はてなキーワード: 緊急事態とは
誰もマスクをしてないで、数十人が騒ぎながら密集して酒を飲んでた。てっきり1年以上前の映像だと思ってたら今週の東京の居酒屋の取材だった。
若者だけじゃない。老人もいた。
狂ってると思った。
喋らずに間隔を空けて酒と料理を食えばいいのだ。
しかし、そんなことをお構いなしにワーワー叫んでる。
これって政府が悪いの?
それとも野党?
店が悪いの?
悪いのは頭だ。
つい2ヶ月間には危うく数千人もの人間が1日に感染して「早く緊急事態宣言をー」と騒いでいたくせに、わずかな我慢ができない馬鹿。
何より、そういう対策をきちんとやってる店が潰れそうなのに、馬鹿を集めて酒を出してる店が満員の繁盛をしていることだ。そしてこの病気の厄介なところは、そういう馬鹿が数十人に広げるところだ。
一人でくたばるならともかく、他人を大量に巻き込む。なんかもう救いがない。
持病を持っており、免疫を抑制する薬を飲んでいる私はコロナが怖い。
重症化の可能性も友達より高いし、そうでなかったとしても良くなりつつある持病の憎悪は避けられない。
同級生はコロナへの緊張感はもう無くなっていて、インスタグラムのストーリーでは飲み会や、カフェ巡りの様子が毎日上がっている。
大学最後の年なのに、卒業旅行もできないし、友達と遊びに行くことすらままならない。ほとんど毎日、学校と家との往復だけで、卒論発表を頑張ったのに打ち上げすらできなかった。卒論発表が終わったあと、帰って家で1人でテレビを見ながらお酒を飲んで少し泣いた。
それなのに、だらだらと伸びる緊急事態宣言、この状況を変えてくれない政治家たちは会食してるし、GOTOや五輪開催のことばかりだ。
まあこんな状況だったら遊んで思い出残して、仲を深めた方が若者にとってはいいよなーとも思う。だからだんだん飲み遊ぶ友達は増えてきたし、それでコロナの症状が出てないものだから、その体験を踏まえて、どんどん大胆に遊んでいる。
でも一方で、持病を持った私からするとそれは危機だ。患者が増えすぎると、毎月通っている病院に行けなくなるかもしれないし、罹った場合のリスクも高い。だから最近はあまりにも遊んでいる友達とはなるべく距離を取るようにしている。
遊びの誘いはラインで断ればいい。
それがもうすぐ行われる卒業式だ。一応縮小ということにされているが、卒業生は教室に集まる。感染に気をつけながらカフェを巡っている子も、特に気にせずキャバクラでバイトをしている子も、飲み歩いている子も、出会い系アプリで不特定の人と会っている子も、自粛をしている人間も、1つの教室にまとめて入れられる。
そこでどの程度の対策がされるかは疑問だが、感染していても不思議ではないような生活をしている友達と一緒に、長時間いるのは私にとって危険を感じることである。
そんなに怖いなら行かなければいいのだろうか。迷っている。ただ、卒業式が開催される限り、行っても行かなくてもそれぞれの後悔はあるだろう。
一年が経つ。卒業式までにもっと感染を抑えられなかったのかと憤る。私は、友達と過ごす最後の時間をこんな形で奪われなければならないのだろうか。
今日、家族が所用でいない。自分、一人だ。仕事から帰ってきて、適当に夕食作って、チューハイの蓋を開けようと思った時に、そうだ飯食ったらどっか行こうと思いついた。ストゼロをそのまま冷蔵庫に戻した。
飯食べたら、着替えだけもって自転車でスーパー銭湯へ向かった。家族が車使っているので、クロスバイクしかない。
数年前にできたスーパー銭湯。入り口前で案内を見ると、岩盤浴プランだとリクライニングコーナーでゆっくりできるらしい。クーポンだと1,500円ぐらいなので、ちょっと贅沢してみることにした。岩盤浴は初めてだ。
風呂に軽く入って、館内着に着替えて岩盤浴コーナーへ。おっさん一人で浮かないだろうかと心配したが、老若男女、そして家族から一人からカップルから友達までと色々な人がいて、おっさん一人でも問題なさそうだ。
とりあえず眠いので、リクライニングで一時間ほど仮眠する。さて初めての岩盤浴へ。見様見真似でスタートする。徐々に温まってくる。15分ぐらいすると汗びっしょりである。そしたら涼しい部屋へ直行する。
あーなんか気持ちいい。またリクライニングで仮眠して、今度はロウリュウなるものすごい温かい風が当たるのを体験。お兄さんが暖かい風を当ててくれる。皆で拍手して、なんか一体感あっていいな。
