていながらどうして義務教育無料と言えるのかさっぱり分からない。私には子供はいないけれど、その辺をきちんと支出してくれるなら、税金が1割2割上がっても構わないと思う。まして中学になったら制服制帽などの出費もかかってくるわけで、教師や教育関係者、教育官僚、誰もおかしいと思わなかったのか。本当に不思議で理不尽な話だ。
ジェンダーレス水着の採用のニュースを聞いて、それはそれで結構な話だと思うけど、また、買い替え費用を家計に押し付けるつもりなのかと思えば、よくそんな他人のカネを当てにする政策をたてて、「よいことをしましたっ!」と鼻の穴を拡げていられるなと呆れる。
出張中、ちょっと文具関連の用事があって、次の予定まで時間があったので、東急ハンズは行ったことがあるのだが、行ったことのなかった世界堂に行ってみた。知ってる人はよく知っているだろうが、私はネットのニュースでどこかの支店が閉店したというニュースをうっすら覚えている程度だ。今調べたが「額縁や絵画はもちろん、画材・デザイン用品・文具などを豊富に取り揃えています。」というチェーン店。(確かに額縁は他の文具店と違って力が入っていた。)
ぶらぶらと店内を歩く。油絵具やアクリル絵具、パレット、パステル、水彩色鉛筆、ガラスペン、羽ペン、色とりどりの筆ペン、マーカー、サインペン、キャンバス、スケッチブック、模造紙、…
ペインティングナイフ(パレットナイフ)プラスチック製もあるのか! 使い捨てというのも合理的だ。
ふと目についたのが「スクリーントーン」。令和の時代にもまだ売っているとは。原稿用紙にしっかり転写するためのヘラのようなものも何種類も打っている。近くにはペンとペン軸がある。「Gペン」「丸ペン」「スクールペン」 タチカワ、ニッコー、ゼブラ
「スクールペン」。知識として触れたことはあったが単語として目にしたのは何年ぶりだろうか。
さまざまなパッケージでペン先が売っている。丸ペン3本セット、Gペン10本セット、100本セット、3種類のペン先セット、ペン軸とセット…
つけペンがあれば当然インクもある。「まんが用墨汁」という商品名をみて思わずにっこりしてしまう。ラベル付け替えただけでしょうね。
まんが用原稿用紙なんてものもあった。雲形定規、吹き出し用定規(?)
まんが用のセットボックスもある。小学生向けかな。無印(スタンダード)にデラックス。タイプ2。何が入ってるんだろ。
自分でもまんがを描こうと思った少年少女は多かったのではないか。わたしがこどもだった当時は(今は知らない)毎号投稿作募集と紹介のページがあって、デビュー、金賞・佳作などのランキングと講評、それにまんがの描き方が数ページ載っていた、ような気がする。〇〇先生は墨汁を使っています。◎◎先生は丸ペンで描いています。ケント紙を使うのが一般的ですが、△△先生は画用紙を使っています。のような情報も載っていた。もちろんまんがの描き方だけの単行書もあった。
そんな頃のことを懐かしく思い出した。しかし、全体的に何とも言えない黄昏感が漂っていた。ほぼ無客だったし。
欠品があったのは売れて売れてしかたがないというよりは、補充がないという感じで(先入観か)、充実した品ぞろえは売れ残りという表現が近いのかもしれなかった。現実に、書籍のコーナーには色あせた1990年代の参考書も並んでいた。
私の祖母は趣味で日本画をやっていた。増田の多くが知らないであろう、ほとんどが見たことがないであろう岩絵の具が何種類も彼女の家にはあった。ガラス瓶に入ったそれはとてもきれいだったのを覚えている。少女のころに日本画で身を立てたいと思ったことも少しはあったのかもしれないが、そこまでの才能か、熱意かがなかったのか、時代が悪かったのか、もちろんプロではなかった。
世界堂で見た、さまざまなアナログまんがの道具・材料。生き残りをかけて手を広げたであろう商品につく〇割引セールの文字。
おそらく、回転のいい商品はごく一部なんだろう。多色ボールペンを並べても、大型文房具店で買う人の方が多そうだし、最近はカラーのマーカーも100円ショップで多色展開しているという(必ず全色そろっているというアドバンテージは専門店にはあるだろうが)。毎年電動消しゴムを買う人がそうそういるとも思えない。
