はてなキーワード: 冬休みとは
丸山議員、冬のボーナス明細写真をアップ 約323万円で所得税が…「アジャースですね」 デイリースポーツ online https://www.daily.co.jp/gossip/2019/12/11/0012951770.shtml
自分に支給された(いわゆる)冬のボーナス額を公開して、何がしたいの?
コレも国会議員としての責務、だと思っているの??
責務と言うなら、「アジャース」とか「さて、臨時国会も終わったし、少し早めの冬休みを始めます」って表現はどうなのよ?と思う
先日の皇族に対する言動やその前の北方領土滞在中の言動も含めて、この人は議員にしてはダメ(アカンと言う表現ではなく)な人、だと確信した。
・宿題をやらなければならないという焦りを感じる経験を奪っている。
・宿題を友達に頼んで写させてもらう、あるいは友達と分担してやる、そういうコミュニケーションの機会を奪ってる。
・効率よく宿題をこなすにはどうすればいいのか、試行錯誤をする機会を奪っている。
最終的には宿題なんてやらなくていいし、やらなかったからって不利益はさほどない(受験勉強は学校の勉強とは別にするし)。
理想は宿題を完璧にやって学力をつけることだけど、そんなのクラスに1人か2人しかできない。
それよりも、社会に出ると仕事で沢山の宿題(目標・ノルマ・与えられた仕事)が出るけど、そのときにどう対応したら良いのかを学ぶ機会と考える。
学校の宿題は最悪何もできなくても先生に怒られるだけで済むんだから、失敗し放題である。
夏休みの宿題のやり方がそのまま仕事のやり方に反映されるとかいうあるあるネタがあるけど、学生時代に自分の性格を把握して、どうすれば最良の結果が出せるのか学んでおきたい。
自分は夏休みの宿題をやらないまま冬休みになるタイプだったから、今も仕事のスケジュール管理には人一倍気を使っている。
親がやってくれる=ほっといたら誰かが助けてくれる、という思考にだけはならないように気をつけないと、自分の仕事もできない奴だと思われる未来しか待っていない。
お爺さん、冬休みはまだずっと先ですよ
きっととりとめのない文章になるだろうと思う。
批判も受けるだろう。また傷つくだろう。
でも今の状況を残しておきたい。
親の時間の都合だけで園を選びたくなかったのもあり、
保育園併設ではあるが人気園なので
ここに確実に入れるには、と幼稚園を選んだ節もある。
延長保育の枠も確保できるとのことだったので
毎月15日、朝9時に携帯を握りしめ、時報と同時にリロードし、
延長保育申し込みのリンクが現れると同時にクリックして申し込む。
動悸と冷や汗が止まらないながらも、申し込むことが入園から1年半ほど、余裕でできていた。
いつもの延長保育仲間から「延長保育落ちた・・・」と連絡が入り始める。
枠に対して人数があぶれたのだ。
一念発起して学校に通い始めた家、
家で頑張って見ていたけど、これをきっかけに預けている家
私と同じような状況で働いている家の他にも
みんな一緒。子育て以外に活躍の場を設けることは本当に素晴らしいこと。
そしてとても大変。わかっている。
それでも「今まで何もしていなかったくせに」と状況を呪わずにいられなかった。
その度に罪悪感でどうしようもなかった。
「慣れれば早いよ」と言って、別の園や併設の保育園に移る子もいた。
その度に悲しそうな顔をする子供たちを見送ってきた。
「自己責任でしょ?」
という言葉に私が耐えられなくなったのだ。
親の都合で別の環境に放り投げることは避けたかったし、何より枠がない。
仕事が好きで精一杯やってきた。
家で仕事をするようになり、12月の冬休み保育の枠にも落ちた。
14時半の降園後、12月の冬休み、夕方までシッターの利用をしようと、保育課に問い合わせる。
シッターも無償化の範囲なので延長保育の代案に利用しようと思ったのだ。
「この園は長時間の預かり保育を行なっているのでシッターの利用は無償対象にならない」
との回答であった。
要するに、
「この園は長時間延長保育を行なっているので他のサービスを利用することないでしょ?使ってね!」
ということだった。
保育課の方も申し訳なさそうだったので自分の心の狭さに申し訳なくなって沈んでしまう。
今の現状はそんな感じ。
これから仕事の時間をどうやりくりするかを考えなければいけない。
幼稚園に行っている間と寝た後で8時間以上確保できるだろうか・・・。
少し途方にくれています。
自分勝手だなとは思うけど
お金が無限にあれば、シッターを利用してガッツリ稼ぐ!と言えるけど、
6万ー8万を毎月捻出するのは流石に無理だ。
無償化事態は本当にありがたいこと。だけど仕組みが整っていないように思う。
教育の無償提供は国にとってもこれからの私たちにとってもマストだと思う。
どうやって続けるかの議論が大切だと思う。
唯一の救いは夫の理解があることだ。
ツイッターで幼少期に色々禁止されたら大人になってから反動がくる的な呟きを見かけて思い出した話。だらだらと書いたので文章汚いし長いけど、3連休の暇つぶしにでもどうぞ...
