はてなキーワード: 物心とは
母親は呼吸と同時に嘘を吐く、スラップ訴訟大好き自称インフルエンサー。
そんな遺伝子同士が悪魔合体して生まれたのがはあちゅうベイビー。
いやーーー、これほど「生まれてきてしまった事自体が間違い」な子は他にいないだろうな。
はあちゅうベイビーが物心つく前に一刻も早く親から引き剥がして、両親の事は一切意識させないように教育するしかこの子の明るい未来って残されて無い気がするよ。
こんな事言いたくないんだけどさあ、最近ニュースでも6歳の息子や4歳の娘が虐待死したとか話題になってるじゃん?
はあちゅうベイビーも例外じゃなくなるんじゃって気がひしひしと感じるのよ
冗談ではなくてさ
既にインスタとかで「それ虐待では?」って指摘入ってるし
世は大アイドル時代!
三次元も二次元も2.5次元も、アニメも漫画も、日本も外国もアイドルが売れまくり!
ってのが現状じゃん。
オタクなのにアイドル嫌いなのって生き辛そう、三次元がダメなのはともかく二次元アイドルは大体の人が好きでしょ、ってのが今の世の中であり、実際そのように売れてると思う。
だが、俺の記憶では、二次元オタクは、二次元・三次元問わずアイドル文化と距離がある方が当然という頃があった。
世間では小室ファミリーとモー娘。と沖縄アクターズスクールとV系の嵐が吹き荒れていた。
TVやクラスのカースト上位たちがそれらでキャイキャイ言っているのを、俺や俺の周囲のオタクはケッと思ってみていた。
俺たちの中で広末涼子が話題に出たことはなく、レイとアスカの話をしていた。安室奈美恵の話はごくたまにで、アムロの話をしている方が多かった(でもスパロボ知識。当然機種は初代プレステ)。
数歳年上のアムラーとかコギャルのお姉さんたちは、萌え属性なんかじゃなく怖かった。そう、かつてはオタクはギャルを怖がっていた。
あの頃、華々しいアイドル文化は、俺たちオタク(今でいう陰キャ)をキモがる側の文化であり、敵だった。
声優は、雑音まじりの文化放送で聞くことはできても顔すら知らなかったし、それをアイドル的におっかけてる奴は、多分都会にいて、オタクの中でも変な奴と思っていた。
この、「アイドルは俺たちに寄り添う存在ではなく、スクールカースト上位をさらに統括するスーパークイーンビー」という感覚は、成人してからも続いた。
初期アイマスはDLCがよく売れたらしいが、一方でアイドルというジャンルは、当時二十歳前後のオタクにはあまりウケが良くなかったと思う。
折しも黎明期のニコニコで三大ジャンルになったものの、感染力がよわいというか、主にジャンルの内側同士で生産・閲覧されている雰囲気が東方とボカロに比べれば強かった。
更に同時期に誕生したAKBだが、AKBの嫌われ方は、二次元オタクのアイドル嫌い(特に三次元アイドル嫌い)を象徴していた。
その叩き方が悪辣だったとか、逆にAKB側も売り込みすぎな面があったとかまあ細部は色々あるが、オタクの中に「アイドル文化は俺らオタクの味方じゃなく、陽キャの味方」という意識はあったのは間違いない……はずだ。
別にアイドル物じゃなくていいだろというものがアイドル要素を入れるし、アイドル作品ヒットしすぎだろと思っても次もアイドル作品がヒットしている。
そうだ、それを書き忘れてた。
タイトルで「僅かな年代」としたのはこれを念頭においてたから。
どうも上の世代のオタクはおニャン子だか戸川純だかでアイドルが好きだったらしい。リン・ミンメイに盛り上がったりな。
ミンメイやランカやΔの人たちの露骨なアイドルっぽさに対して、マクロス7が男voで一応ロックバンドなことや、マクロスプラスのシャロンのディーヴァというかほぼ妖怪みたいな描写という異色さも時代の影響なのかね。そもそもマクロス自体、7~F(95~08)の時期は空白に近そうだし。俺はマクロス系を全然リアタイしてないから空気感よくわからんけど、とりあえずシェリルは好きでTV版ランカは性に合わない。
80年代半ば生まれで今三十代半ばというという僅かな世代のオタクだけが、物心がつき学校に通いだす90年代にアイドル文化と対立しており、ついでに仮面ライダーやウルトラマンもテレビでやっていなくて、ガンダムもなんか下火で、あとGBの初代ポケモンは流行ったがその後PSの爆売れのために任天堂よりソニーに思い入れがあるetcetc、上のオタクとも下のオタクとも細かなギャップを感じることが多い……というのが発想元だったのに、肝心のそれを書き忘れてた。
