はてなキーワード: 芸術とは
今回みたいに契約までしているものをブッチしてるのは問題外だけど…。
商業芸術は規模の商売なので、どうしても末端までコントロールはできない。
自分で出資して原作を作りなはれ。自分で自分に原稿料を出せば何も言われないぞ。
今なら同人でも個人出版でも売り上げが立つぞい。長期的には…だけどね。
そもそもな話なんだがー、根本的に残念ながら出版社もテレビ局もパトロンではないのだ。ファウンダーなのだ。
自分がすべてコントロールしたい、少しでも外してほしくない、というのはもはやアートの世界なのだ。
当然原作者は拒否権を持っているが、相手側にも選ぶ権利はあるから、折り合いの良いところを見つけてくれ。
というか、漫画家にとって編集も出版社もテレビ局も敵じゃないよ?!
先輩方、ごたごたに乗じて自分の恨みつらみを後輩に受け継がせないでください。
それはただの悪質な呪いだよ。
精神薬を飲んでいたら絵が描けなくなった。
精神は安定した。死にたいと思わなくなった。リストカットやオーバードーズをしないように心がけているし、ここ1年くらいはしていない。
いい事ばかりかと思っていたら、絵に対するモチベーションが無くなってしまった。人生に絵が無くても満足行くようになってしまった。
今まではストレスの発散手段や現実逃避の方法として絵を利用していたため、絵を描く理由がなくなってしまった。
だが、私は小学生の頃から絵を描いている。趣味とはいえ10年くらいは人生を費やしている。そんなものを途端に手放せる訳もなくもんどり打っている。
もう絵を描く集中力もモチベーションもないのなら金輪際絵を描くことはやめたらいいのではないかと思う私と、そんな簡単に手放せるわけないだろ!という私がいる。辛い。
早く絵に執着するのを辞めたい。しかしインターネットをしていると絵がどうしても目に入ってくる。仲のいいフォロワーが絵を描いているところが目に入ってくる。
そもそも私は芸術が好きだ。小さな個展や美術館に行くのが好きだ。早く鑑賞者として割り切りたいが、創作をしていた昔の記憶が脳を叩いてくる。そして才能の差や努力の差、環境の差に打ちのめされて鬱病になって帰ってくる。この間藝大の卒展に行った時も全く楽しめなかった。
辛い。ここ1年間ずっとそうだ。絵が描けなくて発狂しながらタイムラインを眺めて鬱病に陥る。
早く絵に執着するのを辞めたい。
あれらの人々は、遠い星からやって来たと言われています。彼らは透明な輝きを放つ体を持ち、惑星間を旅するために高度なテクノロジーを駆使しています。彼らの知識は宇宙の奥深くに根ざしており、星々の間を旅する船は、私たちの想像を絶する速さで移動します。
彼らは平和を愛し、他の生命体との交流を大切にしています。彼らの文明は科学と芸術の融合であり、彼らの惑星では驚異的な建造物や美しい芸術が見られます。
しかし、彼らは宇宙の彼方から来た者たちであり、時折、彼らの目的や意図を理解することは難しいこともあります。彼らが地球を訪れる理由や、彼らが我々とどのように関わるのかについて、多くの謎があります。しかし、多くの人々は彼らを畏敬の念を持って受け入れ、未知の可能性と新たな友情の可能性を楽しみにしています。
劇場版ガンダムSEEDから思う「今のアニメの作画」※ネタバレ無し
ガンダムSEEDは、DESTINY終盤が放送されている時期に友人から勧められてハマった。私は当時小学生。人生で初めて買ったCDは玉置成実の『Reason』だった。
…こんな書き出しだが、「ガンダムSEEDシリーズは私の世代にとって革新的で思入れが強くて〜」といった話ではなく、『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』を見て感じた「近年のアニメの作画」に対する率直な思いについてまとめたもので、作品評価は含まない。
できれば拡散されたい。
人の意見が聞きたい。
劇場版SEEDの情報が解禁されるにつれ、SPOT映像も順々に公開された。
そのうちのひとつ、海辺で語らうキラとラスクのシーンで、キャラクターの動き・表情が機械的で実に不気味だと感じた。特にラクスが顕著だった。人が手で描いたはずなのに、瞬きなどはまるで3Dモデルに見える。例えるならVtuberのモーションに近い。
結論から言うと、劇場版SEEDは全編をとおしてほぼそのような絵でできていた。
