はてなキーワード: ハンターとは
男女に関するステレオタイプと思い込みで好き勝手に作られた男女神話が凄い。悪い意味で。
その神話とは体系だててすべて語られるわけではなく、部分的に語られることが殆どであるが纏めると次に示すような一本の物語となる。
国によって違いはあるだろうが日本においてはこのような神話である。
1 動物とはオスが狩りをしてメスが育児をする本能で動いている世界である。
2 人類も例外ではなく古代の人間は男性が狩りに出かけ、女性が家に残り育児などを行っていた。
3 その歴史の中で男性と女性はそれぞれ違う進化を遂げた。男性脳と女性脳でありまた解決脳や共感脳、趣味などの好みの違いなどの類である。
5 その為に女性は子ども好きな傾向や育児に対して能力が高い傾向がある。
7 特に乳幼児期においては母子関係が重要である。これは父子関係では代替できないものである。
8 これらの本能は成人期においても働く。例えば結婚相手として男性は年収を求められ、女性は若さを求められる、女性の専業主婦希望が多いなどが例である。
9 日本において歴史的に夫が外で稼ぎ、妻が家を守っていたのはこのような生物学的なものである。
10このように男女で役割が異なるため同性愛は生物として異常である。
しかしそもそも一行一行が全て科学的根拠がない思い込みである。
1 オスが狩りをしてメスが育児をするは絶対ではない。ライオン、ヨザルなどの例がある。
2 科学的根拠がない。男性が狩りに出かけていたというのは実は推測である。最近では、大型動物ハンターには女性も多かったのではないか?という研究も出てきている。
4 科学的根拠がない。母性本能は俗に言われているだけの話である。母性は生物学的話でも医学的話でもない。
5 科学的根拠がない。女性にそれらの役割を押し付けられたという話ならばそういう傾向は出るだろうが男女とは関係がない。
6 科学的根拠がない。単に母親が中心になって育児をしていた結果を疑う方が自然。
8 科学的根拠がない。
9 科学的根拠がない。それに夫が外で稼ぎ、妻が家を守る固定的性別役割自体歴史が長いわけではない。
10科学的根拠がない。
止めよう性差別
止めよう疑似科学
今時これを信じている人がどれだけいるかについて。
全部を信じていなくても部分部分ではネットで未だに見かけますね。
これらを神話に含めたつもりはありません。
1人でゲーセンで遊んで帰ろうとしたときに、裏路地で急に20代半ばぐらいの女に「きみ童貞?」って聞かれて
見栄を張ろうかとも思ったけど金の斧銀の斧的な発想で「まあそうっすね」と答えたら
「やりたい?」って聞かれて、「させてくれるなら」って言ったらそのまま近くのホテルに連れて行かれて本当にセックスさせてくれた
心臓が口から飛び出しそうだったけど、こんなチャンスないと思って、2時間かけて一発を3回繰り返して6時間ずっとセックスしてた
がっつき過ぎたのか、童貞ハンターだったのかは知らんけど、連絡先は聞いても教えてくれなかった
その後1週間ぐらいに渡って、謎の全能感みたいな感覚に囚われて本当ある意味神秘体験だった
それがいまだに忘れられない
いつも見てる街並みがきらびやかに見えて、この世は素晴らしいもので溢れているんだという謎の確信
空が高く綺麗に見えてこの空が世界中に繋がっているんだという謎の空想
その時の感覚がいまだに忘れられない
なまじっか今まで生き延びてきてしまった運が良かっただけの歩きスマホマンの最終進化系みたいのがあった。
マジで怖い。
周りは一切見ない。
本当に集中している。
怖い。
現実の中にいない。
アイツらこそが都会に潜むモンスター。
読んでる人には説明不要だから読んでない人にざっくり説明すると
アニメも絶好調の少年ジャンプ連載大人気漫画呪術廻戦の展開にウンザリしてるって話。
作者の力量やセンスは疑ってないんですけど
