はてなキーワード: 一遍とは
元増田です。
カウンセリング行ってきました。
基本的にはうんうんと聞いてもらって、通り一遍のアドバイスをもらって。
具体的な解決策は何もなかったんだけど、少し楽になった気がします。
単に話をしたかった、というのが大きかったのかもしれない。
気楽に話せる知人などいないし、いたとしてもネガティブまみれの会話などしたくないし。
そう考えたら、ここに書き込んで見てもらえることって凄いことだと思い至って。
閲覧数人だとしても、現実ではカウンセリング行くまでは0だったわけで。
見てくれた方。何か少しでも考えてくれた方。
どうもありがとうございます。
天気が良かった休日に、散歩してみました。見知った街が新鮮でした。
辛くなったら、また書きます。
バカにされても良いです。こんな状況なんだと、表に出したいだけなので。
自分はサービス業だ。お客様相手に商売をして、お客様の要望に応え、お客様の顔色を伺い、時と場合によっては奴隷のようにこき使われている。
今回の土俵女人禁制のあれこれ、誰が一番カスなのかと言ったら、それは行司ではないと思う。
通り一遍のニュースしか見ていないが、【顧客】からの「なんで女が土俵に居るんだ」の声で行司のあのアナウンスに至ったと見た。
行司のアナウンスは判断ミスであったというのは否定しようがないと自分も思う。
どんなときでも人命より優先されるものなどないし、もう少し一歩立ち止まって冷静な判断ができていればあのようなアナウンスにはならなかったと思う。
また、あのアナウンスに行き着いてしまう相撲というものの体質にも問題はあると思う。
ここからは想像だけれど、ニュースでわざわざ【顧客】と表現されるからには、ある程度の発言力のあった人間だったんじゃないかと思う。
それが金銭的なものか政治的なものかは知る由もないけれど、そういう人間から声があったとき、客商売の人間の力はすごく弱い。
行司の立場が自分だったらと置き換えるとひょっとしたら自分もそうしてしまったかもしれないという思いは捨てきれない。
そこに加えて、土俵の上で人がぶっ倒れるという前代未聞の事態があれば、冷静な判断力を欠いても、仕方ないとは言わないまでもある程度は同情してしまう。
自分の職場で何かが起こったとき、万全な対応ができるように日ごろの消防訓練も受けているけれど、たとえば超超常連客に、避難したあとで「どうしても取りに戻らないといけない書類がある」とか言われたら、それを留めることができるかどうかは、正直あまり自信がない。
今の冷静な頭では絶対に押し留めると思っていても、それが小火だったり、低震度の地震だったりしたら、ひょっとしたら許してしまうかもしれない。
あくまでひょっとしたらの話だけど。(小火や低震度地震と人命救助がイコールじゃないのはわかっている。あくまでそういう要素があった場合としての話で)
繰り返し言うと、現場の判断としては間違いなくあれは間違った判断だった。
でも間違いのない人間なんて居ないわけで、行司の「動転していた」という弁解はそれ以上でもそれ以下でもないと思う。
必要なときに必要な行動が取れる人間というのは普段思っているより少ない。その点、あそこで土俵に迷いなく上れた女性は本当にすごい。
相撲業界もあの体質だから、きっと体育会系で女人禁制に始まる相撲のしきたりを身体に叩き込まれてたんだろうと思う。
そうなってしまうと、悲しいかなイレギュラーなケースでその目に映るのは現実への対処よりも凝り固まった原則やしきたりなんだよね。
そういう現場は、今まで自分がサービス業で仕事をしている中でもゴマンと見た。普通の日本の企業で働いていても、そういうことって実務レベルでも日ごろからあると思う。
何より強調したいのは、誰が一番カスかというと【顧客】だと思う。
昼間に飯屋で流れてたニュースで、常連のおっさんはひたすらに行司を悪く言っていた。それに対して、明日はわが身のサービス業としては、何も言えなかった。
職務を果たせばいいだけの話だけど、それを忠実に冷静に、臨機応変にできる人間はそうそう居ない。
責めるべきはミスよりも、無責任に大した想像力も働かせず声を出した【顧客】であると自分は思ってしまって仕方がない。
世の中は声のでかい馬鹿(この場合は顧客)を中心に回ってるんだな、と思えて仕方がなくて少し悲しくなった。
これは出版業に隣接する場所で働く人間にはこう見ているという話だ。出版業は苦境に立たされている、新しい売り方を模索せねば、という声が聞こえてくるが、いや、苦境どころじゃなくてもう終わっているよなーと素直に思う。
