はてなキーワード: 類人猿とは
どれも知恵を重んじてる宗教だと思うんだけど、
まあ、もちろんこの知恵というのは聖書なり神の教えを指してもいるわけだけど、
その知恵というのは本であって、本を大切にしろとか、教えにあるわけだけど、
宗教的な教えと乖離して、本を読まなくても知恵がなくともカネは得られる、
聖書的には知恵は金の源泉みたいに言うが、
実際は知恵なんかない方がカネが得られるじゃないか比例しないじゃないか、
みたいに暴力的で、合理的禁欲のない資本主義が強くなっていって、
その結果が北米だったり、今の中国だったりするのだと思うけど、
まあ、何が言いたいのかというと、
底辺高校とかFラン大のツーブロックゴリラに生まれた方が幸せだったんだろうけど、
俺はもう類人猿に戻りたくても戻れないんだわ…
弱者男性問題の解決に必要なのは雑誌クロワッサンだとわたしは確信しています。「家事が軽くなる道具と工夫」とか「冬の食卓ラクしておいしい97品」とかがモテない男性を救います。誰かがおれを愛してくれないかなとぼーっと思い煩うより自分の生活を上げましょう。— はまりー (@travis02130213) April 30, 2021
anond:20210522002724 ふむふむ。
容姿...170cm80kgデブ、塩顔ブサメン、丸坊主、両耳にピアス
生活...1k8畳5万、部屋きれい、シャワー3日に1回、掃除・洗濯は最適化済
仕事...一人親方、貯金300万、今年度の推定年収100万円未満
趣味...ドカ食い、アル中、ネトゲ、Youtube、2chまとめ記事、はてな、読書
友人...男友達多め、女友達ゼロ (話はするがヤりたくなるので本音が出ない)
sex...年に数回異なる素人とノーマルなやつ。性処理は毎日
etc...アル中亭主関白な父親から母への心理的DVに声を押し殺し続けた日々。他人が怒られる、不機嫌だと喉が締まる後遺症
(1)好みの女性がたくさんいて"わし"が大きくなった p.12
(2)ゴリラ禍でも優しくてマメで面倒見が良いオスがモテる事がわかった p.86
(1)好みの女性がたくさんいて"わし"が大きくなった p.12
アンケートに協力してくれた38組の買い物上手たち
30代以上の女の顔写真が1ページにワサッと。きれいな女を見ると頑張ろうと言う気になる、コイツらとクソやりてぇから努力しよ
(2)ゴリラ禍でも優しくてマメで面倒見が良いオスがモテる事がわかった p.86
類人猿飼育者とカラス研究者の対談。動物と人間の習性の類似性について。このクロワッサンで最高の記事
その他にも
ハシブトカラス(そこら辺にいるカラス) の「カア」という単発の鳴き声は、周波数の種類が個体ごとに決まっているので、おそらく声を聞けばほぼ誰なのかわかるんです。
世界観が変わって良き
紹介記事の文章「あなたの生き方はあなたにしか通用しない」でポチ
p.12「38人のオシャレな生き方」から p.93 「あなたの生き方はあなたにしか通用しない」の流れが最高
たまーにシュワシュワくるキムチが無性に食べたくなる。でも甘辛い or 塩辛いキムチばかり
市販品でシュワシュワキムチに出会えない。いつも期待して買い、食ってはガッカリした
甘酒ということは、塩麹でもいけるな。一生市販のキムチを買わずに済む
シュワシュワキムチ
欲しいもの特になかった。40になって物増やす気になれん。厳選する段階
同じくなかった。
ターク製の鉄フライパン載ってたが、キレイ好き>料理好きなヤツは生活の質が下がる
毎回の油ならしでキッチン周りが中華料理屋の臭いを放つようになる
食器も床もトイレの扉も洗濯機もベタベタ、換気扇フィルターは半月で油まみれ
そんなもん未来のオシャレさんにすすめんなクソ
・クソポエミー
こういうあだ名や芸風は、例え本人が受け入れていようが周りがやめさせるべき
