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はてなキーワード: 必然性とは

2013-02-07

http://anond.hatelabo.jp/20130207184043

からこその「ファンタジー少年兵」なのでは?

ファンタジーだろうが「少年兵」をそのまま出してしまえば「少年兵」についての問題提起になってしま

ファンタジーで描く以上少年である必然性はない

のか全然理由が判らない。

現実なら正規の兵士になるのも大半が男性だけど、魔法が主流の世界の話で戦うのが男である必然性は全くないでしょ

それに魔法みたいな怪しげな術は昔から女の方が主流なんだから

http://anond.hatelabo.jp/20130207183741

>それに、現実少年兵そのものについて問題提起したいのでなければ、少年兵をそっくりそのまま扱うのは愚策だよ

からこその「ファンタジー少年兵」なのでは?

なぜ

ファンタジーで描く以上少年である必然性はない

のか全然理由が判らない。っていうか理由なんかないでしょ?

ひたすら単純に読者の好み、ウケ狙いってだけ。

http://anond.hatelabo.jp/20130207183322

少年兵的な」存在を書くんなら直球で少年兵にすればいいじゃんという話なんだけど

少年である必然性はその文脈においては普通に生じるよ

ファンタジーで描く以上少年である必然性はないよ。

単純な戦争モノじゃなくて魔法世界犯罪者かいう設定なのは中高生~若年向けのライトノベルから発眼性が高い方が受けるだけ

中高生邪気眼系受けを狙うのと萌えを狙うのはまったく別の観点であることに注意な

 

それに、現実少年兵そのものについて問題提起したいのでなければ、少年兵をそっくりそのまま扱うのは愚策だよ

http://anond.hatelabo.jp/20130207182935

少年兵的な」存在を書くんなら直球で少年兵にすればいいじゃんという話なんだけど

少年である必然性はその文脈においては普通に生じるよ

http://anond.hatelabo.jp/20130207182839

君の理屈からすれば、魔法がどうこうというファンタジーの話においてはそれが少年である必然性はないか少年ならショタコンに媚びてることになるね

少年である必然性少女である必然性もないなら少女でもロリコンに媚びてることにはならないよ

「どちらでもいいなら男性でなければならない」という考えに基づいているならまた論点は変わってくるけど

http://anond.hatelabo.jp/20130207171008

「その登場人物が少女であることに明らかな必然性がなければ萌えキャラ」という基準でしか見られないならそりゃ何でも萌えキャラに見えるわな。

http://anond.hatelabo.jp/20130207165214

それ逆でしょ?

キャラロリであるための必然性の説明じゃなくて、

キャラロリであることを正当化するための背景事情にすぎないでしょ?

「幼くして魔法世界犯罪者」なんていろんな意味で設定破綻してるじゃん。

そのキャラが幼いことで物語の根幹のどんな大事な部分を表現できるの?

それ25歳くらいの大人しい系のお姉さんでも別にいいじゃんっていうかその方が自然とか言われたらどう反論すんの?

2013-02-03

http://anond.hatelabo.jp/20130203025001

 そういう歴史必然性みたいなのもよく聞く話なんだが、実際にはやはり反省意味はある。

 たとえば、第一次世界大戦後の戦後処理。知っているとは思うが、第一次世界大戦後、敗戦国ドイツに対して、フランスを中心とする戦勝国は莫大な賠償金を課した。世界恐慌などの不幸もあったが、賠償金の支払いはドイツ戦後復興を極めて困難にした。当時でも、ケインズなんかはドイツ経済復興を支援すべきだと論じていたが、復讐燃えるフランスを中心とした国々はドイツを徹底的に痛めつけることを望んだ。その結果がヒトラーの台頭だ。対ヒトラーとしては、イギリス宥和政策の失敗なんかが挙げられるが、実際には第二次世界大戦の根っこはそうした戦後処理のまずさにあった。そうした反省の結果、第二次世界大戦後には敗戦国に対して実行不可能な賠償を課すという方針は避けられるとともに、金融不安が生じさせる政治的危機を回避するために国際機関が設置された。

 こういう側面を見ると、歴史反省する意味はあると思わない?日本にしても、昭和16年夏に「日米戦わば必敗」という結論が見えていたにもかかわらず、戦争突入してしまった。それ以外でも、日本の膨張的な外交政策に対する批判は当時から存在していた。「アジア解放」を訴える日本がなぜ中国戦争しているのか、どうしても理解できなかったという回顧も聞く。日本人の多くが中国人朝鮮人に対して差別的な意識を持っていることへの嘆きもあった。にもかかわらず、そうした批判の表明を困難にしてしま空気が生み出された原因は考える必要がある。

 もちろん、当時において個人のレベル歴史の流れを変えることは不可能だったろうが、後に生まれた者の特権として反省はある。その意味でも、歴史は「過去現在の対話」なんだろう(E.H.カー)。そうしたアドバンテージを活かすこともなく「仕方がなかった」で済ますというのは一種の思考停止だと思う。過去から学ぶことを否定する態度のうえにある改憲論はやはり怖い。

2013-01-24

けいおん氷菓~中恋~たまこ。って線で考えてみた

『たまこマーケット』見てて感じたことをいくつか。

主に『けいおん』以降の京アニ作品の変遷は、意識的かつ段階的に変化させているのでは?と言うお話

■作品内の世界が狭いコミュニティ→広いコミュニティ

けいおん』以降の流れで考えると、徐々に登場人物が関わるコミュニティの枠を広げていってる印象。

けいおん軽音楽部内の関係性のみ。

氷菓古典部内だけでなく、入須先輩などの古典部以外の学生との交流、えるの家の事も少し。

中恋→結社メンバーに加えて、家族との関係を直接的に描く。

って言う感じで。

その文脈で考えれば、『たまこマーケット』で商店街って言う、地域社会との繋がりが丁寧に描かれているのには

必然性があるとも言える。

同姓だけじゃなく、友達だけじゃなく、同年代だけじゃなく、家族だけじゃなく、さらに外の広い世界との繋がり。

恋愛をどう扱うか

これもけいおんからの流れで行くと、登場人物がどれだけ自分にとってリアルものと捉えているかが、

徐々に変化していっているように思う。

けいおん恋愛関係する描写自体がほぼゼロ

氷菓恋愛と呼ぶにはまだ未熟な奉太郎とえるの関係。恋をどう捉えていいのか迷う悟志と摩耶花の関係

中恋→中二病と言うフィルターを一枚通しての恋愛

『中恋』での恋愛って、言ったら現実的ではなくって、全員があまりに恋に慣れていないし(モリサマーですらハウツー本頼み)

いわゆるまともな高校生とは少し違う、特殊な恋愛観を持った高校生の話だったと思う。凸守俺の嫁

で、いよいよ『たまこマーケット』では、みどりちゃんともち蔵は普通に片思いしてるし、

かんなは「誰が誰を好きになってもいいんだよ」なんてアドバイスちゃうし。

って言う、恋愛なんて周りにありふれてる環境に居る、普通少年少女の話になりそう。

たまこ、もち蔵、みどりの三角関係百合の可能性あり)になるのか、それとも恋愛の話は

そこまで深く描かないのかは、今の時点では分からないのだけど、おそらく今までは恋と

無縁だった主人公のたまこがどう成長するのかが楽しみ。

■ここからは当てずっぽうの雑感

山田監督が『たまこマーケット』を作る上で、『けいおん』を意識しないわけが無い。

あれだけのヒット作になったアニメなんだから。その上で『けいおん』では描けなかった部分を描きたい気持ちがあったのかなあと。

・あるいは、アニメに限らずだけど全ての創作者が意識しないわけがない、震災の問題。

震災以降の世界をどう生きるのか?と言うことを考えた時に、内側の世界ではなく外側の世界を描くって言う、

庵野エヴァでやろうとしてることと同じかも。

・今のペースで行くと、中盤に夏休み、終盤にクリスマスを持って来そうなので2期を視野に入れて卒業までを描くつもりなんだろうなあ。

ダラダラと書いたけど、以上。

2012-12-26

http://anond.hatelabo.jp/20121226132120

独立かどうかは断言できないよね。

往生際の悪いやつだなぁ

インフレ政策を実施し、かつ再分配政策をいじらないことも、

インフレ政策を実施せず、かつ再分配政策をいじらないことも、

インフレ政策を実施し、かつ再分配政策をいじることも、

インフレ政策を実施せず、かつ再分配政策をいじることも、

どれもやろうと思えばできるんだからインフレ政策の話をするときに再分配政策も必ずセットで論じなきゃいけない必然性はないだろ。

独立だよ。


分配の伴わないインフレ貧困を悪化させるリスクがあるってこと。

だったら分配もやりゃ良いってだけだろ…

論点ずらしばかりに必死になるなよ。

2012-12-14

期待インフレ率が高まれば強制的に引き締めが起きるって論理がまったく分からん

https://twitter.com/makotosaito_v3/status/278295239465254914

専門家として)社会必要インフレ目標ゼロ金利離陸後に導入すべき。ゼロ金利時導入では、期待インフレ名目金利の上昇で滞留日銀券を日銀が回収せざるをえず、大規模売りオペか準預高利付与で資金捻出(厳しい引き締め政策)する必要が生じるから

