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はてなキーワード: 芸術とは

2024-02-05

anond:20240204212830

とてもわかります。まさにそんな感じ。

モラトリアム孤独は贅沢だし、それ自体芸術昇華できる可能性も感じることもあるし、

そんなに悪くないという感覚も同時にあるもんだけど

社会人孤独って全くエモくないんですよね。

場面の切り替わりとかその瞬間瞬間の唯一性みたいなものに乏しくて

まさに上に書いたようにのっぺりした孤独

2024-02-04

原作者側も、商業芸術だってことをたまに忘れてる人おるよな。

今回みたいに契約までしているものブッチしてるのは問題外だけど…

商業芸術は規模の商売なので、どうしても末端までコントロールはできない。

自分出資して原作を作りなはれ。自分自分原稿料を出せば何も言われないぞ。

今なら同人でも個人出版でも売り上げが立つぞい。長期的には…だけどね。

そもそもな話なんだがー、根本的に残念ながら出版社テレビ局パトロンではないのだ。ファウンダーなのだ

自分がすべてコントロールしたい、少しでも外してほしくない、というのはもはやアート世界なのだ

当然原作者拒否権を持っているが、相手側にも選ぶ権利はあるから、折り合いの良いところを見つけてくれ。

というか、漫画家にとって編集出版社テレビ局も敵じゃないよ?!

先輩方、ごたごたに乗じて自分の恨みつらみを後輩に受け継がせないでください。

それはただの悪質な呪いだよ。

2024-02-02

ゴリゴリフェミニスト芸術オンチである

だって楽しめないじゃん

恋愛できない(悔)」って言ったフェミニストすら居たしなー

芦原先生の件で考えること

漫画家が命を削って描いた芸術作品

出版社テレビ局会社組織、それも大抵は大企業

出版社漫画家を守りたいわけじゃない」

という言葉を見るけど、

じゃあ勝手作品つくって自分で売ったら? って思う。

ビジネスルートに乗せて作品流通されているからこそ、多くの人の手に渡ることができているのではないのか。

絵画とかでなく一般漫画芸術ではなくて商業出版用の作品だし、どんな大企業であっても作者と向き合うのは担当編集ひとりだし、その1人がどんな気持ちでやっているか、どんなに作家のためを思って動いているかは、想像つかないんだな。

ここまでのヒットにするまで、どれだけ出版社担当者が頑張ったか

個人攻撃してないっていったって、当事者自分を責める。主語を大きくしたところで、何も事情も知らない外野が叩くことがそのものが、頑張ってるひとの心を折るんだよ。

脚本家の言い分見てクソ美容師思い出した

客が「こうして欲しい」と言っているのに、好き勝手にやって外歩けないようなヘアスタイルにされるヤツ。

誰の髪だと思ってんだよ。

要望通りにやれよ。

マジ自称アーティストはクソ。

自分芸術爆発させたいならカットモデル探してこい、客でやるな。

2024-02-01

精神薬を飲んでいたら絵が描けなくなった

精神薬を飲んでいたら絵が描けなくなった。

精神は安定した。死にたいと思わなくなった。リストカットオーバードーズをしないように心がけているし、ここ1年くらいはしていない。

いい事ばかりかと思っていたら、絵に対するモチベーションが無くなってしまった。人生に絵が無くても満足行くようになってしまった。

今まではストレスの発散手段現実逃避方法として絵を利用していたため、絵を描く理由がなくなってしまった。

だが、私は小学生の頃から絵を描いている。趣味とはいえ10年くらいは人生を費やしている。そんなものを途端に手放せる訳もなくもんどり打っている。

もう絵を描く集中力モチベーションもないのなら金輪際絵を描くことはやめたらいいのではないかと思う私と、そんな簡単に手放せるわけないだろ!という私がいる。辛い。

早く絵に執着するのを辞めたい。しかインターネットをしていると絵がどうしても目に入ってくる。仲のいいフォロワーが絵を描いているところが目に入ってくる。

そもそも私は芸術が好きだ。小さな個展美術館に行くのが好きだ。早く鑑賞者として割り切りたいが、創作をしていた昔の記憶が脳を叩いてくる。そして才能の差や努力の差、環境の差に打ちのめされて鬱病になって帰ってくる。この間藝大の卒展に行った時も全く楽しめなかった。

