はてなキーワード: 小学校とは
「にほんいはしげんがない」って呪詛を小学校から叩き込まれるからネ
「ほしがりませんかつまでわ」運動を常にやりたがる
馬鹿だよな
高付加価値品をバンバン作れる国は20-21世紀の勝ち組なのに
イノベーションがない?
んなのアメリカだけやろ
外でのマスク着用についての話だとは思いますが、教室内でも外す子が出ないか心配です。都内の小学校ではまだまだ感染者が出ています。以前程報道されなくなり、クラスターも減り、軽症や無症状の子が多いですが、後遺症に苦しむ子もパラパラいます。後遺症に苦しむ子は、心配から周りには大々的には言わないですが、1ヶ月後から熱が再発したり、脱毛、倦怠感、頭痛が多いです。小学生や保育園児は予防接種に慎重になる家庭も多いと思うので、教室や屋内は、感染が収まるまではマスク着用を基本として下さった方が安心です。スポーツ時は距離あれば外してもよいかと思いますが、やっと着用に慣れた子が多いですし、外すと未接種の子供は感染しやすく、教員や親にうつしてしまう可能性も高いので、マスク着用は続けてほしい。
大人になって戻った気がする
小学校低学年の頃までは読んでた
子供の頃よく分からないけどエロいから読んでたエスパー魔美を大人になってから読んで号泣した
幼稚園時代:アンパンマンは大好きだけどドラえもんはピンとこない
小学校低学年・中学年:コロコロのバトル作品とかゲーム作品は好きでドラえもんはちょっと…
小学校高学年・中学生:星新一の小説にハマった。ドラえもんのSFノリって星新一の後追いじゃんみたいな
年末ジャンボの時期はギリ8億くらい(1等前後賞合わせて10億なので)までだったら、夢見たり妄想できるんだけど、
『40億』とか言われると途端に夢見たり妄想出来なくなりますね
なんかマンション経営をしょうとかそういうせせこましい妄想とか一切出てこなくて、誰が買えるんやろか?という気持ちにしかならない
ニューヨークのペンシル物件くらいなら、『宝くじが当たれば買えはするけど、金持ちじゃないと管理費が維持できないな〜』とか妄想出来るけど、
40億かぁ・・・🤔
■面積約235.75坪の広大な土地
2沿線以上利用可、土地100坪以上、スーパー 徒歩10分以内、市街地が近い、システムキッチン、浴室乾燥機、陽当り良好、閑静な住宅地、前道6m以上、整形地、トイレ2ヶ所、2階建、東南向き、温水洗浄便座、都市近郊、アイランドキッチン、IHクッキングヒーター、都市ガス、小学校 徒歩10分以内、平坦地
議論の土台となる最低限の信頼関係なるものを崩したから… どうなるって言うの?
「いや性的消費ではない」
ただいまの反論は、不誠実な人間から為されたので無効となります。
ってなるとでも言うの?
インターネット論破マンが他人になりすましてたとて、彼が不誠実だったら、その論破が無効になるの? 議論に参加してる誰かが、自説の主義主張を本心から強く信じていなかったとして、議論の参加資格がなくなるのは、意味がわからないでしょ。ひょっとして、学校でディベートとかしてこなかった世代が文句言ってんのかな。
あなたたち、小学校以前に習った、ウソをついてはいけないよ、っていう人生入門者向けの教えを愚直に守り過ぎて、どうしてそれが悪いのか・どんな時に成立するルールなのかを本当には理解してないんじゃないの。不誠実が絶対的に悪ならば、「国民は、いつでも誠実でなければならない」って憲法に追加すればいいじゃん。
まあこんな事書いてもどうせ、「これはひどい」だの「開き直りだ」だのとのたまってスルーするんだろうけどさ。そもそも、なぜ悪いのかに説明がつかない限り、開き直りって成立しないんだよ。数のパワーでゴリ押しされた主張を鵜呑みにしてしまうような軽薄な人は、印象操作に対して脆弱です。
共稼ぎでわりと稼いでるので、夫には月3万以上も電子エロ漫画にふっこんでるのはバレてない。
というか、普通の域から外れるのはプライドが許さず、いままで誰にもこの話をしたことがない。