物心ついたときから私には母と兄しかいなかった。母はまだ幼い兄と私を連れて父と離婚した。暴力を振るわれたとかで離婚したと言っていた
狭いアパートに家族3人で暮らしていて、深夜に仕事をしている都合上、夜になると兄と私は同じアパートに暮らす母と同じ国籍の夫婦に預けられた。
今では真偽は不明だが、母は私達を預かる代わりにその夫婦にお金を渡していたらしい。ほんとうに苦労して育ててくれていたと思う
兄と私が園児になったころ、その夫婦のところに預けられなくなった。トラブルか何かがあり、母はその夫婦に私達を預けることをやめたらしい
母は私達にゲームを買い与えたりして手間を省いてたかもしれない。他にもおもちゃは買い与えられたが、私達が欲しがったのはわかりやすいゲーム機で遊ぶことだった。
家に子供だけがいる状況で、その頃から私達はおかしくなっていたのだと思う
やんちゃする兄を母は躾としてハンガーで叩いたことがあったらしい。当時はまだ体罰が許されていた時代だったかもしれない。そしてまだ幼い兄はそれを真似て、私が言うことを聞かないときにハンガーで叩いて言って聞かせた。
兄は母がいるとき私に躾をすることがないので、私は夜になるのが怖くなっていた。
すぐに言えばいいものを、子供ながら母が苦労していることがわかっていたので言えずにいた。自分だけが我慢すればいいことだと思っていたかもしれない
兄の行動は徐々に歯止めが効かなくなり、ある日、本当に怖くなってしまったから泣きながら母に兄のことを話した。
父は山に囲まれた田舎に住んでいた。亭主関白そのもののような人だと思う
私は父が何をしている人なのか職業以外なにもしらないまま育った。それより父を父親だと思うことができなかったのでどうでもよかったまで思っている
まだ読み書きもできなかったころ、母がお父さんと話してほしいと言って電話をわたしてくれた。父とは物心ついたときに父親だと言われて会ったことがあったから、電話先にいる人物を父親だと私は認識して話していた。
そしてある時、父にお金がほしいと頼むように母に「おねがい」された。私達は教えられたとおりの内容を電話で話した。
例えば、お母さんがお金がないって言ってるからお金ちょうだい。といった子供が言える最大限の言葉で父に頼むのだ。
そして頼むことができれば褒められ、父が無理だと言った日にはもう1回電話して頼むように言われることもあった。
まだクレヨンとかで絵を描く子供が5万円ちょうだいなんて言うのだから、ほんとうに今考えると気持ちがわるいと思う
もうその時点で母に合わせないといけないと思っていたかもしれない。そしてこれは19歳になるまでやっていた。
たぶん離婚したとき養育費について具体的に決めていなかったのだと思う
父から父親らしいことをされた記憶は私には数えるくらいしかない。それも本当にたまに会ったときにだけだった。10代半ばあたりからはお金を頼む相手としか見てなかった
まだ園児だったころから、私は自分が他の子たちと違うことを認識していた。
母は日本語の読み書きができないのだ。だから私達が通う場所のことなどを理解するのに苦労したのだと思う
持っていく必要なものや行事などは、私はいつも忘れていたしできなかった。兄もそうだったのか今では過ぎたことなのでわからない
しかし他の子が不自由なく過ごしていて、自分にできないのはなぜかわからなかった。
それと母が昼間に働くようになったときは、いつも私達の迎えだけがすぐには来なかった。
兄が小学生になったあたりで、静かになる施設の中ひとりで迎えを待つ時間が途方もなく感じたのを覚えている。
小学生になった私と兄は多少物事を理解するようになっていた。引っ越しして前よりもまともな生活ができた。
ここから母は私達の教育を学校に任せるようになった。元々、教育などされていないかもしれなかった。教えられたことと言えば、母が帰ってくるまで家事をすることだったかもしれない。
今でも母が仕事から帰ってくる時間あたりから何かしなきゃいけないとか、待たなくちゃいけないとか焦ったりする。怒られないようにしなきゃいけないと考えていたと思う
仕事をしなければいけない母は日本語を勉強する時間は無い。大きくなったらお母さんを支えてねみたいなことを言われた覚えがある
厳密には仕事で疲れて日本語を勉強することができないのが正しいかもしれなかった。
勉強を教えられなかった私達は学校へ行って授業を真面目に受けても、勉強をするということがわからないのだ
