はてなキーワード: WIkipediaとは
温泉むすめがおすすめトレンドに入ってて、またなんかネガティブな方向かと思ったらマツコに取り上げられたんだな
よかったよかった
真尋ちゃんは単独でwikipediaにページができるくらいに育ったし
今はなき変な設定は叩いてもいいけど、そこは改良したし、ポジティブに扱ってくれるのはうれしい
皮肉Wikiとは、はてな匿名ダイアリーで展開している日記シリーズである
皮肉Wikiとは、本来Wikipediaやニコニコ大百科などの巨大Wiki系のサイトで扱うべきではあるものの、内容があまりにも不謹慎、闇を抱えすぎているということで皮肉的に扱わざるを得ないものを扱うものとなっている
基本的な書き方についてもピクシブ百科事典やアニヲタWikiなども含めた砕けた文章となっている
増田のシステム上、どれがどのエントリと繋がっているかは明記しないと不明なので、あくまでも以下は可能性のあるものでしかないとしている
増田である以上、パンティーの上からポリンキーでミニ四駆モーターの頻度でクンニして、しゃっあ!とイクような人間でしかないとされている
漫画家が億単位の巨額の収入をえていながら、全く確定申告・納税しておらず告発されたニュースのブコメ見てびっくりしちゃった。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/matomedane.jp/page/157381
本人が「確定申告が必要と知らずやってなかった」と言ってると報道されてて、それを真に受けて「過失なのに告発は厳しい」だの、「故意でないから罪は重くない」だのブコメがたくさんついて、たくさんスター集めて上位ブコメになってるの。
…それマジで言ってるのか?
この場合の「過失」ってのは、確定申告したつもりだったけどできてなかった(税理士に依頼したけど税理士が怠けてやってなかった、パソコンで入力したけどテストで送信されてなかったとか)場合で、
「収入はあったけど、確定申告が必要だという知識がなかったので、やってませんでした」は故意なんよ。
無免許運転で捕まった人間が、「自分が免許持ってないのは自覚してたけど、公道で車を運転するのに運転免許が必要だと知らなかったので、運転してしまいました」と言ったとき、過失になると思うか?
ならねーよ。この場合の過失は「有効期限が来てるのに気づかずうっかり失効してて、自分は有効な免許を持ってるつもりだった」とかだよ。
自分が運転免許持ってない事実は認識してたのなら、本気で運転免許の必要性を知らなかったとしても、これは故意の無免許運転になるんだよ。
法の不知は言い訳にならず、「違法と知らなかった」では過失にならないんだよ。
過失として罰・罪から逃れるためには「事実を誤認してた」前提が必要なんだよ。
…
まあそれ以前に、日本に普通に生きてて「公道で車を運転するのに免許が必要と知らない」ってまずあり得ないので、嘘ついてると判断するのが普通だわな。
作者のwikipedia見ればわかる通り、デビューしたてでいきなり大ヒット飛ばしたわけでなく、最初の連載は2010年でもう10年以上のキャリアがある。
これまで編集者とのつきあいで、税金の話や確定申告の話が全くでなかったと思うの?
漫画家同士の雑談で、税金たくさん取られて大変で~、確定申告で経費計上して~みたいな話が全くでなかったと思うの?
自営業やってないサラリーマンですら確定申告の義務は知ってるし、普通に日常生活を送るなかでテレビや新聞や雑誌でも確定申告・脱税摘発の話はたっくさん出てくる。
それを全く耳にしてなかったと思うの?
周りの漫画家、自営業者、サラリーマンも収入ある人はみな税金を払ってる中で、自分は億単位の巨額の収入を得ていながら1円も所得税を払ってない状況が、本当に無知によるものだと思ってるの?
しかも記事読めばわかるけど、印税収入だけでなく、不動産投資までしてるんだよ?不動産投資なんて節税手段、相続税対策の筆頭じゃねえか。それで「確定申告が必要と知らなかった」を信じちゃうの?
才能あるクリエイターはイノセントで純粋で悪意のない存在で、そのやらかしは全てうっかり過失によるものでした~ってか?
馬っっっ鹿じゃねえの?
