はてなキーワード: ラベリングとは
トラバ元記事と現実との齟齬は既に言及されつくしているので, ぼくは別の視点から意見を述べたいと思うよ.
ぼくはトラバ元記事は, ポップカルチャーのひとつとなったアニメを理解できないおじさんかおばさんによるものだと仮定するよ. もしくは日本ホルホルを生理的に受け付けない人という可能性もあるが, "幼稚なもん"と断定しアニメをこき下ろしていることから, ここではアニメという創作物を許せない立場から出てきたものであると仮定しそれについて書くよ.
ご存知の通りかつて日本には中森明夫雑誌コラムを発端とするオタクバッシングがあった. このバッシングはマスメディア, 典型的にはテレビ・雑誌・新聞等で苛烈に行われた. この時代マスメディアは現在よりも圧倒的に強かったし流行そのものだった. そして流行とマスメディアの洗脳を強烈に受けた世代がいる. 40代以上のおじさんおばさんたちだ. オタクとして蔑まれた人々にとってその時代は地獄だったし, マスメディアに洗脳されたその元若者に言葉と物理による暴力で迫害されてきたんだ.
そして彼らは今もなお, オタクとラベルされた"自分たち"とは違う, 気持ち悪い"あいつら"がいると幻想している. ここ, はてな村でも京アニ放火被害ニュースのブコメなどでオタクヘイトを撒き散らしてる人たちがいただろう. アニメのような創作物を消費する姿には無数のバリエーションがあるのはインターネットにより可視化されているし, オタクというラベリングは現実にはもはやなんの意味もなしていない. それにも関わらず, そういったおじさんおばさんたちの洗脳が解かれる事はなかったし, 自ら行ってきたバッシングの過去と向き合う気持ちはきっと生まれないだろうし, それはきっと彼らが死ぬまで続くのだろうと思う. 彼らにとって世界は固定的なものだし変化など起きるわけがないという世界観なわけだね. なんと貧しい世界観だろう. だから若い世代はこうした言説は年寄りの妄言として無視して良いかなと思うよ. (注意:おじさん・おばさん,そして若者はこれをテーマに決して戦うことをしないでね, 戦ってもいいことなどないし, 世の中にはいろんな人がいるのだから)
おじさんより
乙女ゲームの悪役令嬢設定もののアニメが近いみたいだけど、放送されたらやっぱり乙女ゲームへの偏見が強くなるんだろうなあ。
https://togetter.com/li/1309696
https://togetter.com/li/1345695
http://gakyusoku.blog.jp/archives/30575498.html
ここら辺読んでもアニメとして放送されることでやっぱり乙女ゲームにはテンプレとして断罪される悪役令嬢がいるってレッテルが貼られるんだろうなあ。乙女ゲームを高尚なものであると主張したいわけじゃないけど、その頃私産まれてないけどオタク=犯罪者的イメージにされそうで嫌だなと思う。
そもそも私は全ての乙女ゲームをクリアしてないし、アニメ化したことで数作プレイしたタイプの超絶ライト層なんだけど、「悪役の令嬢」ポジのいるゲームに当たったことがないんだよね。例えば何度もアニメ化されて世間的知名度も高そうなうたプリも途中(リピート〜先輩方を攻略できるオールスター)までしかやってないけど、親友の女キャラはいても純粋な悪役はいなかったと記憶している。学園の規則としての恋愛禁止や家の事情といったものに対し、攻略対象キャラと主人公がどう対処するかがそのルートを盛り上げる鍵になると当時思ったな。
女キャラかつ悪役で個人的に忘れられないのが、某吸血鬼乙女ゲームの三つ子の母親かな。うたプリでも家庭事情によるものとして親が壁となることはあれど、彼女は本当にヒロインにとっての悪役だった。それでも親であり同世代じゃない。
