はてなキーワード: 社会秩序とは
俺が性犯罪が許されないと思うのは被害者を生みたくないからだし、社会秩序を守りたいからだし、身勝手な犯罪者は罰せられるべきと思うからだ
もっと勝手にやってろよ的な意識が強いと思ってた。しょせん他人事というか。
例えば殺人や暴行は自分がされたら困るから抑止力は強い方がいいと思っているだろうけど、痴漢は被害にあうこともないだろうし刑罰を重くしたら冤罪をかけられた時に困るから、あんまりガタガタ言うなと思われてる、と思ってた。
「性欲は悪と思え」「男の性を憎め」と思っていたわけではない。男性が全員悪い訳じゃないし(ほとんどが悪くない)、男ってだけで悪っていうのもおかしな話だし。
【シン・ウルトラマンのネタバレあり というかネタバレ気にせず話す】
現在公開中の『シン・ウルトラマン』を2回見てきた。あまりにも良かった。感想をどっかで書きたい。
ところで、その感想や叫びを漁る中で見かけた勘違いが「リピアくんが『野生の思考』って本を読んでる!」→「リピアくん地球人類のこと野生動物か何かと思ってる?」というもの。
別に誰がどんな感想を持とうが、或いはその人やそれに近しい観点を持ってしまった人が何をどう勘違いしていようが、それ自体は全然どうでもいいのだけれども、リピアくんとこの本の著者(レヴィ=ストロースの名前は聞いたことある人多いだろう)の名誉のためにもツッコミの言葉をネット上に残しておきたい。ついでに、この映画にこの本が登場した意味の考察をちょっぴり披露させてほしい。
1950年代までのフランスをはじめとした西欧に多かった(今でもかなり多い)哲学や思想が「西欧の文明における思考と、アジア・アフリカ・中南米の未開文明の思考とでは根本的に違う」という考え方で、主に科学技術や文化の面での進歩史観や優越感、啓蒙思想や資本主義と結びついて植民地主義や覇権主義の土台の一つになっていた。それに異を唱えたのがフランス出身の人類学者レヴィ=ストロースの『野生の思考』という書。特に文化人類学者やリベラル系の人に言わせれば「戦後の思想における最大の転換点」となっており、いわゆる人文系に広げてみても、構造主義を生み出し、更にその後のポスト構造主義などの思想にもつながる端緒となったという点ですごく重要な一冊になっている。
内容をものすっごく要約すると「『事象の切り取り方』『概念の置き方』ひいては社会秩序の維持や幸福追求に対する考え方はどの文化においても根本的な構造は変わらず、表出の仕方、あるいは社会が持つ興味の向かう先と取捨が違うに過ぎない。あらゆる文明が進歩史観的考え方を持つわけではなく、発展を望む文化もあれば安定を望む文化もあるというだけ。栽培思考(=科学によって裏付けられ、概念を用いて行われる文明的思考)と野生の思考(=記号によって行われる思考。「野蛮な思考」ではない)との間に優劣があるわけではないし、一つの文化の中で両方の思考は両立しうるし、実際個人の中ですら両立している」といったもので、その歴史的意義は「20世紀半ばの西欧にはびこっていた進歩主義、特に西欧の文化を中心とする思考、科学技術を背景に自分達を上位に置こうとする考え方への批判を行ったこと」「しかし、だからといっていわゆる”未開文明”や自然主義を礼賛するわけではないこと」「文化を『仕組み(構造)』に置き換えて分析するツールとして学問の場に登場したこと」あたり。
「文化を構造的に捉え、それぞれの要素が社会の中でどう表出しているかを研究する」という所から後に『構造主義』と呼ばれる思想を生み出したことで有名。更に言えば西欧の奢りや発展途上国(昔は「後進国」と言われてたよね)への見下しを批判する流れを生み出したという点でも評価を受けている。