幼少期は、場にそぐわないことを言ったりして周囲をドン引きさせるのを繰り返してきた。
ある程度成長してそれを自覚するようになると、周囲をドン引きさせないために何を言えば良いかが分からず、誰とも何も話せないようになっていった。
大学に進学して一人暮らしを始めると、周囲に話す人間が誰もいない生活がスタートした。
授業やゼミでの発表のような「論理的で一方的な発言」は得意だったので、そういう場は難なくクリアすることができたが、
普通の「雑談」の場で何を話せばいいか分からなかったので、授業に出ても誰とも雑談しなかった。
俺にとって誰とも話さない生活が最高に快適である、ということだった。
もう周囲をドン引きさせることを恐れる必要もない。何を話すかで思い悩むこともない。
俺は孤独耐性が高く、1~2か月程度人と話さなくてもまったく平気だったのだ。
しかしそうした生活は、少しずつ確実に俺の中の「会話能力」を衰えさせていった。
使わない能力は徐々に衰えていくものだが、大学院も含めた6年間の大学生活が終わる頃には
まず舌や喉の筋力が衰え、呂律が回らなくなり吃音を発症するようになった。
それから、会話をしても次に発言する言葉が脳裏に浮かばなくなり、会話のキャッチボールが難しくなった。
もともとキャッチボールで大暴投するような俺だったが、投げ返すことそのものが困難になったのだ。
卒論の発表などは問題なくクリアできたのに、人との会話は1分間も続かなくなった。
学歴がそこそこ良かったおかげでなんとかまともな企業に就職することはできたが、
会話能力の低さはあらゆる場面でハンデとなった。
仕事をしていると嫌でも人と会話をすることになるが、一度低下した会話能力は簡単には戻らない。
誰とも雑談しないので職場内の人間関係がほとんど構築できず、何かあった時に頼れる人がいない。
上司や同僚との信頼関係も築けず、それが仕事を進める上での間接的な障害となる。
こんな俺でも、専門性を武器になんとか10年以上働くことはできたが、そろそろ限界かもしれない。
この歳になると、マネジメントや難易度の高い交渉が仕事のメインになってくるが
会話がまともにできない、あるいはできたとしても大暴投する俺にはこれがかなりの無理ゲーなのだ。
結局、何度かの大失敗の末にマネジメントの立場からは外されることになった。
こんな俺をまだクビにせずに雇ってくれる会社には感謝する他ないが、
それもいつまで続くかは分からない。
結局、会話ができなければ生きていくのは難しいのだ。
ああそれでも、願わくば大学時代のように誰とも会話をせずに生きていきたい。
このまま会話能力が衰え、「どうも…」とか「うほ…」ぐらいの類人猿レベルの言葉しか話せなくなっても、
それでもいいから誰とも会話をせずに生きていきたい。
しかもKKOとか男じゃなくて、フェミとかお気持ち長文腐女子とかに多い
逮捕しちゃうぞのアニメ版みたいなの、そういうのが読んだり書いたりしてる悪役令嬢モノも1000倍劣化コピーだけど基本プロットあんな感じ
だから俺、ツイッターとかで女性差別問題とかで毎日毎日ニュースで紛糾しているの見るたびに、全然他人事のように感じてしまう
多かれ少なかれ社会に言論で殴りに行くやつらってのは、自分の理想の社会にしたいからするんだが、その頭の中の「自分の中の理想像」っていうのが異様に古いから全然理解も共感もできないんだよ、こういう人ら
エヴァQ以前の男見せたシンジ君はどーでもいーよってスタンスだったネット民が、なんもできんウジウジした情けない無能の側面だけ抽出したようなエヴァQでは自分のことを言われたと感じたかのように発狂してる奴ら多いのと一緒なんだろうな、ああいうの
そういう腐女子とかクソフェミが好む漫画とか創作ってだいたいさ
ギベーーガベーギョボボ---!!!みたいな奇声まき散らして奇行に走って、サバサバ系とか称して親の教育疑うような愛想もなんもないオッサン臭いことして