宿題をやってくるように言われて家へ持ち帰っても、宿題をするということを教えられていないからやれなかった。
兄もそんな感じで、私達が自分から勉強することができたのは高校生からだったかもしれない
学校関連の保護者が処理すべきプリント用紙や、家での細々とした書類なんかはその頃から兄と私がやるようになっていた。
ここまで読めば予想できるとは思うが、もちろん学校行事に母が来れるはずもなく、私達も親が日本語を理解するのが難しく仕事で参加できないのをわかっていた。
それだけはさすがに保護者が必要なので仕事を休んでもらって来てもらっていた。
先生に宿題や成績のことを言及されたとき、私を責めるような辱めるようなことをその場で母から言われたのを覚えている。
親が外国人の教え子なんて当時はまだまだ珍しかったのだろう、私の担任になった先生たちはあまり触れないようにしてるよう感じた。
勉強ができなかった私は高校生になり、片道1時間弱かけて偏差値の低い高校に通っていた。
1年生の時はまったく勉強ができなかったのと、いじめられて孤独だった私は深く傷がついている状態だった。
それでも周りに心配させないように隠して過ごしていたが、途中から環境が良くなったこともあり卒業するまでは一般的な高校生だった。
変わらず母は私達に教育などしてくれなかった。私達は家事を手伝っていたが、それは怒られるからやるといった感じでしていた。
私はその頃には周りの顔色を伺ったり合わせようとするような人になっていた。自分さえ我慢すればいいと思っていたのだ。
ある時死にたいと母に泣いて告げたときすごく優しくしてもらったことを覚えている。
兄が成人して家から離れるまで、まだ私達は家族でいたのかもしれない
大学生になった私はいなくなった兄の代わりに家のことをやるようになった。私には無理だった
兄と私は違うのだ。それなのに母と兄は私にも同じように立ち回ってほしかったらしく、できない私を責め続けた。
昔から私は泣き虫だったのだが、感情を出すのを悪いことだと捉えているかもしれなかった。
怒るときも悲しいときも泣いてしまうし、自分の気分が落ち込んでいるときは自分を責めていた。
母はそんな私に向かって泣けば済むと思っているとか、もう今じゃどんなことを言われたのかここに書けなくなってしまった。
そして悪い出来事が積み重なっていたときのある朝、玄関のドアノブに手をかけた時、開けられなかった。まだ1年生の夏休みすら過ごしたことがなかった
私が引きこもってる間に母はなにもしてくれなかった。普通は親とかが休学手続きなどをしてくれるだろうが、私の母はそんなことわかるはずがなかったのだ。
そして一切大学に連絡がいかない状態が続き、ある日家に届いた退学通知を見た時から、私はそれまでの自分が失くなったように感じたのを覚えている。
兄もたまに家に帰ってきていたが、私が何もしてくれなかった周りを責めたときから帰ってくることはなかった。
それからは半年か1年引きこもって半年アルバイトをするかしないかみたいな生活をしている。友達もいなくなってしまった。
引きこもりから脱せた時、低賃金でも収入を得てやり直そうとしている私を見て、母は応援してくれていた。正確には何も言ってこないようになっただけだったが。
仕事をするようになっても上手くいかないことが多かった。馴染めなかったり体力的にも向いてないのに無理やり働いて続かなかった。
まだ家から出れないときから、母は光熱費などの支払いを忘れることが多かった。口座引き落としにすればいいと思われるだろうが、母がそんな手続きできるわけがない
電気やガスが止まるとさすがに私も困るので、何も話し合いをせずに自然と私が家の支払いの一部を負担するようになったのだが、私の貯金はたまることがなかった。それよりも本当に忘れているんじゃないかと思うくらいだった。
さらに私からお金を借りていくことが多かった。ある時、私の貯金がたまらないことと支払いについて母に言ったことがあったのだが、今まで世話していた分やるのは当然で一緒に住んでいるのだから当たり前といった感じで喧嘩になった。
私はこの時点で支払いのことや諸々の家のお金にまつわることが嫌いになっていた。喧嘩をしたくないので母が忘れている支払いを全部していたのだ。
働けるようになったのだから私が負担することは自然な通りかもしれないとは思うが、先に進むためのことがなにもできなかった。
安定した収入を得る仕事をする必要があるのはわかっていたが、自信がなくなっていたのと自分はなにがしたいのか今でもよくわからない。
