はてなキーワード: 子供会とは
IDECOは事業やってる人がやってたやつを普通の人がつかえるようにしたやつ
なにが60歳までにという強迫観念を元増田にあたえた原因なのかはわからんけど(年金生活なら65では?)
ただ無職主婦と家事手伝いひきこもりの大きな違いは(元増田がわかりにくく書いてあるが)
NISA・IDECOだけ知ってるかどうかじゃなくて人的ネットワークの構築力にある
保育園、義務教育、PTA、子供会、自治会、税金のふよう控除、寄付、手当・・・
教育を受ける側から与える側(または与えられる子供を観察する程度でもよいが)
になるんだからある意味復習になってそこでようやく見えてくることが多い
どこかの団体で社会人教育をうけて「社会人」になれてるかどうかがキモだ。
仕事も子供会の役員の仕事も上手くいかなくて落ち込んでて、独り身で不安でしょうがないけど、
仕事や社会の場では、大人としてそれなりの演技をしなくちゃいけないけど、プライベートでも明るい自分を演じなくちゃいけないのかと思うと泣けた。
本当は再婚したいけど諦めていて、本心では一家の大黒柱をしたくないらしい。私だって、もし自分の配偶者と子供の食い扶持を私1人で稼ぐことになったら嫌だと思うし、落ち込むわ。
正規雇用でバリバリ働いて子供達を養ってるシングルマザーたちもたくさんいるけれど……
家族の中に大人が自分1人しかいなくて、つらいときに寄り添ってくれるパートナーもいないのはつらい。
子どももいなくて、独身で、自分1人なら自己責任で好き勝手できるけど。1人で自滅しても自分にしか迷惑かからないし。
家の外にも中にも逃げ場がなくて、ずっと演技するってキツすぎ
年も越してしまったが、暮れの話を一つ。
暮れ明けに親戚参りをするため実家に帰ると、玄関先に爆竹があった。
そこそこ束で置かれていたので「あれは何なん?」と聞くと「市役所から配られたもんで置いてある」と。
父曰く、一昨日あたりに市の職員が来て、うちの集落の全世帯に一軒一軒配って回ったとのこと。
まあ職員の人も大変だったろうなと思うと同時に、ついにここまで来たかと思った。
うちの集落は市の中でも山側、道路こそ発達しているもののバスも鉄道も掠りもしない所に存在している。
過疎気味ではあるし、まだ屋号文化も続いている由緒正しき田舎ではある(まあ日本各地に似たとこは多いと思うけど)
もっとも、若い衆の集まりも子供会もまだ続いている程度には人が暮らす地域であり。
そんなところなので、向かいの山から鹿なり猿が下りてくることもそこそこあった。
実際自分が住んでいた十余年くらいでも、猿が植木場の柿をとって食べたり、西瓜を抱えて持って行ったりくらいは経験している。
庭先に見かけない猿の置物があると思ったら、生きていた猿だったなんて話が出てくるくらいだ。
まあそんなもんだから警戒こそすれ、猿による人への被害はあまりなかったのでこのまま維持できればいいかくらいに自分は思っていた。
たまにニュースで『噛みつきザル発生』なんてあったけれど、大抵は渡りの若い猿とかだったし。
農作物に関しても、猿より鹿の方が深刻だったのでそちら側に若い衆やら猟友会が対策していたくらいだった。
ところがこの十年くらいで猿たちは更に活発に……というより賢くなっているらしい。
とはいっても農作物への被害がひどくなったり、危害を加えられたとかでは(まだ)ない。
家宅に侵入して炬燵に入って暖をとったり、台所の机の上にあった甘味や果物を食べてたりするくらい。
問題は、鍵の位置や開いてるかどうかまで認識できるようになったらしく、鍵をかけていても入ってくることもあるらしい。
幸い、人を見るとどの個体も逃げていくらしいのだが……それでも家の中に猿がいたら気が気でない。
そういうわけで、事態を重く見た市の担当課が爆竹を各家庭に配布したのである。実際出たときに使えるかはともかく。
長々書いたけど、所詮爆竹なんて一時しのぎ(=ログインボーナスの配布石程度)だし。
うちの集落が将来猿に負けるのも時間の問題だなぁと思ってここで吐き出している。今は辛うじて『共生』といえる範疇に入ってるけど、多分。
再投稿です。
そして人の愛し方が分からない。
親からも誰からも愛されたことがない人間なのだから仕方がないのかもしれない。
そもそも、私が、性同一性障害で他者から恋愛対象として見られず、また、女性に惹かれることが多いため、女性として過ごしてる私は、出会いがないからなのか。
私が発達障害やBPDの症状を軽度ながら持っていることがいけないのか。
死ねば楽になるのかな?