大谷選手のときもそうだけど、クリエイターやスポーツ選手の言い訳を頭から鵜呑みにして同情的になるはてブの傾向って公平性のカケラも無くて、ほんっと気持ち悪い。
政治家が違法行為したときに「知らなかった、秘書が勝手にやった」を鵜呑みにして「先生は被害者よね、かわいそう、これからも頑張って!」と投票するジジババの思考回路が理解できなかったけど、大谷選手や漫画家の言い訳を鵜呑みにしてるような連中がそのまま年を取ったら、ああいう愚かな有権者になるんだな。勉強になるわーはてブ。
数年前に父が亡くなり、半年前に母も亡くなった。ずっと実家暮らしで、会社仕事の合間に農業をやっていたが、そろそろこの家ともお別れである。家族が俺一人になったので、土地と建物を売りに出して、会社の近くにある空き家ハウスに引っ越すのである。
相続が終わってから、遺品整理屋とかリサイクル屋とか解体屋さんと話をすることが多くなった。処分すべき財産はあっという間に片付いたが、最後に残ったのが……西暦で言うと2000年頃に亡くなった実弟の漫画だった。部屋を共有していたので、本棚には俺と弟の漫画が並んでいた。
その大半は、ブックオフでも1冊10円すらつかないモノだった。メルカリで売るにも手間がかかりそうだ。遺品整理屋も「今のご時世、紙のマンガは売れないんですよ」と引き取りを断った。ほかの価値のなさそうなモノは、タダ同然でも引き取ってもらえたのだが。
何か月か経って、今年の正月を過ぎた頃だった。
実家の本棚にあった俺の漫画を何冊か、手に取って読んでみた。うーん、これは……「懐かしい」という感情が僅かにあった。一番好きだった漫画、『天使禁猟区』『スカイハイ』『クロマティ高校』を読んでみたが、いまいちピンとこない。楽しい思い出が蘇ってこない。お楽しみの記憶は脳裏から消えてしまったのだ……。
ふとここで、亡き弟の漫画を手に取った。あいつは将来裁判官になりたいと言ってたっけ。『家栽の人』が本棚の目につくところに置いてあった。一番上の段だった。
そして、一番下の段に視線を移すと……ここで一番、ドーン!! と、当時の記憶が蘇った。それは、『まもって守護月天!』だった。弟が一番好きだった漫画。
家族で食卓を囲んでいる時も、旅行をしてる時の車内でも、何気ない団らんの瞬間でも、とにかく弟は、この漫画の話をしてることが多かった。
弟の死因は、自動車に轢かれた後の外傷から、内臓の疾患にかかったことにある。交通事故の原因の半分は弟にあり、当時は自業自得だと冷たいことを思ってたけど、まさか亡くなるとは……。病院でお見舞いをしてる時にも、弟はこの漫画を繰り返し読んでいて、ずっとその話の内容とか喋ってるんだよ。どんだけ好きなんだよって思った。
確か、アニメも観たいって言ってたかな。病室にテレビはあったけど、ビデオを再生できるものがなかった。弟は泣いて悔しがっていた。
さて、当時の俺は高校生であり、ガンガンコミックスの漫画を読むことはなかった。守護月天の漫画を読んでみたことはあったが、すぐに読むのをやめた。「稚拙だな」と思ったのもあるし、「絵がちょっとな~」という思いもあった。当時の俺は、CLAMPが描くような、Xとか聖伝とか、ああいう精緻な絵柄のエログロが好きだった。
とにかく弟は『まもって守護月天!』が好きだった。それを、この本棚を見ていて思い出した。この日は休日であり、時間がたくさんあった。せっかくなので、この日から一週間ほどかけて、全11巻を読んでみることにした。
読んでみた感想を、以下に綴っていこう。感想を交えつつ、各巻に1~2箇所ずつ、印象的だったところを抜き出して引用する。
ネタバレがあるように見えるけど、本当に大事なところは抜き出してない。隠してる。まあ、俺の人生で『まもって守護月天!』を取り上げるのはこれっきりなんだし、少しくらいは許してくれ……。
その前に、これはどういう漫画やねん、と気になった方はWikipediaでググってほしい。あらすじは、概ねこんな感じである。
~ブックライブ!から引用~
一人暮らしで寂しさを抱える少年と、ご主人様をあらゆる不幸から守る役目を持つ守護月天の美少女とのファンタジー・ラブストーリー。 一人暮らしの中学2年生・七梨太助(しちり・たすけ)は、中国を旅する父親から支天輪(してんりん)という八角の輪を送られる。
つまり、主人公の何気ない行動をきっかけとして、小璘(シャオリン)という女神様のようなものがやってくる。お互いに惹かれつつ、ラブコメディが進行していく。その中で、超えないといけない壁がいくつもあって、主人公である太助がシャオにふさわしい男になるために奮闘する物語である。