私は甘ったれなんだと思う
母とはいつも喧嘩しているように思える。昔と同じで家事をやらなかったりすると怒るのだ。
一緒に住んでいるならして当たり前だと思うだろうが、感情が爆発してから何かをやろうとするのが本当にできなくなってしまった。私自身もこういうことはできなくちゃいけないと思っているのに上手くできなくなってしまった。
私は母を話が通じない相手として見ている部分があるのでこの家には異常者しかいないんじゃないかと思うことがある。
1年前、心療内科に通うようになってそこで初めて私には精神疾患があることがわかった。処方された薬を服用するようになって母にそれを説明したのだが理解されなかった。
そして私自身ただ薬を服用してるだけで次に繋がっていかないことを自覚してしまって数ヶ月前から通院をやめた。
また半年前にアルバイトをやめてしまったので少しだけの貯金を切り崩しながら家の支払いをしていたが、もうその貯金もなくなってしまって今に至る。
よくある親エピソードなんだろうと書いてて思うが、日本語を理解できる親というのが私には羨ましかった。
私の母はコミュニケーションがとれるくらいには日本語が扱えるが、ひらがなとカタカナの一部を除いて日本語の読み書きができないのと難しい言葉などが全くわからない。
故に学校で勉強した自分の子供だけが頼りということだ。そしてそんな私がいつまでも家にいるから生活できているんだろうと思うことが何度もある。私の人生は母のためだったかもしれない
わかりやすく言うなら宗教的な考え方を持っていて、科学を話すことができない人だといえばいいのだろうか。言語さえまともに通じる相手ならここまで苦労しなかったのかなとか、こんなふうになることがなかったのかなとか気休めに考えてしまう
ほんとうはもっと筆舌に尽くし難いエピソードが多くあるのだが、書いていたらきりがないのでここで終わりにする。
ここまで読んでくれてありがとうございました。
親は良い成績を取るためにゲームなんてしないで勉強しなさい、先生の言うことを聞いて内申点を高くつけてもらいなさい、と言ったわりに大学生になってからはやっぱりゲームをしてる男の子って賢いのね、とか、頭の良さは成績とは関係ないよね、と急に言うことを変え始めた。
同時に、あなたは大したことないんだからせめて普通に人生を歩めるように成績を取っておきなさい、とずっと言われてたのかなと感じるようになってきた。
せっかくいい成績を取っても、女だてらにすごいじゃない、と一言多かったのも今思い出すと全然褒められた気がしない。
他にも、同じことしてても男の人の方が偉いのよ、そういうものなのよ、と繰り返し言われたことはよく覚えている。
大人になって女性アイドルが好きになったら、もしかして女の子が好きなの…?と心配そうに言われたり、クソみたいな男と付き合ってて別れようと思っててももうちょっと頑張りなさいよ、結婚なんて我慢よ、と言われたり、まあそんなことがあったからその後もっとまともな男と結婚して子供ができて親がめちゃくちゃ喜んでくれてもなんとなく素直に受け取れない自分がいる。自分で選び取ったものがたまたま親の思う世間の模範と一致しただけの結果論に過ぎない。
子を産むと親への感謝の気持ちが湧いてくると思ってたけど実際は逆で、言われたことへの呪詛が無限に湧いて出てきて鬱々としてくる。今までは我慢していたり、まあ上の世代はそんなもんよと諦めていたことが自分が親になって自分ごとになるとどうしても許せなくなってしまった。反面教師にして自分の子には同じことをしないというのは当然なのだけど、そう育てられた自分も救って欲しいという思いがずっとある。
高校3年生の時に、私が父では無い男との子供である事が判明してしまった。
実父は因果応報か重い病に侵され、余命いくばくも無い事が分かり、せめて最後のクリスマスだけは
「本当に愛する人」と一緒に過ごしたいからと、悲劇のヒロイン面で私達に涙ながらに告白された
実父は父とも学校の先輩として知り合いで、でも良い関係ではなかったらしく(恐らく虐められたか何だかされたんだと思う)
「なんで…よりにもよってあいつとだなんて…!」
ってキレながら泣き叫んでいた。
そのまま母は父が出てけと言う前に勝手に家を出ていき、あちらの家で二人だけの最後のクリスマスとやらを過ごしていた様だ。
そして年明けになって当たり前の様に帰って来たので、
「どうして帰って来たの?」
と聞くと
「まだ離婚している訳じゃないし、○○さん(実父)の所に通うとしてもここが何かと便利なのよ。後は新しいパートも見つけなくちゃ」
