はてなキーワード: 言論の自由とは
横だが、良い悪いの問題ではない。良い悪いで言えば個人が勝手に話している分には自由。
ただ「素人でも付け焼刃の表層的な知識で専門家を批判できる(間違った知識披露)!」などと吹かしていれば、知識人たちが「素人がわけわからんのにつっこんできても話すの無理」「間違ってるよ」「んなわけないやろ」と個人的に勝手に突っ込んでくるのも当然というか予想の範囲内というか自由じゃん
というかフンワリ良い悪いや言論の自由的な雰囲気での判断を君は求めるらしいが、これは可不可とか妥当かどうかの話だから普通の人は君の主張を理解もできない。ろくに知りもしないのにどうやって口を挟むんだ、知ったかぶりするなって結論に帰結するでしょうねそりゃ
医療分野なんか議論してどうにかなる分野でもないから、じゃあ論文書いてくださいって話で、素人が専門家に「議論を吹っ掛ける」という発想の時点でお門違い
素人意見が意味のあるものになるごくわずかな可能性を君が秘めてると言いたいのかもしれないが、まあそうなると潤沢な費用を用いて毎日トップクラスの研究者たちが血眼で研究し続けている薬品会社や研究機関より自分のほうが妥当な見解を持っていると言うのと同じなので学問や専門性を軽視していると取られてもおかしくない。世の中には天文学的な確率でそういう人もいるだろうけど、非常に低い確率だと思われるので否定されるのが自然だと思う。俺が今買った宝くじが当たってると怒ってもしょうがない。当たってるなら交換所に行って論文書くしかない
なによりワクチンについてあれこれ言っているが、読む限り君の誤解や疑問点の本質は「現在採用されているワクチンの有効性や長期的な信頼性に関する見解への反証」ではない。ワクチンの有効性がないこと、利益を上回る危険を証明できる!と言ってるわけではないんだろ?「厚生労働省のワクチン政策について不知による不信感がある」というのが正確な君の状態だろう
その状態で医学書の話をしても意味がないということに気づけないのがやっぱり素人の限界じゃないかな。責任逃れではないことくらい基本的な法知識があればすぐわかる。君以外の人間はここまでわかっているので、君の支離滅裂な意見に取り合うのが無意味だと言ってるわけ、別にただ反ワクチンだからとパッケージングして偏見でバッシングしたりバカにしたりしてるわけじゃない。反ワクチンでも敬意のある主張ならみんな聞くよ。君の意見が単純な無知にすぎないから相手にされないというだけ
君のやってるのは、賢く集合知を鵜吞みにしないで疑ってるんじゃない。どの情報を選ぶべきかどの程度信頼できるか、専門的な情報の信頼性や真偽の確からしさという議論の土台となる共通認識すら持たない人間の永遠の揚げ足取りだから人が相手にしないのも当たり前
東京都立大学の宮台真司教授が何者かに襲われたという衝撃的な事件が起きた。言論を暴力によって封じることは当然許されない。強い憤りを覚える。
さて、大学構内で大学教員が襲われたという事件で有名なものは中大の事件、そして筑波大学の「悪魔の詩」訳者殺人事件だろう。
サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』に対してホメイニ師が反イスラーム的とし、関係者に死刑を宣告するファトワーを発令し、日本語訳の訳者であった筑波大学の助教授が何者かに殺害されたという衝撃的な事件だ。最終的に迷宮入りで犯人が捕まっていない。
ラシュディも近年アメリカで襲われたりといまだに尾を引いている事件である。なおインドのムスリムとして生まれたラシュディの『真夜中の子供たち』は最近岩波文庫入りして読みやすくなり、とても面白いので是非読んでみることをお勧めする。
中大の事件が個人的な怨恨であるのに対し、本事件は明確な言論の自由、学問の自由への挑戦であるし、多くの人の印象に残っている事件だろう。
