はてなキーワード: 人形とは
Xちゃんは幼なじみだ。彼女とは小さい頃に家が近く(と言っても車が必要な距離)、親同士が会う時に子供同士でよく遊んでいた。
大抵は室内で人形で遊んでいたと思う。日に焼けた肌に白い歯の、よく笑う子だった。
Xちゃんはその後、親の都合で外国で暮らすことになった。白人が多い風光明媚な国だ。本人も最終的にはそちらの国の国籍を取得した筈。
引っ越した彼女とはクリスマスカードぐらいしかやり取りは無かったが、親同士は連絡を取り合っているようだった。
高校一年生の夏、Xちゃんは一時帰国して、その際に私の家にも立ち寄った。
彼女の明るさや屈託のなさは小さい頃と変わっておらず、お喋りしながら自宅の周りを散歩して楽しい時間を過ごした。
家に戻ってきた辺りで話が学校の話になったので、私はXちゃんにクラスの集合写真を見せた。
良いクラスで男女の垣根もセクハラもなくとても楽しかったので、Xちゃんにも見てもらいたいと思ったのだ。
Xちゃんが写真の隅々を見回している感じにアレッと思った。しかし知らない子達の写真なんてずっと見てても退屈だろうなと思って、
とか言いながら写真を片付けようとした。
その時に問題の
正確な表現は忘れたが、続けて
とか言っていたので級友達の外見をdisっていたのは間違いない。
まぁ確かにXちゃんが言う所のスポーツ万能のジョック達に比べたら、日本人男子は平たい顔のモヤシに見えたのだろうと今なら思う。
しかし。
「鏡を見ろよ。」
「西洋人好きなんですね、西洋かぶれかもしれないけど自分はアジア人だよね。」
…とか今ならスルスルとディスり返せる。しかし当時は「エッ…」と思ったものの何も言うことができなかった。
私自身もXちゃんの住んでいる国に短期間だが行った事もあって、その時も陰に陽にアジア人差別を受けた。
Xちゃんも長年の外国暮らしで一度も見た目から来る差別を受けなかったとは考えにくい。なのに
もしかしたら彼女は深く考えずに思ったまま喋ったのかもしれない。が当時の私にはショックすぎてその後一切連絡を取らなくなってしまった。
今思えば、クリスマスカードの交換ぐらいは続けていれば良かったなと思う。
というかそもそも、言われた時点で怒るか、
「なんでそんな事を言うの?大事な友人達の写真だから友達のXちゃんに見せたのに、そんな事を言われたら悲しいな」
とか、
「『私は』脳筋っぽい感じよりこっちの方がいいな」
とか言えていたらXちゃんも何か反応できただろうし。
当時の私はあまり怒らない、というか自分の気持ちをどう表現したらいいかわからない人間だった。
あれから何年もかけて、少しずつ表現できるようになっていった。でももう彼女と会う機会はないだろう。
Xちゃん、元気にしているだろうか?
新井 由己(あらい よしみ、1965年 - )は、日本のライター、フォトグラファー、おでん研究家。神奈川県藤沢市生まれ。
1991年から、アウトドア雑誌などに執筆を開始。田舎暮らしの資金稼ぎのため、1993年から2年間、都内でタクシー運転手をする。
1997年、「芝居小屋から飛び出した人形師」で「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」の佳作入選を果たし、
ここ数年疎遠だった地元の友人たちときっかけがあったので、また連絡を取るようになった。全員同い年でアラフォー。
去年のクリスマスにコロナもあって遠隔でクリスマスプレゼントを交換しあおうということになった。予算を決めてプレゼントを用意し、通話しながらクジを引いて当たった人にプレゼントを発送をした。後日、開封も通話しながらした。
私は予算で買えたコスメメーカーのクリスマス限定のセットみたいなやつにした。ちょっとベタかなと思っていたら私のチョイスだけめちゃくちゃ浮いてた。
他のメンバーのチョイスは用途が若干分からないような不思議な雑貨や何ともいいがたい人形やぬいぐるみとかだった。
確かに20代の頃はみんなでこういうものを扱っているお店をぶらぶらして「かわいい〜」とか言いながら見たり買ったりしていた。ぬいぐるみなんかは「お子さんに…」とかではない。子持ちは一人もいないグループだ。
クリスマス後にグループの一人から誕生日プレゼントを貰ったけれど、それも奇妙な人形の置物と、無駄に光る謎の置物だった。
全員、ウケ狙いではなく、本気で「これ可愛かったから」というので選んで来ているので「ありがとう。大事にするね」としか言えなかった。