では、さっそく始める。
読み始めは、正直キツかった。絵柄が古いのもあるし、漫画表現が昔風なのもあるし、ラブコメを読んだ経験がない人間には何がどう面白いのかわからない。
あまり楽しめないのは、すでに四十を過ぎているからだろう。子どもの頃であれば、まだマシだったのかもしれない。ただ、まあ……コンセプトはいいと思う。すごく。
なんとなくだが、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』という映画を思い出した。某グルメ漫画でいうと、「うん こういうのでいいんだよ こういうので」を地で行く。
①シャオリンが「この平和な時代に、どんなものからご主人様を守るか」を決めたシーン
「太助様…」
「…え……」
「もし迷惑でなければ あなたの中にある「孤独」や「寂しさ」から あなたを守ってさしあげたいのですが それではいけませんか?」
シャオが歴代の主を守ってきた手段は、主に暴力である。星神を呼び出して使役し、主人を狙う者を撃退する日々を過ごしてきた。だが、平和な現代でそんな行為に需要があるはずもなく。シャオは、呼び出されてすぐにお役御免になってしまう。
ならば、主人である太助をどのように守ればいいのか――その答えが上記の台詞である。命を狙う敵がいないのであれば、孤独や寂しさから主人を守るのだ。太助には家族が3人いるが、全員家を離れて放浪の旅をしている。ネグレクトに限りなく近いものがあるが、ラブコメの都合というものだ。
このあたりは、まだだるかった。物語の登場人物は揃いつつあるのだが、展開が退屈でなかなか話が進まない。この巻から、慶幸日天の汝昴(ルーアン)という主人公の恋路を邪魔する、まさにお邪魔キャラみたいな人が出てくる。
別に、なんということはない恋愛妨害工作なのだが、この時代のラブコメは高橋留美子の影響がまだ色濃いのだろうか、暴力性が強い。この巻以外にも「死ぬやろ……」というシーンがけっこうある。昔は気にならなかっただろうが、やはり時代というものか。
②ルーアンの計略によりシャオが太助の元から離れようか迷っているシーン ※太助が駆けつける
「えーっと 今はうまく言えないけど… 俺はシャオにずっとここにいてほしいんだ ――それだけじゃここにいてもらう理由にならないかな……」
ルーアンがそれっぽい発言をして、「シャオは現代には不要ではないか」という意見を伝える(あなたなんて いても邪魔なだけなのよ)。シャオは真に受けてしまって、支天輪に帰ろうとするのだが……すんでのところで太助がやってくる。そして、ふたりきりの状態で上のような会話をする。
この場面は気に入っている。シャオの気持ちも、太助の気持ちもリアルに描いていたからだ。ストレートさがいい。
このあたりから恋愛路線に入ってくる。太助がシャオに愛情を意識する場面が出てくる。
ネタバレは避けるが、シャオには恋愛ができない事情がある。本人ですら認識できない事情が。
以下の山野辺というのは、最初の頃は万引きとかするキャラとして描かれていた。物語が進むにつれて応援キャラになっていく。
③シャオと山野辺が一緒に温泉に入っているシーン
「なあ シャオ…」
「…………」
「シャオ?」
「はい?」
「なんか元気ないけど七梨と何かあったのか?」
「翔子さん…………私 病気かもしれないです なんだか…ね 胸が苦しい… 太助様がルーアンさんと一緒にいると とっても胸が苦しくなります さっきなんか どうしてだか自分でもわからないけど そっけない態度とっちゃったし太助様が話しかけてくれたのに 太助様にきっと変に思われちゃった きっと悪い病気にかかっちゃったんです ――でも どうしたらいいのか わからなくて…」
(へえ…精霊ってのも 人を好きになったりするんだあ…)
うん。女性作者が描いてるラブコメってさ。女性側の心理描写がリアルだよな。女の子ってさ、好きな男性の目の前だと萎縮することがあるじゃん。意中の人を目の前にすると、体がつい後ろに下がってしまうとか、廊下を走って逃げだす子とかいるよな。
なんかこう、恋愛感情に対して不安になった時の女性心理というか。リアルさが伝わってくる。子ども時代に読んでも全く認識はできなかったろう。
この巻くらいになると、ストーリーの基本線が定まってくる。何らかの事件やイベントが起こって、太助とシャオが巻き込まれて、レギュラーキャラがそれぞれの立ち位置で動き回って、なんやかんかで解決して、ふたり(又はほかのキャラ同士)の間柄が深まって……という流れである。
