はてなキーワード: ポピュラーとは
だが今回の西浦みかん大使のイラストが叩かれた時のオタクやラブライバーたちの反応は、決して俺が期待していた通りの反応ばかりでは無かった。
「これのどこが性的なんだ、そんな描写はどこにもない」という趣旨の反発の声が少なからず存在しており、その一点張りなのだ。
しかしこれは非常にぜい弱な論の立て方だ。
私見を述べさせてもらうと、あのイラストの高海千歌(キャラの名前)の描写で用いられているスカート中央部の影はボディーラインを強調するための技法であり、「セクシーに見せるためのもの」でしか無いのだ。
あれはスカートが太ももやお尻・股間のあたりに密着してるかのような印象を与えるのでキャラをセクシーに見せる技法としてはわりとポピュラーなものだ。
写実的に誤っているかどうかはこのアートの世界では重要ではない。事実アートとしてこの表現技法が優れている事は今回のフェミ方面の反応からしても明白である。効果があるのだ。
これはここ10~20年以内に生まれた技法のはずだと俺は見ている。発祥はアニメ方面ではなくギャルゲ方面なのではないだろうか。
ただし、ラブライブに限らずプリキュアやセーラームーンでもコナンでも何でも良いのだが、ああしたアニメで用いられている塗りはいわゆる「アニメ塗り」と呼ばれるものなので、極度にデフォルメすることを求められるアニメ塗りの世界でそれをやるのはちょっとした技術的挑戦だと俺は思うのだ。
人体のみならず影すらデフォルメされるアニメ絵において、グラデーションという概念は殆ど無いのである。むしろ影の濃度に3~4パターンもあるのは丁寧な部類と言えるのだが、ギャルゲは元々そういう複雑な描写でやってきたジャンルなのでスカートにボディラインを強調させる技法は比較的容易だと言えるのだ。
だけどラブライブの場合はそうはいかない。1パターンの影であれを表現しようとする場合、必然的に高海千歌のあのスカートのような影になるはずだ。もう少し影を分散させればまた話は違ったかもしれないが、それはアニメ塗りの文法としては美しく無いものになってしまうためあれで押し通したのかもしれないのだ。
(「透けている!!」という反応があったのは俺もぶったまげたが)
いずれにせよあれはアニメ塗りの世界にギャルゲの技法を取り入れようとした技術的挑戦の産物だと俺は思ってる。製作者はキャラをセクシーに見せるためにあれを描いたのだ。オタクやラブライバーはイラスト界隈のそうしたトレンドを知った上で、今回はあれを性的だと認めよう。
俺が言いたいのは、オタクやラブライバーが取るべきは「性的ではない」という論ではなく「性的かもしれないが深刻な実害が無い・予想されない以上は潰すな」という論で統一するべきだという事だ。
そこまでムキになって性的ではないと強弁すればするほど不安になる。それってそいつは「性的であれば潰されても仕方ない」って考えてるかもしれないってことよね?
それでは表現を潰したがっている連中には絶対に立ち向かえないのだ。
これは何もエロに限らないよ。BLでも暴力表現でも差別表現でも同じ事が言えるよ。「バイオレンスだが潰すな」「差別表現だが潰すな」が言えないとダメなんだ。そうでないと必ず「市民」や為政者の餌食になるよ。
お鍋にジャガイモ入れようとした見たけど、
どれがインカの目覚めなのかわからなくて、
とりあえず、
メイクイーンを皮剥いて炊いてみたら
案外煮崩れしてなくて美味しく頂けましたって言われても訳分からないわよね。
要は私は煮崩れしにくいジャガイモを探していて、
髭男でお馴染みの男爵イモやないかーいって思わず言ってしまいそうだったわ。
色々とジャガイモに詳しくなったわ。
以前私がお庭で育ててたジャガイモって
そう言えば品種なんだったんだろう?ってすっかり忘れてしまっていて、
でも美味しく蒸かして頂いたってことは覚えているのよ。
そう記憶に残るというより記録に残るジャガイモだったんだなーって。
掘った朝採れジャガイモは、
そりゃ美味しかったわよ。
何かの料理にして食べてやろうかと思ったけど、
北の大地じゃないプランターでもない土の袋にそのままに種芋を植えた、
ジャガイモ初心者には袋植えはわりとポピュラーな育て方なのよね。
ヒマがあったらそうね、
またジャガイモとか育てて作って煮てさ焼いてさ食ってさ、
そう言うちょっとしたスローフードをファーストに手早く作ってみたいところで、
意外と何も考えない、
大雑把な料理でもきっと美味しいに違いないのかなって思うの。
我田引水の術を使い、
地消地産の術もあわせて使い、
あれなんだったけ?あの言葉、
えーっとあれあれ自給自足!