小学生(多分3年生か4年生の頃)の冬休み前に任天堂DSが発売された。折りたたみ式で画面が上下ふたつあって、下の画面をペンでタッチして遊ぶ。最初に某学年誌だかで写真を見たとき驚いたし、素直に欲しい!!と思った。私はそれまでゲーム機という物を持っていなかった。ゲームキューブもゲームボーイも触った事がなかった。持っていなくても友達と遊べたし、別段興味がなかった。
けれどDSが発売されたのはクリスマス前で、友達は次々とDSを手に入れていった。クリスマスプレゼントで、お正月に祖父母から、お年玉で、学年末テストで頑張ったから、進級祝いで......学年が上がった頃には大半の同級生がDSで遊んでいた。
私は持っていなかった。クリスマスもお正月も隙あらば両親にお願いした。けれど全部だめで、ならば貰ったお年玉で買おうとしたものの、両親にきつく叱られてお年玉ごと没収された。懸賞で当たれば文句は言われないだろうと考えて、いくつも応募したが見事に全部落ちた。(むしろ既に持っている友達が当選していた)
両親はファミコンが発売された当時、成人していた世代のはずでも、2人ともファミコンを触った事はなかったらしい。そもそもゲームに興味が全くなかった。むしろ否定的。
私が「みんな持ってる。持っていないと遊べない」と言っても、「みんなって誰?クラスの何人?」「ゲームばっかりしてるとバカになるよ」「ゲームしている子と遊ばなければいい」と跳ね返された。(後々、中学で同級生が携帯を持ちはじめ、部活の連絡手段がメールしかない状態になり携帯を持ちたいと言った時にも同じ様な事を言われた。「中学生のくせにメールで連絡網は生意気(以下略)」)
当時の私にはその言葉は絶望でしかなかったし、せまい小学生の世界で、ゲームをしている子と遊ぶなというのはひたすらひとりで過ごすようなものだった。今でこそ1人でも平気になったけど当時、いつも遊んでいた友達は遊ぶ時はみんなマイDSを持参して通信機能で対戦して遊んでいた。
私はその輪に入れなかった。画面を覗き込む事しかできなかった。覗き込んだ所で理解はできないし、友達にうっとおしがられるだけだった。
次第に放課後の遊びには誘われなくなった。持ってない奴と遊んでも楽しくないらしい。
学校ではどうぶつの森ごっこが流行った。(おままごとの動物版のような感じ)私はキャラクターを知らないから、嫌われているorかわいくない動物役だった。どんなキャラクターか知らないので、なりきる事ができず、何か発言する度にダメ出しをされる。休み時間一緒にいるのがしんどくて、ひとり教室で本を読むしかできなかった。
友達に「なんで私ちゃんはDS持ってないの?」と聞かれても「買ってもらえないし、なぜかゲーム禁止されてるから...」としか言えないし、普通に悲しかった。
中学校に入学する頃にはDSブームは若干おさまってって、据置型のwiiとwii sports の板が発売されていた。大半の友達の家にwii があったし、それは一緒に遊ぶ事ができた。嬉しかったしとても楽しかった。ただ、使い方に慣れていない自分は、やはり足手まといになってしまった。確か同じ頃にMiiが流行った。友人達はゲーム内で勝手に私のアバターを作って遊んでいた。そして「私ちゃん、〇〇(クラスの男子)と結婚したよ〜子ども産まれたよ〜」とわざわざ報告してくれた。友人はゲームを持っていなかった私に疑似体験させてくれたのか...?そこまでならギリギリ許す(心が狭いので本当は許したくない)けど、「○○と付き合ったら?」とリアルで言われて流石に引いた...