それを『そんじょそこらの女とは格が違うア・タ・シ(キリッ』と悦に浸ってるのが気持ち悪ぃんだよ、純粋に
そんなコンサータ飲んでないADHDみたいなキ〇ガイみたいな類人猿と付き合おうなんて奇特なイケメンいるわけねえだろ、精神科の医者とか精神病の研究者とかなら検体として付き合ってくれるかもしれんけどよ
典型的な自分のことを面白い人間と思っている対人コミュニケーションできない人間のソレ、クラスに昔一人はいたアレ
美人美女と一級の女扱いされたいから、コメディアン枠でカースト上位に入ろうとするけど
他人のことを自分をちやほやする介護要員としか見てないから総スカン喰らう人まんま
そんな無駄な努力して周りに不快感まき散らすくらいなら、整形外科にでも行って顔面改造手術でも受けてきたら?ショッカーの死神博士みてぇな医者にさ
個人的にはオペラよりも好きかもしれない。特に、愛した女性の墓を掘り起こして遺体に直面するシーンがあるところとか。不毛な愛情というか、すれ違いや失恋ばかり読んでいたことがあり、これを読んだのもそんな時期だ(「エフゲニー・オネーギン」とか「マノン・レスコー」とか)。というか、そもそもオペラって「乾杯の歌」とかすごい好きなんだけど、台詞が聞き取りにくいし、台詞を同時に歌う箇所もあるし、なんか難しい。
ちなみに主人公の独白に曰く、「ああ! 男というものは、その偏狭な感情の一つでも傷つけられると、実にちっぽけな、実に卑しい者になってしまうものです」。……バレましたか。
自分が日本SFを読むきっかけになった人で、ハヤカワのJA文庫の小川一水とか林譲治とかが特に好きだった。
この作品は、太陽の表面に異星からの物体によってメガストラクチャーが作られ、日光を奪われた人類が滅亡の危機に瀕するのだが、若干のネタバレを言うと、最初からエイリアンには悪意が全く存在していなかった。僕はそんなところが好きだ。基本的に自分の好きなシチュエーションは、他者との接触により悪意はないにもかかわらず傷つく、というのがあるのだ。
ちなみに日本のSF作家をより広く読むようになったのは大森望と日下三蔵の年刊日本SF傑作選のおかげ。感謝感謝。
三十歳で婚約者がいるのに、親戚の十八歳の女の子に手を出しちゃったダメな人が主人公。結婚の約束をした女性からは婚約を破棄されてしまい、彼は思い出の品を集めた博物館を作りだす。イヤリングはともかく、自分が家をのぞき見た瞬間を画家に描かせた作品や、下着までも集めているあたり、ただの変態である。帯には「愛に生きた」とあるけれど、愛情というか執着や妄念であったような気がする。けれども、不毛な愛のほうが読んでいて面白い。
ところでトルコという国は、女性がスカーフを被るかどうかだけで政治的な立場の表明になってしまう国であり(ハイヒールを履くかどうかも政治的立場の表明ではあるが、トルコはその傾向が顕著だ)、その点からも読んでいて面白い作家であった。
映画オタクのゲイと政治犯の獄中での対話劇。ゲイはどうやら看守から政治犯の様子を探るように頼まれているようなのだが、いつしか二人には友情が芽生えていく。緊張感のある対話劇であると同時に、ゲイがお気に入りの映画を語るときの調子は推しについて語る幸せなオタクそのものである。安易に神という表現は使いたくないが、語りが神懸っている。ゲイの口調が女言葉なので、少し古い訳なのかもしれないが。
大学時代、年齢不詳の友人がいて、今も何をして食べているのかよくわからないんだけれども、今でも時々強烈な下ネタのメールが来る。そんな彼が薦めてくれた小説。村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の「世界の終わり」パートに影響を受けた作品を部誌に掲載したらものすごい勢いで薦めてくれた。
