はてなキーワード: 高校受験とは
戦国武将は大体中卒レベルで元服して一軍を率いて戦い始めて20代でもういっぱしの幹部レベルになるし30代で歴戦の重鎮になるわけじゃん
企業からしても高校大学の高等教育が必要な職業ってそれほどないし若ければ若いほどいいやん?
15のガキからしても高校行って朝8時半から勉強+部活で帰るの夜7時半ってのとフルタイムで働くのそんなにかわらんやん
15で就職したら同年代の22歳大学新卒ガキが入ってくるころにはアドがヤバイわけじゃん
仕事で発生する責任だって最初は企業側がケツ持ってあげればいいだけ ガキなんだから
中学生の時にバイブルのように読み漁っていた小説家がいたんだけど、高校受験のシーズンに入ってからと高校時代は勉強で心に余裕がなくて小説自体あまり読まなかった。大学生になって溜まった未読本を読もうと思って手を出したら作風とか、あとおそらく作家のメンタリティが結構変わっていた。解釈が変わったらなんだか中学時代に読んだ分まで遡って好きでなくなってしまいそうで、それがあまりにも寂しく感じ、自分の中学時代とその作家の蜜月を密封するために新作は一切読むのをやめた。
大人になってからは、すでに読んでいたものに対してさえ卑屈な感情を抱くようになった。知識が増えた目でその人の作風やエッセイを捉え直すと、あっ なかなか上流階級ですね…ということが見て取れるようになったからだ。そして本人はあるあるネタとして書いているものも、結果的にそういう階層内での内輪ネタにしかなっていないように感じるものが増えた。卑屈な気持ちになるし、それをいつか自分も体験するんだと無邪気に信じていた中学生の自分が馬鹿みたいで情けなくなった。
自分の感性や考え方の土台は明らかにその作家に追随し、模倣する形で作られたのに、それを基礎にした思考体系の1番上にいる現在の自分は、彼の書くものをテーマからしてしゃらくさいとしか思えない。不相応な世界観をそうと気付かずに取り入れた自分が恥ずかしい。そう考えている今の自分の思考はそこから生まれていることも苦しい。彼のことを考えると自己否定に繋がる。
まあだからあまり考えないようになって10年は経ってたんだけど、さっき彼とは関係ないラジオ番組を聞いてたら作家名がでて少し触れられていて思い出した。
つまり高校までのあらゆるレベルの参考書や大学受験の問題を解けるような状態にしておかなければならないとか思っている。
それはたとえば難関大の赤本をぱらぱらめくるだけでも、高校数学の範囲の中で可能な問題設定がこれでもかというほど無数に思えるバリエーションで存在することが分かるということだ。これら全てをマスターせずに専門数学を学んだところで、自分で問題設定したりそれを解いたりできるようになるのかという疑問がある。高校数学ですらそれができるようになってないわけですから。
また高校数学の教科書から一歩出た段階の典型問題や応用問題では、解の個数を求めるときは定数分離するといいことがあるとか、二次曲線同士が接する条件は重解条件とは限らないとか、そういう定理というほどでもないいろんな考え方を身につけさせられるものだ。
専門数学を学ぶ上での記述には、そういう頭のいい筆者が高校時代に身につけた考え方など明示的に表現されてなくて、高校数学を完璧にしておかないとそうした行間を補えず躓いてしまうだけなのではないかと思った。
あれ、でもそんなこと言ったらそもそも高校受験や中学受験も灘や開成で出るような問題は解ける保証ないかも?そこからやり直し?ってなってくる。そういえば算数の中学受験問題解いてみたが全然解けない。
そもそも大学への数学シリーズで得意げに解説してる筆者たちは参考書のレベルにおいて今の自分達が執筆してる位置付けのあらゆる本の内容を高校時代にマスターしていたのかすら疑問なのだが。
とはいえ、難関の中高一貫から東大数学科に入った子には中高の数学は自分では全く勉強した覚えがない(つまり中学受験時から塾に行かずに受かってるんだろうな)という人もいるらしいし、こういう人間はいまさら赤本だの中学受験の算数だの解けるか確認するまでもなく解けて当たり前なのかもしれない。そしてそういう人間の一部が次代の受験業界で難問奇問を自在に作る側に回ってるのかもしれない。
とはいえやはり、高校までのレベルのいろんな問題を解く上で必要な、身につけられる考え方というものが純粋数学の研究および証明に活きてくるという事例はないのだろうか。いやむしろ、その考え方を知っていたからこそひらめいたわけで、知っていなかったら証明に辿り着けなかったということが最先端の数学において無いのだろうか?
その考え方を知らないパラレルワールドの自分が証明できてるかどうか確認する術はないので、その考え方が証明に必要不可欠だったかどうかは証明しようがないんだけども。
とはいえ大学数学に臨むために中学の算数から受験問題の研究で徹底的に深掘りし直したなんて話聞いたこともないし、このあたりは「中高で数学は自主勉強しなかった」ような人間がその道に進むのが適切なのであって、いちいちしらみつぶしにあらゆる受験問題を解いたりしないと自分では考えが浮かばないような人は、そういうことを完璧にしようとした時点で人生の時間切れが迫るし、そもそもその程度の人間は大学数学向いてないと見切りをつけるのも必要かもしれないな
docomoの配信サービスで配信されている、とあるアイドルオーディションサバイバル番組にどハマりしてずっと見ている。過去シリーズまで追って、そこからデビューしたアイドルを推すほどハマっている。
そんな番組に出会ってしまったことをきっかけに、自分の人生について、過去に無いくらい考えて悔やんで分析して、を繰り返している。
両親のことは大好きだ。
奨学金なんて必要ないくらいの収入があった父親に専業主婦で毎日「おかえり」と言ってくれる母親、3食おいしいご飯、たまの家族旅行、何一つ不自由なく育ててもらった。
中学入って以降は、私のやりたいことが私の成長に繋がるのならばと、できる限りを尽くしてやらせてもらった。
親ガチャとかいう言葉だって必要ないほど恵まれた環境で育った。
根暗で、卑屈で、俯瞰してて、ひねくれていて、粘着質で、冷めていて、僻みがちな中身の問題だ。
少なくともまだ年齢の数字が1桁だったときは、明るくてよくしゃべる、放課後は毎日遊びに行くような友達の多い子だったと思う。
それなのに変わってしまったのは自分の中で明確なターニングポイントがあって、それが「中学受験」だったと思っている。
