はてなキーワード: ニアリーイコールとは
感覚的に「人気のある作品はエロ同人がいっぱい出る」と「エロ同人が作りやすい作品は人気が出る」はニアリーイコールだと思ってた。
ジャンルに興味のなかった人がエロ同人をなんらかの手段で見る→元ネタに興味を持つ、という流れが、馬鹿にならないほど売上に貢献すると思ってたわけだ。
ただ、猫も杓子も艦こればっかり、FGOばっかりだった時期にそれぞれ覇権を取った作品を鑑みて、「エロ同人の人気って……実は作品の売り上げには貢献してない?」と思い始めた。
鬼滅がクソ流行ってた時期、(まあコロナの影響も大だったけど)エロ同人で目につくのはFGOばっかりだったし。
で、今ウマ娘がくっそ人気が出てるけど、ご存じ公式からの自粛要請でエロなんてほとんど見ない。
にも関わらずこの人気。
やっぱりエロ同人って、元の作品を盛り上げるほどのパワーはないのかね。
※
飽きっぽいオタクが半年後もうまぴょいうまぴょいしてるとは思えないけど、少なくともGWに開催予定だったコミケ99が延期しなかったら、全年齢の男性向け二次創作はウマ一色だったんじゃなかろうか。
ヴィーガニズムについてはいろいろ思うところがあるんだけど、とりあえず以下の点については疑問だ。
それにしてもビーガンは極端に思えるだろうが、伝統的にも欧州で言えば修道士、日本で言えば厳格な僧侶は実践すべきと教えられてきたことだ
この部分、ヴィーガンなんて何も特別なことじゃないよー、と印象を薄めるための部分だと思うが、事実は大きく異なると思う。
なぜなら、「あらゆる動物由来のタンパク質を禁止」するようなことは厳格な僧侶ですらしてないからだ。仏陀が悟りを開いたきっかけは「ミルクがゆ」を飲んだことだが、これはヴィーガンならアウトな行動だ。また、欧州の修道士も卵やチーズ、場合によっては魚だって食ってる。せいぜい「通常のヴェジタリアン」レベルである。ヴィーガンの食生活と彼らのそれは、決してニアリーイコールではない。
更に言えば、彼らは「一般大衆にそれを強制する」ようなことはしない。なぜなら、彼らの思想の根っこには素朴な「人間中心主義」があるからだ。それに対してヴィーガニズムの根っこにあるのは、まさにその「人間が中心だろうか?」という疑問だ。ヴィーガニズムが多くの派生的過激主義者を生み、結果多くの人に反発を食らっているのは、実はそちらの顔があるせいだと思う。この点でも、ヴィーガニズムは、歴史の選別を経てきた現生宗教とは大きく異なる。いわば、まだ洗練されていない(危険性のたっぷり残る)宗教なのだ。もっと分かりやすく言えば、残念ながら現時点ではただのカルトだ。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
いい質問だ。
無論、ここでいう“ほぼ同じ”とは、はてな用語に基づいたものである。
君が、ここ匿名ダイアリーや、はてブ等で比喩表現を使ったことがあるのならば、それが私の指す“ほぼ同じ”だ。
ちなみに「+」の部分は「イカスミは美味いが、タコスミは不味い」のとほぼ同じ意味だ。
そして私の答えたことについて君が思考した時間がニアリーイコールとなる。
或いはスマートフォンを使う自分が、それに足りえるスマートさを備えているかどうかだ。
せめてフォンさは身に纏うべきだ。
最近Twitterでバズっている(炎上している?)阪急電車内の広告の話。
月収30万で楽しみor月収50万でしんどいみたいな意図をした広告だったのだろうが