若い時からノリやライフスタイルが変わってないのはちょっとビックリするが、若いのは結構。でも私にはもう付いて行けないなと思った。子どもも出来るし、コレを期にプレゼントのやり取りは辞退しようかなと思う。
今まで男性ばかりのイメージだった食べ物を、若い女性もターゲットに取り込みたい狙いがあるのはわかる。
だけど、ガリガリの女性に食べさせたところで、美味しそうに感じるどころか心が痛くなって逆効果でしかないんだよ。
むしろ体型維持のためにそういう食べ物からあえて遠ざかる生活を繰り返しているはずで、そのシーンが終わったら吐き出してるなじゃないかって思って見ていられなくなってしまう。
最近だと「豚丼!」って言いながら大きな一口を頬張るCMがあるのだけど、その瞬間は確かに美味しそうに見えるけど、その後飲み込んでる姿が全く想像できなくて食欲なんて全く湧いてこない。
そんなの、人を騙してるのと同じだよ。
インスタントカップ麺のCMにもアイドルグループっぽい人たちがよく出てるけど、これも絶対に飲み込んでるわけないよなと思えて仕方がない。
情報バラエティの食レポでも同じことが言えるんだけど、大御所女優でも売出し中の若手モデルでも、ほんのひとかじりしかしないときがある。
美味しそうな料理まるごと一皿だしてきて、その端っこをちょっとかじるだけ。
大げさなリアクションしながら食べ物をテーブルに置いて、台本通りの食レポを言ってはい次のシーン。
待って、今の料理どうしたの?
さもそういうもの食べても美しさを維持できてますって顔しておいて、それを真に受けた視聴者が食べて太ろうが関係ないわけでしょ。
女性に食レポをさせるなという意味ではなくて、もっと健康的で美味しそうにしっかり食べてくれる人を使ってほしいだけの話。
太っててほしいわけでもない。普通でいいんだよ。
ガリガリの女性を否定するわけでもない。でも、その人達がアピールするべき食品は別にあるわけで、少なくとも丼とかカップラーメンではないじゃない。
もともとそういうつもりで見ていたわけではないけど、最近あまりにも目について困っている。
人形みたいな見た目の女性ばかり売り出そうとしておいて、企業に媚を売るために絶対に食べるわけがないものを演出で無理やり美味しそうに食べてるように見せようとするテレビそのものが一番の悪だとは思う。
まず絵が変わる。
基本的に今だとアナログの小汚い絵からシャープなデジタルへと変化する。
だがベテランになってくると手を抜くのか段々と手癖が強くなって線の本質的な部分が薄汚くなる。
それと格好つけた画作りを始めた結果全体としてチグハグになりがちだし、冒険をやめた結果一度受けた作風を繰り返すようになる。
言葉も変わる。
たとえば笑い方のクセが変わって「アハハハ」→「クスクス」→「(笑)」→「ワロタ」みたいな感じでキャラごとでなく全体で変化するのが5年ぐらいおきにある。
「人格」だけにフォーカスするとわかんなくなるけど、元の定義をひっくり返してみて、「女性を描くときに外見(若さや性的側面など)のみを取り出し、人格を持たない、多様でない姿で、アイキャッチャー的に描く」ことはNGなんだな、という文脈の中で捉えれば、だいたいニュアンスがわかるんじゃないかと思う。
単にそのメディアに触れる人達の目を引くためのお人形として、かわいかったりセクシーだったりすることだけを重視したような描き方のキャラが、画一的に使われるのはダメなんだ、ということ。もしパンフやポスターに人物が入る枠が5枠あれば、発信されるテーマに沿った範囲で、その5枠に性別も年齢も外見も多様で、勤め人だったり自営業だったり学生だったりと、色々な背景がありそうな複数の人物がバランス良く入ってるのが好ましく、特に必然性なく露出の多い女性の萌えキャラ1人が全ページに登場してるような作りはアイキャッチャーだからダメ、という感じ。
ここまで書いたらわかるかもしれないけど、擬人的な「イメージキャラクター」という考え方自体が、このガイドラインには馴染みにくい。あえて使うにしても性別不明・種別不明の非人間の「ゆるキャラ」みたいな感じに限られるだろう。
ちなみに、こういう方向性は別に大阪府が突然繰り出したものじゃない。平成13年に内閣府が出した「男女共同参画の視点からの公的広報の手引」がそういうことを言っていて、各地方自治体がこれに沿ったガイドラインを作ってきた。
・女性を飾り物として使っていませんか?