あと、セックスは間に合っているので、おかずにしているというより、寝盗られや乱交のシチュエーションとストーリーが好き。
同士がいたら嬉しい
40ページで絵本なので、芽久先生の本と比べたら物足りないかな?という印象を受けると思いますが、意外と読み応えがありますよ。
作者の舘野鴻さんは学者先生ではありませんが、科学する心を存分に発揮されています。
地学分野もということでしたが、これから出るラインナップでは、
8月号『石は元素の案内人』、9月号『星と人間』などがありますね。
月刊誌なのでバックナンバーは品切れのものが多いですが、図書館に行けば置いてあるところもあります。
「たくさんのふしぎ傑作集」として、上製本で出されているものもあります。
『ブラックホールって なんだろう?』
『空があるから』
『地球の中に、潜っていくと…』
『月へ行きたい』
生物なら、
『食べられて生きる草の話』
『まちぼうけの生態学』『おいかけっこの生態学』『すれちがいの生態学』
などがあります。
さ・え・ら書房から出ている『わたしの〇〇研究』も地味ながらおすすめです。
など、面白かったですよ。
子供向けではない書籍なら『海獣学者、クジラを解剖する。』はどうでしょう。
ちょっとお子さんには難しいですが、東海大学出版部から出ている「フィールドの生物学」シリーズもいいです。
ブコメでも紹介されているウルド先生の『孤独なバッタが群れるとき : サバクトビバッタの相変異と大発生』もありますし。
なんか最近増田だったり、ブコメの中で他のブクマカを攻撃するような発言が目立っている。
そういうのやめようよ。
いつまでも「手斧」とか言ってないでいい加減そういう攻撃性はVAROLANTでもやって解消してから書き込んで欲しい。
徳島文理からスタンフォード行った子が結局親金じゃないかと言われてることに関してツイッターを眺めていた。そしたらこういうツイート(メモ画像なので検索しても出ない)を見つけた。
『人口1000人の村の子の「四国からスタンフォード行った人テレビで見て僕も交換留学行ってみようと思って!」という言葉を聞いたことがある身としては、彼女を持ち上げていた社会はきっと間違いじゃなかったと思っています。』
これを見てうっかり過去の記憶が開いてしまったので、思い出し自分語りをする。先に言っておくがオチはない。
小学生の時に、私は親の都合で地方都市から学年人数1桁の小さな集落の小学校に転入して、1年で元の街に戻った。計画的な滞在であり、長いキャンプのような経験だった。私は自閉傾向があり対人関係に失敗していることにも気づかない有様だったが、勉強で苦労したことはなかった。1桁人数の同級生の中で、私は「街から来た頭のいい変な子」であったのだろう。
記憶にはないが、私は当時既に進学のイメージを持っていたはずだ。街の家から自転車通学範囲に父の通っていた中学、高校があり、大学も近くにあった。
一方で転入した集落は中学校がある村の中心部から遠く、村には高校がないため隣の市にある高校に通うことになる。そこの大学進学率は高くない。県庁所在地の進学校は遠い。長時間通学か下宿になるだろう。
このような条件のため、村の多くの親にとって進学先は隣市の高校で、そのまま就職するか、専門学校に行くか、頭が良ければそこから地元国立に進学する、場合によってはより上位国立を狙い県外に行く子もいるだろう、というイメージだった。
さて私の同級生には集落育ちで頭のいい子がいた。Aくんとしよう。Aくんは街から来た子と話しているうちに、中学から受験をして勉強する人たちの存在を知ってしまった。受験をする気がなかった私がなぜそんな話をしたかは記憶にない。
ここからは私が親から聞いた話で、聞いたのは街に帰る季節だった。そのできごとがいつ発生したのかは不明だ。