他にプレイ経験のある乙女ゲームだとときメモGSの1、2とかに攻略対象者によっては恋のライバルとなる女キャラ(プレイヤーが勝つと女キャラとの友情が壊れる)もいた。彼女達は特定の男キャラが好きであるとそれぞれ設定してあって、その特定の男キャラを攻略しようとしない限り親友として卒業するエンドもある。ストーリーのスパイスたるライバルとしてのキャラはいても、最終的には仲良くなったりとなろうテンプレの破滅状態(国外追放・処刑とか)って知らない。某作画がやばいクソアニメの原作ルートに出てくる攻略対象キャラの元カノとか上記の棘の中で悪役令嬢かもしれないと挙げられてるけど、あのルートをクリアして過去のしがらみからの解放として結果的にキャラから離れていったと思った。あと別に令嬢じゃないし、離れたことで破滅から解放されたし。
なろうテンプレの乙女ゲームの悪役令嬢だと基本的にメインヒーローの婚約者であり、ルートによっては様々な結末を迎えるとされている。またそのキャラクターが悪役となるストーリーは必ずしもメインヒーローのルートという訳ではない。複数人いる攻略対象者のどのルートでも悪役令嬢であると位置づけられているキャラクターも多い。
正直これまでプレイしたゲームの中で元から恋人・婚約者がいるにも関わらず攻略対象者に登場時から位置づけられたキャラというのを個人的には知らない。登場時に彼女がいるけど、追加攻略対象となったキャラクターは数少ない所持している乙女ゲームの中には存在はする。けれど主人公が結果的に掠奪するというのに対しどうしても嫌悪感を覚え、ずっとプレイできていない。ネットで感想を漁っても、いいカップル(長年交際の上関係良好かつ男キャラが退職した際も支えたなど作中で言われている)を主体的に壊すことへの忌避感は感じた。
個人的には掠奪は道徳的に許されないことであると考える。だからこそ掠奪は批難されるし、作中では瑕疵のない限り悪役が行う行為である。DVを受けている人妻を夫から掠奪するというのは批難に値しないと考える人でも、何の瑕疵もない夫から妻を掠奪することは批判するのではないだろうか。だからこそ乙女ゲームというジャンルにおいては、現在進行形で恋人・妻がいるキャラは攻略対象になり得ないと考えるユーザーが多いのではないだろうか。なろう悪役令嬢は婚約者だが、「双方合意の上で円満に婚約を破棄したい」と考える婚約者設定のキャラは乙女ゲームにも存在する。うたプリファンディスクではとあるキャラに婚約者がいるけれど、そうした婚約破棄に好意的だった。故に掠奪にはならなかった。
一方のなろう悪役令嬢ものは主人公に世間的にも瑕疵がなくとも突然婚約破棄を告げられるというもの、悪行を押し付けられて婚約破棄に至るものなど様々だ。これではただ単なる掠奪である。乙女ゲームとして、ヒロインが愛されなくなってしまう。一番最初のうたプリのストーリーではヒロインが冒頭でただ痴漢をされるのに何もできないだったかプレイヤーにとって受け入れづらさがあった。その後復刻版として出たリピートではその要素は確かなくなっている。乙女ゲームにおいて攻略対象者が魅力的であるのは当然のこと、ヒロインにも魅力がなければストーリーとして面白さが出ない。乙女ゲームのヒロイン=天然はわわ系女子というイメージがある人は乙女ゲーム未プレイの中にはいると思う。それでもアニメ化するほど人気の出た作品はヒロインにも魅力があるのだ。なろうテンプレ乙女ゲームが有象無象のアニメ化など程遠い乙女ゲームと位置づけているとしても、主人公(悪役令嬢)に知識がある以上少なからずコンテンツとして面白いものだった筈だ。声優・イラストで釣った糞ゲーという設定にしても、ストーリーを覚えられるのだ。少なからずヒロインに感情は揺れ動いただろう。攻略対象者の暴走としても主人公に掠奪をさせるように制作側はストーリーを練っていないだろう。いくら攻略対象者の魅力で補おうとしても、ヒロイン(フィルター)が糞であれば攻略対象者の魅力などわかりようがない。