その意図に反してTwitter上では「30万も貰えない、これを作った人は感覚がずれている」という事で炎上。
無論日本の平均年収が432万らしいし、税金やら何やら引くと月収は20万ぐらいだろうか。
広告マーケティングをする上で、ボリューム層であろう層を外しているからこれは確かにいただけない。
しかし、問題はこの炎上したツイッターに「広告代理店や阪急電車はさぞ給料もらっているんだろうな、俺は給料少ないのに」
阪急電車の総合職やトップ広告代理店に入るためにはいい大学出身が必須条件だし、その大学に入るためには勉強という努力をする。
また、会社に入ってからも時間を作って語学力を磨いたりビジネス書を読んだりと常に自分の能力を高めようとしている。
資本主義社会において、労働者は資本を持っている人の労働力となってその対価として給料を貰うと考えると
とニアリーイコールぐらいで置き換えることが出来る。
何故なら最低でも給料以上のお金を稼がないと、会社が成り立たないからである。
しかしたいてい、そのような文句を言っている人のツイッターを見ると
愚痴で染まっていたり、おもしろ画像をリツイートばっかりしてて傍から見て全く向上心が無いということだ。
給料が少ないことに文句を言うのならば、少しでも自分の能力を高めようとしたらどうなのかと思う。
漫画とか買うよりも、900円でTOEICの単語帳買って、6000円でTOEICの試験受ける方がよっぽど能力を高めることが出来るだろう。
ここで「仕事で英語なんか使わねーよ」って思った人は、もうどうしようもないと思う。
英語力が給料に直結するとは思わない。勉強したとこで将来給料が上がる保証もない。
ただ、語学力があればなんらかの可能性は間違いなく上がる。これが給料であったり昇進であったり転職であったり。
そんな努力もやらずに、ただ仕事終わって酒飲んで寝て「給料少ない」とか馬鹿の極みである。
これが自分なりの美学を持っていて「給料は確かに見劣るけど、休みが取れるので満足」
とこのような感覚を持っている人は地頭というか賢い考え方だと思う。
何回言わせるんだよ
「誰かのお気持ちに配慮」とか「思いやり」とかいうの自体、「別の誰かのお気持ちを踏みにじる」「別の誰かから一方的に譲歩を求める」こととニアリーイコールじゃねえか
所詮は席の取り合い、リソースの奪い合い、血の代わりに涙を流す闘争でしかない
感情論と感情論、お気持ちとお気持ちが妥協の余地なく正面からぶつかったらそれはもう相撲のようなもので、どちらかに軍配を上げるしかない
どちらかを一方的に聞き入れて、どちらかは価値がないと切り捨てるしかなくなる
量産機が沢山出てくるリアルな戦争アニメと持て囃されてはいるけど、主人公ロボが主人公というキャラクターと半ば混じり合ったものである事を卒業することは結局できなかった。
諸星ダンが変身するウルトラマンや、本郷猛が変身する仮面ライダー1号のようなポジションを脱することが出来なきゃ結局はキャラクター物アニメでしかないわな。
Vガンダムになってようやく主人公機と主人公がニアリーイコールではなくなったけど、それも微妙なラインではあるよな。
V2アサルトバスターが真にV2アサルトバスターとする事ができるのはやっぱウッソ・エヴィンだしなあ。
キャラクター物でありながらリアルであろうとしたのが凄いってなら分かるんだが、どうもガンダムオタクの皆さんの褒め方はちょっと違うようで何ともモヤモヤしますなあ。
いやマジでガンダムなんぞと比べたらガルパンのがまだリアルよ?