インフレ期待が上昇すればタンス預金をしてたら勿体無いのでタンから日銀券が掘り起こされて、一部は消費に回され、一部は銀行に行くってのは分かる。

消費に回った分はその支払を受けたお店が、インフレ期待が高くなればお金のままでは持っていたくないのでやはり使うか銀行に持っていくだろうというのも分かる。

そして、消費者やお店から日銀券を持ってこられた銀行インフレ期待が高くなった状態では目減りする日銀券のままで持っていたくないので、最終的には国債投資しようとするだろう。

しかし、市場にある国債の量は銀行国債を欲しくなったからといって増えたりはしないので(他の銀行だって日銀券よりは国債を持っていたいのは同じ)、

銀行日銀券を日銀に返す代わりに、日銀の保有する市場に出ていない国債を貰おうとする、ここまでは分かる。

ここからが二重に分からない。

一つ目は、仮に日銀が、銀行から持ち込まれた日銀券と日銀が持っている国債とを交換したとして、確かに売りオペが起きていることになるがこれは引き締め効果を持つのか?という点。

銀行タンス預金から蘇って持ち込まれた日銀券を国債と交換しているが、これによってどこかの企業にしていた融資を回収にまわったり、あるいは予定していた融資を減らしたりする必要はない。

まり経済活動に直接的なネガティブな影響は起きていない。

また、銀行による国債への需要増に応じた分だけ日銀国債市場供給するに留まるので、国債価格低下(金利上昇)ともならない(なる必然性がない)。

インフレ期待の上昇にともなう国債価格低下(金利上昇)は起きるだろう。垂直な市場への国債供給曲線に対して需要曲線が左シフトする。それはタンス預金やそれの日銀による回収とは関係なく起きることである。)

まり金利を通じたネガティブな影響も必然ではない。

上記の話は、日本銀行バランスシートが縮小することを嫌って準備預金の付与金利を引き上げて対処した場合も基本的に同じである銀行融資を減らしたりすることはない。

二つ目は、そもそも日銀は、銀行から持ち込まれた日銀券と日銀が持っている国債とを交換する義務があるのか?という点。

日銀銀行から国債を売ってくれと言われた場合に、果たしてそれに応じる義務はあるだろうか。無期限の負債であるというのが、日銀券の大きな特徴なはずだ。

確かに市場価格は大切だ。日銀市場価格乖離した高い値段で国債を購入することには問題がある。利益供与行為だ。しかし、日銀市場価格を提示されたからといってそれで国債を売らなければならない義務はないはずだ。

日銀銀行券を引き受けてくれないとなれば(日銀券と国債の交換に応じてくれないとすれば)、銀行インフレ期待が高くなった状態では目減りする現金を持っていたくないので、何らかの形で使うしかなくなる。

そして、それを受け取った人も同じくそほとんどを使うしかなくなり、そしてまたそれを・・・と続くことになる。いわゆるホットポテト効果である

最終的には経済活動が活発となってそれによりGDPが増え、取引需要が増えて必要とされる日銀券の量が増え、タンス預金から蘇ってきた日銀券が普通に需要されるところまで経済規模が拡大することになる。

このようなケースでは、厳しい引き締め政策となるどころか、タンス預金存在は非常に景気刺激的なものとなる。

確かに、この二つ目のケースは危険をはらむ。タンス預金から蘇ってきた日銀券が普通に人々や企業に持たれるほど取引需要が増えるまでGDPが上昇する前に、供給力が限界になるパターンが考えられるからだ。

この場合インフレが昂進するだろう。しかし、これは経済が活況過ぎるということなので引き締め策が求められることになること自体には何ら問題はない。

問題があるとすれば、インフレ期待の上昇にともなう国債価格低下が大きくて、売りオペを十分にするだけの見合いがないという点になるだろうが、

これは滞留日銀券を日銀が回収するための大規模売りオペが厳しい引き締め政策になってしまうという議論とは明らかに異なる。引き締めが出来ないという問題だからだ。

しかも、滞留日銀券にともなうその問題を抑えるだけなら、銀行融資抑制したりしない日銀券と国債の交換という一つ目のパターンを重視するだけでいい。

うーん、期待インフレ率が高まれば滞留日銀券の日銀還流で強制的に引き締めが起きるから、利下げでその影響を相殺できないゼロ金利時には期待インフレ率を高めるな、って論理はまったく分からん

2012-12-11

警察官ヤクザは紙一重

というのを目の当たりにしてちょっとへこむ。職場嘱託が元警察官でありながら、必然性がなく、かつ、自分より明らかに立場が弱い人に恫喝しまくっている現場を強制的に目の当たりにしなければいけない罰ゲーム

彼が親の年代はいえ、嘱託という立場もあり、職場愚痴をこぼすわけにもいかないのでネットでぼやいてみた。

警察官うんぬんというより、自分の親や舅がこういう人でなくてよかったと思うしかいか。あと三ヶ月で満期終了と思えば、なんとか耐えられそう。

こんなことをネットでぼやいている自分ですが、こういう歳のとり方はしたくないなあと痛感。

2012-11-01

http://anond.hatelabo.jp/20121101130308

俺も裸眼だとそれぐらい目が悪いけどメガネ映画楽しめてるよ

レーシックである必然性がわかんないんだけど…

2012-10-17

http://anond.hatelabo.jp/20121017032431

介護の人員が足りないみたいな話だと今から少子化対策しても間に合わない公算でかいしね……正直移民かロボくらいしかないっしょ。

でも「敢えて反日デモやってるとこから採る必然性は無いんじゃねっていうか嫌だ」みたいな利用者の感情はありそう。

2012-10-10

http://anond.hatelabo.jp/20121010152052

その「いざ」という時に来るのは管轄内の交番でしょ?

そうでもない交番にわざわざ個人情報を教える必然性に「不自然」と言ってるの。

普通に考えて、管轄内の警察官がくるものじゃないの?