さて帰ろうかと思ったが、腹が若干減ってきた。帰って、インスタント食品でも食べようかと思ったが、緊急事態宣言も終わったし夜のラーメン屋も悪くないなと思って、Googlemapで検索すると幹線道路沿いに行けば夜遅い時間でもあいている。
さっそく直行する。こんな時間だが、会社帰りのスーツ姿のリーマン、若いカップル、よく分からんおっさんと繁盛している。
ラーメン。美味しい。学生時代、部活で夜遅くまで残った時に、よく食べに行ったラーメンと似ていて、なんか懐かしい気分になった。もう戻れない日々だけど、本当に楽しかった。
毎日あーだこーだ集まってたのに、もう集まることは人生で一回もないんだもんあ。懐かしいな。完全にウルウルきてしまった。
780円のラーメン。すんげー美味しいっていうわけでもないけど、なんか幸せな気分にさせてくれるラーメンだった。有難う。
毎回飲みに誘ってくる50代、60代のおじさんがいる。
新型肺炎が流行り出してから、それを口実に断って方が、いよいよ雰囲気悪くなってきたので誘いにのってみた。
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というか以前よりもパワーアップしているような感じがした。
社会に対して全体的に、パワーにもセクシャルにもハラスメントが増していて時空が歪んだ気がした。
ぬるま湯?もしくは幻想でも見てたんだと思うようになった瞬間だった。
このギャップを、このショックをもっと言葉にして行動で示して行けたらいいのにとも思ったけれど
一番いいのはもうかかわらないことだよねこの人たちと。
パワハラもセクハラもその時言われた直接的被害もすごく不愉快だと思うけれど、
持病を持っており、免疫を抑制する薬を飲んでいる私はコロナが怖い。
重症化の可能性も友達より高いし、そうでなかったとしても良くなりつつある持病の憎悪は避けられない。
同級生はコロナへの緊張感はもう無くなっていて、インスタグラムのストーリーでは飲み会や、カフェ巡りの様子が毎日上がっている。
大学最後の年なのに、卒業旅行もできないし、友達と遊びに行くことすらままならない。ほとんど毎日、学校と家との往復だけで、卒論発表を頑張ったのに打ち上げすらできなかった。卒論発表が終わったあと、帰って家で1人でテレビを見ながらお酒を飲んで少し泣いた。
それなのに、だらだらと伸びる緊急事態宣言、この状況を変えてくれない政治家たちは会食してるし、GOTOや五輪開催のことばかりだ。
まあこんな状況だったら遊んで思い出残して、仲を深めた方が若者にとってはいいよなーとも思う。だからだんだん飲み遊ぶ友達は増えてきたし、それでコロナの症状が出てないものだから、その体験を踏まえて、どんどん大胆に遊んでいる。
でも一方で、持病を持った私からするとそれは危機だ。患者が増えすぎると、毎月通っている病院に行けなくなるかもしれないし、罹った場合のリスクも高い。だから最近はあまりにも遊んでいる友達とはなるべく距離を取るようにしている。
遊びの誘いはラインで断ればいい。
それがもうすぐ行われる卒業式だ。一応縮小ということにされているが、卒業生は教室に集まる。感染に気をつけながらカフェを巡っている子も、特に気にせずキャバクラでバイトをしている子も、飲み歩いている子も、出会い系アプリで不特定の人と会っている子も、自粛をしている人間も、1つの教室にまとめて入れられる。
そこでどの程度の対策がされるかは疑問だが、感染していても不思議ではないような生活をしている友達と一緒に、長時間いるのは私にとって危険を感じることである。
そんなに怖いなら行かなければいいのだろうか。迷っている。ただ、卒業式が開催される限り、行っても行かなくてもそれぞれの後悔はあるだろう。
一年が経つ。卒業式までにもっと感染を抑えられなかったのかと憤る。私は、友達と過ごす最後の時間をこんな形で奪われなければならないのだろうか。
とあるSNSで知り合ったメンツで東京でオフ会をした。1日目の昼は、観光、夜は、飲み会をしたが、緊急事態宣言のため二次会見つからず解散。
2日目特に連絡もないので一人で過ごしていたが、私以外のメンツで集まって遊んだり、飲み会をしてたらしい。二次会もしてたらしい。(SNSの投稿で発覚)
『私も飲み会行きたかったな』とSNSで呟いたら、メンツの一人から『そういうのがあるから呼ばないんですよ。一人でもいいじゃない。人間力を鍛えて誘われるようになりなさい。俺は人間力つけるのに10年かかったからがんばれ。』と言われた。
人間力…とは何か?
