これはこれで正しいとも自分は思うのです
天は自らを助ける者を助ける、というのも事実でしょう
しかし、助ける余裕がなければ、なかなか人が他人を助けるという行為は困難なはずです
ビル・ゲイツは現在は慈善事業がメインであり、貧困層などへ広く学習の機会を与える課題にも取り組んでいますが、
彼はその理由として、資本主義的原理では実現できないから、といったことを語っています
といっても、これは彼がお金持ちになれたからであり、お金持ちになっても自分が欲しいコンピュータを作ることに情熱を注ぐだけの人もいるわけです
もちろん、色々な人が世の中にいて構わないわけですが、いずれにせよ、他人を救う余裕がなければ慈善事業は難しいはずです
狂信というとテロのような悪い面もあるわけですが、良い面で狂信的である人は考え方がブレないのです
良い意味でドンキホーテとでもいいますか、理想を追い求めて金がなくなっても他人がついてこなくても損得勘定が欠如しているから折れないのです
まず、信念があるとか、自分の打ち立てたモットーに執着する、固執しているならば、周囲からのノイズやトラブルで折れにくくなるはずです
それが人として良いのか悪いのかは、周囲の人それぞれによって大きく分かれると思いますが、
慈善事業だろうが偽善だろうが、自分が死んでも他人を助けたい、と考える人も少ないと思いますが存在すると思います
しかし、現実的に考えるならば、基本は他人を助ける余裕がなければ他人を助けることは困難でしょう
10kgまで支えられる何かがあったとして、5kgは乗っけれる、20kgは余裕がないので無理、
でも耐荷重10kgに対して10kgの荷物だったらどうでしょうか?
もしかしたら望んだところまでなら耐えて運べるかもしれません、でも、もしかしたら振動も加わって折れてしまうかもしれない
だったら10kgの荷物を分割できないか、5kgに分割して二回運べないか?
もしくは10kgのところを8kgにして、2kgは諦めてください、というのも策かも知れません
これが私が他人を助けるという行為はベストエフォートであるという所以です
アフリカの飢餓を救うというのも、まあ募金とか寄付行為はありだとは思います(どうしても胡散臭い団体が多いと思うのが否めませんが
しかし、直接的に助けるとなるとアフリカまでの飛行機代だけでかなりの出費になります
そのお金で半径5mの人を救えるのに、なんでそれをしないでアフリカの人を救うの?という問いに対し、
色々な考え方の人が色々な答えを持っているかもしれません
それに対し、自分は救急車を呼ぶ余裕はある、救急車が来るまでその人のそばにいる余裕はある、
自分には難しいと思いますが、医学的素養がある人ならば応急処置をする能力がある人もいるかもしれません
つまり、最近話題になっている弱者男性だかのカテゴリーに自分も十分含まれるとは思うのですが、
目の前に死にそうな人が倒れており、救急車を呼ぶ余裕があると思っている自分がいる、
にも関わらず、
自分は弱者だから他人を助けない、他人を助けるより自分を助けろよ、
みたいな極端な考え方に至るのも変な話であって、
つまり、端的に言うなら、なんだかんだ社会とはカーストではないが階層があるものであり、
強者は弱者を救う余裕があるが、それはある弱者より上の階層がその弱者を救えるという話であり、
そういうツリー構造があるならば、一つ上の層が一つ下の層をちょっと救う、
その連鎖で全体が救えるはずだとも言えるわけですが、
ここで問題になるのは、確実に全体を救うには一番トップの強者が無限に余裕がなければいけなくなってしまうことであり、
現実に無限はありえないし、もし、その一番トップの余裕が減少していけば、ツリー全体を救うことは困難になってしまう
しかしながら、全体最適化とでもいうか、全体をある程度いい感じに救うためには、やはり一つ上のノードが一つ下のノードを救う、
こういった他人をちょっと助ける連鎖、再帰的な連鎖があればちょっとは世の中も捨てた感じではないように思えるわけですが、
それがまた難しいのが人の世というものでもあるわけです
半径5メートルの人はちょっと肥満体すぎるんじゃないか