助けて欲しい。
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以下は、乱文であるが、私の過去を書かずにはいられなくなったので、ここに書こうと思う。(多少のフィクションは含んでいるが。)
日常生活は女性として暮らしていて、初対面の人と話したり、ショッピングや空港等で元男性と見抜かれることはほぼ無く、また容姿もそこそこいい方であるという自負はある。(ガタイが無駄にいいのはコンプレックスだが。)
幼稚園児のときに母と父が離婚した。その時の母と父の喧嘩を記憶していて、私にとっての一緒に暮らしていたこのろの父親像は母親に向かって怒りをぶつけているところと、仕事で疲れて寝ているところしか残っていない。そして、離婚後、親権は母親に移った。
そして、仕事に一辺倒になった母からは面倒を見てもらえず、妹と共に子供会の保護者と祖母に面倒を見てもらっていた。
祖母は優しい人ではあるものの、愛情表現をする人ではなく、また同じ家にいたわけではないので一緒にいる時間は限られいた。
私はこの頃、植物に興味があり図鑑をよく読み漁っていた。また、ピーターラビットシリーズを好んでいたことを記憶している。
小学生に上がったとき、ピアニカの色やランドセルの色が"私の望む色"出なかったことを記憶していている。
小学生2年生になると強迫性障害の症状を起こすようになった。ともかく、家の外のすべての物が不潔に思えた。1度病院に連れて行かれた記憶がある。幸い、小2のうちにだいぶ良くなり日常生活に支障をきたさないレベルには回復した。ただし、潔癖症自体は中学生くらいまで強い意識が残った。
また、この頃から学校でオカマとヤジされることが増え、友人は決して多いとは言える状況にはなかった。
この頃でも父親とは電話を通して時々話しており、またたまに合うことがあった。(よく上野の国立科学博物館と鉄博に連れて行ってもらった。)
ただ、一度、ファインディング・ニモに連れて行ってもらった。はじめての映画館で見た映画だったのだか、個人的に楽しめなく、父はそれに対して非常に怒っていたのを記憶している。
また、この頃から母親と父親の間で伝言を伝えるような役割となり、お互いの悪口を聞かされ、また経済状況についてと揉め事を聞く立場となっていった。
相手は子供が3人いたが1人はインフルで亡くなっていた。(ただし、継父に親権はなく未だに継姉・兄と顔を合わせたことはない。)
母はTVを厳しく時間を決める人であったが、継父はそうではなくよく妹や従姉妹にテレビを見せていた。それについて、母親と揉めることが多く、私がママっ子であったため母親側についた事により、私は継父から見せてもらえなくなり、次第に顔を合わせるだけで睨まれるようになった。
小4になると母と継父の間に子供が生まれ、何もしない継父と仕事しかしない母の代わりに祖母と私と妹がよく面倒を見ていた。
そして、この頃から、継父と私の関係は更に険悪になり、私が継父から身を隠すように家で過ごすようになった。
幼稚園児のころから高いところから飛び降りたらどうなるのだろう、という気持ちはあったものの、この頃には明確に死にたい、という気持ちがあった。
また、夢の中で継父を刺し殺す・絞め殺す夢を見るようになるようになった。(この夢は大学生1年の頃あたりまで続いた。)
小5になると母親の仕事が軌道に乗り始め、経済状況は一気に良くなるが、継父との関係は最悪になり、一度私が勉強机の下に逃げたところを継父に顔を蹴り飛ばされたことがあった。(ここらへんの記憶は曖昧で正確な時期を覚えてない)
また、私は元々書物を読む子供であったが、学校で男子からはオカマや(容姿を指して)キツネと呼ばれ、女子からは女子の中心グループと犬猿の仲だったため、更に書物を読み漁るようになった。(ハリーポッターを1日の放課後で2冊を読みきる勢いだった。)
小6では学校はだいぶ落ち着いてきたもの、継父との関係は相変わらずだった。
また、妹もこの頃から継父との関係が悪化してきており、不登校気味となっていった。
中学では寮生の少人数の学校に入った。これにより、家族とも同級生とも離れることができ、私にとっての人生の転換点てなった出来事であると思う。