単に目を引くためや親しみやすさを持たせるために、内容とは関係なく女性の姿や身体の一部をポスターなどで使う場合がありますが、それでは伝えるべき内容が十分に反映された表現とは言えません。安易に女性をアイキャッチャーとして起用せず、訴求内容と訴求対象に合った、より効果的な表現方法を工夫しましょう。
大阪府の表現ガイドラインは、過去のガイドラインを改定して、この内閣府ガイドラインの言ってることをより具体的に表現しただけ。
ググれば出てくるよ
https://woman.excite.co.jp/article/love/rid_Hanakuro_hanakuro.jp_26339/
http://j.people.com.cn/n3/2016/0422/c94475-9048316.html
人間の女性の乳房の大きさは、脂肪の蓄えのシグナルとして働き、それが資源へのアクセスを示すのではないかと考えられています。このような観点から、相対的に資源が不足している男性は、資源が確保されている男性よりも胸のサイズが大きい方が身体的に魅力的だと感じるはずだという仮説を検証するために、2つの研究を行いました。研究1では、社会経済的地位の高い人から低い人まで、マレーシアの3つの拠点から集まった266名の男性が、胸の大きさが異なる一連のアニメーション人形の身体的魅力を評価しました。その結果、社会経済的地位の低い地域の男性は、社会経済的地位の中程度の地域の男性よりも大きな乳房を魅力的だと評価し、その結果、社会経済的地位の高い地域の男性よりも大きな乳房を魅力的だと感じることがわかりました。研究2では、イギリスの同じ環境下で、空腹の男性66人と満腹の男性58人の胸の大きさの判断を比較しました。その結果、空腹の男性は満腹の男性よりも大きな乳房を魅力的だと評価することがわかりました。これらの研究を総合すると、資源の確保が、女性の乳房の大きさに基づく男性の魅力評価に影響を与えるという証拠が得られた。
ディズニー映画に埋もれた名作などというものは存在せず、有名なやつは出来がよく、無名なやつは出来が悪い。
以下、備忘録をかねてウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ制作の長編アニメ映画史を概観したい。
『メイク・マイン・ミュージック』以外はディズニープラスで全部見れる。
おすすめの作品:『白雪姫』『ファンタジア』(ミッキーのやつだけ)『ダンボ』
ディズニー長編アニメの歴史はアニメ史に残る傑作『白雪姫』とともに幕を開ける。この作品はとにかく作画が凄まじく、戦後の日本人が衝撃を受けたという逸話も納得の出来である。著作権が切れているのでYoutube等でも見れるが、できるだけきれいな画質で見たほうがいい。7人の小人たちの非モテ自助コミュニティ描写もピカイチで、増田を見ているような人々は目を通しておいて損はないと思う。
ディズニー映画はこの頃から一貫して「教育的で」「社会的にただしいとされる」物語を描こうというはっきりとした意思を見て取ることができる。そのため、作品の背景には常に制作された時代の価値観が垣間見える。
例えば『白雪姫』の3年後に公開された『ピノキオ』では、主人公ピノキオを導く良心の象徴としてジミニー・クリケットという名前のコオロギが登場する。この「ジミニー・クリケット」という名前はジーザス・クライストの言い換え語らしく、つまりここでは創造主の似姿として作られた人形が様々な誘惑と戦いながらも最終的にはイエス・キリストに導かれ、ただしい人間性を獲得するという物語が展開されるわけだ。
『ピノキオ』自体は退屈な作品ではあるものの、歴史や時代背景を含めて見ていくと別の発見があり、それはそれで豊かな体験である。ちなみに当時のディズニー自身はむしろできるだけ宗教色を薄めたいと思っていたらしく、この辺は社会に要請されてやむなくという側面が強いのかもしれない。
ほか『ファンタジア』中の「魔法使いの弟子」と『ダンボ』は見ていて単純にたのしい良作。『ダンボ』のお母さんの健気さは泣ける。
『バンビ』のあと『シンデレラ』まで長編の物語映画はなく、とくにおもしろい作品はない。とはいえ日本人としては、バリバリに総力戦をやりながらアニメを量産していたアメリカの国力にむしろ驚くべきかもしれない。