当然、学問の自由・言論の自由を守るべき大学としては語り継いでいき、定期的なセレモニーなどを通して大学として言論の自由、学問の自由を再度確認すべきメモリアルな事件である。
筑波大学は歴史が浅い大学でブランド力の弱さを気にしているらしく、前身校である東京高等師範学校、東京教育大学の権威を借りようといろいろと嘉納治五郎(師範学校教授)の銅像を建てたり、朝永振一郎を顕彰したりしている。そんなに東京教育大学が素晴らしかったというなら潰すなよ。
それはともかく、その最たるものが筑波大学ギャラリーなのだが、ここには筑波大学の「悪魔の詩」訳者殺人事件の展示・記述は一切ない。誰もが認める大学史、言論史上に残る大事件であるにもかかわらずだ。
https://www.tsukuba.ac.jp/about/campus-gallery/
秋野豊博士というタジキスタンで国連政務官として平和維持活動中に凶弾に倒れた先生の展示はある。
寡聞にしてこの秋野先生という方は存じ上げないが大事な方だったろうとは思うが、ニュースバリュー・事件の重要性を考えればここに並んで悪魔の詩訳者殺害事件で倒れた五十嵐助教授の展示がないのはかなり解せない。
遺族側と仲悪いのか?とも考えられるが、近年出た記事では遺族側は事件の風化を気にされており、大学側の顕彰を拒むとは思えない。
では、何故筑波大学の歴史からこんな重要な事件が葬り去られているのか。その答えは、近年の大学(ひいては文科省)の方針にある。
筑波大学は指定国立大学として、国から高い目標を掲げさせられている。その中で重要なKPIとして設定されているのが留学生数だ。
留学元は大抵の大学がそうである通り、アジア圏が多い。中国・韓国はもちろんだが、筑波大学は中央アジアやアラブ圏とのつながりも強く、学内でもイスラーム圏の留学生を観ることは多い。
これで答えが出ただろう。イスラーム圏からの留学生を受け入れ大学として数値目標を達成するためには、殺された五十嵐助教授は闇に葬られなければならないのだ。
本来であれば、大学として許されざるテロであることをイスラーム圏からの留学生にも理解してもらう努力をすべきだと思うのだが、その努力を放棄し大学の言論の自由と学問の自由を犠牲にして大学としての達成目標をとったということだ。
学生運動渦巻く東京教育大学を潰して、文科省肝いりで作ったトップダウンの大学である以上、仕方ないかもしれない。だけれども、五十嵐助教授が大学の短期的な利益のため大学からも葬られていることに強い憤りを覚える。
「表現の自由」問題が盛り上がっているが、前々から思っていることとして、「表現の自由」は以下の三つの立場に分けて理解されるべきだろうと思う。
「どんな不快で差別的な表現であっても、お互いにそれを我慢して認めるのが表現の自由であり、表現への批判それ自体も表現規制につながる危険性が高い。」
「不快で差別的な表現も認められるべきであり、政府による表現規制は好ましくないが、表現への批判も表現の自由の一部であり、そのリスクはきちんと引き受けるべき。」
「不快で差別的な表現を放置することは、社会的弱者やマイノリティの表現・言論の自由を行使する機会と意欲を奪うことになるので、真の表現の自由の実現ためには一定程度は規制されるべき。」
← よくわかってるじゃん。日本共産党は結構なナショナリストで、自民党みたいに中国共産党に対して媚びを売ったりもしてないし、北方領土返還交渉でもソ連共産党員と妥協せずに四島じゃなくて全千島列島返還を求めているし、変化にはたいてい何でも反対だし、保守的なナショナリストなんよな。あの三島由紀夫も「天皇に関する事以外は共産党と一致する」とか言ってるし、意外と石原慎太郎や渡辺恒雄に近いのかも知れない。
俺自身の立場は決して弱者ではないので日本共産党に大きく共鳴するわけでもないし思想信条は大いに異なるのだが、まあ言論の自由が保証されている社会という観点から言って、日本共産党みたいな野党もある程度の勢力を持ってガンガンもの言える状況は、決して悪くないというか、あるべき状態だとは思ってるよ。