ただ、男子は野球部に、女子はバレー部に強制的に入部であり、内心でバレー部に入りたいと思っていたが、叶わぬ願いであった。(幸い丸坊主は避けれた。)
中2になると寮の中で私が最年長となったためリーダーシップを取ることとなった。
完璧主義だったため自他ともに厳しく、今では後輩にもっと優しく接すればよかったなと感じる。
中3では男子として野球することが嫌で地元の中学に戻り、そこで小学校の時の数少ない友人と家庭科部をしていた。
またそれ以外については受験勉強をする日々であった。受験に関してはもともと勉強はできていた為もあってか、地域の公立高校の2番めに良いところに合格できた。
家での生活はこの頃、継父は単身赴任であったため、実家が一番平和な時期となっていた。(また、妹も私のいた寮にはいった。)
寮で過ごしたことにより、色路学べたおかげもあってか、継父と小学校の時ほどは酷い関係ではなく、お互いに最低限以外の会話をする程度にはなっていた。
高1では理系クラスであったため、いわゆるオタクが多く、私にとって天国のような環境であった。また、寮の時の後輩と文通をよくしていた。(寮は電話・メールは基本禁止だったため。)
また、中学生の頃から留学に興味があり、そのための準備をし始めた。
高2,3ともそれなりに優秀な成績で学校生活も楽しめたが、学校が福音派の学校でありLGBTに対して差別を行うというほどではないものの、聖書を引用して厳しい態度をとったこと、食事が不味いこと、男子寮で生活すること(アメリカで大学では基本寮生活)にストレスを感じ、アメリカの大学を受験はしなかった。
進路は迷ったものの帰国した年度中に大学の工学部に合格しそこに入学することとなった。(親元にいたくなかったので実家から通えない距離の大学のみ受験した。)
大学の学業については、アメリカの授業の進度が遅く苦労はしたものの、なんとかついていくことができそこそこの成績を収めることができた。
ただ、1年目に男子寮に入ることとなり、それで精神を病み、このままでは学業に支障が出たり自殺しかねないという事で、精神科(ジェンダークリニック)を尋ねた。
また、この頃に同じ性同一性障害の彼女が遠距離であるができた。(ただし、どちらかというと共依存のほうが近い関係であったと思う。)
B2になるとアパートぐらしに移り、またホルモン注射をするようになったため、見た目も女性的になりつつあったため、精神的に非常に安定するようになった。
学業についても学科の上位1割に入っており、勉強の遅れを鑑みれば非常に良い結果出会ったと思う。
ただ、この頃に彼女との関係が共依存に近いものであったこともあり、それが崩壊し分かれることとなった。
大学3年生の現在、自己の労働力や頭脳以外の"人間としての価値"を自分自身で見出だせなくなってしまった。
他大の友人との交流もあり、より良い環境の院に行きたいし、自分のやりたい研究・仕事もある。けど、それ以外の人間的な将来について何も想像ができないし、強い希望を持つことができない。
自分自身の事なのに自分だけではにもできない事でつっかかかってしまった。
来年までに戸籍の変更もできるだろう。だいぶ恵まれている方だ。
けど、戸籍を変更したら私は結婚という選択肢を捨てることとなる。(そもそもパートナーなぞできないが)
変更しなければ就活で奇異の目で見られ苦労し、キャリアに影響が出るだろう。
なのにどうしたらいいのか分からない。
ホルモンバランスの崩れのせいもあるのだろうが、また自殺願望が湧いてきてしまう。
薬物への知識も多少あるため合法な乱用の仕方も知っている。そこに逃げてしまう可能性が否定しきれない自分が怖い。
精神科・心療内科に行ったところで薬が出るだけだろう。それで一体何になる。
どうしたらいいのか。
助けて欲しい。
家族とか友達とか、身近な人が亡くなると、鬱っぽくなる人がよくある。
じゃあ、お葬式に関わることの多いお坊さんって、鬱っぽくなったりしないのだろうか?
もちろん、都会の商業的というか、お葬式の時にしか接点が無いような場合にはショックもなにも無いだろうけど、田舎とか、檀家が支えてるようなお寺はどうだろう?