家族必要な分どれぐらいの畑の広さがあればいいのかしら?って単純に思っちゃうのよね。
うちのベランダだけじゃ、
自分一人分でもまかなえないわ。
そう考えると農家さんってスゴいなと思うし、
ジャガイモの美味しさをしみじみと味わったら
思うところたくさんあるのよね。
これを機に追いジャガイモしようかしらと、
また鍋に投入しそうよ!
鍋だからって固定概念の塊みたいな具ばかりで構成するあーせいこーせいって鍋の奉行が言いそうな
難しい鍋は誰だって嫌よね。
ぶち込んじゃって炊いていただく鍋が美味しいんだわって
最近気付いたのよね。
ああこれが本当の鍋の楽しさなんだ!って
でも味はいつもミツカンのポン酢に頼っちゃうところがあるから、
ネックだけど!
美味しくて鍋やお酒も進んじゃいそうなほどなのかもしれないし、
よくよく考えてみると、
いやいや鍋だからってそこに濃厚さは求めてないの、
あっさり目でいいのが好みなんだけど。
華麗なるジョブチェンジを、って思うの。
でさ細かい話になるけど、
これが一体本当は
逆はもう出来ないわよね!?
なんか昔遊んだゲームも新しく訪れた街の武器屋でやっと強力な武器をゲットして、
「早速装備するかい?」なんて武器屋のマスター言ってくれるじゃない!
「何かいいことあったんですか?」ってそれは飲み屋のマスター!
切れ味を試そうと思ったけど、
一番強かったのは両手フライパン装備で敵を殴るのが一番強いというオチ。
何のためにゴールドを貯めてその街で一番高い武器買ったのよ!って。
あるあるよね。
またリピして鍋するわってお話でした。
違う違うポン酢を変えるって話しだったわね!
うふふ。
そう言えば家の炊飯器ご飯久しく炊いてないのもう2年目ってところかしら?
今年の目標として家で飯を炊く!って言いたいところだけど、
玄関を空ける前の2分まえに出来ているあのレンチンのご飯が便利過ぎて
ちょっとした小食には便利なのよね。
野菜からじゅわっと溶け出したスープストックのホッツウォーラーなんか考案してみたらクックパッドかもしれないわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
性別を理由に自分の身体を自由に出来ない社会的制約はほんとうに世の中を息苦しくしていると思う。
俺はLGBTではなくストレート男性だが、スカートの開放感はとても羨ましいし男性がボトムに履くものの選択肢がズボンに限られているのは不便だとも思う。
スカートは数ある問題のたったひとつの例に過ぎず、下着に関してはさらに事態は深刻である。
ふとももを覆わない形の下着は女性には非常にポピュラーなものであり、動きやすさからしてもたいへん理にかなっているのだが、こと男性向けにおいては過剰なセクシーさ、もしくは白ブリーフへの連想から幼稚に見られたりと、社会的にはまず許されないものと見なされている。
男だって快適さを追求しツルツル生地やビキニ下着を着用することを受け入れられる社会にならない限り、男性は解放されたとは到底判断することは出来ない。
表現の不自由展騒動がきっかけなのか、最近「アート」に関する勘違いを頻繁に耳にする。
とりあえずポリティカルなことや特定の展覧会や人物の動向は抜きに、アートに対して人々が抱いている勘違いを淡々と正してみる。
文章が読めない人向けに繰り返すが、別に「表現の不自由展」など特定の展覧会や作品の是非について語っているわけではなく、人々が抱く「アート・芸術」に対する先入観について語っている。
前史時代から近現代に至るまで、金銭や作品発表場所など、なんらかの「補助」なしで歴史に刻まれた芸術作品や芸術家はいない。
「補助」は大まかに分ければパトロン系、政府系に大別されると思う。
バッハ、ミケランジェロ、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ…今も知られる芸術家のほとんどは貴族や王族の庇護のもとにあった。特に有名なのはメディチ家。かなりの数の美術作品がメディチ家の庇護のもと、もしくは依頼で作られている。
モーツァルトのようにフリーの音楽家に転身した例もあるにはあるが、彼ですら転身後、晩年は困窮していた。それどころか、主な収入源はやはり貴族などに委嘱されて作った楽曲によるものだそうだ。
