はてなキーワード: 浪人とは
「暗殺教室」を読んだときにも感じたのだが、世間の人たちは進学校に対して、適当な情報やフィクションによってゆがんだ認識を持っているのではないかと思うことがある。
関西にある1学年の生徒の内40%は東大に進学し、30%は京大に進学する学校に通っていた。数字だけでみれば東海高校やら山形の名前も知らない進学校より「東大に行くのが当たり前」という学校だ。
しかし、この学校では特に「東大進学でなければうちの生徒ではない」という雰囲気はなかった。勉強は各自の自主性に任せられおり、進路相談で教師が「このままだと東大に行けないぞ」なんて言うこともなかった。
東大理Ⅲを目指す連中だけは雰囲気が違ったが、それ以外の人間はガツガツ受験勉強をこなすようなことはなかった。みんな夕方まで部活を楽しみ、その後自宅で2~3時間勉強をこなすという生活を行っていた。文化祭なども全力で楽しんでいた。私も普通に高校3年生の春まで部活動をやっていた。私は東大合格できるかどうかスレスレのラインだったけれど、それでも東大に行かないと人生終わるというプレッシャーを感じたことはない。
そもそも大学受験は1発勝負ではない。どうしても東大に合格したいなら浪人すればいい。親が許さないという家庭もあるだろうから一概には言えないが、東大受験生が多い学校なら、浪人して受かった人の話は当然聞くはずだ。 それなのにそこまで追い詰めるのであればやはり家族が悪い。 「東大でなければうちの生徒じゃない」とかいう学校があったという話も、その芸能人が、周りの人間がよく知らないと思って大げさに話を盛っているようにしか思えない。
仮にどちらも学校のせいであるなら、その学校の先生は、無能すぎる。それだけ生徒をたきつけて追い込んで、そこまでやってその程度の実績しか出せないなら、害の方が大きい。山形の進学校ってどこだよ。名前すら聞いたことねえよ。
今の現役中高生は本当に気の毒だと思うわ。社会性の発達とかの面で長期的な影響も出てくるんじゃないかと思う。
まーでも(中高生の頃の自分みたいに)学校行事があっても大して楽しめない陰キャのコミュ障とかじゃないんだったら、高校卒業してから色々機会があるよ。
仕組みで与えられるんじゃなくて自分から実行しないといけないのはあるけども。根が陽キャだったらそれはやればできると思う。
話題になってた共通テスト数学1Aの相関係数から散布図選ぶ問題は驚愕するクソさだったな。同情する。
今は絶望的な気分になるかもしれないけど、今後の人生の長さからすれば1年浪人するくらいは何の問題もないのでその方向で考えるのはありだと思う。
家庭に余裕がない場合はきついけど…。
って人間、山ほどいるよな。
俺も受験に失敗した。
浪人するほどやる気なかったから、滑り止めの滑り止めに通って、どうでもいいサークルで騒いで、どうでもいい会社に勤めた。
今は都内で平均レベルの収入を得て、まあ平均レベルの暮らしができてると思う。
同級生の多くは田舎に暮らしたままだから、そういう人生よりはマシだったはずだ。
でもさ、俺が「こいつらよりはマシ」と思ってる相手は、俺より幸せだと思う。
学歴なんか関係ない世界で、高卒になるだろう子供をたくさん産み育てながら、ニコニコ暮らしてる。
俺は同じようなコンプレックスを持ってる女と付き合っている。上手くいけば、この夏に結婚する。
たまーに、彼女と「受験戦争なんかやらずに遊んでりゃよかったね」と話すことがある。
俺は見栄で、彼女は親が厳しかったから、そんな選択肢をとることはなかったんだろうが。
俺はどっちでもよかったけど、彼女は子供は産みたくない、これ以上他人のために嫌な思いしたくないというから、確かにそうだなと思った。親も子も一緒だもんな。
俺と彼女、二人でなあなあに働けば、まあ何とかいい暮らしができると思う。
でもさ、たぶん俺も彼女も、一生引きずるんだよね。
入れなかった志望校、どうでもいい校名が書かれた卒業証書、その一枚のせいで。
