自分の正しさばかりを主張するひとにあった。
信用が「押し問答」のなかで失われつつあるなか、かろうじて互いの理性でギリギリ関係が成立している状態。それを横で部外者として話しを聞いていた。
ある組織が提供しているサービスを利用しているその女性は「話しが違う」という趣旨のこと延々と主張していた。かたや組織の人間は「そんな約束はしていないしそれを証明する方法も無いでしょ?」ということをやんわりと伝えていた。
恐らく法律的に組織側に瑕疵がある部分はなく、誤解を生んだ言い回しは希望的観測の範囲内の発言だったと言える感じ(とはいえそれが原因だから問題と言えば問題だが)。
一方女性の主張は、「自分が何を信じて行動し、それが信じた通りにならなかったことによってどれだけの不利益が合ったか」といった趣旨のことを延々と述べていた。結構冷静に。
サービスを提供している側としては、その女性はお客さんだ。だからその部分を加味して、当然直接的な言い方は出来ない。そしてその女性は「その歯切れの悪い部分」に突っ込みを入れる。「誤解を生むようなことをいうひとの責任が云々」みたいな。。
この女性に決定的に掛けているのは「自分を客観的に見る視点」だと思う。
世の中には悪いやつに騙されたとしても「騙される自分に隙があったのだ。それがそもそもの原因だったのだ」と考える人も少なからずいる。もちろんそう考えるからといって、人を騙したやつの罪が消える訳ではない。問題は騙された側の心の「ありよう」だ。責任の所在やトラブルの原因を他者に求めるのは比較的容易だ。泥棒にも三分の理、ということわざもあるくらいだ。
自分の価値。それは他者によって決められる。これは「せかいにひとつだけの花」の唄の歌詞のようにはいかない。ありのままで価値を持っているものなどこの世には存在せず、価値は「見いだす人」がいて初めて価値になる。ちょっと考えれば子供でも分かる話しだ。
この女性は、自分の価値に対して揺るぎのない自信を持っている。それは人が通常生きるうえで必要な「自信」とは、別なものになっていると感じた。
「自信」は自分を支えるのに使うものであって、何かを攻撃するためのものではないはずだ。これは推測になるが、この女性はいままでずっと「自分を守るための道具」を「武器」として使い、社会と向き合ってきたんだと思う。そしてそれをそうやって使うことにより、多くの成果を得ることに成功しているのかもしれない。(他者と違うアプローチをすると、得てして良い結果を得やすいものだ)
正直醜いと思った。
自分を客観視できない醜さ。そしてその醜さにも気づかず、当然それを背負う気概もなく、ただただ問題の原因を他者に押し付ける主張を続ける。醜い以外のなにものでない。
ちなみに当の本人、外見はすこぶる美人だった。