はてなキーワード: 募金とは
フィクションのキャラクターの定番属性の一つに『極端な低身長の天才』というものがある。
実年齢自体が周囲より低い場合もあれば同年代にも関わらず異様に身長が低い場合もあるが、どちらの場合も非現実的な存在、フィクション性の高い存在としてキャラクタライズされているケースがほとんどだ。
何故非現実的な存在として扱われるのか。フィクションと異なり現実日本の教育制度は年齢主義であり、優秀な生徒の飛び級が存在しない事も理由の一つとして挙げられるだろう。しかし、本質はおそらくそこにはない。
『天才』『極端な低身長』という属性がそれぞれ独立している状態なら「身近にはいなくても、一つのパラメータが極端なだけなので現実の延長線上で想像がつく」が、『天才かつ極端な低身長』ともなると「極端なパラメータが複数あるので人となりを想像出来なくなる」、これが本質ではないだろうか。
ゆえに、フィクション性を纏わされる。謎のひみつ道具を持ち歩かされ、こんな事もあろうかと用意周到が過ぎる人物にされる。
だが、私はそのようにフィクションを纏わされる『極端な低身長の天才』達に、親近感を覚える。
何故なら、私がそうだからだ。
私は極端な低身長だ(った)。
「成長ホルモン分泌不全低身長症」、これが私の健康診断票にいつも書き込まれていた病名だ。
症状は文字通り。原因は分かっていないらしい。
治療法も、成長ホルモン製剤の注射という対症療法的な物だ。極度の低身長という症状が明確に現れないと発覚しないものだから、身長が一般的な範囲に盛り返すまで時間がかかった。故に少年時代はチビなショタだった。治療を終えた今でも、身長は低く童顔な方だ。
毎晩の成長ホルモンの皮下注射というものは、子供心に結構辛かった。自分だけが遭わされる不条理というものと隣り合わせで育ったものだから、随分世の中は不公平なものだと絶望してしまった。
あと注射をしていたケツと太ももが心なしかデカくなった。安産体型ショタだぞ、抜けよ。
そして、私自身これを自称するのは鼻について好きではないが、少なくとも周囲からの評価を総合すると、私は天才だそうだ。
個々人の積み上げた好奇心と歴史と研鑽と努力と熱意を不可視化し、天からのギフトなどと矮小化する天才という単語はこの世で最も嫌いな単語なのだが、はてさて秀才ではつよそう感がイマイチ足りないので仕方なく天才という単語を使う。
3歳の時には、お遊びでジグソーパズルを裏面を向けたまま完成させて大人を驚かせたそうだ。私自身、出来そうだと思って挑戦し実際に成し遂げて満足した記憶がある。
看板から成分表まで活字があれば何でも読み込む子供で、よく迷子になっていた。漢字も自然に覚えたため、小1の時点で小6の教科書を漢字含め読めていた。
大人しくさせるために買い与えられたマンガ、百科事典や国語辞典の類は、それはもう食い入るように読み込んだ。寝食を忘れて読み込んだ。寝食忘れの自己最高記録は、確か留守番中に叩き出した27時間連続だったか。中国の8日間絶食読書兄貴には敵わないが、中々な記録だろう。勿論それが健康に悪いことも理解していたので、以降は気をつけるようにしたが。
全国模試でも算数や理科で何度か1位を取った。満点なのだから当然同率1位だ。中高以降は恩師のおかげで現代文も得意になったので数学、現代文、物理で経験した。
そんなんだから、大した勉強もする事なく通学圏内最高峰、数十年東大進学者数首位の開成中学校に受かった。なんか受かったから行くわ!wが正直な感想だった。
