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はてなキーワード: 薔薇族とは

2024-10-23

はよ誰か書けと思ってる「最も重要マンガ10選」

1位 進研ゼミにおいて最も重要マンガ10選

2位 ガロにおいて最も重要マンガ10選

3位 コミックLOにおいて最も重要マンガ10選

4位 薔薇族において最も重要マンガ10選

5位 同人誌において最も重要マンガ10選

6位 はてなにおいて最も重要マンガ10選

7位 オタク教養において最も重要マンガ10選

8位 近代麻雀において最も重要マンガ10選

9位 新聞において最も重要マンガ10選

10位 最も重要マンガ10選において最も重要マンガ10選

2023-05-26

anond:20230519091148

から「男に生まれたけど心は女です」って言う人の感覚が俺にはわからない。

最初性的対象として意識する相手が、男なんだよ。

自分は男に生まれたけど、なんか男を好きになっちゃうんだけど?!

なんで?!

って疑問があり、その結論として、

(A)あぁ、私の心は女なんだわ

(B)あぁ、俺は、漢の中の漢、ハードゲイなんだ

の2種類に分かれる。

(A)は、オカマとかニューハーフ的な方向に行き、

(B)は、薔薇族とか買ってウホウホする。

男だけど、可愛いものがすき、フリフリが好きな人達には、絶対からない感覚だと思うし、

簡単理解できるものなら、そもそも問題にすらならないでしょう。

2023-04-01

ヤマジュンネタ完全に笑えない

4/1からしんどいわ、昭和ゲイ作家ネタにして笑ってる空気が当時からノリきれなかったけど

まだその空気引っ張るのかよって

本人に利益が行くならまだしも、消息不明なんだよな

孤児作品扱い?それとも薔薇族権利になってるの?

2022-08-23

N君は夜行バスに乗って

anond:20220822215327

夜行バスの思い出を気紛れに綴っていたら、連想ゲームのようにN君のことを思い出した。これも何かの機会だと思い、ここで書き残すことにした。予め断っておくと、ほとんど夜行バス要素は無いし、N君という呼び名も、星新一式のニュートラル呼称であり、実名イニシャルではない。

N君は、高校同級生で同じクラスだったが、特に俺と親しかったわけではない。俺の記憶の中のN君は、優等生でも不良でもなく、運動部所属でも文化部所属でもない、あまり目立たない帰宅部の生徒だった。

ここでド田舎高校あるある話を解説しておくが、当時の暗黙の了解として、生徒は部活動所属すること、しかも、運動部が最も望ましいとされていた。文化部は、運動部より一段低く見られ、帰宅部となると、教師保護者から胡散臭く見られるという始末だった。俺はといえば、オタクのくせに無理をして運動部所属し、体育会系集団と校内オタク集団の間を、コウモリのようにフラフラしていた。

そんな風にド田舎同調圧力に屈していた俺から見ると、校内のどのようなコミュニティにも属していないように見えるN君は、孤高というか不思議存在だった。

N君は、俺を含めた同級生との休み時間放課後の会話に、自ら積極的に加わったりすることは無かったものの、会話をする機会が有れば、分け隔てなくフランクに接して明るく話す程度には社交的だった。俺も他の同級生も、N君を特別に好きだったかどうかはともかく、特別に嫌ったりはしていなかった。帰宅部にも関わらず、運動部所属する生徒たちから見下されたりするということがN君はなかった。優等生でもなかったとは書いたが、話し方や物腰を思い浮かべるとN君の頭が悪いとも決して思えず、むしろ頭は良さそうに俺には見えた。

特にしかったわけでもない俺の、N君に関する記憶や印象は、おおむね以上のようなものだった。

在校中の特筆すべき思い出を残すことも無く、高校卒業して実家を出た俺は、田舎の度合いが出身地と五十歩百歩ぐらいの、他県にある大学へと進学した。

大学夏休み実家帰省してゴロゴロして怠惰に過ごしていた俺に、親は「在校中にお世話になった顧問先生に、挨拶ぐらいしに行け」と言った。仕方なく俺は、運動部OBとして母校に顔を出し、OBらしく後輩たちにアイスクリーム差し入れを振る舞ったりした。母校での野暮用を済ませ、帰宅するために母校から最寄りの駅へと向かった俺は、その途中で、偶然にもN君に再会した。市外から汽車(ディーゼル列車田舎ではこう呼ぶ)で片道一時間強かけて通学していた俺と異なり、N君の家は母校と同じ市内だった。

特にしかったわけでもないが「久しぶり」ということで、俺たちは喫茶店アイスコーヒーでも飲もうということになった。高校時代校則入店禁止されていた喫茶店に、今では堂々と入店できるということに、俺は開放感を覚えたが、その時のN君はどうだったのだろうか。