Aくんは街にしかない中高一貫校に行きたいと言い出した。Aくんの親は困ってしまった。この希望にかかる経費はA家の計画より大きすぎたのだ。私の親は進学の難しさは勉強の問題だけでないことを私に説明した。責めるニュアンスがあったかどうかは記憶にないが、私の情報が原因であったことは指摘された。少なくとも、街に住める私と生活基盤が集落にしかないAくんの間には格差があること、私のもたらした情報がAくんと家族を苦しめたことは理解できた。私の家とAくんの家の経済状況はあまり変わらなかっただろうと思う。住むところが違うだけで選択肢が狭まるのだ。
知らない方が幸せだったとは思わないが、しかしこの挫折はAくんにどう影響しただろうか。わからずじまいだった。
街に戻った私はそれなりの治安の公立中から、今話題の徳島文理のようないわゆる地方内名門私立の一貫校に高校編入した。私立優位の地域であり、かつてAくんが希望した学校とは別だ。
校則では原付の運転が禁止されていたが、私が滞在した村を含む、公共交通の貧弱な地域に住んでいる生徒は駅までの利用が許可されていた。仮にあの集落からなら、20kmほどの道のりを原付で通い、JRで1時間、さらに乗り換えて学校に着く。私は自転車で30分だ。同級生の中にはさらに遠い地域出身で中学の頃から親と一緒に部屋を借りている子もいた。Aくんが選べず、私には選ぶ必要がなかったルートだ。
高校まではそのように地理条件に恵まれていた私だが、大学進学という全国での比較では、一転恵まれていない方になった。
ここから大阪までは高速バスで5時間強かかる。東京は夜行か飛行機だ。隣県や都市に出てから乗り継がないと行けない地域も多い。地元国立大学はあまり偏差値が高くないので、高校ではもう少し上を目指す子がほとんどだった。メジャー分野なのに県内にない、あっても国公立ではない学部志望者も多かった。
しかし県外進学には多額の費用がかかる。私は幸いにも県外進学ができたが、優秀でも地元国立に進学するケースも多かった。
そういう地域格差はまあ、ネット上でよく語られるとおりである。
私は中学生あたりから持病を発症し、勉強も含め様々なことを人並みにこなすことが難しくなったが、身体が許す範囲で学び、大学に入り就職氷河期の終わりに正社員の職に滑り込むことができた。薬でQOLが改善したのは就職してだいぶ後、ここ数年の話だ。もし就活、大学生、高校生の頃にこの薬があればと思うことがやはりある。
私が下層からの成り上がりをブランディングしたければネタに使えそうな人生を送った中学の同級生もいるが、そんなことに他人の苦労を使うものではない。ただそういう公立中から高校に進学して感じた格差は大きかったし、大学に入ってからの友人は様々な出身地から来ていて、親との関係も健康状態も経済状況も様々だった。観察さえすれば、多様性はいつでも目の前にある。
間違いなく居住地条件でAくんより恵まれていた。これは格差問題を考える時の私のスタート地点だ。一方で都市に住む同い年の子と比べたら、この県にいることは逆境だった。予備校に行く資力はなかったが、私学には通えた。家に借金取りは来なかった。病は珍しい逆境だろう。しかしごまかしながらやっていける知能を持てたことは間違いなく運がよかった。実力も運のうち、全くその通りだ。こんな絡みまくった要素から実力や努力を拾い出すなんて不可能だ。
私の卒業した高校は、経済的な事情で寄付金を原資とした学費減免措置を受ける生徒が多い。私のところにも時々寄付催促の振込用紙が来る。出せるのは雀の涙だ。
後輩達はその高校に入れるだけで十分恵まれていて、彼らへの支援はメリトクラシーに基づいているとも言える。しかし多くの卒業生が何らかの形で都会で得たものを還流する行動は間違いなく県域の底上げに役立っている。いや私は個人主義者なので彼らが共同体を離れ外に行くこと自体を歓迎すべきだ。いや普段の寄付対象であるフードバンクの方がもっと意義がある支援だ、とか、まあいろんなことを考える。
みんなそれぞれの逆境を生きている、と言ってしまうのは安易な相対主義だ。しかしどの逆境にも支援が必要だ。
1つの回答として、私はここ数年、ある種の逆境にある人に対する金銭と時間の集中的な支援をしている。