2012-09-29

ペット家畜のちがい、あるいは教育の失敗

面白い2chまとめ記事を見つけた。いわゆる命の大切さを自覚させる教育についてのもの

「豚を殺して食べる授業ってあったじゃん?あれってやり方が悪いよな」

http://oryouri.2chblog.jp/archives/7471447.html

元記事では「ブタがいた教室

http://goo.gl/DV423)(Wikipedia

http://goo.gl/D07Pw)(amazon

という映像作品が焦点になっている。これは生徒たちに生きているものを食べるという意味を考えさせるという目的で、1年間「食べる約束」でPちゃんと名づけられた子ブタ飼育する児童の活動の記録だ。容易に予想される通り、殺すべきか殺すべきでないかを巡って児童らは激論を闘わすことになる。以下、この作品における子供たちと家畜(あるいはペット)としてのブタとの関係について少し考えてみようと思う。なお、児童の下した最終的な決断がどのようなものであったかはここでは重要ではない。

とくに考えてみなくとも、この教育方法愛玩動物家畜意図的に混同させてしまっている点で偏向していることはすぐ看て取れる。牧場屠殺場の労働者と異なって、児童たちにとって家畜を殺す選択とは生活上の要請や主体的な投企ではないし、それらに束縛された社会的な半義務から解放されている。かれらは「ブタとともにいる今のこの経験」をまったく外部から与えられた教育機会として甘受しているにとどまるため、必然的に(屠殺という)未来との緊張的な関係はほどかれてしまう。つまりブタは形式的には家畜として存在していても、児童たちにとっては犬や猫のようなペットとなんら変わらないし、その素朴な誤認が改められることもない。

農家で働く人々のなかには、家畜愛称で呼んで慈しみながら育てる者もおそらいるかもしれない。だが、衛生管理、給餌、畜舎環境整備、精神状態への配慮、成長の仕方への注視といった諸々の世話は、家畜を取り扱う職務というひとつ社会的役割の枠の中で分化した業務である。したがって、それが職務である限りにおいて動物との関係は尊重されるのであり、家畜への愛情とはひとつひとつ労働の只中から立ち現れるものだ。だからペットのように対象を没入的に愛玩することが先行しているわけではないし、そうした依存は成立しようがない。この意味で、公共的領域に属する家畜は私的領域人間を慰めることに専念するペットと同一視することはできない。

この教育が欠陥を抱えているのはまさにそこで、生物を食べるということの意味を考えさせるはずが、ペット家畜として扱う行為の是非がそれ以前に立ち現れてくる羽目になることだ。あるいは、「教育機会として与えられたブタを、教育目的として屠殺すること」という奇妙な倫理問題が登場してくることになるのだ。だからブタの形式的な存在よりもむしろブタとの実質的な関係を重んずる児童ならば、きっと殺すことに猛反対することになるだろう。それも、生命の尊さという観点からではなく、先ほどまでは愛玩していた動物教育用だからという理由で屠殺することの倫理的な疑問からである

生命を奪って食物をいただくことは非常にありがたいことなのだ屠殺はやむを得ないのだ)」という結論に子供たちが至ると教師が期待していたのならば、その教師は教育権力子供の阿りにあまり幻想を抱いていると言わねばならない。なぜならば、当座の問題として、子供たちにとって「ペットとしてのブタ」が同時に「家畜としてのブタである必要は一切ないのだから感情に束縛された反対者がこのことに気づくかどうかは別として、この葛藤は両者を厳密に区別さえすれば解決する話ではある。我々が生活的・社会的意味から屠殺要請されているのは家畜用のブタという一般的な対象であって、Pちゃんという特定的に指示された一匹のブタではないだろう。

こうなると初期の教育目的から大きく外れた論理子供たちを支配するようになっているのが理解できるだろう。屠殺がそれ自体として容認されるべきか否か、また、容認されるとして我々はそのことをいかに受け止めるべきなのかという課題は置き去りにされる。うってかわって幅をきかすのは、「それが屠殺から回避されるべきペットであるか否か」という二択問題でしかない。

つまるところ児童の躊躇と反発は、動物一般を屠殺することにではなく、愛情を受けるに値するペット屠殺することに向けられることになる。もし教師がこの洞察の対象を臆面もなく「命の尊さ」と名づけ、児童らがそれを真に受けるとしたら、それは教育的にも、児童感覚を支配する論理から言っても、致命的な取り違えを犯すことになる。なぜなら、そこで問われている生命価値とは、その動物が与えられている人間愛情という尺度によって一律に測られるものにすぎないからだ。この錯誤は一部の動物愛護団体も陥っている、言うまでもなく極めて未熟な人間原理である

屠殺に賛成する児童にしても、その意見後ろ盾となっているのはそのブタ屠殺されなければならない社会的制約にあるのではない。先にも述べたように、「ペットとしてのブタ」が同時に「家畜としてのブタである必然性に欠けているため、それを論拠とすることはできない。代わりにあるのは、教師やクラスの皆と「食べる約束」で育てたのだから言葉通り(あるいは教師や学校の期待通り)食べるべきだという自閉的な教条主義しかない。そうした子供たちを支えているのは、ブタは一時的にはペットであったかもしれないが、家畜という名目は残っているのだから今や再び家畜に戻るべきだという同一性への信念である。したがって、生活的・社会的要請という家畜の意義はやはりかれらの目には隠されたままだ。

こうした事態はなぜ起こるのだろうか。まだ児童ペット家畜の類別がつかないからでは決してない。生活上の要求や社会的責務と切り離された、教育という特殊な環境によって本来の弁別がゆがめられてしまったところに原因はある。一般的に家畜ペット存在は公共的・私的という形ではっきりとした線引きがなされており、特に家畜に関してはその取り扱いに恣意性がはたらく余地はない。ところが、社会的要請という文脈から切り離してこれを教育という場に持ち込んだ途端に、垣根は崩されて恣意性が生まれることになる。つまり、そのブタ家畜になることもできるし、ペットになることもできる。その不安定さがすでに本来の家畜とは別物である以上、当然「生きているものを食べる」という普遍的な行為考察する可能性から遠く離れることになる。

結論として、この教育が「命の価値」や「生きているものを食べる」ことについて考えることを目指しているとしたなら、それは完全な失敗だと思う。教育の目指すところが悪いのではない。学校の一クラスの中に一匹の家畜を持ち込んで、なお家畜意味が無条件に保たれると思いこんだ教育者の甘い認識こそが問題なのだ。それは単に牧場見学職場体験を学校の内側で再現することではない。家畜は数え切れないほどの社会的紐帯繋ぎとめられた動物である限りで家畜と呼び習わされるのであって、周りを取りまく環境との避けがたい関わりを黙殺したところで家畜の理解にたどり着けるわけがない。

2012-09-10

贅沢な悩み

東大卒40代年収1,000万円台、2人子持ち

多分、客観的には、リア充扱いされても文句言えないだろう。

しかし、些細な、というか、贅沢な悩みを抱えている。

先日土曜日東大卒業生を中心とした交流会、勉強会のようなものがあった。

たまたま知人2名が会を主催していたようなので、

自分も出席して人脈を拡げたいと思ったが、

子供のお守り」で、家にいなければならなくなった。

年収的には、まあ暮らしていけるだけの余裕があるのだが、

もっと活躍したい、世に出たい」という欲求が、心の片隅にある。

別に年収は増えなくても構わないので、

自分の行動で、世の中を多少なりとも変えたい」という、

少しエリートっぽい潜在欲求があり、そのために

卒業生を中心に幅広く人脈を広げて、政治的に自分存在をアピールしたい」

という欲求が、どこかにある。

しかし、これって、家内からすれば、理解できない欲求、となる。

別に今の仕事普通に喰えてるのに、今更人脈開拓に労力を割いて、どうなるの?」となる。

まして、家内に言わせれば、

DINKS家庭ならまだしも、幼子を抱えているなら、土日は幼子の面倒を見るのが、父親の務め」となる。

(因みに専業主婦

経済必然性もないのに、人脈開拓だの勉強会に出るのは、親業放棄、ということなんだろう。

勉強会主催している東大の先輩も、確か自分の子と同じ年齢の幼子がいた筈だが、

うまいこと家庭の理解を得ているのだろう、ほぼ毎週のように勉強会で活動している。

それが何とも羨ましいのである

あと、最近、家に帰る時間を調整している。

20時前に帰ると、どうにもいけない。

この時間に帰ると、子供がまとわりついて、「一緒に寝る」と言ってきかない。

一緒に寝ると、なかなかベッドから出れない。

こっそり寝床から抜け出そうとしても、どういうことか、「気付かれてしまって」、泣かれるのである

パソコン等の情報収集のための自分の自由時間確保のためには、

子供が父親の帰りを待ちきれずにネンネしてしまう」21時以降の帰宅にしなければいけない。

の子がいわゆる「パパっ子」で、土日も、就寝時も、行動が制約されてしまう。

これで経済的に困窮しているとか、仕事忙殺されている、という「正当な理由」があれば、

家内子供に言い聞かせるのだろうが、幸か不幸か、「子供と一緒にいられないための正当な理由が存在しない」

そのため、パパっ子の相手をせざるを得なくて、

「世のために活動する時間が確保できない」、それが最大の悩みである

2012-08-13

http://anond.hatelabo.jp/20120813004850

一方で「客観的な非がある」的な主張は論理的に論陣を張らなければ出来ないわけですが

あなたの話を聞いていくと結局「キモい」「自己チュー」という感覚的・感情的言葉帰着するので

あなたの主張は「感情的キモい」以上のものが出てきていません。

キモイ」は感覚なのは否定しないけど、そういえば「自己中」とか「身勝手」って非論理的な言葉か?