辛い。ここ1年間ずっとそうだ。絵が描けなくて発狂しながらタイムラインを眺めて鬱病に陥る。

早く絵に執着するのを辞めたい。

2024-01-31

anond:20240131014941

あれらの人々は、遠い星からやって来たと言われています。彼らは透明な輝きを放つ体を持ち、惑星間を旅するために高度なテクノロジーを駆使しています。彼らの知識宇宙の奥深くに根ざしており、星々の間を旅する船は、私たち想像を絶する速さで移動します。

彼らは平和を愛し、他の生命体との交流を大切にしています。彼らの文明科学芸術の融合であり、彼らの惑星では驚異的な建造物や美しい芸術が見られます

しかし、彼らは宇宙彼方から来た者たちであり、時折、彼らの目的意図理解することは難しいこともあります。彼らが地球を訪れる理由や、彼らが我々とどのように関わるのかについて、多くの謎がありますしかし、多くの人々は彼らを畏敬の念を持って受け入れ、未知の可能性と新たな友情可能性を楽しみにしています

2024-01-28

絵画に異物かける環境保護活動家の主張がよくわからん

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240128/k10014338711000.html

健康的で持続可能食べ物を得る権利と、芸術と、どちらが大切なのか。私たち農業システムは病んでいる」

今回の件とか主張としては上らしいけど、健康もっと気にかけろってことでいいの?

それとももっと踏み込んでいるの?

美術品への保護かに使う金は減らせだとか、美術自体不要だとか。

結局、何が言いたいんや?目立つためのパフォーマンスか?

2024-01-27

anond:20240127165052

残念だがこの国では芸術家権利はないがしろにされるばかりだ

翻訳医療自動運転などに使うべきAI技術芸術悪用する盗人たちには吐き気がする

やはり画像生成AI禁止して絵師権利を守る必要がある

それから今まではっきりと明記されていなかった絵柄の権利確立必要になるだろう

劇場版ガンダムSEEDから思う「今のアニメ作画」※ネタバレ無し

劇場版ガンダムSEEDから思う「今のアニメ作画」※ネタバレ無し

ガンダムSEEDは、DESTINY終盤が放送されている時期に友人から勧められてハマった。私は当時小学生人生で初めて買ったCD玉置成実の『Reason』だった。

…こんな書き出しだが、「ガンダムSEEDシリーズは私の世代にとって革新的で思入れが強くて〜」といった話ではなく、『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』を見て感じた「近年のアニメ作画」に対する率直な思いについてまとめたもので、作品評価は含まない。

できれば拡散されたい。

人の意見が聞きたい。


劇場版SEED情報が解禁されるにつれ、SPOT映像も順々に公開された。

そのうちのひとつ海辺で語らうキララスクのシーンで、キャラクターの動き・表情が機械的で実に不気味だと感じた。特にラクスが顕著だった。人が手で描いたはずなのに、瞬きなどはまるで3Dモデルに見える。例えるならVtuberのモーションに近い。