ノブレスオブリージュは階層社会を気持ちよく生きるためのごまかしにすぎないとも思う。自主的にやらせていては十分な再分配はできない。それでも自分には他人の逆境に対してできることがある。どのような経過を辿ったにせよ、今動く身体があり、さらに職まであることは、今この瞬間そうでない人より恵まれている部分だ。
私がAくんに希望を持たせて傷つけてしまったことに関する身勝手な自己保身の欲求があり、1000人の村の子が希望を持ったという話に勝手に重ねている。
あれからもうずっと少子化傾向を続けた結果、彼らには私達の頃より多くの社会的リソースが割かれるようになっているだろうと信じたい。
ずいぶん昔には、女性の脳は、男性と比べて左脳と右脳を結ぶ脳梁が発達しているのでおしゃべりで感情的だとか、男性は空間把握能力が優れているとか、論理的思考が得意だとか言われていた。
世界的なベストセラー「話を聞かない男、地図が読めない女」は男性と女性の典型的とされる考えの違いをわかりやすく解説した本だ。その初版が発行されてから24年が経った。
最新の研究によると、脳をMRIでスキャンした結果の統計では、男女の脳で構造の差は、しかし存在しないらしい。かつて言われていた男性脳、女性脳はほぼほぼ幻想だったようだ。
NTTの社長が入社式で「私たちは女性と男性は違うと考えています。人間という意味ではもちろん一緒ですけれども、能力や特性の得意な分野が違うと思います」と述べて猛批判を受けた。でも寄せられた批判のコメントを注意深くみると、男女の能力は当然違う、と性差を前提にしてるものが散見される。はてなブックマークでは男女の脳の性差はたびたび話題になっていて、その都度、必ずと言っていいほど「性差はあってもおかしくはない」という意見があがってくる。
いつだったか増田で、“男性にも読める”少女マンガが話題になった。ジェンダー論の発展した今日でもマンガの読者が性別で分かれているのには合理的な理由はあるかもしれない。
思い出を振り返ってみると、友だちの女子はすぐ泣く傾向はあったかな、と思う。だけど小学校以降で、男が泣いているのは、まったく思い出せないんだよな… 🤔 男は、何故か泣かない。
男女の思考の差が人々に根強く信じられている一方で、科学的な調査を重ねるほどに脳には差がないことの証拠が積み上がる。そうして脳の性差のナゾは深まっていく。
女性のプロ棋士はいない。インターネットなどの技術発達によってあらゆる趣味で、学びの高速道路が整備されているにも関わらず、将棋の最高峰でしのぎを削る女性はいまだ現れていない。
この理由については色々言われている。女性のプレイ人口が少ないせいで才能の山の高さも低くなる、とする説。より男性の比率が高い囲碁での女性の活躍を持ち出して、それを否定する説。虚心坦懐に女性の生理の影響を論じたブログ。男性には圧があると語る女性。脳構造ではなくソフトウェア面——脳の機能に違いがあるとする仮説もあったが、これは証明が難しいだろう。
先日、女流棋士の顔写真が並べられてサムネイルになっているニュース記事をみた。未成年のふたりの女子。コメントは、一方だけを美人だ、とする評価が人気になってた。少なくとも将棋では脳の性差は持ち出すまでもないと思う。
タイトルは最後まで書いた後に決めろ、と小学校の作文で教わったような気がする。私は文章を書くと最終的に何が書きたいのかわからなくなってしまうことが多く、予防としてタイトルを先に決めて書くことにしているのだが、こういう増田では徒然なるままに書いてみてもいいかもしれない。
そこそこ勉強して医学部に入った。高校の時は何がしたいのか、何になりたいのかわからなかったが今ではわかる。私は物書きになりたかった。他人に文章で認められたかった。しかし私にはその才能がないことはずっと前からわかっていた。
中高では作文コンクールがあった。テーマが提示され、その場で1200字程度の作文を書いて提出する。あんなの遊ぶ時間でしょ〜と斜に構えていて、実のところそれなりに構成を練って作文をしていた。結局6年間で一度も佳作に名前を連ねることすらなかった。
