はてなキーワード: ニアリーイコールとは
便宜上名乗った方が良いと思うので、名乗ります。310のファンです。
これは某俳優のカノバレ炎上に際して、推しの名前に傷が付けられまくっていることに憤ったオタクの地獄のような恨み言です。
論点はただ一点
●310の茶の間は全員、某俳優へのリプライを消して無断転載アイコンを変えろ
本当にこれだけです
加えて言うなら
●せめて某俳優アイコンに変えてbio欄も某俳優の名前を入れてからリプライしてくれ
………………………
茶の間、と言う言葉の語源や意味に関して論じる気はありませんが、ここでは金も落とさないで声だけでかいクソみたいなファンのことを指しています。そして何故か茶の間程、無断転載の俳優アイコンなんだよな、なんでなの?頭悪いの?(口が悪くて失礼、育ちがあんまり良くねーんだわ)
そういった方達に、推しの画像を無断転載したアイコンを使って無責任な発言をされるのは我慢がならないし、これだから310のオタクは…と言われている現状にも気付いて欲しい。「大丈夫」とか「気にしてない」とか「謝らなくていい」とか「応援してる」とか…茶の間であろうと無かろうと、310にお金を使っていようといまいと、推しの顔面を貼り付けた状態で他の俳優に向かっていい加減なこと言わないでくれ。
ファンは俳優の鏡などと良く言われますが、だからこそ、ファンの軽率な行動が推しの評判になることを自覚してくれ、いやほんと、頼むよ。頼むから。
茶の間は黙れというようなことを口にすると、乱暴な切り口だと攻撃される風潮が大嫌いです。だって茶の間はあくまで茶の間で、発言権がないものでしょ。
私にだって月のお小遣いが3000円とか、バイト禁止とか、そういうかわいいキッズの時もあったし、なけなしのお小遣いを貯めて大切に使う人を悪いと言っている訳ではありません。その時できる最大限のお金を使って、消費して、それで得たものって何であれ掛け替えがないよね。
例えば年に1度だけ見に行ける舞台とか、何枚もの限定盤の中から悩みに悩んで一種類だけ買ったCDとか、ね。
でも、無料で提供されるものや、非合法で無料になっているものをだけを享受してそれできちんと消費した気にだけなって声が大きいオタクには我慢ならないんです。 今はSNSもネットも発達してるからそういう状態に陥り易いんだよね、わかるわかる。でも本来はお金払って、対価として得て、それで初めて消費って成立するからさ。お金や時間を使えないけど気持ちとか愛を尊重して欲しいみたいなのは、全部嘘だと思ってる。
私が茶の間で弱いキッズオタクだった頃でさえ、分かってたよ。今自分が雀の涙みたいなお金で得ることができてる〇〇くんは、大勢の、〇〇くんにお金を惜しみなく出してくれるお姉さん達に買い支えられてるおかげなんだなって。
俳優やアイドルは商品だしコンテンツだから、お金を使わなきゃ存続しないもん。お金はニアリーイコール時間で、お金を稼ぐのにまず時間を使ってて、そのコンテンツを消費するために更に時間を使うんです。
お金や時間を使ったオタクと、使ってないオタクが同列な訳がない。
310は人気があるとか言われるけど、実際お金と時間を使うオタクがすごい少ない。これ、現場にいて肌で感じることです。
そうじゃなかったらナルステだってsoldしたし、おちゃろく平日こんなに出回ってないでしょ。みんな求めてるの千秋楽だけだよどういうことだよ。
310の茶の間の中にも「いつか茶の間じゃなくなる」と決意してる人はいるだろうし、そういう人に対して、私は「待ってるよそれまでこっちで買い支えとくからね」って思ってます。でも永遠に茶の間するつもりの奴はまじで身の程を知って、肩身を狭くしながら生きて欲しい。
そして、某俳優に「応援してます」「私たちがついてるよ」というようなリプをした310のオタクは、是非これから彼の出演する舞台のチケットを少なくとも半分以上買って、お花を出せたら2.5万以上のフラスタを出して、公演に入ったら毎回アンケの目当て欄に彼の名前を書いて、個人ブロマを積んであげて欲しい。自分の収入や自由になる時間をちょっとだけ無理して削って、彼に使ってあげて欲しい。それが、あなた達が言う「応援する」の言葉の重みだと思う。
それができないなら今すぐリプを消して、アイコンを変えてくれ
そして今回のカノバレで身を削られらるような想いで悲しんで、苦しんでいるのはそういうことをしてきたファンの人だって知って欲しい。そういう人達が、彼に裏切られた、もう彼を信じられないと思ってしまうことを糾弾する権利は310のファンにはないのです。茶の間なら、尚更。
ちなみに私は推しの「ここまで来たらもう裏切れない」といった旨の発言を信じてここまで来てますが、だからこそ俳優 310という商品に傷を付けたり泥を塗ったら、それが310自身でも許さないし裏切られたと思うとおもいます。
「ワンダーウーマン」を見たので感想。と言うか考えたこととかのメモ。ネタバレ気にしてないのでそういうの嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので、見た人向けだと思います。フェミの話とかも出てくるんでそういうの苦手な人も回避でよろしくっす。
まず最初に、「ワンダーウーマン」、個人的にはそんなに評価高くない。少なくとも世間で(特に欧米で)いうほど大絶賛、大感動をすることはできなかった。これは映画を見終わったあとのファーストインプレッション。
「1800円という価格&2時間という投資に見合った体験できるのか?」という視点で自問したところ、その答えは「100点」なのだ。十分高評価だろう。いい加減な脳みそだなあ、オレ。とも思った。