ザラブにしろメフィラスにしろ、コミュニケーションの初手は「自分の科学力、技術力を地球人類に見せつける」事から始まる。その科学技術力の差を背景に、劣等感と焦りを刺激して地球人同士を争わせようとするのがザラブであり、劣等感と無力感……謂わば絶望によって人類を心理的に支配し最終的に兵器として利用しようとするのがメフィラス。それらに抗うのがウルトラマンたるリピアくん、というのが中盤の流れだった。
物語の序盤で、わざわざ観客に見せつけるようにリピアくんがこの書を読んでいた(演出しての)理由はここにある……気がしなくもない。16世紀から20世紀……あるいは紀元前から現代に至るまで、我々地球人類が奴隷、植民地、後進国、押し並べて言うなれば『未開人(文明人/強者たる自分達とは構造的に違う考え方をする者)』である他者に対する接し方は、ザラブやメフィラスをそこまで強く批判できるような立派なものではなかった。
宇宙人ゾーフィもそう。彼が裁定を行使できる者・絶対者としての力を行使したのは「『未開人』である地球人類が、未開人のまま我々『文明人』並みの危険性を持つ可能性が出てきた」からじゃん。
使用を思いとどまったのも、リピアくんもといウルトラマンの意思や感情を汲んであげたのもあるけど、基本的には、地球人類がβシステムを自力で解析・利用し、グリッチじみた手法ではあるがゼットンを無力化せしめたことで「『未開人』から『文明人』に格上げされた」だけに過ぎない。
そんなゾーフィにもリピアくんは抗う、というのが終盤のストーリー。もちろん滅ぼされる我々としてはたまったものではないけれど、じゃあ地球人類の歴史において、他人、他国人、あるいは他の生命に対してゾーフィと似たようなことをしてこなかったか、を考えると……やはり「滅ぼされるのは困るからやめてくれ」くらいしか言えない。
逆に言えば、あの外星人や地球人の中でリピアくんだけが”変”なのよ。我々が他者と相対する時、普通はザラブとはいかんまでも、マイルドなメフィラスかゾーフィくらいの扱いになるし、そうでなくとも暴力や政治で言う事を聞かせてその力を利用しようとする各国政府みたいな事をする。地球人類とリピアくんとの科学技術の差や大きさの比で考えれば、虫か何かを前にした人間、の方が理解として近いかもしれない。
しかし、リピアくんは(各国政府ひいては人類の歴史の悪辣さを知りながらも)、あのネロンガ戦のたった一度、リピアくんの足下でただ一人リピアくんだけに見えた星のような輝き、小さな他者のために命をかけられる個、そういう価値観を共有できる群体のために命を張った。そういうことをできる生命体のことを知りたくて、知り続けるために守りたくて、学んで、感じて、支えて、何度か支えられて、それでも分からなくて、その果てに見つけた『他者のために命を賭けられる自分』。虫のような他者のために、ネロンガの電撃や、ガボラの激ヤバ光線や、メフィラスのグリップビームや、1兆度の火球の前に身体を晒せる者。ザラブにもメフィラスにもゾーフィにも、あるいは普通の地球人類の日常の中にもない”変”な価値観を持つ、だからこそ『ヒーロー』、ウルトラマン。
自分が今回の『シン・ウルトラマン』に感動したのはまさにここで、「ウルトラマンとはこういうヒーローなのだ」「我々がウルトラマンをヒーローだと感じてしまうのはこういう理由なのだ」を2時間かけてぶつけられたのがあまりにも気持ちよかったからなのだ。
結論から言うと「わからない」。それはリピアくんに対してという意味でも、『シン・ウルトラマン』という作品に対してという意味でも。
というのも、リピアくん、地球人類のことをめちゃめちゃ頑張ってお勉強してて(かわいいね)、ものすごい量の本を超速で読んでるわけで、『野生の思考』だけがリピアくんの人格形成や思想信念の確立に寄与しているかと言われれば、まあもちろんそんなことはないだろうという演出はなされてる。レヴィ=ストロースの思想だってその後にやって来たグローバリズム等の思想史において批判を受けてきたわけだし。