身バレしたらしたで仕方ない。
ずっと抱えてきた贅沢な息苦しさを誰かに聞いてほしい。
今から話す私の生い立ちがとんでもなく恵まれていることなんてわかってる。今から話す全てがとんでもなく甘いことなんてわかってる。無いものねだりの高望みだってことだってわかってる。だから、この長くてまとまりのない文章をもし読んでくれるのであれば、この親不孝ものが、甘ったれが、クズが、って、思う存分バカにして反面教師にして笑ってほしい。
物心ついたときから、歌ったり踊ったり楽器を演奏したりするのが大好きだった。
私の通っていた郊外の幼稚園にはたしか必須のクラブ活動があって、年少さんのときは親の意向で「お作法クラブ」に入れられた。お着物を着てお茶の飲み方を教わったり毛筆の書道を並んで書いたり、素敵なことなんだけれど、3歳の私は幼いながらにかなり堅苦しさを感じていた。
クラスで一番仲の良かったおともだちがバレエクラブに入っているのがとても羨ましかった。ことあるごとに私もバレエクラブがいい、来年は変えて!と主張し続け、年中になった時には晴れてバレエクラブに入れてもらえたが、年長に上がった段階ではなぜかもとのお作法クラブに戻されていた。
幼稚園の3年間はクラブ活動とは別で習い事をしていた。英会話教室と、今は無きn田チャイルドアカデミー(n=7)だ。英会話教室は5歳になっても何のために何をやっているのかわからなかったのと、言葉が先生に通じないのとでかなりストレスを感じていたと思う。
n田は、英会話教室なんかよりもはるかに何のために何をやっているのかわからなかったのと、毎日課される難解な宿題プリントと、自分の習い事をどういうふうにおともだちに説明すれば伝わるのかがわからなさすぎて、何が何だかよくわからないまま終えた。
ピアノやバレエを習っているおともだちがそれはそれは羨ましかった。
小学校に上がるタイミングで関東の割と都会な地域に引っ越した。その地域から無理なく通える範囲に高偏差値な私立の中高一貫校が2つもあり(以下A中学•B中学、A中学のほうがレベルが高い)、どうやら親はその学区の良さに惹かれてその地域に引っ越すことを決めたようだった。
n田の難解な宿題プリントはなぜか小学生に上がってからも続いた。学校の宿題とは別で、毎日のノルマを課されていた。新しい学校で持ち前の明るさを発揮し、近所に友達もたくさんできて、遊びたい盛りだった低学年の私には、異常に難しい問題を怒られながら泣きながらこなすのは相当な苦行だった。
小学2年生になってからは、年に2,3回、大手中学受験塾のオープンテストを受けるようになった。気づいたら申し込まれていて、気づいたら受験票があって、気づいたら当日その塾に連れて行かれて謎のテストを解いている、そんな状態だった。n田の毎日のプリントのおかげか、成績は相当良かった。
あなたはこれからA中学を目指すのよ、みんなと同じ隣の中学校にはいけないの。地元の中学校に行くのはちょっとばかなのよ。と言われる(刷り込まれる)ようになる。
地域のお祭りに行った時にステージで見た、小学生のダンスチームの発表がとてもかっこよく見えて、釘付けになった。家に帰ってから親にそのことを話し、「私もダンスやってみたい、習い事したい」とお願いをしたら、「5年生くらいになったらいいよ」と言われ、私はその言葉を信じて3年待ってみることにした。
お風呂でオリジナルの歌を歌ってみたり、適当な踊りを作ってみたり、自分がカリスマアイドルとしてデビューするような妄想をしていたのもこの時期だったと思う。
小学3年生になってもオープンテストは言われるがままに受け続け、2月には「新4年生」としてついに入塾していた。ちょうどこの頃、近くの高校(中高一貫ではない、以下C高校)の合唱部が私の小学校に演奏会をしに来てくれて、その演奏の素晴らしさに感動し、ほのかにC高校に行きたい!という思いが芽生えた。
4年生になり、中学受験がはじまった。目標はA中学。県内屈指の進学校を目指して塾通いが始まった。事前の数年間のオープンテストの結果、クラスは一番上になり、受験が終わるまでクラスが落ちることは一回も無かった。
塾自体はとても楽しかった。10数年経った今でも連絡を取り合うような大事な仲間もできたし、なにより当時は小学生にして他校に友達がいるという事実が誇らしかった。
常になにがなんだかわからないままテストを受け続けてついに始まった中学受験生活だったが、私の意識は常に「親に怒られるから仕方なく勉強している」だった。
今までは存在しなかった授業ごとの予習•復習の行程、難しい問題で躓き、とくに算数は強敵だった。ほんとうに難しかった。
わからなくて、理解できなくて、私の勉強のあまりの進度の遅さに怒られ、毎日のように殴られ、教科書を破られ、ノートを破られ、こっそり楽しんでいたニンテンドーDSliteは見つかって真っ二つに折られ、悔しさと意味のわからなさに泣き叫び、近所から苦情が入り、さらに怒られ、テストの点が悪いとため息をつかれ、そんな日々が3年間続いた。
受験直前にはもう燃え尽きていて、自習と嘘をついてショッピングモールに出かけたりもしていた。当然バレて、さらに怒られた。口も悪くなったし、このあたりから私も何かあるとすぐキレてしまうような難しい性格になった。
小学4年生ともなるとだんだん人間味を帯びてくる。ヒソヒソ話や悪口や友達のグループ化が激化する。塾に行くようになってからは遊びに行くことも減り、放課後も付き合いがあるような友達も減った。
塾に行くようになったことで、授業中の発言や普段の言動に対して「いい子ぶってんじゃねーよ」「頭いいからって偉そうにしないでくれる?」と言われるようになった。
自分に問題があるんだと思い、明るかったのが嘘のようにあまり話さない子どもになった。実際何かしら偉そうに聞こえるような言動はあったんだと思う。
5,6年生のときはクラスの3分の1が中学受験をしている子たちだった。
学年の受験生がほぼ固められているにもかかわらず、次の担任は中学受験に対する理解がまるで無かったので、日記帳を1日見開き1ページ書くという宿題が毎日出た。
大体の日はそれにプラスしてワークなどがあった。当然、学校の宿題の量と塾の与復習の両立に苦戦した。家ではそれが原因でさらに怒られた。
周りの受験生も学校の宿題が大変と愚痴をこぼしていたので、私だけじゃないと知って安心した。