かと言って、この状況がいつまでも続く訳もなく、中学3年生になる頃には再びブームは落ち着いた。
高校に進学して今日までは、ゲームを知らなくても何とかやっていくことができている。が、例え話でゲームの事を出されるとやっぱり分からない。(ポケモンのどれそれが何それ〜とか)そこでプレイした事がないのでその例えは分からない旨を伝えるとすごく意外な顔をされる。相手に悪気は一切ないし、国民的なゲーム(?)なのでまさかといった感じなのだろう。むしろこっちが申し訳なく感じる。(私の周囲には例え話にゲームの事を出す人が一定数いるので、他の方がどうかは分からない)一応自分でも調べるけど、付け焼き刃すぎてどうしようもない。まぁそれでなんとかなってきてるので多分今後もこんな感じだと思う。
ここまで書いてきて、そういえばたまごっちがリニューアル発売してブームになった時も手に入れられなかった事を思い出した。ちょうどDSと同時期だったような気がする...。1人で3台も持ってる友人がとても羨ましかった。ここでも完全に蚊帳の外だった。思い出したらまた悲しくなってきた...
別に今更、両親の教育方針にケチをつけるつもりはないし、当時より多少は自由に生きてるけど、件のツイートを見かけてふと思い出したので書いて残したかった。
反動というか、今はスマホのアプリゲームを慣れないながらもいくつかポチポチしてる。キャラクターやストーリーがそれぞれ素敵なのでのんびり続けてる。育成したりするのはすっごく苦手だけど楽しい。ゲーム楽しいね。もっと早く知りたかった。
私は中高が一貫の女子校で、その間ずっと恋する乙女だった。恋した相手の数は4人。すべて片想いだった。それでも楽しかった。しかし女でありながら女の人を好きだと言うのを周囲にバレるわけもいかず、恋バナなんてしたことがなかった。高校を卒業してから何年も経ち、多くの友人は共学の大学に通うようになったり、バイト先や職場で新しい出会いがあるらしく、日々好きな異性のことを沢山話してくれるようになった。聞いていて楽しいけれど、自分も中高の頃隠さずにこんな風に片想いの話を彼女達と共有できていたらさぞかし楽しかっただろうなと思うので覚えている思い出を放出する。前置きが長くなってしまって申し訳ない。とても長い内容のうえに素人文章なのでご注意
中学の時に好きになったのは、同じ陸上部の三個上のA先輩だった。一年生でまだまだガキだった私はそれが恋とは知らなかったけれど、校内で見かけるたびにドキドキしてしまうのでうまく挨拶ができなくて先輩方に叱られた。一年として学年全体で怒られた後に、私に「うちらも怒りたくて怒ってるわけじゃないよ。悲しまないでね。現状を良くしたいだけなの」とフォローしてくれた。一年は居残り時間が30分短く、先輩よりは下校時間が早くて一緒に変えることはできなかった。何かと理由をつけて部活後も校内に残って待ち伏せしたけど話しかけることはできなかった。きもいな。恋だとはわからないままでも自分はすごく乙女だった。部活の汗の匂いが気になって近寄って欲しいけど近寄れなかったり、少しでも可愛くなりたくてスキンケア用品もお小遣い貯めて買ってみたりした。(とはいっても洗顔料と化粧水だけ)。部活中は一つ結びしか許されていなかったから、無礼講の部内クリスマスパーティでは髪型を少し変えて気づいてもらえるか試したりした。気づいてはもらえなかった。
中2の時に好きになったのは当時仲が良かった友達Bちゃん。体育祭の時に疲れたと愚痴ると膝枕をしてくれた。その子自身は体育の男性教員が好きだったからいつも胸がモヤモヤしていた。夏休み、家族でハワイ旅行に行った時に友達用にお土産を大量買いしたけれど、彼女にはちょっと特別なものを他の子にバレないようにあげた。その時の笑顔が忘れられないほど綺麗だった。でも恋だとは自覚しないまま終わった。