と思って辞書を引いてみた。そしたら謎が解けた。

み‐がって【身勝手

[名・形動]他人のことを考えず、自分の都合や利益だけを考えて行動すること。また、そのさまや、そのような態度。わがまま。「―な言い分」「―に行動する」

じこちゅうしん‐せい【自己中心性】

ピアジェの用語。乳幼児の思考様式の特徴で、事象自分立場あるいは一つの視点からしか分析認識できないこと。

これっていわば特徴の指摘であって、感情とか感覚とは別のものだよね。

私が気持ち悪いと感じるかどうかは、ある作品の自己中心的さとか身勝手さという特徴とは別のこと。

あなた

「私の感覚に合わない」以上のことを言いたいなら論理的な言葉を使ってください。

と書いておきながら、

ズラズラ非難の言葉だけを並べたてるのは「論理的」とは別のことです!

とか書いてるけど、まず他の表現を要求したのはあなただし、並べた言葉別に論理的な言葉ってわけじゃないんですけど。

あなたは身勝手ですね」というのは「あなたは私の権利侵害していますね」という意味じゃなくてあなた自分さえよければいい、他人のことは考えない人ですね」という意味ですよ。

あなたは専ら「身勝手」という言葉感情的・攻撃的な言葉のように扱ってるけど、それは普段あなたがそういう言葉で攻撃したりされたりしている(か、他人がそうやって攻撃し合っているのを見ている)が故の思い込みですから。「他人のことは考えない人だからこうやって私の権利侵害するような真似が出来るのですね」の略だからそれは。

そもそも「論理的」とはどういうことかってこと、あなた解ってないよね?

「この作品は男の内面を女の身体に語らせており、不当で不誠実で不正確でありかつそれに意図的に目をつぶろうとする身勝手自己中心性をそなえている。ゆえに批判から逃れられない」。AはB故にC。という主張に対して、それが論理的でないということを証明するためにはこの作品は不当でも不誠実でも不正確でもないしそれらに意図的に目をつぶってなどいないということを示さなきゃならないわけ。AはBでない故にCでない、という理屈

でもそのためには「この作品は男の内面を女の身体に語らせてなどいない」という証拠を出さなきゃならないわけだけど、あなた自分で「そこは間違いない、男の内面を女の身体に語らせている、女を被った喪男である」と認めちゃってる。だから、覆せない。はい論破。みたいな感じになってるんだよ今。

例えばイタリアに生まれ育ったイタリア人と言うだけで私達とは文化環境も全てが違います

彼等のイタリア人らしさと言うのはたまに「ナポリピザが食べたい」とか言い出すレベルしか実装されません。

殺し合いを日常にする犯罪組織の下部構成員の思考回路人生観なんてものも私達の理解や共感からは隔絶する筈です。

まり「読者が理解・共感できるから本物じゃない」っていう理屈なわけだよね。

その「本物」って何? って聞いてるんだけど。

例えばジョジョ5部のキャラヘタリアゴッドファーザーにでもより近ければ「本物」ってことになる?ならないでしょ。

実在のどんなイタリア人に近づけたとしても「本物」にはならない。何故か?

ジョジョ5部のキャラクタの「本物」は原作者でも典型的イタリア人像でもマフィアの実態でもなくて、ジョジョ5部のキャラクタ自身だからだよ。

あの人物像、あの性格設定、あの立場あの過去あの感じ方のキャラクタたちがあの状況に放り込まれたというのがジョジョ5部という物語であるわけ。

一方「私モテ」の「本物」は"智子"じゃなくて作者であり喪男だけどね。

そこがジョジョとは違って不誠実だし嘘と飛躍にまみれてるし、個人的な感覚としては薄汚い感じがするっていう人がいるのも解るんだな。

オリジナリティの有無とか架空性がどうこうとかの問題ですらない。コンセプトがうんこなの。

言葉ですが、すごく荒木飛呂彦っぽい思考のバリエーションに過ぎないと思います

モナリザの手がどうこうというのも荒木の関心の範疇です。

もし”リアル”に性的連続殺人犯を描くのであれば吉良のようにスマートな人物像にはなりません。

アンジェロみたいになるかもねw

私は絵面の話をしていましたよね。

作者の絵がかなり下手なのでわかりにくいですが、目をグリグリと大きく描いていて

これは「可愛い女の子」として描いていると思います

絵面の話としてもかわいくはないよ。「積極的に嫌われはしない最低限の程度の容姿女の子」として描いてるだけだよ。

表情もかわいくないし言動もキモいしw

かわいいのはもこっちの同級のリア充かいいにおいがするタイプ女の子でしょ。

こういうレベル必然性でいいなら『私モテ』について私がでっちあげましょう。

『私モテ』の主人公女性です。

なぜ『女性』なのか?そこの所なのだ問題は。

コミュ障オタクなのだから友達ゼロでも通学を続けるタフさが必要だ。

時には便所飯する可能性もあるし、

一人で声優イベントに出かけて気持ち悪い妄想にふけるかもしれない。

女性にはちょっとキツイ設定だ。

でもそのギャップが逆に考えてみるとおもしろいかもと思った。

しか女子高生のような、世間ステータスとしてはモテてもいい筈の人。

主人公女性しかないと思った。

なんて。

から、その「面白い」は「男がやるより女がやったほうがいいという面白さ」でしょ。

「男がやるのと女がやるのとでは描き出せるものが全く違う、女でしか描けない面白さ」っていう6部のそれと違うでしょ。

しかもその言に則ると私が実際に書いた「見苦しくないとかカワイイとか萌えるかい面白さ」より悪質だよね。

「女がやった方が見苦しいしキモチワルイしみっともないという面白さ」だよねあなたが提示してるのは。

それは喪男見苦しさキモさみっともなさからくる面白さなのに、何で女にさせてるの?

っていうあたりで大元増田ループする。

そしてそういう女をないがしろにして成立してる描き方は不当だし不快を誘ってもしょうがないので叩かれてしまうのよ、と繋がる。

・お言葉ですが、「女ではハードルが高い」みたいな弱さは6部の女性キャラにはあまり描かれてないと思います

・「ギャップ」「聖母マリアのような大きな人間愛」という女性イメージはそれこそベタで広義な萌えしかいかと。

JOJOと『私モテ』はむしろ例外的に変な共通点に満ちており、『私モテ』と異なる作品や作家もっとごまんとあったと思います

JOJOの話をしてるとJOJOについての見解の差まで話題に混入してきて論点が遠ざかる一方な気もします。

刑務所ブチ込まれてすぐの徐倫の翻弄されっぷりがその「弱さ」の描写です。まー登場早々例の発言だし1部ヒロインみたいな超おしとやかなお嬢さんの弱さほどは判りやすくないかもだけど。

・語義広げすぎ。コアで狭義な「萌え」がメインの作品を正当化するためにわざわざそんな無理矢理共通点作らなくていいですから

ジョジョネタ混ぜたのは私だがわざわざそれを拾って広げたのはあなたです。

漫画を描く上で必要なのはリアリティだって有名漫画家が言ってた。

そら荒木先生の話だと思います

・じゃあジョジョはこれで打ち止めとしとこうか。ジョジョ絡めてるくだりにはもう反論とか要らないからね。

「お前のこの部分の論じ方は詭弁です」という風に書いてくれないと

どこについて異議があるのかわかりません。

自分で書いたことくらい覚えとけw行き当たりばったりでいい加減なことばっかり言わないでくださーい。

萌えるように売れるようにするのが「超いい加減」であれば

世の中は「超いい加減」な作品で満ち溢れています

「満ち溢れているから私モテ正当化される」って言いたいみたいだけどそれ詭弁だよね。



あなたが「叩かれて当然」と力説することと、あなたが気に入らないと言うことは、実際問題イコールになっていると思います

いやいやいやいやwwその理屈おかしい。

まず、私があるものを叩かれて当然と判断するか否かと私がそれを気に入っているかどうかはイコールではない。気に入っているものを叩かれたらイヤな気分がするし気に入らないものを叩いてる人間には加勢したくなるかもしれないが、その感情的プラマイ叩きの土台にある批判の論理正当性保証しない。

「気に入っているものを批判されたのでその批判は不当」とか「気に入らないものを批判しているのでその批判は当然」という理屈ではないわけ。

そして、そもそも私はい意見を述べただけで力説はしてないしw、私が気に入る気に入らないの表明はしていない。

それを

あなたが「叩かれて当然」と力説することと、あなたが気に入らないと言うこと

という風に表現ちゃうっていうのはあなたが思いこみが激しくてちゃんと文章が読めていないからだよ。

っていうか、マジ何でそういう理屈が浮かぶの?自分が普段そういう考え方でモノ考えてるからつい他人にも敷衍して考えちゃうの?