編集者はいつ会っても疲弊している。ノルマに追われ、考える時間がない。著者を見つけ、本を作っても、宣伝費がないので売る方法がない。ノルマがあるので完成したらすぐ次の本に取り掛からなきゃいけない。同時並行でやっているので、一冊に力をかけることもできないし、完成したら販売に力を入れることもできない。結果、作ったらあとは放置。売れてくれたらラッキー。そのぐらいの気持ちでやっている。
宣伝費がかけられないので、少しでも売れる確率をあげたければ、すでにファンがいる人間にあたらなきゃいけなくなる。なので、ツイッターでフォロワーが多い人間、ブログが少しでもバズった人間に声をかける。だから、今はネットでちょっとでもバズると、すぐに出版の声がかかる。今やネットで人気のある人が毎月のように本を出す。フォロワーに対して「なんと本を書きました!」と報告する。初版は6000部。編集者からは「普通はもっと少ないんですけど、フォロワーが多いので増やしました」と言われている。「うちは新人の印税は7%なんですよ……」と申し訳なさそうに言う。ツイッタラーは一生で初めての出版なので、舞い上がり、少ない報酬でも睡眠時間を削って書く。だから、出版を報告するのは一世一代のことだし、売れてくれと願っている。だけど、出版社はそうじゃない。出版社は現実を知っていて、売れないことを見込んでいる。フォロワーたちが買って、万が一にもヒットしたらいいと考えている。
売れないことがもはや当たり前なので、本を出してそれが売れなくても、気にしない。というか、気にする余裕がない。次の本を完成させなきゃいけないのだ。売れないことで凹んだりはしない。だけど、著者は違う。報告ツイートは「いいね!」されたけど、レビューもそんなにつかず、ツイッターで感想もあまりつぶやかれず、「これでほかの出版社からも依頼があるかも」と期待していたけど何もなく、「あれ?」と思っているあいだに、ビックリするほど静かに時間が過ぎていく。そして、また別のツイッタラーが「本を出しました!」と報告する。
そこで出るツイッタラーの本も通り一遍なものだ。生い立ちを語り、私はこうやって成功しました、と成功談をつづる。ちょっとツイッターでバズったぐらいの人間が、ものすごい人生を送っているわけでもない。文章がすごいわけでもない。だから、どこかで見たありがちな内容になって、売れない。
本はビックリするほどたくさん出ていて、そしてビックリするほど売れない。
本屋に行けば、いつも同じ本が並んでいる。「自由に生きよう」「夢を諦めるな」「こうすれば上手くいく」同じような内容を著者を変え、毎日出している。どれかが万が一にもヒットしてくれたらいいと思いながら。
小説はどれも内容違うじゃないか、と言われるかもしれない。だけど、小説はもう本当に売れない。書くのに2年かかって部数は4000部。特に宣伝もされずに一部の書店に一週間ほど置かれてなくなっていく。そして、売れなかったことを理由に次回作は出ない。
じゃあ、売れる本は何なのか、というと、偶然としか言えない。たまたまタイトルが時流に合っていた、たまたま表紙がキャッチーだった、たまたま部数が多く出て書店での露出が多かった──これらの偶然が重なって発売数日、書店での売れ行きがいい。すると、出版社は「おっ」と思い、「じゃあ新聞広告出すか」とここでやっと宣伝することを考え始める。宣伝するとそれなりに売れる。だから、増刷をする。すると、書店で目につきやすくなるので、また売れる。その売上を見て、また広告を入れる。すると、また売れる。一度売れだすとこういう循環が回り出す。
じゃあ、最初から部数を多くして、宣伝をしていけばいいじゃないか、と思うかもしれない。だけど、そんなことは怖くてできない。すでに数字がないと営業や宣伝を説得できない。
こんな構造ができあがっているので、いい本はできないし、著者の期待は裏切っていく。似たような本しかないので読者も離れていく。これはもう「構造改革」でなんとかなる話ではなく、すでに業界が瓦解していると思う。
散々、ネットで色々な人が真っ当な意見を述べているから改めて言う事でもないけど、自分的に何処かで吐き出したいなって思ったのでここを選びました。
本当、童貞で何が悪いんだと思う。生物学的から見たら負け?繁殖能力が低い?そんなのどうだっていいわ。
非モテで男性が苦手で、顔も可愛い訳じゃない、性格も気立てがいい訳でもないから恋人もできた事が無ければ、浮いた話もない喪女。年齢=恋人いない歴。毎日毎日ハイスコアで更新中。
そんな私が言うと言い訳かもしれないし、負け犬の遠吠えでしかないかもしれないけど、そんなに性交渉をした事が無いって恥ずべきことなんだろうか。笑いのネタになるんだろうか。
所謂童貞臭いっていうのは、性的な事を連想させるワードに敏感に反応したり、初心な反応を取ったりって事だと思うけど…
人間三大欲求に性欲ってあるんだから、エッチなワードをきいてソワソワしてしまったり、悶々してしまったりって別にあっても良くない?ていうか普通にない?