だからこそ婚約→(場合によっては無実の罪で)婚約破棄→破滅というなろうテンプレ乙女ゲームはともかく、「よくあるテンプレ乙女ゲームです」「作者は乙女ゲームをしたことがありません」という言葉を免罪符に使うのは個人的には好きではない。原作やアニメなどといった原点を知らずに二次創作することと同じように思ってしまう。本当に好きなものに勝手に雑なラベリングをされて、貶される経験のある方なら多少は理解してもらえるだろうか。
なろうテンプレ悪役令嬢は概要だけだと只の嫌われ夢という意見を見て、個人的には目から鱗だった。嫌われ夢を好まず、悪役令嬢ものを好む人がいたとすれば、そっちだって勝手にラベリングしていると言われるかもしれない。世にある全ての乙女ゲームを全クリするより、悪役令嬢もの小説を読む方が金銭的負担も含めた労力は少ないだろう。だから強く主張はできない。悪役だからって救われてはならない道理はないとの理念に基づいたアナ雪が大ヒットした以上、現代社会では一般的な感情なのだろう。
よく知らない分野では、本当のことよりも世間のイメージに基づいたイメージになる経験はあるだろう。なろうテンプレ乙女ゲーム悪役令嬢を好む人にとっての実際の乙女ゲームへの関心度は高くなく、なろうテンプレとしても渦巻く謎の概念としての乙女ゲームへのイメージによるものしかないのかもしれない。なろう=俺TUEEE、強くてニューゲームといったなろう小説への偏見は実情と違わず偏在することからしてもたぶんどうにもならないことなのかもしれない。なろう系と称されるストーリーはあれど、概念であってそのなろう系テンプレしかないストーリーはないだろう。おそらく。
だから長々と書いたけれどこれは乙女ゲームが単なるテンプレとされ食い荒らされていくことへの個人的な嘆きなのです。ボルテージさんとか一応スマホ用の無料乙女ゲームはあるので、そこら辺からでもほんのちょっとはプレイを考えてもらいたいななんて思うのでした。個人的にはボルテージさんみたいな完全スマホ発のだとcmみたり、課金したりしてコーディネートをなんとかしないとか一気に読めないのは怠いとせっかちな人は思ってしまうかもしれないので、そういう人はコンシューマの方がおススメかもしれない。人気あってちゃんとストーリーも面白いのだとアニメ化もしてるので、そういうところから乙女ゲームというジャンルに目を向けてくれると嬉しいなあ。
悪役令嬢ものがアニメ化して、たぶん地上波放映されるのなら乙女ゲームへのイメージが悪役令嬢もののテンプレで固まってしまって、これ以上どうしようもなくなってしまう。誰も傷つけない創作物が不可能なように、乙女ゲームテンプレでちょっともやっとするかなりマイノリティの戯言だけど、斜陽産業たる乙女ゲームを勝手に踏み荒らされたくないなあなんて思うのでした。マイネリーベとかいう悪役令嬢が登場する乙女ゲームの存在は当時一桁だし知らなかったけど、その一例だけで悪役令嬢が乙女ゲームの概念になるのは悲しいな。
BBCニュース聞いてるとしきりに人権(human rights)って言葉が出てくる。
それは単に虐げられてる人たちを助けようとかいう場面で出てくる言葉だ。
例えば今だとベネズエラのニュースとかね。特に戦争の時はよく活躍する言葉じゃないかな。
でも「人権団体」って日本語で聞くと「ああ口うるさい理想論者のバカ女(決めつけ)のキラキラ系団体(笑)かな」とか思われてしまう訳です。
「そもそも人権とは何か?」みたいな、俺人権について分かってますよ的な利いた風な口を叩く人もいます。
実際その疑問は正しいかも知れない。人権についてみんな哲学レベルで正確にわかってないかも知れない。
「それはAIじゃない」とか「それはサーバーレスじゃない」みたいなツッコミがどうでも良いのと同じです。