「今どうしてる?」という話になり、大学生としての暮らしについて、俺は適当に話した。昔も今もコミュニケーション能力に乏しい俺は、大学生になっても彼女もいなかったどころか、友人もろくにいなかった。だから、決して薔薇色の生活というわけでもなかったし、そんなに明るい話のネタも持ってはいなかった。しかし、そんな俺のつまらない話でも、N君は「良いなあ」と相槌を打ちながら聞いていた。ひとしきり俺のことは話したので、今度は俺が、N君のことについて訊いてみることにした。しかし、聞けば、大学専門学校などに進学するでもなし、働くでもなし、N君は何もしていないと言った。

少し言い淀んだ後、N君は俺に「悩んでいることがある」と切り出した。今でも、この時の話題をN君が特に親しくもなかった俺に切り出した、本当の理由はよく分からない。喫茶店自由に入れるようになった開放感からだったのだろうか。あるいは、田舎を捨てて他県の大学へと進学した俺のことを、進歩的偏見が少ない人間だとN君は見たのだろうか。単に、親しくもなかった赤の他人からこそ、却って話せたというだけかもしれない。

N君の悩みというのは、彼の恋の対象が、女性ではなく男性であるというものだった。

N君の話を聞いて、俺は驚いた。

N君が同性愛者であったことに驚いたのではない。俺が驚いたのは、N君が彼自身以外に「男性恋愛感情を抱く男性」の存在を知らなかったかであるストレートの俺ですら存在を知っていた、雑誌さぶ』や『薔薇族』などの存在も知らなかったと言われたが、その時の俺は、俄にはN君の言葉を信じ難いと思った。

しかし、後になって思い返した俺は、それほど有り得ない話でもないのではないかと思うようになった。同性愛であることを子供からカミングアウトされた親の中には、同性愛治療可能な病と考えて、何とか"治そう"と試みる人間が少なくないという。だから、もしかしたらN君の親も、そんなふうに"治そう"とか"悪化を防ごう"とかするために、N君が彼以外の同性愛者や性的マイノリティに関する情報へとアクセスする機会を、奪っていたのではないだろうか。スマホインターネットも無かった時代のド田舎で、子供経済的支配している親の立場ならば、情報遮断もある程度は可能だったと思う。N君がどうだったかは覚えていないが、俺の同級生の中には、テレビお笑い番組を観ることを、親から禁じられている人間が何人もいた。お笑い番組などでは笑いのタネ同性愛者が持ち出されることは珍しくなかったが、そういった俗悪番組などを観ることを禁じられていたとしたら、自分以外の同性愛者の存在を知らなかったということも有り得るかもしれない。

「えっ、そんな雑誌があるの?!」

「そうだよ、男の人を恋愛として好きになる男の人は、なにも世の中でN君だけじゃないよ」

逆にN君の方こそ、俺の言うことが信じられない、自分の他に男性恋愛感情を抱く男性存在するなんて信じられない、という表情だった。

別に俺は、高邁な思想の持ち主などではなかったし、世の中の差別を無くすために戦う人間でもなかった。過去形表現したが、現在形で表現しても俺は「そのような人間ではない」。しかし、そんな俺でも、N君が理不尽に苦しんだり悩んだりする必要は何も無いとは思った。とはいえ、若くて馬鹿大学生だった俺に、まともなアドバイスや励ましをN君に与えることが出来るはずも無かった。『さぶ』とか『薔薇族』の存在の他に、何か俺がN君に教えられることが有るかと、無い知恵を絞って出てきたのは、俺が夜行バス東京に行った時に、新宿駅の雑踏で見た、今風の言葉で言えばオネエと言われる人たちの集団のことだった。俺は馬鹿である

新宿二丁目には、そういう人たちが集まるお店が、沢山有るんだよ。俺、東京に行った時に新宿駅で、そういう人たちの集団を見たよ」

実際に新宿二丁目に行ったことも無いくせに半可通の知識から発した、今から思えば我ながら馬鹿発言だ。それでも、その時の俺は、馬鹿なりに「N君は『独りぼっち』ではない」と言って励ましたかったのだ。とはいえ、当時のN君との会話の中で、俺は「オカマ」や「オカマバー」という言葉を頻繁に使ったと記憶している。励ましたいと思いながら差別表現を使っていたのだから、今でも俺は恥ずかしくなる。その上、明るくひょうきんなオネエたちと、同性愛者とを安直イコールで結びつけるという思考は、粗雑で乱暴ものだったと言うほかない。

兎に角そういった話を聞いたN君は『さぶ』や『薔薇族』の存在以上に、俺が新宿駅で見たという人たちの存在実在に驚いたようだった。その人たちの様子を訊かれたので、俺は、思い出せる範囲で、彼女たちの服装とかメイクとか、かしまし面白おかしい会話の様子とか、堂々とした態度とかをN君に話した。特に彼女たちが明るく堂々とした様子だったところ、自由に見えたところに、N君は深い感銘を受けたように俺の目には見えた。

そろそろ俺の帰宅するのに乗る汽車の発車時刻が近いという理由で、喫茶店でのお喋りを切り上げると、別れ際にN君は俺に「ありがとう、色々と教えてくれて」と言った。大袈裟なぐらいに何度も、N君は「ありがとう」と言った。駅へと向かう俺を、N君は喫茶店の前で見送ってくれていた。