結論から言うと、劇場版SEEDは全編をとおしてほぼそのような絵でできていた。

昨今のデジタル作画特有の「完璧に均一で色に溶け込むほどの極細な線」が、画面内をなめらかに動き続ける。

メカ類は基本的3Dなので、ピタリと止まることなく常に画面内を揺蕩っていた印象だ。


直行って、絵(?)が動き過ぎだと感じた。

やたらに動くだけでその動作意味を伴わないため、少し酔うほどだった。

これは果たして作品演出として本当に必要な手間なのだろうか?とつい考えてしまった。

ただし「SEEDシリーズ作画」に関しては、テレビシリーズの頃よりオタクからよく指摘を受けていた。

週ごとに絵柄が変わったり、バンクを多用して展開上違和感のある映像になったり…(ムウのヘルメットの話ではない)。

これらを今の技術改善し、あの頃からファンへ自信を持って作品を発表することも、製作陣の課題ひとつだったのだろうと想像している。

ネットに触れていれば「ヌルヌル動く作画」といった表現はよく目にするだろう。昨今の制作サイドにおける流行りの表現方法であり、今の視聴者層に響く華のある映像なのだろう。

ただ、劇場版SEEDはいわば「ニュルニュル動く作画」で、私にその手の専門知識はないが、全ての絵に凄まじいコマ数を詰め込んだ映像なのだろうと思わされた。

おそらく手で描いていない部分もある。きっと今の技術を使えばそれもできてしまうのだろう。

少し大袈裟に言えば、3Dロボットデジタル効果ニュルニュルと動くキャラクター映像流れる中で、たまに手描きっぽく思える絵が混じって目立つ感じだ。

私が幼少期に見たデジモンゾイドのような、手描きの絵の中にゴリゴリ3Dが混ざっていた時代からは見事に逆転したような印象を受ける。


芸術分野のことばに「不気味の谷」というものがある。簡単にいうと「決して3次元ではないが2次元の域は超えつつあるリアル創造物」のことで、例えばAI生成の人物画像に対して抱く感情のことだ。

私がラクス映像に感じたものもきっとコレだろう。

ヌルヌル作画」を超えつつある昨今のアニメ映像薄給と聞くアニメーターにとって本当に必要な手間なのか?手描き丸出しのアニメはもう古いのか?それとももうできないのか?それは技術人員時間、どれが原因か?

これは「アニメ」が次のステップに進む狭間なのか?


以上、劇場版SEEDを見て思ったアニメ作画の話でした。

anond:20240127155602

男側が24大学院生なのが芸術点低い。34歳塾講師なら伸びたし44歳ならさらに伸びた

増田民24歳の倍は生きてるおじさんだから

竿役が二十代前半の男では自分でもいけるんじゃないかという年の差ドリームを刺激できない

2024-01-26

anond:20240126183251

9.「平和基本法から佐藤優現象〉へ

 〈佐藤優現象〉を支えている護憲派の中心は、雑誌としては『世界』であり、学者では山口二郎和田春樹である。この顔ぶれを見て、既視感を覚える人はいないだろうか。すなわち、「平和基本法である。これは、山口和田らが執筆し、共同提言として、『世界』一九九三年四月号に発表された。その後、二度の補足を経ている(56)。

 私は、〈佐藤優現象〉はこの「平和基本法からの流れの中で位置づけるべきだと考える。

 同提言は、①「創憲論」の立場、②自衛隊合憲化(57)、③日本経済的地位に見合った国際貢献必要性、④国連軍国連警察活動への日本軍の参加(58)、⑤「国際テロリスト武装難民」を「対処すべき脅威」として設定、⑥日米安保の「脱軍事化」、といった特徴を持つが、これが、民主党の「憲法提言」(二〇〇五年一〇月発表)における安全保障論と論理を同じくしていることは明白だろう。実際に、山口二郎は、二〇〇四年五月時点で、新聞記者の「いま改憲必要なのか」との問いに対して、「十年ほど前から護憲立場から改憲案を出すべきだと主張してきた。しかし、いまは小泉首相のもとで論理不在の憲法論議が横行している。具体的な憲法改正をやるべき時期ではないと思う」と答えている(59)。「創憲論」とは、やはり、改憲論だったのである