真剣に受験勉強をしていた、しかし活字中毒などの変態性はなかった学友が残念ながら麻布や東邦止まりで(勿論これも十分凄いのだが)、この時に適性の無い者へも無意味な苦難を強いる学歴社会への明確な嫌悪感を覚えた。
開成の同級生は大きく3タイプに分けられた。勉強する事が大好きで大好きで仕方がない変態と、私のように勉強は好きでも嫌いでもないが活字や知識にのめり込む気質のある変態と……学歴の威光に取り憑かれた愚かな親の犠牲者となった、凡人だ。
学歴主義を刷り込まれた凡人達に、私は恐怖と憐れみを感じた。真面目に勉強した事もなく学校や塾も寝がちだった私にとって、青春を擦り潰して校外でも毎日8時間勉強するという価値観は理解出来なかった。
そこまでして一体、一体何になるというのだ。毎日1時間、1ヶ月ほど勉強するだけで適当な資格は彼らなら余裕で取れるだろう。職に困らないために学歴を取る、なんてのはおよそコストとリターンが釣り合っていない。
私は彼らが怖くて、大学は全く関係ない某美大に学歴パンチで進学した(ここを詳細に書くとマジで特定されそうなので勘弁してくれ)。そもそも私の夢自体、漫画家とかゲームクリエイターとかのクリエイター方面だったし。
私が開成に通った途端に学歴に取り憑かれた金だけしかない親には美大進学は猛反対されたが、教育虐待で警察に駆け込むと脅したら反対しなくなった。中高当時に親から受けていた拘束を思えば、実際駆け込めば成立していただろう。
ここまで見て分かるように、私の『極端な低身長』属性と『天才』属性に、一切の因果・相関関係はない。だからこの属性が偶然重なる確率は非常に低い。
開成中学合格者数は一年ごとに400人弱、当時の小6男児の日本人口約60万人で割ると1500分の1。そこに成長ホルモン分泌不全低身長症の15000分の1を掛けると2250万人に1人となる。ちなみにそこに、『開成高校から私の行った美大にいく変人』の数、大体3年間……1200人に1人ぐらいらしい?を掛けると270億人に1人だ。地球人口こわれる!
2250万人だか270億人だかはもう大差ないし、スキーn級とか小4?だっけ?で夏富士登山完遂(同級生の平均よりも遥かにちっこい身体でだぜ!すごくね?)とか付け足せばいくらでも数字を伸ばせるのでもうどちらでもいいが、まあとにかく私は客観的に見れば超激レアキャラだという事になる。オラッ喰らえ世界に一つだけの花パンチ!
ただ、これらは全て私の大事なアイデンティティの一つだ。私にとってのそれらは見たことのない激レア属性ではなく、いつも自分自身と隣り合わせのアイデンティティだった。
どんなに希少な属性が重なっていようが、偶然の悪戯が起こればSSRキャラクターはこの世に生を受けてくる。アフリカの貧しい子供達にもたまたまマックにいた桜蔭JKにも想像を及ばせられない、二つ要素が違うだけです〜ぐ想像出来なくなるインターネッツ愚か者共に嘘松呼ばわりされようとも、激レア属性がたまたま重なった私は今ここに間違いなく存在している。マックにも行くし高校生時代に時代遅れな価値観のオッさんに物申した事もある。喝采ってほどじゃないけど周りの人本当に拍手してくれるんだね。
だというのに、ロリショタ天才達は常にフィクション上の、架空の存在として扱われている。
ならば、ここにいる私は一体何なのだ?
私はフィクションなのか?匿名の増田ですらない、完全なる架空の存在なのか?
有り得ない嘘松だけの存在として、想像力の埒外にいなければいけない存在なのか?
ただのゲーム好きな子供だった私はここに、この世に存在してはいけない存在なのか?