高一の時に好きになったのは同じクラスのcさんだった。すごく仲がいいわけでもなく、勝手に好きになっていた。席替えで隣の席になれた時にすごく嬉しくて、夏休みに入る目前、恋だと自覚した。自覚してしまうといろいろ早くて(思春期なのもあって)キスしたい、ハグしたい、裸で触れ合いたいとか思うことが増えたけど、そんなことは顔に出すわけにはいかない。夜1人で妄想して、朝になったら忘れて何事もなかったかのように隣の席に座った。挙動不審にならないようにわざと冷たく当たってみたりもした。それでも彼女は優しくて、廊下とかですれ違っても「よっ!」と肩を叩いたりしてくれた。久しぶりに私から話しかけると、「やっと話しかけてくれた…無視されて辛かった」と言ってくれたけれど、彼女のそれが恋愛感情からくるものじゃないのは明らかだった。誰にでも優しくて、他人に注意を払うのがとてもうまかった。夕暮れで視界が悪いのに下校途中で私に気づいて手を振ってくれるのはすごく嬉しかった。
高3になってもcのことが好きだった。毎年クラス替えがあったけれど、また同じクラスになった。すごくすごく辛かった。クラスの中心的なその子と話す機会は減った。でもまた奇跡的に隣の席になれた。天にも昇る心地だった。脳内お花畑だったからこれはもう運命では?とさえ思った。調理実習で作ったクッキーを食べて欲しかったけど、スムーズに渡せなくて、席が近隣の子達におすそ分けって苦しい名目で周りに配ったら別の子Dに全部食べられてしまってCの手に渡ることはなかった。Dには怒りが湧いたけれど「美味しかったご馳走さま」と言ってくれたので許した。
しばらくして漫画みたいな出来事が起こった。Dが同じ町内にひっこしてきた。歩いて五分くらいの距離に。私の高校は私立で、近所に同じ学校の人がいるという感覚がこれまでなかったので純粋に嬉しかった。これによって謝恩会の準備や話し合いが放課後に近所でできるようになって純粋に楽だった。実は、もともとDの印象はすこぶる悪かった。Dは中3のとき、離れ離れのクラスになったBが新しいクラスで仲良くしていた子だったから。当時Bが好きだった私は勝手にBを取られたような気でどうしてもDを好きになれなかった。
高3になるとみんな受験で忙しくて、委員会なんてする人はいなくなった。でもクラスに必ず数人いなくてはならない卒業式後の謝恩会委員というポジションがあった。これがなかなか決まらないため、ホームルームが終わらない。Dが一緒にやろうと言ってきた。お前は受験はいいのか、と思いながらほかに立候補者もいないし、なんとなくすることにした。私のクラスは私たち2人だけだった。謝恩会委員はやることが意外に多くて、Dの受験が純粋に心配になった。私はAO推薦でほぼ確定だったので積極的に作業していた…と思う。ある日、Dの分である作業をなんとなく勝手に進めているととても感謝されて腰のあたりに抱きつかれた。cの前だったから恥ずかしくて腕を振りほどいた。CとDは髪型がとてもよく似ていた。うちの高校はキリスト教だったので、全員強制参加の式典が年に何度かあった。秋のある日の式典で、私はどうしても暇でCを目で追ってしまった。それに偶然気づいたDが小さく手を振ってきた。お前じゃない、と思いながらも実はちょっときゅんとした。
ある日の放課後、雑談をしながら謝恩会の作業中、何気もなしに部活の後輩が好きだったことがあると言ってきた。とてもびっくりした。自分も女子校内で片恋ばっかしている人間だったけれど、それを他人に話すということが異文化すぎた。気が動転してそれからしばらくはDのことを避けてしまった。
冬になってまた別の校内式典があった。それは義務ではなくて、行きたい人が行くものだった。99.9%の人が大学進学を希望するのでクラスの中では本番の迫る受験のために欠席する人、気休めと文字通り神頼みのために参加する人の二分だった。CもDもとても頭が良かったから参加するかどうかなんとなく気になった。Cは来ないというのを教室内の会話で知ってがっかりしたが、Dは来ると言っていた。なぜかとても嬉しかった。もしかしたらこれが終わって三学期になれば自由登校で友達に会えなくなるからかもしれないと勝手に納得した。
それからしばらくしてDに放課後に呼び出された。理由は私が避けすぎたためだったらしい。Dは私が最近は目も合わせてくれないと言って泣いた。とても驚いた。避けている自覚はあったけれど目を合わせていないなんて自覚はなかった。だから今度は目を見て話を聞こうと思った。でも出来なかった。そこで初めて私はDが好きなんだと自覚した。目を合わせられないのはあの有名な歌詞通り、見つめ合うと素直におしゃべりできないからだった。急に恥ずかしくなって帰りたくなった。でも帰ったら一緒にいられないと思うとどうすれば良いのかわからなくなって、とりあえず適当に謝ってから家が近所なこともあって一緒に帰った。
