はてなキーワード: 校正とは
読みにくい文だね 校正した?
世界にはいろんな言語があるけど,英語だけ他の言語を抑圧しまくってないか?
国際社会で活躍がなんちゃらとかいう文脈では英語が必須みたいになってるし,学術の世界では英語以外で書かれた論文は実績扱いされないし.
母語なんて本人の努力じゃどうしようもないのに,英語以外じゃ相手にされないから非英語圏に生まれただけで余計に勉強しなきゃならん.
英語の習得自体は努力すればなんとかなるかもしれないけど,英語の勉強にはお金がかかるし,その英語学習とか英文校正とかでネイティブが非ネイティブ向けに商売してんだからとんでもないよな.
私はまんがの編集者やってる。
多分そこそこ有名な、作品名言えば幅広い年代の人に通じる本出してる会社。
私が担当している作品は「超有名!」って程じゃないかもしれないけど
ファンもいるし、そのジャンルが好きな人なら知ってるだろうって作品。
編集って、多分何やってんだかよくわかんない仕事の上位に入りそうな仕事だと思う。
作家の家に原稿取りに行って「できるまで帰りません!」と居座るとか
まんがの描き方は様々なので、
全部自分でネタ出してきて、描き間違いや矛盾がないか確認するだけ人もいれば
「今回はグループで遊園地に行かせたいんだけど、2人きりにするシチュエーションは何が良いかな?」とか具体的に聞いてくる人もいる。
9割ネタ出し丸投げの人もいる。
丸投げタイプも「じゃ~何しまっしょっか?」と会話をするうちにネタがまとまる人がほとんどだから、
完全な編集任せじゃないし、楽しく仕事させて頂いている(と、私は思ってる)。
メインの仕事は文字の校正とか写植の手配とか広告や記事ページを作ったりすること。
あとWEBサイトやネット公開用の漫画を整えたり、複製原画作って営業さんに渡したり販促品作ったり。
私は業務時間の8割くらい広告や記事、販促品作ってる気がする。
この仕事をしていて寂しく思う事が一つある。
本当に貰った原稿をみて興奮したり爆笑したり泣いたりしたから感想を伝えている。
わかるんだ。
私も書店さんから「今回の告知チラシ良いですね」って言われたら社交辞令半分に受け取るから。
でも私は本気で作家に「楽しみにしていました」って言ってる。
じゃなきゃ会社で貰える見本単行本とは別に自宅用に、自腹で購入しないって。
いや、わかる。他人に言われた方が嬉しいのすっごいわかる。
作家は悪くない。
でも最近悔しいから、担当作家が他社で描いてるマンガに応援のアンケートはがきを送った。
他社の単行本にAmazonでLOVEコールレビュー書いた(実際すごく面白かったから嘘じゃない)。
他社の担当さん、感想伝えてください。アンケートはがきを読むと捗るタイプの作家さんです。
今日も、表向きは真面目に数字や読者反応を考えて動ける編集者として応援して、
これ以上めんどくさいファンにならないよう、自戒と愛を込めて。
P.S すべての作家さんへ。
頼む、よく寝てよく食べて適度に運動してくれ。長生きしてくれ。
私は健康にいいむくみが取れるお茶(My担当作家の好きな物)を
派手な見た目のやつのことを見た目がカタギっていうのやめてくれぇ逆だ
千秋楽は大きな箱(=公演場)の固有名詞ではなく最終公演のことですぅ
甲子園なら通じるだろうが千秋楽は有名な劇場の固有名詞じゃねえんだ、いわば日付のことなんだよ
あとこういうの事細かに指摘されたのかしらんが「毒マシュしかこないからマシュ閉じます」っていうのもやめてくれぇ
オレは誤字はめちゃくちゃ萎えるんだぁ ロマンチックなお話が読みたいんだぁ
でも誤字指摘でもない毒マシュもきていたのなら気の毒だしごもっともだとおもうけど。
うろおぼえだがオレもこの人に誤字指摘を送っちゃったような気がして後悔が山盛り過ぎるぅ
(いちおう褒めるべきところは褒めつつで送るようにはしているからそうしたハズだとおもうんだが)
(そのかいあってか創作やめますとはおっしゃられないのでよかったのか?)(でももうすぐ辞めるんじゃないかとそわそわ)
いつも楽しく読んでるからこっちでロバの耳たる増田で叫んどくねぇ
いつかご本人に届けぇ