ただ、俺から見て不思議なのは、日本社会での弱者とか搾取されている側の人間たちが、何故か共産党のような弱者の味方である勢力に批判的であって、搾取する側の強者たちを支持してる連中が多いってこと。
不思議ではあるんだけれども、これはこれで悪いことじゃないんだよね。おかげで俺らは日本の社会で下からの突き上げや揺さぶりに怯えることなく安心していい思いができるわけだからねww
論ぱっぱしたよ
理由1. Twitter は死に追い込む事ができるプラットフォームになっている ← でも災害情報やウクライナの主張などがいち早く入る生を配給するインフラにもなってる
理由2. Twitter で死人が出ることが、表現や言論の自由に対して規制を掛ける大義となる ← これはネット外でも人をいじめころしちゃいけないし、ラインで自殺教唆したやつもいた。プラットフォームにはかかわりない。悪は悪だしどこでも表現・言論には一定のマナーや規制が必要ってだけだろ
理由3. 自国の大統領(当時トランプ)すら追放したプラットフォームで日本の言論を預けるべきではない ←日本人特有の二重国籍を扱うのが下手なだけ。アメリカじゃ「思い込みの激しいトランプを」追放したが日本じゃ「思い込みのはげしい統一教会・反ワクを」みんなの力で追放しようとしててそれがツイッターの長所でもあるんじゃね?新聞雑誌テレビニュースといったの旧来メディアが普通に仕事しろってだけだろ
イーロン・マスク氏の Twitter 買収は Twitter の終わりの始まり、とか言う意見を見聞きする様になったんだが、
個人的に Twitter はこのまま消滅した方が社会的に良いと思ってるので、その点について書こうと思う。
※ 追記: スマホで読み返したら読みづらかったし、文章が雑だと感じたので全面的に改稿しています
ちなみに三行しか読みたくない人に向けて話をまとめておくとこうなる:
あと最期のおまけの話は Twitter の代わりはない。諦めろ と言うのが俺の考えです。
まず第一に今の Twitter が無い方が良いと思う理由がこれ。
直近で思い出すと木村花さんの事件が代表的だが、今の Twitter での炎上は一般大衆が DM やリプライ、
リツイートで 誰でも簡単に 他人に悪意をぶつけられる様になっている。
つまり誰でも手軽に集団で精神的暴力を見ず知らずの相手に振えるようになってる。
そしてこの文脈で言うと、10年以上前の昔は炎上の舞台がブログのコメント欄とか 2ch だったため、
炎上させるには自分から相手の領域へ殴り込んでコメントを残さない限り暴言を吐けなかった。
しかもコメント欄も当事者が閉じれたから、そうなったらそれこそ 2ch でギャーギャーと騒ぐぐらいしかできなかった。
まず炎上の現場が自分の領域(自分が管理するブログ)から他人の領域(この場合 Twitter)に変わった。
その上、誰が見ても酷い暴言を吐いた連中の IP とか分からなくなったし(とは言え自前ブログだと今でも大体 IP は分かる)、
Twitter は一度ひどく炎上すると二度と社会復帰できない惨事の現場になった。
と言うのも Twitter でパブリックエネミーとして炎上すると、顔が割れて本名バレしたら就職や進学に影響が出るのが常になったし、
パブリックエネミーではない理不尽な炎上でも、 Twitter が他の SNS での関連付けされていたらすべての SNS から丸ごと退場、と言う結果になる。
つまり一度追い込まれたら SNS に復帰できないどころか、現実社会でも人を追い込める構造になってしまった。
んでさらに性質の悪いことに、一度 鍵垢とかアカ消しなどで Twitter から逃げだしたとしても炎上案件を面白半分で拡散するアルファ垢とかが普通にいるし、
そう言うクソアルファのツイートを対した思慮もなく拡散するバカがアホみたいに居たりするんだよな。