「結局、自殺なんかじゃ気が済まないよね」
とかなんとかぶちぶち言って。
今日、会社で「学歴が全てじゃないのにね」「加害者も可哀想だよな」なんて話を聞いて、しらけた笑いを漏らしそうになった。表面上、「子どものうちは分からないこともあるもんな」なんて合わせたけどさ。
そんなの、加害者にとって事件を起こそうが起こすまいが、人生は終わりなんだから。
小学生。近所に住んでいた友達と些細なことでもめ、いじめられた。幼稚園までは親の転勤で新しい環境に飛び込んでもすぐに友達を作れるくらい明るかったが、いじめられたことで私の強みは潰された。自分が何を言っても誰にも聞いてもらえないが、言動で私を傷つけようとしてくる人があまりにも多く、少しでも人に話を聞いてもらいたくて異様なほどの早口で話したり傷つかないために自分に対する悪口を軽く受け流したりする癖はこの頃ついたと思う。
中学生。音楽部に入った。ピアノ等未経験の音楽初心者で入ったなりに努力して1年生の頃の顧問の先生にはたくさん褒められていたが、2年になってその先生が退職し、新しい顧問には嫌われ、3年生になっても自分だけ役職につけてもらえないなどの仕打ちを受けた。
家に帰ると勉強はあまりせず、全然楽しくない部活の憂さ晴らしとしてアニメばかり見て絵を描いていた。
そのせいで親にはよく怒られており、小学生の頃いじめてきた子を引き合いに出して〇〇さんよりいい高校に行きなさい、悔しくないのなどと言われ続けていた。
高校受験では3年夏には国際系の行きたい高校を見つけたものの、内申書と数学と理科が最後まで振るわなかった。本命1校の公立高校に落ちたら私立に行かなければならない県に住んでおり、私立に行かせる金はないと毎日気が狂いそうなほど言われた。やる気のない生徒が集まる塾に通っていて、講師もいかにも大学生バイトという感じであまり教えてくれないし、親に塾を変えたいと言ったものの、お金がかかると言われて叶わなかった。
最終的に家から近い、自分の偏差値で行けそうな公立高校を受験し、合格した。通っていた塾にも私と同じ高校を受験した人が何人かいたが、私以外は落ちたようだった。私より高い偏差値の高校に行った生徒はいなかったらしい。
高校生。トラウマと化した中学とは180°違う運動部に入った。先輩の中にも初心者で始めた人がいて、とても優しく教えてくれた。友達もでき楽しくて良い環境ではあったが、初心者だったこともあり周りと比べて体力もなく競技は全く上達しなかった。そのうち教えてくれる先輩とか友達にも引け目みたいなものを感じ始めた。先輩や友達は強かったため地区大会や県大会の応援に行くたびに交通費がめちゃくちゃかかり、お小遣いでは足りなくなった。親からは毎月のように応援に行くたびにそんなことをして何の意味があるのと言われた。もうお金は借りられないと思った。
親に黙ってアルバイトを始めた。部活と勉強との両立はとてもキツかったが、将来のために少しでも働いて、お金を稼いでいると思うと何か安心感のようなものがあった。この頃にお金を稼ぐことの楽しさを覚えた。
特に頭がいい高校ではなかったからか高校時代の友達は美醜の話で盛り上がる人が多く、昼休みのたびに誰が可愛いとか誰がブスとかそういった話ばかりしていた。ブスで恋人もいなかった私はそういった話を聞くのも嫌だったが別の話題に持っていく力もなく、適当に相槌を打つことしかできなかった。
高2の3学期に大学受験に対して危機感を持つようになった。前述の部活とバイトの掛け持ちで学校の勉強は疎かにしており、特に2年生の頃は学校をサボりがちで午後から高校に行ったり部活だけ参加したりしていた。そのため、親が最も期待していた指定校推薦は望めそうになかった。
高3になる直前くらいに部活もバイトもやめ、親に頼み込んで塾に入れてもらった。部活もバイトも辞めるのはすごく気が引けた。親のせいと周りには話したものの、全部自分で決めたことだった。子供の頃から学歴コンプや貧困などの話を読み漁っており、親から絶対に私立には行かせられないと言われたことも相まって絶対にお金のない大人にはなるまいという思いが強かった。