そもそもリピアくんがザラブやメフィラス、あるいはゾーフィから地球人類を守ろうとしたのは「我々と彼らの文明は構造的に違わない」という計算、あるいは知識を基にした思想や信念からではない。「彼らの事を知りたい」という知的欲求から来る寄り添い、ゾーフィが言うところの「好き」、米津玄師が言うところの「あこがれ」という感情こそが、リピアくんの力の根本なわけで。
文化人類学の中でも大きな意味を持つ書でもあるし、作中においても先の展開を示唆しかねないアイテムでもあるけど、知らずに見ていた人なら分かる通り、別にこの書が作品全体に超大きな影響を与えているかは正直微妙かもしれない。でも、知っておくと↑のような考察も楽しめるという点では面白いよ。
・本の内容は『シン・ウルトラマン』という作品に意味を落としているかもしれないし落としてないかもしれないよ
・それはそれとして読んでおいて損はない本だよ
以上
私もそう思う
その中でも「本人の人格形成にかかわらない生態的な反応で感想が発生している」
「くさい」「うるさい」「いたい」等感覚的なものと動作原理は同じ
「生物的に危機感を感じる」に近いけれども「危機感」という具体性や方向性を持たない負の感情
これにより
「生体的に負である」という「個人とかかわりのない感想≒同型の生物的に共通的な」にすり替えることができている
逆説的にそれを容認することは異端であり、人格形成など本人の能力によって補われる部分があり補われていることを異常性として指摘もできる
もちろんそんな存在でも存在している限り存在を容認されているし、そんな存在でも容認されることが福祉であり社会秩序や自由、人権といったものになるはず
福祉や人権と結びつけて肯定すると人格形成など知能的な部分であったり治療や矯正が可能な部分において異常性があると認めることができる
そこから引きはがすと生物的で原理的な部分で負の感情をもって否定することができる
救いがない表現だ
それはすなわち人にむけて使っていい言葉ではないだろう
法治国家では社会秩序維持のために、報復として正当な範囲であったとしても、個人が暴力による私刑を行うことを禁じているんだよ。
だからウィル・スミスの行為は『社会秩序に対する罪』にあたる。
『殴られたコメンテーターに対する罪』ではなくてね。
コメンテーターは殴られるくらいの報復を受けて当然だし、そこに異を唱えている人はそっちの方が(侮辱された人に対しての)人権意識が欠けていると思う。
あとは『社会秩序に対する罪』をどの程度の重さと捉えるかだけど、個人的には「まあ、あの状況ならカッとなるのもしょうがないでしょ、ドンマイドンマイ」程度のモノとしか思えないし、世の中的にもそんな流れになるんじゃない?
ドヤ顔社内喫煙注意ボコられボーイもそうだけど法律なんて眼前の暴力には無力でしかない。
そりゃ殴った奴はその後に逮捕されてそれなりの罰を与えられるけど、それは殴られた事実とトレードできない。
仮に「俺のこと殴ったら逮捕されるで~ww」と舐めた態度をとって相手を怒らせて
その当たりどころが悪くて失明してしまったら、相手が逮捕されてムショにぶち込まれたって
お前の失明した目が見えるようになるわけじゃない。
仮に死んだら相手が一生ムショで暮らそうがもうお前には何の関係もない。だって死んでんだもん。
クンニ危うきに近寄らずというが、実際にそう。
中国拳法の達人である宮平保先生も、ジークンドーインストラクターの石井東吾先生も
「護身が必要な状況に身を置かないことが本当の護身」と常々言っている。
ヤバいと思ったら一目散に逃げるのが吉。
車の使用は認められるという功利主義的な立場に立ちながら、一方で義務論的立場から死刑制度を否定するのは、そのときどきで都合よく立場を使い分ける二重基準だということを言いたいのだろう?