そしてそう言う連中がいるから、一度炎上で火が付くと余程燃やした側に非が無いと炎上は止まらなくなったし、
その結果として、Twitter は人を追い込んで自死(自殺)へと仕向ける事が出来るプラットフォームになった。
つまり昔の放牧的で日本語すら通らなかった Twitter は気がついたら無くなってて、人を死に追い遣ることも出来る惨状の SNS になった。
なんで俺は死人が出る、と言う理由で今の Twitter は無くした方が良いと思ってる。
次の理由がこれ。
直近のニュースで、複合的な理由が要因となって「いいね(like)」だけで民事の名誉毀損が認められた、
いわゆる「いいね罪」が発生する様になった、と言う事が表現の自由戦士界隈で話題になってたみたいだが、
俺はこれを当然の結果だと思ってる。
と言うより、さっきも木村花さんの事件に言及した様に Twitter で死人や人生を破壊される人が出れば出るほど、
司法や国家権力は「個人を守る」ために、特定の言論へ一定の圧を掛ける判決や規制を出さざるを得なくなる。
なんでかって言えば SNS で死人や被害者が出ている現状を放置する社会、なんて被害者の側からしてみればたまったもんじゃないし、
そう言う社会悪の放置は、往々にして政治の現場へ一定の圧になってくる。んで、この政治側に掛けられる圧が「大義」に化ける。
そしてそう言う「大義」が大手を振って歩ける様になった結果、侮辱罪は厳罰化されたし、それでも SNS で個人への精神的暴力が止まらず、
より酷い状況を生み出すんであれば、たぶん名誉毀損罪とかも厳罰化されるだろう、と俺は思ってる。
んでそう言う「大義」にかこつけて「言論の自由」を規制したい連中は暗躍するわけで、今の惨事が罷り通る Twitter は既に言論の自由の敵になった、と俺は考えている。
そしてこの手の話が最終的に極まって行けば、極論だけど Twitter みたいな SNS は規制省疔直轄の許可制とかになりかねないでねーの、と俺個人は思ってます。
これはまあオマケみたいは話ではあるんだけど、Twitter も含め 、例えば Facebook とか Instagram 、
YouTube とか TikTok とかなんでもそうだが、国外の SNS は前提として 日本国における言論の自由は無い。
と言うのもこれらの SNS はすべて諸外国の法律下に既にあって、その上で日本の規制とかが入ってるから、
他国の規制と自国の規制、その両方の法規制の元に置かれている。
で、これの何が都合の悪いか、と言うと、例えば日本の法律では許されている言論であっても、
サービス提供を行なう本社がある国では違法となる言論があった場合、日本に居ながらにして他国の法律が適用される、とかそう言う事になる。
なんで例えばアメリカでクソったれな言論規制法が出来上がって施行されたとすると、
その法に対し違憲判決が出ない限り Twitter などのアメリカ系 SNS は、日本を含めどの国に対してもそのクソったれな規制下に置かれてしまう。
なのでそう言った意味で、そもそもとしてアメリカ企業が運営する Twitter には日本の言論の自由はない。
そしてさらに性質の悪いことに、Twitter 社はトランプ大統領が現役だった時、トランプ大統領が無茶苦茶を言い出したことに対して、
マニュアル運用でトランプ大統領を黙らせようとし、最終的にトランプ大統領が退任した後、アカウントを凍結して Twitter からトランプ元大統領を叩き出した。
んで、自国の要人、しかも大統領にさえ(抵抗権として)牙を向いた Twitter 社が、他国の要人が似たような事をしだした時、
同じ様な行動を取らない、なんて保障はあると思うか?思う思わないは個人の意見に相異はあるだろうが、俺としてはそうは思わない。
つまり Twitter と言う会社は、自社や自国にとって都合の悪い意見 を政府要人が言い出した場合に相手を黙らせた前科があり、