結果的に、仲間はずれにする方が人間力ないと思うのだが…私が間違ってるのだろうか?
ブラックな会社でのパワハラや景気の波を受けてうつ病発症…治療で良くなってきてるつまりだったが、さらに人間力がないとここまで言われら社会厳しくないか?
悪い考えを頭に巡らせては打ち消しを繰り返してたら時が過ぎた。
事を荒立たせてもいけないので、『アドバイスいただきありがとうございます。みなさん楽しんでください。』と返した孤独な夜。
1回目の緊急事態宣言が出る少し前ぐらいから在宅勤務をしている。
此度の緊急事態宣言、延長を受けて、外から見れば引きこもりニートにしか見えない生活スタイルが定着してしまった。
1日中パソコンに向かってキーボードをガチャガチャとせわしなく叩き、ときに音声通話で小難しい横文字の混ざった会話をしている。
1週間同じジャージを着て過ごす。仕事中、就寝時、食料の買い出しに出る時ですら着替えない。
小森龍邦氏死去、88歳 元衆院議員、部落解放同盟広島県連顧問
解放運動の巨星がまたひとつ墜ちた。私もあと十年生きるか怪しい身である。自分の政治運動に対する考えを少しばかり綴ってみてもいいだろう。
上のニュースの人は、かつて解放同盟の事務方のトップだった方だ。昭和7年に広島県東部の被差別部落に生まれ、中高生の時分から老年に至るまで部落解放運動に携わってこられた。
私が活動していた地域とは遠く離れているが、それでも半年に一度は彼の実家の傍にある、ちんまりとした選挙事務所へ行き、地元産のワインを飲みながら語り合ったものだ。
私などが知己と呼ぶのがおこがましいほど尊敬できる人格の持ち主だった。家族や地域や仲間のためであれば、危険を顧みずに行動する力を持っている。それでいて、思慮深いうえに頭の回転が速く、無謀な策を講じたりはしない。講じるとしたら、背後に確かな計算を持っている。そういう方だった。
それが、こんなに早くにお亡くなりになってしまった。悔しい限りだ。
私の番はいつ来るのだろう。運が良ければ二十年は生きられるかもしれない。運が悪ければ数年後か。その前に、自分の想いを吐き出す機会が欲しい。
さて、表題の意味について。あなた達の政治運動には『迫力』が足りないとは、どういう意味か。
言葉どおりの意味だ。特に、伝統的な分野、例えば労働組合などが挙げられる。昔に比べて弱体化が著しい。
企業ごとの組織率は低下し、労働者の組合加入率も低下し、賃金は下げられ放題、追い出し部屋や希望(半強制)退職の蔓延も放っておかざるを得ない。数十年後には、労働組合というものが事実上消滅していてもおかしくはない。
また、高校や大学など、学校内の自治を求める活動もそうだ。私は元高校教師だが、昔に比べれば、学生たちが自ら声を上げて学校のルールを変革するために動くことは減っている。感覚としてはそうであり、数字においてもそうなっている。悪い意味で、子どもが大人のいいなりになっている。
近年話題になったものだと、#MeToo運動だ。女性がこれまでに男性から受けた、性を主とする嫌がらせを公共の場で告発することをいうようだ。
日本ではそこまで定着しなかったが、本場のアメリカでは著名な人物の一部が職や名誉を失っている。最悪の場合は、裁判により実刑判決を受けることになる。
LGBTの社会運動も、社会の価値観を変革しつつある分野のひとつだ。
大衆消費社会が訪れてそうまで時間も経たない頃から、同性愛者としてのカミングアウトや文学活動、デモ行進や芸能界での活躍、自分たちを侮辱する者に対する訴訟提起(府中青年の家裁判)、ゲイであることを周囲に言いふらした者及びその所属校への糾弾(一橋大学アウティング事件)など、仲間の権利を守るための諸活動を行ってきた。