完全に滅亡することはないかもしれない。だがコンピュータでなく、世界堂でなければ手に入らない道具や材料を使う行為は、美大生を除けば、日本画のようにごく少数の人が続ける稀な趣味になっていき、世界堂の支店はだんだんと減っていく。
そんな未来。
よく使う駅のすぐ前にまぁまぁ評判の良さそうな精神科があるので行ってみたいんだけど、母にそう言ったら泣かれた。
「自己否定しないで」とか「性格の問題じゃない」とか言われるけど、自分で自分のことが好きになれないのはしかたなくない?しいたけ嫌いな人にしいたけ好きになれとか言っても無茶でしょ。
中学生くらいの時から、急に暗い気持ちになったり急に全部どうでもよくなったりすることがある。
なんかふと思い立って、カッターで体を切ったらどれくらい痛いのか?と試したことがある。その時はあんまり痛みを感じなかった。
普通の黄色いカッターナイフ、スクリーントーン用のデザインナイフ、学校の画材セットのちゃっちいカッターナイフ、いろんなので試した。
手首にやったらバレて母に泣かれたので二の腕にした。それもバレたので太ももにした。
今は自傷はしないけど、代わりに画用紙をめちゃくちゃに切り裂いている。
飯食ってクソして寝ることの繰り返しの、どこが面白いのかわからない。
もちろん趣味や楽しみなこともあるけど、それ以上にめんどくさいことや嫌なことが多すぎて、それだけで「人生楽しい」とは言えない。
アニメの本編はクソつまらないけどスピンオフや箸休め回は面白いみたいな。
高校のときは人間関係で色々拗れてめんどくさいことになってて、4階の教室から飛び降りてやろうと本気で思っていた。
でもこういったことを母に話したことはない。私のことを気にかけてくれて心配してくれる、いい母ではあるのだが、すぐ泣いて感情的になり、家族愛とか絆とかそういう話をするので嫌だ。
愛とか恋とか絆とか、そう言ったフワフワしたものの話じゃなくて、明確な解決法を提示してほしい。
専門家に話を聞いてほしい、そして何となくめんどくさいとか嫌だなと感じてることを解決したいだけなんだけど、母に通じるだろうか。
語彙を増やすことは画家が絵の具の色など画材をいろいろ揃えていくようなものだろう。
だけどそのときどきに言いたいこと書きたいことを表現するという実践に求められるのは文章をうまく組み立てることだ。
それは揃えた絵具を使って絵を描くことと同じだ。黒しか持ってなかった人が藍色を手に入れれば、夜をより深みのある色(難解な語彙)で表現できるようにはなる。それはまあ高校倫理とかの一問一答集を暗記でクリアできるようになるようなことと同じだ。
才能がなくても最低限の暗記能力があればそういうことはできるようになる。ある言葉で表現しようと思う対象に対して簡単な語彙と難しい語彙が一対一対応しているだけだから(逆に言えば難しい言葉を覚えるとそれに知識が置き換わって簡単な言葉で言うべき場面でそれが思い出せなくなるという弊害すらある)。
こういう単純な「言いかえ」はただの暗記であり語彙を増やしていく中で確実にできるようになっていくことだ。
しかし画材だけ揃えても、伝わる絵を描ける保証すらないこともまた明らかだ。
同じ画材を平均的な幼稚園児とプロの似顔絵師に渡してみて誰か有名人の顔を描かせてみたらどういうことが起こるかは明らかだろう。
前者の絵について誰を描いたものか街中でクイズを出してみてもほとんど正答は得られないだろう。
誰を描いたものかすら伝わらないほど描いたものが精度を欠いているからだ。
言いたいことについて文章を組み立てることも同じだ。
しかもこれは人物画のようにサンプルがあるわけでもない。どちらかといえば抽象画などにたとえられるべきだ。
つまり自分の言いたいことは唯一無二であり、発表するまでは自分しか知らない。サンプルがないのだから事前に練習が効かないうえに一発物なのだ。
あえて自分で言葉を紡ぎあげようとしていくわけだから当たり前だ。