なんかこう、大漫画家・岸本斉史の提唱した高等テクニック「ずらし」を乱用し過ぎてる気がする。
主人公達に苦しい展開があるとかギリギリの場面があるとかじゃなくて
もうずーーーーっと強制負けイベントの連続って感じなんすよね。
・主人公は敵の親玉が自分の目的のために生み出した装置みたいなもん
・ナルトにとってサスケに当たるサブ主人公は九尾の狐的存在に体を乗っ取られる
・サスケの唯一の目的は姉を守ることだったけど九尾の狐的存在によって殺害される
・主人公達の先生で最強の存在もサスケの身体の九尾の狐的存在によって殺害される
・日本は完全に破壊されてて敵の親玉による人類補完計画的な何かが進行しててたぶんみんなイデオンみたいになる
・サクラちゃん的な存在は顔の半分と脳が吹っ飛んでギリ生きてるらしいけど出てこない
・主人公の先輩女子は全身ケロイドで片目失ったうえに親含めて親族を皆殺しにした
・(あとこの倍ぐらいなんかあったけどもう飽和してて覚えてない)
主人公チームにはずーっとこういう敗北とか喪失とかアンモラルだけがぼへーー――ッて続いてて
一般人は普通に大虐殺されてて、カカシ先生死んでサクラちゃん廃人でサスケの姉死んでサスケも破滅してて
いやこれなんのために戦ってるの?って感じなんだよね。
一応まだ人数的には一般人が残ってるけど
設定的にはともかく感情的には一般人守るってことがそれほど重要なミッションでもなくてさ。
「人類の為に俺達はあきらめないぜ!」みたいなノリでもないわけ。
なんか一個一個は本来もっとショッキングなイベントの筈なんだけど
ずーーーーっとそういうイベントばっかだからもう何も感じずにウンザリがあるだけ。
それでしょっちゅう主人公が色んな相手から嘲笑われてるんだけど
実際主人公はこの戦いの中では無能すぎて「お前なんでいるの?」 レベルで
とっくに読者も誰1人として主人公に期待してないわけ。
いやーここから覚醒パワーアップされても引くし(ずっと馬鹿にされてたヤムチャが突然悟空より強くなっても寒いだけで燃える人いないでしょ)
このまま最後まで嘲笑われて翻弄されてる主人公でも「一体何を見せられてるんや?」って感じだし
作者のバトルやエモ描写の力量は突出してるんだけど呪術廻戦と言う漫画にはもうかなり前からついていけないというか。
あと余談だけどハンターの真似をした頭脳系能力バトルしようとするとマジで大惨事になる。
『万物の黎明』の中心的なアイデアは挑戦的だ。人間とは政治的に冒険的で実験的なものであり、自由と平等の呪縛の後に、変化を起こすために抑圧を選ぶ傾向があると言われるほどである。歴史は、ある極端なものと次の極端なものの間を揺れ動く、リズミカルな形をとっている。しかし近年、私たちは皆、ひとつの体制から抜け出せなくなっており、その理由を理解しようと努めなければならない。
これらすべては新しく新鮮ではあるが、信用できるものではない。私は、私たちの人間性を規定する政治的本能や社会的感情は、平等主義という条件の下で形成されたという人類学的な標準的見解の方を好む。今日に至るまで、私たちは皆、対等な仲間の中で笑ったり、遊んだり、社交したりできるときに最もリラックスし、幸福を感じる。しかし、グレーバーとウェングロー(以下、G&W)は、このような私たちに馴染み深い経験を土台にする代わりに、狩猟採集民の祖先が平等主義者であったという考え方全体に反対している。彼らの見解では、彼らは抑圧されることを選択した可能性が高い。
彼らの言葉を借りれば、「われわれの人間性の本質が、われわれが自意識的な政治的行為者であり、したがって幅広い社会的取り決めを受け入れることができるという事実から成り立っているとすれば、人類は歴史の大部分にわたって、実際に幅広い社会的取り決めを探求してきたはずだということにならないだろうか」。これらの可能性の中には、著者たちが容易に認めているように(86-7頁)、チンパンジーのような虐待的な支配階層も含まれている。G&Wは、もし我々の祖先がそれほど冒険好きであったなら、きっと平等主義だけでなく、攻撃的でいじめっ子のオスによる嫌がらせや虐待、支配も実験しただろうと主張しているようだ。