謝ったと言ってもそれでまたDとおしゃべりなんてできるようになるわけがなく、言いたいことは全部紙に書いて伝えるようになった。本当に恥ずかしくて会話ができない。でもDと交流したい。Dは手紙にして返事をくれたりした。とても嬉しかった。それから冬休みに入って、三学期になって学校に行くことがなくなっても手紙のやり取りは双方にとって近所の公園に貼り付けるという約束になって続いた。
バレンタインになった。何か渡したいけれども渡す時間を取らせるのも申し訳ない。公園に手紙と一緒に食べ物を置くのも憚られる。代わりに手作りで学業成就のお守りを使って置いておいた(重い上にキモい)。お世辞だろうとも喜んでくれた旨が手紙に書かれていた。嬉しくて家でニヤニヤしていたら家族にキモいと叱られた。
その後、彼女の第一志望の受験前日は3つも神社をお参りしてクジを引いたら大吉だった。うれしくなって、おみくじのことと、明日の受験頑張れと書いた手紙を貼った。結果発表の日が過ぎてもDから連絡は来なかった。催促するのもよろしくないのでそれから次の登校日まで待った。
合格者発表から数日経った次の登校日、学校に行くとほぼ全員受験のストレスから解放されていた。教室ではDが他の子達となんと恋バナをしていた。他のクラスメートたちが、受験期中に同じ塾の男の子相手に密かに恋をしていたこととかを話していた。D自身はどうなんだろうか、不安になった。聞きたいけど怖くて聞きたくないので「いいなぁ楽しそう。もっといろいろ聞かせて?」と他の子に聞いた。するとDが「じゃあ〇〇も恋バナすればいいじゃん。好きな人いないの?」と聞いてきた。胸がとても痛かった。その日のうちにD本人から、実は第一志望に合格していたと聞いた。嬉しかったけれど、どうしてすぐに伝えてくれなかったんだろう。そんなこと話す間柄とすら思ってもらえてないのかと、また胸が痛くなった。
卒業式の帰り、謝恩会も無事終わり、クラスの打ち上げも解散に近づいた頃、Dに、今日は一緒に帰ろうと言ってもらえた。とても嬉しかった。私の大学は地方だったから多分これがDに理由もなく会える最後だと思うと泣きたくなった。帰り道は何も話さなかった。誤差の範囲だけれどDの家に先についた。お別れの時だ、と思ったら、Dがマンションの共有スペースまで上げてくれた。一緒にケーキを食べた。告白するべきかしないべきか、すごく悩んでケーキを食べ終わってもずっと無言で泣いてしまった。Dは私が何かいうのを待っているようだった。その時、母親からもう帰って来いと電話が来たので仕方なくさよならを言った。Dは地方でも頑張ってと応援してくれた。私は泣きながら短い距離を帰った。
本当のところはわからないけれど、おそらくDは私がDを好きだと気付いていたんだと思う。でもわたしには告白する勇気もなければ、このあと地方に自分は行くのに、Dが大学で彼氏を作るのを見ているのは辛くて無理だった。大学に入ってしばらくして、私は、自身では記憶にないが飲み会で盛大に酔っ払ったらしく、ライン電話でDに泣きながら告白していたらしい、というのは飲み会に参加していた別の友人に聞いた。Dのリアクションはわからない。電話口だったので私にしか聞こえていなかったし、私本人が酔って忘れてしまった。そのうち、私が1回目の帰省をする頃には風の噂でDに年上の彼氏ができたことを聞いた。私は泣いた。多分もうDとも関わることなんて、同窓会以外ないだろう。私はいつまであの時に囚われているのかわからないけれど、あれ以来人を好きになったことがない。もう22だけれど、中高で経験した以上の恋愛ができる気がしない。それでもいいと思っている。後悔もない。充実した青春だったし。これが私が学生時代、仲の良かった友人としてみたくても出来なかった恋バナの内容。
スマホもなくて、デスクトップのPCでネットサーフィンしてた頃。
なぜか、2chは怖くてやってなかったけど、灰羽連盟のスレッドだけは全部見てた。