なんてふざけた事をほざいていたので、私はぶち切れて
「出て行けーこのクズがー!!お前のせいで私がーー!」
って叫んで
フライパンで母をボコボコにした。それだけでは飽き足らずたまたま近くにあったタオルで母の首を締めていた。
弟が帰って来て体張って止めてくれなければ今頃本当に母を死なせていたかもしれない。
実際私はメチャクチャだった。
父は
「目元があいつに似てきていた。まさかとは思っていたけど、本当なら苦しい」
と言って
今まで父とは凄く仲が良かったのに
って言われて、一緒にいるのも辛いからって家を出ていってしまった。
弟はまだ中学生だったので、私が母方の祖父母の家に行く代わりに父に戻って来てもらう様頼んだ。
祖父母宅でも「恥ずかしい子」の娘だったので肩身狭い思いをしたし、父とは会いたいと何度連絡を送っても殆ど無視。
「顔を見ると色々思い出してしまい、君に言うべきでは無い事も言ってしまいそうになる、会わない方が良い」
とまで言われてしまった。
私は父とはとても仲が良かったのに、父を失ってしまった。
母とも母の托卵が発覚するまでは、母とは仲も良かったし優しいしっかり者の母として大好きだった。
弟と差をつけがちなのが玉に瑕だったが(私には一切言わない事でも、弟には「男なんだから!」と厳しく叱責したり)
その理由が分かってしまった時は吐き気がしてならなかった、実際吐いた。
私は「本当に愛する人」との子で、弟はそうじゃなかったからだと言う事に気がついてしまったから。
弟とも仲が良かったのに、急に「どこの誰とも知れないヤツの子」になってしまい、あっという間に距離を置かれた。
「お姉ちゃんだと思っていたのがお姉ちゃんじゃなくて、どうして良いから分からないから、ごめんなさい」
って
泣きながら謝られたら、弟大好きだった姉としては許せない訳が無い。
本当は卒業記念に弟の好きな食事でも、と思っていたのに、全部計画はパーだった。
大学に入り、夏休みぐらいに「本当に愛する人」、即ち実父が亡くなったらしく、「愛する人をちゃんと見送った強い私」として、実家に帰ってきたらしい。
さすがに弟もキレて父と一緒に母を何度か殴って追い返したらしい。
後で聞かされてどの面下げてって本気で思った。
優しく出迎えてくれるとでも思ったのだろうか?
離婚までは母が全力でゴネてかなり大変だったらしいが、ある程度のお金を財産分与として渡す形で離婚にしたらしい。
「なんであんなヤツに…盗人に追い銭より酷い…」
なんて、父が苦々しい顔をして呟いていたのを思い出す。
その頃から父は、酒弱い癖に酒に溺れる様になった。
どんどん増えていく飲酒。
止めようとしてもその場は飲むの止めるけど、いつの間にかまた飲んでいる。
その繰り返し。
父の気持ちも分かるから、時間が解決してくれるのを待っていたが、結果的に間違いだった。
ある日、父は亡くなった。
「母を愛していた事。愛していたが故に長年裏切られた事実に耐えきれなかった事。
○○(私)はあのクズ(実父)の子で、正直もう今までの様に愛せる自信が無い。〇〇にも伝わっているだろう。
娘を傷つけ続けている私に生きる価値はあるのか分からなくなった。もう悩むのも疲れた。」
というものだった。
父を失い、弟ともこの件でギクシャクしたままとなり、結局疎遠になった。
弟も鬱気味になってしまい、父が亡くなった原因となった母と、その子である私も近くにいると
色々思い出して辛い、本当に申し訳無いって言われて、もうどうしようも無かった。
一応年に一回だけ近況を聞いてるけど、直接はもう何年も会っていない。
あちらも結婚し子供もいるらしいけど、まだ一度も会ってないし、これからも会う事は無いと思う。
夫と結婚し、子供が産まれた時、私からDNA検査をしたいと申し出た。
夫には
って怒られたし、一時期かなり険悪になったけど
当然、夫との子供だった。
普通は夫側が疑ってやるものだとは思うんだけど、私の自己満なんだけどそれでも100%偽りは無いという証明がしたかった。
托卵は本当に不幸になる。
物心つく前ならまだ傷が浅いかも知れないけど、私の時みたいに後年になってから発覚すると、本当に誰も幸せにならない。
少なくとも私達一家は不幸になった。
母とも呼びたくない女はまだマシかも知れないが、あちらも孤独な晩年だろうし悲惨ではあるだろう。
もっと苦しめてやりたいぐらいには憎んでいるけど。
もともと自分の母方は姫路に本拠地があるので3歳から六甲おろしを歌わせてもらえる家庭でした