なあ。答えてくれよ。
長くなったが、言いたい事は一つだ。少しの想像力を働かせてほしい、これに尽きる。
そこの道を歩いているくたびれたオッさんは、もしかしたら自由研究で賞を取った事があるかもしれない。そんなちょっとしたかもしれない運転が、他者への敬意を払う第一歩となる。勿論何も前提無しに他者の歴史と人生に敬意を払えられれば、それが一番だ。
空腹を感じた時には、アフリカの貧しい子供達はいつもそれ以上の飢餓に苦しめられている事に思いを巡らせてほしい。そして思い出した時にでも、コンビニ募金にお釣りを入れてくれればいい。
激レア属性の天才や奇才たちと接しても、更なる激レア属性の……私含めた疾病や障害を抱えた天才や奇才たちと接しても、たまたま希少な属性を引いただけの、ごく普通のありふれた存在として接してほしい。
本人が殊更に主張しているケースでも無い限り、恐らくわざわざ言い出したりはしたがらないはずだろう。傷に触れないであげてほしい。天才たちは目立つこと、特別扱いによる疎外にもういい加減ウンザリしているだろうから。
というか私の知人の天才たちは大体皆そうだった。そして私もそうだ。もう、奇妙奇天烈な見世物小屋の人外として扱われるのは沢山だ。
目の前にいる相手は雲の上の存在ではなく、マリオとポケモンが好きだったり、でんぢゃらすじーさんで爆笑したりしていたかもしれないただの人間だと思って接してほしい。
フィクションの箱に押し込んで、相手を遠ざけることをしないでほしい。ロリショタ天才を、フィクションだと思わないでほしい。
私をフィクションにするな。
私をフィクションにするな。
私をフィクションにするな。
会社で部署の同僚が結婚したり、出産があると、その度に部署で「お祝いあげよう!」って言い出す人が現れて、毎回千円や2千円が徴収される。
不満のある人は断っていいよっていうけど、そういう”誰が出してないかわかるシステム”で断るなんて勇気が必要だよ
目のつかない場所に募金箱でも設置して、期限までに集まった金額をご祝儀にするとかなら、本当に任意になるんだけどな。
そもそも、会社から出生祝いや、結婚祝いの祝金て支給されているんだよ。
なのに、どうして同じ部署の同僚だったからって、特別に祝金を用意しようっていうんだろう。
みんなでじゃなく、言い出しっぺのあなたが個人的にお祝いしてあげたらいいのに。
そしてこれらって、独身でいる人はもらえることのないもので、独身でいることの税金かよって思うんだ。
千円、2千円が惜しいってんじゃないんだよ。
これはこれで正しいとも自分は思うのです
天は自らを助ける者を助ける、というのも事実でしょう
しかし、助ける余裕がなければ、なかなか人が他人を助けるという行為は困難なはずです
ビル・ゲイツは現在は慈善事業がメインであり、貧困層などへ広く学習の機会を与える課題にも取り組んでいますが、
彼はその理由として、資本主義的原理では実現できないから、といったことを語っています
といっても、これは彼がお金持ちになれたからであり、お金持ちになっても自分が欲しいコンピュータを作ることに情熱を注ぐだけの人もいるわけです
もちろん、色々な人が世の中にいて構わないわけですが、いずれにせよ、他人を救う余裕がなければ慈善事業は難しいはずです
狂信というとテロのような悪い面もあるわけですが、良い面で狂信的である人は考え方がブレないのです
良い意味でドンキホーテとでもいいますか、理想を追い求めて金がなくなっても他人がついてこなくても損得勘定が欠如しているから折れないのです
まず、信念があるとか、自分の打ち立てたモットーに執着する、固執しているならば、周囲からのノイズやトラブルで折れにくくなるはずです
それが人として良いのか悪いのかは、周囲の人それぞれによって大きく分かれると思いますが、
慈善事業だろうが偽善だろうが、自分が死んでも他人を助けたい、と考える人も少ないと思いますが存在すると思います
しかし、現実的に考えるならば、基本は他人を助ける余裕がなければ他人を助けることは困難でしょう
10kgまで支えられる何かがあったとして、5kgは乗っけれる、20kgは余裕がないので無理、
でも耐荷重10kgに対して10kgの荷物だったらどうでしょうか?
もしかしたら望んだところまでなら耐えて運べるかもしれません、でも、もしかしたら振動も加わって折れてしまうかもしれない
だったら10kgの荷物を分割できないか、5kgに分割して二回運べないか?