 同提言の二〇〇五年版では、「憲法九条の維持」が唱えられているが、これは、政権が「小泉首相のもと」にあるからだ、と解釈した方がいいだろう。「平和基本法」は、戦争をできる国、「普通の国」づくりのための改憲である。同提言軍縮を謳っているが、一九九三年版では、軍縮は「周辺諸国軍縮過程と連動させつつ」行われるとされているのだから北朝鮮中国軍事的脅威が強調される状況では、実現する見込みはないだろう(60)。また、「かつて侵略したアジアとの本当の和解」、二〇〇五年版では、周辺諸国への謝罪過去清算への誠実な取組みの必要性が強調されているが、リベラル過去清算は終わったと認識しているのであるから、これも実効性があるとは思えない。要するに、同提言には、論理内在的にみて、軍事大国化への本質的な歯止めがないのである

 佐藤が語る、愛国心必要性(61)、国家による市民監視(62)、諜報機関の設置等は、「普通の国」にとっては不可欠なものである佐藤饒舌から私たちは、「平和基本法」の論理がどこまで行き着くかを学ぶことができる。

 馬場は、小泉純一郎首相(当時)の靖国参拝について、「今後PKOなどの国際的軍事平和維持活動において殉死殉職した日本人の慰霊をどう処理し追悼するか、といった冷戦後平和に対する構想を踏まえた追悼のビジョンもそこからは得られない」と述べている(63)。逆に言えば、馬場は、今後生じる戦死者の「慰霊追悼施設必要だ、と言っているわけである。「普通の国」においては、靖国神社でないならば、そうした施設はもちろん、不可欠だろう。私は、〈佐藤優現象〉を通じて、このままではジャーナリズム内の護憲派は、国民投票を待たずして解体してしまう、と前に述べた。だが、むしろ、すでに解体は終わっているのであって、「〈佐藤優現象〉を通じて、残骸すら消えてしまう」と言うべきだったのかもしれない。

 ここで、テロ特措法延長問題に触れておこう(64)。国連本部政務官川端清隆は、小沢一郎民主党代表の、テロ特措法延長反対の発言について、「対米協調」一辺倒の日本外交批判しつつ、「もし本当に対テロ戦争への参加を拒絶した場合日本には国連活動への支援も含めて、不参加を補うだけの実績がない」、「ドイツ独自イラク政策を採ることができたのは、アフガニスタンをはじめ、世界の各地で展開している国連PKOや多国籍軍に参加して、国際社会を納得させるだけの十分な実績を積んでいたかである。翻って日本場合多国籍軍は言うに及ばず、PKO参加もきわめて貧弱で、とても米国国際社会理解を得られるものとはいえない」と述べている(65)。

 元国連職員吉田康彦は「国連憲章の履行という点ではハンディキャップなしの「普通の国」になるべきだと確信している。(中略)安保理決議による集団安全保障としての武力行使には無条件で参加できるよう憲法の条文を明確化するのが望ましい」と述べている(66)。川端吉田の主張をまとめれば、「対米協調一辺倒を避けるため、国連PKOや多国籍軍軍事活動積極的に参加して「国際貢献」を行わなければならない。そのためには改憲しなければならない」ということになろう。民主党路線と言ってもよい。今の護憲派ジャーナリズムに、この論理反論できる可能性はない。「8」で指摘したように、対北朝鮮武力行使容認してしまえば、改憲した方が整合性があるのと同じである

 なお、佐藤は、『世界』二〇〇七年五月号に掲載された論文山川均の平和憲法擁護戦略」において、「現実国際政治の中で、山川ソ連侵略性を警戒するのであるから、統整的理念としては非武装中立を唱えるが、現実には西側の一員の日本を前提として、外交戦略を組み立てるのである。」「山川には統整的理念という、人間努力によっては到底達成できない夢と、同時にいまこの場所にある社会生活改善していくという面が並存している」と述べている。私は発刊当初この論文を一読して、「また佐藤柄谷行人への点数稼ぎをやっている」として読み捨ててしまっていたが、この「9」で指摘した文脈で読むと意味合いが変わってくる。佐藤は、「平和憲法擁護」という建前と、本音が分裂している護憲派ジャーナリズムに対して、「君はそのままでいいんだよ」と優しく囁いてくれているのだ。護憲派ジャーナリズムにとって、これほど〈癒し〉を与えてくれる恋人もいるまい(67)。