以前は、映像作品において、同性愛者が精神異常者として描かれるのは当たり前のことだった。子ども向けのアニメなどでもそういった描写があったが、昔に比べればなりを潜めているように思える。批判を恐れて、ゲイやレズビアンの人達を描けなくなっているだけかもしれないが。
これらの成功している政治(社会)運動には、共通する点がある。
相手の痛いところを突いていることだ。
この方針なくして勝利はない。しかし、近年の伝統的な政治運動の類を見る限り、相手の痛いところを見抜くことができる知性、または攻撃する度胸を欠いているように思う。
特に、組合関係の団体がそうである。昔の労働組合は、使用者と刺し違える覚悟があった。
意図的に給与の支払いを遅らされても、当局側が雇った暴力団に夜道で襲われても、工場を社員寮ごとロックアウトされても、それでも不屈の覚悟で戦い抜いてきた。
それが今では、使用者の言いなりとなり、組織から仲間を追い出すための行為に協力している。情けない限りだ。
話が逸れた。
相手の痛いところを突くことの具体例として、昭和40年頃の話をする。私の高校時代の級友の話である。K君とする。
高校二年の時だった。夏の午後の授業中に、ある教師が教室の窓の向こうにある山を指さして言った。「お前らみてみい、あの山にはよっつが住んどる」(※手の指が四本であるという意味)
その教師は、部落に住んでいる人間を馬鹿にしたのだ。当時はまだ、被差別部落で生活する人々と、それ以外との間に貧富の差があった。馬鹿にされやすかった。
どれだけ悲惨な生活だったか、今の生活と対比しながら述べると、家にトイレはなく(集落で共同のトイレだった)、上水道は通っておらず、生活汚水は外に垂れ流しであり、雨樋や排水溝がないので大雨が降ったら屋内は水びたしになっていた。
家族で食卓を囲んだ光景にいい思い出はない。口に出して述べたくないし、思い出したくもない。
さて、その男の言葉に頭にきたK君は、翌日に地域の仲間(私を含む)を連れて職員室に入っていった。K君が連れてきた解放委員会の男が怒鳴ったのを覚えている。「教頭、どういう教育をしとる!」という大声に、周囲に緊張が張り詰めた。校長までやってきた。
その教師に向けて、「そんなことは言ったらいけんど」と説得しようとしたものの、それ以前の問題だった。その教師は、私達の質疑に対して、最後までしらを切り通したのだ。「そんなことはしていない」と言い張った。
このままではK君の立場が危ういわけだが、私にはどうすればいいかわからない。しかし、協力をしたかった。
また翌日、K君は教室の中で証言者を探すために、級友の前で声を上げた。「このままでは俺は嘘つきになってしまう。証言をしてくれ」と皆に伝えた。が、私ともう一人か二人以外に協力者は出なかった。
次の日だった。今度は、級友一人一人と話をする作戦に切り替えた。校庭に級友を呼び出し、どうして協力してくれないのか、と訴えたのだ。それでも駄目だった。みな、「それは勘弁してくれ」と言うばかりだったという。
さらに次の日、K君は50枚ほどのA6程度の大きさの小紙を持ってきた。それを級友の一人一人に渡して、「これに証言を書いてくれ。後で預かる」とお願いして回ったのだ。
翌週、K君は再び、地域の仲間と、同じ地区の解放委員会の役員を連れて校長室に入っていった。私は外で待っていたが、勝利を確信していた。K君は、20枚以上はあろうかという紙の束を持っていたからである。
その年度の末をもって、その教師は異動になった。県内の一番端にあるエリアに転勤していった。彼はまだ赴任して2年目だったことから、今回の作戦が功を奏したとみていいだろう。
この、K君の動きを間近で見たことが、私が政治運動を志したきっかけだった。
今度は、少し規模の大きい話をしよう。