昨今のデジタル作画特有の「完璧に均一で色に溶け込むほどの極細な線」が、画面内をなめらかに動き続ける。
メカ類は基本的に3Dなので、ピタリと止まることなく常に画面内を揺蕩っていた印象だ。
正直行って、絵(?)が動き過ぎだと感じた。
やたらに動くだけでその動作に意味を伴わないため、少し酔うほどだった。
これは果たして、作品の演出として本当に必要な手間なのだろうか?とつい考えてしまった。
ただし「SEEDシリーズの作画」に関しては、テレビシリーズの頃よりオタク達からよく指摘を受けていた。
週ごとに絵柄が変わったり、バンクを多用して展開上違和感のある映像になったり…(ムウのヘルメットの話ではない)。
これらを今の技術で改善し、あの頃からのファンへ自信を持って作品を発表することも、製作陣の課題のひとつだったのだろうと想像している。
ネットに触れていれば「ヌルヌル動く作画」といった表現はよく目にするだろう。昨今の制作サイドにおける流行りの表現方法であり、今の視聴者層に響く華のある映像なのだろう。
ただ、劇場版SEEDはいわば「ニュルニュル動く作画」で、私にその手の専門知識はないが、全ての絵に凄まじいコマ数を詰め込んだ映像なのだろうと思わされた。
おそらく手で描いていない部分もある。きっと今の技術を使えばそれもできてしまうのだろう。
少し大袈裟に言えば、3Dロボット・デジタル効果・ニュルニュルと動くキャラクターの映像が流れる中で、たまに手描きっぽく思える絵が混じって目立つ感じだ。
私が幼少期に見たデジモンやゾイドのような、手描きの絵の中にゴリゴリの3Dが混ざっていた時代からは見事に逆転したような印象を受ける。
芸術分野のことばに「不気味の谷」というものがある。簡単にいうと「決して3次元ではないが2次元の域は超えつつあるリアルな創造物」のことで、例えばAI生成の人物画像に対して抱く感情のことだ。
「ヌルヌル作画」を超えつつある昨今のアニメ映像…薄給と聞くアニメーターにとって本当に必要な手間なのか?手描き丸出しのアニメはもう古いのか?それとももうできないのか?それは技術・人員・時間、どれが原因か?
〈佐藤優現象〉を支えている護憲派の中心は、雑誌としては『世界』であり、学者では山口二郎と和田春樹である。この顔ぶれを見て、既視感を覚える人はいないだろうか。すなわち、「平和基本法」である。これは、山口や和田らが執筆し、共同提言として、『世界』一九九三年四月号に発表された。その後、二度の補足を経ている(56)。
私は、〈佐藤優現象〉はこの「平和基本法」からの流れの中で位置づけるべきだと考える。
同提言は、①「創憲論」の立場、②自衛隊の合憲化(57)、③日本の経済的地位に見合った国際貢献の必要性、④国連軍や国連の警察活動への日本軍の参加(58)、⑤「国際テロリストや武装難民」を「対処すべき脅威」として設定、⑥日米安保の「脱軍事化」、といった特徴を持つが、これが、民主党の「憲法提言」(二〇〇五年一〇月発表)における安全保障論と論理を同じくしていることは明白だろう。実際に、山口二郎は、二〇〇四年五月時点で、新聞記者の「いま改憲は必要なのか」との問いに対して、「十年ほど前から、護憲の立場からの改憲案を出すべきだと主張してきた。しかし、いまは小泉首相のもとで論理不在の憲法論議が横行している。具体的な憲法改正をやるべき時期ではないと思う」と答えている(59)。「創憲論」とは、やはり、改憲論だったのである。
同提言の二〇〇五年版では、「憲法九条の維持」が唱えられているが、これは、政権が「小泉首相のもと」にあるからだ、と解釈した方がいいだろう。「平和基本法」は、戦争をできる国、「普通の国」づくりのための改憲論である。同提言は軍縮を謳っているが、一九九三年版では、軍縮は「周辺諸国の軍縮過程と連動させつつ」行われるとされているのだから、北朝鮮や中国の軍事的脅威が強調される状況では、実現する見込みはないだろう(60)。また、「かつて侵略したアジアとの本当の和解」、二〇〇五年版では、周辺諸国への謝罪と過去清算への誠実な取組みの必要性が強調されているが、リベラルは過去清算は終わったと認識しているのであるから、これも実効性があるとは思えない。要するに、同提言には、論理内在的にみて、軍事大国化への本質的な歯止めがないのである。