なんでこんな評価のすれ違いが発生してしまったかというと、今年見たアメコミ系映画の先行2本、すなわち「レゴバットマン ザ・ムービー」と「スパイダーマン:ホームカミング」の評価が高すぎた、というのが原因であるらしい。前出の基準で言うと、「レゴバットマン」も「スパイダーマン ホームカミング」も200点くらいの評価なので、「ワンダーウーマン」はタイミング的に損をしてしまったのかもしれない。これが「ドクター・ストレンジ」のあとだったら感激できてたのに。
PC的なディレクション――批判に対して自覚的で先手を打って内容を適正に作っていこう――は最近のハリウッド映画では多かれ少なかれあるのだと思うけれど、そういう制約(どういってもある種の制約ではあるだろう)を逆手に取って笑いやネタにしたり(デッドプールにおける「女性も男同様にブン殴ったほうが公平じゃない?」)、むしろそこに正面から踏み込んでえぐり出す(スパーダーマン:ホームカミングの敵役ヴァルチャーはいま注目されている「見捨てられた白人労働者」)のにくらべ、ワンダーウーマンのそれは踏み込みが浅くどうしても「そういうルールなので設置しました」感が出てしまっている。
おそらく「ワンダーウーマン」という作品――つまり女性が戦場に出て戦うという作品を作るにあたって、制作側は、(フェミニズムを中心に)炎上の可能性を覚悟して作ったのだと思う。だから、予め潰せる問題点は潰しておいた。
それは主人公ダイアナの人物設定にも反映されていて、彼女は美女で、アマゾン族の王女で、めっちゃ強い。すごい跳躍力や筋力を持ってるし、噛み殺しの特殊能力を持つスーパーゴリラだ。だが多分そのままだと脳筋批判も巻き起こすだろうから、島で英才教育を受けてた設定になっている。作中でも数百の言語を操り、古典に詳しく、第一次世界大戦当時の最先端の化学式を読み取るなど知能面でも卓越している。(第一次世界大戦当時の)女性だからといって馬鹿ではないのだ!
しかし、だからこそというか、逆説的にというか、なんだかすごく残念な人物描写になってしまっている。
彼女は世間から隔絶された島で育ったので無垢だ……という設定なので、物語終盤になるまで「人間は悪神アレスに洗脳されているせいで地獄のような戦争をしているのだ。悪神アレスさえ倒せば人間は正義と慈悲に立ち返り戦争は即座に終わる」と信じ込んでいる。ここは物語のテーマなので、外せない重要な要素だ。
それはそうで、重要に間違いはないのだが、それってどうなのだろう。
言語というのは必ずその文化を含んでいる。外語を学んだことがある人ならわかると思うけれど、外語を学ぶというのはその言語を操る民族や地域の文化を学ぶということをニアリーイコールだ。文化も歴史も言語には含まれているからで、そこに理解無くしては言語の意味を理解するなんてできない。ましてや古典まで学んだダイアナが、人間の持つ二面性や、善悪といった内面を「全く理解してない」なんてのはありうるんだろうか? いやまあそこが物語のキーなわけだから、理解していないということにしないといけないのはわかるのだが、そういう描写にしてしまったせいで作品は別のメッセージを持ってしまった。
すなわち「知識も教育も倫理や人間についての理解の助けには全くならない。世界を良くするという意味では、教育は全く無意味である」というメッセージだ。多分これは随分うがった見方だろうし、制作側はそんなメッセージを発信するつもりはないだろう。けれど、物語上ここでねじれが生じているために、そう取られかねない「隙き」が生じてしまっている。批判される要素をなくそうと頑張っていた制作陣が、塞げなかった穴に見えてしまうのだ。こういうねじれが、どうも彼女をそこの浅い子供に見せてしまっている。
「ワンダーウーマン」は「(邦画では珍しくもないが)戦う女性主人公」「女性が監督した初めての大手スタジオによるスーパーヒーロー映画」という点で、フェミニズム界隈から賞賛を受けた。
けれど、個人的にはダイアナは女性ではないのだと思う。すくなくとも、フェミニズムが想定するような「解放されるべき女性」ではまだなくて、子供なのだ。まだ思春期すら迎えていないような子供で、世界に対して良く言えば無垢だし、シニカルに言えば無知で無責任だ。
ダイアナに強い好感を覚えられなかったのがこの映画の評価に加点が少ない理由だと、整理した今なら自覚できる。
多分、自分にとって不幸だったのはこの部分で、それは「ワンダーウーマン」を観るまえに「ウーマンリブ的な文脈でフェミニスト絶賛」みたいな評価を知ってしまった点だ。「そういうつもり」で見てしまったせいで捻じれが目についてしまった。
しかし、見終わったあとに思い返してみると、魅力的な部分がいくつもある映画だ。その最大のものがアメリカ外征軍大尉のスティーブ・トレバーである。
彼はドイツ軍をスパイした結果恐るべき毒ガス計画を知り、逃亡の最中に絶海の孤島アマゾン島に漂着し、主人公ダイアナを「外の世界」に連れ出す役目をする。無垢な美女ダイアナのエスコート役であり物語最終局面まで彼女を支えて導き続ける。
ヌードシーンがあったりもするので、女性向けの眼福要素も担当させられたイケメン俳優だと思っていたのだ。二回もイケメンって言ってしまったよ。
彼は優秀な軍人でありパイロットなのだが当然人間なので、スーパーヒーローで神の子であるダイアナに比べたら喧嘩においてはまったく弱い(軍人として適正に強くはあると思う)。おまけに非文明圏であるアマゾン島では虜囚に近い扱いも受けていたし、さらにいえば彼はアメリカ軍大尉であり、物語中盤の舞台イギリス(&イギリス議会&イギリス軍)では大きな権力を持っているわけでもない。上司に対しては愛想笑いを浮かべたり、自分の意見をひっこめたりもする。