車の使用は認めらるという功利主義的な立場に立ちながら、一方で義務論的立場から死刑制度を否定するのは、そのときどきで都合よく立場を使い分ける二重基準だということを言いたいのだろう。
車の使用は認めらるという功利主義的な立場に立ちながら、一方で義務論的立場から死刑制度を否定するのは、そのときどきで都合よく立場を使い分ける二重基準だということを言いたいのだろう。
車の使用は認めらるという功利主義的な立場に立ちながら、一方で義務論的立場から死刑制度を否定するのは、そのときどきで都合よく立場を使い分ける二重基準だということを言いたいのだろう。
車の使用は認めらるという功利主義的な立場に立ちながら、一方で義務論的立場から死刑制度を否定するのは、そのときどきで都合よく立場を使い分ける二重基準だということを言いたいのだろう。
日本の刑法で刑罰として死刑が課されているのは以下だ(刑法以外での死刑も少しあるが割愛)。
罪名 | 刑法 | 保護法益 |
---|---|---|
内乱 | 77条 | 国家の対内的存立 |
外患誘致 | 81条 | 国家の対外的存立 |
外患援助 | 82条 | 国家の対外的存立 |
現住建造物等放火(致死の結果を生じた場合) | 108条 | 不特定又は多数の者の生命、身体及び財産 |
激発物破裂(致死の結果を生じた場合) | 117条 | 公共の安全、人の生命 |
現住建造物等浸害(致死の結果を生じた場合) | 119条 | 公共の安全、人の生命 |
汽車転覆等致死 | 126条 | 交通の安全、人の生命 |
水道毒物等混入致死 | 146条 | 公共の安全、人の生命 |
殺人 | 199条 | 人の生命 |
強盗致死・強盗殺人(故意殺の場合) | 240条 | 人の生命・身体 |
強盗・強制性行等及び同致死 | 241条 | 人の生命・身体 |
人の生命は、刑法における個人的保護法益のうち最重要の法益で、国家的法益(国家の存立)と同じぐらい重視されている。しかし、死刑はその「人の生命」を奪う刑罰である。「人を殺したら、その犯人を殺す」という報復原理(同害復讐の原理)は一見わかりやすいが、そもそも刑法が「人の生命」を至上の保護法益としていることとは矛盾した関係にある。死刑は、すでに有罪判決を受け、拘置所に収監され、これ以上他者の生命を危険にさらす懸念がなくなっている人間から、刑法自体が最大限に尊重し保護しようとしているはずの人の生命を奪う刑だからだ。
これは憲法36条(公務員による拷問や残虐刑の禁止)に反しており違憲であるという観点から、1948年の死刑制度合憲判決事件において最高裁大法廷で違憲審査がなされたこともある。当時の判決文は次の通りだ。
生命は尊貴である。一人の生命は、全地球より重い。…憲法第十三条においては、すべて国民は個人として尊重せられ、生命に対する国民の権利については、立法その他の国政の上で最大の尊重必要とする旨を規定している。しかし、同時に…もし、公共の福祉という基本的原則に反する場合には、生命に対する国民の権利といえども、立法上制限ないし剥奪されることを当然予想しているといわねばならぬ。そしてさらに憲法第三十一条によれば、国民個人の生命の尊貴といえども、法律の定める適理の手続によって、これを奪う刑罰を科せられることが、明らかに定められている。すなわち憲法は、現代多数の文化国家におけると同様に、刑罰として死刑の存置を想定し、これを是認したものと解すべきである…社会公共の福祉のために死刑制度の存続の必要性は承認されている。
「全地球より重い価値がある、尊貴なもの」を奪う刑罰が、「社会公共の福祉のために」正当化される。こういうインチキくさいレトリックは、この後も死刑肯定論の随所に顔を覗かせる。こういうインチキで辻褄を合わせざるを得なくなってしまうのは、結局は「人の生命」が個人的法益として最大限に尊重・保護されるべき尊い権利なのか、国家に従属する劣位の法益なのかが、刑法条文の自己矛盾によって曖昧になってしまっているからだ。