現代だと、欧米では自らの作品を売り込んでファンドを得る、ほとんどビジネスマンみたいなアーティストが多い。ビシッとしたスーツに身を包み、自らの作品に新たな価値付けをして売り込む姿は、ベンチャー起業家のそれと変わらない。
こちらは王政・封建制より後の政治体制下の芸術に対する補助。大まかに分けると、プロパガンダ芸術と、政治思想のない(あるいは薄い)経済的補助がある。
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政治思想とは一定の距離を置いた経済的補助で、一番大規模かつ有名なのはアメリカが1930〜40年代に行った「連邦美術計画」だ。ニューディール政策の一環として、政府が数千人から1万人単位でアーティストを雇い、パブリックアートの制作などをさせるというぶっ飛んだ規模の政策である。
因みに「連邦美術計画」の効果は凄まじいもので、その後巨匠と呼ばれることになるようなアーティストを多数輩出し(ポロックやベン・シャーンなど)、抽象表現主義などのアメリカ発の芸術運動がバンバン興った。
それまでヨーロッパ中心だったアートシーンは、この時代の前後を境にアメリカに移ることになった。さらに因むと、未だにアートシーンの中心はアメリカである。その市場規模は、世界のアート市場の5割弱を占め、日本円にするとおよそ3~4兆円。しかも年々拡大し続けている(参考までに、日本の美術市場は2,000億円強 / 中国は1.5兆円弱)。
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一方、プロパガンダ芸術で有名なのは、ソ連やナチスなど。政府の意向や政治思想に沿った作品を、政府が補助して制作させるというもの。作られた作品は政府の思想を広める宣伝ツールとして使われることが多い。
上述した政治思想とは一定の距離を置いた経済的補助とは違い、題材やテーマなどは厳密に決められており、メディチ家などのパトロンの元での芸術活動に少し近いかもしれない。
ただ、これらの政府の体制下で作られたプロパガンダ芸術は、今のところ芸術としてはあまり評価はされていない。
あくまで個人的な見解だが、プロパガンダ芸術はその性質上大衆向けにならざるを得なく、どうしても前時代的なものになってしまうのが要因かと思われる。 ※ グラフィックデザインなど、一部評価されている分野もある。
なお、これらの国では、現代アート・前衛芸術は「退廃芸術」として弾圧の対象となっていたことも言及しておく。弾圧されたアーティストがアメリカに渡り、祖国に残ったアーティストを横目に名声を得たという例はかなり多い。
上述のようにプロパガンダ芸術にあまり価値が見出されていない現状を考えると、一見正しい意見に思える。
だが「20世紀を代表する作品の一つ」とまで言われる、ピカソの「ゲルニカ」をはじめ、政治的なアティテュードを有する芸術作品は意外と多い。
現代であれば例えばバンクシーは思いっきり政治的な作品で知られるが、今やアートシーンにはなくてはならない存在だ。
文学・音楽・映画にだって、政治的な意味合いが強い作品はたくさんある。
「政治色をもつ作品はアートじゃない」という言説は、「ジョン・レノンの"イマジン"は政治的なメッセージがあるから音楽じゃない」と言ってるのに等しいのだ。
むしろ、現在享受されている芸術作品で、大衆向けに作られたものはあまり多くはない。
バッハ、ミケランジェロ、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどに代表されるような近代以前の巨匠たちは、先述の通り貴族や王族むけに作品を作っていた。そもそもが一般大衆向けの芸術ではない。
同時代の大衆向け芸術だと、例えば音楽では吟遊詩人が酒場で歌うリュート曲とかがあるが、現代でも聞かれているかといえばNOである。もちろん、歌舞伎やケルト音楽など、現代まで残っている大衆芸術もあるにはあるが、近代以前の大衆芸術のほとんどは淘汰されている。
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今現在大衆に受け入れられるアーティストでいえば、おばちゃんが大好きなモネは発表当時ヘタクソだの何だの批判されまくったし、今や知らない者はいないゴッホはご存知の通り作品が1枚も売れないまま精神を病んで死んだ。ストラヴィンスキーやジョン・ケージなどは、初演で暴動間際になったことだってある。