物語中盤、未知の世界である外界に出たダイアナは完全にお上りさん状態であり、大都会ロンドンにおいて常識を知らないことから、スティーヴに迷惑をかける。それにたいしてスティーブはなだめたり、すかしたりしてダイアナに行動を抑制しようとする(そして失敗する)。スティーブはダイアナに「外の世界の常識や考え」を事細かに説明して理解を得ようとはせず、断念する。命の恩人ではあるし天下無双の戦闘能力を持ってはいるけれど、「面倒くさい子供」でしかないダイアナに呆れているように見えることもある。
こうやって説明すると際立つけれど、スティーブはイケメンが売りなだけのダイアナの介添に見えていた。
しかし、上映後に振り返ってみるとこの映画の中心はスティーブだと思う。
ド派手なCGバトルアクションとか、世間のフェミ的な評価を全部取っ払って、個人的に「ワンダーウーマン」の感想を述べるならば、「ワンダーウーマンはスティーブの映画」なのだ。
全般的に人物の内面描写が浅いきらいのあるこの映画だが、スティーブに関しては脚本も俳優も素晴らしい仕事をしている。
彼は心の中にロールを持っている男だ。それは「善き男」であり「善き大人」であり、おそらくだけど「善きアメリカ人」であり「善き隣人」だ。彼はそういうふうに生きたいのだ。正しさや信念というよりも、自分の中に理想像、ロールモデルがあると表現したほうがしっくりくるのがスティーブである。
彼が軍に身を投じたのは、混迷続く世界情勢の中で、善きアメリカ人として社会に奉仕しようとした時、そのモデルが軍人だったからである。今の価値観で言えばもちろん異論はたくさんあるだろうけれど、その当時の常識で言えばそれは愛国心であったし、善き市民の善き行動だった。
ドイツ軍に密偵した結果、彼は恐るべきマスタードガスの開発と、それが講和間近のイギリス軍へ向けられていることを知ってしまう。彼はこの情報を持ち帰るために命を捨てるような危険を犯す。それもまた、彼の中にある「それが善き男の行動」だからだ。
その過程でダイアナに命を救われ、彼女の「外の世界の戦争を止めたい」という希望を叶えるためにも、一緒にイギリスまで情報を持ち帰ることにする。
しかし、イギリスにそれを報告したが、結果ははかばかしくない。講和が間近に迫ったイギリス軍は、ドイツ軍(の一部)に災厄的な行動があったとしても全面攻勢には移りたくない。スティーブの情報は事実上握りつぶされる。
彼はここで彼自身の行動規範である「善き人」を曲げられる。軍の階級差という世俗の権力構造のせいで、彼がすべきだと信じる行為を行うことができない。
講和のためとは言え、前線舞台をマスタードガスの脅威の前に放り出してよいのか? 良いはずはないが、議会や政府の決定に従うのも「善き国民」の義務ではあるのだ。
でも隣には精神的に子供のダイアナがいて「ねえなんでなんで? なんで正義しないの? まさかここでやめるわけ? 処す? 処そうか?」という視線で見てくる。彼は、その結果、軍の命令を無視して、私費で(というかボランティアのつもりだった?)傭兵を雇い前線に向かう決意をする。彼は心の中にある「善き人」の指し示すところに従ったのだ。ダイアナがあんまりにも無垢なので引っ込みがつかなくなったという側面があったにせよ。
前線に向かい、血みどろの後背地を抜けて塹壕にたどり着き、取り残された村をダイアナの神話的な能力にも助けられて開放して、ダイアナとスティーブの関係は接近する。男女間の性愛的な意味での愛情もあったような描写だったけれど、個人的にはスティーブの父性も強く感じた。その父性というのは、子供でしかないダイアナに「善き大人」を見せるというものだ。戦争なんて醜悪なものなのだけれど、それだけではないということ、世界には「善き隣人」の「善き努力」もあるということを示したかったように見えた。孤島から世界に連れ出した人間として、世界に失望してほしくなかったのかもしれない。
終盤。マスタードガスの大量生産はすでに完了しており、その暴挙を止めるために一行は秘密基地に忍び込む。ダイアナはその中で、アレスの化身だと思われるドイツ軍ルーデンドルフ総監を倒すことに成功する。ダイアナは「これで悪神アレスの洗脳は溶けて戦争は終了する!」と歓喜するが、兵士たちは戦闘をやめない。殺戮の準備を辞めない兵士にダイアナはパニック状態になる。ダイアナにとっては今まで信じてきた世界観が崩れ去った瞬間なのだ。
そのダイアナに向かって、スティーブは今まで何度も説明しようとしてしきれなかったことを告げることになる。
それは「この戦争は人間が開始して人間が拡大させたものなんだ。神はいない。僕たちの責任だ」ということだ。その告白はとても辛い。「善き男」として生きたかったスティーブは、まったく「善き男」ではなかった。戦争をしちゃってるのだから極悪人なのだ。しかし、スティーブは「この戦争は僕達の罪なのだ」ということを認める。なぜなら、戦争の責任を誰かに転嫁するのは、戦争を始めるよりも更に恥ずべきことだからだ。「善き男」として彼は、世界の醜さの責任を取らなければいけないと決意する。
スティーブとダイアナの間にあったものは多分とても複雑で、男女でもあったし、父と娘でもあったと思う。でもその一部には神と人間というものもあった。
彼女の戦闘能力があまりにも隔絶してたからスティーブもその視点を持たざるを得なかったのだろう。
ダイアナの考えは「神が神の邪悪を振りまいたせいで人間が迷惑をしている」から「神の使命を持つ私が人間を救う」というものなわけだけれど、スティーブはこれに「善き人間」としてノーを叩きつける。ダイアナの考えはある種のパターナリズムだが、スティーブの答えはそこからの脱却だった。
神々の戦いは神々であるアレスとゼウスの娘ダイアナが決着をつけるだろうし、人間であるスティーブはそこには関与することができない。