日本が衰退してる一番の原因は「ブラック残業の横行」なのではなかろうか。
若者が子供を作らない、車を買わない、これらの原因は、企業がブラック残業により若者の時間と金を無制限に吸い上げているからだ。もしも残業代が満額払われるようになれば、出生率は確実に回復する。
KAROUSHIという不名誉な英語が作られる事になったのも、残業代を払わなくてもいいことに甘えた経営者たちの杜撰な業務管理が全ての原因である。ブラック残業は、殺人とニアリーイコールなのである。万引きが窃盗罪(懲役10年以下)であるようにだ。
国会のフワフワとした答弁も、官僚がブラック残業を繰り返すことによって支えられている。もしも残業代が満額払われるようになれば、ダラダラと話を捏ねくり回すような資料を作る時間はなくなるはずだ。
今の日本は誤魔化しようもなく修正資本主義国家であり、その基盤は経済である。その経済が不健全な形で行われるということは、共同体全体の運営が丸ごと不健全な状態となっていることに他ならない。
まずは、まずはブラック残業から無くしていこう。そこから日本の全てが始まるのではないだろうか。
だが、今の日本が日本だけでそれを行うのは無理だ。この国は本当にだらしのない国で、叱られなければ部屋の掃除もできない子供のような国だ。そこで必要となるのが、日本を叱ってくれる大人に当たる存在だ。
そうして設立されたのがIZMO( International Zangyodai Mangakuyokose Organization)通称イズモなのでである。(CV:若本規夫)
便宜上名乗った方が良いと思うので、名乗ります。310のファンです。
これは某俳優のカノバレ炎上に際して、推しの名前に傷が付けられまくっていることに憤ったオタクの地獄のような恨み言です。
論点はただ一点
●310の茶の間は全員、某俳優へのリプライを消して無断転載アイコンを変えろ
本当にこれだけです
加えて言うなら
●せめて某俳優アイコンに変えてbio欄も某俳優の名前を入れてからリプライしてくれ
………………………
茶の間、と言う言葉の語源や意味に関して論じる気はありませんが、ここでは金も落とさないで声だけでかいクソみたいなファンのことを指しています。そして何故か茶の間程、無断転載の俳優アイコンなんだよな、なんでなの?頭悪いの?(口が悪くて失礼、育ちがあんまり良くねーんだわ)
そういった方達に、推しの画像を無断転載したアイコンを使って無責任な発言をされるのは我慢がならないし、これだから310のオタクは…と言われている現状にも気付いて欲しい。「大丈夫」とか「気にしてない」とか「謝らなくていい」とか「応援してる」とか…茶の間であろうと無かろうと、310にお金を使っていようといまいと、推しの顔面を貼り付けた状態で他の俳優に向かっていい加減なこと言わないでくれ。
ファンは俳優の鏡などと良く言われますが、だからこそ、ファンの軽率な行動が推しの評判になることを自覚してくれ、いやほんと、頼むよ。頼むから。
茶の間は黙れというようなことを口にすると、乱暴な切り口だと攻撃される風潮が大嫌いです。だって茶の間はあくまで茶の間で、発言権がないものでしょ。
私にだって月のお小遣いが3000円とか、バイト禁止とか、そういうかわいいキッズの時もあったし、なけなしのお小遣いを貯めて大切に使う人を悪いと言っている訳ではありません。その時できる最大限のお金を使って、消費して、それで得たものって何であれ掛け替えがないよね。
例えば年に1度だけ見に行ける舞台とか、何枚もの限定盤の中から悩みに悩んで一種類だけ買ったCDとか、ね。
でも、無料で提供されるものや、非合法で無料になっているものをだけを享受してそれできちんと消費した気にだけなって声が大きいオタクには我慢ならないんです。 今はSNSもネットも発達してるからそういう状態に陥り易いんだよね、わかるわかる。でも本来はお金払って、対価として得て、それで初めて消費って成立するからさ。お金や時間を使えないけど気持ちとか愛を尊重して欲しいみたいなのは、全部嘘だと思ってる。
私が茶の間で弱いキッズオタクだった頃でさえ、分かってたよ。今自分が雀の涙みたいなお金で得ることができてる〇〇くんは、大勢の、〇〇くんにお金を惜しみなく出してくれるお姉さん達に買い支えられてるおかげなんだなって。
俳優やアイドルは商品だしコンテンツだから、お金を使わなきゃ存続しないもん。お金はニアリーイコール時間で、お金を稼ぐのにまず時間を使ってて、そのコンテンツを消費するために更に時間を使うんです。