その後、N君と会ったり連絡を取ったりというドラマチックな出来事特に無い。だから、その後のN君がどうしたのか、どうなったのか、故郷に残ったのか、それとも出て行ったのか、俺は何も知らない。

俺の勝手空想の中では、その後のN君は、故郷を出て、何処かの都市部リベラル場所で、仲間と出会うことが出来て、孤独ではなくなったという筋書きになっている。その俺の空想の中で、故郷を出て都市へと向かうN君は、夜行バスに乗っている。俺がN君のことを、勝手に俺自身と重ねているからだ。

たか夜行バスに乗って、何回か東京その他の場所に出掛けたからといって、田舎っぺで馬鹿な俺が、顕著な人間的成長を遂げたりするはずもない。また、故郷を出て東京その他の場所に移り住んだからといって、必ずしも薔薇色の人生が待ち受けているとは限らないことも、今では俺も理解している。

それでも。

それでも、夜行バスの旅は、若くて井の中の蛙の俺に、新鮮な風景を見せ、田舎では触れることのできなかった、新鮮な空気文化的産物に触れる機会を与えてくれた。たか新宿駅でオネエの人たちを見ただけにすぎないという体験ですらも、若くて田舎者だった俺にとっては、貴重な体験機会の一つだった。俺にとって夜行バスは、そういう思い出と結びついている。

から俺は、その後のN君が、彼にとっての夜行バスを拾うことが出来ていれば良いなと、今でも思わずはいられないのだ。

2021-07-23

anond:20210723192535

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1042354075

薔薇とは「男同士の愛の場所薔薇の木の下だった」 というギリシア神話が元になっています百合とは語源男性同性愛者向けの雑誌薔薇族』の読者投稿コーナー「百合族の部屋」で、1970年代に同雑誌を通じて男性同性愛者を指す薔薇族の対義語として百合族という言葉薔薇編集長伊藤文學が提唱したことによると言われています

らしいです。

2021-07-17

anond:20210717194450

腐男子ってゲイでないのに腐女子と同じようにBLを嗜む男子の事を言うのでは?

BLを読むゲイって薔薇族を読んでるゲイとそんなに違いないと思う

2021-05-22

オッサンエロ絵を流し見するのが好き

たとえばアマゾンプライムにあるInvincibleってアニメに、オムニマンってキャラがいる

オムニマンヒゲ面のマッチョオッサンで、適度にいかめしく、適度にシュッとしている

キャラクター性も怖さと人間味がいい感じに同居していて魅力的だ

そういうキャラゲイ(?)人気が出がちみたいで、なんとなくTwitter検索窓にOmnimanと入れたら、"Omniman bara”とサジェストされた

Bara、おそらく薔薇族とかからきたネットスラングっぽくて、まあ言ってしまえば男のエロ絵につけるタグっぽい

知らんかったので、baraってなんや?と思ってサジェストに乗っかった

オムニマンエロ絵が並んでいた

俺は嬉しかった

自身ゲイでもバイでもないので、性的には全然グッとこないし、そういう意味ではむしろやや不快なくらいであるはずなんだが、なんというか、「自分とは違う嗜好の人間が"好き"を詰め込んだ絵を描き、同志たちが評価している」って状況を眺めるのが好きなんだよな

遺跡が発掘されてテンション爆上げの学者テレビで見たとき気持ちにも近いかもしれない

オッサンのどこが強調され、どんなシチュエーションが描かれるのか 俺はそれを想像できないので、新鮮さがある

なるほど、そうなるのかあ!

いいキャラがいてよかったねえ……

みたいな、謎の上から目線でホッコリ気分になる

しかすると、ゲイ(等)の人も女のエロ絵見て同じような気分になってんのかな、と思うと、ちょっと楽しい

2020-10-21

オタク二次元レズっぽいのを百合って呼ぶな

自分名前百合からってのもあるし、

百合の花が好きなのに検索すると出てくるのが嫌だ。

現実同性愛とごっちゃにしないためなのか

検索で引っかからないようにしてるのか知らないけど、

元々ある単語物事を表すのやめて欲しい。

そもそもの由来は男同士の薔薇族を真似てるんだろうけど

それだってBLって名前を変えたりして薔薇とは呼んでないじゃない。

界隈で楽しくやる分には良いと思うから

何か違う単語に変えて欲しいよ…

2020-07-10

anond:20200710180747

「80年代」も10年間あるしそこで多少花開いた部分もあるけどBLのような堂々たる同性恋愛讃歌がでてくるのはまだだ

小説JUNEで栗本がBL小説講座はじめたあたりだ

(栗本はすぐ悲恋とかつらい恋を描く作家で100巻つづくあれも結局大河BLだった

しかしそういう壮大な障害悲恋要素がある同性愛でないと読者や出版編集者が主流として受け入れなかっただけでゲイ向けもちゃんと有るにはあった)