2020年4月、私は大学に入学した。多くの大学がそうであるように、医学部でも1年は一般的な教養を身につけることが多い。何一つ興味を持った授業はなかった。試験はコロナ禍によりレポートになり、人のものを写して単位を得た。
2年になると、興味のない医学の授業しか無くなった。進級にはたびたび訪れる試験をやり過ごさなければいけなくなり、図書館に篭ることが増えた。新入生に向けて他己紹介を書くことになった。友人2人のものを書いたが、同期のうちでは好評だった。嬉しかった。私の文章が初めて人に認められたのだ。しかしそれから文章を書く機会も、書こうとすることもなかった。自分の文章を直視するのが怖かった。評価されるのが怖かった。文才がないのは分かりきっていたのに。
この4月、3年に進級することができた。今度は部活での新歓のために他己紹介を書いた。今回も2人分書いたが前回ほど好評ではなかった。私の文才なんてそんなものかと思い、また興味のない医学の授業を受けている。
人間関係にも苦労した。入学当初はいわゆる大学デビューというものを頑張り、交際相手を作ろうとしたがうまく行かなかった。何度か自殺を考え、首吊りのためのロープを買い、いやいや将来病院でいくらでも苦しまずに死ぬための薬が手に入ると自分を騙し騙し生きてきた。
ワンミスで嫌われるという強迫観念に取り憑かれ、徹底して好かれるように立ち回った。その甲斐あって今では学部内での顔は広くなった。この間、人を怒らせてしまい電話で謝った。これで挽回できると思ったし、嫌われた時のためのアリバイ作りという打算もあった。その時、怒っているけれど私がそんなことであなたを嫌いになるはずがないと言われた。周囲の人はこういう風に人と関わっているのかと衝撃を受けた。私は常に1人だったのだ。
そういうことがあって心に余裕ができてからは、腹がたつことが増えた。今までは自分がどれだけ気を遣っていようが、相手の振る舞いになんとも思わなかった。しかし急に自分だけがつらい思いをしているように感じられ、これまで私を受け入れてくれた相手にも感情的に厳しくものを言ってしまうことが増えた。その度に家に帰って反省し、嫌われたかもしれないと怯えていた。
私の精神はまるで中学生のようだと自嘲しながら、聖書に助けを求めた。こう書いてあった。
「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」
なるほどアガペーの対価として善き人間となるのかと思い、2000年前のベストセラーに感心した。残念なことにアガペーを実感できない私は解釈を変えて、周りの人が私を赦してくれたように私は周りを赦そうということにした。こう考えてからは人を傷つけることは減ったと思っている。
そういえば最近になって、気になる人ができた。とても気の利く優しい人で、初恋の人はこういう人だったと思い出した。
ここまでの長い文章を書くのも久しぶりである。私が自分の文章を認めるために記した。
このGWに出かけたとき、友人の車内でビートルズの"All you need is love"が流れていた。
「愛こそすべて」いい響きだ。これならこの文章のタイトルとして相応しいだろう。
私は自分を、他者を、愛することができるだろうか。まだわからないけれどこれまでよりは前を向いて生きていこう。そう思った連休明けだった。
前日よりも人の出が少ないようだった。広場にあったワンタッチテントの数も前日の半数以下だ。だが、駐車場の空きは少なかった。隣接のサッカー場で子供のサッカーチームが試合をしていたので、公園の駐車場がその関係者達に占拠されてしまい、他所から公園に遊びに来た人達は、駐車出来ずに諦めて帰ったのかもしれない。
前日は公園に着いたらまずは敷地内をぐるりと一周散歩したが、この日は真っ直ぐ管理事務所に入った。「鯉とカモの餌」を三つ買う。300円なり。上の子と下の子のぶん、そして私のぶんだ。
池の周りでカモに餌やりをする人々やザリガニ釣りをしている人々も、少なめ。連休最後の日はインドアに過ごしたい人が多いのだろうか?