しかし人間の始めた戦争であり、人間の悪意であるマスタードガスは人間であるスティーブが止めなければならない。筋としてそれが正しい。
ダイアナの戦闘能力やスティーブたちの状況を考え合わせると、彼らはここで戦闘を放棄すれば逃げて安全に暮らすことは十分に可能だったように見える。その場合はもちろんマスタードガスで前線の部隊は凄惨なことになるのだけれど、倫理的に考えてスティーブが彼らを救う(その結果命を落とす)絶対的な義務があったわけではない。戦争の悲惨すべてを、個人であるスティーブが背負う必要はないからだ。
スティーブが命をかけた動機として、父(先行者)として娘(後続)に「この醜悪な外の世界にも善はあるのだ」という事を示したかったのか、人間として神に「あなただけにすべてを背負わせない。人間は弱いけれどそれでも自分たちのしでかした行為の責任は取る」ということを示したかったのか、それとも男として女に「俺も戦う」といいたかったのか、それはわからない(そこが返ってスティーブという男のテーマとしてよかったと思う。彼の愛情には名前がつけられない)。
けれど、スティーブは「自分の戦い」として今まさに離陸していこうとする毒ガス満載の爆撃機を止めるために飛び出す。そして乗り込み、爆弾を抱えて、前線を救って、結果としてダイアナを残して死ぬ。
こうやって思い直してみると、中盤、ロンドンの街で常識知らずにうろつくダイアナに手を焼いていたのも、「善き大人」として子育てに苦労してたんだなあ、と思える。
スティーブは大尉だからおそらくエリートなんだろうけれど、まだ若いし、それ以前にすべての人間がそうであるように、不完全で未熟だ。しかしそうであるからこそ、彼には「こんな存在でありたい」という理想像があった。そして常にそうであろうと、努力していた。都会ではトラブルメーカーのダイアナを「善き保護者」として(オロオロしつつも新米の父親のように)導こうと思ってたし、最前線では「善き戦友」として肩を並べて戦った。戦火から救い出した村でチャーリーが歌ったときは「善き男」としてダイアナを熱っぽく見つめた。彼は最終的に、「惚れた美人との安全な生活」よりも自らの役割を優先した。自分自身の信じる正しさに殉じた。それは「善き人間」として神の前に立った時、他の誰でもなく自分が、人間すべての代表として神に「人間の誠実」を見せるべきだと思ったからだ。
それは上野千鶴子あたりの言葉を借りると「男性の安っぽいヒロイズム」であり「戦争に興ずる幼児性」なのかもしれないけれど、物語としてみるとスティーブの人物描写はこの映画の中で一番複雑で深みがあった。魅力的だった。
そんなことを考えると、「ワンダーウーマン」はウーマンリブ的な価値観の映画というよりも、男性的な価値観の、そして「神(あるいは超越的な力を持つスーパーヒーロー)の前に立った『善き人間』の覚悟と誠意」の映画だと思う。そして、そこがこの映画の美点だと思える。
そのためには数日〜1週間くらいはROMることが望ましい。
どういう文体・質問スタイルだったら返答率が高いのか分析すること。
逆に無視されやすい文体・質問スタイルも存在するのでそちらも分析だ。
慣れてきたら返答率はほぼ100%になる。
あとな、2chでは丁寧さというのは煽りとニアリーイコールなんだよ。
「たしかに」「せやな」とか適当に相手の怒りレスに同意しときゃええんやで。
あとよく「自演でわざと間違ってたり的外れな答えを書いて、正しい答えはこうだ!ってツッコミを待つ」方法あるけどな、
イジワルな人が多いスレではそのまま無視されるか、間違った答えを更に強化させるようなレスがつく。
というか自分がそうしてる。
というわけで検討を祈る。
「ご希望の条件にマッチした求人が掲載されました」などと言われたところで、私は先方が希望する条件にマッチした人物ではないのだろう。このことだけは、容易に想像がつく。
限りなく排泄物に近い日々を過ごしている。すなわち飲めぬ酒を飲み、すぐさま寝床にダイブし、ほどほどに非正規労働をしては鼻腔を念入りに清掃するだけの日々である。ハリのある毎日とは、いったいどのような状況を指すのか。まるで見当がつかない。体力もない。私など、その辺で通行人を待ち構える犬の糞とニアリーイコールで結ばれるべき存在に他ならないのである。
ひたすらにウダウダと人生を無駄遣いして、ここまで来てしまった。いま、こうして現況を書き出したところで、何の解決にもならぬことは確かである。知ったような顔で「将来の夢はサラリーマン」と吹聴していた小学校時代が、ひょっとすると1番賢い頃だったのかもしれない。
普通の生活、物語のなかでモデルケースとして繰り返し描かれてきたような生活が、思っていた以上に得難いものだということは、身にしみて分かった。だが、その「普通」にランクアップしたところで、何か満ち足りるというのだろうか。そこのところがいまひとつ、展望できずにいる。そうであるがために、自分はやり直しの利かない道を驀進しているのだと思う。
なんか会社の古株がいよいよ英語力を高めるために勉強し始めるそうで。
社長が大号令出して全員にTOEICの目標点数決めてんの。アホくさ。社長からしてわかってないし。
TOEICを英語力の指標とする風潮、どうにかなくなってくれないかなー。あんなもん他の資格や学歴と一緒で、それを取得するための努力が評価されるべきだろ。
あとは管理職になるためにただ必要な差別化の道具ならわかる。でも決して英語力を評価するもんじゃないんだよね。
英語力を高めるのとTOEICで高得点とるのは、ニアリーイコールであってイコールじゃないんと思うんだ。
一定の英語力がつくのはわかるけど、それも文法・単語・読む力でしょ。書くのと会話するのも含めて英語力なのに。