これらの例から、むしろ後世に残る作品は、同時代に生きた大衆の感覚からはかけ離れていたことが分かる。でも、モネは今や企画展の花形だし、ストラヴィンスキーはバレエ曲の定番だし、ゴッホの絵を見ては「俺の方がうまい」とか宣うおっさんは美術館の風物詩だ。どの分野に関してもそうだが、専門性が高くなればなるほど、大衆の感覚はあてにならなくなる。自分の感覚と相容れない現代美術作品を「こんなの芸術じゃない」と一蹴することは自由だが、それらの作品は100年後にはもしかしたら現代におけるモネのように広く受け入れられているかもしれないのだ。
かつて相対性理論が発表当時「完全に理解できるのは世界で数人しかいない」と言われていたのに、(専攻科にもよるが)現在では大学で習うのと似ている。これまでの価値観をひっくり返すような価値のあるものは、常人には理解できず、時間をかけて少しずつ受け入れられていくものなのだ。
この問題については、未だ現代美術に大きな影響を与えているグリーンバーグという美術評論家のおっさんが書いた「アヴァンギャルドとキッチュ」っていう論文が分かりやすい。
この論文は、日本語訳もされているし、原文はインターネットでも読めるが、大衆の感覚と芸術作品の価値の乖離について論じている。要するに、「大衆に迎合し消費される美術」と「前衛的な美術」ならば、後者の方が価値があるっていう内容だ。
80年前の論文なのだが、芸術分野では未だに影響力が大きい教科書の一つ。とても短く、すぐ読み終わるので、興味があればぜひ読んでみてほしい。
作品の題材として「裸の女性」というのは時代を問わずポピュラーだが、19世紀までは神話や聖書の出来事以外で裸体を描くことは不道徳とされた。端的にいえば、不快であり、公序良俗に反するとされた。
実際、マネによって描かれた「草上の昼食」や、裸体の売春婦を描いたとされる「オランピア」は発表当時大問題になった。「現実の女性の裸を描くなんて、淫猥である!不道徳極まりない!下品なメスゴリラを描きやがって!こんなのはアートではない!」というわけだ。
しかし、どちらの作品も今やマネの代表作。オルセー美術館に収蔵されていて、後の時代の芸術家からはオマージュの対象とされるような絵画として扱われている。
一例を取り上げただけだが、時代を問わず同じような現象は枚挙に遑がない。
簡単にいえば、写真が実用化された時に「じゃあ写真でいいじゃん」ってなった。「写真と絵画は違う」という考えに立脚し、ある時点でそれぞれ全く別の路線を歩むことにしたのだ。
で、モネみたいに空気感を描く作家や、セザンヌやピカソみたいに多視点的にものを捉えて一枚の絵に表現する作家が登場した。これらの手法は写真では(簡単には)表現できない。要は「写真じゃなくて、絵画だからこそできる表現」というものが重視されていくようになった。
そして「じゃあ絵画の価値ってどこにあるの?本質って何?」って突き詰めていった結果、「絵の具じゃね?」という話になり登場したのがポロックなどの抽象表現主義。「コンセプトじゃね?」という話になり登場したのがコンセプチュアル・アート。特に後者の現代美術への影響は色濃い。
もちろん、写真のようにリアルな作品に価値がないわけじゃなく、スーパーリアリズムのような動きもあった。ただ、20世紀以降のほとんどの芸術家は、「写真みたいにリアル」であるかどうかとは別の土俵で表現をしていることは知っておいてほしい。アーティストにとって「写真みたいリアルですごい」というのは必ずしも褒め言葉ではないのだ。
分かりやすさを第一に書いたので、表現が正確ではないところもあるし、時代的に前後したり乖離していたりもするが、だいたいこんな感じ。
文章中でも少し触れたが、アメリカや中国、欧州と比較すると日本の美術市場はかなりちっぽけだ。国内でアートがよりよく理解され、シーンが活性化することは、大きなマネーが動く「市場」を生み出すことにも繋がる。先述の「連邦美術計画」などは、政府が美術に注ぎ込んだ「補助」に対して、「年間3兆円強のマネーが動く市場」という計り知れないくらい大きい対価をもたらした。アートにはそんな力があるし、前衛を受け入れる懐を自ら作り出したからこそ、現在のアメリカの立ち位置がある。兆規模の市場から得られる税収は、控えめに言ってもバカにできないはずだ。