でも自分は物心ついたときから町田か町田の近くで育ってて 自分の中心になる球団ってやっぱり遠かったんです
それでも阪神ファンは心の拠り所でな(なんJの影響もある) ずっと視界のどこかで彼らの動向を追うてました
ある日 奇跡的に仕事が休みになる日があったんで「そうや!阪神の試合観に行こう!」ってなったんすわ
夜行バス往復とって でも行きの晩(昨日の晩)寝坊してね 朝始発で新幹線乗って行きました
関西に住んでる友達と会うて 宝塚で散歩してな 別れて で西宮のライト外野におったわけです
昔買うた平鍔のキャップ被って 黄色と黒のかわいいアウター来て 夢中で試合にかぶりついてました
ボールを打ってる人たちが僧侶や菩薩のように見えて ずっと手を合わせていました 応援歌も聴きかじりのを精一杯歌ってね 真言のように繰り返していたんです
そしたらね 急に天から言われたんです
「お前は今まで阪神ファンのファンやった。でもお前は今日ヅカに行ったやろ タワマンの中に美しい水の光る武庫川をお前の目で見た。それは洗礼と一緒や。お前はもう許され、お前の血は祖先の魂とともに一つの川に注ぎ込んだ。阪神ファンになってええ。甲子園にいるあいだはどこにも東京を感じなくていい。明日から関西弁を喋り 誰よりも選手名鑑を読み込んでな 家電を買うんやったら鶴川のJoshinに行け」
そう
もう元には戻られへんわけです
試合はボロ負けですわ あの野郎2発もホームラン打たれてな ホンマどないしよんねんもう
全ての人と悔しさを分かち合いたかった でもその瞬間が美しかった みんなが同じ気持ちになっているあの時間がきらきらしていた
試合のあと喫煙所に雪崩込んで知らないお兄さんと喋りました 叫びたくなったのでキャップを地面になんべんも叩きつけました
そして素戔嗚神社に手を合わせて怒鳴り込みました
「お願いします!!!!!あなたはずっと甲子園のそばにいて 私たちをずっと見守ってくれた やから絶望の底にあっても発破をかけてくれるのはあなたが一番やと思うんです どうか!!!!!!!
𝑯𝑨𝑵𝑺𝑯𝑰𝑵 𝑻𝑰𝑮𝑬𝑹𝑺を
日本で一番強い球団にしてください!!!!!!!!!!!!!」
本気で神様に祈ったことは 生まれて初めてだった 今日は救いの日だ 雨に打たれた後のようにずぶ濡れになって(全て自分の汗やった) 大声をあげて泣きました
ぎゅうぎゅうに詰まった甲子園駅に向かう群衆のなかで 僕は鳥取に住んでる仲のいい男の子に衝動的に電話をしました 電話越しの介抱も大変やったと思う わしはベロベロに酔っててな もうめちゃくちゃになってた すぐに電話を切って電車に詰め込まれました
あんなにスイスイ歩けてたはずなのになんにもわからなくて泣きそうでした どこからかジャズの音が聴こえてきて踊ってしまいました 魂のそこからわいてくる踊りです トランペットを吹いていたお兄さんに財布の小銭を全部わたして
日本じゅうの𝑯𝑨𝑵𝑺𝑯𝑰𝑵 𝑻𝑰𝑮𝑬𝑹𝑺ファンのみなさん 見えますか?聞こえていますか?
今日僕は 私は ワイは 全ての人格が あなたたちと同じく大いなる武庫川に帰依しました
佛 この土地と
いやお前なに神社に祈ってんねんという話ですけれどもね
愛しています
また戻ってきます
そしてその西、市川沿いに静かに暮らす私の祖母と、書写山の遠くの空に眠る祖父、散り散りになっても関西弁を話しつづける従兄弟たちに思いを馳せます
武庫川の、向こう側……w
光ARE
朝は最寄駅のトイレ、昼休みには職場にほど近い商業施設のトイレ、夕方にはまた最寄駅のトイレで用を足す。だが私が物心ついた時から、トイレを流した記憶はほとんど無い。
親からも小学校に上がるまでは特に何も言われることは無かったのだが、小学校に上がった途端、流していないトイレを見るなり烈火のごとく怒る様になった。小学校でも同級生にトイレを流していないことがバレて、壮絶ないじめを受けた。仕方ないので私は家の裏にある林や、通学路から少し外れた誰にも見られない茂みで用を足すようになった。
トイレを流さなかったり、トイレ以外の場所で用を足すことに私がここまで拘るのは、自分の体の一部だったものを自分の手で消すという行為にとてつもない嫌悪感を抱いているからだと思う。(自分が手を下さなくとも、消えていく光景を見るのが耐えられないので、センサーで自動的に流れるトイレには入れない)