もしくは10kgのところを8kgにして、2kgは諦めてください、というのも策かも知れません
これが私が他人を助けるという行為はベストエフォートであるという所以です
アフリカの飢餓を救うというのも、まあ募金とか寄付行為はありだとは思います(どうしても胡散臭い団体が多いと思うのが否めませんが
しかし、直接的に助けるとなるとアフリカまでの飛行機代だけでかなりの出費になります
そのお金で半径5mの人を救えるのに、なんでそれをしないでアフリカの人を救うの?という問いに対し、
色々な考え方の人が色々な答えを持っているかもしれません
それに対し、自分は救急車を呼ぶ余裕はある、救急車が来るまでその人のそばにいる余裕はある、
自分には難しいと思いますが、医学的素養がある人ならば応急処置をする能力がある人もいるかもしれません
つまり、最近話題になっている弱者男性だかのカテゴリーに自分も十分含まれるとは思うのですが、
目の前に死にそうな人が倒れており、救急車を呼ぶ余裕があると思っている自分がいる、
にも関わらず、
自分は弱者だから他人を助けない、他人を助けるより自分を助けろよ、
みたいな極端な考え方に至るのも変な話であって、
つまり、端的に言うなら、なんだかんだ社会とはカーストではないが階層があるものであり、
強者は弱者を救う余裕があるが、それはある弱者より上の階層がその弱者を救えるという話であり、
そういうツリー構造があるならば、一つ上の層が一つ下の層をちょっと救う、
その連鎖で全体が救えるはずだとも言えるわけですが、
ここで問題になるのは、確実に全体を救うには一番トップの強者が無限に余裕がなければいけなくなってしまうことであり、
現実に無限はありえないし、もし、その一番トップの余裕が減少していけば、ツリー全体を救うことは困難になってしまう
しかしながら、全体最適化とでもいうか、全体をある程度いい感じに救うためには、やはり一つ上のノードが一つ下のノードを救う、
こういった他人をちょっと助ける連鎖、再帰的な連鎖があればちょっとは世の中も捨てた感じではないように思えるわけですが、
それがまた難しいのが人の世というものでもあるわけです
キモオタ向けのアニメやゲームが女性差別的だからって、現実の性暴力の被害者女性や貧困家庭の子供を助けることより優先する課題じゃないでしょ。
現実に悲惨な状況にある女性をできる限り救おうと活動しているなら、ネットでオタク向け作品叩いてる暇なんてあるの?
「アフリカ某国の内戦で子供まで兵士にされて殺し合ったり強姦されたりしています。私たちはその子たちを救いたいです。だから15歳の主人公アムロがロボットに乗って格好良く戦うガンダムは少年兵を賛美していて許せないので批判します」
みたいな振る舞いの人多過ぎだよ。
アフリカの少年兵を救いたいなら――日本政府に支援を求める署名を集めたり、社会復帰支援してるNGOに募金したり、反政府武装勢力が子供に掘らせているレアメタルを買わないように企業に請願したり、この問題を広く世に知らしめるためにイベント開いたり――普通そういう活動にならないかな?
「でも日本ではガンダムのような作品が人気なせいで少年兵を『大したことではない』『少年の多くは望んで戦ってる』『戦場でこそ自己実現できる子供もいる』と矮小化・賛美する人が多くて、少年兵問題に悪影響を与えています」
みたいな果てしなく優先度も関連性も低い課題にばかり熱心に取り組む人がいたらおかしいでしょ! ネットのフェミの人たちは完全にこれ!
キモオタしか読んでないマイナー漫画がどういうメカニズムで彼女を殴るDV男や娘に食事を与えず学校に通わせない親を生み出すというのか?
現実の女性を救うことになんて興味無くて、ネットで他人を攻撃するのを楽しんでるだけの人に見えるよ!