この頃の作品群には「丁寧な植民地主義」とでも呼ぶべき傾向があり、具体的にはアメリカ開拓時代の美化とラテンアメリカへの観光的関心、キリスト教的な価値観が三位一体となった教育映画が制作されている。この辺はおそらく当時のアメリカの外交・安全保障戦略と密接に結びついており、いわばアメリカ流の国策映画だったのではないだろうか。
丁寧な植民地主義的な傾向はこの後も非常に根強く、形を変え品を変え、ディズニーらしさの1つの要素として受け継がれていくことになる。
『シンデレラ』は物語の大半を出来の悪いトムとジェリー風ドタバタ展開が占め、あまりおもしろくはないものの興行的には大成功を収め、低迷期の脱出に成功する。
『眠れる森の美女』は『白雪姫』以来の超絶作画であり、これ以降の作品と見比べてもダントツでクオリティが高い。一方で興行的には制作費の回収すらできず、総じて失敗作と見なされたようだ。ディズニー作品の作画技法は『眠れる森の美女』でひとつの頂点に達し、以降はべつの方法論を模索していくことになる。
ほか『ふしぎの国のアリス』のチェシャ猫や芋虫の悪夢的な描写は見たものに強いインパクトを与える。一方で登場人物にだれ1人としてまともに会話の通じるキャラがおらず、集中力の維持が非常にむずかしい作品でもある。
『ピーター・パン』では全能感と成熟の拒絶というYoutuberの原型のようなヒーロー像が描かれる。ピーター・パン症候群とはよく言ったもので、本家ピーター・パンも未成年淫行で炎上する未来を強く予感させるキャラクターだった。
『わんわん物語』では都市的自由を謳歌していた野良犬がペットとして不自由な幸福を手に入れて物語が終わる。ここで描かれるペットたちのむき出しの奴隷根性は、前述の植民地主義と無関係ではない。『ピーター・パン』『わんわん物語』ともにおもしろくはないが、それぞれ見どころのある作品となっている。
おすすめの作品:『101匹わんちゃん』『くまのプーさん 完全保存版』
『眠れる森の美女』のアーティスティックで洗練された描線から一転、『101匹わんちゃん』以降はえんぴつで描かれたかのようなラフな描線で作品が構成されていく。『眠れる森の美女』以上のものを作り出すことが現実的に不可能であり、見劣りを避けるという意図があるのか、あるいは端的に制作資金が枯渇しただけかもしれない。
技法的にはやはり『くまのプーさん 完全保存版』でひとつの完結を迎え、以降ディズニー映画は再び模索と低迷の季節を迎えることになる。
『おしゃれキャット』は金持ちのペットが使用人をブチのめす話で、一方『ロビン・フッド』は貧乏人が金持ちをブチ殺す話だ。この時期のディズニーは節操のなさがすごい。
この時期の作品群の特徴を一言で言い表すならば、「リアリティへの接近」ということばになるだろう。それは一方では作画技法への3DCGの導入というかたちで現れ、他方で物語上では善と悪の単純な二項対立の脱却が図られることになる。
前者は『コルドロン』の奥行きのある大胆なカメラワークや作画法、『オリビアちゃんの大冒険』『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』での部分的な3DCGの導入に見られる。後者は『きつねと猟犬』での人種対立のメタファーとして描かれた動物間の争いや、多人種が共生する複雑な現実を猫の姿を借りて描いた『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』に象徴的である。
『きつねと猟犬』はこれまでのディズニー作品に見られた家畜たちの奴隷根性を初めて批判的に描いた作品であり、『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』と合わせて「社会的にただしいとされる」物語像の変容を見て取ることができるだろう。ただしこの時期の作品群は総じて地味で魅力がない。どうやら創業者ウォルト・ディズニーの死や主要スタッフの大量離脱の影響があったようだ。『コルドロン』は興行的にも大コケし、ディズニーの低迷を象徴する作品となった。
シャーロック・ホームズの翻案である『オリビアちゃんの大冒険』がかろうじて見ていられるという程度で、単品の映画作品としておもしろいものは少ない。『オリビアちゃんの大冒険』では、冒頭からネズミ女児のパンチラという一体どこに需要があるのかわからない謎サービスカットがあり、視聴者の集中力が乱される。