おまけにTOEICなんてテクニックの部分が多いし。テストのために英語力をつけるんじゃなくて、英語で仕事をするために英語力をつけるんでしょ。
うちは海外マーケットを主戦場にしてんだからさ、中学生レベルの文法覚えて、最低限の単語覚えて、実際に覚えた文法と単語を使って話して聞いて。
そんで出張行って外国人相手に必死に仕事してりゃ否応なく身についていくから。日本語で仕事ができれば、ホワイトボードさえあれば基本的になんとかなるんだから。
あーいるいるww
おまえはルー大柴かよっていうくらいにこれらの単語を連発するヤツいるよな。
ニアリーイコール ルー大芝なヤツで、尊敬できそうなヤツに出会ったことねー
それっぽい言葉で誤魔化そうとすんな。気持ちを込めて喋れ。
ソースはこれか。
http://ranking.goo.ne.jp/ranking/014/otona_word/
1位・スキーム - 枠組み
2位・イニシアチブをとる - 先制権、先手
3位・マター - おまかせ
4位・バーター - 使ったこと無いからわからない。バーター取引とかしたことない。
6位・ポテンシャル - 潜在的な力
7位・NR - のいずりだくしょん。ぶっちゃけ意味がわからん。
8位・ガラガラポン - マレーシアを連想してしまうが、一から練り直し的な感じ。
8位・ASAP - できるだけ早く。つまり、どうでもいい。つまり、後回し。
10位・ペンディング - 作業を一時停止して、他のことを優先させる。
11位・ドラスティック - 躍動的に。踊り狂う8等身モナーを連想。
11位・リスケ - スケジュールを引きなおす。
15位・アサインする - 人を割り当てる。かわいそう。
15位・マンパ - 頭数揃える。
17位・コミット - 約束する。責任を伴うはずなのに、メール一本で軽々しく約束される。
17位・たたき台 - 「議論のたたき台」のように使う。原案。
20位・ルーティン - あくびをしながらする仕事。crontab -l で表示される。
20位・アグリー - 同意。不同意は許されない。
23位・ジャストアイデア - 使ったこと無い。ジャストフィットしたアイデア?
25位・キャパ - 容量。電解コンデンサを高温環境下で使用すると劣化が早まり、容量抜けが発生する。
25位・ペイする - 損益分岐点にのる
25位・オンスケ - スケジュールどおりに進行。問題がどこかに隠れている。
28位・ニアリーイコール - だいたい一緒。
28位・ごとうび - 5と10の付く日。エラーが発生する。
(ブックマーク数がとんでもないことになったため、元増田はうかれている。なので匿名ダイアリーなのに、ペンネームまで書いてしまった。タイトルに大きく、須江岳史、と。しかし、プロの小説家でもない一人のプータロウが書いた文章がこんなにもてはやされることを、すこし疑問にも思っている。ちょっと足を伸ばして図書館に行けば、小説の書き方についての本はいくらでも手に入るはずだ。何かを学び取る目的ではなく、長すぎるからブックマークしておいた、というのなら、納得する。というかこの論は物語と小説をニアリーイコール扱いしていて、小説論としてはちょっと古いというか、語りという小説の大問題がスルーされていて厳しい。という指摘も当然のことで、普段、一人称の小説ばかり書いている自分には、人称とか視点とかいった物語を語る上での問題について取り組む実力は無い。「小説は自己表現なんだから、各々が語りたいように語ればよいと思う」のような言葉で、逃げることしか出来ない。僕の小説の実力がどの程度かは、http://texpo.jp/texpo/disp/16732を読めばわかると思います)
Ⅰ、小説概論
まず話の筋の作り方を考え、次にそれをどのように小説として表現するかを見、最後に小説を書く上での国語的諸注意事項を述べる。
そもそも小説がどのような構成要素から成り立っているかを考える。
まず、小説だけではなく物語一般の話の筋がどのように出来ているかを考える。
多くの物語は、欠損-充足の形を持つ。多くの物語は主人公に何かが足りない状態から始まり、それが満ち足りた状態で終わる場合が多いということである。
また、満ち足りた状態にたどり着くためには満ち足りた状態になるための行動が必要になる。そして行動をとるためにはその機会が与えられないとならない。
ここまでをまとめると、物語の筋は
欠損 – 機会 - 行動 - 充足
となる。
具体例としては、
少女は城で行われる舞踏会に行き、王子に会いたかった(欠損)。そして王子に会うことが出来た(充足)。
ただ、物語の面白みのためには、充足が起こらないほうが良いかもしれない。行動の結果が、充足の起こらない失敗に終わり、それが新たな欠損となり次の話の筋を紡ぎだすこともありうる。
よって、物語を構成する基本的な四つの要素は
欠損 - 機会 - 行動 - 結果(充足または失敗)
であるとする。この一連の流れが組み合わさることによって、物語は出来上がる。
具体例としては、
少女は城で行われる舞踏会に行き、王子に会いたかった(欠損)。そして王子に会うことが出来たが、十二時の鐘がなったので帰宅しなければならない(失敗に終わった結果、新たな欠損)。
少女は名乗り出て靴をはく(行動)。
後味の良し悪しの面から見て、最終的には充足で終わった方が良いように思われる。
また、欠損があって、それを解決する機会を与えられれば物語が始まることがわかる。
また、欠損を細分化したうえで見つかる欠損というのも考えられる。
たとえば、
鬼を退治するためにはお供を仲間にしなければならない。お供を仲間にするためには黍団子を持っていなければならない。
黍団子を持つためにはおばあさんから黍団子をもらわなければならない。
おばあさんから黍団子をもらうためには黍団子の材料を買ってこなければならない。