同人校正ソフトがまだないのならオレが無料でやりますぜ・・・でもみんな筆力に絶対の自信があるんだよな
オレもだし
ホンっトにもう傷つくんだろうとおもうから言えないけど
ド素人やんか
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Twitterで校正紙の指示がすごいってのを読んで興味を惹かれて行ってみた。
久々の遠出、久々の美術館。
まず着いたら遠目から黒い人だかり。
120分待ち。
ちょっとは並ぶと思ったけど、
こんな状況になる前もでかい箱モノの美術館ってそんな行ったことないからわからん。
交通費払って来てるし、並ぶことを決意。
鍛えてない足は並んでいるだけで疲れたけど、
よい日光浴になった。
120分とかビビらせといて人減らして
(対策で閉まってるっていってもこの人混みで今更…と思わなくもないけれど)
チケット買えたと思ったら、入場までにさらに30分近く並んだ。
時間指定とかでまた待たされるのもヤだし、まあ良いよここまで来たら。
はい、やっと入れた〜。
中混んでそうだな〜と思ったら実際めっちゃ混んでた。
撮影禁止って書いてあるのに、展示室スマホ持った不届きもの多いな〜って最初感じちゃったけど
入ってからずっと年配の女性のインタビューっぽい音声がずっと流れてる。
カタカナ語が多いからなんだろうって思ってたら、石岡さんの声っぽい。
なんとなく情熱感じる。
これもQRコードで文字で読めるらしいから、ちゃんと聞き取ろうと頑張らず
とりあえずBGMにして展示を見ることにする。
(校正紙のに惹かれたのと、見たことないけど聞いたことある映画『落下の王国』の人、というのと
好きな映画『白雪姫と鏡の女王』の衣装の人、ということくらいしか知らないで来てるよ)
元々資生堂の人なのかっていうのも知らなかったけど、
反対とかされたのねじ伏せたのかな? 海外ロケの先駆けか〜はあ〜へ〜
実際のポスター、なんか赤い丸に細かい効果線?が効果的なのかな。
よくわからんけど、力強くて印象的だ。
日の丸とか桜とかいろんな図柄やら伝えたい意図、考えを落とし込んでいって
ポスターの形にしてたことが、たくさんのメモから伝わってきた。
おもろーこういうの見たかったんだよ! ってなった。
まずここで圧倒されたよ。
「鶯は誰にも媚びずホーホケキョ」
って一歩間違えれば意味わからんダサくなりそうな、でも力のある言葉を
ビジュアルで納得させられて格好良く感じる。
キャッチコピーの力も大きいけど、
肌の色が濃い人の美しさ? を全面に出してるの
当時鮮烈だったのでは? 今でも新しく感じるくらい。
むしろ今でも通じるというか、今こそ見たい感じもする。
見比べると仕上がりやっぱ良い。
指示怖いとかTwitterで書かれたの見てたけど、怖さは感じず
的確さ、仕上がりを追求する姿勢に圧倒された。
そんでまたまた圧倒されたのが
否が応でも刺さってくる、図のみでこれでもかと訴えかけてくる…
やば…と思ったらやっぱり説明文にD社と著作権で協議したって書いてあった。
でもわかってただろうにそういうの込みで発表した気概がすごいし、
その完成度もすごいんだこれがまた。
あきらかに校正紙と完成品のポスターで手をはじめ全体の立体感とかが違って
(途中エスカレーターとか乗って階変わってまだまだ見れるのか! と量の多さにびっくり嬉しくなった。
「風姿花伝」っていうのを出版して売り込んでくってのが格好良いなあ。
本も表紙だけでデザインセンスがあふれてることが伝わってくるよ。
企画とか舞台とか演出とか衣装とか色々な分野で活躍してたらしい。
石岡さんという方が自ら仕事を創り出せる、切り拓いていく方だったんだろうなあ。
着物の柄、生地、光沢、色合い惚れ惚れした。写真の見せ方も素敵。
舞台衣装、その舞台を輝かせるための舞台がある間だけのものだけど
こうやってじっくり見られるの嬉しいな。
グラミー賞とかトニー賞とか、詳しくない素人でも聞いたことのある賞を受賞されてることをここで知る。
いろいろ映像とかみてなんか暗幕くぐって次の部屋入ったら
床と壁全面金ピカで金閣寺があった。びっくり!