佐藤が語る、愛国心の必要性(61)、国家による市民監視(62)、諜報機関の設置等は、「普通の国」にとっては不可欠なものである。佐藤の饒舌から、私たちは、「平和基本法」の論理がどこまで行き着くかを学ぶことができる。
馬場は、小泉純一郎首相(当時)の靖国参拝について、「今後PKOなどの国際的軍事・平和維持活動において殉死・殉職した日本人の慰霊をどう処理し追悼するか、といった冷戦後の平和に対する構想を踏まえた追悼のビジョンもそこからは得られない」と述べている(63)。逆に言えば、馬場は、今後生じる戦死者の「慰霊」追悼施設が必要だ、と言っているわけである。「普通の国」においては、靖国神社でないならば、そうした施設はもちろん、不可欠だろう。私は、〈佐藤優現象〉を通じて、このままではジャーナリズム内の護憲派は、国民投票を待たずして解体してしまう、と前に述べた。だが、むしろ、すでに解体は終わっているのであって、「〈佐藤優現象〉を通じて、残骸すら消えてしまう」と言うべきだったのかもしれない。
ここで、テロ特措法延長問題に触れておこう(64)。国連本部政務官の川端清隆は、小沢一郎民主党代表の、テロ特措法延長反対の発言について、「対米協調」一辺倒の日本外交を批判しつつ、「もし本当に対テロ戦争への参加を拒絶した場合、日本には国連活動への支援も含めて、不参加を補うだけの実績がない」、「ドイツが独自のイラク政策を採ることができたのは、アフガニスタンをはじめ、世界の各地で展開している国連PKOや多国籍軍に参加して、国際社会を納得させるだけの十分な実績を積んでいたからである。翻って日本の場合、多国籍軍は言うに及ばず、PKO参加もきわめて貧弱で、とても米国や国際社会の理解を得られるものとはいえない」と述べている(65)。
元国連職員の吉田康彦は「国連憲章の履行という点ではハンディキャップなしの「普通の国」になるべきだと確信している。(中略)安保理決議による集団安全保障としての武力行使には無条件で参加できるよう憲法の条文を明確化するのが望ましい」と述べている(66)。川端と吉田の主張をまとめれば、「対米協調一辺倒を避けるため、国連PKOや多国籍軍の軍事活動に積極的に参加して「国際貢献」を行わなければならない。そのためには改憲しなければならない」ということになろう。民主党路線と言ってもよい。今の護憲派ジャーナリズムに、この論理に反論できる可能性はない。「8」で指摘したように、対北朝鮮武力行使を容認してしまえば、改憲した方が整合性があるのと同じである。
なお、佐藤は、『世界』二〇〇七年五月号に掲載された論文「山川均の平和憲法擁護戦略」において、「現実の国際政治の中で、山川はソ連の侵略性を警戒するのであるから、統整的理念としては非武装中立を唱えるが、現実には西側の一員の日本を前提として、外交戦略を組み立てるのである。」「山川には統整的理念という、人間の努力によっては到底達成できない夢と、同時にいまこの場所にある社会生活を改善していくという面が並存している」と述べている。私は発刊当初この論文を一読して、「また佐藤が柄谷行人への点数稼ぎをやっている」として読み捨ててしまっていたが、この「9」で指摘した文脈で読むと意味合いが変わってくる。佐藤は、「平和憲法擁護」という建前と、本音が分裂している護憲派ジャーナリズムに対して、「君はそのままでいいんだよ」と優しく囁いてくれているのだ。護憲派ジャーナリズムにとって、これほど〈癒し〉を与えてくれる恋人もいるまい(67)。
10.おわりに
これまでの〈佐藤優現象〉の検討から、このままでは護憲派ジャーナリズムは、自民党主導の改憲案には一〇〇%対抗できないこと、民主党主導の改憲案には一二〇%対抗できないことが分かった。また、いずれの改憲案になるにしても、成立した「普通の国」においては、「7」で指摘したように、人種差別規制すらないまま「国益」を中心として「社会問題」が再編されることも分かった。佐藤は沖縄でのシンポジウムで、「北朝鮮やアルカイダの脅威」と戦いながら、理想を達成しようとする「現実的平和主義」を聴衆に勧めている(68)が、いずれの改憲案が実現するとしても、佐藤が想定する形の、侵略と植民地支配の反省も不十分な、「国益」を軸とした〈侵略ができる国〉が生まれることは間違いあるまい。「自分は国家主義者じゃないから、「国益」論なんかにとりこまれるはずがない」などとは言えない。先進国の「国民」として、高い生活水準や「安全」を享受することを当然とする感覚、それこそが「国益」論を支えている。その感覚は、そうした生存の状況を安定的に保障する国家―先進国主導の戦争に積極的に参加し、南北間格差の固定化を推進する国家―を必要とするからだ。その感覚は、経済的水準が劣る国の人々への人種主義、「先進国」としての自国を美化する歴史修正主義の温床である。