それで結局、『私モテ』の話ではなくオタク向けコンテンツ全般の話にするんですか?

それで結局、『私モテ』の話ではなくオタク向けコンテンツ全般の話にしたいわけね?w

あなたは結局、『私モテ』が何故欠陥品であるかについては「感じ取れ」というスタンスです。

ですがあなたの感じ方を共有出来る人間は限られていて、そうでない人間がたくさんいます

そのような”他人”に広く物事を説明する手段が論理です。

違うよ。でも詳細はもう冒頭で述べたし大体いいよね。

論理は他人に物事を説明する手段じゃなくて思考の妥当性が保証される法則や形式のことだよ。

説明する手段として使えるとしたら、それは論理が思考の妥当性を保証する法則や形式に則っているからだよ。

そして元増田記事は則っているし、わたしの主張も今のところ則っている。

あなたが受け入れられないでいるだけなんだよ。

何度あなたに「論理を聞かせてください」と言っても

「明らかに不当、不誠実、間違ってる、何故わからない」みたいな論理性0の返答が返ってきたのは

自分の感じ方を強い言葉で繰り返すことが「論理であるあなたが誤解をしてたからです。

違うよ。あなたが不当とか不誠実とかの表現を非論理的な言葉だと誤解しているからだよ。

不当とか不誠実ということばは「男の内面女子高生の肉体に語らせている作品である、だから不当である」という用い方をされていれば十二分に論理的なんだよ。

あなたが目をつぶっているだけだよ。

何故そんな無意味な嘘を付くのかわかりません。

だってそこのところにこだわりがあるみたいだったからねw

から十まで全部私のトラバなんだってお墨付きがあった方が心地よくやりとりできるでしょ?

「ないがしろにする」の意味は不明なままでした。

読むところが違うのであれば具体的に抜書きで提示してください。

例は「大人をないがしろにする」っていうヤツだけど。

大人をないがしろにするっていうのは例えば、「この局面でこんな言動する大人いねーよ!」という大人を出すという事だ。

こんなに簡潔に書いてあるのに見逃すとか、見たくないもの見なさすぎでしょw

あなたが今肯定した論理であれば「基本ファッション雑誌なので」なんてことは言い訳にならないはずです。

CanCamは20代前半女性以外をないがしろにしてはいけないので、

中高年のおじさんが読んでも幼稚園児が読んでも有意義情報摂取できる誌面づくりを心がけるべきですよね。

有意義情報摂取できる」っていうレベルは要求が高すぎ。「有害情報は掲載しない」程度が妥当かな。

で、心掛けてるかはともかくまあまあそう出来てるかな、という意味で「すべて女性向けで不当っていう感じでもない」と位置付けたの。「つーかananのがひどいので例として適当」というのが本題なので、そこと繋げるためにね。

cancamの紙面構成は広告で4割、ファッションスナップスタイリング例で5割(逆かもわからんが)、読者ページが1割ってところだよね。有害な可能性が最も高いのは読者ページで、理想の男像とか男はこんな女が好みとかが結構偏ってる可能性があるのでNG。

…くらいまで書いて気がついたけどごめんアレだMoreとかnon-no勘違いしてた。ちょっとcancamのくだり全面的に撤回するわ。映画館が不当って話だけにしてちょ。

この基準に従えば確かに

『私モテ』はたくさんの人をないがしろにしていますね。

ただ、私はこの基準には不賛成です。

これを適用すると無傷で済む人や人工物はこの世に存在しなくなり、

結局無意味化するアホらしい基準だと思います

あなたが賛成か不賛成かはこの基準が論理的に適当か不適当かを意味しないです。

感じ方は否定しないけどそれで反論になってると思ってるならそれこそ無意味だよん。

1.女性向け雑誌女性向けの誌面を作って男性を読者層から除外するのが男性への攻撃だとは思えません。

2.男性女性向け雑誌を読んで、「つまらなかった」「買って損した」と感じるのはおかしくないと思います

3.ただ、それでその女性誌の悪口を言ったり、編集部に苦情の電話を入れ始めたら、頭がおかしいと思います

そうかあ

例えば一時期の○○男子叩きは著しいものがあったでしょ。眼鏡だの理系だの肉食草食だの。今でもイヤだと思ってる人結構いる気がする。

あれは男性へのレッテル貼りが不当だったか男性不快を誘って批判に至ったわけでしょ。

同じ事だよ。

あなたが楽しく笑ってるようには到底思えません。

無意味なやりとりはやめましょう。

まあぶっちゃけちゃうと、これまでのところ「(失笑)」って感じだからねえw

もうちょっと面白いこととか鋭い指摘とかしてくれればいいのに、滑ってばっかりなんだもん。

思い返せば作品に関する事実はいくらも語られて居ないんですよね。

作品について「これはもてない女性ではなくコミュ障オタク男性だ」と指摘したのは私で、あなた同意していると思います

いいえ同意してません。「これはもてない女性ではなくコミュ障オタク男性だ」と指摘したのは大元増田記事です。あなたじゃないです。

あなたの「奇形的だ」という指摘には私は賛成しました。

あなたの「嘘がある」「飛躍がある」という指摘に私は賛成しました。

作品についての指摘・認識あなたと私はほとんど一致してるんですよね。

ただそこから展開する、

「非である」「描き直せ」的な主張はなんでそうなるのか論理的な説明が無いのでわかりません。

作品についての指摘・認識は私とあなたほとんど一致していませんよ。

まず「描き直せ」とは誰も言っていません。あなたは私の批判をそういう方向の攻撃として捉えているわけですねw

描き直しは別に求めていません。「そういう描き方をしている限り叩かれるのは必至だよね」と言っているだけです。

「非である」という批判が生じることをあなたが理解できない理由は簡単です。

私が再三言っているこの作品の自己中心性とか身勝手さとか不当さについて、あなたは用語レベルで誤解していましたしスルーを決め込んできたからです。

「嘘」「飛躍」の有無や奇形性はその自己中心性や身勝手さや不当さの論拠であるというのに、なんでそこが認められないんですかねー。という感じです。

何故そう不毛なところで必死になるのか理解に苦しみます

力を入れるところが間違っている気がします。

えっ何?当たってた?当たってた?ww

だってすごい解り易いんだもんwww

あっごめんねwwこんなに笑ってるとまた傷ついちゃうよねww

http://anond.hatelabo.jp/20120812121150

例えば私モテ自己中心的だしそれがキモイと指摘すると

自己中心的キモイと思うのはあなた価値観」「意味が分からない」「他作品もそう」

とか言って、「私モテ自己中心的と言われる要因」についての指摘は何ら覆せてないでしょ?