お金や時間を使ったオタクと、使ってないオタクが同列な訳がない。
310は人気があるとか言われるけど、実際お金と時間を使うオタクがすごい少ない。これ、現場にいて肌で感じることです。
そうじゃなかったらナルステだってsoldしたし、おちゃろく平日こんなに出回ってないでしょ。みんな求めてるの千秋楽だけだよどういうことだよ。
310の茶の間の中にも「いつか茶の間じゃなくなる」と決意してる人はいるだろうし、そういう人に対して、私は「待ってるよそれまでこっちで買い支えとくからね」って思ってます。でも永遠に茶の間するつもりの奴はまじで身の程を知って、肩身を狭くしながら生きて欲しい。
そして、某俳優に「応援してます」「私たちがついてるよ」というようなリプをした310のオタクは、是非これから彼の出演する舞台のチケットを少なくとも半分以上買って、お花を出せたら2.5万以上のフラスタを出して、公演に入ったら毎回アンケの目当て欄に彼の名前を書いて、個人ブロマを積んであげて欲しい。自分の収入や自由になる時間をちょっとだけ無理して削って、彼に使ってあげて欲しい。それが、あなた達が言う「応援する」の言葉の重みだと思う。
それができないなら今すぐリプを消して、アイコンを変えてくれ
そして今回のカノバレで身を削られらるような想いで悲しんで、苦しんでいるのはそういうことをしてきたファンの人だって知って欲しい。そういう人達が、彼に裏切られた、もう彼を信じられないと思ってしまうことを糾弾する権利は310のファンにはないのです。茶の間なら、尚更。
ちなみに私は推しの「ここまで来たらもう裏切れない」といった旨の発言を信じてここまで来てますが、だからこそ俳優 310という商品に傷を付けたり泥を塗ったら、それが310自身でも許さないし裏切られたと思うとおもいます。
「ワンダーウーマン」を見たので感想。と言うか考えたこととかのメモ。ネタバレ気にしてないのでそういうの嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので、見た人向けだと思います。フェミの話とかも出てくるんでそういうの苦手な人も回避でよろしくっす。
まず最初に、「ワンダーウーマン」、個人的にはそんなに評価高くない。少なくとも世間で(特に欧米で)いうほど大絶賛、大感動をすることはできなかった。これは映画を見終わったあとのファーストインプレッション。
「1800円という価格&2時間という投資に見合った体験できるのか?」という視点で自問したところ、その答えは「100点」なのだ。十分高評価だろう。いい加減な脳みそだなあ、オレ。とも思った。
なんでこんな評価のすれ違いが発生してしまったかというと、今年見たアメコミ系映画の先行2本、すなわち「レゴバットマン ザ・ムービー」と「スパイダーマン:ホームカミング」の評価が高すぎた、というのが原因であるらしい。前出の基準で言うと、「レゴバットマン」も「スパイダーマン ホームカミング」も200点くらいの評価なので、「ワンダーウーマン」はタイミング的に損をしてしまったのかもしれない。これが「ドクター・ストレンジ」のあとだったら感激できてたのに。
PC的なディレクション――批判に対して自覚的で先手を打って内容を適正に作っていこう――は最近のハリウッド映画では多かれ少なかれあるのだと思うけれど、そういう制約(どういってもある種の制約ではあるだろう)を逆手に取って笑いやネタにしたり(デッドプールにおける「女性も男同様にブン殴ったほうが公平じゃない?」)、むしろそこに正面から踏み込んでえぐり出す(スパーダーマン:ホームカミングの敵役ヴァルチャーはいま注目されている「見捨てられた白人労働者」)のにくらべ、ワンダーウーマンのそれは踏み込みが浅くどうしても「そういうルールなので設置しました」感が出てしまっている。
おそらく「ワンダーウーマン」という作品――つまり女性が戦場に出て戦うという作品を作るにあたって、制作側は、(フェミニズムを中心に)炎上の可能性を覚悟して作ったのだと思う。だから、予め潰せる問題点は潰しておいた。
それは主人公ダイアナの人物設定にも反映されていて、彼女は美女で、アマゾン族の王女で、めっちゃ強い。すごい跳躍力や筋力を持ってるし、噛み殺しの特殊能力を持つスーパーゴリラだ。だが多分そのままだと脳筋批判も巻き起こすだろうから、島で英才教育を受けてた設定になっている。作中でも数百の言語を操り、古典に詳しく、第一次世界大戦当時の最先端の化学式を読み取るなど知能面でも卓越している。(第一次世界大戦当時の)女性だからといって馬鹿ではないのだ!