基本は、太助~シャオの関係性がメインだ。この作品のうまいところは、ふたりばかりを推すのではなく、ほかのキャラクター間の友情とか愛情もガッツリ描いてる。
この巻だと、2つの場面が印象に残っている。いずれも、ルーアンがふたりの仲を妨害するための工作を試みて、やってしまった結果である。
④-1太助が高速道路を自転車で走行中にタイヤがバースト、そして前方車両(トラック)と自転車を括っていたロープが取れて転倒した後のシーン
「………え 太助様!? 太助様太助様!! 太…助様あ… ……う…」
「あ…あの小璘さん…」
「どうしよう…どうしようどうしよう ルーアンさん! ――太助様が 死んじゃったらどうしよう!!」
「あ…いや まさかそんなあ」
「どうして支天輪を車に乗せちゃったりしたんですか 私……太助様に何かあったら ルーアンさんのこと絶対許さない!!」
「…………」
「太助様に…太助様に何かあったら… 太助様… 太助様早く帰って来てください」
「小璘…………あんた」
④-2保健室で、シャオがベッドに横たわって寝ているシーン
「なあ…ルーアン」
「はい!?」
「…俺シャオのこと 好きにならない方がいいのかな…」
「………… あんたあのおじょーちゃんになんか言われたでしょ ――じゃあひとつ聞くけどなんでそう思うの?」
「――…」
「…………」
「…ねえ たー様 あたしは たー様のこと好きよ 考えれば悩みなんていくらでも出てくるけど 一番大切なのは自分の気持ちでしょ だからあたしはあんたみたいに悩まない 悩んでも変わらない想いなら 悩むだけ損だと思わない?」
気持ち、とでもいうのかな。かの有名な『BLEACH』でいうと、ウルキオラ・シファーの名台詞のひとつである、
心か
みたいな感じだ。登場人物の心境がさ、わかるんだよな。喜んでるのもわかるし、苦しんでるのもわかる。そんな中でキャラクターが足掻いている姿が印象に残った。
漫画を読む前に下調べはしなかった。今も一切してない。よって推測になるんだけど、この作者である桜野みねねっていう人は、この時(1998頃?)は大学生かそこらの年齢なんだよな。作者あとがきを読むと、若いんだなというのは伝わってくる。
俺が二十代前半の頃は、地面から出てきたばかりのカブトムシの如き勢いでスポーツをするか、水道工事の現場であくせく働くか、盛りのついた獣のように女を口説いて、年間に何人とセックスしたか記録を付けるとか……同じ会社の女の子と無理やりそういうことをした後でも、最後にベッドの上で「愛してるよ」と言ったら許されるから大丈夫とか、そんなことしか考えてなかった。人間性が動物レベルだった。
でも、この桜野みねねという人は、そんなどす黒い人間の対極を行く感性がある。この作者は凄い……と、いい年になったおっさんは感じた。※私個人と作者の年齢差は、干支0.5周り分ほどと思われる。
20年以上前の漫画なので、さすがに創作でも……というシチュエーションが生じることがある。作品内では、たまに登場人物がみんなで旅行とか海とか温泉に行くのだが、メインキャラがほぼ中学生で、20才以上は大変少ない。無理があるし違和感がある。
しかし、旅行とかでないと表現できないラブコメ的なシチュエーションもあると思うので……そこが創作の難しいところである。いや、文学作品の創作とかしたことないからわかんないけどさ。
⑤仲間と海に来ていて、ようやく夜の海岸で二人で話ができたシーン
「なんだかね………私 太助様ととってもお話したかったです 別にお話したいことがあるわけじゃないの… でも… 太助様とお話してるととっても落ち着くから…」
「……シャオ」
太助とシャオは、何度もこういうシチュエーションになっている。が、恋愛が進む気配はない。事情はあるのだが、あまりに絶望的な事情なのだ。
あと、文章量の都合で載せなかったが、クラス演劇(かぐや姫)の数話分も大変よかった。ルーアンと、ほぼサブキャラの乎一郎が主体の話なのだが、中学校の学芸会でかぐや姫をやることを通じて、「離れていても心は繋がってる」という要素を表現している。
この回は、大人ながらにしみじみときた。気になる人は、是非5巻を読んでほしい(ダイレクトマーケティング決行)。
大まかな流れを言うと、ラストのお別れシーンでかぐや姫役のルーアンが台本にないセリフを言う → 月の使者役のシャオがお迎えを中止発言 → 乎一郎がそれを制止 → その後の会話のやりとりで、離れていても心は繋がっていることを示唆~といった具合である。