それから三十年以上が経って、平成の初期だったと記憶している。被差別部落の生活・文化的な環境を改善するという一連の政策が国会での議決を受けてから、長い時が経っていた。
K君の事件をきっかけにして、私は解放委員会に正式に加入し、高校で社会科を教えながら政治運動に身を投じていた。40になる頃に教師を辞めて、今度は別の公職に就いた。
ある年の冬だった。私が活動していた県の幹部職員が、「同和関係の補助金はすべて凍結する」と、あろうことか県議会で答弁した。
寝耳に水だった。まさか、そんなことはあるまいと考えたが、確かな事実だった。議会答弁はテレビ中継もされていた。
当時、私が所属していた団体の幹部が全員呼び出され、偉い方々から対策を指示された。それぞれの支部からも、来年度の予算について雨後の筍のように質問が寄せられていた。
発砲ふさがりかと思われたが、ふと、K君のことを思い出した。彼はもう立派な社会人であり、解放委員会からも抜けていた。それでも藁にすがる思いで相談に行こうとしたものの、気が乗らない。
彼に迷惑をかけるのでないかという想いもあったが、何よりも私個人の意地だった。同和教育、人権思想を啓もうする活動を担う一員である以上は、自分達の力で解決せねばならないという気概があった。
とはいえ、K君と話をしたかった。結局、正式な相談ではなく、共に食事をしながら今回の件について話し合うという形式を取った。K君は、「ここで折れたら前例になろうが」という話から始まり、諸々の助言をいただいた。今でも感謝している。
後日、県の横暴に対する対抗策がまとまった。開始時期は、一週間後とした。
数万人規模の組織で、ここまでの速度で動くのは無理がある。組織全体の足並みが揃わなくなる恐れがあったが、予算全凍結は目の前だった。
あの時のK君のように、各市町の教育委員会の庁舎に数人で飛び込んだなら、「どうしてこんな卑劣なことをするのか。子どもらが人権意識をもつための活動ができなくなっていいのか」というメッセージを何時間にも渡って、毎日伝え続ける。
庁舎の外には最大100人程度を待機させていた。みなそれぞれ、横断幕と拡声器を使って、スローガンを堂々たる態度で表し、相手方にこちらが本気であることを知らせた。朝方から始まって、日中は休憩を挟みながら、日が沈む頃まで毎日続けた。
場所は関係なかった。公共機関であれば、どこででも実施した。教育委員会だろうと、市役所の入り口だろうと、学校の門前だろうと、警察署の前だろうと、県会議員の自宅の玄関だろうと、場所は関係なかった。
かつて、私たちは基本的人権の享有を受けられなかった。その歴史を繰り返してはならない。私たちは本気だった。
議会での答弁から半年後、私達の本気は伝わった。予算の凍結が撤回されたのだ。
これまでと同じように、これまでと同じだけの金額を子ども達への教育活動、個別学習会や勉強会に使うことができるようになった。
私たちは、相手の痛いところを突いた。突き上げを受けた教育委員会は、通常の業務を行うにあたって支障が出る。日中は、私たちが絶えず抗議をするので、それに対応せざるを得ないからだ。
それが数日であれば持ちこたえるだろうが、何か月にも及ぶとさすがに根を上げる。
「予算の凍結はやめてくれ。現場がもたない」と各市町とその教育委員会は、県の決定に抗議する流れができる。
さらに長い期間に渡って続けば、県としても、予算の凍結の続行と、各市町の疲弊とを天秤にかけざるを得なくなる。
相手の痛いところを突けばいいというものではない。こちらも痛い目を見る覚悟が必要だ。というのも、現実的には、まずはこちらが痛い目を見る可能性が高いからだ。