アートの受容と活性化は、普段アートに触れない人にも価値がある。少しでもみんなのアートに対する誤解が解けることを願ってやまない。
正直あいちトリエンナーレ関係のニュースは補助金関連の辺りから食傷気味であえて距離を取っていた。
Chim↑Pomが炎上してるってのをネットで見ても、「まぁ元々ある程度炎上商法的な立ち位置だしな…」と思ってしまったのも事実だし、「被曝最高!」「放射能最高!」の文字列が並ぶニュース記事を見て、「あぁこれだけ見れば物言いたくなる人がいて当然だな」とまず思った。
昨晩のTBSラジオ「session22」のOPにリーダーの卯城さんが出演し、作品の意図と、「気合100連発」の音声がO.A.されていた。
https://twitter.com/session_22/status/1182282259946041345?s=21
帰りの車中でこれを聞いてて初めて詳細を知ったんだけど、自分は正直なところ、分別のつく人ならこれを福島ヘイトと捉えるわけがないと思った。
悪意のある誤読や切り取りか、ニュースの見出しだけ見て判断してしまったのでない限り、作品を鑑賞した上でそのような感想を持つことは考えにくい。
…と思っていたんだが、卯城さんが表現の自由について至極真っ当な「正論」を話しているのを聞いていると、この数年来感じていた違和感が思い起こされてしまった。
あえて手垢のついた言葉を使うが、その正論はどこまでいっても「リベラル」な正論なのだ。
ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか』とダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』の議論を下敷きにすれば、保守はシステム1に、リベラルはシステム2に主に訴えかける主張だ。
リベラルな言論空間は、徹頭徹尾システム2で考え抜いた言葉が要求される。
要するに、面倒臭いのだ。
フェイクニュースの流行やトランプ以降の世界は、「ネット空間で誰もが発言できバズを狙えるようになったことで、個人の承認欲求がこの『面倒臭さ』を圧倒してしまった」ということで、かなりの部分説明できると個人的には思っている。
ただ、アートを含めた文化全般の価値を信じ抜きたい人間としては、その面倒臭さ(=作品の文脈や、各カルチャーの歴史を調べた上で作品に接する態度)を軽視する風潮にはどこまでも抵抗していきたいと強く思う。
文脈を一切排除した現代アートは語義矛盾だ。20世紀以降の芸術はそれまでのスタンダードを破壊することに拘泥しすぎたきらいはあるが、作品の意図を読み解くためには、19世紀までの西洋美術の功罪を知ることが必須だ。
これはクラシック音楽のスタンダードからの脱却を図った現代音楽を聴く際にも求められる態度だ(クラシックの素養なしにサティやストラヴィンスキーやシュトックハウゼンを十分楽しめる人はまずいないだろう。)。
またそれは、パンクの登場が世間に与えた衝撃を知るためにはロックの誕生からプログレ・商業ロックに至るロック史を知る必要があり、エルヴィスが世間に与えた影響を知るためには19世紀末以降のアメリカのポピュラー音楽史を知る必要があるのと同じことだ。
それはとても面倒臭くて時間がかかる作業だ。しかしその作業なしに、過去を顧みることなしに、創造は有り得ない。
ポピュラー文化は人口に膾炙してこそ文字通りポピュラーになるわけで、文脈を知らない人を巻き込んでいく必要性のためにこの桎梏を抱えざるを得ないわけだが、情報が溢れる現代においてはその困難さの質が極めて短期間で変容してしまうように思う。
ただ、文化が社会の発展に寄与した功績を理解できる人ならば、こうした時間のかかる作業がマネタイズできない時代においてこそ、その価値が保全される必要性をひしひしと感じているのではないだろうか。
例えば客が来るように店の外に料理の焼く匂いが出ているみたいな、そういったことを表したカタカナ語。英語かどうかはわからんけど。ああああああああああああ気になって寝れん。シズル感じゃなくって外連味じゃなくってあれだよあれ!!!!!!!ほら!!!!!