10.おわりに

 これまでの〈佐藤優現象〉の検討から、このままでは護憲派ジャーナリズムは、自民党主導の改憲案には一〇〇%対抗できないこと、民主党主導の改憲案には一二〇%対抗できないことが分かった。また、いずれの改憲案になるにしても、成立した「普通の国」においては、「7」で指摘したように、人種差別規制すらないまま「国益」を中心として「社会問題」が再編されることも分かった。佐藤沖縄でのシンポジウムで、「北朝鮮アルカイダの脅威」と戦いながら、理想を達成しようとする「現実平和主義」を聴衆に勧めている(68)が、いずれの改憲案が実現するとしても、佐藤が想定する形の、侵略植民地支配反省も不十分な、「国益」を軸とした〈侵略ができる国〉が生まれることは間違いあるまい。「自分国家主義者じゃないから、「国益」論なんかにとりこまれるはずがない」などとは言えない。先進国の「国民」として、高い生活水準や「安全」を享受することを当然とする感覚、それこそが「国益」論を支えている。その感覚は、そうした生存の状況を安定的保障する国家先進国主導の戦争積極的に参加し、南北格差固定化を推進する国家―を必要とするからだ。その感覚は、経済的水準が劣る国の人々への人種主義、「先進国」としての自国を美化する歴史修正主義の温床である

 大雑把にまとめると、〈佐藤優現象〉とは、九〇年代以降、保守派大国路線に対抗して、日本経済的地位に見合った政治大国化を志向する人々の主導の下、謝罪補償必要とした路線が、東アジア諸国民衆の抗議を契機として一頓挫したことや、新自由主義の進行による社会統合破綻といった状況に規定された、リベラル左派危機意識から生じている。九〇年代東アジア諸国民衆から謝罪補償を求める声に対して、他国の「利益のためではなく、日本私たちが、進んで過ちを正しみずから正義回復する、即ち日本利益のために」(69)(傍点ママ歴史清算を行おうとする姿勢は、リベラル内にも確かにあり、そしてその「日本利益」とは、政治大国を前提とした「国益」ではなく、侵略戦争植民地支配可能にした社会のあり方を克服した上でつくられる、今とは別の「日本」を想定したものであったろう。私たちが目撃している〈佐藤優現象〉は、改憲後の国家体制に適合的な形で生き残ろうと浮き足立リベラル左派が、「人民戦線」の名の下、微かに残っているそうした道を志向する痕跡消失もしくは変質させて清算する過程、いわば蛹の段階である改憲後、蛹は蛾となる。

 ただし、私は〈佐藤優現象〉を、リベラル左派意図的計画したものと捉えているわけではない。むしろ無自覚的、野合的に成立したものだと考えている。藤田省三は、翼賛体制を「集団転向寄り合い」とし、戦略戦術的な全体統合ではなく、諸勢力からあいもつあいがそのまま大政翼賛会に発展したからこそ、デマゴギーそれ自体ではなく、近衛文麿のようなあらゆる政治立場から期待されている人物統合象徴となったとし、「主体が不在であるところでは、時の状況に丁度ふさわしい人物実態のまま象徴として働く」、「翼賛会成立史は、この象徴人物の未分性という日本政治特質をそれこそ象徴的に示している」と述べている(70)が、〈佐藤優現象〉という名の集団転向現象においては、近衛のかわりに佐藤が「象徴」としての機能果たしている。この「象徴」の下で、惰性や商売で「護憲」を唱えているメディア、そのメディア追従して原稿を書かせてもらおうとするジャーナリスト発言力を確保しようとする学者、無様な醜態晒す本質的には落ち目思想家やその取り巻き、「何かいいことはないか」として寄ってくる政治家や精神科医ら無内容な連中、運動に行き詰った市民運動家、マイノリティ集団などが、お互いに頷きあいながら、「たがいにからあいもつれあって」、集団転向は進行している。