月に一回は檀家の家に行って、月命日のお経を上げ、月に何回か、法話日とか法要日とかでお寺に地域の人を集めたり、場合によっては、書道教室や子供会なんかを開いてる、ある意味理想的なお寺のお坊さんの場合を考えると、実は結構しんどいんじゃないかと思う。
地域に根差した活動をしてるお寺は、その地域の人達のことは知り尽くしてるだろうし、年の近い人達には、きっと仲間感を持ってるお坊さんが多いはず。
でも、地方は間違いなく衰退している訳で、高齢化とかの現実を考えると、ひょっとしたら、立て続けに同年代の檀家を亡くすお坊さんも多いんじゃ無いだろうか?
そうした場合、身近な人が亡くなるショック、自分がお経を上げないといけないプレッシャー、そして収入源も絶たれるという三重苦に悩むことになるわけで、鬱っぽくならずに過ごす方が難しいくらいの感覚になると思うんだけど、どうなんだろう?
坊主丸儲けとか、お坊さんを揶揄する言葉があるけど、現実問題として、人口減少時代には、お坊さんのメンタルケアが必要かも知れない。
24時間TVとか関係なく、イベントやお祭りに事前情報なしに行くと、あまり良い目には合わないだろうなーとは思う。
それとは別に、地域の祭りって、周辺からもお客さんを集める「観光色の強い祭り」と、盆踊りとか子供会とかそういう「地元の祭り」の2種類あって、後者だったんじゃと思う。
ちょっと話は変わるけど、
田舎の宅地造成地の中に、イオンのスーパーがあるという感じだとしたら、イオンが24時間TVのスポンサーやってる関係で、
区画整理事業でできた新しい街の地元の祭りに、イオンつながりで24時間TVが来たんじゃないかねーと、思った。
邪推がもしあたりだとしたら、その祭りのスポンサーもイオンが金出してる可能性少なくない。
いわゆる「まちづくり」ってやつ。
田んぼつぶして道路作っておんなじような形の戸建がずらっとならんで、真ん中にイオンのスーパーマーケットとちょっとした公園とか広場作って一丁上がり。
せめてプリキュアのコスプレはゾーニングして欲しい、というお話。
http://prehyou2015.hatenablog.com/entry/cos
上記エントリのブコメにいくつか障害者について言及したものがあった。
fujixe 「難しい話をするハメになった」と言うのは、機会が無ければそんな話をするつもりは無いということだろう。説明が大変なので幼児のうちは障害者を見せてはいけない、というのと何が違うのだろう。
oskimura 子供がショック受けるからゾーニングって理屈を許すと、同性愛者やトランスセクシャル、障害者、ホームレスなどをゾーニングして公共空間から追い出せって話にもなるぞ
それを見て、未就学児時代に出会った「マジョリティではない人」のことを思い出したので書いておく。
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3~5歳くらいのころは、近所に住んでいる子供の家に遊びに行くのと同じように、
近所のおじいさんおばあさんの家に遊びに行くことが珍しくなかった。
本人も把握しきれないほどたくさんの猫を飼っているおばあさんがいた。
まだ囲炉裏のある家のおばあさんは、怖い話の名手だった。囲炉裏のある部屋は広くて天井が高くて変な人形があった。
特に何にもなくたって、単に近所だという理由でよく遊んでもらった。
朝ご飯を食べてにこにこぷんが終わったら、一人で外に遊びに出て、おばあさんと遊んだり近所の子と遊んだりして、お昼と夕方のチャイムで家に帰った。
私が特別放置されていたわけではなく、地域性と時代の問題だと思う。近所の子供もみんなそんなもんだったから。
「ごめんください」という言葉はその頃にもう覚えていたと思う。
Aおばちゃんはそういう、「遊んでくれる近所の大人」のうちの一人だった。
Aおばちゃん、と呼んでいたが、おいくつだったのか今となっては定かではない。
Aおばちゃんは、足が深く曲がっていた。片足はしゃがんだ時のように曲がったままで、片足は真横にぴんと伸びたままだった。
家の中では、曲がったほうの足を踏みしめ、伸びたほうの足を引きずって移動していた。
家の外では車いすに乗っていた。なんかでかくてかっこいいやつだった。
一度、Aおばちゃんて足どうして曲がってんの、と聞いたら、河童につかまって曲げられたのだと言っていた。
何をして遊んでもらっていたのかは、今となってはよく覚えていない。