クラスで私を仲間はずれにした女子のことを陰で女王様と揶揄っていたら、誰かにそれを担任にチクられ、授業をひとつ潰してまで説教された。
泣いて謝り許しを乞うまで説教は終わらなかった。世の中には私の味方なんていないんだと思った。
そういえば、2年生だったあのときから待ちに待っていた5年生になったので、めちゃくちゃダメ元で親に「ダンス、習わせてくれるんだよね…?」と聞いたら、何わけわかんないこと言ってんの勉強に集中しなさいと一蹴された。
中学受験中にダンスなんてやってる場合じゃないのはわかってはいたけど、それはそれでつらかった。
頭打ちの成績、勉強に対するやる気の無さ、新しいクラスでできた友達とも遊びたい、そんないろいろな要因が重なって、家庭内でも勉強をしたがらない私に対する怒鳴り声は常に飛んでいた。
怒られない日の方が珍しかった。
自分の気力、体力、学力には到底合わない高いレベルの内容には正直ついていけていなかった。
当然勉強は嫌いになった。少し理解できない問題が続くとなんでそんなにできないのと怒られ顔を引っ叩かれ毎日泣いて、ある日勇気を出して「受験をやめたい」と言ってみた。
親にはA中学B中学に行くとこんなにいいことがあるんだよお前の将来の選択肢が広がっていい大学にもいけるしいいところに就職できるんだよ、それはみんなは高校受験で競争率が高い中やることだから、中学のうちにやっておいた方がいいんだぞ、それでもお前は受験をやめるのかと言われたが、私はある日にはC高校に行きたいと自分の意思で思ったんだから高校受験でそこを目指したいんだと強い意志を持って受験をやめる選択をした。
地元の中学に行く奴はバカと言われて育って来たので少しプライドが許せなさそうだったが、それよりもこの受験生活が、「私のため」の名のもとに暴言と暴力の飛び交うこの異常な家庭が嫌だったので、受験をやめる決断をできたことにほっとしていた。
後日優しい口調の親に丸め込まれ、なぜか受験は続行することとなった。正直どうしてこうなったのか何も覚えていない。
結局中学受験は完遂し、A中学は落ち、B中学はそもそも受験せず、家からは少し遠い第3志望のD中学に入学することになった。
B中学よりはレベルの高い進学校だったので、A中学に落ちたことによってプライドが傷つくこともそこまでなかった。
中学に上がり、かねてより部活というものに、特に運動部に憧れがあったので、そのまま運動系の部活に入った。
チアリーディング部はあったが、正直ヒップホップ系のダンスがやりたかったのと、小学生の時にあてられた記憶で女子の集団が完全に苦手になってしまったので、チアリーディング部には入らなかった。
毎日の練習が楽しくてヘトヘトになって帰ると、勉強する体力とやる気なんて残っていなかった。
最初は地頭で乗り切っていた定期試験もだんだん順位が落ちていき、高校に上がってからは留年スレスレを彷徨うこととなった。
中学受験で完全に捻くれた性格が災いし、人間関係の構築は部活以外では皆無であった。
内向的になりかけていた自分の性格がさらに内向的になり、何重にも殻に閉じこもるようになった。
順調に過ごす周りの同級生を見て、どうしてこの子達は同じ壮絶な受験を経験しているはずなのにこんなに真っ直ぐで明るいのだろうと疑問に思っていた。
中高一貫校の性質上、入学早々にやらかすとそこから卒業までは取り返しがつかなかったので、本当に部活の仲間以外の友達はいないに等しかった。
進学校の勉強についていけないことと友達のいないストレスが相まって、学校の授業は休んだり遅刻したりすることが多かった。それでも部活の時間には必ず練習場に行って、毎日練習には参加した。その甲斐あって、部活の方は最終的には目標だった県の上位層に食い込むことができた。
家庭では大学受験を見据えろとか勉強しろとかは一切言われなくなった。
流石に留年が危ぶまれた時は進級できるくらいにはなってくれとは言われたが、それくらいだった。希望ではないものの進学校に入れることができた満足と、あと妹の中学受験が始まっていたのも一因だったと思う。
結果的に妹は黙々と学習を重ね国内トップレベルの中学に入学したし、私は大学受験の勉強を相当サボりつつも、運良く上位校と呼ばれるような私立の大学のよくわからない学部に現役で合格した。
私の中学受験生活が酷すぎたぶん、妹には重い重い期待がかかっていてプレッシャーだったと思う。妹は妹で家庭でもあまり感情を出さずおとなしくして親の言うことを素直に聞いているように見えた。
姉のふり見て我がふり直せ、だったんだろう。
申し訳ないことをしたと思っているし、やはり我が家は中学受験なんて向いてない家庭だと思っている。
半年に一回くらい、ボイストレーニングの無料体験に申し込んで、無料体験レッスンだけ受講したことが何回かあった。ボーカリストのオーディションとか受けてみたいなと思い調べることもあったが、一回も応募したことはなかった。
そして今、私は大学生をしている。
持ち前の勉強嫌いを発揮していくつかの単位を落としながら、中高でやっていた運動は続けながら、アカペラサークルやミュージカルサークルの所属してステージに立ってみたこともあった。
お金が想定よりかかったり、思ったよりも本気で音楽に向き合う人がいないいわゆる形だけのサークルだったりで、どちらもすぐ辞めてしまった。
そして、とある前世持ち練習生の存在をきっかけに、冒頭に書いた某アイドルオーディションサバイバル番組の配信に辿りついた。
が、その番組や前シリーズやそこからデビューしたグループを見ていくうちに、自分と同年代の子達がデビューに向けて取り組むのを見ていくうちに、何か動悸がするような、焦るような気持ちが抑えられなくなっていた。
大きいステージに立っているアイドルを見ていると涙が出てくる。
私もそっちに行きたいって。
アイドルを目指していたなんて言えるほどの努力は一切していないけど、ステージで表現して人の心を掴むということに対する強い憧れはずっと持っていて、悔しさがこみ上げてきて。
私の好きなアイドルは10年を超えるダンス歴で、とにかくいろんなステージに立っていろんなオーディションを受けて大きな挫折も味わって、そんな長い下積みの末やっとデビューした。
その人が「小学生の時にダンスを習い始めて、そのおかげで内気だったのが明るい性格になった」とたびたび話していて、でもそれを聞くたびにすこし胸が苦しくなる。
私は音楽が好きで、自分で何かを表現したかったという気持ちは絶対にずっとあって、それを無理に抑えてこなかったら?