このままじゃまずいと思って、あらかじめ決めた時間が来たら強制的にシャットダウンするソフトを作りはじめた。
強制的にシャットダウンする機能が出来たら、それを止める抜け道を探して、またそれをさせない方法を探して、起動時に指定の時間内だったらキー操作を受け付けない設定までして、最後には終了時間3分前に好きな音楽を流す機能まで付けた。
開発している間中、D[di:]の駄利亜を聴いてた。アルバム通して100回は聴いた。
そんなことで無事にPC依存も決めた時間を守って出来るようになって、プログラムの面白さにも目覚めて、物を作る側の面白さにも目覚めて、今はスマホ依存になってる。
(大人がいったってろくに動かないのに)。
ハリーポッターにも描写されてるけど中学生ならまだ義務教育の範囲内だけど
高校生に体力と時間が無限にあるとおもいこんでる教育者が多い。
夏休み冬休みにまで「補習」と称してボロボロのクタクタになるまで子供を使い果たして実質休息日が3日しかない学校がある。
親が校風あわないからあわてて転科(文転など)や転校させたくても「制度上無理です」。
体調くずして休むと教科書渡さない上でテスト受けさせるいじめみたいな場合もある。
モーレツ社員募集したブラック企業じゃないんだからせめて連携とって整合性をとれと思う。
(=すきなところにいかせるのに親の送迎をつけなくていい)
自主的になにかやろうと思う暇をこどもにつくれよまず。
6年前くらいに一度壊れてから、それから生きていたいと思えなくなって、時々家から出れなくなる程病んでの繰り返しで、3年くらい前に親に泣きながらお願いされたから病院に行ったら躁鬱だと言われた。
だから、なんだと思った。
病院に行って、病名がわかって、薬を飲んでも、辛い気持ちはなくならなくて、ただただ死にたかった。
死ぬのは怖くて死ぬ勇気なんてなくて、いつかそんな恐怖さえも消えるくらい死にたいと思う時が来る事待ちながら生きていた。
カウンセリングを受けても、ひねくれてたから人の不幸を聞いて金貰えるんだ、なんの解決もしてくれないくせにって思ってすぐにやめた。
日々生きていたくないと思っていて、時々無性に死にたくなるくらいで、人よりメンタルが弱いけど日常生活は割とできていた。
楽しい時は笑ってたし、嫌なことがあると引きこもった。
だから余計に理解されなかった。甘えだと言われ続けた。自分でも甘えだと思い始めて、でも、甘えだと自覚した所でどうしたらいいのかわからなくて、苦しかった。
躁鬱の症状を調べても、躁の症状はあまり当てはまらず、鬱の症状ばかり当てはまるから、ただ単に鬱なのか?と思うけど、元気な時は元気だし、病気なんかじゃなくて性格なのかなやっぱり甘えなのか。
そんな事をずっと考えていた。この性格のせいで、ほとんどうまくいかない。治したくても感情をコントロールするのが難しかった。
もういい、疲れた。治すより死んだ方が早い。そう思って自殺をしようとした。何度も衝動的に自殺をしようとしては、未遂で終わってしまっていたから、計画的にいこうと思い実行までに1ヶ月の猶予を設けた。
その1ヶ月の間に丁度、冬休みがあって暇だった私は、友達に勧められた17歳のカルテを観た。
主人公の病気の症状が私と一緒で、私はすぐに境界性パーソナリティ障害の事を調べた。
調べれば調べるほど、症状があてはまった。そっか、私は躁鬱じゃなくて、境界性パーソナリティ障害だったんだ。そう気づいてなんだか心が楽になった。
正直、自分の性格に病気を当てはめて、それに甘えてしまっていた部分もある。なんでも、鬱だから仕方ないと諦めていたし、薬がいつか治してくれんのかと思ってた。
でも、薬は私を治すんじゃなくて症状を抑えててくれるだけで、病気を治せるのは自分自信しかいなかった。そりゃ、周りや先生、カウンセラー、薬のサポートも必要だけど、治すというより付き合うって感じだから結局最後は自分が重要なんだと思う。
正しい病名がわかると、正しい対処ができる。治すより死ぬ方が楽だと思ってたけど、ずっと引っかかってたモヤモヤが取れて、もう少し頑張ってみようと思えた。
私の死にたさなんてそんなもんだった。小さい事で死にたくなって、小さい事で死ぬのをやめて、いつも感情は忙しい。