風と木の詩ポーの一族日出処の天子、全部悲恋もの

小説JUNEにでてくるのは近親ものかばっか

そいつは確実に腐男子と名乗れたり反感持てるほどの作品数みてない

薔薇族筋肉男もみてないだろ

最近ネット若い人みてて尻馬にのたかっただけのただのゲイ名乗ったかまってじじい(もしくはババア)なのでは

よくみれば田亀もtom of finlandJUNEとかで取り上げられてたぞ

売れてる即悪じゃねえだろ 理解が増えていくシーンだ、よかったなだろ

ものほんゲイならとっかかりをみてチンチンの導くままにちゃんと調べるはず

姉妹におしつけられたとかそういう愚痴ならわかる

anond:20200710174340

横だしツイートもみてないけど40年まえにBLってことば自体がないし耽美派文学だし

稲垣足穂か風木くらいしかなかったのになにいってんだ

日出処の天子もたしかまだだぞ

明らかに釣りだぞ(か、食わず嫌い偏見王)

ゲイならちゃん薔薇族投稿欄でも目を皿にして読んでろと小一時間

なりすましにつられておどらされるBL擁護派も不勉強なのでは

2020-07-05

名誉ノンケ」のゲイに言いたい

名誉白人日本人白人にはなれないし、名誉男性の女は男になれない。でも名誉ノンケゲイノンケとして生きることができるよね?なぜそうしないの?女と結婚してセクロスして子供作って社会的に誰がどうみてもノンケとして生きればいいじゃん。ま、クローゼットゲイの中にはそうしてる人もいて、ネットでだけ名誉ノンケとして活動してるネットゲイも中にはいるんだろうけどさ、大抵はそうじゃないんだよね、名誉ノンケくんは。ゲイカミングアウトしつつ自民党を支持して杉田水脈の「LGBT生産性がない」発言咎めず、一橋アウティング自殺した側を叩き、「日本にはゲイ差別はない、他所と違って殺されないだけマシ、すぐ差別だと騒ぐゲイは甘え」とか言っちゃう裏切り者の「名誉ノンケ」くんの方が目に余るかな。薔薇族編集者のいう「ゲイゲイ嫌い」が進化してネトウヨ属性を併発しちゃってるパターン現実をみよ、と言いたいね。お前らナイーブすぎます日本同性婚を認めずネット上にはLGBT差別するスラングが溢れてる国です。薄々気づいてるかもしれないけど多数派ゲイ合する努力をしても、彼らマジョリティゲイを見下してるし、ゲイを受け入れないからね。声を上げてこそ変わる。俺は被害者だ!差別やめろ!って声をあげないと認識すらされない。そこまず理解して。あと、裏切り名誉ノンケ共は俺たちリベラルゲイ努力同性婚が実現してもその権利フリーライドするなよ。俺はお前らがクズだったこと一生忘れないから。

2019-06-03

anond:20190603185809

例が良くない

百合」は、ゲイをさす「薔薇族」の対義語として

すでに昭和後期から非オタ文化圏で使われとる

オタ文化圏無関係な実写レズポルノ

「××百合族」とかい作品、昔からそこそこあったよ

で、21世紀に入ってマリみてとかがブームになって以降

女性同性愛をさす適当語句がなかったか

すでにオタジャンル外で枯れた用語になったもの

さら引っ張り出して適用した次第

もうちょっと純粋オタク文化圏内発祥して

意味が変転してしまった語句実例を挙げてくれや

2019-02-16

百合ジャンル歴史現在 前

 本稿では、BL/やおいと比べ論じられることの少なかった「GL/百合ジャンル確立歴史と、その現状について考察する。

 はじめに、「百合」というマンガアニメにおけるジャンルを示す言葉概要説明する。「百合」とは主に、女性同士の恋愛と、それに満たない関係性も含めて描いた作品ジャンルを指す。川崎によれば、定説として語源ゲイ雑誌薔薇族」に由来する。男性同性愛を指す「薔薇族」と対になるよう、女性同性愛者を「百合族」と呼称した「百合族の部屋」というコーナーが1976年から不定期連載されるようになったのが始まりであるとされる(川崎2014:44)。当時はレズビアンを指す用語だったが、徐々にサブカルチャーに輸入され女性同性愛を扱った作品群を呼称する言葉に変化していった。

 まず、日本での「百合」のマンガジャンルとしての成立について述べる。そもそも大正ごろの日本においてマンガとしての形態以外で女性同性愛テーマにした創作物としては、性描写過激男性向けポルノか、少女向けの小説に二分されていた。特に女学生同士の姉妹関係エス」をテーマにした少女小説金字塔として、「花物語」(1925)などが代表される。しかし、大正時代少女文化として流行した「エス」の概念現代の「百合概念とは違い、上田は「自覚的女性を愛することを選択したというよりは、良妻賢母になるための安全なる予行演習という側面もあった」と述べている。(上田 2014:192)