大学受験では入りたかった塾に入れたが、中学時代から得意だった国語以外あまり成績は伸びなかった。英検をとれば有利になる大学が多数あることを知り、受けた。検定には合格したものの一番行きたい大学の英検利用はスコアが足りず諦めざるを得なかった。
受験の前、大学に全落ちしたらどうするかの相談を親に持ちかけたところ、お前は女なんだし、落ちたら浪人しないで働け、結婚して早くいい旦那さん見つけろと言われた。自尊心がズタズタになっていた私はつらくなって泣いた。
その頃は12月だったためなんかもう全てのやる気を失ってしまったが、英検と得意だった科目を活かしなんとか2月、一般受験で世間的に有名な大学に合格することができた。
親も喜んでくれた。塾の先生も高校の先生も喜んでくれた。見返せた気がして嬉しかった。
大学が決まると以前働いていたバイト先に戻り、たくさんシフトを入れて働いた。その頃の店長や先輩がいい人だったこと、先輩に同じ大学同じ学部の人がいたことも私のバイト先への帰属意識を強めた。他のバイトを探すなど考えられなくなっていた。
4月になり大学に入学した。東京の大学だったためダサいのは恥ずかしく、今まで友達が本当に少なく親からあんた親友いないよね、と毎日馬鹿にされていたので東京でも生きれる普通の女の子になってみたいという気持ちがあり、大学デビューしたいとの思いから服や化粧に金を注ぎ込んでバイト代は一瞬で飛んだ。家では夜10時までに帰ってこいと門限が決められ、お金もなかったためサークルや部活の新歓期間は逃したまま結局入らなかった。
大学で最も楽しかったことは(私の周りだけかもしれないが)人を容姿で揶揄する子がいなかったことだ。周りはみんな頭のいい高校を卒業した子ばかりで、発言に強要が含まれていて聞いてるだけで面白かったし、オタクでも1人でいても陰口たたかれないし後ろ指を指されることもないしすごく快適だった。プライベートでは相変わらずバイトばかりしていた。
秋になり、バイト先では私がお世話になった店長が別の店に飛ばされた。そのころからバイト先の環境は少しずつ悪くなっていった。めちゃくちゃ気が強い先輩が何人も入ってきた。今思うとここで辞めておけばよかったのだが、当時のバカな私はそれをしなかった。
2年生になった。コロナが流行り、授業は全部オンラインになった。生活リズムはグチャグチャ、なんのために生きているのかよくわからなくなったが、2年から入ったゼミの授業が週2であり、カメラオンのzoomで同期や先輩と話ができたことだけが精神安定剤となった。この頃には授業とバイトの両立が不可能と親に訴えたことで門限はなくなり、2年生からやっとサークルに入り直せると思ったがコロナのせいでできなくなった。
というのも親はとてもコロナを気にしており1年くらいバイト以外の外出ができなくなった。友達と遊ぶというとものすごく苦言を呈され、一緒に住んでいる人のことも考えてと言われた。落ち着いた頃友達とチケットを取ったディズニーランドもバレて延期せざるを得なくなったし、成人式もそのあとの友達との軽い夕食の話も断らざるを得ず、そのあとだんだんと誘われなくなっていった。
唯一の息抜きはゼミの教授がきっかけで始めた昆虫観察だけだった。自然がたくさんある郊外に住んでいるため、邪魔されずに散歩だけはできた。自然の中を歩いて、虫を観察している時だけは面倒な親のことも溜まっている課題のことも忘れられ、癒された。そうして私のつまらない大学2年は終わった。
3年生になり対面授業が再開し始め、相変わらず親は文句を言っていたものの少しずつ大学に行くことができるようになった。
5月ごろに就活を意識しいくつかの長期インターンに応募したが全て落とされた。夏休み、やっと参加できた地元のボランティアの活動期間はまたしてもコロナが猛威を振るい、親にはまた文句を並べられた。東京に行くなんてもってのほかで、ずっと地元から出られなかった。ボランティアもコロナのせいであまり活動できなかった。