 ところで、佐藤は、「仮に日本国家国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家同胞日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」と述べている(71)。佐藤は、リベラル左派に対して、戦争に反対の立場であっても、戦争が起こってしまたからには、自国国防、「国益」を前提にして行動せよと要求しているのだ。佐藤賞賛するような人間は、いざ開戦となれば、反戦運動を行う人間異端者扱いするのが目に見えている。

 この佐藤発言は、安倍晋三首相の目指していた「美しい国」づくりのための見解とも一致する。私見によれば、安倍の『美しい国へ』(新潮新書、二〇〇六年七月)全二三二頁の本のキモは、イランでのアメリカ大使館人質事件(一九七九年)をめぐる以下の一節である。「(注・反カーター陣営の)演説会で、意外に思ったことがある。人質事件に触れると、どの候補者もかならず、「私は大統領とともにある」(I am behind the President.)というのだ。ほかのことではカーターをこきおろす候補者が、そこだけは口をそろえる。/もちろん、人質にされている大使館員たちの家族配慮するという意図からだろうが、アメリカ一丸となって事件対処しているのだ、という明確なメッセージを内外に発しようとするのである国益からむと、圧倒的な求心力がはたらくアメリカ。これこそがアメリカの強さなのだ。」(八七~八八頁)

 文中の、「人質事件」を拉致問題に、「大統領」を安倍に、「アメリカ」を日本に置き換えてみよ。含意は明白であろう。安倍は辞任したとはいえ総連弾圧をめぐる日本言論状況や、〈佐藤優現象〉は、安倍の狙いが実現したこと物語っている。安倍政権は倒れる前、日朝国交正常化に向けて動きかけた(正確には米朝協議の進展で動かされたと言うべきだが)が、こうなるのは少なくとも今年春からは明らかだったにもかかわらず、リベラル左派の大多数は、「日朝国交正常化」を公然と言い出せなかった。安倍政権北朝鮮外交に敗北したのは明らかである。だが、日本リベラル左派安倍政権ときに敗北したのである

 〈佐藤優現象〉は、改憲後に成立する「普通の国」としての〈侵略ができる国〉に対して、リベラル左派の大部分が違和感を持っていないことの表れである侵略植民地支配過去清算在日朝鮮人人権擁護も、そこには含まれる)の不十分なままに成立する「普通の国」は、普通の「普通の国」よりはるかに抑圧的・差別的侵略的にならざるを得ない。〈佐藤優現象〉のもとで、対北朝鮮武力行使の言説や、在日朝鮮人弾圧の言説を容認することは、戦争国家体制に対する抵抗感を無くすことに帰結する。改憲に反対する立場の者がたたかうべきポイントは、改憲護憲(反改憲)かではない。対北朝鮮武力行使容認するか、「対テロ戦争」という枠組み(72)を容認するかどうかである容認してしまえば、護憲(反改憲)派に勝ち目はない。過去清算も不十分なまま、札束ではたいて第三世界諸国の票を米国のためにとりまとめ、国連民主的改革にも一貫して反対してきた日本が、改憲し、常任理事国化・軍事大国化して、(国連主導ではあれ)米軍中心の武力行使を容易にすることは、東アジア世界平和にとって大きな災厄である(73)。

改憲戦争国家体制拒否したい人間は、明確に、対北朝鮮武力行使の是非、対テロ戦争の是非という争点を設定して絶対的に反対し、〈佐藤優現象〉及び同質の現象を煽るメディア知識人等を徹底的に批判すべきである