(「お前がこの文章を書く動機も同じじゃないか」と思うかも知れないけど、ボクはフェミがキモオタを攻撃するのを止めたら黙るよ。先に攻撃してきたのはそっち。ついでに路上で貧困JK支援のための募金活動してたら財布に小銭が溜まってたら寄付するよ)
フェミはもう本当にお家の外に出て現実に被害を受けたり危険に晒されている女性を助けることだけやっててくれ。きっと毎日ヘトヘトに疲れてネットでクソリプ合戦する気力とか無くなるだろう。
コロナ禍で街頭募金活動ができなくて、援助を必要とする対象も増えて困窮しているというニュース(https://www.ashinaga.org/media/news-media/5174/)を聞いて、ほんとうに少額だけど寄付をしたら、丁寧なお礼状が届いた。同封の資料を読んで、つくづく立派な活動だとお思いながら(そしてなぜ国がこれをやらないんだ、せめて控除対象にしないんだと憤りながら)、でもお礼状が達筆すぎて読めない。紙モノは捨ててしまうことにしているから、書き起こして残しておこうと思う。だれか同じものが届いて読めた人は是非教えて…。(■が不明箇所です)正直、整った文章ではないけれど、高齢の父親の手紙のようでホロリときてしまいました。会長85歳だって、スゴイ。校正せずに送った広報さんも素晴らしいな~。鳩居堂の桃色の便せんに両面でびっしり書かれていたよ。
コロナ不況の中で街頭募金を春秋2回8日間完全中止したにもかかわらず、募金額は最高額を記録しそうです。あしなが募金の中心は学生たちがやる街頭募金です。昨年暮れに■■(念願?)の「百回募金」をやる予定でしたが、コロナ禍で中止。全国の200箇所の募金■所に1人の学生も立てませんでした。その悔しさと遺児の奨学金の必要性をマスコミに訴えました。50年間唯一人からやり始め仲間を■の1回に全国で2万人以上で連帯して遺児の進学させる集団にまで仲間と共に闘ってきて、私はついに記者団に叫んでしまいました。「遺児たちの進学は私が守る。どうか私たちと遺児を守って欲しい、と。キザといえばキザ。ドンキ(ホーテ)といえばドンキ!とこがその雰囲気が新聞テレビにそのまま伝わり、大反響となり、SNSが情報を拡大増幅されました。あしながの子を今助けないととばかり、4月には奨学生6,500人に1人15万円の奨学支援金を贈りました(返還不用)。第2回目として12月には20万円を年越■■支援金として奨学生全員7,600人(春より1,000人増)に1人20万円を送金した。これが15億2000万円。2回の給付金は小計25億円でした。
私が50年間私1人から仲間を増やして該当募金から諸々の寄付集めをし、推定1,100億円を集め約11万人の遺児の高校・大学等への進学を進めてきました。もちろん私たちは親を亡くした■■■に上の学校へ進学できなくなるという「不幸」「不運」を取り除き、両親が健在なら大学へ行けるという”現実”を私たちあしながが用意するということにすぎません。それをご支援くださったのがみなさま「あしながさん」です。御礼が後になってしまいましたが、”人の世は情けの貸し借り”です。誰が偉くて誰が悪いということではありません。誰ができることをやりみんながそれぞれの人生を送れるのがいいんじゃないでしょうか。ご恩を■■■いるあなたさまへの御礼が遅くなってご免なさい。感謝です。
最後に朗報です。こんどの運動の主役はSNSを巧みにあやつる10代後半から30代の私とは50才も若い仲間です。ここに一番の喜びと、運動の未来を感じます。頼んだよ!!未来はいつも若者の手にあります。多くの若者の新たに参加されんことを願って‼
ご支援者とくに新たに参加された人々へ
盛岡市動物公園でうさぎを安楽死させた件がまさか増田でも書かれると思ってなくてびっくりした。トップに上がってて驚きました。