中学受験の時のあの地獄のような家庭環境が無かったら、ダンスというずっとやりたかったことで自己表現ができていたら、もっとまっすぐな明るい子だったのではないか。
小学校からダンスや歌を本格的にやらせてもらっていたら、私もあの番組のステージに立てたのではないか。
私の勉強嫌いは完全に中学受験からきているわけで、それが無かったら別に高校受験からでもこの大学に入ることはできたんじゃなかろうか。勉強を自発的にできるようになって、もっと良いところに行けてた可能性もあったんじゃなかろうか。逆も然りだけど。
今考えたらあの習い事もクラブ活動も全部親の決めたもので、私の意思なんてこれっぽっちもなくて、全てが勉強につながるようなもので、だから今の私は勉強がとてもとでも嫌いだし、大学生になった今でも勉強は自分のためではなくて新卒大卒獲得のためにやらされるものだと心の底では思っている。
中学受験の時の生活は今考えたら虐待だったね本当にごめんねと親は言ってくるけれども、明るかった小学3年生以前の私の性格はもう帰ってこない。
元の形の記憶を失うほどにねじれて拗れてズタズタになってしまったあの時の私から変われる気配なんてない。今から明るく優しい子になんてなれない。
家庭内でたまに言い方がきついと怒られそれがきっかけで大きな喧嘩になることもあるけれど、あの多感な時期に毎日怒られ怒鳴られ殴られ続けて親の口調が移らないわけない。私の口調と親の口調はびっくりするほどそっくりだ。
私のために全力でサポートしてくれたんだと思う。でも別に中学受験させてくれなんて頼んでなかった。あんな怒鳴り声と泣き叫ぶ声と暴力の絶えない家にしてくれなんて頼んでなかった。あんなんなるなら、地元の中学でもよかった。
やりたいことなんて何もできなかったし私の話なんて微塵も聞いてくれなかったなと思ってしまう。
それでも、ここまで育ててくれて、私のことを考えて人生設計の手助けをしてくれて、中高大10年間の私立の学費を惜しみなく出してくれた親には本当に感謝している。本当に恵まれた家庭で何ひとつ不自由なく育ったと思う。
それに、本当にダンスや歌がやりたかったなら、中学に上がったタイミングで部活に入らずに、今度こそダンスを習わせてほしいボイトレに通いたいと親を説得することだってできたはずだ。そうしなかった段階でそこまで本気じゃなかったんだと思う。このことに気づいて、初めてあ
docomoの配信サービスで配信されている、とあるアイドルオーディションサバイバル番組にどハマりしてずっと見ている。過去シリーズまで追って、そこからデビューしたアイドルを推すほどハマっている。
そんな番組に出会ってしまったことをきっかけに、自分の人生について、過去に無いくらい考えて悔やんで分析して、を繰り返している。
両親のことは大好きだ。
奨学金なんて必要ないくらいの収入があった父親に専業主婦で毎日「おかえり」と言ってくれる母親、3食おいしいご飯、たまの家族旅行、何一つ不自由なく育ててもらった。
中学入って以降は、私のやりたいことが私の成長に繋がるのならばと、できる限りを尽くしてやらせてもらった。
親ガチャとかいう言葉だって必要ないほど恵まれた環境で育った。
根暗で、卑屈で、俯瞰してて、ひねくれていて、粘着質で、冷めていて、僻みがちな中身の問題だ。
少なくともまだ年齢の数字が1桁だったときは、明るくてよくしゃべる、放課後は毎日遊びに行くような友達の多い子だったと思う。
それなのに変わってしまったのは自分の中で明確なターニングポイントがあって、それが「中学受験」だったと思っている。
身バレしたらしたで仕方ない。
ずっと抱えてきた贅沢な息苦しさを誰かに聞いてほしい。
今から話す私の生い立ちがとんでもなく恵まれていることなんてわかってる。今から話す全てがとんでもなく甘いことなんてわかってる。無いものねだりの高望みだってことだってわかってる。だから、この長くてまとまりのない文章をもし読んでくれるのであれば、この親不孝ものが、甘ったれが、クズが、って、思う存分バカにして反面教師にして笑ってほしい。
物心ついたときから、歌ったり踊ったり楽器を演奏したりするのが大好きだった。
私の通っていた郊外の幼稚園にはたしか必須のクラブ活動があって、年少さんのときは親の意向で「お作法クラブ」に入れられた。お着物を着てお茶の飲み方を教わったり毛筆の書道を並んで書いたり、素敵なことなんだけれど、3歳の私は幼いながらにかなり堅苦しさを感じていた。
クラスで一番仲の良かったおともだちがバレエクラブに入っているのがとても羨ましかった。ことあるごとに私もバレエクラブがいい、来年は変えて!と主張し続け、年中になった時には晴れてバレエクラブに入れてもらえたが、年長に上がった段階ではなぜかもとのお作法クラブに戻されていた。
幼稚園の3年間はクラブ活動とは別で習い事をしていた。英会話教室と、今は無きn田チャイルドアカデミー(n=7)だ。英会話教室は5歳になっても何のために何をやっているのかわからなかったのと、言葉が先生に通じないのとでかなりストレスを感じていたと思う。
n田は、英会話教室なんかよりもはるかに何のために何をやっているのかわからなかったのと、毎日課される難解な宿題プリントと、自分の習い事をどういうふうにおともだちに説明すれば伝わるのかがわからなさすぎて、何が何だかよくわからないまま終えた。
ピアノやバレエを習っているおともだちがそれはそれは羨ましかった。
小学校に上がるタイミングで関東の割と都会な地域に引っ越した。その地域から無理なく通える範囲に高偏差値な私立の中高一貫校が2つもあり(以下A中学•B中学、A中学のほうがレベルが高い)、どうやら親はその学区の良さに惹かれてその地域に引っ越すことを決めたようだった。
n田の難解な宿題プリントはなぜか小学生に上がってからも続いた。学校の宿題とは別で、毎日のノルマを課されていた。新しい学校で持ち前の明るさを発揮し、近所に友達もたくさんできて、遊びたい盛りだった低学年の私には、異常に難しい問題を怒られながら泣きながらこなすのは相当な苦行だった。
小学2年生になってからは、年に2,3回、大手中学受験塾のオープンテストを受けるようになった。気づいたら申し込まれていて、気づいたら受験票があって、気づいたら当日その塾に連れて行かれて謎のテストを解いている、そんな状態だった。n田の毎日のプリントのおかげか、成績は相当良かった。
あなたはこれからA中学を目指すのよ、みんなと同じ隣の中学校にはいけないの。地元の中学校に行くのはちょっとばかなのよ。と言われる(刷り込まれる)ようになる。
地域のお祭りに行った時にステージで見た、小学生のダンスチームの発表がとてもかっこよく見えて、釘付けになった。家に帰ってから親にそのことを話し、「私もダンスやってみたい、習い事したい」とお願いをしたら、「5年生くらいになったらいいよ」と言われ、私はその言葉を信じて3年待ってみることにした。
お風呂でオリジナルの歌を歌ってみたり、適当な踊りを作ってみたり、自分がカリスマアイドルとしてデビューするような妄想をしていたのもこの時期だったと思う。
小学3年生になってもオープンテストは言われるがままに受け続け、2月には「新4年生」としてついに入塾していた。ちょうどこの頃、近くの高校(中高一貫ではない、以下C高校)の合唱部が私の小学校に演奏会をしに来てくれて、その演奏の素晴らしさに感動し、ほのかにC高校に行きたい!という思いが芽生えた。
4年生になり、中学受験がはじまった。目標はA中学。県内屈指の進学校を目指して塾通いが始まった。事前の数年間のオープンテストの結果、クラスは一番上になり、受験が終わるまでクラスが落ちることは一回も無かった。
塾自体はとても楽しかった。10数年経った今でも連絡を取り合うような大事な仲間もできたし、なにより当時は小学生にして他校に友達がいるという事実が誇らしかった。
常になにがなんだかわからないままテストを受け続けてついに始まった中学受験生活だったが、私の意識は常に「親に怒られるから仕方なく勉強している」だった。
今までは存在しなかった授業ごとの予習•復習の行程、難しい問題で躓き、とくに算数は強敵だった。ほんとうに難しかった。