私だって女子だから言いだせないけど、風の噂でセックスは気持ちいいらしい、とか聞くから興味がない訳じゃない。そりゃあ何となく気になったりする。どんなものかなぁ……って。
それってそんなに恥ずかしいの?普通じゃなくて?笑えるの?お前、そんなに反応して可笑しい~、ウケる!って。
じゃあそんな風に思うなら一遍抱かれてこい、抱いて来いって…… 手頃なやつ見つけてセックスしてみろって……
いや、セックスって普通は好きな人とするもんじゃないの? それで、こういうと、いやいや、初心~(笑)なんて答えが返ってくる。
え、この考えって可笑しいの?夢みな夢子ちゃんなの?それならもう全然夢子ちゃんでいいわ。上等上等。
でも本当にそれが笑われる、ネタにされるって、どうなんだろう。
いやとにかくモテなくて、異性から相手にされなくて可哀想で、恋人出来なくて…とかあるけど、それってそんなに笑える事なの?可哀想なの?
何年も鬱病で苦しんだ。
数年前にそれが行き着くところまで行って、まあ初めてではなかったけれども、自殺未遂、救急車で運ばれて気が付けば集中治療室、その後入院、と、散々迷惑をかけ心配をかけ。
退院はなんとなくヌルッと決まったような感覚だった記憶があって、その後どうなるんだ自分の人生、と思ったけれども、失業給付やアルバイトで食いつないでいる間にたまたま決まった仕事が妙に性に合ったようで、働き始めて二年を待たずに服薬が必要なくなるところまで回復した。病院に通わなくなったのは十年以上ぶりのことだった。とてもラッキーだったと思う。
もともと創作活動が好きだったのだけれども、鬱病が酷い時には創作どころではなかったので、何年も遠ざかったままだった。でも回復するにつれ自然に創作に向かうエネルギーも湧いてきて、たまたま外的なタイミングも合って、創作活動を再開し細々と行うようになった。
才能が無いなんてことはとうの昔に痛感していたので飽くまで趣味としてではあるけれども、趣味なりに本気で何かを創る感覚は久しぶりで、刺激的で、仕事やプライベートでうまくいかないことがあっても、創作が自分の支えになりつつあった。
評価は全然されなかった。自分の力では無理も無いと思う。年齢的な面もあって、年甲斐もなく何をやっているんだと思われていた節もある。でも本当に近しい人たちには、自分にとって創作が如何に大事なものかはわかってもらえていると思っていたし、そのうち少し良い作品ができたら、それなりに喜んでもらえるんじゃないか、なんて甘い考えを抱いていたりした。
とある賞で、予選を通過した。それなりの規模で行われている賞で、そういった機会で選ばれた経験が自分には無かったので、予選通過者なんて他にたくさんいたのだが、それでも嬉しかった。励みになった。それなりに浮かれてしまって、今となってはとても恥ずかしい。
そんなに盛り上がるなんてことを思っていたわけでもないけれど、七転八倒していた自分を知っている古い友人、近しい人々は、喜んでくれるんじゃないかと思っていた。でも甘かったらしい。
何の反応もなかった。何も。無理もないか、予選を通っただけだものね。作品のクオリティや方向性だって、まるで誉められたものじゃなかったのかもしれない、こんな自分の創ったものだから。
それでも、そうかここまでちゃんと形にできるところまで回復したんだね、今はやりたいことをやれてるのか良かったね、って喜んでくれる人もいるかと思っていたんだ。作品はまだまだ全然だけど、創れるようになったってことは本当良かったよ、なんて言ってもらえるんじゃないかって、思っていたんだ。
創る側の人間からしたら、ネガティブな評価もそれは勿論怖いけれど、評価が無いこと、誰からも無視されることがどれだけ恐ろしいか、身に染みてわかるんじゃないかと思う。それをわかっているはずの友人たちも、何のフィードバックもくれなかった。
コメントすることも憚られるほど作品が酷かったのか、気を遣って労いの言葉をかけることも煩わしいほど自分が嫌われていたのか、それともその両方なのか。何にしろとてもショックだった。とても。
他にすることも大してなかったんだけど、でもそれなりに色々なことを諦めたり犠牲にしたりしてなんとか形にした作品が、手元にある。でも結局誰にも届かないんだろうな。酷評にも値しない作品。
それでも自分が今死んだら、友人たちは葬いとして一応は作品に触れてはくれるだろうか?それなりに美化して、通り一遍でも褒めてくれるだろうか?