8月に親の職域でワクチンを打つことができ、9月からは感染状況の落ち着きもあって割と自由に出歩けるようになった。1年も延期していたディズニーランド、ゼミの同期との飲み、泊まり、1年生から憧れていた「大学生らしいこと」をやっとできた。
さらに転機が訪れる。大学でやっていた勉強会に参加し、そこで今まで会ったことないくらい頭がよく、私に色々な世界を教えてくれる人たちに出会った。そこで初めて勉強の楽しさを知った。なんでこんなに楽しいのに今まで気づかなかったんだろうと思った。高校受験で諦めさせられて以降嫌になっていた外国語も、友達と一緒に高校の時履修したけど知識は身についていなかった政治経済も学び直し始めた。遠くへ行って、知らない世界をたくさん見たいと思った。生まれ直した気分だった。
しかし、11月ごろから周りは一気に就活ムードに入りそれどころではなくなる。夏からインターンには応募していたが、1年次から興味のあることが一切できておらず、環境は最悪だったが6年続ければ何か足しになるだろうとしがみついていたバイト先でも、社員や先輩に嫌われ責任者にはなれなかったため、俗に言うガクチカも自己PRもなく、落ち続けた。周りには何人か休学して長期インターンやボランティアなどをする人も出始めた。私も一度きりの新卒就活、後悔しないように休学か就留か就浪して長期インターンをし自分のしたいことを見つけたい、ちゃんと何かに打ち込みたいと相談したところ親にこっぴどく怒られた。家を出てってくれと言われた。インターンも何も参加できず、就職先が決まらないかもしれないと言うと、女なんだからバリバリ働けないでしょ。就活なんか適当に地元ですればいい、それより男に好かれる、愛されて結婚するための努力をしろと言われた。あまりに呆れてしまい、返す言葉がなかった。私の人生ってなんなんだろう。
実は大学に入り、見よう見まねで都会の女子大学生としておしゃれをしてみて何か嫌悪感のようなものを感じるようになった。女として扱われるのが嫌だ。バイト先で自己肯定感の低い私をたくさん褒めてくれる先輩が入ってきて仲良くなったが、軽く肩を叩かれる程度でも体を触られたり、下ネタの話をされると途端に気持ち悪くなり、おまけにとんでもないクズだったので、関わるのをやめた。親とか同性の友達とかにも体を触られるのが嫌で喧嘩になったこともある。飲み会で酒が進み、恋バナや性行為みたいな話になっても嫌悪感があった。そのせいか恋人は今まで一度もできたことがないしまだ処女だ。
それなのになぜ女として振る舞い、男に好いてもらうために努力しないといけないのだろう。憤りしか感じなかった。自分のためだけに生きたい。
この間中学時代の友達と話す機会があったが、彼氏と同棲するなら〜とか、結婚を考えると全国転勤ありは嫌だよね〜とかの話をされ、私はやっぱりそういう考え方はできないなと思ってしまった。
年が明け、またコロナの感染者が増え始めた。親は毎日毎日感染者数をLINEで送りつけてきて、外出しているとどこにいるの早く帰ってきなさいと頻繁に連絡してくる。もう外食もできない。
こないだ休日のランチタイムにバイトしていたら普段は担当しないホールに回された。満席になった店で楽しそうに食事をする家族連れを見ているとなんだか辛くなってきた。コロナがなければ、もっと自由に生きられたのだろうか。誰も何も悪くないけど、涙を堪えながら接客をした。
人をまとめる力もなく、卒業見込みの大学に見合った頭もなければ普通に女として愛嬌を振りまくこともできない、これからの私はどうしたらいいのだろう。