ここまで五千字以上は書いている。一旦切ることにする。
文量の都合で2分割。
次に続きます。
北海道の根室線(滝川〜富良野〜新得〜根室駅)の一部区間(富良野〜新得駅)が廃止になるってニュースを見て。
そしたら根室線の真ん中区間が無くなるってことだから滝川から根室まではどうやって行くんスカって話になるじゃないですか。いつもは深く考えずそのままyoutubeでゲーム実況とか見に行くけど、今日は珍しくメシ喰う箸止めてまでググったのに。全然分かんねえんだこれ。キレそう。なんか多分珍しいニュースじゃないから知ってる人に聞けば一発なんだろうけど、全然検索で出てこない。廃止のニュースと廃止を悲しむ声しかない。その後どうなるんすか。マジ。一般的な廃止後の対応とか調べるために「廃止線」とかでググっても!日本のこれまでの廃止された路線一覧のWikipediaとか出てくる。馬鹿じゃねぇの全国過去まで遡って途中区間が廃止になったケース引くまで一線一線調べてけってか。
そういうんじゃないんすょ。鉄道好きもメディアもなんもかんも皆、勘どころというか知りてぇ所一切抑えずに昔の高校生クイズのいや知るわけねーだろみたいな問題の肥やしにするための知識ばっか集めて一番目に付く所に貼り出してるわけでバカみたいにキレそうになる。
調べた限り 現在 東鹿越〜新得はバスが通ってるみたいなんすけど!!!!ねぇ富良野から東鹿越まではどうするんですかねぇ!!!キレそう。なんか俺が欲しい情報にすぐアクセスできないとまじでキレそうになる。
それはそれとして、廃止区間最終便が駅から見送られる映像がNHKでながれてて。見送りのために通常よりおそらくかなりゆっくり発車してて、汽笛みたいな音も「ぺっぺー」って感じでかなり貧弱でなんかうるっときてしまった。
昨日今日のスプラ甲子園が思った以上に面白くてちょっと感情の起伏が馬鹿になってる。
ねぇ?路線の一部区間が廃止になったらその後どうなるんすか。廃止区間だけ止まらなくなるとか?
2023/04/01追記)いや誰もわかんねーのかよ!!!!!!!なんだそれ!!!!!!!!
2023/04/01追追記)はい、バスで代替ということで。あざす。そしたら同じ根室線って名前でも滝川~富良野間しか走行しない車両と、新得~根室間だけ走行する車両に分かれるんですかね?てかなにが「調べたらでてくるけど?」だ。「調べる」なら俺もしたんだけど???調べた奴に調べることを解決策に提案すんな。今は情報のお道具箱の手前に欲しい情報が置いてないですよねって話をしてるんだけど。書いとけバーーーーーーーーーーーーカ
全部テレビCMか何かで見たけどタイトルを覚えてなかった作品。
確か悠木碧が出てた、子供らがメインで、宇宙人?が出てくる2022年頃のアニメ映画 → ぼくらのよあけ
田村睦心が出てたような気がする、子供らがメインで、建物が水に流されてた2022年頃のアニメ映画 → 雨を告げる漂流団地
2022年頃に知ったタイトルに猫が入ってて猫になるとかならないとかのアニメ映画 → 泣きたい私は猫をかぶる(2020年)
水瀬いのりと花澤香菜は「雨を告げる漂流団地」と「ぼくらのよあけ」の両方に出演してるので、もし覚えてるのがこちらだったら特定できなかった。「雨を告げる漂流団地」の公開日が2022年9月16日で「ぼくらのよあけ」が2022年10月21日なので、売れっ子は忙しいっすね。
「泣きたい私は猫をかぶる」は「雨を告げる漂流団地」と制作会社が同じであることがWikipediaに記載されてるので、たとえまたタイトルを忘れたとしても「雨を告げる漂流団地」のWikipediaのページに行けば自然に思い出すことができる。これらはネトフリ独占配信らしいので私が利用してるアマプラでは見ることができない。
「かがみの孤城」も子供らがメインなので思い出せないアニメ映画はこれかな?と思ったけど初見だった。アマプラでたびたび目撃しただけ。最近見放題になった。これも2022年のアニメ映画。
Wikipedia経由だけど、これは押さえておいた方がいいポイントかも
https://web.archive.org/web/20181002182121/nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/261341.html
色盲も出たのもこの影響なんかな
精神原因による色覚異常の事例はあるでしょうか?気になったので調べてみました!