追記:
もしかしてそんな言葉は存在しないのか……?俺は存在しないものを思い出せなくてモヤモヤしていた…?そんなバカな……
追追記:
完全にわかった。俺はシズル感のことを言いたかったんだ。でもググッたら意味が微妙に違うように感じてシズル感ではないと思い込んでしまったんだ。正解が正解だとわからなかったがために迷宮に陥ってしまったんだ。とっくのとうに答えは出ていたんだ。お騒がせしました。
最近この弁を旭日旗規制派が唱えているけれど、これはただ統計的に当然の話だよね。
5000万人中の100人だろうが、1億2千人中の1000人だろうが誰かが何かを問題視し続けることはできる。
十人十色と言う世の中、どんな少数でも異端と言えるものでも存在してる。
オウム真理教だって存在したし、その流れを汲む団体も未だに存在してる。幸福の科学だって本当馬鹿らしいけど存在している。
日本には東京裁判は不当だと言い続ける人たちがいるけど、これを「日本は東京裁判を問題視している」と言えるか?
奇誠庸以前の旭日旗は、韓国人自身も身にまとったりデザインを使ったりポピュラーに使われていた。
そこに旭日旗を問題視する団体が注文をつけていた。その程度のことで、一般的にはとてもじゃないが「韓国が問題視している」と言うレベルのことはなかった。
http://horukan01.blog.fc2.com/blog-entry-4573.html
従ってこの話に縋ってる旭日旗規制派の弁は詭弁に過ぎないし、「昔から韓国は旭日旗を問題視している」と歴史修正してまで旭日旗を政治的にヘイトの象徴として仕立て上げたいのだなと理解する。
アナニーは結構ポピュラーになって、エネマグラだとかメスイキだとかという単語を知っている人も多くなったね。アナニーでスゴイ快感だとかいう感想を見て、自分も体験したいと思っている人もいるだろう。しかし、実際にやってみるとただ痛かったりするだけで、いつまでたっても全く良くならない人も多いのではないか?その違いを教えよう!そして、短期間でアナニーをマスターして、さらに上のドライオーガズム、エナジーエクスタシーまで行くコツです。それが出来るかどうかは、(受け入れる)という感覚になれるかどうか?だけなのです!
簡単な様で、男はこれがなかなか出来ないのよ! 男の性エネルギーは、興奮からスタートする。これは、だれもが良くしっているよね。女性の裸を見て興奮し、ペニスが勃起して、腰を激しく動かす、そして、高まった性的興奮で射精する!これが男の性エネルギーのプロセスなの。でもこのエネルギーでアナルを弄くると痛いだけなのよ! 何故なら、アナル(前立腺)やその奥の性感帯を含めた腸は、興奮では無く、(リラックス)で快感を得る様になっているのよ。その証拠が大便の時の感覚なのよ。大便した後は、スッキリするでしょ。あれがリラックスなのよ。逆にストレスが多いと便秘になるのよ。腸はこのストレスとリラックスの間で動いているのよ。腸がリラックスの時に脳には快楽反応が行くようになっている。それを知った上でアナルを開発すれば、短期間でどこまでもいけるのよ。
まずは快感を求めるより先にアナルのリラックスを覚えるのが先だね。初めての人は、エネマグラどころか小指も入らないくらい、肛門はキツく閉まっているはず。肛門としては当然の反応なのよ。出ていく所から入ってくるな!という感じかな。そんな肛門に(入ってくる)事に抵抗を無くすようにするのが最初なのよ。だから、最初のアナルオナニーは、ペニスをいじりながら、アナル表面とアナル全体を押し込むマッサージでアナル周辺の筋肉をほぐす事で快感が出てくる事を覚える事かな。ペニスの興奮とアナルのリラックス、このコンビネーションが最高のエクスタシーを得るコツなのよ。
だんだんアナルの筋肉が緩む事を覚えてくると、今度は、指をアナルに入れて、同じ様に筋肉が緩くなるまで、毎日続けていくのさ。だんだん2本、3本と入るようになってくるよ。