マンガが発展し、女性同士の関係性を主題とした最も初期の連載作品1970年代ごろから山岸涼子「白い部屋のふたり」(1971)、池田理代子おにいさまへ…」(1974)、「ベルサイユのばら」(1972-73)のオスカルロザリーなどにみられはじめる。これらは、「24年組」に代表される少年愛テーマとしたマンガと同時発生的に少女マンガ誌に掲載されたものだ。藤本は、このころの百合マンガの大きな特徴として

 ①対照的な二人の容姿(中性的・くっきりとした美人可憐少女イメージ)

 ②演劇モチーフ(宝塚歌劇の影響)

 ③悲劇的なストーリー(少年愛を扱う作品対照的同性愛による葛藤描写)

を挙げている(藤本 2014:101)。これらの特徴は、1970年代女性の抱えていた抑圧感を反映していたものなのではないかと考えられる。女性作家による「少年愛」が現実の抑圧から解放として、性的未分化存在(少女)の何物にも縛られない感情の動きを描写したものなら、このころの「少女愛」はそれと対照的に、抑圧からの逃避としての悲劇的な結末が設定されることが多かったのではないだろうか。表現手法舞台設定は耽美幻想的でありながらも、当時の日本での女性のおかれる立場に忠実な閉塞感が描写されたものだと考えられる。また、この時代百合マンガ少年愛ほどの大きなムーブメントには発展せず、作品数も多くはなかったため、自然消滅的に衰退していった。

 しかし、1990年代同人誌文化の発達に伴い、百合ジャンルも急速にその勢いを復活させる。

まず、「美少女戦士セーラームーン」(1992-97)によって、女児向けマンガにおける戦う美少女という概念ジェンダー論的な観点においての大きな転換点となる。異性愛的な要素が物語の中心に関与していたにもかかわらず、同人イベントではセーラー戦士同士のカップリングを描いた作品が爆発的なブームとなった。その理由として考えられるのは、消費される客体としてではなく主体としての戦う美少女像が確立されたことではないだろうか。これにより、百合的な描写70年代における悲劇的な結末に向かう物語ではなく、少女が二人で主体的に幸せを獲得していく過程が重視されるようになっていったと推測できる。

そして、物語の中の関係から百合文脈を汲み取っていた時代から、前提として百合のもの主題においた作品も増加していく。代表的なものとして、「少女革命ウテナ」(1996-98)がある。この作品は、古典的少女マンガシンデレラストーリーを基盤に「王子様」と「お姫様」を少女同士に置き換えてなぞりつつ、70年代百合作品に見られた演劇的なモチーフや学園モノ、男装美少女といった設定を取り入れ、また絵柄としても耽美で繊細なものであったが、これらは意図して行われたパロディ化された演出だった。ストーリーの結末も、最終的には二人が離れ離れになる点は悲劇的にも取れるが、その後ヒロインたちの再会が示唆されている。アライによると、「王子様」と「お姫様」が結ばれてハッピーエンド、という構造少女同士で反復するだけではなく、最終的にヒロインたちは「王子様」と「お姫様構造破壊し、自身覚醒させ歩き出すことで、社会的女性規範を打ち砕くことができるのだ。(アライ 2015:57)それこそが「世界革命する力」であり、この結末によって投げかけられたのは、異性愛規範や家父長制へのアンチテーゼと、黒人女性解放運動日本女性ウーマンリブ運動などの背景を踏まえた社会的メッセージだった。

これらの2作品によって、社会的な動きと呼応した百合マンガの潮流が形作られはじめる。「セーラームーン」も「ウテナ」も少女マンガ誌に掲載されており、本来ターゲット層は10代の少女対象にしていたと考えられるが、ここでのプラトニック少女たちの絆がオタク層にも受け入れられ、恋愛的な文脈解釈した成年層による二次創作が爆発的に流行する。これと同時に一次創作オリジナル同人誌においても、「百合」という概念が定着しはじめ、少女同士の恋愛主題にした作品がみられるようになる。

 そして2000年代に入ると、マンガジャンルとしての百合を専門に掲載した「百合姉妹」(2003-2005)が発刊される。その後、「コミック百合姫」(2005-)に統合され、現在刊行中。専門誌の発刊は大きなジャンルの発達の手掛かりとなり、この雑誌に連載されていた作品アニメ化や二次創作流行によって、「百合」というジャンルがはっきりと定義されはじめ、広く認知されるようになっていく。しかし、その定義に関して「男性が主要人物として登場し、恋愛関係に介入する」「性的関係が生じた場合百合ではなくポルノ」などといったさまざまな議論が巻き起こったのもこの時期である