彼は物にこだわりがないというか、読み終えた本をよく譲ってくれた。同じブローティガンの絶版になった本やシュティフターの「晩夏」などもおかげで読めた。「晩夏」はくどいのでいただいてから十年後に読んだのだが、現代の小説では確実に切り捨てられる長さの風景描写を含む小説を、定期的に読みたくなる。
就職のために架空の宗教団体によるテロをでっちあげる侍の話。時代劇の形を借りているんだけど、時代考証は完全に無視している。そして、自意識過剰人間とクレーマーとおバカしか出てこない語りの芸だ。だが、大体町田康の作品は大体そんな感じだし、人間って元来そんなもんなのかもしれない。オチも基本的に完全に投げっぱなしだが、爆発落ちや死亡オチのギャグが結構好きだったりする自分がいる。文学っていうのは自由でいいんだよ。
ムーミンシリーズ以外のヤンソンの文学作品を選ぶべきかどうか迷ったのだがこっちにした。友人からなぜかヘムレンさんに似ていると言われていた時期があったことだし。
児童文学や短篇って長篇とは違った難しさがある。短い文章と簡潔な表現という制約の中で、キャラクターを端的に表現しないといけないから。そのお手本みたいな作品がここにあり、内向的な人間にやさしい世界がここにある。ちなみにとある哲学者の持っている本の名前が「すべてがむだであることについて」であり、すごく笑える。
全く関係ないが僕は萩尾望都の「11人いる!」のヴィドメニール・ヌームにも似ていると言われたことがある。緑の鱗に覆われた両性具有の僧侶で、とても善い人で行動力もあるのだが、説明するときにやや言葉が足りない。
嘘つきで利己的で、のし上がることにしか興味がない空っぽな存在に恋をしてしまった善良な青年。「悪い娘」の人生の航路は語り手の人生におおよそ十年ごとに交叉するが、一貫して彼女本位な関係に終始する。
これはどうしようもない女の子に恋してしまって、四十年間ものあいだそれを引きずった男の物語だ。地位も財産もなにもかもなげうって、何度裏切られてもひたすらに与え続けた。そんじょそこらの悪女ものとは格が違う。シェル・シルヴァスタインの「おおきな木」のように。
猥褻だということで昭和時代に裁判になったというので読んでみたが、どこが猥褻なのかちっともわからない。しかも、作者の思想がうるさいので文学的な美を損なっている。
性表現は露骨というよりも、おちんちんに花飾りを結ぶみたいなのどかなヒッピー文化的な感じで、エロティシズムについては性描写の無い仏文学のほうがずっとぐっと来るものがる。しかし、時代を先取りしていていたという意味では素直にすごいと思うし、この程度で猥褻だと騒いでいた時代はさぞ不自由で息苦しかったのだろうなあとも思う。
最強のファーストコンタクトもののひとつで、ネタバレするとオチは「意識やクオリアとはときとして生存に不利かつ無駄であり、この宇宙では淘汰される可能性がある」という絶望的な結論。人間の心も愛も宇宙の中では無だ! みたいなSFが大好き。
基本的な構造は「宇宙のランデブー」の変奏で、未知のエイリアンの遺物の中を探検するのだが、強烈な磁場の中で意識が攪乱され様々な精神疾患を一時的に患うという違いがある(実際に脳に強烈な磁場を近づけると活動する部位が変化する)。言及されるコタール症候群や半側空間無視といった症状もすべて実在するが、脳科学の知識がないと全部作者のほら話なんじゃないかって読者が誤解するんじゃないか若干心配。
それと、ハードSFとしてはすごい好きなんだけど、どういうわけか吸血鬼が味方に出てきて(人類を捕食していた類人猿の遺伝子を組み込んだ改造人間という設定)、味方のはずなのにこちらに危害を加えようとする不可解な設定があり、これは作者の吸血鬼やゾンビに対する偏愛のせいだろうが、プロットの上であまり関係がないし必然性もなく、そこが無駄に思われた。そもそもなんでそんな遺伝子組み込んだ危険なやつを作るんだ?