そう言った意味で日本の政府要人、あるいは公共機関の Twitter アカウントが凍結されない、なんて保障は俺は無いと思ってる。
なのでそう言った意味で俺は今の Twitter を信用・信頼すべきではないと思うし、イーロン・マスク氏の暴走がどう影響するか分からんが、
自体がより悪化する方向へ傾くのであれば、俺は Twitter にご退場を願った方が良いと考えてます。
そう言った理由で俺は Twitter と言うサービスは、ある面では無くなった方が良いんじゃないかと思ってるんだが、
では Twitter の代わりになるサービスはあるか?と聞かれたら、それはたぶん無い。諦めろ、と言うのが俺の結論。
と言うか第二・第三の Twitter もどきが出てきたところで、 Twitter の二の舞になるからそもそもそんなサービスは存在すべきではない、と思ってる。
あと Twitter の代用、と言う文脈でマストドンなどの連合系インスタンス群(Fediverse)が代用候補に上げられるが、
マストドンや misskey 、Pleroma なんかでも同じで、連合系インスタンスであっても、規模がデカくなればなるほどTwitter と同じ末路を辿るだろう、と考えてる。
と言うか連合系インスタンスが比較的平和なのは、ユーザー数が少なく良識のある面々が多数派だからであって、
そうではないクソみたいな連中が雪崩れ込んできたら、あっと言う間に Twitter の様な荒廃した世界になるのがオチとしか俺は思えない。
しかもマストドンとかは技術的な面倒を見れるのであれば誰でもインスタンス立てられるから、
誹謗中傷や暴言、陰謀論、排外主義や差別主義、と言った最悪な言動に特化したインスタンス「も」立てられると言う面もあったりする。
とは言えそう言った最悪系のインスタンスは他のインスタンスの連合から弾き出せるし、
Pawoo みたいに海外の法律的に連合を組めない(主にえっちなイラストが原因)もあるから、これが一概に悪いとは思わない。
が、ユーザーが増えれば増えるほど SNS 系のサービスは治安が悪くなるから、俺としては大規模な Twitter もどきを増やす利点を見出せない。
なんで俺個人としては、連合系インスタンスは行儀の良い面々だけで運用されるインスタンスでもない限り治安は最悪になるだろうし、
Twitter で誰とでも暴言吐いて論戦出来る場なんて用意すべきではないと考えてる。
そのためこの節の最初の方でも言ったけど Twitter の代わりは無いし用意すべきでもない。素直に諦めろ、
と言うのが俺の結論です。なので誰にとっても救いはない。
今春行われた侮辱罪厳罰化の問題点として政治家への正当な批判が制限されて言論の自由が委縮するとの声が左派から上がってるが、最大の問題点はそこではなく、インターネット上にのさばる"屑"への抑止効果を抑え込み、屑が好き勝手できる状況を作り出しかねないことである。
この屑というのは特定当時のチンフェ(長谷川亮太)やゆっくり茶番劇商標登録騒動の主犯格柚葉(石氷匠)のような、ネット上でどれだけ炎上しても1ミリも反省しないような問題外の人物のことだ。こうした人物は、リアルで実害が出ない限り、決して反省することがない (そうなっても内心はしないかもしれないが) ということをまず念頭に置かなければならない。
事実チンフェが表立った火消しをしなくなったのも特定後炎上が膨らみ広く知られるものになったからこそである。また、後者に至ってはせいぜい爆破予告と偽装住所のリア凸程度で特に実害を被ってなく、悪びれることなく侮辱罪厳罰化を利用して復活までしているのだ。
以上の根拠を以てすれば侮辱罪厳罰化は誹謗中傷被害者の救済よりもこうした屑の思う壺となるのは明らかだろう。
誹謗中傷被害者を救済しようとして法案制定したところを、結果としてチンフェ、柚葉のような同情の余地のない最低最悪の屑を守ってしまえば本末転倒でしかない。