おすすめの作品:『リトル・マーメイド』『美女と野獣』『アラジン』
この時期ディズニーは批評的評価・興行収入の両面で復活を遂げ、一般に「ディズニー・ルネサンス」と呼ばれているらしい。本稿でもその表現に従う。
たしかに作品のクオリティは過去10年とは比べものにならないほど高く、ルネサンスと呼ばれるのも納得の時期である。一方で技術革新や価値観の変容は停滞気味で、歴史の流れとしてはさほどおもしろくないというのが正直なところ。ルネサンスの言葉通り、ある種の保守回帰の時代に当たる。
おそらくこの時期、真に革新的だったのは、作品の表層に現れる技術やテーマ設定ではなく、安定して高品質な作品を量産する社内の体制や組織づくりの技術にあったのではないか。
個別の作品として語れる部分は非常に多く、『リトル・マーメイド』は作画がよく、『アラジン』は見ていてたのしい。
『美女と野獣』でははっきりと他者理解をテーマに打ち出し、また女性主人公が男性からの求婚を拒絶する主体性を獲得するなどプリンセスものとして出色の出来栄え。他者を尊重することを覚えた野獣が救われ、他者の存在を最後まで容認できなかった村のヤンキーは破滅する。主人公が読書好きでヤンキーと話が合わないインテリとして描かれる点も珍しい。ただしこの他者理解はプリンセス側に一方的な負担を強いるかたちとなっている側面が強くあり、なかなかむずかしい部分もある。
『ポカホンタス』は白人によるアメリカ侵略・植民地化を矮小化し美化するかなり最悪のお話で、案の定ネイティブアメリカンの民族系団体にかなり怒られたようだ。引き続き怒られてほしい。
『ターザン』もインディアンをゴリラに変えただけで『ポカホンタス』とほぼ同類型のお話ではあるが、最後に白人研究者たちがゴリラの部落に居残ることでギリギリのバランスを取っている。ここにはターザンとポカホンタスの男女差が絡んでおり、単純にターザンのほうがいいとも言いがたい。
『ノートルダムの鐘』は強引にハッピーエンド化されているという不満はあるものの、子供向けの大作映画で障害者の活躍を描いた点は積極的に評価されてよいだろう。そもそもディズニー作品には『ノートルダムの鐘』以外にも障害者がやたらとよく出てくる。アメリカ社会には障害者を積極的に受け入れる土壌があるからできるのだとは思うのだが、日本のコンテンツおよび社会全体でも頑張ってほしいポイントである。東京ディズニーランドでもべつに障害者見かけないし。
そのほか『ムーラン』『ターザン』ではそれぞれ3D技術の進歩を見て取ることができる。
みたび低迷期である。『ダイナソー』に代表されるように3D映画への本格的な移行が始まり、2D映画最後の全盛期に当たる。
作品としては『リロ・アンド・スティッチ』がずば抜けてすばらしい仕上がりで、商業的にも大成功を収めた。『リロ・アンド・スティッチ』は王子様に救われるというプリンセスものの物語類型とは異なる、弱者同士が助け合う疑似家族モデルを明確に示した重要な作品である。
自分の欲求をうまくコントロールできない少女リロと、破壊衝動を植え付けられ誕生した人工生命体スティッチが、貧困家庭のネグレクト問題とSFアクションを背景に成長していく姿が描かれる。キャラクターデザインはかわいらしく、作画から細かい小ネタに至るまで非常に丁寧に作られており、娯楽作品としてもすばらしい。リロの姉・ナニの恋人もいいヤツで好感が持てる。
残念ながらディズニー映画ではこのあと疑似家族的な想像力は発展せず、プリンセスものという旧来の枠組みのなかで無理やり「価値観のアップデート」を図ることになっていく。
『アトランティス 失われた帝国』はディズニー映画には珍しく人がバンバン死ぬ作品で、ふしぎの海のナディアや宮崎作品みたいなものをアメリカ人が真似して作るとこうなるのかといった印象。ガバガバ設定とご都合主義が目につき、リアル路線なのかファンタジー路線なのかどっちつかずの失敗作だった。ただし主人公にオタク青年が採用されている点は注目が必要で、これ以降ディズニー主人公はイケメン・マッチョではなく非モテ・オタクが主体となっていく。