中学校に上がるころに生理が始まると、この気持ちは更に大きくなった。捨てられずに自分の部屋にため込んだ生理用品が親に見つかって怒られたことも何度かあった。(現在、ミレーナで生理は抑えている)
家から歩いてすぐのコンビニはもう出禁になってる。職場近くの商業施設のトイレを使っているのも、自動で流れるトイレではないからなのだが、ここもいつ出禁になるかわからない。
物心ついた頃から、「自分は子供を産んだらいけないタイプの人間だ」と感じてきた。
小中高職場すべてで虐められてきた。
(因みに自分のスペック→フリーター、低学歴、一重、貧乳、顔デカ、陰毛ヘア、発達障害(手帳持ち)、学習障害、家事能力なし、運動神経なし、アル中。)
父親はおおよそ社会適応できてる人だったけど、母親は仕事が長続きしないタイプで(大体が3日もたなかった)、近所で噂話される程度にはヒステリックで変人だった。
私も弟も、小中高すべてで不登校になった。もう遺伝子から弱者なんだなと幼いながらに実感したものだ。
どうやら自分は目を二重にして陰毛ヘアを直毛にすれば、何とか擬態できるベースを持ち合わせていたらしい。
整形したら、恐ろしくイージーに理解のある彼くんが生えてきた。
(整形前は生える気配は一切なかった。学生時代は自分が給食当番でよそったご飯を受け取ってもらえなかったり、席替えで隣になると気持ち悪がられた。バイトでは初日から従業員にブスだと言われたり、客からも暴言を浴びせられた。世の中の全女がイージーモードだというのは流石に主語がでかいと思う。)
便宜上理解のある彼くんと書いたが、多分定義からははずれると思う。
他に本命がいたし、金を貢がされてたし、暴言と暴力を振るわれてたし、寝てる時に犯されるなど、合意のない性行為も多々あった。
ある時、妊娠した。正確に言うと、流産してから妊娠していたことを知った。
流産した時、真っ先に「よかった」と感じた。
私の血が入った哀れな子供が生まれなくて本当によかったと、心の底から思った。
その子が生まれ育つ想像をしてみたが、可愛いとは全く思えなかった。
子供が生まれないで済んだ喜びはあれど、子供が流れた悲しみは1mmたりとも感じなかった。
そしてこの時に、「自分には子供を産みたくないという本能がある」と確信した。
多分、マジョリティの「本能」は、子供が欲しいというそれなんだろう。
でも、世の中にはマイノリティの「本能」もあって、それは弱い個体を生み出したくないというものなんだと思う。
ちなみにその後、本当に理解のある彼くんとも出会ったが、子供を求められた為にお別れした。
私の本能論も話したが、理解不能だと言われた。今はお互いの「本能」が一致したお相手と子供を作って、幸せに暮らしてるらしい。
子育ての楽しさを語る増田がホッテントリ入りしていたので便乗して書く。
上の子が幼稚園児で、子育て界ではまだまだひよっこ。北大阪 (北摂) 在住の 30 代。
実際、子育てというのは日々めちゃくちゃ体力 (HP) と精神力 (MP) を消費するものなので、現代の核家族という形態においては、自然と三途の川が眼前にちらついてくるようなハードワークなのは紛れのない事実である。子どもが生まれたが最後、自分で自由に使える時間なんてほとんど残らない (せっかくの自由な通勤時間を増田に費やしてしまった。我ながら、なにやってるんだろう)。
ただ、こういう大変さだけをもって「子育てはコスパが悪い」とか言ってるやつらには賛同できない。大体、子育てをコスパで語るような論者は「コスト」の話ばっかりして、「ベネフィット」の話を全くと言って良いほどしない。そもそもコスパってのは、コストあたりのベネフィットが大きいかどうかって話やで。
一方で、子育て当事者にベネフィットを尋ねてみても、「こどもはかわいい」みたいなゆるふわワードが返ってくるだけで全然具体的じゃない。「ああ、あなたは子どもがかわいいと思うタイプの人間なんですね。子どもは嫌いじゃないけど、めちゃくちゃ好きなわけじゃないし Not for me ですわ」って人が多いんじゃなかろうか。
かく言う俺も、別に子ども好きではなかった。遠目に見てれば可愛いけど、別に接触しなくても良いかなって感じ。促されるがままに知人の赤ちゃんを抱っこしてみて、「かわいい」よりも「(落としそうで) こわい」という感情が先に立っていた軟弱者である。
ただ人生とはわからんもんで、そんな俺にも、どうしても結婚したい大変素敵な女性が現れたのだ。そのお方が子どもを産み育てることを熱望していたもんだから、それじゃあ仕方ないということで一緒に子育てをしようと腹をくくったわけだ。今から振り返ってみれば、この選択によって俺の人生に確変が起きたんだとはっきり分かる。