つまりラッキーを僥倖というような日常会話における賢さアピールのようなものじゃなくて、まさに文章を書こうとしているのだから単純な言葉のあてはめではない。
暗記でどうにかなる次元ではない。まず自分の言いたいことを分節化できなければならないわけだから。
園児と似顔絵師で顔を描く正確さが違っていたのもまた空間の分節化能力の違いだろう。
しかしそれ以前に絵の上手い下手には練習ではどうにもならない大きな個人差があるように、才能もおおきく関わってくるはずだ。
まして文章を書くことは人物を描くというよりも独創的な抽象画を描こうと挑戦していくようなことだ。
やまなみ工房という障碍者福祉施設があってそこに通う人がリハビリがてらに描いた文字を羅列しただけの絵に100万だかの値がついてる。
割と時間をかけた力作もあるがそれでも300万とか400万とかいう値がつくのは行き過ぎではないか。
他にもNFTだかいう技術の波に乗って小学生がWindowsのペイントで描いたようなクオリティの絵が万単位で売れていく。
その小学生は数か月で300云十万稼いでいる。どうにも海外の有名人の目に留まりSNSのアイコンに作品の一つが使われたことによって価値が爆上がりしたらしい。
俺はなんでも鑑定団をよく見るがあの番組では芸術に文字通り生涯を捧げた人達が紹介される。
画材などに財を全てなげうって、食べるものも切り詰める清貧の生活の中で芸術家として大成していく様が伝えられる。
そんな人が描いた絵なのに、たとえ本物でも「150万円」という鑑定額だったりする。
前はそれを安いとか思ったことはなかったが今の風潮に照らし合わせると過小評価な気がする。
あるいは逆か。障害者の描いた絵が数多の芸術家達の歴史を踏まえず評価されすぎているきらいがあるように思える。
なんで芸術家と比べてしまえば本気度が低いに決まってる人たちが悠々自適に描いた絵に悠々と大金をかっさらっていくのか。これでは芸術家が報われないのではないか。
別に「障害者が作り出すものは劣っている」とか言いたいわけじゃない。障害者どころか健常者の平均的な画家と比べても、なんでも鑑定団で特集される芸術家の芸術に捧げる熱量は、比較にもならないだろうが。
まあ作品が一品物だからということもあるわけで、たまたま金持ちがその障害者の絵を気に入ってそういう金額が買い取ったというだけの話かもしれない。
つまりそういう金額は一個人にとっての価値であるだけで、客観的な価値を反映したものではないのかもしれないというわけだ。
「客観的」という言葉を途端に胡散臭く感じるだろう?「『客観的な価値』ってなんだよ」と言いたくなるだろう?
脱線するがアレイスタークロウリーなる魔術師を自称した実在の人物は法の書という出版物のなかで「真の意志」という概念について説いている。
「真」という言葉も、客観性と同じようなうさん臭さを持っていると思う。
たとえば惰性で好き勝手に振る舞うことを真の意志とは異なるというようなことが書かれている。でも見方によっては、好き勝手に振る舞うとは何かしら律するものの影響下にないということで、そこで発現されている行動はありのままの意志の反映なのではないのか。
ありのままを「真」という言葉で言い替えれるとするなら結局それはそのまま真の意志という概念に対する反論になる。
それを退けるためにはこのような「ありのまま」が真というものに対する言い替えとはならないわけとともに、では真という言葉は具体的にどのような性状を指しているのかを説明する必要がある。
真とか客観とかいう言葉を使う人たちは往々にしてそこらへんを「当たり前のもの」として、分かっているものとして論を進めてしまうから胡散臭いのだと思う。
とはいえ、こうも当たり前のように客観とかいう言葉が飛び交っていると、その中身は素人にはブラックボックスながらも客観というもの自体は幻想ではなく確かに存在すると思うことこそが妥当で健全な生き方なのかなとも思えてきてしまう(こういやって長いものに巻かれる感じで客観や真などのような概念の存在を信じることにしたのは俺だけだろうか?)