(いっそ死刑を存続する国家は「国家には生殺与奪権がある。国家の円滑な運営と社会秩序の維持のために、国家は施政権の及ぶ範囲に住む国民や住民の生命を恣(ほしいまま)にしてよい」と明言したほうがいいと思う。そのほうがずっとわかりやすいし、現実に即してると思う)
死刑制度を存置する国家では、「個人が他者の生命を奪うこと」と「国家が他者の生命を奪うこと」の倫理的な違いはぼんやりしたものになり、逆に両者の権力・執行力の違いが決定的な差として立ち上がってくる。国家というシステムは、国民と住民に対して法的な権力・執行力を持っているから、人を殺すことができる。個々の国民と住民は、国家の権力・執行力に従属しているから、人を殺して捕まったら国家に殺される(こともある)。このような制度は、「人を殺すこと」の意味と是非を、価値ではなく制度の問題、倫理ではなく力の問題に還元する。
死刑制度を存置する国家では、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いにきちんと答えることができない。「国が『人を殺すな、殺したらお前を殺すぞ』と決めているからだよ」「人を殺して捕まったら自分も死ぬから損だよ」という風に権力関係や因果関係を説くことはできても、それは「人を殺してはいけない」というモラルの根拠にはならないし、むしろ「一定の条件では人を殺すことが許される」ことを追認してしまうからだ。
死刑制度を廃止(または執行停止)しない国家に住み、その現状を受け入れている自分は、「なぜ人を殺してはいけないのか」という子どもの問いかけに「人を殺すと殺されるから」という損得勘定以外の答を返すことができない。それが嫌なこともあって、自分は死刑を廃止すべきだと思ってる。
なにしろ暴力というのは、人々が自分勝手に行使すれば、ときに人権を脅かし、社会秩序を乱し、それを収めるには軍隊や警察など、さらに強い武力が必要となってしまう。人間社会では、いかに人の持つ暴力性を抑え、あらゆる対立を非暴力的な手段によって理性的に解決する努力がなされてきた。
だから格闘技においても、暴力性をいかに否定し、大衆文化として認知されるかというのは、常に大きな課題なのである。朝倉やABEMA、スポーツ紙などに欠けているのはその認識で、格闘技に関わっていても、そもそも格闘技とは何で、どのような均衡の上に成り立っているのかという点を十分に考えていないように見える。
多くの格闘技はそれぞれルーツを辿れば血なまぐさい原点を持つ。プロボクシングもその原点は奴隷を死ぬまで戦わせる古代の見世物だった。原始的で野蛮なものが、社会が成熟する過程でスポーツとして整備されるのには、かなりの年月を要している。
歴史の古いボクシングは、かつて白人が黒人との対戦を拒否できる制度のために人種差別問題と無縁ではなかったり、プロモーターによる選手の独占的契約が「奴隷制度」と重なって、アメリカではこれを規制するモハメド・アリ法もある。五輪競技となるまでにも紆余曲折あり、良識派の人々から「暴力ショー」と見られることから、関係者たちは必死に自分たちの協議を守ってきた。
総合格闘技の変化
一方、朝倉がやっている総合格闘技についても、いま世界的な人気イベントとなったUFCでさえ発足当初はルールが整備されておらず、1993年の第1回大会は目潰し、噛み付きなど最小限の反則以外は自由で、無制限ラウンド、体重の階級制も判定決着もなかった。
そこで暴力ショーとの批判が各地で巻き起こり、アメリカ国内でも開催が許されたのは一部の州だけだった。実際、ケガ人も続出。日本でも初期UFCの影響下で行なわれた1995年の「バーリ・トゥード・ジャパン」では、中井祐樹が相手の反則で右目を失明した。