ただなんとなく遊びに行って、子供のおしゃべりに付き合ってもらったり、おばちゃんちで他の子と遊んでいたりした。
「アルプス一万尺」を友達のなかで私だけ知らなかったときに、教えてくれたのはAおばちゃんだったかもしれない。
今思えば彼女は身体障害者だったのだが、そもそもそういう概念さえなかった。
猫を山ほど飼っているおばあさんがいて、怖い話の名手のおばあさんがいた。
Aおばちゃんは、近所の、河童に足を曲げられてしまったおばちゃんであった。
小学生になるとさすがにほいほい遊びには行かなくなったが、冬休みはAおばちゃんちの雪かきをした。
地区子供会というのがあって、近所の子供でかわるがわる当番を決めて毎朝やっていた。
特にボランティアとか障害者の方のためにとかそういうお題目があった覚えがない。
なぜ自分達がやるのかという疑問もなかった。
1年生のころからそうしていたから、そういうもんだと思っていた。
おばちゃん来たよー、といって、家の前を雪かきして、じゃあねーと言って帰った。
そんなもんだった。
ただ、自分がどうだったかな、というのを思い出したので書いた。
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【追記】
watto こだわりを持たなかった子どもが、やがて成長して、なにごとかを察して離れていく瞬間が、一番つらいだろうな。
上記ブコメがなぜかスターを集めているようだが、少なくとも私は「なにごとかを察した」記憶など全くない。
近場でしか遊べない幼児の頃はAおばちゃんを含め近場の大人によく遊んでもらったし、
次第に行動半径が広がる小学生になるとその機会が減っただけのことだ。
Aおばちゃんはふつうにいた。
あなた方の近所のおばちゃんと同じように。
学校編
・明らかな教師の勘違いでいわれのない叱責や体罰を受けて、その場に40人近くいるのに誰も一切反論しないどころか、涙ぐんでごめんなさいとか呟いてる同級生たち
・上記のようなことが何度かあって我慢できなくなって反論したら、主張が正しいかどうかは関係なく「教師に反抗した」という部分を問題視されて親まで呼び出されたこと
・そのことが「あの家の子はとんでもない不良」「都会ではプチスケバングループを3つ率いていた」(どんな小3だよ)という形で村中に広まっていたこと
・熱で2日学校を休んだら、「休んでた」とだけ子供から聞いた親の間で「村内初の不登校児現る!」というゴシップになっていたこと
・いじめをなくすためにあだ名を禁止し、男女差も無くすため「(苗字)さん」と呼ぶことを強制する教師、しかし田舎なので増田(仮)と田中(仮)と鈴木(仮)が5人ずつぐらいクラスにいる
・部活で問題が起こったりするとみんなで謝罪しに行くが、その際に「お前らの誠意を見せろ」「本気具合を見せろ」と言われてみんなで正座→土下座するのがお決まりのコースという気持ち悪さ
・外走ってこい、床に正座させる、平手、突き飛ばし、耳掴み、髪掴み、胸倉掴み、吊り上げ、つねり、投げ、小キックまではセーフ(Not体罰)という認識の教師が多かったこと
・「目が気に入らない」というヤンキーみたいな理由で生徒指導室に連行されたこと
・連行された生徒指導室で「今日はお前が泣くまで帰さん」という謎の基準で1対3でプレッシャーをかけられたこと
・結局泣かないまま18時を過ぎたら親まで呼び出されて、親が教師からボロクソに言われて、それを見て泣いてしまったこと
・物事がなぜそうなったのか、背景や理由をちゃんと説明してくれる貴重な教師の、生徒・保護者からの人気が
「理屈っぽい」「何を言ってるかわからない」「外人と繋がりがあるらしくて怖い(英語教師)」という理由で異様に低くて、担任交代まで追い込まれたこと
村編
・最寄駅(徒歩1時間~)
・子供だけで行動が許されてる範囲にコンビニはもちろんスーパーも駄菓子屋も図書館も本屋も文房具屋もないこと
・子供会という自動的かつ強制的に「参加することになっていた」謎の組織
・一言もやるともやりたいとも言ってないのに問答無用でやらされる子供会スポーツ
・酔っ払いのおっさんたちに担がれてガッサガッサ縦に振られまくる神輿の中で、太鼓を叩きながらよくわからない唄を絶叫させられつつ村内を練り歩くお祭り
・女だから○○、男だから○○、子供だから○○といった考え方が明らかに都市部より強く、それをかなり押し付けられること