虐げられてる人たちが世の中に居て、その人が大手を振って堂々と幸せになる権利を得られる、そんなふうにしたいねっていう気持ちに対してバズワードとして「人権」をラベリングしただけだと思ってくれれば結構です。
男女問わず、AV出演者に嫌悪感を持ってしまう。AV閲覧者にも多少嫌悪感がある。今ブクマにAV女優のインタビュー記事が掲載されているけど、読んだらより辛くなった。
自分の感覚は偏見とか、差別とか、そういう質ものなのかと思いつつも、そのラベリングに違和感を持っていた。自分のこの感覚は何なのか考えてみたところ、恐らく私は「性行為は人目に晒すべきものではない」という価値観をもっている。そのため、性行為を人目に晒すことを生業とすることに理解ができない故の嫌悪なのかなと気づいた。なぜ「性行為は人目に晒すべきではない」と思っているのかはよく分からないが、私は他者の性行為は見たくないし、自身の行為も見られたくはない。
理解ができないものを嫌悪してしまうのは私の人間性の小ささであるものの、出演者や閲覧者の人間性や、職業そのものへの差別的感情ではないと思っている。ただ、性行為を晒すことそのものに不可解さを感じている。
AVは産業として成り立っているし、そこに搾取や暴力がないのなら特に今以上の規制が必要と思わない。ただ、AV出演を生業にする人や閲覧者に抱いてしまう嫌悪は消えることはないだろうなと思った。
本稿では、現在の「ファン/オタク」が「関係性消費」を志向するようになってきているという事象を踏まえ、その内部の「男オタク」と「女オタク」のジェンダー格差や、関係性消費の今後について多角的な視点から分析を試みる。なお、本稿においての「オタク」は、二次元三次元を問わずある作品・概念・グループなどを愛好すると自認している人々のことを指すポジティブな言葉として用いる。拡散し多様化するオタク文化は2次元と3次元の壁を超え、全体像を画一的に語るのはほぼ不可能なため、ジャンルやジェンダーに関する詳細については各部で詳細を補完したい。
「日常系」は広大なオタク市場の中でもかなりの割合を占める作品群だ。基本的には複数の女性キャラの日常生活を描写した4コマ漫画が多く、それを原作としたアニメは2010年代以降各クールに2~3本は放映されている。基本的にドラマティックで壮大な展開や激しい戦闘を行わない、いわば反「セカイ系」カルチャーともいえるだろう。源流としては美水かがみ「らき☆すた」(2004)や、なもり「ゆるゆり」(2008)などが代表的なものとして挙げられるだろう。00年代初頭から現代まで増加傾向にある「日常系」は、現在も各メディアで売れ続けている。この背景には、やはり弛緩した日常風景の一瞬・ごく短いセリフや1コマのシーンの行間を読む関係性消費への志向への高まりが一因であると思われる。日常系の「物語性のなさ」は、逆に巨大な「行間」を生み出し、そこにオタクが各々関係性や物語を想像して消費することができるからなのではないだろうか。
関係性消費について、2,5次元舞台での「リアリティの担保に参加しつつ、舞台裏も消費するファン」や、「タカラジェンヌの四層構造」(東 2015:96-98)*1 で取り上げられた「各レイヤーを横断し、その要素を複雑に融合させながら関係性を消費するファン」は非常に興味深い。これに似た位相にあるコンテンツに、「バーチャルYouTuber」が存在する。「バーチャルYouTuber」とは、2D/3Dの二次元的アバターを現実の肉体の動きとシンクロ(トラッキング)させ、そのキャラとしてゲーム実況や雑談配信などを行う人々の事を指す。そもそも「YouTuber」の動画には前提とされる物語や世界観はなく、その動画単体でも楽しめることが前提とされており、多くのバーチャルYouTuberも同じく、上記の「日常系」にも通ずる他愛もない放送を行っている。しかしここにおいて重要なのは、「日常系」を「実在の人物が演じる」ことがコンテンツとして確立し、今流行していることである。難波優輝は「Vtuberの鑑賞の構成要素は、パーソン、ペルソナ、キャラクタという三つの身体に分けられる。そして、ペルソナとキャラクタ画像がつねに重ね合わせられ、かつ、パーソン/キャラクタとペルソナの層がそのつど関係づけられながら、装われるペルソナが鑑賞者の鑑賞の対象になっている」(難波 18:121)*2 と論じ、これを「Vtuberの三層構造」と名付けている。