わからなくて、理解できなくて、私の勉強のあまりの進度の遅さに怒られ、毎日のように殴られ、教科書を破られ、ノートを破られ、こっそり楽しんでいたニンテンドーDSliteは見つかって真っ二つに折られ、悔しさと意味のわからなさに泣き叫び、近所から苦情が入り、さらに怒られ、テストの点が悪いとため息をつかれ、そんな日々が3年間続いた。
受験直前にはもう燃え尽きていて、自習と嘘をついてショッピングモールに出かけたりもしていた。当然バレて、さらに怒られた。口も悪くなったし、このあたりから私も何かあるとすぐキレてしまうような難しい性格になった。
小学4年生ともなるとだんだん人間味を帯びてくる。ヒソヒソ話や悪口や友達のグループ化が激化する。塾に行くようになってからは遊びに行くことも減り、放課後も付き合いがあるような友達も減った。
塾に行くようになったことで、授業中の発言や普段の言動に対して「いい子ぶってんじゃねーよ」「頭いいからって偉そうにしないでくれる?」と言われるようになった。
自分に問題があるんだと思い、明るかったのが嘘のようにあまり話さない子どもになった。実際何かしら偉そうに聞こえるような言動はあったんだと思う。
5,6年生のときはクラスの3分の1が中学受験をしている子たちだった。
学年の受験生がほぼ固められているにもかかわらず、次の担任は中学受験に対する理解がまるで無かったので、日記帳を1日見開き1ページ書くという宿題が毎日出た。
大体の日はそれにプラスしてワークなどがあった。当然、学校の宿題の量と塾の与復習の両立に苦戦した。家ではそれが原因でさらに怒られた。
周りの受験生も学校の宿題が大変と愚痴をこぼしていたので、私だけじゃないと知って安心した。
クラスで私を仲間はずれにした女子のことを陰で女王様と揶揄っていたら、誰かにそれを担任にチクられ、授業をひとつ潰してまで説教された。
泣いて謝り許しを乞うまで説教は終わらなかった。世の中には私の味方なんていないんだと思った。
そういえば、2年生だったあのときから待ちに待っていた5年生になったので、めちゃくちゃダメ元で親に「ダンス、習わせてくれるんだよね…?」と聞いたら、何わけわかんないこと言ってんの勉強に集中しなさいと一蹴された。
中学受験中にダンスなんてやってる場合じゃないのはわかってはいたけど、それはそれでつらかった。
頭打ちの成績、勉強に対するやる気の無さ、新しいクラスでできた友達とも遊びたい、そんないろいろな要因が重なって、家庭内でも勉強をしたがらない私に対する怒鳴り声は常に飛んでいた。
怒られない日の方が珍しかった。
自分の気力、体力、学力には到底合わない高いレベルの内容には正直ついていけていなかった。
当然勉強は嫌いになった。少し理解できない問題が続くとなんでそんなにできないのと怒られ顔を引っ叩かれ毎日泣いて、ある日勇気を出して「受験をやめたい」と言ってみた。
親にはA中学B中学に行くとこんなにいいことがあるんだよお前の将来の選択肢が広がっていい大学にもいけるしいいところに就職できるんだよ、それはみんなは高校受験で競争率が高い中やることだから、中学のうちにやっておいた方がいいんだぞ、それでもお前は受験をやめるのかと言われたが、私はある日にはC高校に行きたいと自分の意思で思ったんだから高校受験でそこを目指したいんだと強い意志を持って受験をやめる選択をした。
地元の中学に行く奴はバカと言われて育って来たので少しプライドが許せなさそうだったが、それよりもこの受験生活が、「私のため」の名のもとに暴言と暴力の飛び交うこの異常な家庭が嫌だったので、受験をやめる決断をできたことにほっとしていた。
後日優しい口調の親に丸め込まれ、なぜか受験は続行することとなった。正直どうしてこうなったのか何も覚えていない。
結局中学受験は完遂し、A中学は落ち、B中学はそもそも受験せず、家からは少し遠い第3志望のD中学に入学することになった。
B中学よりはレベルの高い進学校だったので、A中学に落ちたことによってプライドが傷つくこともそこまでなかった。
中学に上がり、かねてより部活というものに、特に運動部に憧れがあったので、そのまま運動系の部活に入った。
チアリーディング部はあったが、正直ヒップホップ系のダンスがやりたかったのと、小学生の時にあてられた記憶で女子の集団が完全に苦手になってしまったので、チアリーディング部には入らなかった。
毎日の練習が楽しくてヘトヘトになって帰ると、勉強する体力とやる気なんて残っていなかった。
最初は地頭で乗り切っていた定期試験もだんだん順位が落ちていき、高校に上がってからは留年スレスレを彷徨うこととなった。
中学受験で完全に捻くれた性格が災いし、人間関係の構築は部活以外では皆無であった。
内向的になりかけていた自分の性格がさらに内向的になり、何重にも殻に閉じこもるようになった。
順調に過ごす周りの同級生を見て、どうしてこの子達は同じ壮絶な受験を経験しているはずなのにこんなに真っ直ぐで明るいのだろうと疑問に思っていた。
中高一貫校の性質上、入学早々にやらかすとそこから卒業までは取り返しがつかなかったので、本当に部活の仲間以外の友達はいないに等しかった。
進学校の勉強についていけないことと友達のいないストレスが相まって、学校の授業は休んだり遅刻したりすることが多かった。それでも部活の時間には必ず練習場に行って、毎日練習には参加した。その甲斐あって、部活の方は最終的には目標だった県の上位層に食い込むことができた。
家庭では大学受験を見据えろとか勉強しろとかは一切言われなくなった。
流石に留年が危ぶまれた時は進級できるくらいにはなってくれとは言われたが、それくらいだった。希望ではないものの進学校に入れることができた満足と、あと妹の中学受験が始まっていたのも一因だったと思う。
結果的に妹は黙々と学習を重ね国内トップレベルの中学に入学したし、私は大学受験の勉強を相当サボりつつも、運良く上位校と呼ばれるような私立の大学のよくわからない学部に現役で合格した。
私の中学受験生活が酷すぎたぶん、妹には重い重い期待がかかっていてプレッシャーだったと思う。妹は妹で家庭でもあまり感情を出さずおとなしくして親の言うことを素直に聞いているように見えた。
姉のふり見て我がふり直せ、だったんだろう。
申し訳ないことをしたと思っているし、やはり我が家は中学受験なんて向いてない家庭だと思っている。
半年に一回くらい、ボイストレーニングの無料体験に申し込んで、無料体験レッスンだけ受講したことが何回かあった。ボーカリストのオーディションとか受けてみたいなと思い調べることもあったが、一回も応募したことはなかった。
そして今、私は大学生をしている。
持ち前の勉強嫌いを発揮していくつかの単位を落としながら、中高でやっていた運動は続けながら、アカペラサークルやミュージカルサークルの所属してステージに立ってみたこともあった。
お金が想定よりかかったり、思ったよりも本気で音楽に向き合う人がいないいわゆる形だけのサークルだったりで、どちらもすぐ辞めてしまった。
そして、とある前世持ち練習生の存在をきっかけに、冒頭に書いた某アイドルオーディションサバイバル番組の配信に辿りついた。
が、その番組や前シリーズやそこからデビューしたグループを見ていくうちに、自分と同年代の子達がデビューに向けて取り組むのを見ていくうちに、何か動悸がするような、焦るような気持ちが抑えられなくなっていた。
大きいステージに立っているアイドルを見ていると涙が出てくる。
私もそっちに行きたいって。
アイドルを目指していたなんて言えるほどの努力は一切していないけど、ステージで表現して人の心を掴むということに対する強い憧れはずっと持っていて、悔しさがこみ上げてきて。
私の好きなアイドルは10年を超えるダンス歴で、とにかくいろんなステージに立っていろんなオーディションを受けて大きな挫折も味わって、そんな長い下積みの末やっとデビューした。
その人が「小学生の時にダンスを習い始めて、そのおかげで内気だったのが明るい性格になった」とたびたび話していて、でもそれを聞くたびにすこし胸が苦しくなる。
私は音楽が好きで、自分で何かを表現したかったという気持ちは絶対にずっとあって、それを無理に抑えてこなかったら?