今年行われた河合塾の全統マーク模試の国語の評論文。内容はロミオとジュリエットにおけるジュリエットのセリフに、家父長制への疑問とそこからの脱却、はっきりとそう書かれていたわけではないが、ジュリエットが家父長制に反抗するということで、フェミニズムをも見出すというものだった。
なんか色々大丈夫なのか中立的な文章にしたほうがいいんじゃと無駄に心配してしまったわ
その子は大阪大学志望で過去問の英作文を添削したが、言論の自由や民主主義や社会福祉を守らなければならない。みたいな、ネットだと共産党乙wとか言われそうな文章を英作文させててこれまたびっくりした。
まあ河合塾はイチ企業だからいいとしても国立大学はこれでいいのかと思ったわね。学問の自由だからいいのか。おっさんだけど老婆心。
平 裕介 @YusukeTaira
弁護士(東京弁護士会所属)。研究者→https://researchmap.jp/7000001277。大学で授業(行政法等)を担当(非常勤)
表現/言論の自由というのは、国や自治体という公権力の介入を受けないことという問題に「限定」すべき、という考え方は、法学をよく知らない大人(特に法学以外の領域の専門家)が陥りがちな誤解。そういう考え方は初等教育か中等教育までにしてほしい。現代国家における表現の自由の問題はもっと広い
当アカウントにつき表現の自由戦士アカであり公権力に対する表現の自由等には無関心と思っている方もいるようですが、そんなことはないのでよろしくお願いいたします
もちろん俺も全くもって分からないんだけど、そのうえで直観を言わせてもらうと「近代」自体がぶっ壊れる危機だと思っている
理由としては、
「これまではデマを広めるとしたら国家やメディアだけだった。彼らは確かにろくでもないが、彼らの利益を維持するためには社会の維持は必要不可欠だった。だから彼らは少数を切り捨てるような方向に世論を誘導しても全部ぶっ壊そうとはしない。しかしインターネットの言論が影響力を大きく持ち始めてきた状態では、破滅的なテロリストであろうとその種の才能があれば一言語圏の世論を席捲できるかもしれない。さらに言えば学者などの権威はどんどん落ちていき、いよいよ公式な事実というもの自体が消滅する。情報空間はこれまでになく民主化されたことによって大きなリスクとなっており、いずれ匿名インターネットを規制しなければ社会はもたなくなる可能性が高い。しかし国家などによる規制は必然的に言論の自由の致命傷となる。よって民主主義、自由主義などの『近代』は終了する」
まあどこにでも書いてあるような平凡な論だが
もうじきに、左右のあほみたいな陰謀論者によるテロが恒常化する社会か、中国みたいな言論統制の社会かを選ぶしかなくなる可能性が濃厚。自由主義を守りたい人はとにかくネット社会に合わせた「言論の自由」を再構成するのがお仕事だと思う
はてなブックマークやTwitterなどで、「中立」「客観」と言った態度について批判的に論じるものをたびたび見かける。特に、差別や政治など、権力闘争の類で非対称性が存在するときによく使われるイメージがある。それらについて私なりに論点を整理してまとめ、コメントしようと思う。これらの論に親和的な人も、逆に批判的な人も読んでほしい。
まず、当たり前の話なのだが、何かを批判するときは通常複数の論点から批判できる。
例えば、社会民主主義は新自由主義の立場からすれば「市場が政府権力によってゆがめられ、効率的な資源分配が出来ない上に政府権力が不健全に増大する」と批判できるし、共産主義の立場からすれば「結局彼らは資本主義や自由市場と言った搾取を『多少マシ』にしている程度であって、本質的解決には役に立っていない。どころか、革命に向かう人々を減らすという点で有害ですらある」と批判できる。
これを見て、もし社民主義者の人が「アンチ社民主義者は矛盾している。市場原理主義みたいなことを言いながら、資本主義を否定している。彼らは矛盾している」と言うのがおかしいというのは分かるはずだ。あるいは、「新自由主義者は社民主義を批判している。これは共産主義者と同じだ。よって新自由主義者は共産主義者なんだ」もおかしいとわかるだろう。