今興味があるのはコロナ禍で始めた一眼レフでの写真撮影と昆虫と小学生の頃から好きだった自然、あとは自分が悩んだジェンダーとかお金とかの問題で、私みたいにやりたいことを諦めなければならない女子もいるだろう現状の社会には割と不満を持っているけど、別にものすごい性差別を受けたとかめちゃくちゃ貧しかったとかではないから何かの志望動機にするにしても説得力ないなと思っている。志望動機を書いていても自分ごとにできてないってキャリアセンターの職員には言われた。多分大学時代にあまり興味のあることも好きなこともしてないしどこにも行けてないからだと思う。
強みは今でも偏差値が70以上ある国語と、性格面では小学生の頃いじめられたからか自分と違う意見でも人の話をよく聞こうと意識しているのと最近いろんな友達との交流を経てやっと取り戻した明るさ、あと昆虫について詳しくなろうとする探求心だと、友達とか教授に教えてもらった。これが活かせるところがあれば知りたい。
それか生まれ直した私でもう一度勉強し直したい。もう4年生なので、そのためには社会に出てお金を貯めてからもう一回大学に入り直すか大学院に行くことかなと思う。
もう自分の人生において、お金にこだわる私はいない。今までは親の影響でコスパばかり考える気味が悪い子供だったが、たくさん遠回りをしてこそ学べることがあるのではないかと考えるようになった。
一度自立し、一人暮らしをしてからであれば親からはなにも言われないだろう。けれど1人で生きていくにあたってやっぱり職がないのは困るし、20代後半で大学を卒業してもちょっと貯金ができ、一人っ子なので自分しか頼れない両親の老後の面倒を見れるようなお金がもらえるところに就職できるかが不安だ。それかとりあえず行けるところに就職して、後々自分の興味関心があることができるところに転職するか。転職のことを考えると気が重くなる。新卒キャリアがどんなものでも、そこから転職ってできるものなんだろうか。
とりあえず早く親元を離れたい。
私の大学生活を返して欲しい。
本当に無知ですみませんが、向いてそうなものとか、どこに転職するにしても役立つスキルみたいなものがあれば教えて頂きたいです。
まだ最終審査とかあるけど修論提出して一段落したので色々と考えたんだよね
たしかに浪人とか留年とかしないで、ストレートに学部卒業できて院まで行って就職もなんとかなったけどさ、それだけだったんだよね。大学生活。
サークルや部活に入るわけでもなく、バイトに打ち込むわけでもなく、ボランティアに参加したわけでもなく、趣味を持つでもなく、学業や研究は興味をもてず、恋愛もせず、友達もいないから何もイベントが起きなかった。ただ学校と家の往復を6年間しただけって感じ。
思い出が無い。
オンボロ学生寮の自分の部屋の天井を眺める時間が一番長かったと思う。
俺この6年間何やってたんだろうな。いや何もやってなかったんだけど。
あまりにも遅すぎるけどさ、今更になって取り返しのつかない事をしたな思うよ。
いただいたコメントを受けて過去を冷静に振り返るエントリも書いたんで気になる人は見ていってください。
https://anond.hatelabo.jp/20220116181308
23卒の文学部。マジで日本のキャリア教育も私の周りの人間もとことんなじって泣きたい気分だ。
まず受験を経て中学に入学してから、大学受験は恐ろしいものだという周りの言葉にしたがって、青春を勉強にささげた。
高校生の私は、文学や映画といった芸術が好きで、それを勉強してみたいと思った。
その結果、オープン模試では浪人も含めた受験生で一位になるなど、自分でも本当かよと思う成績を常にとっていた。
そして大学受験。過去最高の点数をたたき出し、狙い通りに宮廷大の文学部に晴れて入学。
入ってからは、サークルに所属することもなく(人と関わるのが面倒くさかった)、変わらず勉強に打ち込む日々。
文学理論の本をあさり、文学作品を読み、レポートを必死に書いた。
アルバイトはしたのだが(ノンバイサーはさすがにやばいかもと思ったので)、結局勉強する時間がなくなったし人と関わるのがしんどかったので半年でやめた。
そして今、就活を始めてやっと気づいた。今の私を求める企業なんかない。