片隅ははてぶ運営に失礼か。謙遜語?謙譲語?わからんがヘリ下り語として勘弁して下せえ。
昭和天皇崩御の日、私は余りにも幼く天皇って何?だった。崩御の前に世間が天皇、天皇騒いでたのを察したのだろうか母に天皇って何?と質問したことを覚えている。その返答は国の顔みたいな感じと言われた事も覚えている。今に思えば象徴天皇の概念を子供に伝えるための表現だったのだろう。でも当時は顔?何言ってんだ?気でも狂ったのか母はという感じに受け止めた。
本題の崩御の日だ、冬休みだったかと思う。朝早くにぐーぐー寝ている私の布団をバッと剥ぎ取ると同時に「天皇が死んだよ!」と威勢よく発したのだ。当時は、で?という感想しかないが、母の発するトーンに普通じゃない気が漂ってたので2度寝する雰囲気ではなかった。そのままリビング?居間?テレビのあるご飯を食べる部屋にトボトボ歩いて点いてたテレビを見たらふむふむ確かに死んだらしい。まあ、でも、なんでこんなに大人は騒いでるんだと不思議には思った。なにより気がかりなのはあの母のトーンだった。
そのトーンから当時も今思い返しても感じるものは、「清々(せいせい)した」である。清々しさ(すがすがしさ)が溢れてたんです。
ローカルに残しても紛失するからとか言ったが、それは半分言い訳も含んでいて、ネットに発信したいという理由も実はあって、それがこれなんです。
平成生まれの人にはこの感情は???という感じなんじゃないかなと思ったんです。平成天皇は大好きですし尊敬に値する人だと私は感じます。
平成は他の時代に比べても又は他国に比べても圧倒的に平和だったからね。
彼を恨んでた人は多いか少ないかはわからないが、存在した。昭和は長かった、その長い時代に世界大戦、敗戦、連合国統治、復興と、明治維新と肩を並べるかそれ以上の濃密な時間帯が存在するのだ、その濃密で長いスパンを一人の天皇が一貫して君臨したわけだ、63年間あったのだ。半分に割って前期、後期と呼ぶとして後期は、まあどうでもいいや、問題は前期。
私の母は戦争未経験者です。所謂団塊の世代です。株価やGDP等の指標をグラフで見ると団塊の世代は右肩上がりのうらやましい時代を過ごしてますが彼ら彼女らが一般的にどうゆう状況に置かれてたのかその右肩上がりのグラフ通りの笑いが止まらない人生だったのかはどうなんでしょう。0ではなくマイナスからのスタートだったのは間違いないでしょう。少なくとも必死に敗戦の負の遺産をできる限り子孫に残さないように自分たちで吸収しようとそうゆう風に生きてたのかなあと今でも感じます。しかし見つめなおすとやっぱりそれは自分のせいではないわけです。なんで俺がなんで私がという感情が気を抜けば心の底に勝手に芽生えて来るもんじゃないかなあと、思うんです。それを押し殺したり見て見ぬふりをしたりしながらなんとか辻褄を合わせて来たんじゃないかなあと思うんです。
それが昭和天皇崩御の日にふと漏れ出してあのトーンが腹の底から沸き上がったんじゃないかなあという推測を書いてみたはいいがいざ書いて見るととてつもなくどうでもいい話だなあ
冬休みに入る少し前、衣替えが済むかどうかのビミョーな時期。
「この度、私たちのクラスに新しい仲間が増えます。さあ、どうぞ入ってきて」
担任教師のしゃらくさい言い回しと共に、その転校生は教室に入ってきた。
第一印象は可もなく、不可もなくって感じだ。
強いて言うなら風貌が若干イモくさくて、身だしなみにはやや無頓着なタイプってくらい。
「ええー、転校生のブリー君です。両親の仕事の都合でこちらに越してきました……はい、どうぞ」
「……」
教室内が、妙な静かさで覆われた。
担任も俺たちも戸惑う。
「あのー、ブリー君?」
「先生、『はい、どうぞ』と言われても、どこに座ればいいか分かりません。空いているところを適当に座ってもいいので?」
「え……あ、うん。それでもいいけど、その前にみんなに自己紹介をしましょう」
「うん、そう。じゃあ自己紹介どうぞ」
「う、うーん……そうかもしれないけど、本人から直接言った方がいいかなあって」
「自己紹介した方が良かったのなら、先生が紹介する必要はなかったのでは?」