背景には、ポルトガル語で「何でもあり」を意味する大会名のために、大会がノールールの喧嘩マッチのようなイメージとなっていたことがある。いまほど格闘技が「スポーツ化」されていない時代には、ルールを守る意識の薄い格闘家がいたのだ。
結局、エンターテインメントの発展がうまいアメリカでは、UFCは、2000年に州のアスレチック・コミッションが指導した統一ルールに従って、28回目の大会から一気に「競技化」が進んだ。ルールが整備されると参加者が増え、喧嘩屋レベルの者が淘汰され、いまやプロボクシングに並ぶ人気イベントになった。
アメリカのコミッションは、日本のボクシング・コミッション(JBC)のような一財団法人ではなく、知事が責任者を選ぶなど行政下の組織で、強い権限を持つ。格闘技イベントの聖地、ラスベガスのあるネバダ州コミッションの責任者、ボブ・ベネット氏は元FBI捜査官で、力の差が大きいと判断したマッチメイクは、主催者が大手の組織でも遠慮なく却下した。
ベネット氏は「とても危険な職業なので、できるだけ安全にするのが我々の義務」と語っていた。アメリカであれば、朝倉と素人の喧嘩ショーは、コミッションが開催許可をしなかったはずだ。
元増田さんは、「人間はより優れた人がいたら、その人に浮気する」という根源的な欲求の観点から考えている。
一方で、最近の人間は「(社会秩序を守るための)家族制度を維持するために、浮気を民法で言及したほうが、色々都合がいい」と、「理屈の世界」で本能と反する決め事をしているので、元マス君は違和感を感じているのだと思う。
(対象を既婚者、と想定すると)人間の子育てには手がかかるし、多くの人が複数人と関係を持つと感染症リスクも指数関数的に高くなる。他にも家族という単位ですることでいろいろなことが効率化する。
だから、安定した社会には家族制度は効率的。それを維持するのに不貞行為を違法と定めたんだと思う。
次に、互いに浮気に合意している夫婦という特殊ケースは横において考える。
この民法は本能に反しているので、個人がより幸福になるため、「バレない」にBetして浮気するのも、それもまた個人の自由と思う。結果、失敗した(=バレた)として、そのときは結果を甘んじて受け入れよう。それはそういうルールの上でゲームをしているのだから。民法なので牢屋に打ち込まれることはないが、子供に会えなくなっても文句は言えない。
全盲でありながら耳も全く聞こえないし話すことも全く出来ない知的障害まで負っている。
そのため親に介助して生きていたという人が親に先立たれたも、まず親の死を認識できないかもしれない。どこかに出て行ってしまったと思うかもしれない。
ここから弱り目に祟り目としてこの障害者に待ち受ける悲劇は三つ。
これがシングルマザーの子供(5歳)という立場でその母親が亡くなったという場合なら、その子供は十分な哀れみのもとで保護されることはあっても「被疑者として」事情聴取を受けることはありえないだろうし、実名報道されたり被疑者として自由を奪われることもないだろう。
見た目で子供と判断して被疑者扱いしないのであれば、同じように見た目で到底親の死が認識できないレベルの障害者と判断するなら被疑者扱いするべきではない。
子供かどうかも結局は戸籍等書類と照会しないと確かなことはわからないのだろう。小人症かもしれないし。
でも引きこもりで親が死んで死体遺棄で逮捕されている事例が多数ある。なかには障害者ゆえに引きこもりというカテゴリーに収まるしかない人もいるだろう。
それでも見た目で子供と分かる場合以外では逮捕してしまう。日本は逮捕されると即報道機関にFAXが送られるシステムになっているため逮捕とは同時に報道対象になるということである。
子供に見える場合と同じように「逮捕前に」障害者手帳の有無とか調べてあげるべきなんじゃないの?