ESに書けることがない。ガクチカで、今まで勉強を一人でしてきました!とは書けない。自己PRで、成績めっちゃいいです!とは言えない。
そこまで頭がいいなら研究者になれば?と思うかもしれない。しかし、私が得意なのは勉強であって、真理を追究しようという強い意志も、狭き門を狙って親の穀潰しを10年以上続けるほどの度胸もない。
もし仮に十年以上穀潰しをやって、博士課程を出たとして、そしてどのポストにもつけなかったら死に向かって一直線だ。
親は私が文学部に進むのをまったく止めず、「せっかくその頭があるんだから好きなことを研究しなさい」と言って送り出してくれた。
小学生の時から中学受験のために塾に入れ、バカ高い私立進学校の学費を払い、ここまで育ててくれた。
ごめんね、ありがとう、でもあなたたちはマジで教育を間違えたよ。私のこの先の人生のことはまったく考えずに、勉強だけさせたらいいと思ってたんだね。
勉強だけしてきただけあって、私の大学での成績はGPA3.6。宮廷でこれなら、かなり上位のはず。
そしてそれを見た親は、ここまで来ても「そんなに頭がいいんだから、人生一度なんだし院に行ったらいいんじゃない」「研究者になったりして!」と言う。
親は分かってないのだ、何にも。文学研究者になって食っていくことの困難なんて。もうすでにその一度の人生を棒に振りかけてんだよ。
仮に文学修士で卒業するとしても、そんなやつどこの誰が雇いたいと思うのか。6年間文学の研究してた人間を雇いたいと思うか?誰でもいやだろ。
これなら、「お前の人生はお前で歩け。後はしらん」と放り投げて知らん顔する親の方がまだよかった。
親の言葉を信じて、親も私の成績の良さが誇らしくて、共依存になっているうちにここまで来てしまった。本当にばかだった。
もう今では、自分は学ぶのが好きだったのかどうかすら自信がない。
勉強する才能は間違いなくあるのだろうが、学問が好きなのかというと分からない。というか、正直多分そこまで好きじゃないし向いてない。
高校までは、勉強さえしていれば褒められる。私は三教科で偏差値80越えの生徒だったから、周りの先生や生徒に、そして親にちやほやされていた。
その実、性格的にはややコミュニケーションに難があり(HSPなのかメンヘラなのか知らんが、常に不安でいっぱいな感じ)、高校生活でも最後は保健室登校みたいになっていたが、それでも注意されることはなかった。
甘えてないで人と接しろと、それがお前の将来のためだからと、そんなことを言ってくれる人はいなかった。
分かっている、悪いのは私だ。一人でできる勉強にばかり逃げて、人と関わろう、向き合おうとしてこなかった。
自分の価値決定を他人に任せてきて、褒められたから自分は生きていていいんだと、そんな風に他人任せで真面目に自分の人生を顧みなかった。
でもさ、でもよ、大学入学までの18年間、ずうっと勉強しては褒められる環境にいた結果、「勉強をしてれば報われるんだ」と考えてしまったのは私だけの責任じゃないはずだ。
思ってしまうのだ、そんな私をつくったのは、親であり教師でありこの社会のシステムのせいでもあるんじゃないのかと。
高校では「勉強していい大学に入れ!」と尻を叩かれつづけ、大学に入ったら「好きにしろ(あと数年で就職だけどね)」と放っておかれる。
最初から言ってくれよ、文学なんか勉強しても社会で何も必要とされないって。
国語が特にできるね、読書が好きなんだね、マイナー映画も好きなの?なら君は文学部で好きなことを勉強しなよ。
いい加減にしろ!そうやって私の将来なんか何も考えることなくおもちゃみたいにして!誰も私の人生のことなんか考えてねえじゃねえか!
私が優れてるのは小手先の成績であって、持っているのは記憶力と心配性であって、研究を続けられるずば抜けた力なんかねえよ。それぐらい見たら分かるだろうが。
初めから言えよ、今までと同じように勉強だけしてても、お前はゴミにしかならなくて生きていけないよって!研究者になれる人なんか一握りだから勉強はもうやめろって!