また同時期に、「神無月の巫女」(2004-05)や「舞-HIME-」(2004-05)などの少年誌で連載される百合作品が登場する。これらの作品は、少女マンガ作品よりも直接的な同性間の恋愛としての描写性的表現が強く押し出されていた。ここから現代男性向けと女性向けの要素を同時に内包した現代百合マンガ形態確立しはじめたといえる。2007年には、前述した「コミック百合姫」の姉妹紙として一迅社からコミック百合姫S」と「コミック百合姫Wildrose」が発刊。「S」は本誌よりソフトで繊細な関係性の百合を扱い、なもりゆるゆり」(2008-)が代表するような「日常系百合」の流れを作った。一方「Wildrose」は、それまで成人向けポルノとしての過度な性描写忌避されがちだった(厳密な定義での「百合」ではないとされる議論があった)当時の風潮の中、直接的な性描写掲載した作品を扱う専門誌として独立した挑戦的な試みだった。

 ここで、2008年に行われた「コミック百合姫」の読者アンケートを参照してみる。2008年7月号時点の『コミック百合姫』読者の男女比は男性27%、女性73%であるのに対し、『コミック百合姫S』の方は男性62%、女性38%となっている。つまり現在統合された「コミック百合姫」の購買層は、この男女比を単純に平均すると男女差はほぼ半々で、やや女性読者のほうが多いということになる。ここでは百合マンガの購読層を性別と消費の形態に4つに分類して考察した。

①「傍観」型女性

 女性購読層において基本的には、社会的比率を前提にすると異性愛女性のほうが多いと考えられる。彼女たちは少女同士の関係性に、「現実における異性愛ジェンダーロールによる苦痛から隔絶された「非現実的な同性間による越境快楽」を心の拠り所として愛好するのではないだろうか。なおこれについては、やおいBL ジャンルを愛好する女性においてもほぼ同じ理論適用できる層が存在すると思われる。

②「投影」型女性

 百合というジャンル性質上、他の恋愛形態をメインとしたジャンルよりもレズビアンバイセクシャルを自認する女性が購読層に多い傾向にあることは考慮するべきである彼女たちは、異性愛女性が「少女マンガにおけるロマンティクラブ」を夢見るのと同じように、自身性的指向に一致した自己投影先として「百合マンガにおけるロマンティクラブ」を享受していると考えられる。

③「傍観」型男性

 百合自分投影先の存在しないストーリーを消費するものとして受け取っている購買層。①「傍観」型女性とほぼ同じ論拠が適用できると考えられる。

④「投影」型男性

 百合マンガ登場人物自己投影する男性は、ジェンダーロールから解放と、女性との恋愛の疑似体験を同時に達成できる。この購読層の性的指向に関しては、社会的比率として異性愛男性が多いと思われるが、異性愛コンテンツNL)ではなく百合GL)を愛好する彼らに関しては、③「傍観」型男性よりさらに複雑な感情ルーツを持っていると考えられる。また、TS願望を持つ男性MtFとは区別する)や、同性愛男性共感を持って少女同士の関係性を愛好する例も、この枠にひとまず収めることとする。

⑤「乱入」型男性

 特に男性向けの性的描写の含まれ百合マンガ等においては、その世界の中に没入し登場人物の中に「混ざりたい」という観点で消費する層も存在する。これは上記の4つの例と異なり、少女同士の関係性ではなく「(男を知らない、穢れのない存在として描写される)レズビアンである少女を自らの男性性によって屈服させたい」というマウンティングによる性的欲望や、男性主人公やその代わりとなる女性キャラクター存在しない「ハーレムもの」といった受け止め方に由来するものと思われる。ただし、これらの男性百合ジャンルファンから忌避される傾向にあり、特に近年の百合主題とした作品においては減少している。

これらのファンがそれぞれ百合というジャンル定義について議論を重ね、各需要を満たすような創作物制作していったことにより、百合ジャンルが発展していった時期だった。

次に、2010年代百合文化を振り返る。このころに代表的な作品として挙げられるのはテレビアニメ魔法少女まどか☆マギカ」(2011)だろう。この作品は、「セーラームーン」にルーツもつ戦闘美少女系譜を受け継ぎながら、現代調に前提として百合意識して構成された作品ひとつで、魔法少女同士のカップリングを扱う二次創作が爆発的に流行した。

 また、少女マンガ誌において百合を扱った作品が満を持して再び登場する。70年代以降、異性間のラブストーリー(NL)に偏っていた少女誌において約30年ぶりに百合が復活した形で、「野ばらの森の乙女たち」(2011)や「ブルーフレンド」(2010―2011)が連載された。これらの作品は、少女漫画特有の筆致でありながらも明確な少女同士の恋愛関係としての描写があり、また両作品とも70年代のような悲劇的なラストを迎えることはない。少女向けの要素として、学園設定や疑似姉妹などの設定は残されているものの、これらは批判的なパロディというよりも前時代少女誌における百合作品に対する敬意からくるオマージュ解釈するほうがふさわしいだろう。これは近年において少年誌よりもジェンダーロールの強固だった少女誌界隈に百合ジャンルブームの波及がみられた、極めて注目すべき例である