そしてバーチャルYouTuberは、電子の肉体によって軽々と他のバーチャルYouTuberとの関係性を構築する。コラボ放送などでみられる仲睦まじい様子を、鑑賞者は「Vtuberの三層構造」を横断し、「彼/彼女らのパーソンのレイヤーでの関係性」が見え隠れする片鱗をSNSや動画において意識しながら鑑賞しているのである。また、バーチャルYouTuber側も当然「パーソンを消費される」ことに対する意識を持っているため、現実世界でパーソン同士が実際に会い、その時食べた飲食物の画像を投稿する、それに対して「パーソン・レイヤーにおいても継続される強い関係性」を読み取れるようになる、といった事象もあった。これはまさにタカラジェンヌの四層構造における「芸名の存在」におけるパフォーマンスと相似であり、その表象が3DCGやVR機器の発達によりさらに「オタク」向けに変化(美少女・美少年だけに限らず多様化)したものではないだろうか。「日常系」と「関係性消費」の拡張であり、またジェンダーと次元の攪乱への大きな手掛かりとなるムーブメントだと考えられる。
つまり、「実在の人物が裏に存在するという事実に裏打ちされた生々しい日常系・関係性」が、液晶内のキャラクタバターと動画配信という形態の手軽さにより、オタクの関係性消費への志向は次元を超えてさらに加速していくと予想できる。
・関係性消費における性別によるジャンル分け(女性向け/男性向け)の無意味さ
前章で関係性消費への志向がさらに高まると予想したが、本章ではオタクのジェンダー格差について女性向けジャンル・男性向けジャンルという分類の持つ意味合いやその内部の消費形態に差異があるのだろうか。
もちろんHL(異性愛)文化を扱う少女マンガ・少年マンガにおいても恋愛・友情・ライバルなどの相関図は存在するが、メインとなるカップル男女の恋愛関係がメインに据えられることが多い。一方BL/GL文化ではそれ以外の登場人物の関係性をより深く読み込み二次創作に落とし込む、あるいは理想の相関図を一次創作で描き出す。今後どんどん規模を増していくであろう関係性消費においては、性別によるジャンル分け(女性向け/男性向け)は無意味になっていくのではないだろうか。しかしここではあえて、わざわざラベリングされている「腐女子」と「百合男子」という言葉の意味合いについて掘り下げ、BL/GL(同性愛)ファンの文化それぞれの特徴から考察してみたい。
女性オタクの人文学/社会学的研究に関しては、特に「腐女子論」か「ジェンダー論」による先行研究が数多くある。その中でも数多く散見されるのは、「主体的な女性の性的欲望の解放」といった視座からの言説であった。特に「腐女子論」と「ジェンダー論」を組み合わせた言説では、「自らの女性身体が侵されない安全な領域において、性的な表象を消費するためにやおい文化は発達した」といったものも存在する。しかし、現在においてこれらの言説に私は違和感を感じる。勿論そういった側面も確かに存在する(した)と思うが、現在の日本の混沌としたオタクカルチャーの中で女性オタクの中から腐女子だけを切り取って上記のように論じるのは既にごく限られた一部の事例においてしか適用されない理論であるように思う。