一人暮らしでうさぎを飼い始めて約2年経った私が主観で色々書いていきます。
きっと何個か理由があると思うので、適当に主観で列挙しながら説明していきます。
まず1つ目。
「うさぎが劣悪な環境で飼われがちな動物という点で昔から問題になっている」ことが関係していると思います。
皆さんが「うさぎ」と聞いたら、まず最初に小学校や保育園で外飼いされている個体たちを想像するのも少なくないと思います。
でも、これって良くない環境なんです。
うさぎは結構デリケートで、室内で温度湿度ともに安定した状態で飼うことが望ましいとされています。
多分そこも関わっていると思います。
次に2つ目。
パスツレラ菌自体はうさぎの7割近くが保有しているとの情報もあります。
ただ、不衛生な環境下や、ストレスの溜まりやすい環境下に長くいると免疫力が低下して病気を発症すると言われています。
うさぎ飼の人たちはここにも怒っているのだと思う。もっと衛生的な環境で飼育しろよ!適切に飼育してたら病気を発症しないはずだろ!!!って。でも、動物園での飼育には限界があると思うんですよね。
そんで病気を発症したらまーーーー大変。中々完治はしないし、良くなったと思ったら、忘れた頃に発症する。しかも感染力がめっちゃ強いから、感染個体と健康個体は別の部屋に分けなくてはいけない。
今回は15匹感染していたとのことでした。
なので1体1体ケージに入れて、全ケージを別室に置いて、定められたな時間に薬を処方する、という方法が1番の適切な治療だったと思います。
ただ、これは動物園の人手や薬代などのトータルコストを考えると非常に難しいと思います。
しかも治ったと思ったらまた発症する可能性もあるし、みんな一緒にまた暮らすのは中々難しい。
3つ目。
Twitterにいるうさぎ飼達は、結構過保護な人が多いと思う。これはどんなジャンルにもいると思うんだけど、ネットって色んな情報を得やすいから良くも悪くも影響されちゃう。
ペット界隈の情報の中には、よく多頭飼育崩壊のニュースが話題になる。
可愛いからオスメス飼って、放置しちゃってたら増えすぎて世話しきれなくなったーまじメンゴてへぺろ、みたいな事件。
これは結構深刻な問題で、主に猫が多いけどうさぎもチラホラある。
その度にボランティアさん達がたくさんのコストを払って、たくさんの動物達を助けている。
喧嘩で耳を失ってしまったうさぎ、頭蓋骨が見えるほどの傷を負ってしまったうさぎ、失明してしまったうさぎ、そういう動物達を健康になるまで懸命に治療して、新しい飼い主さんへ繋げる活動も熱心に行われている。
そういう情報を目にしやすい環境にいると、今回の事件は「鼻水じゅるじゅる病が蔓延したので、軽症重症問わずに全部安楽死させました!」みたいな軽薄なように見えてしまうのかもしれない。
頭ではわかっていても、どうしても「パスツレラごときで」って思ってしまうのだと思う。
現に、パスツレラに感染しているうさぎを引き取って飼っている人も知っている。その人は今回のニュースにとても怒っていた。そりゃそうだよね。自分は懸命に治療して、治したんだもの。
悲しいけれど人手や薬剤にかけられるお金は有限でのコストだから、トリアージをしなくてはならない。
色々まとまらなくなっちゃったけど、今回の事件はお金があれば、もっと違った選択肢が生まれたかもしれない。ifで進めるのは良くないかもしれないけど、可能な限り選択肢は増やしたいよね。
私は本当にとても悲しかったから、少しだけ寄付をした。HPには募金が気軽にできるページがあって、とても親切に感じたよ。
近所の区がやってる動物園では寄付ページが見つからなかった。分かりやすいの出してくれないかな!!!板橋区さん!!!!!!!!!!