中学受験の時のあの地獄のような家庭環境が無かったら、ダンスというずっとやりたかったことで自己表現ができていたら、もっとまっすぐな明るい子だったのではないか。
小学校からダンスや歌を本格的にやらせてもらっていたら、私もあの番組のステージに立てたのではないか。
私の勉強嫌いは完全に中学受験からきているわけで、それが無かったら別に高校受験からでもこの大学に入ることはできたんじゃなかろうか。勉強を自発的にできるようになって、もっと良いところに行けてた可能性もあったんじゃなかろうか。逆も然りだけど。
今考えたらあの習い事もクラブ活動も全部親の決めたもので、私の意思なんてこれっぽっちもなくて、全てが勉強につながるようなもので、だから今の私は勉強がとてもとでも嫌いだし、大学生になった今でも勉強は自分のためではなくて新卒大卒獲得のためにやらされるものだと心の底では思っている。
中学受験の時の生活は今考えたら虐待だったね本当にごめんねと親は言ってくるけれども、明るかった小学3年生以前の私の性格はもう帰ってこない。
元の形の記憶を失うほどにねじれて拗れてズタズタになってしまったあの時の私から変われる気配なんてない。今から明るく優しい子になんてなれない。
家庭内でたまに言い方がきついと怒られそれがきっかけで大きな喧嘩になることもあるけれど、あの多感な時期に毎日怒られ怒鳴られ殴られ続けて親の口調が移らないわけない。私の口調と親の口調はびっくりするほどそっくりだ。
私のために全力でサポートしてくれたんだと思う。でも別に中学受験させてくれなんて頼んでなかった。あんな怒鳴り声と泣き叫ぶ声と暴力の絶えない家にしてくれなんて頼んでなかった。あんなんなるなら、地元の中学でもよかった。
やりたいことなんて何もできなかったし私の話なんて微塵も聞いてくれなかったなと思ってしまう。
それでも、ここまで育ててくれて、私のことを考えて人生設計の手助けをしてくれて、中高大10年間の私立の学費を惜しみなく出してくれた親には本当に感謝している。本当に恵まれた家庭で何ひとつ不自由なく育ったと思う。
それに、本当にダンスや歌がやりたかったなら、中学に上がったタイミングで部活に入らずに、今度こそダンスを習わせてほしいボイトレに通いたいと親を説得することだってできたはずだ。そうしなかった段階でそこまで本気じゃなかったんだと思う。このことに気づいて、初めてあ
中学主権を控える子の塾代が高すぎてこのままでは持たないのでマイホームを売ったて話が腑に落ちない。
自分が就職氷河期世代だから子供に同じ苦労をかけさせたくないからということだそうだけど、子供は毎朝6時から勉強してるんだって。
そんだけのやる気があるなら塾行かなくても受験突破できる可能性は十分あると思うし、たとえそこで落ちても公立中学から公立進学校の高校受験ルートなら大丈夫な気がするんだけどどう?
ていうか塾代で既にやばいならたとえ受かっても学費とか学年ごとにもっと上がる塾代とかにいよいよ対応できなくなりそでどっちにしろ将来破綻してね?
(まあ6時からやってるのは自主的な勉強とうっよりも塾で課題与えられてるからそれをこなすためってだけの可能性もあるけど。つまり塾通わせてなかくてもそこまで机に向かうタイプとは限らない)
男だから良い学校入らないといけないと小学生の時から受験勉強させられたけど、結局無能だから偏差値60そこそこの学校にしか入れず
大学も男だから良い学校入らないといけないと小学生の時から受験勉強させられたけど、結局無能だから偏差値60そこそこのとこにしか入れなかった
初っ端からなんか嘘くさいんだよなぁ
偏差値60の高校って自称進学校の中でもあんまり上位じゃないとこなんだけど偏差値60の大学って名大とか阪大レベルの旧帝大なんだよね
偏差値60の高校の卒業生の進学先って平均してニッコマ行くか行かないか
偏差値で言うと私立で50国公立で45くらいでマーチでさえ上位一割切るくらい旧帝大なんて学年で5人いればいい方
アラサー男の昔話
理由なんてよくわからない。田舎の学校でなんかおどおどしてオタクっぽい俺は虐めやすかったのかもしれない
小学校の時は無視されたり影でプークスクスされたり罵声を浴びせられたりする程度だったが、中学校になって自由になると思ったのに、中学校は輪をかけてヤベー不良みたいなやつらが俺を殴るわ蹴るわ
漫画みたいに脱がされて便所の水を飲まされる、なんてのはなかったが親の作ってくれた弁当を捨てられたりとかはまあ普通にあって(思い出したくないのでこれ以上は止める)
見事に不登校に。
といっても親に心配をかけたくなかったので、毎日学校に行く振りをして学校には行かず近所の橋の下とかでぼーっとしていた
だが田舎のおばちゃんがすぐに見つけて学校に行かないでいいのかとかいいだし学校に通報をしやがるせいで親にも連絡が行きめんどうなことになった
ああいうおばちゃんたち善意なのかもしれないがほっといてくれよ学校行きたくねえんだよ
虐めに遭ったとは言えなかったので親に詰問されても黙っていたが、とにかく学校に行きたくないのは察してくれたのか堂々と学校に行かなくてよくなった。
親は腫れ物に触るようで、理由を言えと言ったが言いたくもなかったし、学校に行ければ行って欲しいとか言われたが行きたくもないし
ネットやゲームしながらぼーっとする毎日でこれではダメだと思いながらも何も出来なくて、妹はダメ兄貴みたいに扱うし、動かないからどんどん太った