前日にはいくらか居た鯉の姿があまり見えない。カモは前日と同数くらいいるが、同一カモかどうかは不明。
私と子供達がカモに餌をやっている間、夫が池の周りをぐるりと回って鯉の様子を見て来た。夫によれば、鯉は燕子花の間により集まっていたそう。鯉は、産卵に忙しくて餌どころじゃないらしい。
産卵があろうがなかろうが、この池の鯉は何故か人に餌をねだることを全くせず、人影に向かって寄ってくることもない。昔からそうなのだ。「鯉とカモの餌」は実質「カモの餌」である。
連休中、人々の投げ寄越す餌にカモは飽きてしまったのか、前日よりも食い付きが悪い。食い付きが悪いと、子供達はむきになって餌を次から次へ、なんなら鷲掴みで一度に投げつける。面倒臭そうな仕草で、カモは泳いで行ってしまう。
前日に学んだ通り、カモは真正面に落ちて来た餌にはあまり反応しないので、横か、なんなら背後めがけて投げるのがよい。一粒ずつ投げて、食べたらより手前の方に投げて、少しずつカモをこちらの方に誘き寄せる。……と、言い聞かせても、子供達の逸る気持ちを宥めるのは無理なので、子供達がやたらめったら投げて全部外しているうちに、背後から私が投げて、カモ達をこちらに誘導する。
公園のカモは人慣れしているが、それでも野鳥なので、決まったセーフティーゾーンを越えて近づいてくることはない。一番寄って来て、岸から1.5mくらいの所。だが、それだけ近づいてくれれば、子供の手で投げた餌でもカモはもれなく拾ってくれる。
カモを岸に寄せたら、私の役目は終わりだ。早くも手持ちの餌を投げきってしまった下の子に残りの餌を手渡し、子供達の隣にしゃがんでカモを眺めていた。
やがて二羽いたカモのうちの一羽が、人間の相手をするのに飽きたらしく、水面に浮いた水草の根で遊び始めた。猫がねこじゃらしにじゃれつく時のように、根っこの切れっぱしを仮想敵とみなしてつつき回している。するともう一羽は反対方向へとすいすい泳いで行ってしまった。
よく、水辺の白鳥の姿は夕方だが、水面下では白鳥の足はジタバタと不恰好に水を掻いているという。だが、カルガモ達が水面をすいすい行く時の足の動きは優雅で無駄がない。茶色と緑の入り雑じった泥水の中でも、カモの足のオレンジ色は鮮やかに映えている。
子供達は橋を渡って池の向こう岸へ行き、別のカモのコンビに餌をやり始めた。私と夫は日陰に入り、また別の二羽を眺めた。なんと、二羽のうちの一羽がうたた寝をし始めた。私と夫の他にも人間がいくらかいる、その前で、自らの羽の合間に嘴を突っ込んで、うつらうつらと目を閉じたり開いたりしている。警戒心がだいぶ薄れているようで、風に吹かれるままに岸辺に流されて来て縁に敷かれた石にぶつかりそうになったところで目を覚まし、いそいそと池の中央に戻っていく。だが、しばらくするとまたこちらに流れてくる。カモ達の、ここに来る人間達への信頼度は半端ない。
あまり昼寝の邪魔になるのもなんなので、こちらから遠慮して岸を離れた。池の中央にかかった橋を通ると、水面に亀がひょっこり顔を出していた。種類はわからないが、外来種ではなさそうだ。どう見ても、こっちを意識している。子供達を呼び寄せて、亀がいるよと教えてやると、子供達は亀に餌を投げた。すると亀はカモよりも機敏に餌を追いかけて食べた。だが、カモほど食欲が底なしではないらしく、いくつか食べただけでくるりと身体の向きを変え、泥水の中へと姿を消した。
対岸で、子供達がカモに餌を投げるのを見守る。子供達はやはり闇雲に餌を投げるばかりで、大人のようにテクニックを駆使してカモを手懐けることは出来ないようだ。それでも、力技で遠投した餌をカモに拾われて喜んでいる。
二人の少し後ろに、三歳くらいくらいの男の子がとことことやって来た。手には餌の袋を持っている。だが、まだ小さいので餌を遠くに投げることができない。男の子は、うちの子供達が餌を投げているのを、恨めしそうにじっと見ているだけだ。そのまた背後に、父親が心配そうな顔で着いている。うちの子供達が邪魔で男の子がカモに餌をあげられないという構図になってしまっていた。なので、私は子供達に声をかけて、あっちのカモに餌をやりに行こうと促した。
池の周囲でカモに餌をあげようとしている子供の多くは、五歳以下に見える。自分の足元も覚束無い幼児もいる。彼らはどうしたらカモの気を惹けるか考えて餌を投げるということが出来ないので、節分の豆まきのように餌を投げまくった末にカモ達に完全無視を決め込まれる。ガッカリしている子もいれば、とりあえず好きに餌を投げただけで満足という様子の子もいる。