回り込むとなんか金閣寺割れてる。触れないように金閣寺中入れたよ。楽しい。
準備した人、企画した人大変だっただろうなー
展示の期間の終盤に来たけど、床きれいだった。
カンヌのなんか賞獲得したけど日本では遺族とか色々で公開中止で
流れてた映像ダイジェストだけど、ラブホとか神社の鳥居が沈んでるのとか
色々なんかひっかかったのかもねと思わされた。(実際はどこのせいかはわからんけど)
気づかないタイプだから、説明あるとちゃんと理解が深まった気がして嬉しくなる。
熱出した時に見る夢の不思議の国のアリスと孫悟空混ぜたおとぎ話の大人版みたいな?
シルク・ドゥ・ソレイユの衣装も手がけてたなんて
部屋入るまで知らなかった。
子どものとき、テレビで初めてシルク・ドゥ・ソレイユ見たとき、
あとシルク・ドゥ・ソレイユの現状ニュースで見たから
芸術家っぽかったのにできるんだ! って驚いたけど
変な形なのになんかスタイリッシュで、ポケット開いたらハートとか遊び心あるなあ。
色合いも今見てもなんかお洒落だ。
こんな活躍をされていたなんて!
たくさんの壁があったろうに、尊敬。
衣装は中国の伝統的な形を尊重しつつ、たくさんの人数が揃って舞うときの
色合いの美しさに思わず声が出そうになるくらい感動を覚えた。
(こういった光景は、もうしばらく、きっとこの先かなり長い間見られないんだろうと
思ってなんかまた切なくなってしまった。疲れてきたのか? 急に悲観的になってしまう)
白と黒のグラデーションのドレスとか、裾の色変わるのとか、素敵だった。
職人技見られると、無条件で嬉しくなるよね。
この映画大好きなんだよね。石岡さんの仕事で唯一ちゃんと知ってる作品。
布でこれでもか! と作り込まれていて、
見れて嬉しかった〜! 胸元の布の造形が細かくてすごいんだよ。
きっとここも意見取り入れたり試行錯誤した過程があるんだろうなあって見てた。
映画、面白衣装がたくさんあるけど、なんか納得させられるというか、
世界にあっているというか、むしろ素敵というか、説得力あるのが本当良いよね。
説明文でへーって思うところも多々あった。
高校生でこの色合いの絵! すでに実力とセンス光ってる! ってところも驚いたし、
世界に羽ばたくために当時にすでに英語で書いてたってのもびっくりだし、
叶うよ! というか、この方は、自分で掴み取って叶えたんだな。
はーほんと、格好いい人だな。
この人は人生をかけて時代や世界に向かってデザインし続けてたんだなあ。
筋肉とか赤とかいろんな作品を越えて所々で見られるモチーフを見ると
全体総括ではないけれど、この図がぴったりだったのかもしれない。
と、途中所々ベンチで座りつつ4時間近く展示を見て回ったよ。
ギリギリ楽しめるぐらい粘れた。
予想の4倍くらい展示量と濃い内容で大満足だった。
図録買おうかなって売店行ったら売り切れてた。かなり先の入荷だって。さすが。
石岡さんイメージのパフェがカフェとレストランで提供されていて、
久々に良い物、仕事見れたなあ、と大満足。
うん、で返信を始める話を見ていて思い出したことがある。文章の最初に名乗るということだ。
これだけだとピンとこないかもしれないが、私にとってはかなり違和感のあることで驚き、疑問に思った出来事だったので、思い出しながら書いていくことにする。
最初に気付いたのは、社内報を製作していた時のことだ。社員に投稿をお願いするコーナーがあった。
毎号掲載のお馴染み企画なんだけど、目的は社員紹介とか交流で、内容は趣味や旅行、食事会などさまざま。次号に寄稿する社員を今号の掲載者が指名してリレー形式で続けていくものだった。
大体同じ部署や支所、同期などに回していく人が多いんだけど、長く続けていくと「もう出たよ」という人が増えて行ったり、頼みやすさから、新入社員などの若手に偏ってくる。(そこからいきなり部長クラスに飛ばす猛者もいる……もとい良い雰囲気の職場も多く、案外スムーズに回っていた)
そうするとある時期から、本文頭に「こんにちは、新入社員の〇〇です!」のように名乗る投稿が見られるようになった。
