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2021-12-28

死刑制度について思うこと

日本刑法刑罰として死刑が課されているのは以下だ(刑法以外での死刑も少しあるが割愛)。

罪名刑法保護法益
内乱77条国家対内的存立
外患誘致81条国家対外的存立
外患援助82条国家対外的存立
現住建造物放火(致死の結果を生じた場合108条不特定又は多数の者の生命身体及び財産
激発物破裂(致死の結果を生じた場合117条公共安全、人の生命
現住建造物等浸害(致死の結果を生じた場合119条公共安全、人の生命
汽車転覆等致死126条交通安全、人の生命
水道毒物等混入致死146条公共安全、人の生命
殺人199条人の生命
強盗致死・強盗殺人故意殺の場合240条人の生命身体
強盗強制性行等及び同致死241条人の生命身体


人の生命は、刑法における個人的保護法益のうち最重要法益で、国家法益国家の存立)と同じぐらい重視されている。しかし、死刑はその「人の生命」を奪う刑罰である。「人を殺したら、その犯人を殺す」という報復原理(同害復讐原理)は一見わかりやすいが、そもそも刑法が「人の生命」を至上の保護法益としていることとは矛盾した関係にある。死刑は、すでに有罪判決を受け、拘置所収監され、これ以上他者生命危険さら懸念がなくなっている人間から刑法自体が最大限に尊重保護しようとしているはずの人の生命を奪う刑だからだ。

これは憲法36条(公務員による拷問や残虐刑禁止)に反しており違憲であるという観点から1948年死刑制度合憲判決事件において最高裁法廷違憲審査がなされたこともある。当時の判決文は次の通りだ。

生命は尊貴である。一人の生命は、全地球より重い。…憲法十三条においては、すべて国民個人として尊重せられ、生命に対する国民権利については、立法その他の国政の上で最大の尊重必要とする旨を規定している。しかし、同時に…もし、公共の福祉という基本的原則に反する場合には、生命に対する国民権利といえども、立法制限ないし剥奪されることを当然予想しているといわねばならぬ。そしてさら憲法第三十一条によれば、国民個人生命の尊貴といえども、法律の定める適理の手続によって、これを奪う刑罰を科せられることが、明らかに定められている。すなわち憲法は、現代多数の文化国家におけると同様に、刑罰として死刑の存置を想定し、これを是認したものと解すべきである社会公共の福祉のために死刑制度の存続の必要性は承認されている。



「全地球より重い価値がある、尊貴なもの」を奪う刑罰が、「社会公共の福祉のために」正当化される。こういうインチキくさいレトリックは、この後も死刑肯定論の随所に顔を覗かせる。こういうインチキで辻褄を合わせざるを得なくなってしまうのは、結局は「人の生命」が個人的法益として最大限に尊重保護されるべき尊い権利なのか、国家従属する劣位の法益なのかが、刑法条文の自己矛盾によって曖昧になってしまっているからだ。

(いっそ死刑を存続する国家は「国家には生殺与奪権がある。国家の円滑な運営社会秩序の維持のために、国家施政権の及ぶ範囲に住む国民住民生命を恣(ほしいまま)にしてよい」と明言したほうがいいと思う。そのほうがずっとわかりやすいし、現実に即してると思う)

死刑制度を存置する国家では、「個人他者生命を奪うこと」と「国家他者生命を奪うこと」の倫理的な違いはぼんやりしたものになり、逆に両者の権力執行力の違いが決定的な差として立ち上がってくる。国家というシステムは、国民住民に対して法的な権力執行力を持っているから、人を殺すことができる。個々の国民住民は、国家権力執行力に従属しているから、人を殺して捕まったら国家に殺される(こともある)。このような制度は、「人を殺すこと」の意味と是非を、価値ではなく制度問題倫理ではなく力の問題還元する。

死刑制度を存置する国家では、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いにきちんと答えることができない。「国が『人を殺すな、殺したらお前を殺すぞ』と決めているからだよ」「人を殺して捕まったら自分死ぬから損だよ」という風に権力関係因果関係を説くことはできても、それは「人を殺してはいけない」というモラル根拠にはならないし、むしろ一定の条件では人を殺すことが許される」ことを追認してしまうからだ。

死刑制度廃止(または執行停止)しない国家に住み、その現状を受け入れている自分は、「なぜ人を殺してはいけないのか」という子どもの問いかけに「人を殺すと殺されるから」という損得勘定以外の答を返すことができない。それが嫌なこともあって、自分死刑廃止すべきだと思ってる。