今あえて「腐女子」を論ずるならば、私は「腐女子同士の関係性」に目を向けたい。腐女子であることによる世間からのマイナスイメージを払拭しようとしたり、イベントやSNSでの趣味やスラングの共有による特殊な連帯が、このコミュニティでは無数に形成されている。やおいコミュニティの特殊性について東は、「やおいを好む女性たちは、一様に異性愛から疎外されているわけでも、異性愛を拒絶しているわけでも、異性愛を欲しているわけでもない。彼女たちはただ、異性愛を排除したところで成り立つ、女同士のホモソーシャルな絆がもたらす快楽を求めているのである。」(東 2015:236)と述べている。さらに、腐女子は扱う創作物の特性上セクシャルマイノリティに対する理解が深く、またホモソーシャルな絆から発展し、腐女子同士が交際していることなどもよく小耳に挟む。シスターフッドやレズビアン連続体、ホモソーシャルな関係性を含んだ腐女子コミュニティは、作品上においても現実世界においても強い「関係性」を追い求めている集団なのではないだろうか。
では次に、GLを愛好する男性オタクについて考察してみたい。残念ながら、男性オタクの先行研究は数多くとも、その内容は美少女キャラクタへの欲望やコミケでのゆるやかなホモソーシャルな交流などになり、「百合男子」単体にスポットライトを当てたものは見つけられなかった。なぜなら、GLというコンテンツは受け手のジェンダーによって大きくその意味合いが変化してしまう場合があるからである。そして男性のGL愛好者は、「美少女キャラクタへの性的な消費」という使い古された言説の中に含まれ見えなかった存在であり、その消費の仕方は齊藤によって「腐女子との比較でいえば、男性おたくの『萌え』にとっては、関係性のプライオリティはそれほど高くない」(齊藤 2009:154)*3 と評されていたのだ。よって、ネット上でGLを愛好するファンは「百合厨」「百合豚」などと呼称され、その性別は限定されていない。これはGLというジャンルを男性だけが消費することに対することが上記の齊藤の言説のような文脈を帯びてしまうことに対する対策と、実際にファンの男女比がほぼ半々であるため、両方の理由によるものと思われる。逆説的に考えれば、「腐女子」という呼称が流行ったのはBLというジャンルを女性が消費することを蔑視されることに対するアンチテーゼとして、BLファン当事者たちが自らをそう名乗ったことに起原するのではないかとも考えられる。
また、百合厨コミュニティにおける異性愛忌避の姿勢は、腐女子コミュニティのそれに比べてはるかに厳格なものに感じられる。先に述べた「男性による女性キャラクタの性的消費」とは違うことを宣言するために「百合男子/厨」を名乗った男性オタクたちは、腐女子のようにホモソーシャルな絆を構築することはなく、二次元三次元を問わずして異性愛的な欲望を抑圧されるようになった。この構造は腐女子のジェンダー論に見られた主体的な性消費の解放とは真逆の道を辿っており、非常に面白い点だと思っている。
こうして述べてきたように、同性愛コンテンツのファンの構造は非常に複雑で特殊なルールの基に成立している。しかし、上記の性的欲望を抑圧される百合男子に関しては、百合というジャンルの男女比がほぼ同じであることに大きく由来するだろう。つまり、「同性愛コンテンツを扱うにあたり、そのファンは異性愛を忌避しなければいけない」といった暗黙の了解のようなものがオタクの中で存在しているということである。これに関しては、創作物と消費者のセクシャリティは隔絶して考えるべきであるという立場をとりたい。そして、特殊な連帯がプラスにもマイナスにもなり得るBLファン界隈と、ジェンダー問題に揺れるGLファン界隈は、第一章で述べたバーチャルYouTuberの関係性消費をモデルとして再構築されつつあると考えている。バーチャルYouTuberの関係性消費は、非常に複雑なジェンダー攪乱が日常的に行われている。パーソンがシス男性、ペルソナがシス女性、キャラクタがシス女性のキャラ同士の「絡み」は、GLともBLともタグ付けをすることが難しい議論になってくる。しかし、その関係性に惹かれるファンはキャラクタとパーソンのジェンダーを軽々と越境し、その複雑な「関係性」を消費することができるようになるのである。これに似た現象はアニメ・漫画においても進んできており、創作物と受け手のジェンダーが必要以上にファンを語るうえで関係づけられることも少なくなっていくのではないだろうか。