あなたの「キモい」という感情は否定してないので覆す必要は無いと思います

一方で「客観的な非がある」的な主張は論理的に論陣を張らなければ出来ないわけですが

あなたの話を聞いていくと結局「キモい」「自己チュー」という感覚的・感情的言葉帰着するので

あなたの主張は「感情的キモい」以上のものが出てきていません。

っていうかむしろ認めてるしね、オタクモテない女子高生かぶってるしそれは奇形だって

「むしろ」じゃなくてはっきりと認めています。何度も何度も。最初から

私はこの漫画について「コミュ障オタク男性女子高生にしている」と書いてきました。


なんとなくわかってきましたが

あなた感情では「コミュ障オタク男性女子高生にしている」→「明らかな非であり許されない」となっています

が、その「→」の部分の論理がどうなってるかということを私はずっと聞いています

今のあなたの主張っていうのは要約すると「オタクモテない女かぶってモエててわりーか!かわいいんだからモエるんだから売れるんだからいいだろうが!叩くな!!1!叩きは全部感情論意味がない!!1!!」ってことでしょ。

まずもう少し冷静になって欲しいです。

私はあなた論理を聞いているだけだから感情的にならずに話したいんですが。

そんなの叩かれるのはしょうがないじゃん。異様だし身勝手だし自己中なんだから

>「叩かれるのはしょうがない」「異様だし」「身勝手だし」「自己中だし」

からこういう言葉客観的に意味がわからないですよね。

「叩かれるのはしょうがない」から叩く、はトートロジーです。

「異様」だから叩く、は私は反対です。

それじゃこの世全体は感覚任せの叩き合いになります

「身勝手」というのは具体的に誰の何の権利侵害されてるのか説明されません。

自己中」も同上です。


私は『私モテ』が叩かれるべきではないと言ってるのではなく

あなたの叩きの論理が未だにさっぱり示されていないと言っています

私とあなたは戦ってるわけではなく

お互いに相手の打倒を目指しても得る物は何もないので、

感情を叩きつけてくるのではなくて論理で喋って欲しいと願っています


「本物の英国紳士マフィアのもの」じゃないって、読者が理解・共感できるから本物じゃないっていう理屈なの?その「本物」って何?

例えばイタリアに生まれ育ったイタリア人と言うだけで私達とは文化環境も全てが違います

彼等のイタリア人らしさと言うのはたまに「ナポリピザが食べたい」とか言い出すレベルしか実装されません。

殺し合いを日常にする犯罪組織の下部構成員の思考回路人生観なんてものも私達の理解や共感からは隔絶する筈です。

(私は別に荒木飛呂彦の悪口を言ってるのではありません。

 私達が容易に理解や共感できないほど”リアル”にイタリア人やマフィアを再現する必要はそもそもないからです。

 私はエンターテインメントあなたのような独自の厳しいルールを課しません。)


>「私の感覚に合わない」以上のことを言いたいなら論理的な言葉を使ってください。

不当で不誠実。不正確。かつそれに意図的に目をつぶろうとするのが身勝手であり超勝手自己中心的

ズラズラ非難の言葉だけを並べたてるのは「論理的」とは別のことです!

これまでよりもなんとなく堅い印象の言葉をチョイスしたのがあなたの「論理的であろう」とする努力の成果であれば

そもそもあなた論理と言うことについて根本的によくわかっていないのかもしれません。


「不当」は「正しくない」と言った程度の意味ですが、

あいつの行動はこれこれこうで、俺の権利をこのように侵害しているので不当である。」というように

「~~~しているので」の部分を誰にでもわかるように説明するのが論理です。


Q「彼のどこがおかしいのですか?」 A「あいつは不当だからおかしい!」というのは

トートロジーと言って説明になっていません。


>えーとつまり『私モテ』が特別気に入らないのではなくオタク向け作品全般が気に入らないだけですか?

元の文章って「オタ向け作品が叩かれるのは何故か」っていうことに関してのわたしのいち意見であってわたしが気に入る気に入らないの表明じゃないから。

あなたが「叩かれて当然」と力説することと、あなたが気に入らないと言うことは、

実際問題イコールになっていると思います

それで結局、『私モテ』の話ではなくオタク向けコンテンツ全般の話にするんですか?

あと詭弁だっていう点はどうなの?自覚ある?

あなたはもう少し主語目的語を添えて会話するようにしてください。

「お前のこの部分の論じ方は詭弁です」という風に書いてくれないと

どこについて異議があるのかわかりません。


…こういうやり取りも何度かしていると思いますがなんで改めてくれないんですか?

言われてる意味が良くわからないならそういってください。

これよりもっと易しい説明を考えます


荒木飛呂彦独身人殺したくなったとしても吉良吉影の三位重視のポリシーとか他人の手首とのフェティシズムとかとは別の動機別のスタイルになって当然でしょ?

言葉ですが、すごく荒木飛呂彦っぽい思考のバリエーションに過ぎないと思います

モナリザの手がどうこうというのも荒木の関心の範疇です。

もし”リアル”に性的連続殺人犯を描くのであれば吉良のようにスマートな人物像にはなりません。

なんかこの話であなたに反論してると荒木批判みたいになって心苦しいんですが、私は荒木作品は好きです。


モテの「作者の高校時代女子高生でやってます」という話とは全然次元でしょ。出発点からして違うし。

まず、もっと出発点が違う作家はいくらでも居るのに何故よりによって荒木飛呂彦を選んだのかとても謎です。

次に、他の作家と出発点が違うからなんなのかがよくわかりません。

ももこっちには萌えてるんだよねw「かわいい」とか言ってたみたいだけど、かわいくはないよ。かわいくはないよ。

それ、あなた人格の話をしてるんでしょう?