しかし、だからこそというか、逆説的にというか、なんだかすごく残念な人物描写になってしまっている。
彼女は世間から隔絶された島で育ったので無垢だ……という設定なので、物語終盤になるまで「人間は悪神アレスに洗脳されているせいで地獄のような戦争をしているのだ。悪神アレスさえ倒せば人間は正義と慈悲に立ち返り戦争は即座に終わる」と信じ込んでいる。ここは物語のテーマなので、外せない重要な要素だ。
それはそうで、重要に間違いはないのだが、それってどうなのだろう。
言語というのは必ずその文化を含んでいる。外語を学んだことがある人ならわかると思うけれど、外語を学ぶというのはその言語を操る民族や地域の文化を学ぶということをニアリーイコールだ。文化も歴史も言語には含まれているからで、そこに理解無くしては言語の意味を理解するなんてできない。ましてや古典まで学んだダイアナが、人間の持つ二面性や、善悪といった内面を「全く理解してない」なんてのはありうるんだろうか? いやまあそこが物語のキーなわけだから、理解していないということにしないといけないのはわかるのだが、そういう描写にしてしまったせいで作品は別のメッセージを持ってしまった。
すなわち「知識も教育も倫理や人間についての理解の助けには全くならない。世界を良くするという意味では、教育は全く無意味である」というメッセージだ。多分これは随分うがった見方だろうし、制作側はそんなメッセージを発信するつもりはないだろう。けれど、物語上ここでねじれが生じているために、そう取られかねない「隙き」が生じてしまっている。批判される要素をなくそうと頑張っていた制作陣が、塞げなかった穴に見えてしまうのだ。こういうねじれが、どうも彼女をそこの浅い子供に見せてしまっている。
「ワンダーウーマン」は「(邦画では珍しくもないが)戦う女性主人公」「女性が監督した初めての大手スタジオによるスーパーヒーロー映画」という点で、フェミニズム界隈から賞賛を受けた。
けれど、個人的にはダイアナは女性ではないのだと思う。すくなくとも、フェミニズムが想定するような「解放されるべき女性」ではまだなくて、子供なのだ。まだ思春期すら迎えていないような子供で、世界に対して良く言えば無垢だし、シニカルに言えば無知で無責任だ。
ダイアナに強い好感を覚えられなかったのがこの映画の評価に加点が少ない理由だと、整理した今なら自覚できる。
多分、自分にとって不幸だったのはこの部分で、それは「ワンダーウーマン」を観るまえに「ウーマンリブ的な文脈でフェミニスト絶賛」みたいな評価を知ってしまった点だ。「そういうつもり」で見てしまったせいで捻じれが目についてしまった。
しかし、見終わったあとに思い返してみると、魅力的な部分がいくつもある映画だ。その最大のものがアメリカ外征軍大尉のスティーブ・トレバーである。
彼はドイツ軍をスパイした結果恐るべき毒ガス計画を知り、逃亡の最中に絶海の孤島アマゾン島に漂着し、主人公ダイアナを「外の世界」に連れ出す役目をする。無垢な美女ダイアナのエスコート役であり物語最終局面まで彼女を支えて導き続ける。
ヌードシーンがあったりもするので、女性向けの眼福要素も担当させられたイケメン俳優だと思っていたのだ。二回もイケメンって言ってしまったよ。
彼は優秀な軍人でありパイロットなのだが当然人間なので、スーパーヒーローで神の子であるダイアナに比べたら喧嘩においてはまったく弱い(軍人として適正に強くはあると思う)。おまけに非文明圏であるアマゾン島では虜囚に近い扱いも受けていたし、さらにいえば彼はアメリカ軍大尉であり、物語中盤の舞台イギリス(&イギリス議会&イギリス軍)では大きな権力を持っているわけでもない。上司に対しては愛想笑いを浮かべたり、自分の意見をひっこめたりもする。
物語中盤、未知の世界である外界に出たダイアナは完全にお上りさん状態であり、大都会ロンドンにおいて常識を知らないことから、スティーヴに迷惑をかける。それにたいしてスティーブはなだめたり、すかしたりしてダイアナに行動を抑制しようとする(そして失敗する)。スティーブはダイアナに「外の世界の常識や考え」を事細かに説明して理解を得ようとはせず、断念する。命の恩人ではあるし天下無双の戦闘能力を持ってはいるけれど、「面倒くさい子供」でしかないダイアナに呆れているように見えることもある。