家族が寝静まった夜だけが歩き回れたから夜はふらっと夜道を歩いたりしていたがとにかく何もかもするつもりは湧かず、ただこのままではまずいが学校には行きたくない、何で俺を虐めたあいつらはのうのうと学校行ってるんだの恨みだけ
学校に通報しても、どうせまた影で虐められるんだろうしと思うと誰にも言えなかった
夜の散歩をしているときに時々すれ違うジョギングのお兄さんがいて、なんとなくお辞儀をするとこんばんは、と返事してくれてた。お兄さんは大人って感じだったから多分20代くらいかなと今なら思う
たまにであうと、こんばんわ、こんばんわ、と言いつつすれ違うのを繰り返していたがあるときお兄さんが地面に座っていて、ビックリしたので大丈夫ですか、とこえをかけた。
転けて足をくじいたのかも、というので肩を貸して灯りとかのあるコンビニまで連れて行って、ありがとうといわれ、ちょっと話をした
暫くお兄さんの姿は見なくて、一ヶ月位して走ってるお兄さんを夜中に見かけたときはほっとした。
お兄さんが立ち止まって、あの時はありがとう、捻挫しててさ、とお話をしてくれ珈琲をおごってくれたりとかで、時々夜に話すようになった
話相手のいない家族には嫌われている、友達もいない俺にはその夜の会話が嬉しくて、毎日夜散歩するようになった。お兄さんに会えないかなって。
会えば少し立ち話をしたりすることが続いて、お兄さんがどうして夜中にいつも散歩してるの、と聞いてきて、俺は誰にも言えなかった虐めの話をしてしまった
話しながら、あ、ドン引きされるかもどうしよう、と思っていたのに涙が出て止まらなくて泣きながら虐めの話をしていた
お兄さんは、そっかーと言って聞いてくれて、その時は得に何も言わなかったんだけど、その後数回会ったときに、俺も虐められてたんだよって話をしてくれた
俺は思わずどうなったんですか、と聞いたら今はもう大人だから学生時代の虐めなんて関係ないし元気だよと言ってくれた
わからないがすごい頭がいいという話は聞かない、といえば、お兄さんはこういった
「なら増田はとにかく自宅で勉強をしていい大学に入れ。どれだけ虐められていてもこの日本では頭いい奴が勝つし頭がいい奴が信用される。そいつらがバカなら増田は有利だ。誰でも知ってるような超有名大学にいけば、
あっという間に周囲はお前の味方になる。いいか、中学も高校もどうでもいい。大人は大学しか見ない。それこそ中学高校不登校でも東大に入れば、そいつらよりよっぽど強い」
びっくりしてたら「これは俺の経験談だ」とお兄さんはいい自分の話をしてくれた。
お兄さんは超絶エリートのお兄さんだった。
俺は「いじめっ子に勝てる」という言葉で俄然奮起しほぼ不登校のまま高校受験をした
高校は楽しくて、虐める奴もいなくて快適だった。夜の散歩はたまにしたけれど、お兄さんには会えなかった
でもお兄さんの言ったことは覚えていて、高校でも勉強をし続けて、お兄さんと同じ大学に行った。そのまま誰でも知ってるような企業に入って都会で生活している。
幸せだと思う。
いじめっ子達は地元で働いていて、会社がどの辺かもわかったが、俺の数分の一の年収で、なんかもうどうでもいい。
地元に戻ったときに当時の同級生に「すごいね」「不登校だったのに」と言われたら「当時○くんたちに虐められたから学校行けなくて家で勉強してたんだ」とわざと素直に語っている。
もちろん田舎の噂話の伝播力を信じてのことだ。
あの時のお兄さんが「頭がいい奴が信用される」と言ってくれなければ俺は多分今のようになっていない
名前も分かってるし、大学が同じだがあえて探さないようにしていたのに、最近お兄さんがお医者さんなのと開業したのを知ってしまった。
会おうとすればあえる。
でも、今更「あの時世話になった鶴です」といいに行く勇気がない。
俺の事はもう十年以上前で忘れているかもしれないし、「だれ?」と言われたら恥ずかしい。知っていたとしても会いに来るとか重すぎないかと考えてしまう。
でも俺の命の恩人なんだ。
と言われそうですが…高校サッカーって「高校受験」みたいなもんで、本当に優秀な人はプロチームの下部組織(ユース)に所属してたり、15歳でプロデビューしてたりします。
受験業界で言えば、中高一貫校なしで、誰が頭いいか決めてる高校受験は、中高一貫校出身者から見たら「おままごと」です。
東大寺学園に合格した暇空茜さんとかも、それをすごく誇りにしてます。
例えば…中高一貫校の中でも4割は東大に行くという灘高校から見たら、同じ県の神戸市で一番いい長田高校の連中でさえ、まだまだなんです。
>東大寺学園に合格した暇空茜さんとかも、それをすごく誇りにしてます。
暇空さんそんなこと言ってたっけ?
子供ガーで当欠されるのは大変だけど仕方無い事だし
子供が小さい間だけかと思いきや、成長しても高校受験ガー大学受験ガーで休みたいだの
終いには孫の送り迎えあるから早上がりしたいどうのこうのとか言われて、フォローする側が終わり無き負担ばかりでもう疲れた
別にワンオペだと無理な給料じゃないだろ、お前の夫はウチよりよい筈だろ
ウチですら10年も働けば600万ぐらいは平でも貰えるんだからさ
まあそれは家庭の事情もあるから最悪許すとしても、こっちの親が体調悪くなtte
病院の付き添いがあるって休むとなると、どんなに事前に報告してスケジュール調整しても
もう片方の親は?奥さんは?付き添えなかったの?とか
倒れたとか重病ってわけじゃないんでしょ?休んでまぜ付き添わなきゃいけないの?
みたいに嫌味を言ってくるのは何故だろう?