だれか途中でせめて軌道修正してほしかった、叱ってほしかった、もっと真面目に将来のことを考えろって。今のままじゃ、社会は誰も今のお前を必要としないよって。
今までの人生何だったのか。私が大切に持ち続けていた成績という武器は、もうどこにも通用しない。
もっと人と関わればよかったんだ。いくらそういうのが苦手でも、コミュニケーションで疲れてしまっても、無理してでも普通の大学生活を送ればよかった。
もう涙しか出ませんよ本当に。どこにも行くあてはないよ。キャリセン行っても面接講座行っても涙目で、電車で泣いて変な目で見られたさ。
みんな、親や教師のことなんか信じずに自分の力で歩いてたんだよな。大学の勉強だけやるなんて馬鹿なことはせず、、社会勉強をちゃんとしてたんだよな。偉いわ。
それに比べてなんて私は馬鹿だったんだろう。将来のことを本気で考える頭もなかったんだから、これじゃFラン以下の脳みそだ。
誇れるのは成績だけだった!!てへ!!
あーあ、死にてえw
アドバイスくれた人ありがとうな、こんな読みにくくてルサンチマン爆発の日記にコメントしてくれて。まだ絶望感がやばくてずっと涙が止まらんが、資格、バイト、公務員、学校の推薦、就活対策など、頭冷やして今からでも動こうと思う。あーでもやっぱり辛いな、曲りなりに頑張ってきたつもりだったんだけどな。
追追記
引き続きコメントありがとうございます。他責しつづける幼さや浅はかさ、指示待ち人間なのがそもそもの問題なんだなっていうのがよく理解できた。みんなちゃんと生きててマジすごい。
これから人の良さやすごさを見つけて尊敬できる人間になるべきだと考えたので、自発的に人と出会いに行くところからでしょうか。
あと人格が未発達すぎるというコメントがちらほらあるけど、専門家に行ってみた方がいいレベルなの?俺の怠惰さが原因なだけで修正可能なのか、先天的に問題がありそうなのかわからん。劣化版チャーリイ・ゴードンは嫌だ。
うん、実際通ってる人間の中で最終的に大学に行く人は100%だけど、海外大進学してたり籍だけ入ってる人いたり浪人したりして数字としては100%にはならないんだよね
小学校中学校は保健室登校や不登校を繰り返していた。今振り返ると親に相当申し訳ないことしたしメンタルが相当弱かったのだと思う。
詳しく話すと
小5 クラスで学級崩壊&暴力に合う→保健室登校&転校
小6 自分の空気の読めない性格が災いし女子からハブられる&ある男子からよく身体的ないじめをうける→不登校
中学 中受して中高一貫校に通う。発達障害を持った子に付き纏われる&性被害のフラッシュバックで保健室登校不登校を行ったり来たりして、勉強についていけなくなり中学卒業のタイミングで高校を外部受験して偏差値40台の高校に進学。学費無駄にしてお父さんお母さんごめんなさい。
高校の時は流石に自分の人生このままでは詰んでしまうと思い皆勤で学校に通って、中学でろくな学校生活を送らなかったコンプレックスがあったから部活や生徒会も加入して我ながら高校はかなり充実してたなとは思う。
現在は二浪した後、大学2年生をしている。大学での勉強も楽しいし仲の良い友人もいて楽しい日々を送っているが、時々小学校中学校で歯を食いしばって学校に行っていたらよかったと思う時がある。男女間や先輩後輩間での人付き合いの距離感がおかしいのではと不安になるし、あの時の感性や感覚はあの時でしか手に入れられず、ちゃんと教室に通う学校生活を送っていたら手に入れられたのではないかと思う。
この間、グループワークの打ち上げで友人に「二浪してなきゃこの大学入ってここで飲んでないんだよ??」と言われた。確かに今の生活は否定するものでは決してないし中学を辞めて進学した先の高校で出会った友人や思い出、浪人時代に出会った友人や培ったものもかけがえのないもの。
だけどちゃんと学校通っていて高校にも内部進学してたら二浪もせずに済んだ気がするし、色々捻くれずに済んだんじゃないかなーーって思う深夜2時。
サービスで要約してやったよ
アキちゃんが、浪人生活について語っている。大学受験の時、独学で浪人をしたが、浪人生活は残酷だったと告白。浪人生活は、自分しか通れない道だったらしく、諦めたという。
西武新宿のこの場所にくるのは、随分懐かしいね。アキちゃんは元気かな?