以上。
ホッブスの言う「自然状態」を考えよう。これは自分も他人も倫理的な制約に縛られない状態で、誰を殺そうが誰に殺されようが文句は言えないという社会である。こんな状態では暮らしていくことが出来ないので、人々は「契約」を結んでお互いを拘束し合う。人々は「契約」によって自分が自由に行動する権利を一部放棄してお互いの権利を尊重しあい、権利を守り合うための制度や規則を共同で守ることにする。もちろん、このような「自然状態」と「契約」が本当にあったのか?という疑問はもっともなものなのだが、それはまた大きな話になるので、ここではとりあえず人々は何らかの「契約」をしたという立場から動物の権利を考えていくことにする。
さて、このような「契約」を結ぶためには、例えば自分の権利を認識したり、その権利を放棄/移譲したり、約束を責任持って守ったりなど、それなりの程度の能力(以下では契約能力と呼ぶ)が必要になる。大型類人猿などの研究が進み、それらがかなりの認知能力を有していることは確認されつつあるが、それでも上記のような契約能力を持っているとは言えないだろうし、ましてや牛や豚や鳥に契約能力を認める人はいないだろう。したがって、人間と動物との関係はいまだ「自然状態」であり、お互いを好きに殺して食べて良い関係だということになる。もちろん、「自然状態」だからといって牛や豚や鳥が人間を襲ってくるわけではないが、それは動物たちが「契約」を尊重しているからではない。
一方で、人間に契約能力があるといっても、その大きさは各人で異なるのは確かである。私のような凡人と、高潔で思慮深い偉人との間には契約能力に差があるはずであり、それでは我々が動物を好きにできるように、偉人は凡人である我々を好きにできるとも考えられる。この問題を解決するために、範囲性質(range property)という概念を導入する。これは、ある最小限の契約能力を有していれば、その差は考えずに同じだけの権利が認められるという考え方である。ここでいう最小限の契約能力がどのようなものかは議論があるだろうが、リバタリアンである私としては、「"個々人が別々に存在し、自分の人生は自分の責任で辿る"ということを認め、お互いの権利や判断を尊重し合う」能力としたい。この能力から、お互いの権利を尊重すること、そのために自分の自由の一部を放棄することなどが直接的に導かれる。また、個々人が別々に存在してお互いの権利や判断を尊重することから、そのような最低限の能力を有していればその差を考えずに同じだけの権利が認められるという範囲性質も満たすことができる。
しかし先にも書いたように、最低限の契約能力(それがどのようなものであれ)を持った人間だけがお互いの権利を尊重し合うという主張からは、上記のような最低限の契約能力を持たない限界事例の人たち(例えば乳児、重度痴呆症、ある種の知的障害者など)の権利を制限しても良いという主張が直接的に導かれてしまう。この問に、私は「そのとおりである」と答えたい。
ここでは、限界事例の人たちから将来に契約能力を有すると見込むことができる相手(例えば子供)とできない相手(例えば重度の痴呆症、ある種の知的障害者、動物)とを区別する。
将来に契約能力を有すると見込まれる相手に対しては、相手が契約能力を有した将来のある時点から現在を見たときに、その権利の制限にある程度の妥当性が有ると判断できる範囲でのみ権利を制限することができる。これは別に現在日本でもおかしな話ではなく、例えば20歳になるまで飲酒喫煙は禁止されているし、18歳になるまで選挙権は無い。端的に言えば、嫌がる子供を押さえつけて歯を磨くことは許されても、レイプすることは許されないということである。このため、子供についてはたとえその子供が契約能力を有する人間(大人)が保護していないとしても子供本人に権利があり、契約能力を有する人間と同様の制限なしに殺したり人体実験に供したりすることは倫理的に許されない。