というように。
このようにすれば物語はいくらでも引き伸ばすことが出来る。書くべき物語の分量によって、どの程度まで細分化できる欠損なのかを慎重に選ばなければならない。
一つの物語で充足される欠損は一つとは限らないし、主人公たちの欠損が充足されるとも限らない。『ロミオとジュリエット』では、主人公たちの恋愛は成就しないが、キャピュレット家とモンタギュー家の関係が、対立から和解へと移り変わる。
物語は、話の筋それ自体で面白いことが最善であるけれども、それが出来ない場合には伏線によって面白さを増幅させるしかない。
ここでは、仮に伏線には四種類あるとする。
ⅰ)質問―答えⅱ)ある現象/行為への意味の付加―行為/現象の再現
ⅲ)行為・現象―行為・現象のリフレイン
ⅳ)思い込み―認知
それぞれ、順を追って説明する。
物語冒頭に置かれた質問に、ラストシーンで答えることで感動を増す。
具体例:どうしてキノはこの汚い世界を旅しているの?(冒頭の質問)
ある現象・行為にはある意味が隠されている、と登場人物が語り、その現象・行為が実際に現れる。
『アヒルと鴨のコインロッカー』だと、
『「(とにかく面倒だから、神様を閉じ込めて、全部なかったことにしてもらえばいいって。そうすれば、ばれない)」』(70ページ)という免罪の方法を提案して、実際に物語の最後付近でそれを行っている。
物語の中で起こった行為・現象が物語の終盤で再現されることにより、面白みが増す。
『アヒルと鴨のコインロッカー』だと、
『聞いてるわたしにも、どうやらこの姉弟がレッサーパンダを盗む気らしい、ということはわかった。』(216ページ)『動物園を振り返って、「さっきの子供たち、うまくやり遂げるかな?」と。』(222ページ)
というようなレッサーパンダを盗むという行為があった上で、
『「あれ、レッサーパンダだ」』
『「盗んだんだよ、あの子供たちは」』(339ページ)
間違った方法を目的を得るための方法だと思い込み、それが間違いであったことに気づく。多くの場合、気づくまでに行ってきた行為が主人公に、行為の目的とは反対の結果を持って跳ね返ってくる。
物語の筋が悲劇的に終わっても、ⅰ、ⅱ、ⅲの伏線が幸福を含意していると悲劇性を和らげることが出来る。
目的達成を阻むものが、あるものだと仮定して行動していたが、その仮定が正しくなかったことに気づくタイプの伏線。多くの場合、気づく前の行動が気づいた後に本来の意味とは反対の意味を持って主人公に跳ね返ってくる。
認知は、約束―報いの伏線によって引き起こすのが最も容易である。
主人公の目的を阻むものは四種類ある。カッコの中の左側は存在場所、右側は存在原因を意味する。
(自己,自己)例:主人公の性格の欠陥(他者,自己)例:主人公に対して恨みを持っている敵
(他者,他者)例:絶対悪
敵の仮定が4パターン、真実の敵が4パターンあるので、認知型の伏線には全てで16パターンあることになる。
これは、『あらすじ.com』の三匹のモンスターの概念を内包している。
(自己,自己)狼男(自己,他者)対応しない
(他者,自己)フランケンシュタイン
(他者,他者)ドラキュラ
物語には六種類の登場人物がある。
主体:物語の主人公。欠損を解決する。送り手:主人公に、欠損を解決する動機を与える者。
援助者:主人公に、欠損を解決する能力を与える者。
受け手:欠損の解決の享受者。
敵対者:主人公の欠損解決行動を阻む者。
それぞれ、同一人物が複数の行為項を演じても良いし、ひとつの行為項に複数人が入っても良い。たとえば、送り手と援助者が同一人物であることは大いにありうる。また、それぞれが必ずしも人間である必要もない。
欠損ごとに行為項モデルは立てられるので、ある場面では敵対者であった存在がある場面では援助者になることもありうる。
物語に出てくる全ての欠損について、行為項モデルの六つの登場人物を生めることが出来れば、それ以上の登場人物は物語に必要ではない。
物語の冒頭やクライマックスを盛り上げるためにシチュエーションは使われる。
面白いシチュエーションとは、即ちギャップである。
それは場所と行動のギャップであるかもしれないし、それまである登場人物のそれまでの行動とはかけ離れた行動かもしれない。いずれにしろ、「~であるにもかかわらず」という言葉で表される。
たとえば、「日ごろ温和な性格であるにもかかわらず、暴れ狂う」とか「静粛でいなければならない図書館であるにもかかわらず、暴れ狂う」とか、「たかが100円のアンパンを食べてしまっただけのことであるにもかかわらず、暴れ狂う」とか。
物語を組む順番として、『欠損-伏線とシチュエーション-細分化されていない欠損の話の筋-細分化されていない欠損の行為項モデル-細分化された欠損の話の筋-細分化された欠損の行為項モデル』といった順番で組んでいくのがスマートに行く。なぜならば、欠損がなければ物語は動き出さないし、伏線とシチュエーションは話の筋や行為項モデルあとから考えるとそれらに縛られて上手くいかないからである。
①、主人公が向かう目的を定める。②、主人公が見舞われる危機を定める。または、どのようなギャップがある状況に立たされるかを決める。
③、危機・ギャップが何故起こるのかを決める。(伏線の回収の仕方を決める)
④、危機がどのように回避されるのかを決める。(伏線の回収の仕方を決める)
⑥、必要ならば、下位物語にも①~⑤を施す。
⑦、物語(下位物語も含む)の適所に、ギャップによる面白みを与える。
⑧、整合性を与える。
また、どのような魅力的な登場人物・伏線・シチュエーションでも物語の自然な流れを妨げるなら切り捨てるべきである。