素人は直ぐ前立腺の快感を求めようとするけれども、最初は、このアナル入り口をいかに緩めてリラックスさせる快感を楽しむのが先だよ。入り口も気持ちいいんだよ。まあ、入り口だけの場合は、ペニスも一緒にイジらないと気持ち良くないのだけども。ペニスだけの何倍もの快楽があるよ。ペニスは(興奮)、アナルは(リラックス)。この2つの感覚を操る事が出来る人だけが、その奥に進む資格があるよ。
東京大学大学院の講義「問いを立てるデザイン」で細胞培養による人工肉に関する様々な課題を取り上げる講義を受けた。講義のテーマは、人工肉を培養する際の技術的な側面と、その倫理的な観点(たとえば、培養した生命を頂くことはありなのか?など)であった。個人的にも、「試験管で培養したお肉はなんか嫌だな〜」といったところである。とはいえ、講義内でも説明があったが、今後も我々が安定してお肉にありつけるとは限らない。世界の人口は増えていくし、その一方で、畜産従事者は減る一方。そこで、お肉を我々が安定的に摂取するための代替手段のひとつが、人工肉というわけである。
一方で、栄養バランスの観点から見れば、タンパク質を摂取できれば良いのであるから、必ずしもお肉に頼る必要はないのかもしれない。
タンパク質を得る一つの例として、個人的に昆虫食に注目している。子どもの頃、祖母に作ってもらったイナゴの炒め物は大変美味しかった記憶がある。何故日本人はイナゴをもっと食べないのか。実は、そこを私は非常に残念に思っている。世界的に見ても、昆虫を食する国はアジアやアフリカに多く存在する。数年前に中国の新疆ウイグル自治区に旅行した際は、サソリの揚げ物を提供された記憶がある(見た目の都合上その時はとても食べられなかった)。
そこで、講義の主要テーマからは(大きく)はずれることになるが、人工肉と同じように将来の我々のタンパク源を担うであろう昆虫食を本文では取り上げる。その中から、日本で昔から食べられてきた我々(私だけ?)に馴染みの深いイナゴ料理について、3種類ほど紹介することとした。
(参考 https://cookpad.com/recipe/4246461)
イナゴの食べ方の定番。少し甘みを感じるものが一般的な様である。ネット上の感想を調べると、サクサクして美味しい、エビの尻尾の様だ、と高評価が並ぶ。Amazonでも購入可能な様である。私も食べたことはない。
その2:イナゴの炒め物
(参考: https://www.muji.net/camp/contents/tech/activity/being/d/d103.html)
イナゴを茹でた後にさっと油でカリカリに炒めたもの。私が子どもの頃食べたのはこれである。「これは天然のかっぱえびせんだ!」と思った記憶がある。目を瞑って食べると、とても美味しい小エビの唐揚げと間違えるはずだ、と自信をもって言える。後ろ足と羽根が固くて美味しくなかったので、予め取り除いてから調理することを勧める。
(参考:https://www.narinari.com/Nd/20130521693.html)
6年ほど前に一部で話題となった昆虫食パスタ。なお、提供していたお店はすでに閉店している。閉店の理由として昆虫食が影響しているかは不明である。
人工肉と同様に未来の食材の一つとして期待される昆虫食のうち、個人的に思い出深いイナゴ料理についてここでは紹介した。周りの友人に「イナゴを食べたことがある」「イナゴは結構美味しい」という話をすると、殆どの場合はドン引きされる。だが、ほんの70年前は普通に我々の祖父・祖母が食べていた食材であるし、日本の伝統料理の一つと言っても過言ではないと考えている。また、世界的に見ても多くの人々が食していることから、イナゴは食材としてポピュラーな存在とも言える。個人的な感覚では、我々が昆虫を食べていることを気持ち悪く思う感覚は、日本人が魚や生卵を生で食べていることを「うげっ」と思う欧米人と似たようなものではないかと思っている。要するに、我々も海外の人からすると気持ち悪いと思う食材を普段から食べているわけである。結局これは、先入観、固定観念がすべてではないかと思う。欧米人が生魚ののった寿司を喜んで食べ始めたのはほんの10数年前と思うし、きっと10年もすると、我々も喜んでイナゴを食べているようになるのではないだろうか。