そんなことばかり考えている。作品が認められないこと、無視されることの苦しみに耐えることが出来ないなら、創作なんてする資格も無いのだろうけれどもね。そもそもちゃんと力があって、評価に値する作品が創れるならこんなことにはならない訳で、文句を言う筋合なんてない、こんなことは言ってはいけないんだろうなってこともわかっています。だから自分は駄目なんだ。趣味でこんなに消耗するなんて、バカだなあ。本当にバカだ。人生にはもっともっと大切なことがたくさんあるはずなのに。でもバカだから、もう死んでやろうかという気持ちになる。バカだなあ。
格安SIMに乗り換え時の不安にショップのサポートがないってのがあるけどさ
データの修復してくれるわけでもない
壊れたスマホを修理のために持ち込んでもアップルストアを紹介するだけ
引き落とし出来なかった分の通信料を払い込むために利用すると余計な手数料が発生する
正直使うことないじゃん?
ていうか、店員ド素人ばっかで詳しい話になると全然分からんってパターンばっかじゃん。通り一遍の回答しかできないのばっか。
設定がわからないとかなら自分で調べればいいし。ていうか、ショップどこにあるのかって調べてるより、回答直接探したほうが早い。
文字だけだと理解できないのか?音声で聞かないと理解できない?
あるいは文字が読めないのか……ありうることではあるが。
自分がネットに入り浸ってオタク談議をするようになって、もう15年くらい経つわけだが、最近のネットは自分のようなへそ曲がりにとっては、あまり居心地のいい場所ではなくなってきたように思う。
例えばアニメや特撮や漫画の話にしても、昔のネットは通り一遍の雑誌やテレビの受け売りのような論評ばかりではなく、
「この作品は名作と言われているが、本当に名作か?駄作と言われているが、本当に駄作か?」
「今、世間じゃこの作品がすごく流行っているらしいけど、どうも俺には合わないなぁ」
「この作り手は深いテーマを描き続けた偉大なクリエーターと評価されているが、そうかね。俺はそこまで素晴らしい作品ばかりとは思わないし、かなり問題も多かったと思うがねぇ」
その中には共感をおぼえるものも少なくなかったし、時にはそれこそ雑誌やテレビではまずお目にかかれないような、深く感銘を受ける意見に出会うことも度々あった。
それがここ5、6年くらいだろうか、いつ来てみても、2chもTwitterも他のSNSやブログやサイトも、
「名作と言ったら名作なんだよ、異論は認めん。やいやい文句をつける奴はバカだ」
「お前は偉大な大御所の○○先生にケチをつけるのか?!上っ面しか見ていないくせにわきまえろ」
そして気づけば文字通り薄っぺらな、何処かから拾ってきたような通り一遍の評価しか見られなくなった。
近年の作品はまだ評価が固まっていないせいか、それほどでもないのだが、90年代以前のもの、特に昭和の名作と呼ばれるような作品や作り手になると、もうどうしようもない。
もちろん、じゃあ昔のネットはそこまで風通しが良かったか?と言えば、別にそんなことはない。
昔でも基本的には誰かの受け売りのような評価の方が多かったし、自分のようなへそ曲がりオタクにそこまで居場所があったわけではないのだが・・・。
今は少数どころかほとんど絶無になってしまったし、意見を表明できる場もそんなにない、無理矢理主張したところで誰からも同意してもらえず、逆にフルボッコされて終わり、というのが当たり前になってしまったようだ。
(6-1)「汚れてる」じゃなくて「汚しました、ごめんなさい」だろ?ごめんなさいが言えない口は引きむしってやるぜ(*‘∀‘)
(6-2)てめーの汚ねーケツで拭いとけやこの痴呆が(*‘∀‘)
(6-3)ガンッ(相手の頭をおもむろにそこにぶつける)もう一遍言ってみな、どこが汚れてるってんだ(*‘∀‘)