場面では、人物、場所、時間が描かれる。人物、場所、時間のうちのいずれかが変わったとき、場面が転換されたという。また、場面は一人称であれ三人称であれ場面に登場する一人の人物の視点を通して描かれることが多い。
場面の特徴として、行為・現象の一回性が挙げられる。場面は、一度しか起こらない行為・現象を場面に登場する人物の感覚を通じて読者に体験させる。
場面の始まり方として、人物・場所・時間を指し示して始まる場合、登場人物の行動から始まる場合とがある(台詞から始まる場合は、登場人物の行動から始まる場合の特殊例とみなす)が、そのいずれにせよイメージすることが出来るか否かが読解の容易さを決めるので、場面の開始からまもなく人物・場所・時間を明らかにしなければならない。
小説を読む上では情景をイメージしやすいほうが読解が容易であるといわれているので、色彩や位置関係を表す語を使って場所や時間を説明するべきである。
場所・時間の説明は描写法的だといえるが、その場所・時間におかれたものを登場人物の行動の目的語にすると、スムーズに場面を始められる。
何かが起こるたびに、その場面に登場している人物全員の反応を描くべきである。また、その感情は、どのような身体的動作を持って表情として表されたかを描くべきである。なぜならばイメージしやすいほうが読解が容易であるからである。
要約法は、登場人物が何度も行った行動や何度も起こった現象を記述する。場面法とは違い、複数の時間や場所をまたがる事が出来る。そのため、時間や場所の離れた場面と場面をつなぐのに要約法は用いられる。
要約法は場面と場面とをつなぐためにしか存在しない。
場面法が動画だとすれば、描写法は静止画である。
描写法は、場面が行われている空間にあるものを描写する。場面が行われているなか描写がはさまれると、場面の時間を止めることが出来る。
台詞は音楽で言えばフォルテ、地の文は音楽で言えばピアノのような効果を持つ。多くの場合、台詞はカッコにくくられる為に強調されるが、台詞続きの中で地の文が出てくると大きな強調効果を持つことがある。たとえば強調すべき台詞をあえてカッコでくくらずに地の文で処理することで大きな強調効果を与えることができる。
台詞と台詞の間の間をつなぐために、地の文をおきたくなることがしばしばある。こういったときのために、場面の情景を刻々と変化させるとか場面の登場人物に場面開始と同時に何か動作をさせる方法がある。
書き手の中で起こった感動が読み手の中でも起こるためには、文が書き手の意図するとおりに伝わらなければならない。誤読を少なくする方法をここでは述べる。誤読を避けるために、修飾語と被修飾語、主語と述語は可能な限り近づける必要がある。
「私は走る車に飛び乗る」のような文は、読者が「私は走る」と理解した後で、走っているものは車だと改めて理解する。このような事をなくするために、「走る車に私は飛び乗る」のように主語と述語を近づける必要がある。
主語と述語の対が二個以上あり、どちらかがどちらかの文の成分になっているような文を複文という。
「私はリンゴを片手で握りつぶす彼はとても握力が強いと思う」というような文は読解が難解である。これも、主語と述語を出来る限り近づけ、「リンゴを片手で握りつぶす彼はとても握力が強いと私は思う」とすると読解が容易になる。また、複文を単文(主語と述語の対が一つである文)に分解し、「彼はリンゴを片手で握りつぶす。彼は握力がとても強いと私は思う」というようにすると、誤読は少なくなる。
日本語は上から下に修飾が行われるため、様々な不都合な事が起こる。
「美しい獣と女」は、美しいのが獣だけなのか、獣と女の両方が美しいのかが判然としてない。美しいのが獣だけである場合は、「女と美しい獣」のように順序を入れ替えるか、「賢い女と美しい獣」のように両方に修飾語を与えてしまう方法がある。
「地中海で育った少年からもらったトマト」は、トマトが地中海で育ったのか少年が地中海で育ったのかはっきりしない。トマトが地中海で育ったのであれば、「地中海で育った、少年からもらったトマト」のように読点を打つか、「少年からもらった地中海で育ったトマト」のように順序を入れ替えればよい。ただし後者の場合、地中海を少年からもらったように誤読される可能性が無くもない。
ガーデンパス文や修飾の範囲の判然とない文を作らないために、長い修飾を伴う語を文の始めに持っていく方法がある。
「僕は地中海で育った、青白い肌をした細身の少年から貰ったトマトを食べた」よりは「青白い肌をした細身の少年から貰った、地中海で育ったトマトを僕は食べた」の方が誤読が少ないとされる。
一文の中に含まれる用言(形容詞、形容動詞、動詞)と難読語の量、読者の視線の移動距離に依存して、文章の体感時間は定まるとされている。
たとえば①、「彼が作った美しいサッカーボールを僕は強い力で蹴飛ばす」よりは②、「彼が作った美しいサッカーボール。それを僕は強い力で蹴飛ばす」の法が一文に含まれる用言が少ないために体感速度が短いとされる。③、「ええい、お前は畢竟、俺が死ぬのが怖いだけだ」の『畢竟』が難読語だと見なす人にとっては④、「ええい、お前は結局、俺が死ぬのが怖いだけだ」の方が体感速度は短いかもしれない。また、⑤、「やわらかいネコ」よりは⑥、「柔かい猫」の方が、視線の移動距離が少ないために体感時間が短いとされる。
小説の場合、論説文とは違い改行は自由に行える。
行を改めたときは一段下げる。
「しかしカギカッコで新たな行が始まるときはその限りではないというのが最近の主流である。また、主流では閉じカッコの前では句点は打たない」
――また、三点リーダー(…)とダッシュ(―)は二つで一つの扱いをする……。
陰口が渦巻いてる状況に耐えられなくなって誰にも何も言わずオケを辞めた。
他のアマオケに入ったけれど