インターネットではそれぞれの発言と発言主が結びつかず、なんとなく「自分の考えを非難する人」を全部同じカテゴリに放り込む処理をしてしまいがちだ。(なお、話をややこしくするのは本当に矛盾した意見を言うやつも一定数存在することだ)
そんなわけで、いわゆる「中立」「客観」批判者は皆「お気持ち」(ここでは、自分の快不快の問題をシームレスに社会的な問題につなげて、自分の感情に社会が従うべきだ的な発想を持っている人)の人たちだ、という雑な世界観を持っている人も多いが、ここで「中立」「客観」批判の理屈に触れて、「なるほど、こいつらはこういう理由でそういっているんだな。(自分は賛同できないにしても)まあ理屈は分かるな」と思ってくれれば幸いである。
これは厳密には『中立』『客観』を否定していない。どころか、不徹底な『中立』『客観』を批判し、本物の『中立』『客観』を目指そうとする方向性も見受けられる。
実際問題、はてなやTwitterでは、『中立』『客観』(それからこれと似ている『是々非々』など)を「右」と「左」(あるいは任意の対立する二大勢力)のどちらも全肯定/全否定しないことだと思っている感じがする人が複数見受けられる。まあ確かに、「右」のいう事を全肯定/全否定、とか、「左」のいう事を全肯定/全否定すると最初から決めてかかるのは紛れもなく党派的な姿勢であり、中立的でも客観的でもない。しかし、そもそも「右」がどうとか「左」がどうとか党派性を意識し、この二者のいう事には従わないぞ!みたいに決めてかかっているのは、全く同じではなかろうか。ようは、「中道」という第三の党派に過ぎない。そうではなく、中立や客観というものに自分は完璧に到達できないのだという事を自覚し、他人が中立的であるか客観的であるかは究極的にはジャッジできない(もちろん明らかにこいつ主観的に過ぎるやろみたいな人はいるけど、そう思っている私の方がおかしい可能性は否定できない)という事を踏まえなければ、「中立」「客観」という言葉は単なる党派性の御旗にしかならない。
これは実のところ、「正義の暴走」論とよく似ている話だ。正義の暴走を非難する人は正義が嫌いなのではなく(まあそういう人もいるが)正義のために正義の暴走は抑止した方がいいという話をしている。正義の暴走とは、やっている本人たちが勝手に正義と思っているだけで、実際には悪である、というロジックだ。同じように、「中立」「客観」の濫用を非難する人が「中立」「客観」を否定していないのも当たり前の話だ。彼らが否定しているのは「中立」「客観」を装った「党派性」「主観」だからだ。(面白いのが、「正義の暴走」論を持ち出す人の多くは「中立」「客観」の濫用の問題を考えず、「中立」「客観」を批判する人は「正義の暴走」論を持ち出されると不満を表出することが多い事である。両者はほぼ同じことを言っているのだが)
まあ、つまりこの批判は「お前は自分が客観的と思ってるかもしれないけど本当は違う(かも)しれないぞ!」というものである。個人に向けるときは喧嘩する気がなければ使わない方がいいとは思うが、一般論としては(特にわたしのような『中立』『客観』が大好きな人間ほど)よく頭に刻んでおいた方がいいと思う。
こちらは、『中立』『客観』的な態度を、ある一分野のみについてとはいえ明確に否定している(と私は思う)ので、論点①とは様子が違う。
まあ言っている事は正直分からなくもない。この手の人たちが良く比喩として使うように、「足で踏んでいる人と踏まれている人」の間で『中立』『客観』的な議論を成立させろ、というのは無茶である。差別されている人と、その差別をたとえ直接はしてはいなくても差別によって得られる利益を(その自覚なしに)享受している人の関係は、「足で踏んでいる人と踏まれている人」のそれよりはるかに複雑で見えづらいものがあるが、似たような関係性であるという事は、その是非は別として、可能ではあると思う。なので、倫理的な個人が差別問題について論じるときはその辺に気を付けて論じてもよい、論じた方が好ましいくらいのことは私も思う。