G&Wは、私たちが革命の過程で社会的、道徳的に人間になったという考えに対する一貫した攻撃の中で、これらの点を指摘している。私はずっと、人間の言語、意識、親族関係、道徳は漸進的な進化の過程で進化し、それが巨大な社会的・政治的革命で頂点に達したという考えを探求してきた。私の動機は常に、人間は本来利己的で競争的だから社会主義は不可能であり、「革命でさえ人間の本性を変えることはできない」という一般的な偏見に挑戦することであった。
私はいつもこう答えていた。そう、私たちは類人猿の一種である。そう、私たちは霊長類のいとこたちのように、競争的で利己的、攻撃的でしばしば暴力的な本能を持っている。しかし、それが私たちの成功の原因ではない。優秀な母親や父親になる能力、自分の子供だけでなく互いの子供を思いやる能力、道徳的なルールを確立する能力、他人が自分を見ているように自分も見ている能力、音楽、ダンス、言語を使って夢を共有する能力など、私たちの本性にまつわる人間的な特徴すべてが、まさに歴史上最も偉大な革命の産物であり、成功した革命なのだ。
この「人間革命」の複雑さを詳述した私自身の著書(Knight 1991)が出版されてからほぼ10年後、人類学者のクリストファー・ボーム(Christopher Boehm)は、その洞察にもかかわらず、最も重要な要素であるセックスとジェンダーの力学についての言及を一切省くことで、政治的な観点から安全策を講じた理論のバージョンを発表した(1999)。G&Wが人間革命理論の信用を失墜させるために明示的に言及するのに十分安全だと考えているのは、この抽象的でユニセックスなバージョンなのである。
ボームは、私たちの最も古い祖先は、一方的な協力者でも一方的な競争者でもなかったと指摘する。それどころか、他者を支配する一方で、支配されることに抵抗するために同盟を結ぶという心理的傾向があった。このような下からの集団的抵抗は、最終的には、リーダーになろうとする者が集団を支配するのを阻止するために、全員が一丸となることで頂点に達した。私たちの祖先のチンパンジー的な支配は、今や逆転し、「逆支配」、つまり平等主義的な倫理観にコミットした道徳意識の高い共同体による支配へと結実したのである。
G&Wは、人類は「......何をすべきか指示されることを自意識的に嫌うようになった」(p.133)という考えに賛同している。この文脈では、現存する狩猟採集民が「嘲笑、羞恥、遠ざけ......他の霊長類に類似するものはない」(p.86)、「自惚れ屋やいじめっ子を地上に引きずりおろすために集団で採用される戦術の数々」を示していることに同意している。彼らがまったく関心を示さないのは、そうした戦術が進化の過程で人間の本性を形成する上で重要な役割を果たしたという考えである。
ボームの説明に対する反論をまとめると、狩猟採集民が一貫して平等主義を好んでいたという示唆は、「何万年もの間、何も起こらなかった」という「奇妙な主張」であるという。狩猟採集民の祖先が一貫して平等主義的であったとすれば、彼らの政治的生活は何らかの形で凍結され、時間が止まってしまったに違いない。G&Wは次の言葉で締めくくっている:約12,000年前以前、人類は基本的に平等主義者であったとボームは主張する。ボームによれば、約20万年間、[これらの]政治的動物はみな、ただ一つの生き方を選んだのである」。(p. 87)
唯一の問題は、これはボームが書いたことではないということだ。彼の実際の言葉は引用に値する:
ひとたびどこかのバンドが平等主義的な秩序を発明すれば、この社会的なやり方の根本的な変化は近隣のバンドにも目につくようになる。特に、非常に攻撃的ないじめっ子を擁するバンドでは、部下が支配されることに対して両義的であれば、どこでもその利点は明らかだっただろう......。魅力的な平等主義の伝統が、地元では専制的な伝統に取って代わり、徐々に文化的な拡散が起こると予想される。やがて、より長い距離を移動する移動パターンによって、この政治的発明がかなり急速に大陸から大陸へと広まっていったと考えられる。(Boehm 1999: 195)
これが成功した革命のやり方だ。ボームの主張は単純に、1万2千年前まで『人類は基本的に平等主義者だった』というものではない。そうではなく、初期の人類はさまざまな政治システムを発展させながら、平等主義というひとつの特に成功したモデルに徐々に収斂していったというのである。
かなり不当なことに、『万物の黎明』は現代の進化論を社会進化論と混同している。社会進化論とは、「未開」から「野蛮」を経て「文明」へと進歩する段階のはしごを描いた19世紀の物語である。ダーウィニズムは科学的であると私たちは語り聞かされるが、実際は純粋な神話である。G&Wはそのように空想的に、進化論を全く認めない人類の起源に関する視点を、読者が真剣に検討することを期待している。
この著者たちが認める唯一の科学は「考古学的科学」であり、その考古学がさほど遡らない場合のみである。彼らは、政治や社会生活については、古代の人類の「頭蓋の遺骨と、時折出てくる火打石のかけら」(p.81)からは何も読み取れないという理由で、「万物の黎明」をわずか3万年前とすることを正当化している。
このような言い訳は、私たちの種の最もユニークな特徴である芸術と象徴文化が、以前考えられていたよりも3、4倍早くアフリカで生まれたという最近の証拠に照らすと、もはや通用しない。この証拠は、骨や石に限らず、ビーズ、幾何学的な彫刻、墓用品を伴う埋葬、砥石や絵の具壺などの工芸品で構成されている。G&Wは、これらの発見のうちの1つか2つに気づいてはいるが(83-4頁)、ほとんど関心を示していない。最先端のダーウィン理論を黄土の記録に適用すれば、社会力学、儀式の実行パターン、性別による同盟関係についての予測を生み出す可能性が非常に現実的になるにもかかわらず、である。(Power 2019; Power et al.
残念ながら、これらの著者たちは、どのような形であれ、ダーウィニズムには近づこうとしない。彼らは、彼らが「フェミニスト」と呼ぶ人物(実際には霊長類とヒトの社会生物学の創始者として高く評価されているサラ・ハーディ)が、人間の本能と心理の形成における集団的育児の重要な役割について「物語」を考え出したことを認めている。「神話は悪いものではない」とコメントしながら、彼らはこの特別な神話を「重要なもの」と表現している。そして、「エデンの園は存在せず、一人のイヴも存在しなかったのだから、このような洞察は部分的なものにしかなりえない」(p.82)と口にして、すぐさまこの神話に疑念を投げかける。この種のトリック--この場合は、ハーディの画期的な研究が、私たちの共通のミトコンドリアDNAの祖先の年代測定より200万年ほど前のホモ属の出現に焦点を当てているという事実を無視すること--は、明らかに、人類の起源研究が追求する価値があるという考えそのものを損なわせることを目的としている。
中石器時代や新石器時代の考古学に興味のある読者なら、本書には興味をそそられる推測がたくさん書かれているだろう。しかし、私たちがどのようにして人間になったのか、つまり、異常に明瞭な目、並外れて大きな脳、独特の社会的感情、笑い、音楽や言語に対する生得的能力などがどのようにして発達したのかに興味がある人には、まったく何も見つからないだろう!