私は絵面の話をしていましたよね。

作者の絵がかなり下手なのでわかりにくいですが、目をグリグリと大きく描いていて

これは「可愛い女の子」として描いていると思います

少なくとも不細工としては描いていない。

これまでもそうだったけどすごく簡単な日本語しか使ってないので、「意味が分からない」は今後スルーしますね。

日本語が難解だからからないのではなく

用法が全く論理的でないので何を言いたいのかわからない

のです。

「これこれこういうことだと理解してるけど、違いますか」くらいには自分の理解レベルを示してから言って下さい。

私もそういう段階の話をしたくて仕方がないですが

論らしい論が提示されないと検討に移れません。

「不当なので間違ってる」というようなレベル日本語論陣は、

読み手が内容を理解する・しないという段階に達していません。

むしろ「すごく良く女を描いてる」と言ってる評もあるんだけど。

なにかあなたは核心部分でいつも他人のものを引っ張ってくる気がしますが、

あなた言葉で書いてください。

作者本人の見解としてはhttp://proudyblood.nobody.jp/wryyyyyyy6.htmlの冒頭、作者コメント引用かな。

ちゃんと「これを表現するためには女でなければならない」というポリシーで描いてるわけ。

こういうレベル必然性でいいなら『私モテ』について私がでっちあげましょう。

『私モテ』の主人公女性です。

なぜ『女性』なのか?そこの所なのだ問題は。

コミュ障オタクなのだから友達ゼロでも通学を続けるタフさが必要だ。

時には便所飯する可能性もあるし、

一人で声優イベントに出かけて気持ち悪い妄想にふけるかもしれない。

女性にはちょっとキツイ設定だ。

でもそのギャップが逆に考えてみるとおもしろいかもと思った。

しか女子高生のような、世間ステータスとしてはモテてもいい筈の人。

主人公女性しかないと思った。

なんて。

女ではハードルが高い困難を超えさせるということが物語を盛り上げる上で「面白い」という意味であって、

男がやるより女がやったほうが見苦しくないとかカワイイとか萌えるかい面白さは全然追求してないから。

・お言葉ですが、「女ではハードルが高い」みたいな弱さは6部の女性キャラにはあまり描かれてないと思います

・「ギャップ」「聖母マリアのような大きな人間愛」という女性イメージはそれこそベタで広義な萌えしかいかと。

JOJOと『私モテ』はむしろ例外的に変な共通点に満ちており、『私モテ』と異なる作品や作家もっとごまんとあったと思います

JOJOの話をしてるとJOJOについての見解の差まで話題に混入してきて論点が遠ざかる一方な気もします。


じゃあ元増田とここに至るまでのトラバを全部読みなおしてね。

それでもわからないとしたら、たぶんあなたがそれを「欠陥」と認識できないということなのでもう私にはどうしようもないかな。

理療法士とかじゃないと認知の歪みって正せないし。

これを読んで根本的な問題がわかりました。

やっぱりあなた論理と言うことについて全くわかって居ません。


あなたは結局、『私モテ』が何故欠陥品であるかについては「感じ取れ」というスタンスです。

ですがあなたの感じ方を共有出来る人間は限られていて、そうでない人間がたくさんいます

そのような”他人”に広く物事を説明する手段が論理です。


何度あなたに「論理を聞かせてください」と言っても

「明らかに不当、不誠実、間違ってる、何故わからない」みたいな論理性0の返答が返ってきたのは

自分の感じ方を強い言葉で繰り返すことが「論理であるあなたが誤解をしてたかです。

じゃあバラしちゃうけどあの増田書いたの私だから

っていうことにしておいて下さい。

何故そんな無意味な嘘を付くのかわかりません。

「ないがしろにする」の意味はその後のやりとりで出ているのでよく読んでね。

読みましたが

それでも批判を免れたことにはならない。「ファンタジーは非現実的」という指摘を跳ね返すことはできない。

といったことを力説するだけで、「ないがしろにする」の意味は不明なままでした。

読むところが違うのであれば具体的に抜書きで提示してください。

>「レディースデーやってる映画館は男をないがしろにしてるので不当」とか

>「CanCamは全て女性を楽しませる方向で誌面が作られてるから不快」みたいなレベルですよ。

そのとおりで不当だし不快を感じる人がいても当然でしょ。あなたはそう感じない?

ああ、本当にそのレベルなんですか…。

不快に感じる人が居るのは自由だと思います

(他人の感じ方を縛る立場に私は一貫して不賛成です。)

CamCamは基本ファッション雑誌なのですべて女性向けで不当っていう感じでもないけど

??

あなたが今肯定した論理であれば「基本ファッション雑誌なので」なんてことは言い訳にならないはずです。

CanCamは20代前半女性以外をないがしろにしてはいけないので、

中高年のおじさんが読んでも幼稚園児が読んでも有意義情報摂取できる誌面づくりを心がけるべきですよね。

あなたが肯定した基準はこのようなものです。

また論理と言うのは持ち出した基準を公平に適用するものです。

「CamCamは基本ファッション雑誌なのですべて女性向けで不当っていう感じでもないけど」なんていう

あなたの都合や主観でファジィにONOFF出来るような性質のものではありません。


この基準に従えば確かに

『私モテ』はたくさんの人をないがしろにしていますね。

ただ、私はこの基準には不賛成です。

これを適用すると無傷で済む人や人工物はこの世に存在しなくなり、

結局無意味化するアホらしい基準だと思います


ananとかは特にから見ても「うわあ…」って紙面のときあるよ。

仮に客側読者側である女が「それは商業的に向こうがそうやってるんだから仕方ないじゃん」と言ったとしたら、

「そうだけどだから?文句出るのは当然じゃん?むしろ何で擁護みたいな感じになってんの、自分利益得られるから?」って言い返されるのは

全然おかしなことじゃないでしょ。

1.女性向け雑誌女性向けの誌面を作って男性を読者層から除外するのが男性への攻撃だとは思えません。

2.男性女性向け雑誌を読んで、「つまらなかった」「買って損した」と感じるのはおかしくないと思います

3.ただ、それでその女性誌の悪口を言ったり、編集部に苦情の電話を入れ始めたら、頭がおかしいと思います

理屈として間違ってない。

間違ってるか間違ってないかというレベルですらなくて絶句します。

あなたの「理屈」や「論理」というのは常にあなたの独自の感じ方のことを指すんだということにはもう慣れましたが。

笑えることって楽しくない?w

あなたが楽しく笑ってるようには到底思えません。

無意味なやりとりはやめましょう。

ほらこれも、「わかりません」。「ありません」じゃなくて。

「挙げられたこれとこれとこの指摘は作品に関する事実と相違しています、つまり誤解です、誤解なのでその非難は的外れです」とかじゃない。

思い返せば作品に関する事実はいくらも語られて居ないんですよね。


作品について「これはもてない女性ではなくコミュ障オタク男性だ」と指摘したのは私で、あなた同意していると思います

あなたの「奇形的だ」という指摘には私は賛成しました。

あなたの「嘘がある」「飛躍がある」という指摘に私は賛成しました。


作品についての指摘・認識あなたと私はほとんど一致してるんですよね。

ただそこから展開する、

「非である」「描き直せ」的な主張はなんでそうなるのか論理的な説明が無いのでわかりません。

そこで論理的な説明を求めると

「気持ち悪い」「ちゃんとしてない」「まともでない」「真っ当でない」「叩かれたってしょうがないと思う」

「超勝手」「異様」「自分勝手」「不誠実」「いい加減」「自己チュー」「終わってるよ?」

という更に感情を繰り返す言葉しか出てこない…

というのが顛末です。


ただ原因として、冗談ではなく、

あなたそもそも論理というものをよくわかってないことはさっき確認できました。


あっごめんねwだって反応のパターンがすごいよく似てると思ってさ。

自分必死で冷静さを保とうとしてるところとか。

本当に冷静な人間はw文字一つとっていちいち攻撃だとか感情的になってるとかあげつらわないもん。そこ本題じゃないんだし。

取り乱してもいいんだよ?それだけ傷ついてるってことなんだから

何故そう不毛なところで必死になるのか理解に苦しみます

力を入れるところが間違っている気がします。

2012-08-06

http://anond.hatelabo.jp/20120806201341

「どうしてもダメものしょうがない」の何処が飛躍してて非論理的なのか説明できるの?

克服努力がないとかは論外だぜ。元増田努力は試みようとしているんだから

職業が理由で別れるのは人として間違ってる」ってのが非論理なのは説明できるよ。

「何も悪いことしてない職業の人を"生理的に嫌"とかいう理由で一方的に拒否する程度の自己中心的かつ俗物的な人間」ってのは、

職業の人」を「ブサイクな人」「童貞の人」「同性」「性風俗産業従事者」「イケメンすぎる人」ってな具合に何に書き換えても成立する。

ということは「職業の人」である必然性はないってことだ。人それぞれデスネ、仕方ないね、という話になる。

人それぞれなのをつかまえて、しか葛藤してる人間を相手に「自己中心的」「低俗」「クズ」呼ばわりはあんまりだ。

既にそれは論理でも何でもない単なる罵倒だ。

2012-07-05

http://anond.hatelabo.jp/20120705001252

ん、あれ? 元増田じゃなかったんか。てっきり本人かと。

似たような思想的背景を持つ曲が大いに支持されているから、それにおもねってその潮流に乗っかるってのは、発信する側の手抜きじゃないですか。少なくとも「ランキングにある多くの楽曲が同様の思想的背景を持っている」ということは「同様の思想的背景を持った楽曲がそれほどたくさん供給されている」わけで。供給者の絶対数が多いのもありますけど、単純に手抜きじゃないのかなぁと。

で、その思想的背景というのも、嫌だ嫌だと言って、その実言っても変わらないのも知ってて、ただ駄々を捏ねて、ありもしない桃源郷に浸る、ないしは嫌だと思ったまま諦める。それをそのまま歌にして共感を得たからって、それは別に生産的でもなければ前向きでもないじゃないですか明日への活力になるわけでも、気持ちがリセットできるわけでも、何でもない。ただ消費者を甘やかしてるだけで、もっと言えば、消費者を甘やかしている作曲者側の自己満足にすぎない。だってただの傷の舐め合いじゃないですか。それが元増田の言う「暗い」の根幹ですよ。そんな程度なら別にわざわざ多大な一手間を加えて歌にしなくても、ブログを書けばいいわけで。

ここらへん、前半はその通りだと思う。

手抜きっていうか、ランキング見てウケる歌詞の傾向を探りつつ割り切ってロジカルに作ってる奴いそうだなーみたいな気はします。というか自分音楽やってたらそうやって作りそう。自分がウケた曲を見よう見まね換骨奪胎で吐き出しそう。