[Conversion disorder - Wikipedia](https://en.wikipedia.org/wiki/Conversion_disorder)
兆候と症状
(中略)
転換性障害は現在、機能性神経症状障害という包括用語に含まれています。転換性障害の場合、心理的ストレス要因があります。
DSM-5 に記載されている機能性神経症状障害の診断基準は次のとおりです。
患者には、随意運動機能または感覚機能の変化の症状が少なくとも 1 つあります。
a. 臨床所見は、症状と認識されている神経学的または病状との間の不適合の証拠を提供します。
b. この症状や欠損は、別の医学的障害や精神障害によって説明するのが適切ではありません。
c. 症状または欠損は、社会的、職業的、またはその他の重要な機能領域において臨床的に重大な苦痛または障害を引き起こすか、医学的評価を必要とする。
[以降関連する情報なし]
調べてみた結果、「ストレス性の色覚異常」(color blindnessもしくはachromatopsia)に関する直接的な言及は見当たりませんでした!
気になるねえ
何故気になったのか
「自然薯を探すときはまず特徴的なハート形の葉を探すとよい」のような説明がされることがままある
「ハート形」という概念が無い昔の日本だと自然薯や山芋の葉のような形を何と呼んでいたのか、というのを知りたい
調べましょうね
なるほど、西洋からいわゆる「ハート」概念が伝来する以前から土器や織物にハート形の文様が存在する、と
神社仏閣など建築物には「猪目」と呼ばれるハート形の意匠が施されている、と
なるほどねえ
じゃあ昔の日本で自然薯を探すときは「猪目型の葉っぱを探すとよい」と説明されていたのだろうなぁ~
……とはならない
「西洋ハート伝来以前から猪目と呼ばれるハート形の文様が存在した」イコール「自然薯など芋系のハート形の葉っぱを当時の人は猪目のような形の葉っぱと呼んでいた」とはならない
芋掘りする農民が「猪目」というある種の専門用語を日常的に使用するか?という点を疑う
農民が子を連れて山に入り、山芋の探し方を教える時に「山芋はこういう形の葉っぱだ」と伝える時、その葉の形をどういう形と表現するか?
勘だけど逆なんだろうな
すなわちハート形を「芋の葉のような形」と呼んでいたのではないか……という勘
その場合、
の問いの答えは「自然薯や山芋の葉のような形はそのまま『芋の葉のような形』と呼んでいた」ことになる
農民が子に山芋の探し方を教える時も、山芋の葉の形を何かに例えたりせず「こういう葉っぱの形は芋の葉の形だ」と表現する……?
さて、この勘由来の仮説を検証するにはどんな文献を探せばいいのか
いろいろぐぐってみるか
1911年(明治44年)、奈良県農事試験場(現農業研究開発センター)がツクネイモの品種試験を開始した。黒皮ツクネの特徴として「所謂大和薯にして本県の原産なり 蔓褐色にして太く葉は広き心臓形にして葉肉厚く濃緑なり 草勢強壮にして本県の風土に能く適正す 塊根は球状にして豊肥凹凸なく外皮粗厚にして小亀裂をなして亀甲形の斑点をなす 肉質純白水分少なく粘気強くして品質頗る佳良 料理用菓子用蒲鉾用等に用途広く四ヶ年平均反当収量六百三十二貫四百匁(2.37t)にして種薯に対する生産割合は約八倍に達し供試各品種中第二位にありと雖も其価格高きが故に経済上は寧ろ第一位を占む 該薯は零余子(むかご)は頗る小にして二ヶ年間栽培せざれば種薯に供養し難し[9]」と記録されている。
キリスト教伝来から300年以上経過しているからハート形という概念が浸透していても不思議じゃない
いや、リンネの分類学の著作が日本に伝来した時期あたりも調べる価値があるか?