一方、将来に契約能力を有すると見込めない相手については、その相手を保護する契約能力を有する人間の"被保護者"としての従属的な権利しか有しないとするのが妥当だろう。つまり、本人の同意ではなく保護者の同意によって本人の"扱い"を決めてよいということである。この"扱い"には子供とは違い、「その権利の制限にある程度の妥当性が有ると判断できる範囲でのみ」という制限は無い。なぜなら、その判断をする将来が存在しないからである。したがってもちろん、殺して食べるという扱いでも構わないことになる。しかしながら、どんな動物も誰もが自由に殺すことができるわけではない。"被保護者"としての権利は有している以上、自由に扱ってよいのは"保護者"が居ない相手だけである。牛や豚や鳥を食べて良いと言っても、他人が保護している(ペットとして飼っている)動物を保護者の意見を無視して食べることは出来ない。また"被保護者"に対して殺すなどの本人に害のある何らかの重大な判断を下そうとする保護者は、自分の代わりに保護したいという契約能力を有する人間が居ないことを確認する倫理的な義務がある。もし、限界事例の人たちや動物たちが殺されそうになったなら、契約能力を有する人間(福祉団体なども含む)は誰でも、以後は自分が責任を持って保護すると約束して必要なら金銭的な保証なども含めて以前の保護者と合意することで、殺すことを止めることができる。(食べるために)殺してよいのはそのような保護者が名乗りでなかった相手だけである。
④認知能力や契約能力等、動物と人間を区別する道徳的に重要な違いとされている違いは人間同士の間にも存在する(すなわち、限界事例の人たちが存在する)
ことを認めた上で、⑤を削除して肉食を擁護した。
限界事例の人たちや動物から、将来契約能力を有すると見込まれる子供とそれ以外を区別した。前者はその子ども自身が契約能力を有するようになった将来において権利の制限にある程度の妥当性が有ると判断できる範囲(判断するだろうと見込める範囲)でのみ権利制限が許されるとし、後者は契約能力を有する人間の"被保護者"としての従属的な権利しか有しないとした。ただし、"被保護者"としての権利しか有さないとしても保護者が自由に扱えるわけではない。"被保護者"に対して殺すなどの本人に害のある何らかの重大な判断を下そうとする保護者は、自分の代わりに保護したいという契約能力を有する人間が居ないことを確認する倫理的な義務があり、(食べるために)殺してよいのはそのような保護者が名乗りでなかった相手だけである。
最後に、この結論を受け入れた社会がどうなるかを現在との比較から想像してみたい。子供については、現在と変わらないことは説明した。それ以外の限界事例の人たちについては、現在広く受け入れられている「人権」よりも若干制限されることになる。しかし、実質的には扱いは変わらないだろう。現在でも彼らの扱いは最終的には保護者の意思で決められる。上記のような社会で誰も保護しようとしない限界事例の人たちが殺されたとしても、現在でも誰も保護しようとしない限界事例の人たちは死んでいるので同じである。上記のような社会では限界事例の人たちが捨てられることになり問題だと言う人が多いならば、その人達は積極的に保護するだろうし、少なくとも福祉団体に寄付をするだろう。介護疲れから無理心中が起こっているような現在に比べて、福祉団体に大きな人的・金銭的支援がなされる社会は、現在よりも限界事例の人たちにとって生きやすい社会と言える。
以上、倫理的な観点から肉食を擁護した。この結論について、私を差別主義者であり倫理的に許されないと批判したい方々はもちろん居るだろう。ただし、もしあなたが肉を食べているなら、私を差別主義者と批判しながら肉を食べることについて、その判断をどう倫理的に許容しているのか一度考えてみてほしい。