<続きと参考文献リストこちら>

https://anond.hatelabo.jp/20190216025236

2018-11-09

恋愛界における百合は綺麗なのに薔薇は汚い。

しかし、薔薇という植物は綺麗だと思う。

薔薇族の編集長は、なぜ薔薇隠語に用いたのか。

2018-07-02

薔薇族」ってキレイ名前だよね

薔薇が好きな仲間って、きっと素敵な人達なんだろうな

2018-05-04

ヤマジュン

薔薇族の読者からはうけが悪かったらしい

田亀ゲンゴロウみたいな絵を求める人が多かったようだ

言われてみればキャラがびっくりした時の顔が

(☆ワ゚;)って感じで表現少女漫画ぽいんだよな

anond:20180504185121

せめて、薔薇族を読んでって思うよねー

2018-04-23

20年前に上野ゲイ映画専門館へ行った時のこと

隊長のふとした一言と某隊員の熱望により、ついに実現したツアーといえば、「第一東京ブラックツアー」で決まりである東京ディープスポットを探訪していくという、とてもわかりやすいコンセプトが唯一の自慢である。今回は初回であるし、ディープ場所から抜け出せなくなることを避けるため、ツアーは昼間に行われることに決まっていた。それなのにそれなのに、予想通りというべきかいつもどおりというべきか、隊員の集まりは悪い。全然時間どおりに集まらない隊員、この先の我々の運命を暗示するかのような曇天、どんどんと下がるテンション、等々の様々な悪条件の中、我々は出発した。その出がけ、玄関で見知った顔を見つける我々3人。当然のごとく強制参加させ、隊員の数は4人に急増した。4人といえばSPEEDと同じ人数だ、これでもう心細くないね

曇天上野公園、しのばず池にいる鳩や鴨達も心なしかブラックに見える気がしてならない。今にもあの平和使者である鳩が俺達を襲うのでは?、と意味不明疑心暗鬼が次々とわき上がってくるほどに気分はダークである目的地へ近づくにつれ、隊員の緊張は見てとれるほどになり、武者震いなのだろうかしきりと震えだす隊員もでる始末。そう、例の場所に向かう我々の姿を客観的に見れば、怪しい4人組=おやじSPEED(暗黒)といっても過言ではなかっただろう。目指す場所上野某所の映画館である。「ほら、あそこだよ」という隊長言葉に、なんともいえない緊張のさざ波が隊員達を駆け抜けた。その場所は、少し歩けば大通りに出てしまうくらい人通りは激しい所だった。

その映画館はそこにあった。紛れもなく、そこに。映画館は2階らしい。あせるな、と思いつつ上映時間確認する我々隊員。まだ上映開始まで時間があるようだ。合議の結果、若者が集うゲームセンター時間をつぶすことになった。しかし、どの隊員も緊張のせいかゲームには手を出さない。いや出せなかったのだ。あと数分後に行かなければならないあの場所のことを思うと。上映時間が近づき、なにはなくともとりあえずトイレ希望する隊員が続出する。しかし、京成線の駅のトイレには紙がなかった。とても嫌な予感がする。嫌な予感がビンビンするよ!

トイレの事は諦めて、我々はその映画館へ向かった。ちなみに映画は2本立てである。これから約2時間の長丁場であるしかし、隊員1号はそのことを知らなかった。このことがあの悲劇の序章だったとは、全隊員露ほども思っていなかっただろう。年季の入った階段を縦列に並んで登る途中にも、映画を見終わった人達だろうか、次々と人が階段をおりてくる。もう誰も信じられない、あの人もこの人もそういうのなのだ、そうなんだあの中ではすざましい饗宴が繰り広げられているんだ、と思いながら階段を登っていくと、「ヤング薔薇族ショー」という看板が突如現れる。ますます下がるテンション。ふと階段の上を見ると、そこにはいかにもなもぎりのおばちゃんがいた。一番最初階段を登り切った一人の隊員が、おばちゃんに近づくと、何かを指さすおばちゃん。そうである自動販売機切符を買うのであるハイテクである自動販売機へ向かった隊員へ、たたみかけるようなおばちゃん言葉が襲いかかる。「どっち?薔薇族学生さん?」。思わず「は、はい」と答えてしまう隊員だった。実はそこには劇場が2つあり、切符売り場は共通だったのである。もうひとつ映画館ピンク映画館だった。次々と無言のまま切符を、学生切符を買う我々隊員であった。血の契りを交わしあい、相当に団結しているはずの隊員達であったが、その時には既に他の隊員を省みる余裕はなかったようで、会話を交わすこともなくなっていた。そして、ひとかたまりにはならずに、ひとりひとり左奥にある劇場へ向かうのであった。