タイトルは深刻な誤解を招く。『万物の黎明』? 『万物のティータイム』の方が正確だろう。物語は、氷河期のフランスとスペインに描かれた壮大な洞窟壁画で知られるヨーロッパの後期旧石器時代から始まる。著者によれば、その段階でようやく考古学が面白くなってくる。初めて、社会の複雑さ、階層、豪華な埋葬などの証拠が見え始めるのだ。
G&Wにとって、狩猟採集民の祖先がアフリカでもっと早くから平等主義的なライフスタイルを確立していたという事実は、さしたる関心事ではない。彼らは、タンザニアのハザ族のような現存する狩猟採集民が資源を共有していることは認めるが、それを賞賛する代わりに、蓄積への抵抗が「社会的複雑性」の出現を妨げていると不満を述べている。著者たちは社会階級という概念を嫌っているようだ。
つまり、狩猟採集民は富の蓄積に抵抗することで、複雑性を妨害する、つまり階級社会の発生を阻止するのである。G&Wはここで狩猟採集民の専門家であるジェームズ・ウッドバーンの権威を持ち出している。彼らは彼の研究から、「真に平等主義的な社会を維持する唯一の方法は、あらゆる種類の余剰を蓄積する可能性をまったく排除することである」(p.128)と結論づけている。このことは、社会の複雑さを排除し、人間の文化的・知的生活の豊かさを排除することになると彼らは主張する。
ウッドバーン(1982、2005)は確かに、蓄積に対する意図的な抵抗が狩猟採集民の平等主義を支えており、意識的になされた政治的選択を表していると主張している。彼は、このような平等主義は非蓄積型狩猟採集民だけの特徴であると観察し、「即時回帰」こそが人類経済の原型であると結論づけた。しかしウッドバーンは、そのような平等主義に複雑性が欠けているとは主張しなかった。実際、彼は「単純な」社会形態と「複雑な」社会形態との二項対立を有害で誤解を招くものとみなしていた。ウッドバーンにとって、平等主義を維持することはこの上なく洗練された達成であり、単に不平等が生じるのを許容するよりもはるかに高いレベルの政治的知性と複雑性が要求されたのである。ハザ族には、必要以上の富を蓄積させることがいかに危険かを理解する知性があると彼は説明した。
しかしG&Wによれば、富の不平等は問題ではない。彼らの立場を支持するために、彼らは17世紀にヨーロッパの「文明」を批判したファースト・アメリカンのカンディアロンクを引き合いに出している。やや説得力に欠けるが、彼らは、カンディアロンクと彼の最初のアメリカ人共同思想家たちは、「富の差が権力の体系的不平等に変換されうることを想像することさえ困難であった」(p.130)と断言している。
G&Wは、即時回帰型の狩猟採集民が富の不平等が生じるのを拒んだことを認めている。しかし驚くべきことに、彼らはこの状況全体を期待外れとみなしている:
こう言うと、何か希望に満ちた楽観的な話に聞こえるかもしれない。実はそうではない。この言葉が示唆するのは、やはり、最も単純な採集者以外には、その名に値する平等は本質的に不可能だということだ。それでは、私たちにはどんな未来が待っているのだろうか?
どんな未来?アフリカの狩猟採集民からインスピレーションを得ている活動家たちは、現代の都市生活者を、不運なハッザ族のように、小さな遊牧民集団の中で繰り返される単純な生活に「はまり込む」よう招いている、と彼らは示唆する。
はっきり言っておくが、私は原始主義者ではない。私は技術的、社会的、政治的発展に賛成である。ハザ族は、必要に応じて富を共有し、笑い、歌い、遊びの中で「時間を浪費」し、誰かに支配されることに抵抗し、他のすべての心配事よりも互いの子供の世話を優先することが、充実した楽しいことであることを示している。開発に関して言えば、この政治的に洗練された弓矢ハンターたちは、私たちに多くのことを教えてくれるだろう。
(続く……)
もう少し詳しく説明すると、このような図式になる。地下に埋まった塊茎を手に入れるために、人類となるべき一族は掘削棒を発明した。大型動物を待ち伏せして狩るようになり、スピード、持久力、武器が殺しのカギを握るようになった。このことは、歯、腕、脚の変化だけでなく、化石の傷のパターン、洞窟で発見された食事や骨、そして生き残った現代のハンターがどのように大型動物を狩っていたかからもわかる。