【続きと参考文献リスト】
https://www.walkingtora.com/entry/2019/01/27/011630
結局それかよ、という感じ。
男は無神経で、女は繊細
男は消費し、女は搾取される
男は
男は
男は
で、女性が本当に主人公のアニメって呟きに、きらら系だとか、ラノベモノだとかを返答すると
男の視点で女を客体化し性的消費してるから駄目なんだと後だしジャンケン大会を開催
最初の返答が、男のマウンティングになるんだってさ、男のトンチンカンになるらしい
で、【本当の】女主人公だと、男が疎外感を感じたり、男が荒らしたりするらしく
男が受け入れてる、プリキュアとかは駄目と
バカジャネーノ
世の中にはそんなの気にせず萌アニメを消費したり、がっつり男を消費してる女オタクとか沢山いて
男はー、男はー、男はー
男は前提が判ってない
男はー、男はー、男はー
んで、アニメ列挙したり、後出しジャンケンを揶揄したりしてる人を、リンチと呼び
そうすりゃお前の意見が正しくなるのか?
バッカジャネーノ
だよ
肯定感が異様に低い人は「アンタはこう」ってむしろラベリングした方がええと違うと書いた
その上で自身の特性 (というか重視している価値観/行動) に自覚的になった方がいいと思うやで
「傾聴」は英語で「active hearing」または「attentive hearing」です。「active hearing」は臨床心理学で「積極的傾聴」と呼ばれ、アメリカの心理学者カール・ロジャースが提唱した手法として知られています。
「共感的理解」とは「相手の視点、相手の立場に立ち、相手の気持ちや話の内容に共感しながら聴き入れることです。「共感する」という行いは相手にとって「話を聴いてくれている」「認めてくれている」という安心感を与えてくれます。
「無条件の肯定的関心」とは、聴き手の私的な感情を取っ払い、無条件で肯定的に話を聴くことです。たとえ、話の内容に誤りや間違いがあっても、また社会的に反する内容であっても、否定をせず関心を持って聴く技法です。
「自己一致」とは、聴き手自身の感情や意見も尊重し、相手の話で理解できない点がある時は内容を確認しながら、真摯な姿勢で話を聴いていくという技法です。分からない点をそのまま置き去りしてしまうと、相手に「私の話はそれほど重要ではない」と誤解を招いてしまうこともあるでしょう。質問と答えを確認する行程が加わりますが、相互理解はお互いに安心感を与えてくれます。
※ この私見はすべて、twitter上で喪女と名乗ることについてに限定したものです。
10日くらいに、新しいtwitterアカウントを作った。リア垢オタ垢美容アカ勉強アカ裏垢… いろんな種類と界隈を選べるtwitterの世界で、わたしは新しいアカウントで、恋活界隈に片足を、そして喪女界隈に片足をつっこむことにした。
ウィキペディアで“喪女の定義”という項目を見ると、4つの条件が明記されている。①交際経験が皆無 ②告白されたことが無い ③純潔である(処女) ④恋愛感情をもたれたことが無い
これと同時に、「誰が喪女を名乗ることを許されるのか」という論争も触れられている。
ここで論点となるのが、「ネ喪」の存在だ。ネ喪とは、上記4つの条件を全て満たしていないが故に、本来は喪女を名乗ることが出来ない女性たちだ。しかし、それにも関わらず喪女を自称する場合にはネ喪だとカテゴライズされる。