(6-4)ふふっ、それって新手の嫁いじめですかぁ?ですかぁ?でぃぃぇえぇぃすかぁぁああああっっ⁉(*‘∀‘)
(6-5)(包丁を持ち出し)オイ三秒だけ待ってやる。逃げられるとこまで逃げてみろ。ゴミ(*‘∀‘)
(6-6)なるほど汚れてるな。(ふーっとたばこの煙を吹きかけて)どっちにしてもお前はクビだ。お前は壁のシミより無価値な存在だ(*‘∀‘)
(6-7)お前が舐めてきれいにするのか?便所ナメクジ(*‘∀‘)
(6-8)あ、すいません(*‘∀‘)(ササッ)ニッコリ
教訓
(1) 選択肢は本来いくらでもあるので、そのことをことを忘れないで。
非常に狭い条件下の作業ではありますが、何かの参考になればと思いメモを残します。
(全て出揃ったら追記します)
鎌倉時代の僧侶・一向俊聖(暦仁2年(1239年)? - 弘安10年(1287年)?、以下「一向」と表記)を祖とする宗派。
一向は筑後国草野家の出身で、はじめは浄土宗鎮西派(西山派という異説もある)の僧侶であった。後に各地を遊行回国し、踊り念仏、天道念佛を修し、道場を設けた。近江国番場蓮華寺にて立ち往生して最期を迎えたという。
以後、同寺を本山として東北、関東、尾張、近江に一向の法流と伝える寺院が分布し、教団を形成するようになった。鎌倉時代末期に書かれた『野守鏡』にはこの教団を一向宗と呼んで、後世の浄土真宗とは全く無関係の宗派として存在している事が記録されている。
一向と一遍房智真は同時期の人物であり、ともに遊行や踊り念仏を行儀とする念仏勧進聖であることから、一向の「一向宗」は一遍の「時衆」と混同されるようになっていく。『天狗草子』に記された「一向宗」は、一遍の衆を指したものである(一向俊聖の項を参考)。たしかに一向も一遍と同様に浄土宗の影響を受けて自己の教義を確立させたものであるが、全く別箇に教団を開いたものである。また、一遍と違い一向の教えは踊り念仏を行うとはいえ、念仏そのものに特別な宗教的意義を見出す事は少なかったとされている。ところが時代が降るにつれ、一向の教えが同じ踊り念仏の一遍の教えと混同され、更に親鸞の興した浄土真宗とも混ざり合うという現象が見られるようになる。特に一向の教義が早い段階で流入していた北陸地方ではその傾向が顕著であった。
浄土真宗本願寺八世の蓮如が北陸地方に活動の場を求めた時に、布教の対象としたのはこうした一向や一遍の影響を受けて同じ浄土教の土壌を有した僧侶や信者であり、蓮如はこれを「一向衆」(「一向宗」ではない)と呼んだ。蓮如布教時に、一向宗や時宗が支配層との結びつきを強め、民衆から離れ、一向宗の民衆が蓮如教団になびいた結果、一向宗と呼ばれるにふさわしかったともいわれる[1]。本願寺及び蓮如の北陸における成功の背景にはこうした近似した宗教的価値観を持った「一向衆」の存在が大きいわけであるが、同時に蓮如はこれによって親鸞の教えが歪められてしまう事を恐れた。さらに別の事由から他宗派より「一向宗」と呼称されていたこと(後述)も彼の憂慮を深めた。文明5年(1473年)に蓮如によって書かれた『帖外御文』において「夫一向宗と云、時衆方之名なり、一遍・一向是也。其源とは江州ばんばの道場是則一向宗なり」とし、一向宗が一向の教団でもあることを明記して本願寺の門徒で一向宗の名前を使ったものは破門するとまで書かれているものの、ここでも一遍と一向の宗派が混同されている。
江戸時代に入ると、江戸幕府は本末制度の徹底を図り、系譜を異にするさまざまな念仏勧進聖が、清浄光寺を総本山とする単一宗派「時宗」の管轄下に編成された。この際、一向の流派は独立した宗派とは認められず、「一向宗」の呼称を用いる事も禁じられた。『時宗要略譜』によると、時宗十二派のうち、一向派と天童派が一向の法脈を受け継ぐものとされている。一向派(かつての一向の一向宗)は再三にわたり時宗からの独立を求めたが実らなかった。