競合する肉食動物すべてからヒトの系統を分けた画期的な点は、複合食と火を使って調理する食べ物だった。つまり、消化に使うカロリーがはるかに少なくて済んだのだ。リチャード・ランガムが論じているように、余分なカロリーは成長期の脳のために使われたのである。
待ち伏せ狩りは当てにならず、ハンターは1ヶ月に1度しか大きな獲物を仕留めないかもしれない。人類はそれに対処するために社会組織を変えた。食料は本拠地でグループ全体で共有するようになった。この変化は、全員が通常の肉を食べることを意味するが、肉のない日には、ハンターは塊茎や他の果物や野菜に頼ることができる。
霊長類の祖先や初期の人類は、この変化に2つの方法で対処していたようだ。第一に、おいしい食料をみんなで分け合うために、ハンター同士の競争を制限し、いじめっ子を懲らしめる方法を見つけた。
第二に、新しい育児スタイルを考案した。フェミニストの霊長類学者サラ・ハーディは、霊長類の幼児殺しのパターンについて、また男女関係における重要な変化として、母親が幼い子どもの世話を他の女性や男性に任せるようになった経緯について、幅広く書いている。もうひとつの変化は、霊長類の中で唯一、ヒトが男女ともに女性の閉経年齢を過ぎても生きるようになったことである。進化的な利点は、年寄りの専門知識が貴重であるということもあるが、年寄りが育児をするということもあるようだ。
これらの違いやその他のさまざまな違いによって、人類は他の類人猿よりも早く増殖することができた。そしてある時期には、世界中に急速に広まることができた。
この初期の歴史は、人類学者が世界中のほぼ同時代の狩猟採集民のグループから報告された社会の種類と一致している。その鍵は、富や余剰がないことである。
人々は定期的に移動する。もう片方の腰に子供を抱えたまま、持てる以上のものを所有する者はいない。バンドには縛りがない。人々は常にグループを変え、誰もが他のいくつかのバンドに現実または架空の親族を持っている。食べ物やセックス、その他何かをめぐって緊張が高まると、誰かが移動する。つまり、女性も男性も囚われることはなく、こうした社会では、性別による不平等の規則的なパターンは存在しない。そして、いじめっ子を抑制する能力は、最近の狩猟採集民のもうひとつの重要なパターンである。
これは人類学者の証言からもわかる。しかし、類人猿の祖先からの解剖学的変化からの証拠もある。他のオスと戦うために使われていたオスの大きな犬歯は姿を消し、体格差も大きくなくなった。ヒトのオスはメスより約15%大きい。他の霊長類との比較によれば、これはオスの支配を意味するが、それほど大きなものではない。
男性の性器は多くの点で変化した。霊長類や他の多くの種では、睾丸の大きさは性的パートナーシップの独占度を示している。ヒトの睾丸の大きさはその中間に位置し、一夫一婦制の慣習が浮気によって変化したことを示唆している。
ヒトのペニスの変化は多岐にわたる。コーミエとジョーンズは、『家畜化されたペニス』という適切なタイトルの本の中で、これらの変化はすべて女性の選択による交尾相手の選択の結果であると主張している。
女性の性欲の変化はさらに著しい。他の霊長類では、メスは排卵のときだけセックスをする。ヒトのメスは一年中セックスをする。これは、より多くのセックスが可能であることを意味するが、性的に活発なオスとメスの比率が1対1であることを意味する。他の類人猿や霊長類では、2対1から40対1まで様々である。このことは、ペアの絆や男女平等が生まれやすかったことを示唆している。
霊長類学者で人類学者のクリストファー・ボームは、重要な論文と影響力のある2冊の本の中で、パズルの最後のピースを提示した。ボームは、狩猟採集集団の平等と共有は、文化的かつ意識的に達成されたものだと主張している。
彼によれば、私たちは、服従し、競争し、支配することを奨励する類人猿の遺産を保持している。しかし、人間が生き残るためには、自分の中に湧き上がる嫉妬、攻撃性、利己主義を抑え、他人の利己主義を抑えるために、意識的に協力し合わなければならなかった。