俺は気象学が好きでその勉強をしているなかで「予報精度はモデル計算の不確実性に依存する」という文言が出てきたのだが、まあ不確実性って言葉もまた客観とか真という言葉と同等なあいまいさ、抽象性を帯びているったらない。
そりゃ人間が作ったモデルは現実の物理法則に完全に依拠したものではないだろうことはわかるが、不確実性って単語一つで言いくるめられてもしっくりこないわけよ。それでもまあ「モデル計算の不確実性」が在るものとして、そらんじれるぐらいに自分にとって真実になるように努力するわけ。科学的な文脈で語られていることまでいちいち無いものとして疑ってかかるよりも、とりあえず丸呑みにする方が妥当な態度な気がするから。学術的な文脈でも「客観」という言葉をよく見るから、とりあえず客観というものは存在するものとして妥協しておくというのと同じ。
話を戻すが、たとえば俺がモナリザとかひまわりを価値ないといったところで、それらの絵画の価値には微塵も傷がつかないだろう。
そう言うときの価値が客観的な価値だ。逆に言えば、一人の人間がいくら熱狂的に特定の絵を愛して大枚を叩いたところで、ただちにその絵の客観的な価値がそれに相当する客観的価値をもつものとして裏付けられるわけではない。個人の好き嫌いと客観的価値はいうまでもなく独立したものであるはずである。
ダヴィンチとかピカソみたいな大芸術家、あるいはバンクシーも含めてああいう人たちに作品の絵の価値は客観的価値を反映しているといえる。
それは同じ絵が(何度も)オークションにかけられるという過程を経てその経済的価値が民主主義的に固まっていっているからだ。これを実勢価格ともいう。
一方で障害者の絵に対するにわか景気はある個人にとっての価値の反映でしかない。それを指標としても客観的価値は見えてこない。
だからまあ結局、このような状況は五体不満足な障害者にせめて富がもたらされる機会が作り出されているだけであって、芸術家より評価されているというわけではないから、まあ誰も(故人も含めて)実体的そして精神的な被害者はいないからこのままでいいかなと思う。
以前、お客様が一人も店内にいなかったのでAさんと雑談をして聞いた話。
Aさんは子供の頃にお小遣いを1万円だか2万円だか溜め込んで、それを1日で使い尽くして母親に怒られ、それを今でも恨んでいると言った。
そのときお小遣いを何に遣ったのかというと、ガチャガチャだった。家から徒歩圏内(とはいえ子供の足ではけっこうかかる距離)にあるスーパーにガチャガチャのマシンがいくつも入っていたのだそう。
1万だか2万円だかのお金を全て100円玉に両替するのも、山のようなカプセルを持って帰るために、買い物をした訳でもないのにスーパーのレジ係の人にレジ袋を要求するのも、ガチャガチャを回し尽くすのも、ガチャガチャを回し尽くす為に何時間もかけて遅くまで帰宅しないことも、どれをとっても糞迷惑な奴だなぁ、と、私は思った。
Aさんが、「自分の小遣いを溜めて自由に使って怒られるなんて許せないですよね?」というので、私は「いや自分の子供がそんなことやったら叱りますね」と答えた。
かく言う私も、子供の頃に貯めたお小遣い2万円を1日で使い尽くしたことがある。しかも、読みもしない漫画の描き方本、使いもしないポーズ集や背景写真集、使えもしない画材や工作手芸材料を買った。それらは結局手垢がつかないどころか一部には開封さえしないまま、新品同様のまま部屋の隅っこで埃を被った。
もしもAさんが私の親だったらAさんは私を叱らずにいられるか? と聞いたら「いや怒るでしょうね」とAさんは言った。
あの超絶無駄遣いのとき、私は母の勤め先の百貨店まで母に車で送ってもらい、母の目の前で、母の社内割引を使って買い物をしたのだ。自分の小遣いをコツコツ貯めて買い物をして何が悪い? と屁理屈を言って。
その後どうなったのかというと、母は「自分のお小遣いの範囲で買いなさいw」と言って私に服を買ってくれなくなったし、家に私しかいない時に新聞屋が来そうなとき「お小遣いで建て替えといて?w」といって新聞代を家に置いておいてくれなくなった。
コンプレックスだとか自分と対比して辛いとか話題としてつまらないとかそういうのはおいといて
その評価がその時代やずっと後だったり前から期待されてたものだったりとかあるにせよ
どこかで評価されてる時間と場所だけ切り出せば作品自体の価値なりも出るだろうけど
結局は創作してる本人がやり切った感で満足するという結果なのが
ほしい物を手に入れる仲間とか共有するもののほかに得たものを共有するものがいるよな
創作でそれをするなら画材を提供したり部屋や場所を提供したものとか親とか
その創作作品を売った人間も登場すべきところなのだろうけどそれが無いところだな
