何年も鬱病で苦しんだ。
数年前にそれが行き着くところまで行って、まあ初めてではなかったけれども、自殺未遂、救急車で運ばれて気が付けば集中治療室、その後入院、と、散々迷惑をかけ心配をかけ。
退院はなんとなくヌルッと決まったような感覚だった記憶があって、その後どうなるんだ自分の人生、と思ったけれども、失業給付やアルバイトで食いつないでいる間にたまたま決まった仕事が妙に性に合ったようで、働き始めて二年を待たずに服薬が必要なくなるところまで回復した。病院に通わなくなったのは十年以上ぶりのことだった。とてもラッキーだったと思う。
もともと創作活動が好きだったのだけれども、鬱病が酷い時には創作どころではなかったので、何年も遠ざかったままだった。でも回復するにつれ自然に創作に向かうエネルギーも湧いてきて、たまたま外的なタイミングも合って、創作活動を再開し細々と行うようになった。
才能が無いなんてことはとうの昔に痛感していたので飽くまで趣味としてではあるけれども、趣味なりに本気で何かを創る感覚は久しぶりで、刺激的で、仕事やプライベートでうまくいかないことがあっても、創作が自分の支えになりつつあった。
評価は全然されなかった。自分の力では無理も無いと思う。年齢的な面もあって、年甲斐もなく何をやっているんだと思われていた節もある。でも本当に近しい人たちには、自分にとって創作が如何に大事なものかはわかってもらえていると思っていたし、そのうち少し良い作品ができたら、それなりに喜んでもらえるんじゃないか、なんて甘い考えを抱いていたりした。
とある賞で、予選を通過した。それなりの規模で行われている賞で、そういった機会で選ばれた経験が自分には無かったので、予選通過者なんて他にたくさんいたのだが、それでも嬉しかった。励みになった。それなりに浮かれてしまって、今となってはとても恥ずかしい。
そんなに盛り上がるなんてことを思っていたわけでもないけれど、七転八倒していた自分を知っている古い友人、近しい人々は、喜んでくれるんじゃないかと思っていた。でも甘かったらしい。
何の反応もなかった。何も。無理もないか、予選を通っただけだものね。作品のクオリティや方向性だって、まるで誉められたものじゃなかったのかもしれない、こんな自分の創ったものだから。
それでも、そうかここまでちゃんと形にできるところまで回復したんだね、今はやりたいことをやれてるのか良かったね、って喜んでくれる人もいるかと思っていたんだ。作品はまだまだ全然だけど、創れるようになったってことは本当良かったよ、なんて言ってもらえるんじゃないかって、思っていたんだ。
創る側の人間からしたら、ネガティブな評価もそれは勿論怖いけれど、評価が無いこと、誰からも無視されることがどれだけ恐ろしいか、身に染みてわかるんじゃないかと思う。それをわかっているはずの友人たちも、何のフィードバックもくれなかった。
コメントすることも憚られるほど作品が酷かったのか、気を遣って労いの言葉をかけることも煩わしいほど自分が嫌われていたのか、それともその両方なのか。何にしろとてもショックだった。とても。
他にすることも大してなかったんだけど、でもそれなりに色々なことを諦めたり犠牲にしたりしてなんとか形にした作品が、手元にある。でも結局誰にも届かないんだろうな。酷評にも値しない作品。
それでも自分が今死んだら、友人たちは葬いとして一応は作品に触れてはくれるだろうか?それなりに美化して、通り一遍でも褒めてくれるだろうか?
そんなことばかり考えている。作品が認められないこと、無視されることの苦しみに耐えることが出来ないなら、創作なんてする資格も無いのだろうけれどもね。そもそもちゃんと力があって、評価に値する作品が創れるならこんなことにはならない訳で、文句を言う筋合なんてない、こんなことは言ってはいけないんだろうなってこともわかっています。だから自分は駄目なんだ。趣味でこんなに消耗するなんて、バカだなあ。本当にバカだ。人生にはもっともっと大切なことがたくさんあるはずなのに。でもバカだから、もう死んでやろうかという気持ちになる。バカだなあ。
ていうか友人いるやん・・・ 俺そんなんいなくなって随分たつよ
諦めろ お前にはもう自分しか自分自身を抱きしめてくれる人間は存在しない 他人に期待するな
同じように創作やってる友達作りなよ 反応が欲しいって創作者の気持ちは、創作者しかわからんものなんだよ
ええ・・・ お前創作してないんじゃ?
大人になったら商業性のない創作物に反応してくれる人って自分も創作してる人しかいないよ。そこにクオリティや仲のよさは関係ない。 世の中の人は絵とか文章とかに想像以上に興味...
世の中の人は大抵ちかくで花火やってたら窓あけて空見たがるけどな