ボームの考えは、今では広く受け入れられている。これらはすべて、人が生まれつき平等主義的であったり、非暴力的であったりするからではない。私たちの中にその可能性があるからであり、その反対でもある。しかし私たちは、生き残るためには分かち合い、平等主義でなければならないことを理解していた。
ボームの理論は、私たちの大きな脳にも合致する。科学者たちは長い間、大きな脳は手や狩猟、武器や道具に関係していると考えていた。しかし、他の霊長類では、脳の大きさを最もよく予測できるのは集団の大きさである。
ほとんどの霊長類では、支配階層に立つかどうかは、複雑で絶えず移り変わる政治的世界で同盟を築く能力にかかっている。そしてオスが繁殖するチャンスは、そのヒエラルキーにおける地位によって決まる。社会的知性は非常に重要である。10人のグループでは、45の異なる人間関係を把握しなければならない。20人の集団では190通りの人間関係がある。200人の村では......計算してみてほしい。
そしておそらく、人間においては、いじめを抑制し、平等に生き、分かち合う能力が、社会的知性の決定的な成果だったのだろう。競争に使える頭脳は、協力にも使えるのだ。
まとめると、多くの分野の学者たちの研究によって、200万年かけて進化した特定の生態学的ニッチへの人間の適応が、約20万年前の人類の出現につながったという首尾一貫した図式を提示することが可能になったのである。しかし、サラ・ハーディとクリストファー・ボームとの簡単な意見の相違を除けば、グレイバーとウェングローは、この印象的な新材料の数々を無視することによって対処している。
実際、もしそれを受け入れていたら、彼らはこの適応の平等主義的性格と、それが特定の環境の物質的条件と密接に結びついている度合いの両方を受け入れなければならなくなるだろう。
自由な選択へのコミットメントにしがみつき、自分たちの政治的プロジェクトを無傷で維持するために、彼らの議論はひるんだり潜ったりする。
文章は緻密でありながら、華やかさと権威に満ちている。この本はすごいスピードで唸りを上げる。適当な図解は疲れるし、非連続的な言い回しや心のゆらぎを解きほぐすのは難しい。読者は、彼らの証拠の使用はしばしば信頼できないことを警告されるべきである。ハザ族、モンタナイス・ナスカピ族、シルック族、ヌエル族に会ったことのない無知な人は、細部に狂気を感じるだろう。
ハンターのアリ編のアニメ一気見した。面白すぎて気が狂うかと思った
ここ最近アニメあまり熱心に見てなかったからアニメってこんな面白かったんだ!という気持ちが思い起こされて今アニメ熱が高まっている。
進撃とかまどマギはよく10年に一度クラスのアニメと言われるが、確かに面白かった。
そこに及ぶかは分からないけどシュタゲとかひぐらしあたりも昔ハマったな。
ここ数年でまぁまぁ良かったのはオッドタクシー。
でも今流行ってる呪術廻戦とか少し前だとリゼロとか、見ても面白さが分からなかった。
そんな面白いか?ハマれなくて途中で脱落した。
単純にもっととにかく話が面白い・続きが気になる・よく練られている・脚本のレベルが高い作品が見たい。
何かおすすめしてくれ
ショルダーバッグにお水850リットルとローソンのねじりパンとカレーパンを携えいざ出陣
もうね
そらそうだわ一段毎に片足スクワットするようなもんだしな
数段上がるたびにモンハンのスタミナ切れハンターみたいにゼェゼェ止まんの
俺の横をご老人がスイスイ…でもないけどゆっくり追い抜いていくの
屈☆辱
でもまあなんとか山頂に辿り着いたの
先客が数グループ
見事にいい席取られてんの
淑女と家族持ちは景観いい席でキャッキャキャッキャと優雅なランチ
弱男の俺は隅のベンチでカレーパン
フッ
帰りは砂利でツルッツル
危なくてしゃーない
いっぺんスト2ベガの強下Kのスライディングみたいになりそうになって超ビビったの
小幅で足元確認しながらチマチマ降りてくの
その横を仕事デキそうなオッサンがスイスイ追い抜いて下山してくの
KUTSU☆JYOKU
お前ら低山とて靴はちゃんとしたもん履いて行けよ
あとリュックorナップザックにしとけ
山を舐めるなッッッ
そんな日曜午前であった
じゃあの☆
いや、俺ハンター乗ってるけどそんなもんないよ