こうやって説明すると際立つけれど、スティーブはイケメンが売りなだけのダイアナの介添に見えていた。
しかし、上映後に振り返ってみるとこの映画の中心はスティーブだと思う。
ド派手なCGバトルアクションとか、世間のフェミ的な評価を全部取っ払って、個人的に「ワンダーウーマン」の感想を述べるならば、「ワンダーウーマンはスティーブの映画」なのだ。
全般的に人物の内面描写が浅いきらいのあるこの映画だが、スティーブに関しては脚本も俳優も素晴らしい仕事をしている。
彼は心の中にロールを持っている男だ。それは「善き男」であり「善き大人」であり、おそらくだけど「善きアメリカ人」であり「善き隣人」だ。彼はそういうふうに生きたいのだ。正しさや信念というよりも、自分の中に理想像、ロールモデルがあると表現したほうがしっくりくるのがスティーブである。
彼が軍に身を投じたのは、混迷続く世界情勢の中で、善きアメリカ人として社会に奉仕しようとした時、そのモデルが軍人だったからである。今の価値観で言えばもちろん異論はたくさんあるだろうけれど、その当時の常識で言えばそれは愛国心であったし、善き市民の善き行動だった。
ドイツ軍に密偵した結果、彼は恐るべきマスタードガスの開発と、それが講和間近のイギリス軍へ向けられていることを知ってしまう。彼はこの情報を持ち帰るために命を捨てるような危険を犯す。それもまた、彼の中にある「それが善き男の行動」だからだ。
その過程でダイアナに命を救われ、彼女の「外の世界の戦争を止めたい」という希望を叶えるためにも、一緒にイギリスまで情報を持ち帰ることにする。
しかし、イギリスにそれを報告したが、結果ははかばかしくない。講和が間近に迫ったイギリス軍は、ドイツ軍(の一部)に災厄的な行動があったとしても全面攻勢には移りたくない。スティーブの情報は事実上握りつぶされる。
彼はここで彼自身の行動規範である「善き人」を曲げられる。軍の階級差という世俗の権力構造のせいで、彼がすべきだと信じる行為を行うことができない。
講和のためとは言え、前線舞台をマスタードガスの脅威の前に放り出してよいのか? 良いはずはないが、議会や政府の決定に従うのも「善き国民」の義務ではあるのだ。
でも隣には精神的に子供のダイアナがいて「ねえなんでなんで? なんで正義しないの? まさかここでやめるわけ? 処す? 処そうか?」という視線で見てくる。彼は、その結果、軍の命令を無視して、私費で(というかボランティアのつもりだった?)傭兵を雇い前線に向かう決意をする。彼は心の中にある「善き人」の指し示すところに従ったのだ。ダイアナがあんまりにも無垢なので引っ込みがつかなくなったという側面があったにせよ。
前線に向かい、血みどろの後背地を抜けて塹壕にたどり着き、取り残された村をダイアナの神話的な能力にも助けられて開放して、ダイアナとスティーブの関係は接近する。男女間の性愛的な意味での愛情もあったような描写だったけれど、個人的にはスティーブの父性も強く感じた。その父性というのは、子供でしかないダイアナに「善き大人」を見せるというものだ。戦争なんて醜悪なものなのだけれど、それだけではないということ、世界には「善き隣人」の「善き努力」もあるということを示したかったように見えた。孤島から世界に連れ出した人間として、世界に失望してほしくなかったのかもしれない。
終盤。マスタードガスの大量生産はすでに完了しており、その暴挙を止めるために一行は秘密基地に忍び込む。ダイアナはその中で、アレスの化身だと思われるドイツ軍ルーデンドルフ総監を倒すことに成功する。ダイアナは「これで悪神アレスの洗脳は溶けて戦争は終了する!」と歓喜するが、兵士たちは戦闘をやめない。殺戮の準備を辞めない兵士にダイアナはパニック状態になる。ダイアナにとっては今まで信じてきた世界観が崩れ去った瞬間なのだ。
そのダイアナに向かって、スティーブは今まで何度も説明しようとしてしきれなかったことを告げることになる。