とりあえず、今回の事件はとても悲しいけれど、それ以上に動物園が情報を公開してくれたことに誠実さを感じた。批判が殺到することも承知の上でしてくれた対応には頭が下がる。
ただ、うさぎを飼う身としてはやっぱり悲しい。
うさぎに限らず、また同じようなこと(病菌の蔓延とか)が起きた時のために資金に余裕があった方がいいなあ〜とは非常に感じた。
今回のことをきっかけに、定期的に動物園に寄付やら何かグッズを買うやら、そういうこと行なっていきたいと思ったよ。ドケチな私がここにはお金かけてもいいと思えたのだ。
家畜の病気が蔓延したから何万匹も処分した、って聞いてもそこに対して悲しい気持ちを持たない自分が、うさぎ15匹に対しては「ぴえ〜ん」って悲しがってるのって我ながら不思議ですわ。ずるいなあ。何でだろうなあ。
動物とか、弱い人とか、そういうものに優しくいられる人間でいたいと思ったよ。
学ばせることができるのは○○したら自分が損するということだけ
でも○○したら自分が損するさえ子どもが学べれば社会ではやっていける
そのことを真摯に見つめないと不幸なことになる
CU特性とは?
https://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-23659359/23659359seika.pdf
「CU特性」とは,ニューオーリンズ大学のフリック博士が提唱しているCallous-Unemotional Traits の日本語訳です.フリック博士によれば,CU特性はサイコパスとも関連のある特性で反社会的行動を表す児童に特徴的なものだとしています.また,注意欠如多動症(Attention Deficit / Hyperactivity Disorder; ADHD)との関連も報告されています.
赤ちゃんには道徳心も仲間意識(差別意識)もあるぞ
科学読み物やTVで取り上げられた有名なのはこれ。イェール大学のヤツ
下記はイェール大学の乳児認知センターで公開している実験の動画
[Yale University] The Infant Cognition Center: Research in Action
他に科学読み物で取り上げられてたのはワシントン大学のこんなのとか
- 赤ちゃんは公平さを好むが、自分たちがより利益を得る場合には、公平さはそれほど重要視しない
- 白人乳幼児40名に研究者2名がおもちゃを配った。1名はおもちゃを公平に、もう1名は不公平に分配した。
その結果、70%の乳幼児はおもちゃを公平に分けた研究者をより好んだ- 実験対象にアジア人と白人の乳幼児を混ぜ、その中の何人かの白人乳幼児に、より多くおもちゃを配るという実験をした。
その結果、前の実験結果とは異なり、白人の乳幼児は「自分たち」をひいきする「不公平な」研究者をより好んだ[Frontiers in Psychology] I“I pick you”: the impact of fairness and race on infants’ selection of social partners
https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fpsyg.2014.00093/full
○ その親切な行動、50%が遺伝!?
あなたはどのくらいバスで席を譲ったり、募金をしてますか?「親切さ」にも様々ありますが、今回ご紹介するのは見ず知らずの人に対しての親切さ(利他的行動)です。
バスでお年寄りや妊婦さんに率先して席を譲る人もいれば、寝たふりをしてしまう人もいますよね。
見ず知らずの人にどのくらい親切に振る舞うのかには、大きな個人差があります。これは、生まれもったものなのでしょうか?それとも、成長の過程で身に着けるものなのでしょうか。
研究によると、見ず知らずの人に対する親切さは、50%が遺伝要因による先天的なもの、50%が環境要因による後天的なもので形成されているそうです。
他人に対する考えや行動も遺伝するの!?と驚くかもしれません。しかし、他にも「他人に共感する(empathy) 」は、70%が遺伝要因によるという報告があります。
研究の結果、ドーパミンの代謝に関わる「COMT遺伝子」のrs4680というSNPが「G」である人は、「A」である人よりも、自分が持っている金額に対して高い割合の金額を募金する、つまりより親切に振る舞うと分かりました。
というSNPにはGG,GA,AAの遺伝子型がありますが、日本人平均と比べると
[mycode]
(当たり前の例)
[Psychology] Anxiolytic Treatment Impairs Helping Behavior in Rats