大雑把にまとめると、〈佐藤優現象〉とは、九〇年代以降、保守派の大国化路線に対抗して、日本の経済的地位に見合った政治大国化を志向する人々の主導の下、謝罪と補償は必要とした路線が、東アジア諸国の民衆の抗議を契機として一頓挫したことや、新自由主義の進行による社会統合の破綻といった状況に規定された、リベラル・左派の危機意識から生じている。九〇年代の東アジア諸国の民衆からの謝罪と補償を求める声に対して、他国の「利益のためではなく、日本の私たちが、進んで過ちを正しみずからに正義を回復する、即ち日本の利益のために」(69)(傍点ママ)歴史の清算を行おうとする姿勢は、リベラル内にも確かにあり、そしてその「日本の利益」とは、政治大国を前提とした「国益」ではなく、侵略戦争や植民地支配を可能にした社会のあり方を克服した上でつくられる、今とは別の「日本」を想定したものであったろう。私たちが目撃している〈佐藤優現象〉は、改憲後の国家体制に適合的な形で生き残ろうと浮き足立つリベラル・左派が、「人民戦線」の名の下、微かに残っているそうした道を志向する痕跡を消失もしくは変質させて清算する過程、いわば蛹の段階である。改憲後、蛹は蛾となる。
ただし、私は〈佐藤優現象〉を、リベラル・左派が意図的に計画したものと捉えているわけではない。むしろ、無自覚的、野合的に成立したものだと考えている。藤田省三は、翼賛体制を「集団転向の寄り合い」とし、戦略戦術的な全体統合ではなく、諸勢力のからみあい、もつれあいがそのまま大政翼賛会に発展したからこそ、デマゴギーそれ自体ではなく、近衛文麿のようなあらゆる政治的立場から期待されている人物が統合の象徴となったとし、「主体が不在であるところでは、時の状況に丁度ふさわしい人物が実態のまま象徴として働く」、「翼賛会成立史は、この象徴と人物の未分性という日本政治の特質をそれこそ象徴的に示している」と述べている(70)が、〈佐藤優現象〉という名の集団転向現象においては、近衛のかわりに佐藤が「象徴」としての機能を果たしている。この「象徴」の下で、惰性や商売で「護憲」を唱えているメディア、そのメディアに追従して原稿を書かせてもらおうとするジャーナリストや発言力を確保しようとする学者、無様な醜態を晒す本質的には落ち目の思想家やその取り巻き、「何かいいことはないか」として寄ってくる政治家や精神科医ら無内容な連中、運動に行き詰った市民運動家、マイノリティ集団などが、お互いに頷きあいながら、「たがいにからみあい、もつれあって」、集団転向は進行している。
ところで、佐藤は、「仮に日本国家と国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家、同胞の日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」と述べている(71)。佐藤は、リベラル・左派に対して、戦争に反対の立場であっても、戦争が起こってしまったからには、自国の国防、「国益」を前提にして行動せよと要求しているのだ。佐藤を賞賛するような人間は、いざ開戦となれば、反戦運動を行う人間を異端者扱いするのが目に見えている。
この佐藤の発言は、安倍晋三前首相の目指していた「美しい国」づくりのための見解とも一致する。私見によれば、安倍の『美しい国へ』(新潮新書、二〇〇六年七月)全二三二頁の本のキモは、イランでのアメリカ大使館人質事件(一九七九年)をめぐる以下の一節である。「(注・反カーター陣営の)演説会で、意外に思ったことがある。人質事件に触れると、どの候補者もかならず、「私は大統領とともにある」(I am behind the President.)というのだ。ほかのことではカーターをこきおろす候補者が、そこだけは口をそろえる。/もちろん、人質にされている大使館員たちの家族に配慮するという意図からだろうが、アメリカは一丸となって事件に対処しているのだ、という明確なメッセージを内外に発しようとするのである。国益がからむと、圧倒的な求心力がはたらくアメリカ。これこそがアメリカの強さなのだ。」(八七~八八頁)