4つの条件のうち満たしているのは「純潔(処女)である」というものだけで、彼氏は過去にふたりいて、告白は片手ぶんの男性にされ、これらから予想するに恋愛感情を持たれていた。しかし、喪女を自称している。
新しいアカウントを作るより前から、喪女の定義についての論争が絶えないことを知っていたので、bio欄には“セカンド喪女”と書いた。手前味噌だが、なかなか良いと思う。
わたしは9年前を最後に彼氏がおらず、最後に告白されたのが8年前で、それゆえ8年前から恋愛感情を抱かれたと確信したことはない。
わたしとしては正直、自分が喪女だろうがネ喪だろうがセカンド喪女だろうがどうでもいい。酷く綺麗事のように聞こえるだろうが、わたしはわたしだからだ。
しかし、わたしのなかで渦巻く感情を、同じような感情を持つ人と共有したい。
わたしは、8年間男性に選ばれない人生を過ごしてきた。それが9年、10年…と続いていくであろうことも、ぼんやりと予感している。
そういうことの辛さだったり、鬱憤や開き直りを共有できる女性かどうかは、“喪女の定義”を満たしているか否かでは測ることができない。したがってわたしは、ツイートの言葉とそこに現れる感情を読み取って、フォローをする。いいねをする。
自分のbioにセカンド喪女と書くのは、自分の状況を誰にでもある程度まで察させる言葉だと思うからである。しかし、ツイートでは自分を形容するのに喪女という言葉を使う。セカンド喪女という言葉が自作であり、また文字数の観点から、喪女という言葉を用いるのがいちばん便利だからだ。
いちツイートを切り取ってみれば、わたしがbioでセカンド喪女を自称していることは意味をなさず、わたしは分かりやすいネ喪となる。わたしのツイートは、そういった意図の有無に関わらず、冷やかしやマウンティングだと捉えられる。
それが、人を傷つけているのだという。
理解はできる。
ある特定の条件を満たす人たちを名付けるという行為は、「わたしたち」と「あのひとたち」を明確にすることであるとわたしは考えている。強い言葉を使うと、分断だ。
この行為には往々にして、「本当の〇〇とは何か」という論争がつきまとう。本当の日本人とは?本当のファンとは?本当の喪女とは?
「本当」を自称できる人々は、強い。揺るぎないアイデンティティと、言葉から香る正当性に支えられるからだ。自然と人々のあいだの団結も強まる。故に「本当」の人々は、さらに声高にその根拠を叫ぶことができる。
一方で、マージナルな位置に存在する人々はそうはいかない。意見や感情を主張する前に、そのアイデンティティを確かにすることに注力しないといけないからである。「本当」の人々の揺るぎなさと相対的な弱さに、どうにもならない焦燥を覚えたり、傷つくこともある。
わたしの個人的な意見としては、そこで停滞していたくないのだ。ラベリングやカテゴライズを飛び越えて、感情を共有したい。
そう考えている人は、少ないだろうか?
冷やかしやマウンティングのために、心にもない理解や同意のポーズを取るのは論外である。心が貧しい。
しかし同時に、強者の立場を利用して分断の線をはっきりと引くのも、同じくらい受け入れ難いことだ。
喪女を自称する人々は、自分のことをある種の弱者だと自虐することや、恋愛経験がある人を強者とみなすことが多い。これは「本物」と「マージナル」の強者と弱者の関係とは全く逆で、それゆえにこの「強者」の構造が見えづらくなっている部分があるはずだ。
なんだかとりとめのない文章になってしまったが、わたしが感じているのは「ラベリングではなく、その考え方や抱いている感情で相手と向き合うほうが心地いいのではないか?」という簡単なことだ。
新参者のわたしが、長く続く論争に注ぐのは油でも水でもないはずである。
これを読んでくださった方が、こういう考えの人もいるのだと知ってくれるのであれば嬉しく思う。
頭悪いくせにそれっぽいラベリングだけしたがるお前みたいなやつだけなら、まだマシだったんだけどな。。