西洋の植物図鑑で「heart-shaped」のような説明がされているのが翻訳されたことで明治期に一般に普及の可能性……
『日葡辞書』になんか自然薯の記述とかないかなあ……いや、あったとしてもポルトガル目線の記述だから意味ないか……
園芸アサガオの葉っぱの形で「芋葉」と呼ばれる変異パターンがあるようだ
時間切れ、また夜に調べるか……
三つ葉葵紋は西洋人にハート形と誤解されたみたいな逸話をどこかで読んだような……
これは日記です
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Wikipediaの「葉身」の「葉の概形を表す用語」を見ると興味深い
自然薯や葵のような葉は「心臓形(cordate)」と分類されている
その一方でカタバミのような葉は「倒心臓形(obcordate)」と分類されている
きっと西洋でメジャーなハート形の葉が葵みたいなタイプで、後からマイナーな側に倒心臓形と名付けられた、みたいな流れがあるのだろう
ヨーロッパでメジャーなハート形の葉っぱの植物……西洋菩提樹とかかなあ
知らんけど~
おそらく現代人の葉っぱの形に対する分解能が昔と比べて落ちている
色の分解能が上がって青と緑が別々になった現象の逆
葵の葉の形と芋の葉の形を現代人は一括りにハート形としてしまうが、昔の人は正しくそれぞれ「葵の葉のような形」「芋の葉のような形」と認識していた可能性がある
ゆえに、「ハート形」に類する形を指す言葉は不要だった……とか
その場合、
に対する回答は「ハート形より細分化されたそれぞれの植物の葉の形に例えられた表現で呼ばれていた。芋の葉は芋の葉のような形と呼ぶほかないし、葵の葉は葵の葉のような形と呼ぶ。」
となる
そもそも葉っぱ以外でハート形をしたモノが例えば江戸時代にどれだけあったというのか、という話がある(桃とか……しかし葉っぱを指すときに「桃の形の葉っぱ」とは言わんやろ、たぶん)
市松模様とか唐草模様とか、古くからある文様でいわゆるハート柄っぽく見えるものはないっぽいしなあ……一応「猪目文」があるのか
それこそ数少ない葉っぱ以外のモチーフでハート形が現れたときそれを「猪目」と呼んでいたのではないか
検証できるかどうか
うーんどうだろう、例えばこういう攻め方はどうか
博物学と医学薬学の中間みたいなジャンルという認識なのだが、植物の葉の形で分類するみたいなことをやっていたらしい
ただなぁ~、学者先生が使う言葉や認識と、市井の人々の使う言葉や認識って別だろうからな……
とりあえず1759年ごろに書かれた『花彙』という名の植物図鑑を国会図書館デジタルコレクションで読んでみよう
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面積を求める和算の問題で、ハート形の図形の面積を求めよ……みたいな問題あるかもな
もしあったなら「〇〇に似たこの図形の~」みたいな記述があるかも
一応調べること
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調査がとっちらかったので自分の関心の向き先を言語化しておこう
・「ハート形」という概念が無い昔の日本だと自然薯や山芋の葉のような形を何と呼んでいたのかの調査(昔の人は山芋の探し方をどうやって伝えたのか問題)
■サブクエスト
・昔の日本における(芋の葉以外の)「ハート形」と類似した図案、文様の使用例、またその呼称の調査
・幕末~明治期の文献から「ハート形」」「心形」「心臓形」の記述を探して市井の人々の中に「ハート形」という概念が定着していった流れの調査
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メモ:
こういう調べものをしていると古辞書に何と書かれているか確認したいというシーンがしばしばある
また、現代語訳された古辞書が書籍として売ってあるなら購入も検討すること
また、もしも辞書に「猪目」が載っていないなら当時の一般的な語彙の中に「猪目」が含まれていないとみなすことが出来るかもしれない
ここまでの調べものは「猪目は確かに日本古来から存在するハート形の模様だけど、昔の日本の多くの人は猪目って単語を知らないのではないか」という話が前提にあるので、その裏取りにもなる
神社仏閣に猪目模様があって、その模様があると知っている人でも、その模様の名前を知っているかどうかは完全に別
例えば……コンクリートブロック塀の松みたいな模様の穴が開いたブロック、あれの名前を知っている現代人は少ないのではないか
似たような構造があることを疑っている←この例は適切ではない……「身近にある模様でも名前を知らないものはある」という意図で例示したが、……上手く言語化できないな、後で再考する バックスペースを押さないことがアウトプットしやすくなるコツみたいな文章を何かで読んだ
トランプのハート柄が「猪目柄」と呼ばれないという傍証はあるんだけどな……→昔の日本人でも猪目という単語を知っている人は少ない説
それはそれとして、そろそろくずし字を読めるようにならないと調べものが滞る……教材を探して勉強してみるか
---
・「ハート形」という概念が無い昔の日本だと自然薯や山芋の葉のような形を何と呼んでいたのかの調査(昔の人は山芋の探し方をどうやって伝えたのか問題)
→率直に「芋の葉の形」と何にも例えず呼んでいた、あるいは「芋の葉に似た植物の葉の形」を例に挙げて説明していた……と思われる
しかし古い植物図鑑を見ていると、例えばサツマイモの葉の説明をするときに「葉は朝顔に似る」のように別の植物で例える記述が多くみられた
(余談だがアサガオはヒルガオ科サツマイモ属なので葉が似ているのは納得、リンネ式階層分類体系は偉大っすなあ)
■サブクエスト
・昔の日本における(芋の葉以外の)「ハート形」と類似した図案、文様の使用例、またその呼称の調査
芋って家紋のモチーフにないんだなあ、考えてみるとちょっと意外(芋桐紋とかあるけど、これは芋ではなく桐モチーフと呼ぶべきだろう)
♡の幾何学的な図形の特徴を指す呼称という意味では、そのような概念は存在しない……か?