上記の場合、県による予算凍結の撤回を求めて戦うにあたり、相手方に攻勢をかける必要があったわけだが――初期の段階が一番苦労した。まず、動員をかけても会員は集まりにくかった(当事者意識の欠如)。これがただの動員ではなく、緊急事態を打破するための闘いであることをわかってもらうために熱弁を振るう必要があった。この説得のための活動、すなわち県内の支部巡りに最も時間を要した。
人が集まり、相手方に攻勢をかけることができるようになったとして、最大のリスクがある。警察に通報されることだ。特に、要職にある者が動けなくなるのはまずい。敵にとっての追い風になる。
今回は、そうした事態が起こることはなかった。絶対に暴力行為や脅迫行為をしてはならないと、組織内で固く申し合わせをしていたからだ。
私が若い頃の解放運動だと、警察など介入する余地はなかった。デモ活動やオルグの最中に通報があって警察官が駆け付けたとしても、我々を見て尻込みをするのは当たり前で、あちらの方が逃げ出すこともあった。
それほどまでに、当時の私たちは気迫に満ちた政治(社会)運動をしていた。物事に対する「本気」というものが、警察すら怯えさせるほどに昇華されていた。
時が経ち、平成時代になると、部落に住む人々も豊かになったこともあり、ハングリー精神が見えなくなっていた。集団の気迫はすっかりと消えてしまい、周りから見ると――デモ活動の全てが滑稽なものに映るようになっていた。満たされた人間に政治運動はできない。それだけのことだった。
ところで、予算凍結に対する対抗策の実施にあたり、最大の懸念事項があった。
県と市町との連携だ。もし、予算凍結の議会答弁を打つよりも前に、県議会が各市町に根回しを行い、さらに我々を抑えるための手を考えていたとしたら、負けていた可能性が高い。
逆に言えば、同和対策事業に関する予算の凍結という重大事項について、事前に各市町と連絡調整をしないというミスを県が犯したからこそ、我々は勝利することができたと言っていい。
最後になる。
相手の痛いところを突くこと、その直近の事例としてミャンマーのデモを挙げたい。
アウンサン・スー・チーを頭に据える民主派が勝つにはどうすればいいだろうか?
武力では国軍に勝てない。ならば、「国軍は間違っている」というメッセージを、自国内と国際社会に訴えかけるしかない。
経済面ではゼネラル・ストライキを行い、社会面では民主的な思想や制度について啓もう活動を行い、政治面では大規模デモによって世界に窮状をアピールする。
アメリカがすでにミャンマーへの経済制裁を行っているし、世界的な空気として、国軍より民主派を推す声が大きいのは間違いない。
民主派のやり方というのは、それでいい。とことん大きなデモを打って、自分達の正義をアピールする。
が、その代償として、民主派は多くの命を失っている。つい先ほど、未成年のデモ参加者が銃で撃たれて亡くなったというニュースが飛び込んできた。先日のデモでは50人以上が亡くなったという。
民主派グループの中でも、指導者に近ければ近い者ほど、身体に危険が迫る。国軍にしてみれば、今が正念場である。世界各国からの評価が低下することを気にかけず、民主派の指導者層を徹底的に弾圧し、デモ活動を先導する者を少なくし、事態を膠着状態に陥らせ、軍事政権を持続させるとともに――軟禁しているアウンサンの自然死を狙うメリットの方が大きい。
もし日本が、ミャンマーのように危険な状態だったとして、あなたが立ち上がって戦わねばならなくなった時、どういう心構えで、どういう行動を取るべきだろうか? 相手の痛いところを突くために、どこまでのリスクを背負えるだろうか?
その問題に直面していたのが、私が生まれた時代よりもさらに昔、明治以降の被差別部落に暮らす人々だった。あまりに苦しい生活環境であるがゆえ、生存権を得るために戦わねばならなかった。しかし、どうやって戦えばいいのか?