東京大学大学院の講義「問いを立てるデザイン」で細胞培養による人工肉に関する様々な課題を取り上げる講義を受けた。講義のテーマは、人工肉を培養する際の技術的な側面と、その倫理的な観点(たとえば、培養した生命を頂くことはありなのか?など)であった。個人的にも、「試験管で培養したお肉はなんか嫌だな〜」といったところである。とはいえ、講義内でも説明があったが、今後も我々が安定してお肉にありつけるとは限らない。世界の人口は増えていくし、その一方で、畜産従事者は減る一方。そこで、お肉を我々が安定的に摂取するための代替手段のひとつが、人工肉というわけである。
一方で、栄養バランスの観点から見れば、タンパク質を摂取できれば良いのであるから、必ずしもお肉に頼る必要はないのかもしれない。
タンパク質を得る一つの例として、個人的に昆虫食に注目している。子どもの頃、祖母に作ってもらったイナゴの炒め物は大変美味しかった記憶がある。何故日本人はイナゴをもっと食べないのか。実は、そこを私は非常に残念に思っている。世界的に見ても、昆虫を食する国はアジアやアフリカに多く存在する。数年前に中国の新疆ウイグル自治区に旅行した際は、サソリの揚げ物を提供された記憶がある(見た目の都合上その時はとても食べられなかった)。
そこで、講義の主要テーマからは(大きく)はずれることになるが、人工肉と同じように将来の我々のタンパク源を担うであろう昆虫食を本文では取り上げる。その中から、日本で昔から食べられてきた我々(私だけ?)に馴染みの深いイナゴ料理について、3種類ほど紹介することとした。
(参考 https://cookpad.com/recipe/4246461)
イナゴの食べ方の定番。少し甘みを感じるものが一般的な様である。ネット上の感想を調べると、サクサクして美味しい、エビの尻尾の様だ、と高評価が並ぶ。Amazonでも購入可能な様である。私も食べたことはない。
その2:イナゴの炒め物
(参考: https://www.muji.net/camp/contents/tech/activity/being/d/d103.html)
イナゴを茹でた後にさっと油でカリカリに炒めたもの。私が子どもの頃食べたのはこれである。「これは天然のかっぱえびせんだ!」と思った記憶がある。目を瞑って食べると、とても美味しい小エビの唐揚げと間違えるはずだ、と自信をもって言える。後ろ足と羽根が固くて美味しくなかったので、予め取り除いてから調理することを勧める。
(参考:https://www.narinari.com/Nd/20130521693.html)
6年ほど前に一部で話題となった昆虫食パスタ。なお、提供していたお店はすでに閉店している。閉店の理由として昆虫食が影響しているかは不明である。
人工肉と同様に未来の食材の一つとして期待される昆虫食のうち、個人的に思い出深いイナゴ料理についてここでは紹介した。周りの友人に「イナゴを食べたことがある」「イナゴは結構美味しい」という話をすると、殆どの場合はドン引きされる。だが、ほんの70年前は普通に我々の祖父・祖母が食べていた食材であるし、日本の伝統料理の一つと言っても過言ではないと考えている。また、世界的に見ても多くの人々が食していることから、イナゴは食材としてポピュラーな存在とも言える。個人的な感覚では、我々が昆虫を食べていることを気持ち悪く思う感覚は、日本人が魚や生卵を生で食べていることを「うげっ」と思う欧米人と似たようなものではないかと思っている。要するに、我々も海外の人からすると気持ち悪いと思う食材を普段から食べているわけである。結局これは、先入観、固定観念がすべてではないかと思う。欧米人が生魚ののった寿司を喜んで食べ始めたのはほんの10数年前と思うし、きっと10年もすると、我々も喜んでイナゴを食べているようになるのではないだろうか。