『白雪姫』で人間扱いされていなかった非モテの小人たちが「社会的にただしいとされる」物語の主人公となる時代を迎え、しかもそれが日本のアニメの強い影響化で発生しているわけで、価値観の大きな変化を感じ取ることができる。ただし、『白雪姫』の王子様はあれはあれで人間味のかけらもない平板なキャラクターではあるので、モテ非モテという面ではそこまで単純明快な話ではない。
『ブラザー・ベア』は殺した相手の子を育てるというなかなか攻めたお話ではあるのだが、最終的にファンタジーに着地するせいでどうも軸がブレる。
続く
そもそも、すべてのあとから見たら儲かってる産業は、何に使えるかわからない段階、着想だけは思いついたものの顧客と商品技術がマッチしていない段階を経過してきてるんだが。その過程ではどれだけの金、期間かけたらいくら儲かるかなんて全くわからない。
だけど、基礎研究、萌芽研究の段階を破壊するからこそ新自由主義だと日本が衰退するんだよ。費用対効果に照らし合わせて無駄な金を削減するのも一面必要だが、科学の金、儲けが見える前の吟味の段階では残念ながらそんなのわからんとしか言いようがない。
無理にこれはいついくら儲かるか言え!と強要して、そのスケジュール通りに行かなかったら追い詰めていくのが新自由主義的産業発達ですな。案の定衰退国日本を作った。
まっとうに言ったら衰退しかない。だけど、新自由主義者共に言わせればどこかに隠れているだけだ!表に引きずり出して引っ掻き回せばうまくいく!うまく行かないだと!まがい物のくせに何偉そうなことを言った!みたいな悪趣味な人形遊びでしかないな。
キューピーのユが大文字なのに書き方が間違っている!と指弾する人がいるので説明するが
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.j-cast.com/2021/09/15420359.html?p=all
「ュ」などの小書き仮名を捨て仮名というが、これは以前は登記に使えなかった。そもそも昭和63年までは法律、行政文書に捨て仮名を使うことができなかった。
時系列順に並べるとこんな感じ
明治:公文書でカタカナを使う事が決まる(平仮名は大量の変体仮名があったため)
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法令、行政文書には小書きカナ不可、故に屋号、商号登記への小書きカナも不受理
この為小書きカナを大書きしたり、小書きを使用しない表記が一般化する(例:キューピー→キユーピー、ディーゼル→ヂーゼル)
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戦後昭和20年代後半くらいから擬音などで小書きを使うことが一般化していく
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末期には見出し:小書き仮名不使用表記、記事本文:小書き仮名使用という混在状態
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昭和63年(1988年):昭和63年7月20日 内閣法制局総発第125号 『法令における拗よう音及び促音に用いる「や・ゆ・よ・つ」の表記について』
「法令における拗よう音及び促音に用いる「や・ゆ・よ・つ」の表記については,(中略)昭和六十三年十二月に召集される通常国会に提出する法律(中略)から,小書きにする。」
これにより行政文書などにも準用されて小書き仮名が使用されるようになり登記も可能になる
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これ以前はローマ字をカナ書きした表記(例:YKK→ワイケイケイ)にしたり数字を漢数字にして登記する必要があった
こういう経緯なので昭和63年以前に登記した会社は「キュ」などの小書き仮名表記は商号登記に使えなかった。
だからそれが正式表記かというと法的制約によるものなのでちょっと違う。YKKの正式名称がワイケイケイかと言えばおかしさが判るだろうか?
キューピーの社名の元はキューピッドの子供読みで-yを付けた人形なので一般的な「キューピー」でいいはずだ。
登記上の制約で商号の一般認知と商号登記が違う、NHKと新聞だけが登記上の商号を使うという状態は嘗ては当たり前だったので、今も昔のままの商号を使う会社の「正式名称」に事更に拘るというのはナンセンスかと思われるよ。