妙な圧迫感。第一印象はこれにつきている。72席あるという座席は、ぱらぱらとしか埋まっていない。それなのに、壁際にたつ人が異常に多い。なぜだ。と、座席を見渡して、先に着席していた隊員を見つけると、思わず安堵の息をもらしてしま自分がいじらしい。あれ、でも、事前のミーティングでは一番後ろに座ろうと決めたはずじゃあ。。。何故か入り口のすぐ側の列、後ろから4列目ほど、に整列して座っている隊員達であった。その顔は暗い。その場の嫌な感じに、その顔は真っ暗であり、しかも皆うつむいていた。一番最後劇場入りした隊員1号は、既に着席していた某隊員の左隣に座った。隊員1号の左隣は一番端の席である。そう、その時点ではスクリーンに向かって一番左の端の席が空いている状態だった。ふと嫌な予感、突然の頭の回転、第六感で席をうつる。当然、左端にである。それは、隣を空席にしておくのは危険すぎるという判断からだった。身の安全を確保したあと、少し落ち着いて上映開始を待つ間、なにか生暖かい気がしてならない。しかポマードなのかなんなのか、嫌な匂いエアコンから暖風とともに排出されているようだ。もうテンショメーターは左に振り切れ、ほぼ0になっていた。

ブザー、暗転、上映開始。まわりは気にせず映画に集中しよう、と心に決めて観賞を開始する。初っ端から現代映画とは思えないチープ感が漂っている。なんなんだあの貧相な女優は。と思っている間に、例のシーンに。変則的な格好に思わず心の中で笑ってしまう。これがそうなのか、と訳も分からず納得している自分。そしてストーリーは展開を見せはじめるのだが、映画に集中などできなかった。ストーリー自体のしょうもなさもさることながら、それよりも気になったのはまわりの人間達、隊員以外の動向だった。のれん状のカーテンが掛かっているだけの、ドアのない入り口のすぐそばに座っているせいか、上映中にも頻繁に出入りする人々が気になるのである。そして、席に座ったとたんに立ち上がって壁際に立ったと思ったらすぐに別の席に座る客が気になるのである。そして、壁際に立つ人の後ろに立って腕を前の人にまわしている人が気になるのである。その場所で、落ち着いて映画を見ることは不可能であった。このくだらない映画はいつ終わるのか、そんなことばかり考えはじめたのは、まわりの人間模様が気になりはじめたのと同時だったかもしれない。その間にも、入り口付近では相も変わらず人が頻繁に出入りし、通路に出て奥にあるトイレの方へ向う人あり、がら空きなのに人の隣に座る人あり、映画よりもその様子が気になってしようがなかった。いつか、それは我慢の限度を超えるほどに。

1本目と2本目の休憩時間に他の隊員と一緒に抜け出そう、と決めた。その時決めちゃったのである。とにかくこの場所から早く抜けだしたかった。いつだいつだいつ終わるのだ、と思っているうちに、映画はどうにかスタッフロールまでたどりつく。当然普通映画館でよく見られるような、スタッフロールで立ち上がり帰る客はいない。いつもはそんな客を苦々しく思っていた隊員1号も、この時ばかりは一刻も早く立ち去りたかったのはいうまでもない。終了。「1999(映倫)」の文字驚愕する。最新の映画だったのだ。あの映像感で。それよりも、ようやく帰る事ができることが嬉しいかった。しかし、ライトよ早くつけ、と熱望しているのに、なかなか客席のライトはつかない。ライトがついたら全員で帰ろう、と思っていたのにライトはつかない。そう、その時、次の映画がはじまってしまった。2本立てなのだから当然である。軽い衝撃を受けつつ、あと1時間我慢するか、いますぐ立ち去るか、立ち去るなら他の隊員にはどう伝えるか、数秒の間に色々な考えが渦巻く。そもそも、大抵の映画館なら休憩時間におしゃべりしているうるさいカップル等が必ずいるものだが、この映画館には言葉存在しない。無言のコミュニケーションがその場を支配している。とても他の隊員に話しかけられるような状況ではなかった。もし、今左端に座る自分がいなくなると、某隊員の左隣には二つの空席ができてしまう。それはきつい。自分だったらそんな状況は嫌だ。でも、この生暖かい嫌な雰囲気にあと1時間は耐えることはできない。すまない、と心の中でつぶやきつつ、他の隊員には無言で席を立ち、もぎりのおばちゃんの前を抜け、逃げ去るようにその場を立ち去った。つらい選択であった。すまん。

しばらく映画館付近で待つが、他の隊員が出てくる気配はない。あと1時間耐えることを決めたのだな、と判断して、ツアーからひとりぼっちの帰還を果たした。なんともいえない疲労感をかかえつつ。その頃、あの映画館では、左端に二つの空席を抱えこんだ某隊員に緊急事態が起きていた。その列の左端に座る見知らぬ人。この時点でおかしい。席はがら空きである。そのうち席をひとつ右に移る見知らぬ人。完全におかしい。席を移る意味がわからない。そして、見知らぬ人の右手が某隊員の左膝に。。これ以上は詳細不明のため描写できないが、その隊員が無事帰還したことだけは記録しておきたい。

脱力感、疲労感、倦怠感。どうやら全員無事帰還した我々隊員は、今日の日の事を忘れたくても決して忘れられないだろう。そして、この記録をここに残すことによって、あなたの心の中にもいつまでもこの体験は残り続けるだろうし、どこかの誰かによって語り継がれていくだろう。疲れた

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