多くの者が基本的人権を得るために戦い、痛い目に遭いながらも戦いを続け、そして今の、(経済的な意味に限っては)被差別部落問題が解決した現在に至る。
あなたの人生にとって、重大な戦いをせねばならない時がくるはずだ。その時に、どういった行動を取ればいいのか、当日記がその際の助けになれば幸いだ。
40代以下の若い人に向けて、このトピックを書いたつもりだ。あちらへ、こちらへとぶれた文章になって申し訳ない。読み返してみると、まとまりのなさに驚いている。ご容赦いただきたい。
あれ、ぼく シャニースタレント だって聞いたから しょうがないですねぇ
いままで拒んでいましたが 国のピン子
おんなは俺をほっておかねーよな
お国のため、ひとはだぬぐか☆ちらっ
今日は東日本大震災からちょうど10年になる日なわけだが、毎年どうしても思ってしまう事があるので、ちょっと吐き出させてほしい。
吐き出したいだけで、別にどうしてほしいというわけではないのだけども。
俺自身は東日本大震災の被災者ではないけど、5年後の熊本地震の被災者だ。
東日本大震災の当時から募金したり支援物資を送る活動に協力したり、大したものではないが支援活動をやった。
熊本地震を被災し、規模は違えど、地震被災の辛さは多少わかるようにもなった。
けど、熊本地震から1~2ヶ月ほど経過して以来、どうしてもこんな声を見かけるようになった。
https://mona-news.com/archives/59242050.html
挙げたのは一例に過ぎなくて、もう5年も前の話なのでどこで見たかは覚えていないが、当時とにかく被災者がひたすらバッシングされていた。
あちらの被災者はどう頑張っていた、それに比べて熊本県民は、みたいな奴。
平時ならまだメンタルで跳ね返せたと思うが、いかんせん緊急事態、メンタルが弱ってる状態で見てしまっていたのが悪かった。
さんざ比較対象にされた結果、どうしても東日本大震災の話題で無関係なはずの熊本地震がフラッシュバックするようになってしまった。
東日本大震災の被災者が全員熊本地震被災者をバッシングしたわけじゃないのはわかっているが、頭ではわかっていても、という奴。
東日本大震災も発生後しばらくしたら被災者バッシングが始まっていたので、熊本地震だけの事象ではないのはわかっているが、刃が自分に向けられたというのはダメージが大きかった。
結局、それ以降3月11日が来ても、犠牲者に対して素直な気持ちで黙祷する事ができなくなってしまった。
そして、東日本大震災でも被災者バッシングが起こっていた事を思うと、同じ苦しみを抱えている人もいるんだろうと思う。
最近はあまり被災者バッシングを見かけなくなったので、俺の観測範囲が狭くなったか本当に減っているのか、後者である事を願うが、被災者というのは本当に弱っている。わがままを聞けとは言わないが、多少なりとて回復するまでは、鞭打つのだけはやめてほしいと、未来に向けて切実に願う。
以上、ただの吐き出しにすぎない文章。もし読んだ人がいたら、お目汚しすまない。
1年近く前に腐れ縁と交友を絶った。
中学校で同級生で、高校は向こうが私立の附属高、私は地元の公立校に入った。
たまに飯を食ったり酒を飲んだり(今は厳しいからできないが)しながらグダグダと近況を話し合った。
大学は私がFラン私立文系、彼女は理系の夜間部を選択し、昼間はSE・夜は学生をしていて、時給が良いからと夜のビルメンのバイトをぼんやりしながらやってる自分よりタフだなあと思った。
私は就活が面倒で、バイト先の上司に「ここって就職させてくれるの?」と聞いたら、女性は人手不足だからとホイホイとバイトから正社員になった。
一方彼女は、大学院に行っていた。院は夜間部の学生でも入学できて、そこで昼間部生になって卒業できると。
「これを学歴ロンダリングと呼ぶんだよ」
と苦笑いして話していたが、SEと夜間部二足の草鞋だけで凄いので、苦笑いでなく誇っていいんじゃないか?と思った。
その後お互い仕事や勉強が忙しく交流が途切れ、数年経ち、私が結婚報告と地方への転居のメールを送ると「今、イギリスに留学しているよ」と返事が来た。読んでみると、どうやら彼女も院を卒業するのを機に結婚をし、夫が留学をするので自分も学ぼうと思ったと。そのやりとりの中で互いのツイッターアカウントも教えあった。