・電話をかけてきた相手に「どちらさまですか」と聞いても「ワシやけど!」「ワシじゃ!」「ワシや!(怒)」としか言わず全然名乗らないこと(最近はオレオレ詐欺が流行ってちょっと減った)
・自宅の出入りがごく自然にウォッチされていること、訪問頻度から恋人ができたとかできそうとかも全部把握されていること
・玄関→納屋→裏口と回ったがすべて施錠されていたので、仕方なく雨戸と縁側の戸(鍵が壊れてる箇所がある)を強引に開けてキュウリを届けに侵入してくる近所の人
・勝手に入ってきたお坊さんが勝手に仏壇にお経を唱えて勝手に帰っていくこと、シャワー浴びてる間にいつの間にか来て、いつの間にか去ってた
・昔の人基準で作られた異様に低いつくりの台所
・町長が自分の会社に請け負わせて謎のでかい建物を建てていた、子供が見てもわかるぐらい利権ずぶずぶっぽい構図
・持ってる土地とその家の発言力が大体一致してて、子供までその感覚が自然と染みついていること
・分家のくせに本家の子より成績がいいから生意気とか、そういうことを本気で言っちゃう人が結構いること
・ビールを飲んだ後、最後に日本酒を飲んだから酔いがさめてセーフという頭のおかしい理論で車を運転するクズが一定数生息していたこと
・下衆かったり下卑てたりするおっさん・じーさんの比率がとてもとても高く、中学生以上の女性がセクハラの嵐に遭うこと
公民館で何かの炊き出しの手伝いに来てた大学生のおねーさんに近づいてきて
「○○ちゃんか?おほー、大きなったなー!どれ、三千円でどや?アカンか?ガッハッハ!!」と言いながら
肩から尻まで背中を撫でまわして嵐のように去って行ったおっさんが自分の中でワースト1
・家がボロくて台風が来る度に屋根が飛ばないか本気で心配すること
・下水道はきたけどリフォームするお金がなくてまだ水洗トイレがないこと
・若い女が乗る場合、軽自動車のフロントガラスの根本にフワフワのファーを敷きつめておかないと「ババくさい」とバカにされること
・うちに来るツバメがもう何年も連続でヘビにタマゴやヒナをやられていること
・家の周りの草引きから戻ってきたら、換気の為に開けていた裏口からキッチンに入ってきたシカがなにかをモシャモシャしていたこと
・夜中に薄い壁一枚隔てた場所から聞こえる「フゴッ……ブヒッ……」というイノシシの息遣いで起きること
・1シーズンに2回くらい入浴中にムカデが天井から降ってくること
嫌なことばかりじゃ流石にアレだから、田舎で良かったことも書く
・何と言っても自然が豊富、裏を返せば虫とかもかなり多いけど個人的には割と平気なのでメリット寄り
・夜空とか綺麗、星が多すぎて星座を探すしょうもない課題が高難度クエスト化する
・水はおいしい
・米とか野菜が大体タダでもらえるし、受け取るとありがたがられたりする
・空気が綺麗、というか車通りの多い街に行くとすぐ喉が痛くなる
・体操服(小中)→制服(高)→野良着 が標準なのでオシャレとかしてなくても誰も気にしない、プリントTシャツでハイカラって言われるレベル
GU(遠い街にある)がユニクロ(隣町にある)より上位ブランドっていう扱いなのでチョロい
・シカはよく見るとかわいい
・外からはあまり村の中の様子がわからないので、雪がちょっと降った日に家の周りで割と積もったことにしてゆっくり会社や学校に行っても隣町の人に信じてもらえる
・自分ちが持ってる山でマツタケが採れるらしい(食べたことない)
・川でよくわからない魚とか獲って遊べる、カメはいるけどスッポンがいないのが悔やまれる
・水がおいしい
・村内の噂になり尽くしておくと、何をやってても話題として面白味がなくなるらしく、
後はウォッチはされるけど放っておいてもらえるので、2○歳の私が笹船流して併走しながら「いけーソニックー!」とかキャッキャ言ってても全然ヨユー、大丈夫
・カマとかナタとか小刀とか持って歩いてても放置されるぐらい平和、ハサミも持ち歩けないシティとは大違い
・ジジババのネットワークでGPSばりの精度で村人の居所が割れるから、誰かに用事があるときは便利
・自宅なのにまだあまりあさったことがない領域が結構残っていて、暇なときに探検ができる、古い茶碗とか謎の農具の残骸とか黄ばんだ書類とか出てきて鑑定団ごっこするのが楽しい
多分この集落も、もう20年もすればかなり滅びに近づいているだろうなーと思うし、自分もいつまでここにいるかわからないけど、
好奇の視線を耐えきった結果今はそこそこ居心地もいいので、もうしばらくはこのままかなー。