王国を救う勇者の話として王国も王様もでてこないし敵もでてこなくて
いつかでてくる敵のためにすごい技を開発してたぶんいるだろう王国の人たちの
美大出身のジャニオタです。美大はジャニオタにとって生きやすい環境なのでオススメします。
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私は某M美大のKデ出身です。Kデは舞台に強く、教員が関わった舞台がたくさんあります。そのため大学内には舞台のポスターがたくさん貼られます。
その舞台の中にはジャニタレ主演のもあります。もちろんジャニタレ舞台のポスターも貼られます。わざわざ劇場に見に行かなくてもポスター見放題です。フライヤーも貰い放題です。最高。
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美大は基本Adobeソフトが無償で使えるはずです。その中でもIllustratorを使えるようになるとオタクの幅が広がります。
イラレで団扇をデザインして、大学のプリンターでA3コピーして、画材屋でカッティングシートや画用紙、スチレンボードを買えば大学でうちわが作れます。
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推しへの愛を作品に昇華させたら課題がこなせます。CDジャケットのリデザインだったり、架空のコンサートのセットとセトリを作ったり(実話です)色に迷ったらメンカラを使え。
また、美大でもレポートを書く場面があります。作品作ってるだけじゃないぞ。私は推しでレポート5個書けました。ありがとう推し。
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美大には意外とジャニオタがいます。Jr.を含めほぼ全部の各グループのオタクに出会いました。カウコンの同行者やうちわ代理購入など簡単に見つかります。
ジャニオタに出会うコツとしては自分から「◯◯が好き」と発信していってください。ガンガン言っていって大丈夫です。
周りも何かしらのオタクですし、他人の趣味を貶す人はいません。美大生、基本的に人間に興味ないです。
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ここまで読んだジャニオタの皆さん、そうお思いでしょう。私もそうでした。しかし、美大の中でも倍率が低い学科を選べば絵が下手でも入れます。必要なのは発想力です。
事実、私の入試のデッサンの点数は満点の半分くらいでした。だた、もう一つの平面構成で9割の点数を取りました。
平面構成とはモチーフが与えられ、絵の具を使ってそのモチーフの特性を生かした絵を描くことです。その絵を描くときに周りとは違う視点で描けば点数取れます。
美大の入試って意外と周りの人の作品が見えるんです。その時に(あ、自分周りと違う雰囲気の絵描いてるわ)と思ったら勝ち確です。
ちなみに私は推しからインスピレーションを受けた絵を描きました。推ししか勝たん。ジャニオタは身を助ける。
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件の漫画を読んだ。もう各所で言われてると思うが、あのラスト、やっぱり僕も例の事件を思い出した。
というのも、僕にも昔から仲の良い、絵を描く友人がいた。2人ともよく絵を描いては学校で見せあった。でも僕は下手糞なので、いつも、君はすごいなと、彼を褒め称えていた。僕はその後、下手は下手なりにもなんだかんだで美大に進んだ。彼は当然、美大に進んだ。だがそれぞれ違う大学に進んだのと、画材を買うために始めたバイトが忙しくなったのとで、その頃から彼とはもうそんなに連絡を取っていなかった。
それから、数年後、ある時間が起きた。クリエイターとして、同じクリエイターが凄惨な目に遭うのは辛い。人の笑顔を生み出す人たちが、どうしてこんな目に遭わないといけないのか。僕はそんなことを考えて、少し暗くなった。
連日、取り沙汰される実名報道の騒動を見ていてもむしゃくしゃする。どうしてそこまで躍起に実名を報道したがるのか。メディアはクソだ。そっとしておいてやればいいのに。
やがて、実名が出始めた。
そこで僕は友人の訃報を初めて知る。
昔はあんなに仲が良かったのに。疎遠になって、久々に名前を聞いたのが、こんな形。
あんなに憎んでいたはずの実名報道問題だが、報道されなければ僕は友人の死すら知ることはなかった。複雑な気持ちを抱えた。
僕は彼の家を知っている。彼が引っ越していなければ今もあの家だ。一言お悔やみ申し上げたかったが、だけども、今頃報道陣に囲まねている家にどうやって顔を出せばいい?