まだまだ学を極めるのかい、英語できるんかい、と、木造アパートで秋刀魚の塩焼きがごちそうでsorry japanese onlyの私(夫婦)から随分違った世界に行ってしまったもんだな…と感じた。
彼女が帰国したあたりで私は妊娠出産をし、目をぐるぐる回しながらワンオペで育児をこなした。その間彼女は技術界隈では有名な企業で仕事をして、コツコツと業績を積んでいた。
私の子が小学生になる直前に、彼女も子を授かり、1年間の育児休暇の間に保育所選びに奔走や、職場復帰のための断乳、体力作りなどをしていた。私はやっぱりぼんやりしながらアパートで秋刀魚を焼いていた。
さすがに子どもが大きくなったからと、私たちは数年後に口利きで手頃な借家に引っ越したけれど、彼女は住んでいる自治体の子供への福祉のなってなさと、両親のヘルプをより近い場所で受けたいからと、分譲マンションを売却し、それを頭金に実家に近いマンションに移り住んだ。
ツイッターで彼女が自作のルッコラとモッツァレラチーズとプチトマトのバジルソースのサラダとかの写真を見ながら、いいもの食べてるなあ、と思いながら小松菜とちりめんじゃこの煮びたしを食べていた。
彼女は企業で確実に出世していって、私は徹頭徹尾ぼんやりしながら何事もこなしているうちに中年のおばさんになっただけだ。
だから私と彼女の距離がどんどん離れていくことに寂しさはない。
私は10万円のジャケットは買えないし、寝巻きに2万円は使えないし、10万円するジャケットを着て行く場所が思いつかない。PTA?
うちの子に公立は向かないから、中受のために受けさせるおすすめの塾は?と聞かれても、私の子は中受するほどの学力もない。
精神や立場的な距離が離れて疎遠というか交流がなくなっても良かった。
家族で北海道に旅行に行ったことと、その時の写真がツイートされていた。ちょうど、札幌での感染拡大が注目やニュースになっていた頃だ。
「お前何考えてんだよ?」とよっぽどリプライをつけたくなったが、いつもなら幾つかつくfavやRTが全くないのを見るに、これが皆の意思表示なのだと、私も何も触らなかった。
そして緊急事態宣言が出て、都会は大変だなあと思いつつじゃがりこを食べながらツイッターを眺めていたら
と、やはり写真付きで、目線はついていたが、マスク姿の彼女と子どもが映っていた。
なんでこいつ、こうなったかなあ?
私より、頭、ずば抜けていいはずだよな?
違う世界の住人になったと思った。
でもそれが、コロナ禍での行動によって、私の中で全て水泡に帰した。
彼女のアカウントをブロックして、スマホから電話番号とメールアドレス、LINEアカウント、全て消した。
さよなら、賢人。
普段は2000円ちょいの安物bluetoothキーボード買い替え続けてるんだけど
最初の緊急事態宣言時でテレワーク関連の製品がことごとく売り切れてて、
初めて6800円くらいで奮発して買ったんだがこいつがクソすぎた。
物理的に壊れるならまだいいよ。
これはFNキーを押すとFキーが有効化するか画面の明るさ調整とかが有効化すると切り替えられるようになってんだが、使い始めて2ヶ月くらい立つとFNキーを1度押すと切り替えた状態に戻らなくなって、戻すには電池の抜き差しで再起動する必要がでてきた。
FNキーをボタンとしてはちゃんと認識してるっぽいから、物理面じゃなくてソフトウェアの問題っぽい。
んでもう1ヶ月くらいすると、1度FNキーを押すと次に押したキーがずーーーっと押されっぱなしになるっぽくて、FNキーは絶対避けねばならないトラップキーみたいになってしまった。
んでもう1ヶ月くらい使ってると、使い始めて1時間くらい何もキーを入力しないと何もキーを受け付けなくなるようになった。
これは再起動だけじゃうまくいかなくて、一回PCとのペアリングを切って(デバイスごと削除)して、再度認証を行って再ペアリングする必要があるっぽい。
来月くらいにはどんな感じに進化してることやら。
物理的に壊れるんだったらまだ諦めつくよ。
Microsoft公式のキーボードをWindowsで使ってなんで状態になるんだよ。ソフトウェア面ならどの製品より一番安定してなきゃダメだろ。