文中の、「人質事件」を拉致問題に、「大統領」を安倍に、「アメリカ」を日本に置き換えてみよ。含意は明白であろう。安倍は辞任したとはいえ、総連弾圧をめぐる日本の言論状況や、〈佐藤優現象〉は、安倍の狙いが実現したことを物語っている。安倍政権は倒れる前、日朝国交正常化に向けて動きかけた(正確には米朝協議の進展で動かされたと言うべきだが)が、こうなるのは少なくとも今年春からは明らかだったにもかかわらず、リベラル・左派の大多数は、「日朝国交正常化」を公然と言い出せなかった。安倍政権が北朝鮮外交に敗北したのは明らかである。だが、日本のリベラル・左派は安倍政権ごときに敗北したのである。
〈佐藤優現象〉は、改憲後に成立する「普通の国」としての〈侵略ができる国〉に対して、リベラル・左派の大部分が違和感を持っていないことの表れである。侵略と植民地支配の過去清算(在日朝鮮人の人権の擁護も、そこには含まれる)の不十分なままに成立する「普通の国」は、普通の「普通の国」よりはるかに抑圧的・差別的・侵略的にならざるを得ない。〈佐藤優現象〉のもとで、対北朝鮮武力行使の言説や、在日朝鮮人弾圧の言説を容認することは、戦争国家体制に対する抵抗感を無くすことに帰結する。改憲に反対する立場の者がたたかうべきポイントは、改憲か護憲(反改憲)かではない。対北朝鮮武力行使を容認するか、「対テロ戦争」という枠組み(72)を容認するかどうかである。容認してしまえば、護憲(反改憲)派に勝ち目はない。過去清算も不十分なまま、札束ではたいて第三世界の諸国の票を米国のためにとりまとめ、国連の民主的改革にも一貫して反対してきた日本が、改憲し、常任理事国化・軍事大国化して、(国連主導ではあれ)米軍中心の武力行使を容易にすることは、東アジア、世界の平和にとって大きな災厄である(73)。
改憲と戦争国家体制を拒否したい人間は、明確に、対北朝鮮武力行使の是非、対テロ戦争の是非という争点を設定して絶対的に反対し、〈佐藤優現象〉及び同質の現象を煽るメディア・知識人等を徹底的に批判すべきである。
註
(1)岩波書店労働組合「壁新聞」二八一九号(二〇〇七年四月)。
(2)ブログ「猫を償うに猫をもってせよ」二〇〇七年五月一六日付。
(3)ただし、編集者は佐藤が右翼であることを百も承知の上で使っていることを付言しておく。〈騙されている〉わけではない。
(4)「佐藤優という罠」(『AERA』二〇〇七年四月二三日号)中のコメントより。
(5)インターネットサイト「フジサンケイ ビジネスアイ」でほぼ週一回連載中の〈 Permalink | 記事への反応(0) | 18:37
リチャードストールマンのハッカーの哲学は以下のようにまとめられます。
1. Playfulness and Cleverness: ハッカーの哲学は遊び心と巧妙さに根ざしています。何か難しいことを遊び心をもって行うことがハッキングとされています。
2. Exploration and Limits: ハッカーは可能性の限界を探求することを重視しています。新しいアイディアや方法を見つけ出すこと、あるいは既存のものを別の視点から探求することが含まれます。
3. Diverse Activities: ハッキングは単一の活動に限定されず、ソフトウェアの開発から実用的な冗談まで幅広い活動を含みます。MITなどでの活動やコンピュータに限らず、音楽や芸術の分野でもハッカーのアイディアが適用されることが強調されています。
4. Resistance to Silly Rules: ハッカーはしばしば制約や不必要な規則に対して抵抗し、その規則を巧妙に回避する方法を見つけることがあります。これは、自由な発想と巧妙なアプローチを重視する姿勢の一部です。
5. Misunderstanding and Security Breaking: 1980年頃のメディアの報道により、ハッキングは主にセキュリティの破壊行為として捉えられるようになりました。しかし、これはハッカーの多様な活動を無視したものであり、実際のハッカーの本質を誤解させるものです。記者や一般の人々に対して、セキュリティの破壊行為とハッキングを区別するために、"cracking"という用語を使い、それを行う人々を"crackers"と呼ぶことが提案されています。
この意見のどこが無神経なんだ?