いや、僕も野次馬とそう変わらない。ただ、他人の死に興奮しているだけなんじゃないか?追悼して、自己満足を得ようとしているんじゃないか?疎遠になっていたのに。何を、今更。
そんな卑屈なことを考えて僕は一層暗い気持ちになった。
あの漫画のように、僕に彼を美大に進ませた影響力があったとは思わない。それこそ自惚れだ。彼の方がずっとうまかったから、もともと彼は美大に行っただろうし、良いところに就職しただろう。でも、肩を並べたから、もしかして、なんて考えたこともあったから、今回、ルックバックを読んで、僕が、例の事件を思い出さないはずはなかった。
そして、これが追悼なのか、それこそ、エンタメとして消費しているのか、僕には分からない。
自らの内に感情を抱いていれば良いのに、この文を誰かに向けて書いている今の僕は、やはりエンタメとして消費しているような気もする。
でもあの時、僕は確かに追悼したかった。それは追悼する自分への自己満足じゃないかと指摘されることを何故かあの時は恐れたが、今思えばそんな卑屈なことを考えるのは悲しみで少しどうかしていたのだと思う。今も僕が友人の死に感じる寂しさは嘘ではないし、この寂しさを1人で抱えるには苦しくて、誰かに聞いて欲しい気持ちも嘘ではない。
とはいえ、結局、僕が毎日することといえば、あの漫画と同じように、自分の仕事、創作とまた向き合う他はない。
ただ、その感情があまりにリアルすぎたので、僕は先生もご友人を亡くされたのではないかと思ったほどだった。
陳腐な表現になるが、その複雑な機微をこうして漫画に描ける先生は純粋にすごいと思う。
ご遺族のご迷惑となるといけないので、ほんの少しフィクションを混ぜたが、事件とその感情は現実のものであると最後に書き加えたい。
まだ花を供えに行けてなくてごめんな。
これから絵師目指そうかな~と安易に考えるくらいおえかき楽しい状態
幼児が画用紙にワクワクしながら落書きしてるあの感じをアラサーになって味わってる
10代のころのわたしの絵は本当にくっそ下手だったけど、(それなのに美術部部長やってた)10代に描いてた絵に比べたらアラサーの自分が今描いてる絵はマシですわ…
なんか客観的に見れて「このキャラはもっと太らせよう」とか「このキャラはもっと顎を尖らせよう」とかそういう判断ができるようになったのがすごい(自画自賛)
今の自分は漫画家が使うペンを使って、紙も画材屋で買ったちょっと良い奴を使って、下書きは水色の芯の入ったシャーペンで描いてる
デジタルが主流なんだけど
ちゃんとした道具揃えたらおえかきは楽しいですね。昔のコピー用紙にシャーペンでイラストを描く方法はある程度デッサンの知識があったりとか、技術と知識がある人ならそれでよかったけど
頭のなかで3Dでイメージが描けるようになったら絵も上手になるんだろうなー
今はまだ平面の世界にいる
まだ小学校低学年の頃のこと。
親戚のお姉さんから子供向け画材セットをクリスマスプレゼントにもらった。
24色の小さな色鉛筆とクレヨンたち。水を含ませて使う絵の具。色とりどりのカラーペン。絵を描く事が好きだった子供の頃の私は心踊った。
クリスマスにもらって約1週間後、自宅に母方の親戚が来た。
母方の親戚には私と2歳年下の子供がいる。
お正月の親族宅巡りで、当時幼稚園年長だったその子は我が家で癇癪を起こして手をつけられなくなった。その子の癇癪をおさめるために、お絵描きセットが差し出された。
私が知らないうちに。
母は「買い直してあげるからそんなに泣くな!」と言い、結果買い直してもらっていない。
大学進学時に実家を離れたが今年はもちろん帰省していない。1人自宅で過ごす正月も快適でとても良い!
きっと私だけではない。
全国のどこかでクリスマスプレゼントをもらって、お兄ちゃんだから・お姉ちゃんだからという理由で不条理に宝物を使われたり壊されたりした子供達がたくさんいるだろう。
コロナじゃないときには、コースつくってモニターしてうまくいったら他人を誘う感じ
まず自分を接待するデートコースのようなものをつくる、それは他人に教わったものでもよい
Aさんとでかけて映画とカフェと書店いったけど自分の場合書店はなしでカフェもうちょっと永くいたかったなとか画材店のほうが行きたいなとか
Bさんはカフェも行きたいけど洋服屋もというのならじゃあ半々でとかカフェで解散とか適当にアレンジする
たとえば野球場とかコンサートとかは誰かに教えてもらうかチケット裏の細かい字をめちゃくちゃ読まないと失敗する罠がいっぱいある
コミケとかだとチケット裏では間に合わなくてカタログに10ページくらい注意がついてる
人と一緒だと注意してもらえるけどぼっちならカタログ先に読み込まないと無理
泊りがけ旅行は恋人や家族でも喧嘩したりするし新婚旅行で喧嘩して成田離婚するやつも新婚旅行長すぎ。
体力ない人は映画2時間から。ちゃんと飲食とか電話の電源とかやさしく注意が出るからな。
バーベキューとグランピングがリア充イベントといわれてるのも屋外だからだ。