それは「この戦争は人間が開始して人間が拡大させたものなんだ。神はいない。僕たちの責任だ」ということだ。その告白はとても辛い。「善き男」として生きたかったスティーブは、まったく「善き男」ではなかった。戦争をしちゃってるのだから極悪人なのだ。しかし、スティーブは「この戦争は僕達の罪なのだ」ということを認める。なぜなら、戦争の責任を誰かに転嫁するのは、戦争を始めるよりも更に恥ずべきことだからだ。「善き男」として彼は、世界の醜さの責任を取らなければいけないと決意する。
スティーブとダイアナの間にあったものは多分とても複雑で、男女でもあったし、父と娘でもあったと思う。でもその一部には神と人間というものもあった。
彼女の戦闘能力があまりにも隔絶してたからスティーブもその視点を持たざるを得なかったのだろう。
ダイアナの考えは「神が神の邪悪を振りまいたせいで人間が迷惑をしている」から「神の使命を持つ私が人間を救う」というものなわけだけれど、スティーブはこれに「善き人間」としてノーを叩きつける。ダイアナの考えはある種のパターナリズムだが、スティーブの答えはそこからの脱却だった。
神々の戦いは神々であるアレスとゼウスの娘ダイアナが決着をつけるだろうし、人間であるスティーブはそこには関与することができない。
しかし人間の始めた戦争であり、人間の悪意であるマスタードガスは人間であるスティーブが止めなければならない。筋としてそれが正しい。
ダイアナの戦闘能力やスティーブたちの状況を考え合わせると、彼らはここで戦闘を放棄すれば逃げて安全に暮らすことは十分に可能だったように見える。その場合はもちろんマスタードガスで前線の部隊は凄惨なことになるのだけれど、倫理的に考えてスティーブが彼らを救う(その結果命を落とす)絶対的な義務があったわけではない。戦争の悲惨すべてを、個人であるスティーブが背負う必要はないからだ。
スティーブが命をかけた動機として、父(先行者)として娘(後続)に「この醜悪な外の世界にも善はあるのだ」という事を示したかったのか、人間として神に「あなただけにすべてを背負わせない。人間は弱いけれどそれでも自分たちのしでかした行為の責任は取る」ということを示したかったのか、それとも男として女に「俺も戦う」といいたかったのか、それはわからない(そこが返ってスティーブという男のテーマとしてよかったと思う。彼の愛情には名前がつけられない)。
けれど、スティーブは「自分の戦い」として今まさに離陸していこうとする毒ガス満載の爆撃機を止めるために飛び出す。そして乗り込み、爆弾を抱えて、前線を救って、結果としてダイアナを残して死ぬ。
こうやって思い直してみると、中盤、ロンドンの街で常識知らずにうろつくダイアナに手を焼いていたのも、「善き大人」として子育てに苦労してたんだなあ、と思える。
スティーブは大尉だからおそらくエリートなんだろうけれど、まだ若いし、それ以前にすべての人間がそうであるように、不完全で未熟だ。しかしそうであるからこそ、彼には「こんな存在でありたい」という理想像があった。そして常にそうであろうと、努力していた。都会ではトラブルメーカーのダイアナを「善き保護者」として(オロオロしつつも新米の父親のように)導こうと思ってたし、最前線では「善き戦友」として肩を並べて戦った。戦火から救い出した村でチャーリーが歌ったときは「善き男」としてダイアナを熱っぽく見つめた。彼は最終的に、「惚れた美人との安全な生活」よりも自らの役割を優先した。自分自身の信じる正しさに殉じた。それは「善き人間」として神の前に立った時、他の誰でもなく自分が、人間すべての代表として神に「人間の誠実」を見せるべきだと思ったからだ。
それは上野千鶴子あたりの言葉を借りると「男性の安っぽいヒロイズム」であり「戦争に興ずる幼児性」なのかもしれないけれど、物語としてみるとスティーブの人物描写はこの映画の中で一番複雑で深みがあった。魅力的だった。
そんなことを考えると、「ワンダーウーマン」はウーマンリブ的な価値観の映画というよりも、男性的な価値観の、そして「神(あるいは超越的な力を持つスーパーヒーロー)の前に立った『善き人間』の覚悟と誠意」の映画だと思う。そして、そこがこの映画の美点だと思える。