掲載事項は上から順に、所属、氏名、写真、本文である。だから最初に見たときに「いや本文で名乗らなくても氏名すぐ横に書いてあるからわかるんだが」とびっくりしたのをよく覚えている。
"その人らしい"原稿を尊重する意図から、校正は誤字や文字数調整(もちろん了承はとる)だけにとどめ、できるだけ原文ママの掲載を基本としていたので、最初はそれでよしとした。次号からも似たようなものが見られたのはおそらく、前号を参考にしたからだろう。
だが、限りある誌面で、目的は社員の紹介だ。書くことがなくて文字数が少ない分には構わないが、最高でも100字(大体2~3文)しかないのに、なぜそんな無駄なことをするんだろうととても疑問だった。空白を埋めるにしても不自然すぎる。在籍期間の少ない社員にも過去号を参考に渡したため、掲載内容や誌面イメージがわかないということもないはずなのだが。
そんなこんなで、氏名は隣にあり被るので誌面の都合上掲載しませんよ、という方針に変更となったのだった。ちなみに、その後も本文に氏名を書いて「これが自分だ!」と主張してくるような社員はいなかった。
複数人でやりとりするDiscordサーバーに、いつも最初に名乗る投稿者がいた。
いやそのすぐ上に名前あるからわかるんだけど??と私はその時も謎だった。
あまりに理由が分からなかったので本人に尋ねてみると、「周りもそうしている」とのこと。
周りって?と聞くと、「バイトやサークルのグループLINEとかではみんなそう発言している」そうなのだ。
その例でいえば、理解できる。表示名が苗字どころか名前のローマ字だけ等だと誰が発信しているか分かりづらく、「●●学科△年の××です」と最初に名乗るのはスムーズな連絡のためには必要だと考えられるし、納得できる。
付け加えるように「メールとかもそうでしょ?」と言われたが、そりゃメールはメールアドレス(もしかすると表示名かもしれないが)→タイトル→本文→文末に送付主情報だから、先に名乗るのが親切の場合はもちろんある。これも分かる。
でもすぐ上に、メッセージを受け取る側がその人だと認識できる状態の表示名があるのにわざわざ名乗る意味とは?と訊いた時に、「確かに必要ないね。そういえばなんでだろう?」と本人も分からないようだった。本当にいつもの通りに文章を送っただけなんだと思う。
そういえば、先に話題にした社内報でも、名乗りで始まり「よろしくお願いします」で終わる文章はあった。あれもメールの形式に則ったものだったのかもしれない気はしている。
正直に言えば、どちらのケースも必要(もしくは求められているもの)・不必要なものの判別がついていないし、TPOに合わせた行動ができていない結果だなと厳しいことも思っている。もちろん間違ってはいないし、特にSNSグループのやりとりなんて文字数制限もない。それこそ"個性"にも見え得る一文、それは確かにそうなのだけど。
が、ともあれ、自分にとって身近なLINEなどのグループ内やりとりや、実際に使ったことが無いビジネスメールを模したつもりの投稿をみるに、これは現代ならでは"最近の若者”の文化なのではとも思うのだ。グループ内メッセージがある環境で育ってきたSNSネイティブな世代、というか。まぁ手元の具体例は一桁しかなく限られたものなんだけど。でもこれ、実は他でも見られるものなんじゃないかなって。
彼らが今後社会人になって、ビジネスメールに普段から触れていく状況になったらどうなるんだろう、ちょっと興味がある。これが普通になるのかもしれないよね。
……まぁ個人的には、近い場所で同じことを繰り返すのは無駄という思考(これは誌面作成や校正からの職業病に近いと思っている)を持っているし、結論や理由が簡潔にまとまっている文章が好きなのでこういうのが気になってしまうだけかもしれない(この投稿が冗長なものなのはどうかご容赦願いたい)し、否定的な気分ではあるんだけどね。それがこれからの文化ならば「そういうものなのか」と受け止める柔軟性はもっていたい。多分私はやらないけど。
小説なら別にTEXT形式で良いわけで、ページ単位でも章単位でも本単位でも良いんじゃね?