明治時代になって、中期に一向派から独立転宗を唱える者が出現し、一向派は浄土宗宗務院に「所轄帰入願」を、時宗教務院に「時宗一向派独立認可願」を提出した。しかし一向派の独立・転宗を認めてしまうと、明治以降衰退著しく、時宗寺院が少ない上に、さらに減少することになるので、時宗当局は、これを認めようとしなかった[2]
大半の寺院が時宗を離れ、一向の母体であった浄土宗に帰属するようになったのは、昭和時代に入った1943年の事であった。
浄土真宗、ことに本願寺教団を指す呼称。教団自身はこの名を自称しなかったので注意が必要である。
「一向」とは「ひたすら」「一筋」という意味であり、「一つに専念すること」を意味している。『仏説無量寿経』に「一向専念無量寿仏」と記されていることから、とくに阿弥陀仏の名号を称えることと解釈され、親鸞を宗祖とする教団(本項では「真宗教団」とする)を他の宗派から指す呼称となった。とくに浄土宗は、親鸞の教団が「浄土真宗」と自称することを嫌い、「一向宗」の称を用いた。
したがって「一向宗」は真宗教団の門徒から見て正しい呼称ではなく、また一向俊聖の「一向宗」と混同される事から望ましい呼び方でもなかった。だが、中世において同じ念仏を唱える浄土教系宗派であった両派が混同され、更に時衆などとも漠然と同一のものとして捉えられるようになっていった。蓮如は前述のように「他宗派の者が(勘違いして)一向宗と呼ぶのは仕方ないが、我々浄土真宗の門徒が一向宗を自称してはいけない」という主旨の発言をして違反者を破門するとまで述べているが、逆に言えばこれは、真宗教団の門徒ですら「一向宗」を自称する者がいた事を意味する。
こうした指導により教団内部では「一向宗」の語は正式に使われることはなくなり、「浄土真宗」または「真宗」と称するようになった。しかし、門徒たちを中心とする一揆が「一向一揆」と呼ばれるなど、真宗教団のことを教団外から「一向宗」と呼ぶ風潮は収まる事はなかった。
江戸幕府は、真宗教団を指す名称として「一向宗」を公式に用い続けた。この経緯としては、徳川家康が三河一向一揆により家中統制で苦しめられたこと、徳川将軍家が(真宗教団が「浄土真宗」を称することを望まない)浄土宗を信仰していることが挙げられる。これに対して、真宗教団側は本願寺の分裂などの影響があり、長らく具体的な対応が取られることがなかった。
手術の同意書で麻酔が合わなくて死ぬかもよとか保険のアレで加入後3年以内に自殺したらナシだよみたいな、法律で説明しなきゃいけないことになってるから一応言っとくけどねみたいな通り一遍の説明、別に聞き流しとけばいいのにいちいちつっかかるやつなんなん。
パソコンにソフトをインストールするときに説明読まずにはいはいはいとクリックするのに慣れてる世代だから保険やら同意書やらのアレを聞き流したり読み飛ばせたりするのか?それに慣れてないババアだから死とか自殺とかいう単語にびっくりしちゃうのかな。
説明聞くのだるいからそんなのさっさと飛ばしてくれよと思うし、仮に万が一のことが起きても、そんなもん万が一にすぎないのだから説明聞かなきゃいけないダルさが優って、いいからよお、訴訟起こしたりしないからさっさとやってくれよと思う。
今年になって株価がずいぶん下がったところで「もうそろそろ上がるんじゃないの?」と思って買ったクチだから、ギャンブルの一種といって差し支えない。つまり経営者には何の文句もない。ちなみに株主総会自体、行くのが初めて。問題のある会社の株主総会だからこそ、面白そうで行ったのだ。
株主総会とは、株主と称される人が経営者と称される人に対する愚痴を言い、通り一遍の説明やおわびを返して受け流す儀式なのだな、と理解した。