それでは、子育てに参戦して得られた「とてつもない」メリットを具体的に紹介しよう。
いや、違うんだ。待ってくれ。「所詮おまえも子どもかわいい教徒か!」と思ったかもしれない。確かにそうだけど、そうではない。
「生まれて間もない赤ちゃんに、一定期間 (数週間から数ヶ月) 誠心誠意お仕えしていると、ヤバい脳内物質がドバドバ出て、赤ちゃんが可愛くて愛しくてたまらないという脳みそに作り変えられてしまう」
これはもう、赤ちゃんと触れ合っているときだけ感情が湧くというのとは根本的に違う。脳みその性質がごっそり変えられてしまうような、強烈にヤバい脳内物質を浴びせられるという体験である。
実際、以前は知人のお子さんの写真を見ても、「ふーん、たしかに子どもですね」っていう感情だったのに、今では「うわああああああああああああ、かわいいいいいいいいいいいいいい。ほっぺためっちゃぷにぷにやんけえええええええええええええええええええええーーーーーーー」って脳内で叫んでるくらいにはキマってしまっている。
俺は思った。脳に可塑性があるってホントだったんだ。
これはもう、なんというか「とてつもない」経験である。人間の幸福は、結局のところ幸福を感じる脳内物質が分泌されやすいかどうかで決まるって言説もあるくらいだが、俺にとって子育てというのは、この幸福を感じる閾値をめちゃくちゃ下げてくれて人生の幸福感を爆上げしてくれた超特殊イベントである。こんなん、いくら金払っても経験できひんやん普通。
これだけでも十分なんだけれども、だが、メリットはこれだけでは終わらないのである。
これはマジで自分でもびっくりした。俺はもともと引っ込み思案というか、根暗というか、とにかく人と関わるのが苦手なタイプの人間で、知らない人に話しかけるなんてまず出来なかった。なにしろ物心ついたときからそんな性格なので、これは一生このままだろうと思っていたんだが、子育てを始めると激変した。
たぶん、前述のヤバい脳内物質が関係しているんだと思うんだけど、「困っている人を見かけたら思考停止で声をかけて手助けする」みたいな脳みそになっちまった。電車で席をゆずるとか、重いものを持ってるばーちゃんを手伝ったり、荷物多すぎで困ってるママさんに声かけたり。
マジで葛藤とかなんもないの。「あ、困ってるな。声かけてみよ」みたいな感じ。たぶん、子どもと触れ合う時間が長くなって、声かけすることに戸惑いがなくなったこととか、こちらも子連れのときにめっちゃ親切にしてもらったりした経験も関係している。
当然、仕事をする上でも良い影響が出まくりである。長年、対人関係が苦手で無駄に緊張したりとか、相手がどう思ったんだろうみたいなことをグルグル考えて気疲れてしてたんだけど、なんかそういうのは吹っ飛んでしまった。もちろん、子育てに伴っていろいろ迷惑をかけているのに、親切心の塊みたいな感じで超肯定的に接してくれる同僚とか上司に恵まれたというのは大きいのだけど。
とにかく、俺にとって本当に革命的な出来事だった。脳みその可塑性ってすごい。こんなんいくら金払っても経験できひんやん普通。
でも、もうちょっとだけ続くんじゃ。
もう、1と2だけで終わっても良いんだけど、どうしても言いたかった。「おかあさんといっしょ」はマジで神コンテンツ。コンサートも最高だった。子どもたちも大興奮である。また行きたい。
結婚って、もう国民の義務ぐらいの強制力を効かせた方が良いと思う。
結婚しなかったら、公共サービスや国民の権利が段々と失われていって、最終的には働くことや遊ぶこと、最終的には生きることさえ出来なくする。そんなレベルの仕組みや強制力が、もう必要な状況にになっている気がする、日本は。
例えば、国の施策としては、物心が付いたり思春期に入る前の幼少期から、義務レベルで恋愛イベントを発生させる。
具体的には、ある程度の年齢になると、強制的に誰かとマッチングさせて、恋愛イベントを自動的かつ日常的に発生させる。そして、恋愛イベントの中で相手と交流して、恋愛経験値を積ませて、恋愛レベルのアップや恋愛装備、恋愛スキルの充実を図る。
そんな義務恋愛の制度や仕組みを整備しても、付き合ったり結婚したりしないやつやできないやつは、段々と公共サービスや国民の権利を減らしていって、最終的には働くことや遊ぶこと、生きることさえ出来なくする。そんな仕組みが、もう必要になっていると思ったりする。