2021-11-14

リベラル派は敗北を認めよ

メディア報道とは異なり、選挙リベラル派がかなり善戦したことはよくわかっている。

このことに異議を申し立てるつもりはさらさらない。

しかし、リベラル派はこの20年が自分たちにとって「失われた20年」だったことを認め、総括すべきではないか

なぜ20年なのかというのは、ほぼ20年前に1度目の敗北を、10年前に2度目の敗北をしているからだ。

1度目の敗北は1999年国旗国歌法を成立させてしまたことだ。

これによって右派政治的な足掛かりを得ることになり、日の丸君が代の下での戦前侵略行為への反省とそれに基づくリベラルデモクラシーという戦後の枠組みが大きく揺らいだのは間違いないだろう。

その後、リベラル派は何をしてきたのか。後退戦である

日の丸君が代国旗国歌とされたことそのものに異議を申し立てる論者は圧倒的に少なくなり、国旗国歌は従前よりも格段に神聖視されることになってしまった。

リベラル派は国旗国歌を前提としつつ、そこからの退出の自由を主張し続けるしかなくなっていったのである

しかし、同調圧力の強いこの国で、しかもこれまでリベラル派の間でも共有されてこなかった「退出の自由」などが容易に認められるということはあり得ない。

結局、退出の自由という最後の砦すらいとも簡単に崩されてしまい、右派言説に対抗することはもはや不可能になっている。

2度目の敗北は2010前後SNSを普及させてしまたことだ。

SNSの外、つまり家庭や学校民主主義的な実践が行われている欧米諸国であればともかく、小学校から大人になるまで、そして大人になった後でも続く同調圧力に基づく奴隷教育を受け続けて奴隷根性がよくできたおでん大根以上に染み付いた日本SNSが普及するということがどういうことなのか、リベラル派には想像ができなかった。むしろリベラル派はSNSでこそ自分たち意見が広まるという期待すらあった。奴隷根性の染み付いた人たちがそんな意見に触れても簡単に変わるわけはないだろう、と私は当時からSNSを冷ややかに見ていたが、思った通りだった。

SNSが普及したことによって、もともと1000字程度の新聞記事すらまともに読めない多くの日本人は短文でのやり取りに慣れきってしまい、長い文章をもはや書くことはおろか読むことすらできなくなってしまった。その結果、SNSでは真実でなくても短文でわかりやすく、自分の信じたいことが書かれているストーリーけが受け入れられるようになっていった。リベラル派の言説はもともと短文で理解してもらうのは容易ではなく、SNSでの情報発信は不利を極めているのはこの前の選挙を観ても明らかだ。10年前にSNSの普及を阻止できていれば、あるいはSNSでの差別的投稿デマを取り締まる規制リベラル派が主導となって作れていれば(民主党政権であれば作れる可能性はあった)、今の世の中は少しは変わっていただろう。

リベラル派は20年間敗北し続けてきたという事実に向き合い、この先20年で自分たちに何ができるのかを真剣模索しなければならないだろう。

もはや日本国内にリベラルが定着する素地はすぐには見当たらないので、先進諸国との協力も必要になるだろう。

中国に対抗するためにはリベラル価値観の共有が必要だ」というアピール日本国内外で地道に発信し続けるということしかリベラル派が生き残れる道はない。

これすらできないようでは、10年もたたないうちに日本リベラル派は消滅することになることは間違いない。その先にあるのはシンガポール南米東欧のように対外的にはリベラルを謳うが対内的には独裁腐敗国家と変わらない将来だ。

2019-06-17

イラン会談についていい加減なことをいう人が多すぎる

イラン側がなぜ会談を求めたか

親米大国に対し話し合いで解決する努力をしています、という写真のため。

対内的には、対米交渉路線に歯向かうのは、日本の顔にも泥を塗ることになるぞ、というアピール

日本にそんな大きな役割期待してる可能性はないと思われる。

だってアメリカ側に準備がなんもできてないんだもん。

②なんで日本なのか

本来イラン外交で出てくるべきイギリスが、現状なにも信用ならないか

日本にとって交渉を受けるメリット

そんなにないけど代議制の党代表選挙前に大物と会うのはちょうどよい仕事してるアピール

対米融和路線西側として望ましい路線であり、断ってしまうとまずいメッセージを与えかねない

基本的イラン側にしか得がないけど、参院選前にちょっとこない?っていわれて、望ましい路線からほーいって行ったのが今回の会談。あ、日本をまだ大国だと思ってくれてありがとう、ってところはあるかもしれない。

正直批判するべきところはないと思える。

外交なんて会って握手するのが仕事でしょう、9割。

そこに下手に意図を見出す人々、のきなみイランに失礼だと思われる。

2018-04-13

新社会人諸君なら知ってて当然問題

社会人になると、合法的、かつ間接的に他人を殺さなければなりません。これは、対外的には競合他社を滅ぼすこと、対内的には仲間を蹴落として出世レースを勝ち上がることを意味します。ビジネスは仲良しごっこではありません。利益を追求することの真の意味を考えて下さい。

 
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