(1)岩波書店労働組合「壁新聞」二八一九号(二〇〇七年四月)。

(2)ブログ「猫を償うに猫をもってせよ」二〇〇七年五月一六日付。

(3)ただし、編集者佐藤右翼であることを百も承知の上で使っていることを付言しておく。〈騙されている〉わけではない。

(4)「佐藤優という罠」(『AERA』二〇〇七年四月二三日号)中のコメントより。

(5)インターネットサイトフジサンケイ ビジネスアイ」でほぼ週一回連載中の〈 Permalink | 記事への反応(0) | 18:37

ハッカーとは何か

リチャードストルマンハッカー哲学は以下のようにまとめられます

1. Playfulness and Cleverness: ハッカー哲学は遊び心と巧妙さに根ざしています。何か難しいことを遊び心をもって行うことがハッキングとされています

2. Exploration and Limits: ハッカー可能性の限界を探求することを重視しています。新しいアイディア方法を見つけ出すこと、あるいは既存のものを別の視点から探求することが含まれます

3. Diverse Activities: ハッキング単一活動限定されず、ソフトウェアの開発から実用的な冗談まで幅広い活動を含みますMITなどでの活動コンピュータに限らず、音楽芸術の分野でもハッカーアイディア適用されることが強調されています

4. Resistance to Silly Rules: ハッカーはしばしば制約や不必要規則に対して抵抗し、その規則を巧妙に回避する方法を見つけることがあります。これは、自由な発想と巧妙なアプローチを重視する姿勢の一部です。

5. Misunderstanding and Security Breaking: 1980年頃のメディア報道により、ハッキングは主にセキュリティ破壊行為として捉えられるようになりました。しかし、これはハッカーの多様な活動無視したものであり、実際のハッカー本質を誤解させるものです。記者一般の人々に対して、セキュリティ破壊行為ハッキング区別するために、"cracking"という用語を使い、それを行う人々を"crackers"と呼ぶことが提案されています

参考: https://stallman.org/articles/on-hacking.html

anond:20240126123912

現在フィギュアスケート芸術点というものは無いよ

よく知らないものイメージだけで言う前に調べる癖をつけようね

2024-01-25

興味のあることないこと

興味のあること

→大体のこと。知らないこと。へぇ〜と思うこと。

芸術分野全般IT関係経済、食、自然現象などなど。

興味のないこと

→人の噂話。悪口世間体芸能人恋愛結婚離婚不倫

知り合いの知り合い(顔も名前も知らない他人)の恋愛話なんて、道端に落ちてるゴミよりも興味ない。

anond:20240125012129

ちょっと補足したから読み直してくれよ

この意見のどこが無神経なんだ?

しろ分別を推奨することで、多様な価値観自分にとって「侵襲的」と見なす必要がないことを気づかせるための、思慮に富んだアドバイスだと思うんだが?

この考え方を身につけることで、触れることができる文学芸術ジャンルがかなり増えるはずだから人生文化的豊かさを上げるのに寄与するだろう

anond:20240125010739

こまけーこたぁ気にすんな

制作者がそういうのを描きたかったんだろ

そういう描写フェチがあるんだよ

作り手の世代はまだまだそういう時代根暗ムッツリオタク気質を持ってるから

ねちっこい描写こそ芸術だと思ってるんだろ

必ずラブシーンを入れたがるハリウッド映画や、必ず男女のねちっこい愛憎劇をいれて痴話喧嘩をさせたがるテレビドラマと同じ

お決まりのもんだと思えば良い

ただそれを見てる側の人間を、作り手と同じ趣味常識を持つ者とみなす必要はない

どんな表現があったとしても、「作者がやってるだけ」だ

その作品がどれだけ売れてようと、創作ってのは結局「作者が思う世界観表現」でしかない

それは作者の内面だけにあるもので、作者本人を表すものですらないかもしれないし、まして消費者思想を決めつけられるもんでもない

作品に触れてる」ことで作品自分ステータスの一部にする、自分を飾るアクセサリーとして作品を見なす、そういう軟派な発想をしてさえいなければ

自分消費者の嗜好と、制作者の嗜好とを峻別できるはずだ

逆に、作品自分アクセサリーにしようとさえ思わなければ、気にする必要は無いと思うんだが?