そういう失礼を言う奴は、当欠常連の女社員ばかりだから本当にウンザリ
それこそ家庭の事情だろ、足腰弱って認知症も入って来てる親を病院に連れてくのって大変なんだよ分かれよ分からねぇのかよカス
ふとなぜだろうと考えると、向上し続けなければならないという強迫観念にある気がする。
中学は高校受験が目の前に控えていて、(自分の現状より少し高めの)目標を持つこと、その目標を達成するために向上することが求められる最初のタイミングだったように思う。
それからずっと、向上することを求められている。高校〜大学では受験や成績、大学院では研究や就活、社会人では業績や成果…。
そしてそれに応えようとして無理をする。その結果しんどくてしんどくて、生きるのが辛くてめんどくさくて、一刻も早く死にたくなる。「将来はこうなりたいんです」と言うのは上辺だけで本当は向上心なんてない。正直なことを言えば毎日楽しくダラダラして過ごしたい。でも向上心を持っているように見せかけないと今の生活や将来が損なわれてしまうのではと不安になって、心身の健康を損ねるまでやってしまう。
『こころ』のKは「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という言葉が有名だ。彼は最終的に自殺したが、これは不適切な向上心が人を殺すのだということなのだろう。
向上しなくてもある程度許される老人になれば解決するのかもしれない。そういえば中学の時も「早く老人になって解放されたい」と考えていた。
でも老人になるまで耐えなければならないのはたまらない。かといって死ぬのも怖いから、結局死にたいという気持ちをずっと持ち続けて、表にそれを出して迷惑をかけないように必死で生きていくしかないのだろう。
みんななぜ死にたいと思わないのか不思議だったが、おそらく向上を強いられることに対してストレスを感じていないか、向上を強いられていないか、向上を強いられていても無視できるからなのだろう。
まあ何か知らないけど勉強に対する意識がめっちゃ低い学区で、中学受験するのが同学年1◯◯人いて5人しかおらんっていう中々謎な所だったんですけどね。
勉強ママがゲーム禁止してる人の家も何故か中学受験はしてなかった。
そんでまあその中で中学受験で受かったの俺ともう一人だけで、俺のほうがいい学校に行ったんですよ。
つまり、中学受験の成績だけで言うなら俺が一番勉強できたんです。
でもそのあと怠けてたんですよね。
中学受験の時も結構ゲームやりまくってて塾の宿題もサボってたのに第一志望補欠合格できて「あー意外と人生って何とかなるな」って。
んで中高六年間は漫画家になるとか言いながら絵の練習したり、ネットにひたすら籠もって承認欲求満たすためにネトゲやりまくったりしてたんですよ。
高校の時に小学校時代の知り合いが入ってきたんですけど、高校受験組と自分の成績がもう全然違うんですよね。
あの頃、「◯◯マジ天才やわ」と言ってた子が俺の倍ぐらいテストで点数取ってるんですよ。
そうなんですよ俺はもう高校の頃には学校のテストで半分も取れなくなってた。
んでまあ大学受験で逆転するんやみたいに息巻きつつも「ネットゲームやめられないんだけどwwww」してたらしょーもない大学に入っちゃったんですよ。
滑り止めで受けはしたけど行く気全然なくてオープンキャンパスも行ってないの。
でも親が「浪人とかさせたらもっとサボるやろがい」って言うからそこに入学した。
んでまあその学校の中でも「この学校なんか来てもしゃーないよな」とかイキってたんですけど、気づいたらそこでもドンドン落ちこぼれていくんですよ。
息も絶え絶えで4年間で何とか卒業はしたけど、あまりに単位とレポートが溜まりすぎて就活してる余裕なし。
まあネトゲ辞めれば出来たんでしょうけど、辞めれなかったんだな。
そんで就活浪人になったんだけど、対してやってもないで就活終わらせたから「ぶっちゃけ面接なんて適当じゃん?」ってノリにもなれず「俺はもう駄目なんだ」って就活恐怖症になった。
でもニートしてたら怒られるから公務員受験することにしたんですよ。
公務員試験の内容ってぶっちゃけ中学入試にソックリだから、俺的にはかなり楽に感じたんだよね。
んでまあ実際面接以外はなんとかなった。
面接はカスみたいな状態だったんだけど、ここでも補欠合格発動して「やっぱ人生ってチョロくね?」と。
そのあとがまあ……思い知らされたわ。
優秀な人、ちゃんと就活の研究してる人が逃げ出したのは正解でしたって世界が待ってた。
マジでさ、今どき公務員なんてなる時点でソイツは「僕はお受験しか出来まちぇん」と言ってるようなもんなんだな。
それもかなりレベルが低い奴。
つうか大学受験で早慶行けるような奴なら大学4年のときに気まぐれで受けてもそのまま受かるだろうな。
何が大変ってひたすら時間がかかることぐらい。
今どきハンコ使ってるんだよハンコ。
それも10個ぐらい集めなきゃいけないのに全部口頭で説明して自分の手足で持ち運んでるの。
アホやろ。
こんな仕事してるなんて小学校の頃の知り合いに知られたくないわ。
だって俺はあの頃「1◯◯人の中で一番勉強が出来る男」だったんだぜ?
そのイメージのままで居たいわ。
「頭が良すぎておかしくなってマッドサイエンティストとして学会を追放された」みたいな末路を勝手に想像してて欲しい。
結局日本国民の中央値と同じ年収もらいながら、日本でトップクラスにつまらない仕事をしていますなんてバレたくないよ。
どうすりゃ良かったんだろうな。
大学受験頑張った。見事合格し、理想の大学で学ぶことができた。
一年浪人して頑張った。その努力が報われ、次の受験で合格を勝ち取った。
私立大学の生命医科学科に所属しながら仮面浪人した。並行して努力し、公立医学部にも合格した。
不本意な職について働きながら勉強した。その後、再び受験に挑戦し、目標の医療系の職に転職した。
割と早く大学で知り合った彼女と結婚して子供も生まれ、家庭と仕事の両立に成功した。
医学部に受からないまま30歳を超えた過去を乗り越え、新たなチャレンジに挑戦した。
高校受験頑張った。結果出た。
私立大学の生命医科学科に所属しながら仮面浪人した。ダメだった。
不本意な職(この世にある医師以外の仕事全て)について働きながら勉強した。ダメだった。
割と早く大学で知り合った彼女と結婚して子供も生まれ、仕事と育児の隙間で勉強した。ダメだった。
生きてる意味がなくなった。
グッバイ。
なんかさも「素朴な人達の素朴な人生」みたいに装ってるけど、実際には「都会に暮らすエリート共が、生まれ持った知性の高さからくる人間的成熟度により、若いウチに知っておけたら良かったことを人より早く知りながら、若い身体・若い人生・若い人間関係の中で幸福になる様子を見せつけてくる作品」ではないか。
これを見せられて「ああ……これが普通なんだ……じゃあ自分の人生はゴミだな……」と思ってしまったら余りにも惨めではないか?
俺は惨めだった。
高校受験さえ頑張れない自堕落楽天クソ野郎の集団の中で、知性を軽んじる姿勢から生じた人間性のカスさによって傷つけあってばかりの青春だった。
ヤンキー漫画ほどはっちゃけるわけでもなく、げんしけんの如く好きに殉じるわけでもなく、オナニーマスター黒沢のように劇的な訳でもなく、地元最高ほどは最悪ではないような毎日を送っていたよ。
GANTZで描かれる下位ヒエラルキー学校生活のごみ溜め感に共感を覚えるような人生だった。
そんな自分に「こういう普通の学校生活もいいよね」みたいな顔してスキップとローファーはやってきた。
その非優等生風な上っ面に騙されてしまった俺は、自分の人生の「普通」ではなさにそれはそれは絶望したものだ。
さも健康的な子供達みたいな顔をして大人顔負けどころか大抵の人間が200歳まで生きたときより高い精神年齢のキャラクター達が人生を自分の手足で切り開いていく様は、「格の違い」を存分に思い知らせてくれた。
そして目が醒めた。
「スキップとローファーも同じように俺とは格の違う奴らの作品だったんだ」って。
本当に危ないところだった。
クレヨンしんちゃんが「よくある普通の生活」みたいに語られるのと同じような毒素が含まれている。