八尾市母子餓死事件は別に子供が犯罪者として報道されてはいない。死んでるからかもしれない。
しかしそうだとすると、親の死後即座に通報できないような障害者に与えられている選択肢は、死ぬ代わりに犯罪者の誹りを受けないか、生き延びる代わりに一瞬でも実名や顔写真を報道されて一生近隣等に陰口を叩かれるような立場に立たされるかの二つに一つであるということになる。
つまり逆にいえば八尾市事件の子供がもし餓死する前に発見されていたら普通に犯罪者として実名報道されていたかもしれないのだ。理不尽このうえない。
なんか事件があったら近隣住民でも事情聴取を受けることはある。事情聴取イコール被疑者であることを前提として事情を聴いているのではない。
しかし死体遺棄に関する同居人に対する事情聴取というのはまずはなから著しくこいつは被疑者である可能性が高いと見積もってきてるわけだろう。
個人個人に犯罪者と疑われることに対してまで問題視してはきりがない。それはもう単なる内心の問題なのだから。
しかし打ち切った事件に対して一捜査官に本当は犯人なんじゃないかとか思われるようなことじゃなくて、こういった事例に対して警察組織の正式な意思として捜査官たちに疑われるようなことがあるならば、それはそういう仕組みに問題があるものとして糾弾や改善がされるべきだと思う。
たとえば10月13日に静岡県で死体遺棄事件として引きこもりが逮捕されている。
8日に引きこもり自ら119番に通報し、発覚しているということで、逮捕までに5日の期間がある。
死後4日経っているという報道内容があったので、これはその5日間の間に調べたことなのだろう。
つまり警察ははなからこの引きこもりを疑ってかかり、検死の結果4日経っていたということがわかったので放置とみなし逮捕したということだろう。
しかし4日程度逡巡としてありえるものとして見逃してくれてもいいものではないだろうか。もう弱い者いじめして実績あげたいだけなんじゃないの。
だいたい死体遺棄のお題目というのがまず「国民の一般的な宗教的感情」の社会秩序としての保護とかいうのであるのだが…
世の中でどれぐらい引きこもりの死体遺棄があるのか、報道されたもの以外については調べること自体できていない。
つまり報道されてはじめて国民に存在を認知されるようなものでしかないのに、その国民の感情を保護するとはどういう論理なのだろう。
保護したいのならば報道しないようにする、つまり埋葬義務者が死体を放置していたということについて警察発表を行わないようにするだけでよい。
わざわざ犯罪として定義したり裁かなくても保護することはできるわけだ。
それ以前に感情と秩序を結びつけてるのも引っかかる。何かについて人々がどう思うかというのは時の経過で自ずと変わってくるものだ。
保護するというのはそういった変質に対して人為的に介入して防ぐということである。「保護」してなければ死体遺棄に対する国民感情はとっくにポジティブになっていたかもわからない。少なくとも火葬や散骨以外の埋葬方法(剥製にするとか)にも許容するような気質になっていたかもしれない。
感情を秩序として保護、という名で管理するから、いたずらに旧守され何も考えない人や老害ばかりが居心地よくそうでない人が息苦しさを感じる世の中になるのではないか。感情を保護するから、罰するべき基準となる感情自体が変わらない。これは、その時代時代に応じて多くの人が不快に感じるものを罰するというのとは訳が違う。多様性に対する強い規制に他ならない。(規制の仕方の構造が刑法175条と似たところがある)
価値観の多様性を理解できない独裁者の法律なのである。タイムスリップできるならばこんな条項作った人に文句言いたい。
衛生上の意義もあるという学説もあるが、それだったらまずごみ屋敷を煽り運転とかと同じく法制化して罰するようにしないと公平じゃないと思う。