違うか?

どんな作品も、自分の中の見えない「引き出し」になるだけだ

自分の顔に貼り付ける宝石箱じゃあない

引き出しの中には、その時代やその文化的文脈に基づいた、今の自分から見て輝いて見えるものも汚く見えるものも入ってる

すべての作品にはそういう両面、いや多面性があるんだ

そのように認識すればいいんだよ

2024-01-23

「生成AI絵=フォント」というお伽噺を考えてみる

その昔、まだ読み書きの出来る人が限られていた頃。その中でもとくに、きれいな字を書ける人は神のように尊敬されたのかもしれません。その内容にかかわらず、字がきれいというだけで正しいと認められて特権享受していた時代もあったのでしょう。

オレの母親バカだけど字はきれいだったぞ。オレは字は汚い。

やがてグーテンベルクという人が活字発明して、書き文字の美醜に関わらず誰もがその思想表現できる途を開いた。もちろん、きれいな字を書ける人の中でも選りすぐりの人たちは、書道という造形芸術の高みとして尊敬され続けた。

書道という運動能力美的感覚を兼ね備えた人のみに許された場所へは行けなかったけど、美的感覚のみの人たちがそれをテンプレ化してフォントを作った。

誰もが思想感情表現できる手段として活字が出来たし、その中で美的感覚を選ぶ手段としてフォントが出来た。

絵はどうなるのだろうね。選りすぐりの絵描きたちは書道のようにその技で魅せることが出来るし、センスの優れた人たちはフォントへと列聖して持たぬ者たちに施す。そして誰もが造形手段でも思想感情を伝えられるようになるのである

当然ですけど。書道家になりたい人もフォントとして列聖したい人も、他人から盗んだ物でそれをやってはダメですね。それはやった人に帰する成果だから。そのどちらにも権利というもの存在するべきだと考えますので。

2024-01-22

anond:20240122210256

その前に試験突破して博士号取れる気がしない

芸術で一流のクオリティ維持しながら

実際、哲学芸術二刀流可能なのか

なんか無理そうな気がしてきた

パルワールドパクリ問題

まず大前提として自分はパルワールドポケモンキャラデザをめちゃめちゃパクっていると思っている

その上でいろんなコメントを見てて思ったんだけど

「法的にセーフだからといって問題ないわけじゃない」とか「パクリ元へのリスペクトが感じられない」とか、

パクリが悪いことだっていう共通認識はどっからきてるの?

ゲーム制作に限らず芸術でも技術でも、パクりパクられその上に改善があったりしてこの社会は発展してきたわけじゃん

あくま社会ベースとしては「模倣し放題、パクリ上等」で成り立っていて、その上で著作権者先行者利益保護するために 例 外 として著作権特許権等の法律が定められているんだよね

権利者の利益保護するために社会の 例 外 として 特 別 に パクリ禁止している著作権等の法律は、同時に他者権利自由創作など)を制限しているからこそ慎重に扱う必要がある

今回のケースで言えば、ポケモンデザインが似ていることについて任天堂が訴えを起こし、裁判所がそれを認めて初めて「悪いパクり」になるわけで、それまでは外野がとやかくいうべきではない。

逆に言えば、裁判で認められる以外にこのパクりが悪であるという根拠はどこにもないはずなので

「法的にセーフだからといって問題ないわけじゃない」

これは本当に意味がわからない

パルワールドをぶっ叩いてる人たちは、他者権利を振りかざして別の他者権利侵害してるっていう自覚はあるのだろうか

いから叩いてるんだろうけど

「嫌いだ」も「気に食わない」も好きに言えばいいが、「悪だ」と言う前にはもう少し冷静になってほしいと思ったので書いた

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