そう考えると「世の中」とか「世間」に浸透しづらくて子どもにウケてるのも理屈がつく気がする。ある一定の層の中でグルグル巡っているだけなんですね。

ただ、傷の舐め合いであり甘やかしだからアカンというのはどうなんでしょう。先述したように「自分は助けてもらえないかも」という不安絶望が身近にふよふよしてるような人間にとって、一人で傷舐めてるよりはナンボかマシなのではないでしょうか。逆に化膿するかもわからんっていうかランキングでは化膿してるようにしか見えないけど。でも(曲にもよるけど)「またきました」「再生○回目」「癒される」「元気出る」みたいなコメントついてるのって結構散見されるので、それなりに活力とかにはなってるんじゃないスかね。

あと傷の舐め合いであから歌でなくてブログでよいというのは意味不明な暴論だと思います別に歌でもいいじゃんっていうかブログである必然性はない。作り手が己の最も長けた表現形式を選択してるだけのこと。

別のやりようと言っても「現代厭世観を背景に持ちながら、その上で前向きな歌」とでも言うのか。それは別に現実と戦う必要はなくって、遠まわしで皮肉で嫌味な歌でもいいと思うんですよ。「いーじゃん勝手にやってりゃ。俺らは好きに生きるから」みたいな。そういうのがあって、そういうのを選び取らないのは消費する側の問題だし(能動的に生きる、という意志放棄しているように取れます)、そういうのを選び取らせない社会の問題でもある(理想化された友人がたくさんいるって、具体的にどうこう以前に社会が相当マズいというのが一目瞭然だと思います)。これが反映されているのが「そしてこの根の暗さの根本的な原因は、当事者の方々そのものにあるのではなく、その環境を用意した世代の方にあるのだろうということ」という一文ですが、同時に「それもまた無自覚になされたことであり、ただ噫と溜息をつくばかり」なものでもあるわけです。どっちからも変えられるんで、消費者の側から変えても良いし、生産者の側から変えてもいいんですけど、たぶん「現代厭世観を背景に持ちながら、その上で前向きな曲」が流行る、というのが一番手っ取り早い構図のように思います

「いーじゃん勝手にやってりゃ。俺らは好きに生きるから」ってスタイルは既に一世代前がやってることのような気がする。ロックとかパンクとか?

ロックパンクは失敗してるわけですよね。「好きに生きる」スタイルでは結局いろんな問題が解決しないであれこれ行き詰ってくる。

からボカロは歌うんじゃないでしょうか、「いーよ勝手にやれよ。俺らは好きに生きて好きに死ぬわクソが」と。

「好きに死ぬ」までが彼らの「前向き」に含まれた答えになってる。「後ろ向き」とは他人や運命に象徴される非自由意志的なもの蹂躙されて死ぬことであり、それを克服し脱して「好き」に殉じる、自分で死に方を選ぶことが持ち上げられてるという構図です。ぼやぼやしてると「見捨てられる」「助けが得られない」という非常に消極的な形で殺されるみたいな不安感があるのかも。さしずめ氷山で仲間のペンギンに押されてしまって怖い捕食者のいる海に落っことされるぼっちペンギンといったような。

もはや世の中「前」がどっちかよくわからん様相を呈してきているのもあって、従来型の単純な「前向き」って中身がないと判断されてあんまりウケない気がしますね。萌えとか理想恋人友達で飾って「浸るための夢」という位置づけを確立してるような感じ。

何年か前は現代厭世観を背景にカオスに助走してそこからいろいろ飛び越えて突き抜けるのがもっともオシャレでスマートな解決法ってことで小説あたりで流行ったものでしたが所詮は虚構ということか、虚のうちに消えてしまった感があります

個人的には「ポスト現在」、「好きに殉じる」をもっと突き詰めて煮詰めてほしいです。

部落教育の大迷惑

http://anond.hatelabo.jp/20120704205323


東北だと、集落やムラ程度の意味部落という言葉が使われる。

から城下町武家屋敷地域を除けば、農村地帯は全域が部落地帯。単に士農工商の農民しか住んでなかった集落のことに過ぎないから、いわゆる被差別部落部落とは全く違って補助金なんて当然出ない。部落という言葉はありふれて誰もが馴染んでいる日常用語だし、それ無しではどんな社会生活も成り立たない。小中学校時代も全員が部落の子供達だから部落差別問題は教育として取り上げようがなかった(子供が変な勘違いしたら大変なので)。


なのに近年関東以西の部落差別問題のせいで、東北部落まで名称変更をさせられて非常に面倒。

「ここから〇〇部落」の道路標識は一枚も余さずことごとく「ここらから〇〇町内会」に建て替えられた。老朽化していた訳でもないのに何故わざわざそんなことするのか。県庁教育委員会人達の話を聞いたら、他の地方人達が持つ部落意識への対策ということだった。東北部落部落問題の差別は無いとアピールして全国に浸透させる労力よりも、自分自分名称変更する労力の方がまだ少ないと判断したらしい。東北部落被差別部落では無いというアピールは、それこそが被差別部落に対する差別になるからできないし。


お陰で、あらゆる行政教育市民活動で、部落消滅のための名称変更が大進行中だ。「〇〇部落」と書かれた古くから伝わる記念碑や神輿も「部落」のところだけ修正された。「〇〇部落PTA」と書かれた交通安全旗とかも回収。今まで全部「部落」で習慣的に統一されて便利だった呼称が、何の決まりも無くバラバラに、一部は町内会と変更されたり、また一部は地域地区と変更されたりしている。全くもってゴチャゴチャと名称乱立でみんな大混乱。「消防団場合は〇〇部落が〇〇区域になったんだっけ?〇〇町内会?何だっけ?」と書類書くのもいちいち新名称を確認しなくてはならないので面倒臭い。そもそも、部落差別なんて過去遺物になってるであろう今の時代ガンガン推し進める必然性なんてあるのか。それに何より、これらの名称変更には、税金だったり部落の共同出費だったりして相当に無駄金がかかってる。


そんな訳で、どこかの意識の高い人達部落差別問題と騒げば騒ぐほど、差別を無くす教育よりも、部落差別対象だったという知識の方が広まって、今まで差別なんて無かった関係ない東北部落までもが差別対策をすることになってしまっている。余計な金払って伝統名称を排除した挙句に大混乱で、こんな面倒な羽目になってとんだとばっちりだ。

2012-07-03

ウナギ料理店は博多明太子業者の転身に学べ

ウナギ資源の危機なのに、牛丼店やコンビニなど、

本来ウナギと無関係な業者までウナギ商戦に参入していることを嘆いているエントリがあった。

http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20120702/p1

自分牛丼店やコンビニなど、

ウナギ市場に参入する必然性が乏しい業界が、わざわざ参入するのは、反社会的」と

思っているし、この辺は何らかの自主規制をお願いしたいところだが、

他方で、「ウナギが一切取れない」「ワシントン条約対象になって禁漁」

という事態に陥った場合に、

ウナギ専門店処遇をどうソフトランディングさせるか?」という議論を

並行して用意しておかないと、ハードランディングによる混乱を生じさせてしまう。

ここで参考になるのは、博多明太子業者の由来である

自分は時々地方出張に行くが、その際には「その地方にまつわる書籍を購入」するのが

ささやか趣味になっている。

で、昨秋に福岡で見つけた本に載っていたのだが、

「なぜ博多明太子業者が多数立地しているのか?」という経緯が書かれていた。

そこに載っていたのは、

博多明太子業者の大半は、実は鯨肉加工業者が転身したもの」という

東京ではあまり知られていないエピソード。

捕鯨規制の打開策として、明太子加工販売に窮余の策で転身したところ、

山陽新幹線博多開業タイミングあいまって、一気に「博多土産」の座を手に入れた、というエピソードらしい。

ウナギ料理店の「秘伝のタレ」の技術を、

アナゴサンマ、あるいは他の食材魚類以外にも)に応用できないか

全日本ウナギ料理店協会」(そういう協会があるのどうか知らないが)で本格的に研究して、

ウナギ料理店の転身、ソフトランディング」を政策誘導する必要があるのでは?

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