gitを使う利点はバージョン管理だけじゃなく、リリースポイントをタグで記録したり、プロットAとプロットBのどっちが良いかを決めきれないときにブランチ切って別々に書いて良いほうを採用するとかもできるだろうし、複数人で共著した場合なんかもファイル共有だったら死ぬし、githubとかのサービス使えば校正指示なんかも的確にできるだろ。
結論を最初に書くと、作家がやりたいのは「小説のバージョン管理」ではなく「出版プロジェクトのタスク管理」と「成果物の品質管理」なのである。
数年前に「家事をRedmineで管理すると捗る」という記事が流行ったように、それと同じことが作家界隈でも散発的に起きていると考えたほうが実情に近い。
「WordやG Suiteの校正機能じゃダメなの?」に対する返答は「WordやG Suiteにはタスク管理ツールが付いてないからダメ」。
本当はGitHubである必要はなく、RedmineやTracとWordを組み合わせてもいいのだが、「ハンマーを持つ人にはすべてが釘に見える」のでGitHubのためにGitを使おうという本末転倒な議論になりがちな印象がある。
逆に「バージョン管理はあるがタスク管理と品質管理がない」環境の例としてはウィキペディア(MediaWiki)がある。
MediaWikiはすべての版をバージョン管理しており、差分も履歴も見られるが校正にはあまり向いていない。ウィキペディアの文章があまり洗練されないのは支援ツールの不在による部分が実は大きい。
の2つで、それを下支えするためにバージョン管理システムは必要だがGitほど多機能である必要はない。むしろRCSくらいシンプルなほうが理解されやすいのではないかと思う。
その人は私が小説同人誌を出すときに私の小説の校正や誤字脱字チェックをしてくれていたし、隣の市に住んでいることもありこのご時世でもリアルで会って萌語りが出来る貴重な友達だった。
それでもブロックするに至ったのには訳がある。
私のTwitter垢は専らBL二次創作小説のために使用しており、彼女がリプで私の小説の感想を送ってくれたことで私も彼女の小説を読むようになり、相互フォロー関係になった。
私も彼女も文字書きで、お互いに小説を書いたり感想を送りあったりしていた。
私が多作で彼女は寡作タイプなので、送られる頻度の方は私の方が多かったかもしれない。
やり取りするうちに近所に住んでることが判明し、コロナ第一波が過ぎた頃にはリアルで遊ぶ仲になった。
最初は定期的に遊んでくれたり、私のやりたいことに付き合ってくれるいい人だと思ってた。
5月ごろに私が小説同人誌を出す際、誤字脱字チェックが大変だとこぼしたら手伝いを申し出てくれたのもありがたかった。
でも違和感が出始めたのは、その人が二作目の小説を書いてるときに「実体験じゃないと書けない」と言っていたこと。
じゃあ今までの推しカプのホモエロ小説って実体験だったんか?とちょっと気持ち悪くなった。
違和感が大きくなり始めたのは、その人が支部に上げてた小説に書き下ろしをつけた小説同人誌を出すと言い始めた今年の6月ごろ。(ちなみにその同人誌は今現在もまだ発行されていない)
彼女は私に小説同人誌作る技術的なことや物語の作り方、挙げ句の果てに部数をしつこく聞き出しておきながら、逆に私が物語の作り方や技術的なことを彼女に質問しても適当にはぐらかすだけで教えてくれない。
部数に関しては「部数を聞くのは年収を聞くのと同じくらい下品な行為だよ」とは伝えて一度は引いてくれた。
しかしそのあともしつこく部数を聞いてくるので、根負けした私は嘘の部数を教えた。
その部数をn部だとしたら「じゃあ私は2n部刷ればいいね!」って言ってたのもドン引きだったけど、まあ誤字脱字校正の件で世話にはなってたので関係は続いてた。
コロナの影響で会う予定がポシャったので、8月生まれの彼女に誕生日プレゼントを郵送したら、お礼も何もなく一切ガン無視されたのも地味に傷付いたけどまあ内容が気に入らなかったんだろうなと思って気にしないようにしてた。