株主の主な意見のひとつは、「経営者側の再建に対する意気込みが感じられない」というもの。まあ、俺にとってはそんな精神論はどうでもいい。
他に「経営者は無能だが、従業員に責任はないので、雇用は守ってほしい」という意見も多かった。従業員の持株会がまあある程度議決権をもっているので仕方がない。これも俺にとってはどうでもいい。確かに経営者は無能なのだろうが、生え抜きの元従業員を経営者にしてしまう日本的慣行の結果なのだから、従業員を路頭に迷わせないため雇用を守れという話と根は一緒である。経営者もバンバン切って外部の経営のプロを入れ、従業員もバンバン切って経営再建してくれたほうが俺にはありがたい。雇用を守る社会だからこそ、無能な経営者も生まれているのである。まあ、ムダに従業員をクビにして社会不安が助長されたりするのは嫌だけど。
俺の経営者に対する希望は、株価を上げることだけ。高度な技術や防衛の技術が海外に流出する懸念があるとかなんとか言って、モラルハザード的な政府支援でも勝ち取ってくれれば万々歳。以上、株主総会【見学】レポート。
周りにもゲーム好きな人間はあまりいない(と思う、話題にしないだけかもしれない)。
だから、任天堂がゲーム業界の中でどんなポジションにあるのかとかゲームユーザーからどういう評価を受けているかとか、
ただ、はてな匿名で任天堂について熱い書き込みをしている人が多いことを見ても社会的な関心度がとんでもなく高い会社
であることは分かるし、「社会的な関心度がとんでもなく高い会社だとみんなが思っている」会社なのは確かなので株の売買はしている。
短いスパンで傾いたりしない(であろう)会社の中ではボラリティの高さは捨て難いものがあるし、何かきっかけがあった時の
信用で目一杯とかさらに二階建てとかは考えただけで恐ろしくて無理。
このへんが素人たる由縁なんだろうな。
過去の取り返しのつかない事への後悔と、将来への漠然とした絶望とで頭がいっぱいになる。頭の中に、後悔の記憶と絶望の予測が洪水のように流れ続けている。いつもいつも、休み無く。自分の脳はノイズが大きい役立たずな幸せ探知機だ。今現在に良い事があっても、普段の後悔絶望ノイズに掻き消されて何も検知してくれない。とてもつらい。息がつまる。人間として人間の思考回路をもって生きることを辞めたい。
こういうことを知人に言えば、お前それは鬱病だから病院へ行けという。しかし、そんな事ではない。なぜ他の人には理解してもらえないのだろう?他の人は、苦しくなりはしないのだろうか?自分のこれは病気などではない。ただ、生きる苦しみが強すぎるんだ。
仮にこの苦しみを病気だというなら、もう一遍、赤ん坊からやり直すくらいしか、治療法などないだろう。生まれ直せないなら、この苦しみから解放されるためには死ぬしかないのかもしれない。本当は幸せに生きたいけれど。27年も幸せを求め続けて得られなかった自分には、無理そうだ。
この痛くて苦しい感情と、絶望的で出口のない思考回路を、誰か分かってくれるだろうか?どこかに自分の仲間がいるのだろうか。教えてほしい。
そりゃ部下が反抗的な態度示して来たら評価下げたくなるっていうか下げるからな
自分の気持ちとか感情を切って法人視点で何が必要か何が不必要かで意見の対立があるのは
すごく好ましいことだと思うしそれを会議でまとめられれば会議の意味が出てくるけど
文化的にもう上の言うこと聞くだけとか派閥争いで会社としてのベストを選べない状況が続く現場をみると
もう潰れてもいいんじゃないかな?とかいい加減同席してる方としても馬鹿らしくなる
あんたら何が目的なのか一遍、紙に書いて声出して全員で読めと言いたくなるが既に手元の紙に書いてある
頭抱える
中の人間は中の人間で言うとリスクがあるから言い出せなくて困るなあって顔するしかない
それで最終的にはやる気のある人から辞めていく