https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fpsyg.2016.00850/full
[Current Biology] Harm to Others Acts as a Negative Reinforcer in Rats
https://www.cell.com/current-biology/fulltext/S0960-9822(20)30017-8
日本語記事:「誰かを助ける」のに理由はいらない(哺乳類なら):研究結果 (WIRED)
https://wired.jp/2016/07/01/rats-empathy/
数年前に関東に引っ越してきてから、3月11日に少しの孤独を感じるようになった
毎年この日が来る度に、周りの人間は当時の自分を振り返り、震災に対する想いを口にする
私には語れるほどのものは何もない
地震のあった日もその後も、私は普通に仕事をし、普通に生活を続けた
私の他にも数百人が働くオフィスでは、毎年黙祷のためにアナウンスが流されていたから
大変な思いをした人がたくさんいると思う
そんななか、私は毎年、中途半端な気持ちを抱えながら黙禱を捧げた
職場の女性が「子供服ならもう着れないのが捨てるほど余ってるから、送ってあげたいわ」と有難迷惑なことを言っていたのを聞いて
「物資が足らないってのは、ゴミでも喜んで受け取りますって意味じゃないですよ」と嫌味を言った覚えがある
当時から、東日本に数人の友人がいたので、被災しなかった私たちが出来ること、すべきことを、できる範囲で実行した
用が無ければ彼等に連絡するのは控えよう、とか
被災地全員にはムリだが家族分の米くらいなら送れるからいつでも言ってくれ、とか
私の出来る範囲ってその程度だったと思う
だから、私には本当に、当時のことで語れることが何もない
今、周りの人たちが当時のことを振り返り
そういうのも何もない
ニュースで当時の映像を見ても、それは私の現実から離れた現実だった
そうだと思う
私は毎年、あの日の事を思いながら、震災は私に何の爪痕も遺さなかったと思うし
それなのに、TVから流れる様々な映像や、被災者の声で、存在しない被災した記憶を植え付けられているなと思う
当時の夫に寄り添えないまま、私は、当時の誰にも寄り添えないまま
孤独感を味わいながら毎年この日を迎える
今日は東日本大震災からちょうど10年になる日なわけだが、毎年どうしても思ってしまう事があるので、ちょっと吐き出させてほしい。
吐き出したいだけで、別にどうしてほしいというわけではないのだけども。
俺自身は東日本大震災の被災者ではないけど、5年後の熊本地震の被災者だ。
東日本大震災の当時から募金したり支援物資を送る活動に協力したり、大したものではないが支援活動をやった。
熊本地震を被災し、規模は違えど、地震被災の辛さは多少わかるようにもなった。
けど、熊本地震から1~2ヶ月ほど経過して以来、どうしてもこんな声を見かけるようになった。
https://mona-news.com/archives/59242050.html
挙げたのは一例に過ぎなくて、もう5年も前の話なのでどこで見たかは覚えていないが、当時とにかく被災者がひたすらバッシングされていた。
あちらの被災者はどう頑張っていた、それに比べて熊本県民は、みたいな奴。
平時ならまだメンタルで跳ね返せたと思うが、いかんせん緊急事態、メンタルが弱ってる状態で見てしまっていたのが悪かった。
さんざ比較対象にされた結果、どうしても東日本大震災の話題で無関係なはずの熊本地震がフラッシュバックするようになってしまった。
東日本大震災の被災者が全員熊本地震被災者をバッシングしたわけじゃないのはわかっているが、頭ではわかっていても、という奴。
東日本大震災も発生後しばらくしたら被災者バッシングが始まっていたので、熊本地震だけの事象ではないのはわかっているが、刃が自分に向けられたというのはダメージが大きかった。
結局、それ以降3月11日が来ても、犠牲者に対して素直な気持ちで黙祷する事ができなくなってしまった。
そして、東日本大震災でも被災者バッシングが起こっていた事を思うと、同じ苦しみを抱えている人もいるんだろうと思う。
最近はあまり被災者バッシングを見かけなくなったので、俺の観測範囲が狭くなったか本当に減っているのか、後者である事を願うが、被災者というのは本当に弱っている。わがままを聞けとは言わないが、多少なりとて回復するまでは、鞭打つのだけはやめてほしいと、未来に向けて切実に願う。
以上、ただの吐き出しにすぎない文章。もし読んだ人がいたら、お目汚しすまない。