しかし、この考えを強い規範として言論空間に導入することに対しては私は警戒心を抱く。
「誰が加害者か」「誰が被害者か」「どこからどこまでが『差別問題』か」「どんな事実を適示すればそれが『被害者非難をあおっている』と言えるか」
これらをみんなが納得いくように定めるのは非常に難しい。間違った基準を定めてしまえば、例えば本来「被害者」である人たちを「加害者」として力づくで非難する事や、本来「加害者」である人たちの罪悪を「被害者」として覆い隠すこともありうる。「被害者」「加害者」の推定が正しかろうと、「被害者非難をあおっていると言える事実」と認定されたものがもし違えば、その事実は公論上での扱いが不当に小さくなりかねない。差別発言自体は言論の自由で守る価値はまったくないのだが、論点②の批判が拡大すると差別発言以外も巻き添えになるリスクがとんでもなく大きくなりそうである。そもそも一国の言論空間なんて政治勢力も右から左からワラワラ湧いてくる場所なんだから、うかつに基準を厳しくしたら、その基準が「万人」でも「マイノリティ」でもなく「特定の政治権力」の都合の良いようになってしまう可能性もある。一方で、剥き出しの、それこそ差別主義者やデマもなんでもござれの「言論の自由」が良いとも思えないし、「中立」を装って攻撃を誘発する人たちを何とかしたいという気持ちはあるので複雑なところである。
(ちなみに、個人としてこの観点から批判すること自体はどんどんやったらいい。問題なのはこの考えが強い規範になることである)
①②は曲がりなりにも論として成立しているが、③は論外である。これこそが「お気持ち」である。
これについて論じることは特にない。まあしいて言うならば、「個人的な感情の表明」自体は何ら悪ではないという事は付け加えておきたい。こういう風に、自分の感情だけで他人を思うままに動かす権利が自分にあると思っている人をまともに相手する必要がないというだけである。
①②③それぞれ、言う層が全然違ってくるということがイメージできるだろうか。
①は、左右問わずおそらくそれなりに頭のいい人、論理的な思考が好きな人が言うと思う。(ただし、論理的な思考が好きな人は左に行きやすいので、左が多い気はする)
②は、明確に左の中でも主張が強めの人が言うだろう。(なお、加害者と被害者の構造を、中国と日本あたりにすれば、右の主張強めの人たちも似たようなことを言っている)ここで重要なのは、彼らの主張は我々と大きく違うが、別に彼らは頭がいいわけでも悪いわけでもない。どちらかと言えば頭のいい人が多いと思う。
③の人は、多分単純に頭が悪い。左にも右にも真ん中にもこういう馬鹿は沢山いる。ただし、バカの中でもわざわざ自分はバカですとアピールしたがるインセンティブが強いのは右左の中でも過激な人たちだろう。
「お気持ちサヨクはバカ」みたいなことを言う人たちは、多分①②の理屈で「中立」「客観」を批判している人に左翼が多いという事と、③の人たちにバカが多い事を混同して、左翼=お気持ち=バカみたいな図式を作り上げているのではないかと思う。あと、「お気持ちサヨクはバカ」と言った同じ口で「リベラル(おそらくこの人はリベラルとサヨクをほぼ同義として使っているはず)は啓蒙思想を押し付けている」みたいなことを言っている人もいた。確かに②は啓蒙思想押し付けのダメな部分全開という感じで、③はバカである。たぶん構造としては②が③の人たちを率いて暴れまわっているという感じではなかろうか。まあそんな感じで、「中立」「客観」大好きな人たちも、③は論外として①②の理屈は普通にそれなりに通っているっていうことをちゃんと意識しよう。(まあ意識できてる人もいるだろうけど)