猪目が一応それではあるんだけど、市井の人々に広く知られた概念ではなかった(これも証拠なし)
だからこそ芋や葵の葉も「♡の幾何学的な図形の特徴を指す呼称」で形を例えられないということになる
・幕末~明治期の文献から「ハート形」」「心形」「心臓形」の記述を探して市井の人々の中に「ハート形」という概念が定着していった流れの調査
→ https://web.archive.org/web/20181002182121/nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/261341.html
ってニュースが出て一日経って気持ちが落ち着いてので思うところというか憶測というか邪推。
それなりにはファンであった。
と言ってもライブには一度も行ってないしファンクラブにも入ってない。
とは言え、おれが芸能人(と言ってもみゆはんの一般知名度は低いが)を可愛いと思うことが稀有であるなかで、いつぶりだったか思い出せないくらいに好きな顔立ちであった。
目と口が大きくてどこか猫っぽい顔立ちが好みであるとともに、金髪のショートヘアになんとなく白猫のような印象があった。
彼女の本業である音楽活動については、「けものフレンズ」の初代EDはまあまあ好きではあったが、その後の楽曲はそこまで琴線に触れるものではなかった。
再度言うが、「それなりにはファン」であるので、この風貌が好みであるという程度である。
彼女のLINEは登録してたので結婚に至ったと知ったのは、ほぼ即時のことであった。
LINEの「おしらせ」がどうせまたライブかアルバムか何かイベントのあるのかと思ったところ、
の順での通知であった。
結婚に伴い事務所を退所って言っているが、その後のみゆはんの転籍先が無い。
彼女の所属する事務所はそれほど大手ではなく、公式サイトを見たところでWikipediaに乗ってるタレントはみゆはんとAdoくらいである。
昭和のアイドルでもあるまいに、結婚して事務所を退所するってのがどうも引っかかる。
事務所的にはそうそう手放せるような存在ではなかったであろうと思われるが、事務所退所は結婚報告から1週間程度の後のことである。
ここで、退所に伴うトラブルが彼女と事務所間で皆無であろうとはとても思えない。
事務所代表から「お祝い」の言葉はあるものの、単なる社交辞令にも思えた。
じゃあその後の音楽活動はどうするかについての言及は皆無に等しい(SNSでファンに「続けるよ」みたいな返信をしてたくらい)。
ということで、「お行儀の良い」手続きで事務所を退所したとは思えないし、今後の音楽活動だってこれまでのように継続するとは思えない。
なお、相手は同じ音楽活動をやってるようであるがこいつに興味はないし知らない。
それで今になって思い出しのが、だいぶ前に読んださくらももこのエッセイである。
著者の姉が「芸能人のあれが良いこれが良い」と言って結婚しないのに母がブチ切れた話だ。
「あんたね、テレビ画面の向こうの存在なんて実在の人物じゃないんだよ。現実をみなさいよ」と(笑)。
そうなのだ、みゆはんだってインターネットの向こうだけの実在の人物じゃないんだよ。
はあ。。。
「巨人の肩に乗る」って表現は先人の業績の上に新たな業績を積み重ねていくという意味であって、車輪の再発明とはだいぶ意味が違う。
なお、「巨人の肩に乗る」という表現はアイザック・ニュートンが使ったものとして有名。(プラトンは時代が古すぎると思う)
【追記】Wikipedia の「巨人の肩の上」という項目に詳しい説明があって参考になります。それによると、
科学者アイザック・ニュートンが1676年にロバート・フックに宛てた書簡の以下の一節で知られるようになった。
私がかなたを見渡せたのだとしたら、それは巨人の肩の上に立っていたからです。(英語: If I have seen further it is by standing on yᵉ sholders of Giants.)
このニュートンの手紙が原典と見なされることも多いが、最初に用いたのは12世紀のフランスの哲学者、シャルトルのベルナールとされる。
だそうです。