後日軽く突っ込んだら「届いてない」って下手くそな嘘をついてたけど、嘘だと思いたくなくてそれを信じることにしてた。
でも一番決定的だったのは文字数やブクマ数でマウントとってきたこと。
確かにひと作品に対する文字数は相手の方が多かったし、ブクマ数も相手の方が取ってた。
確かに彼女は美しい表現でドラマチックかつ繊細な心理描写が散りばめられた小説を書いていたので、そこに異論はないし正当な評価だと思う。
でも私の主軸は私の性壁を表現できるかどうかで、他人が主軸のブクマ数は関係ない。
そう思っても事あるごとに「ブクマ数が古参大手より多かった」「今回も文字数が5万文字超えちゃったから読んでもらえるか心配」って話をしつこくされるとしんどかった。
一回だけ文字数とかブクマ数とか数字の話をされるとしんどいからやめてくれって直接言ったけど、その場で謝るだけでまたすぐに文字数こんなに増えちゃった!とかブクマ数がいくつになってた!っていう話を続けてた。
ブクマ数や文字数は他人と比較して大小が分かりやすいからこそ、気になってモチベーションが下がりやすくなる。
だから見ないようにしてたのに、彼女は聞いてもないのに教えてくるしガンガン話を振ってくるのでモチベーションが下がる。
彼女との友情と自分の小説を書くモチベーションを天秤にかけたとき、モチベーションの方が大事だったから、私はブロックすることにした。
思うに、彼女は嘘がつけない、正直な人なんだと思う。
相手が格下だと分かればそれを隠しきれないし、物語の作り方や相手が刷ってる部数について、知りたいと思ったら好奇心を抑えきれずに聞いてしまう。
もらった誕プレも気に入らなかったら社交辞令のお礼も言えない。私はそういう素直すぎるところに耐えられなかった。
素直すぎるからきっと、切る理由を伝えたらツイッター上で私の名前をはっきり出した上で盛大に愚痴ってフォロワーに慰めてもらいたがりそうだから、私は何も言わずにブロックする。ツイッター上で愚痴も言わない。ここで吐き出すことくらいは許してほしい。
彼女は「他人に嫌われるのが一番苦手」と言っていたので嫌いにならないようには努力してたけど、今の私は間違いなく彼女のことが嫌いだ。すまん。
でも、6月からずっと出すと言い続けて絵師に表紙描いてもらって予約まで取った同人誌はそろそろ出さないとまずいと思う。
…これきっと、彼女の脳内ではネットでの評価に対する嫉妬に狂ったフォロワーにブロックされたってことになってるんだろうな。それでもいいや。真実は必要ない。
昔一般誌の編集してたけども、取材する側(てか本を出す側)からすると、
だって好き勝手に赤字を入れられたり、編集上の意図を無視されたりするしね。
写真が気に入らないからこっちと変えてくれつって自分で撮った写真送ってきたりさ。
あと多いのが言ったのにこんなこと言ってない、というケース。
これはまあ理解できて、その場ではああ言ったけど実は違ってて、なんてのはよくある。
人間だしそれはいいんだけど、問題は校正をとることで記事がつまらなくなるのが、私はたまらなくいやなんだな。
たぶん、昔(メールもファクスもない時代)は店取材とか一般人のインタビューは校正とる文化なかったと思うよ。
絶対に先方校正とるのってプロの作家と広告関係だけだったんじゃないのかなあ。新聞は今でもとらないし。
それで回ってたならおおらかでいい時代だよなー。
問題は、「原稿は見せない。そのかわり内容に間違いがないのは保証する」ってこちらが言い切れるか
どうかなんだけど、これ難しいんだよねー。本気で金と時間と人力を投下しないと、そこまでの仕事できない。
なので本人にも確認してもらって、要は責任を分散させるわけだな。
あとで間違いが判明しても、「でもゲラをご覧いただきましたよね」つって。
雑誌から書籍に仕事変えたら、その辺のストレスが9割方軽減されたのでよかったけど
著者との付き合いが濃厚な分トラブルになるととことんまでこじれるので、