またオケを好きになれるかもしれないと思ってすごくいろいろ頑張ったけど
他の運営メンバーにうまく仕事振れなくて、フリーライダーを作ってしまい
でも誰にも自分のしんどさを伝えられなくて一人でいろいろ抱え込んで、
第一回演奏会終わった直後に高熱出して寝込んだ。そのオケも辞めた。
楽器を弾くのが全然楽しくなくなったので
バイオリンを試してみたいという友人のところに貸した。
楽器ケース見るのも嫌だった。
どんなに練習しても超えられない壁があって、
自分の体なのに言うこと聞いてくれなくて、もう嫌だと思った。
上手くなりたいのにどうしたらいいのかわかんなくなった。
好きだったはずのものを嫌いになっちゃうのってものすごく悲しい。
学生オケ内の政治力はその人の楽器の腕とニアリーイコールだから
あの時、周りを黙らせるくらい楽器が上手かったら
少しは状況が変わっていたのかなとも思うけれど
そういう訳でもないんだよな。
言いたいことがある時はその場で言わないとだめなんだよな。
去年の秋、システマチックに基礎練を教えてくれる先生と出会って
今は少しずつ基礎の練習からもう一度さらってる。
長いこと蓄積してきた体の癖はそう簡単に抜けてくれないけど
構えを変えたら明らかに響きが変わった。
浅田真央が自分のジャンプの悪い癖を3週間で修正したってTVでやってたけど
それができるのは本当に本当にすごいことだと思う。
あと、たまたま今の学科内で弦楽四重奏のできるメンツが揃ったので
時々四重奏を合わせてる。
まだまだ上手く弾けないところもあるけれど、気の合う4人で弾くのは楽しい。
オーケストラみたいな大規模な組織でなんかするのは向いてなかったみたい。
何人かと雑談してて、コンマス候補の子が席を外した瞬間、悪口の大炸裂。
もう( ゜Д゜)ポカーンとしてなにも言えなかった。
あと、自分の楽器の腕に対してこだわりすぎてたことに最近気づいた。
音質は悪くないんだけど、基礎がないから音程とアーティキュレーションがめちゃくちゃ。
生き急ぐこともないんだよな。
解決すべき課題がきちんと見えてきただけ数年前より格段にラクにはなってる。
今年は楽しく楽器の弾ける年にしたいなあ。
http://anond.hatelabo.jp/20070526080017
ようは国民を取り込んで潤沢な資金システムを構築し力を増してきた
そういう方法ではぬるいんでもうあきらめて普通の女の子になったらどう?というお話。
http://anond.hatelabo.jp/20070526080017
創価学会を立て直すには池田大作なんぞではなく純粋に育てたタレントが必要だという話。
創価にも公明にも持ち球(タレント)が不足しているというのには同意。
いまのままだと中国や他の政党にとっての道具でしかないと思う。
とりあつかいが難しいからサーカスのタイオンのようなものだろうか。
ある一定の客には必ずうけるという…
http://anond.hatelabo.jp/20070526080017
これにタレント政治こそどうにかするべきだという指摘が入ったのだが、
そもそもヒトラーの政治家の手法はいってしまえばタレント政治だった。
実際のヒトラーの政治家としての能力はナチスの辿った末路をみれば分かる。
ここでサッカー選手などがやたらもてはやされる第3世界系の国を例に挙げてもインパクトに欠けるので
小泉純一郎はの趣向はタレント政治だったといえるが彼のしてきたことを
是ととるか非ととるかでこの議論の方向がまったく変わっていってしまいそうだ。
ナチスが映像を使って国民にわかりやすく物事を刷り込んだのと同じく、
顔や人柄が気に入るかそうでないかがとりあえず最初のポイント。
もっというと彼らがいってることよりもフィーリングでいい悪いを決められる。
それによって横山ノックなどのとんでもない政治家が生まれてしまうのがこの手法の良くないところだ。
創価学会に対してこのような見下された見方がなされるのは仕方ないようにも思う。
いわれてみれば40年以上やっていてこの規模というのはただの有名な新興宗教でしかない。
ここまであからさまに公明党とのつながりがニアリーイコールでさけばれているのに、
黒子であるべき人間が舞台に立っていたところどんどん色が落ちて
もはや黒子の本来の意味を成していないのにも関わらずまだ黒子ぶっているのは滑稽だ。
もうミエミエの黒子のいるつまらん劇に嫌気がさしている人も多いのではないだろうか。
なぜならここでのトラックバックはニアリーイコール2chでのアンカーであるから。
アンカーは「レスに言及していることを明示することで自分もレスが貰えることが期待できる」
という性質がとても強い。他のどのブログサービスよりも妙な共同体意識が強く、また
アンテナやブックマークなどの機能が呼び寄せた、または呼び起こしたヲチャ的気質も
強いはてなユーザーは、繋がりを持ちつつ離れた場所から指摘できるこの場所での
トラックバックを使わずにはいられない。はてなブックマークのコメントと同じである。
そして結果匿名ダイアリーはただの馴れ合い糞スレへと収束する。
しかし当初の匿名ダイアリーの方向性はどうだったろうか。いわゆる面白い日記を書くブログが
対価として獲得する功名心めいたものを放棄してこの場所に書かれた記事は、
またしても2chで例えると「チラシの裏」となる場合がほとんどだろう。
糞スレもチラシの裏も同じじゃん、と思われるかもしれないが、しかし
チラシの裏は、ここでしか見られない「チラシの裏の集合体」になる可能性を秘めている。
そして自分もその気持ちの悪そうなゴミをニヤニヤしながら眺めたいうちの一人である。
別にここからトラックバックを無くせと言いたいわけではない。
僕たちはただページの上の方にもう一度注目すればいいだけだ。