こりゃあ、中々に面倒くさそうな奴が来たな。
俺だけじゃなく、この時みんなそう思った。
それから数日経ったが、この転校生の厄介さは俺たちの予想以上だった。
例えば体育の時間など、グループで何かをやる時はそれが顕著だ。
「今日はドッジボールをやりまーす。出席番号が偶数の子はAチーム。奇数の子はBチームに分かれて」
この時、俺はAチーム。
「そもそもボールをぶつけるゲームなんて、危ないのに何でやるかなあ。それに、ぼくみたいな球技の苦手な人間まで巻き込んでやらせないでよ。共産主義とか現代の遺産なのにさあ」
ボールを捕れなくても、内野で避け続けているだけで相手のミスを誘えるし、時間切れに持ち込めば残り人数で勝利に貢献できる。
能力や積極性に違いがあっても、誰もがチームの力になれるゲームなんだ。
体育でやるスポーツとして鉄板なのは、それなりの理由があるわけだ。
……とドッジボールの良さを俺たちが説明してもなお、ブリー君の調子は変わらない。
「あ~あ、突き指とかしたくないなあ。ボールのゴム臭さも気分が悪くなるし」
当然、チームの士気は下がり続ける。
それと同時に、俺たちのブリー君に対する評価も下がり続けることになる。
まさか、こんな形で足を引っ張る人間がいるなんて思ってもみなかった。
俺たちはどんな遊びにおいても、どんな鈍くさい子でも、いないよりはいたほうが良いと思っていたし、楽しいとも思っていた。
だけど「こちら側のどこからでも切れます」が切れないように、何事も例外というものはある。
その例外が自分たちの身の回りで起きたことは衝撃的だったけど。
『この世から失くすべきだけど、絶対に失くせないものって何だろう』
主人公は登場人物に、そして読者に度々そう語りかけてくるんだ。
登場人物はその度に色々な答えを出していくが、それに対して主人公はイエスともノーとも言わない。
そして、答えが結局は何なのか、その本の中では書かれずに終わる。
俺は物語のこういう“やり口”は嫌いだ。
特定の読者が喜びそうなものを散りばめて、肝心なことをボカして書いて、いい感じに解釈することを期待して、何となく深い物語にしようとしてる。
こんな本の感想文を書かなきゃいけない、俺みたいなガキのことを何一つ考えていない。
結局、俺は兄貴から伝授された“感想文の埋め方”を駆使したけど、貰った評価はBだった。
『“この世から失くすべきだけど、絶対に失くせないもの”が何なのか。たぶん主人公も、その他の登場人物も、そして作者も思いついていない』と書いたのがマズかったらしい。
クラスメートは何て書いたんだろう。
ミミセンは「雑音」。
タオナケは「男女」。
ドッペルは「関係」。
ツクヒは「容姿」らしい。
クラスメートじゃないシロクロにも一応聞いてみたら、「自分自身」と答えた。
何だか深いようで、実際は浅そうな答えばかりだ。
それに、これだけバラバラの答えが出てくる時点で、やっぱり俺の感想は間違っていない気がする。
ちなみに兄貴にも聞いてみた。
「そういうのは作中の文章から、それっぽい言葉を抜き取るんだよ。それが見つからないんだったら、大人が喜びそうなこと書いとけ」
流石だ。
『この世から失くすべきだけど、絶対に失くせないもの』なんて、ほとんどない。
本気で失くしたいと思っているなら、そう思っている人がたくさんいるなら、失くせないはずがないんだ。
実際、俺は失くせないと思っていた“とある事”を、失くす方法を見つけた。
今回はそのことを話そう。
「正月に実家に帰り、2日に友人の家に飲みに行く以外は実家で寝るだけ」
→正月に帰省して親を手伝いもせず2日から友人宅で飲む女ってのはあまりいなさそうだし、
仮に居たとしたら「女だけどこんな正月過ごしちゃってる自分」と言う自意識が出て来るのではないか。
これをごくごく平凡な正月の過ごし方と思っているのはいかにも男っぽい。
→社会人にしては暇な期間が長すぎる。冬休みが長いか普段から暇な学生?
→これも男っぽい。女なら「女だけど美人やエロが好きな自分」と言ういかにもオタクっぽい自意識が以下同文。
学生の男ならskyrimのプレーヤーとしてごく普通だろうから、わざわざ立場年齢性別をアピールする必要性を感じなかっただけじゃね。