2021-11-29

朝倉未来の「喧嘩マッチ」が、格闘技関係者から「苦々しく見られている」ワケ

 なにしろ暴力というのは、人々が自分勝手行使すれば、とき人権を脅かし、社会秩序を乱し、それを収めるには軍隊警察など、さらに強い武力必要となってしまう。人間社会では、いかに人の持つ暴力性を抑え、あらゆる対立非暴力的な手段によって理性的解決する努力がなされてきた。

 だから格闘技においても、暴力性をいか否定し、大衆文化として認知されるかというのは、常に大きな課題なのである朝倉やABEMA、スポーツ紙などに欠けているのはその認識で、格闘技に関わっていても、そもそも格闘技とは何で、どのような均衡の上に成り立っているのかという点を十分に考えていないように見える。

 多くの格闘技はそれぞれルーツを辿れば血なまぐさい原点を持つ。プロボクシングもその原点は奴隷死ぬまで戦わせる古代見世物だった。原始的で野蛮なものが、社会成熟する過程スポーツとして整備されるのには、かなりの年月を要している。

 歴史の古いボクシングは、かつて白人黒人との対戦を拒否できる制度のために人種差別問題と無縁ではなかったり、プロモーターによる選手の独占的契約が「奴隷制度」と重なって、アメリカではこれを規制するモハメド・アリ法もある。五輪競技となるまでにも紆余曲折あり、良識派の人々から暴力ショー」と見られることから関係者たちは必死自分たち協議を守ってきた。

総合格闘技の変化

 一方、朝倉がやっている総合格闘技についても、いま世界的な人気イベントとなったUFCでさえ発足当初はルールが整備されておらず、1993年の第1回大会は目潰し、噛み付きなど最小限の反則以外は自由で、無制限ラウンド、体重階級制も判定決着もなかった。

 そこで暴力ショーとの批判が各地で巻き起こり、アメリカ国内でも開催が許されたのは一部の州だけだった。実際、ケガ人も続出。日本でも初期UFCの影響下で行なわれた1995年の「バーリ・トゥードジャパン」では、中井祐樹相手の反則で右目を失明した。

 背景には、ポルトガル語で「何でもあり」を意味する大会名のために、大会がノールール喧嘩マッチのようなイメージとなっていたことがある。いまほど格闘技が「スポーツ化」されていない時代には、ルールを守る意識の薄い格闘家がいたのだ。

 結局、エンターテインメントの発展がうまいアメリカでは、UFCは、2000年に州のアスレチックコミッション指導した統一ルールに従って、28回目の大会から一気に「競技化」が進んだ。ルールが整備されると参加者が増え、喧嘩レベルの者が淘汰され、いまやプロボクシングに並ぶ人気イベントになった。

 アメリカコミッションは、日本ボクシングコミッション(JBC)のような一財法人ではなく、知事責任者を選ぶなど行政下の組織で、強い権限を持つ。格闘技イベント聖地ラスベガスのあるネバダ州コミッション責任者、ボブ・ベネット氏は元FBI捜査官で、力の差が大きいと判断したマッチメイクは、主催者大手組織でも遠慮なく却下した。

 ベネット氏は「とても危険職業なので、できるだけ安全にするのが我々の義務」と語っていた。アメリカであれば、朝倉素人喧嘩ショーは、コミッションが開催許可をしなかったはずだ。

これを見る限りは、手塚治虫の描いた「火の鳥 生命編」でのクローン人間虐殺ショーの世界線は起こらないようだな。

手塚先生あの世で喜んでいるだろう。

  • もっとも、それに一番近いことがウイグルやチベット、モンゴル、香港で起きているのだが。

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