意味も分からず手順だけ真似て約分するのが数学的ゾンビなら、我々はみんな科学ゾンビだ。
「二酸化炭素が増えると地球温暖化が加速する」という文は科学的に正しいというのは一般常識である。
しかし、なぜそうなるのか答えられる人がどれだけいるだろうか。
少し気の利いた人なら「二酸化炭素は温室効果ガスであり、地球から放射される赤外線を吸収してしまうから、地球の気温が上昇する」と答えるだろう。
しかし、二酸化炭素がなぜ赤外線を吸収するのか、具体的に二酸化炭素分子に赤外線の光子が当たった時に何が起こるか説明できる人がどれだけいるだろうか。
二酸化炭素分子に赤外線光子が当たった時に何が起こるか説明できる人も、なぜその説明を信じているのか説明できるだろうか。
自分は二酸化炭素に赤外線を当てて、それが吸収されることを実験で確認した、という人もいるだろう。
しかし、その実験で使ったガスが二酸化炭素分子しか含んでいないということをどうやって確認したのだろう?
実験で使用した機器から出ているのが赤外線光子だと、どうやって確認したのだろう?
自分は科学的な観測でその現象を確認したと主張する人は、多くの場合、実験で使用したガスや機器が本当に言われている通りの代物であるかどうか、自分で確認してはいない。
実験の前に自分は他の機器も使って校正を行ったという人もいるかもしれない。しかし、その校正に使用した機器が正しく動作していることはどうやって確認したのだろう?
このように突き詰めていくと、あらゆる人は、どこかのレベルで自分で確認していないことを、額面通りに受け取り事実として受け入れていることになる。
こういう意味において、世間一般の人にとって、科学知識というのは宗教上の教義と変わらないものになる。
世界は平らで巨大なカメが支えていると信じていた昔の人々と、二酸化炭素が増えると地球温暖化が加速すると信じている現代人は、誰かに言われたことを自分で確認せず信じているという点で本質的には同じである。
再現可能な実験手順とその結果の公開と相互検証によって担保されている科学の正しさは、世間一般の人にとっては関係ないものだし、科学の営みに携わる人々も、自分の専門外の分野については常識とされる知識を天下りで受け入れるしかない。
放射線でDNAが損傷することや、風邪の原因がウイルスであることを、実際に実験で確かめたことがある人間は世の中のほんの一部に過ぎないし、世の中で常識とされるすべての科学知識を実験で確かめることは、一人の人間には一生かけても不可能なことだろう。
我々が科学知識を正しいと信じるのは、基本的にはみんなが正しいと言っているから、信頼できそうな本や学者がそう言っているから、ということになる。
現実にはここに経済的な利害や政治的意図が絡んでくるので更に面倒になる。
「福島原発から出る汚染水にはトリチウムしか含まれていないから海洋放出すれば十分希釈されて安全である」と東京電力や日本政府が言っているとき、これを信じることはどれだけ妥当だろうか。
「汚染水にはトリチウムしか含まれていない」、「十分希釈したトリチウムは安全である」、「海洋放出することで十分に希釈される」、このそれぞれが世間一般の人にとってはなじみのない内容だし、個人が自ら実際に確認できるようなものではない。
特に、汚染水の処理の実態や、海洋放出が実際にどのように行われるのかについて、世間一般の人々と、東京電力や日本政府が持っている情報の量には大きな差がある。
そして、最も重要なのが、東京電力と日本政府には、危険性が低いと嘘をつく経済的・政治的な動機があり、いままでも嘘をついてきた前科があるということである。
このような状況で、東京電力や日本政府の説明をそのまま鵜呑みにするのはむしろ非科学的な態度である。情報公開の要求や、利害関係のない第三者による自由な検証や監視が実現して初めて、「福島原発から出る汚染水にはトリチウムしか含まれていないから海洋放出すれば十分希釈されて安全である」という説明が信じるに足るものになるのである。