死体遺棄も罰してごみ屋敷の罰するならまだ筋が通るというわけである。しかしそもそも死体を放置して具体的にどんな病気のもとになるというのだろう。別にコロナ並みの感染症が流行るとかでもないんじゃないのか。悪臭が不快になるという話ならまず豚とか育ててる農家の近くに住んでる人はみんなその農家を罰してほしいと思ってもおかしくないな。ようは何が言いたいかというと衛生面でみても死体遺棄は罰するほどのことじゃないと思うわけ。
最近話題になってるけど、トンチンカンなブコメが散見されるので書かせて欲しい。
信仰の自由とか信仰の告白とかは一切関係ない。統一教会は「この世に存在してはならないと断言できる数少ないもの」の一つである。
二束三文の壺を高価で売りつける「壺売り(霊感商法)」や、信者になったが最後どこの誰ともわからないやつが決めたどこの誰ともわからないやつと結婚させられる「合同結婚式」くらいはきいたことがあるだろう。
壺は金で片がつく話だからまだマシだろうが、「合同結婚式」はずっと悲惨だ。身内が一人でも信者になってみろ。どこの馬の骨ともわからない親戚がゴキブリのように増えていく。小室家のほうが無限にまともだよ。
いや変な親戚が増えるだけならまだいい。しばしば日本女性が韓国人と結婚し、韓国で一人孤立して生活させられるという被害が起きている。なんで奴らがわざわざこんなトラブルの種になるようなことをしているか知っているか?それは
「日本が朝鮮半島を植民地支配したことは、連帯罪として日本人すべてが背負っているとされる。彼女たちの連帯罪は、夫や夫の家族に尽くすことによって清算されるという。」
(出典:https://core.ac.uk/download/pdf/143633234.pdf cf. https://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-05-11/2010051114_01_1.html)
というとんでもない教義を持っているからだ。意味わかるか?何回読み直しても一ミリも理解できない。慰安婦や徴用工の訴訟なんてまだ百万倍も理性的じゃないか。
あなたの兄弟や子供がこんな教えを信じ込んで農村部で言葉も通じない「親戚」にこき使われる生活を送ってもいいのか?そんなことが起きないようにするためには統一教会とその信者共を社会から追放するしかない。
信者とは付き合わない。会話もしない。目も合わせない。これしかない。
もちろん、不幸にもフロント企業と関わりを持ってしまうことはあるかもしれない。奴らは自分たちの反社会性をよく知っていて、社会に溶け込もうとする。しかし、もし関わりを持ってしまったならば弁明の必要があるのは当たり前である。
そこには信仰の自由や信仰の告白などは一切ない。先の慰安婦で例えれば、統一教会関係者は朝鮮半島で年端も行かない子供を親から買った女衒−しかも「朝鮮人の女衒」−であろう。こんなゴキブリ共に与する言説は冗談でもとってはいけない。
確かに日本国憲法は信仰の自由を保証している。一方で社会秩序、「公共の福祉」のために基本的人権が制限されうる可能性も言及している。統一教会は社会にとって存在してはならない団体である。信仰の自由は適用できない。
そもそも、どこの大学でも身元を隠して勧誘するサークルは「革マル派」「中核派」「統一教会」の三種類しかいないと相場が決まっている。「革マル派」「中核派」が社会転覆を企む反社会団体であることはよく知られている。
逆に言えば、統一教会も「革マル派」「中核派」と同じくらい社会転覆を企む反社会団体なのである。奴らはそれを知悉するからこそ身元を隠してサークル勧誘をするのだ。
統一教会を暴力団に例えるブコメもあったが、自分たちが社会の日陰者であるとわかっている暴力団よりもずっとたちが悪い。奴らは真の反社に他ならない。
確かに、元になったノートは根拠薄弱すぎて陰謀論と言われるのは仕方ないだろう。しかし、公人ならば統一教会を擁護するような言説を少しでも公の場でしてはならない。
壺三と揶揄される安倍晋三ですらここまで統一教会に言及したことはない。あそこまでの発言をしたなんとか氏はとんでもない世間知らず、あるいは反社会団体統一教会の信者であると言われても仕方がない。