うちの子供達がその年頃のころ、私は子供達にカモの餌やりはさせなかった。うっかり足を滑らせて池に落ちることを恐れてのことでもあり、こんな小さな子に失敗が運命付けられているような事をさせても可哀想なだけなのではないかと思った。それに、その当時は池の畔に集まる子供の多くが小学生で、幼児の方こそ場違いに見えた。
だが今は、頭の重みでいつ前のめりに転がり落ちるかわからない幼児が、器用に池の縁の石の上に立ち、池の中を覗いているのだ。
うちの上の子はもう五年生で、この歳までカモに餌をやって遊ぶことをしないで来たわけだが、もうじき自分から幼児に紛れてこんな風に遊びたいと言うような年頃ではなくなってしまうだろう。少々の危険を覚悟で、もっと小さいうちから好きに遊ばせておけば良かったのではないかという後悔を感じないでもない。だが、一人で池を覗き込んでいる年端のいかない幼児が池に転がり落ちないで済んでいるのは、単に運がいいだけにも思える。
餌を全部投げ終わると、子供達は手を繋いで、中央広場の遊具で遊んで来ると駆けていった。私が子供達の手助けをする必要はもうない。遊具で遊んでいるのも幼児とその保護者ばかりで、小学校高学年の子供達はマイナーだ。十年前は逆に大きな子供達ばかりが、少数の幼児を蹴散らすような勢いで遊具に飛び付いていて、危なっかしくひやひやしたものだ。
後で上の子に聞いたところ、遊具には小さい子が沢山いるから、小さい子に出会ったら危なくないように道や順番を譲ったとのことだった。
子供達が遊具で遊んでいる間、私と夫は木陰のベンチに腰掛けて待っていた。
蓮池のところでザリガニを捕っている親子連れがいた。事務所で売られている「ザリガニ釣りキット」ではなく虫捕り網を持っている。ザリガニは釣るより手掴みした方が早いのは確かだ。
母親が威勢よく小学校低学年くらいの息子に怒鳴っている。ここぞという時に息子が網を持ってふらふらとどこかに行こうとしたからのようだ。母親は、ザリガニ捕りどころか公園遊びにも向かないようなくるぶし丈のスカンツの裾を片手で引き上げ、もう片方の手を蓮池に突っ込んでザリガニを捕ろうとしている。根っからのお転婆ではなさそうだ。そんな妻の横に立つ夫は「男らしさ」とは縁の無さそうなおっとり系だ。私の観測範囲だと、自分の息子を「男の子でしょ!」と叱る人ほどお転婆そうではなく、配偶者も大人しそうな優男であることが多い。
振り返って広場の方を見ると、上から下までスポーティーな格好の母親と、やはり上から下までスポーティーな格好の小学校高学年か中学生くらいの娘がバドミントンに興じているのが見えた。楽しそうだ。子供が大きくなったら大きくなったなりの遊び方があるようだ。私の乏しい体力では、バドミントンは無理そうだが……。
ワイも椅子を投げ飛ばすキチガイ教師が小学校にいたのを覚えている。明らかに知性低い側の人間がこの国では教師になっている。海外でも同居人が教師でおなじことを感じた。
東京都内在住で長男が中学一年生。今のところグレてなくて優しい良い子。
公立小学校から公立中学校に進学。東京東部だけど荒れてるという雰囲気ではない。
交友関係はすごく仲の良い友達が2人でそこそこ仲の良い友達が数人。
部活は運動部。小学生の頃は運動があまり好きそうではなかったけど
中学生になって友達と誘い合って運動部を選んだらしい。団体競技を選んでくれたのは嬉しい。
子供の頃の習い事はよくある水泳や公文とか一般的なものだけ。トップを目指して多大な努力をするようなものではない。
勉強は学校で教わる水準は理解できているみたい。小学校低学年から毎朝ドリルで自主学習している。
自主学習は5年間ぐらい継続しているので本当にエライ。親からみても尊敬できる。おれはムリだったし今もムリ。
中学年で進学塾にも入ったが、親が受験に本気になれなかったので1ヶ月ぐらいで辞めた。
親としてはこのまま公立中学で過ごして高校受験をして大学まで進んで欲しいと思っている。
中学生になったので塾に通うつもりだが、放課後の大半をつぎ込むような進学塾は考えていない。
ただ、ネット上で親である自分と同じような属性・収入の人達の話を読むとほぼ全員、子供を私立に進学させているので少し心配している。
仕事で会った子持ちの人と話をしても私立中学に進むことが前提になっているようで
中学受験しないことを伝えると「あ、そうなんですね(失礼しました)」みたいな微妙な雰囲気になることが何度かあった。
また、受験に力を入れていない家庭もあるにはあるが、そういう家庭は野球やサッカーでプロを目指すような家庭だったりする。