むしろ分別を推奨することで、多様な価値観を自分にとって「侵襲的」と見なす必要がないことを気づかせるための、思慮に富んだアドバイスだと思うんだが?
この考え方を身につけることで、触れることができる文学や芸術のジャンルがかなり増えるはずだから、人生の文化的豊かさを上げるのに寄与するだろう
こまけーこたぁ気にすんな
作り手の世代はまだまだそういう時代の根暗ムッツリオタクの気質を持ってるからな
必ずラブシーンを入れたがるハリウッド映画や、必ず男女のねちっこい愛憎劇をいれて痴話喧嘩をさせたがるテレビドラマと同じ
お決まりのもんだと思えば良い
ただそれを見てる側の人間を、作り手と同じ趣味や常識を持つ者とみなす必要はない
どんな表現があったとしても、「作者がやってるだけ」だ
その作品がどれだけ売れてようと、創作ってのは結局「作者が思う世界観の表現」でしかない
それは作者の内面だけにあるもので、作者本人を表すものですらないかもしれないし、まして消費者の思想を決めつけられるもんでもない
「作品に触れてる」ことで作品を自分のステータスの一部にする、自分を飾るアクセサリーとして作品を見なす、そういう軟派な発想をしてさえいなければ
逆に、作品を自分のアクセサリーにしようとさえ思わなければ、気にする必要は無いと思うんだが?
違うか?
引き出しの中には、その時代やその文化的文脈に基づいた、今の自分から見て輝いて見えるものも汚く見えるものも入ってる
すべての作品にはそういう両面、いや多面性があるんだ
そのように認識すればいいんだよ
その昔、まだ読み書きの出来る人が限られていた頃。その中でもとくに、きれいな字を書ける人は神のように尊敬されたのかもしれません。その内容にかかわらず、字がきれいというだけで正しいと認められて特権を享受していた時代もあったのでしょう。
やがてグーテンベルクという人が活字を発明して、書き文字の美醜に関わらず誰もがその思想を表現できる途を開いた。もちろん、きれいな字を書ける人の中でも選りすぐりの人たちは、書道という造形芸術の高みとして尊敬され続けた。
書道という運動能力と美的感覚を兼ね備えた人のみに許された場所へは行けなかったけど、美的感覚のみの人たちがそれをテンプレ化してフォントを作った。
誰もが思想・感情を表現できる手段として活字が出来たし、その中で美的感覚を選ぶ手段としてフォントが出来た。
絵はどうなるのだろうね。選りすぐりの絵描きたちは書道のようにその技で魅せることが出来るし、センスの優れた人たちはフォントへと列聖して持たぬ者たちに施す。そして誰もが造形手段でも思想・感情を伝えられるようになるのである。
当然ですけど。書道家になりたい人もフォントとして列聖したい人も、他人から盗んだ物でそれをやってはダメですね。それはやった人に帰する成果だから。そのどちらにも権利というものは存在するべきだと考えますので。
まず大前提として自分はパルワールドはポケモンのキャラデザをめちゃめちゃパクっていると思っている
その上でいろんなコメントを見てて思ったんだけど
「法的にセーフだからといって問題ないわけじゃない」とか「パクリ元へのリスペクトが感じられない」とか、
ゲーム制作に限らず芸術でも技術でも、パクりパクられその上に改善があったりしてこの社会は発展してきたわけじゃん
あくまで社会のベースとしては「模倣し放題、パクリ上等」で成り立っていて、その上で著作権者や先行者の利益を保護するために 例 外 として著作権や特許権等の法律が定められているんだよね
権利者の利益を保護するために社会の 例 外 として 特 別 に パクリを禁止している著作権等の法律は、同時に他者の権利(自由な創作など)を制限しているからこそ慎重に扱う必要がある
今回のケースで言えば、ポケモンとデザインが似ていることについて任天堂が訴えを起こし、裁判所がそれを認めて初めて「悪いパクり」になるわけで、それまでは外野がとやかくいうべきではない。
逆に言えば、裁判で認められる以外にこのパクりが悪であるという根拠はどこにもないはずなので
パルワールドをぶっ叩いてる人たちは、他者の権利を振りかざして別の他者の権利を侵害してるっていう自覚はあるのだろうか
無いから叩いてるんだろうけど
「嫌いだ」も「気に食わない」も好きに言えばいいが、「悪だ」と言う前にはもう少し冷静になってほしいと思ったので書いた