−懐かしいね。どうだろう。器用だからね。きっとうまくやっているんじゃないかな。
コーヒーなんて美味しくもなかったけど、一番安いからといって我慢して飲んでいるうちに、すっかり中毒だよ。
大学受験の時、独学で浪人をした。よく勉強をしに来たね。19時半に仕事が終わって、1時間かけて新宿まで戻ってくる。電車の中で問題を解いて、閉店23時までの2時間半を、答え合わせと復習の時間に充てる。古文が壊滅的だった。現代文ばかりに費やしたツケがきたね。偏差値はガクッと追い抜かれて、焦ってた。
平塚ではちゃんぽんを奢ってもらったね。当時、19歳なのに26歳だと思われてさ。相当くたびれた浪人生活だったんだろうね。応援してくれた。
仕事の先輩に山崎さんがいたね。当時はクソ舐め腐ったことを言ってしまったけど、すごく救われた。生き方を教えてもらったようなもんだ。本人は全く自覚がないだろうけど。山崎さんにも、奢ってもらった。お酒を飲んだ。
初めて飲んだお酒は地元の集まりで行ったはなのまいで、いちばん聞いたことがあるからっていって、カシスオレンジを頼んだ。ビールは全然飲めなかった。年確はなかったから、なんとか入れたんだっけ。
今では家にラフロイグやボウモアが常備されているし、魔王を水割りで飲んでいる。勇者よりも魔王が好きだからね。バーにいけば、ギムレットを飲む。マティーニもだっけ?マティーニは店員さんによって味が違うんだ。微妙にね。僕は辛いのよりも甘めのほうが好きだね。ギムレットを飲むようになったのは、小説の影響なんだっけ?
2年もかかった。今日のこの日は大雪だった。東京でも類を見ないほどの大雪で、2~3回しか履いたことのない革靴はすぐにぐちょぐちょになった。コートを持っていなかったから、ジャケットだけで、寒かった。高校の卒業式は東日本大震災で中止になった。僕たちはそういう代だった。としまえんは閉店したよ。この戦争の影響でね。もちろん、ずっと前から言われていたことだったけど。とにかく大変だった。社会はとてもつめたくて、残酷で、どうしてこんな思いをしなきゃいけないんだろう、って思ってた。それでも希望だけは忘れまいって、すごく大変だったけど、なんとか切り抜けることができたんじゃないかと思う。どうだろう?
−どうだろうね、結果なんて誰にもわからないというか。どの地点の結果を見るかによるしね。
今でも夢に見るよ。もう一回やり直す夢を。なんでそんな夢を見るのかわからないんだけど。多分、まだ終わってないんだと思う。
−なにが?
なんだろう、抗いが?
うん、きっとそれだと思う。自分が何と戦っているのかについて、戦っている本人がいまいちよくわかっていないっつーことはあるあるなんだ。昨日の晩御飯に何を食べたかわからなくなるくらいにはね。
同様に、自分が今までどうやって生きてきて、結果としてどうなって、今どうしているから、これからどうなるだろうかなんて、誰もよくわからないはずなんだ。
−うん。
思うに、遠回りをしちゃったんだと思うんだよ。だけど、自分しか通れない道だったっぽくて。
−どんな道のりだったの?
−仕方なかった。
そう、仕方なかった。
仕方なかった。
ただ、そう悲観的に捉えていたわけじゃないんだ。なんつうんだろう、ほかに方法がないかをずっと探していたんだ。普通そんなことしようとは思わないじゃん?でもさ、僕はずっと不思議だったんだよ。どうしてそんなに平気な顔をしていられるんだろう?って。自分がまだクソガキのままで、自分が考えなくていいようなことを、もしかしたらみんなは一度は考えたことがあったり、自分なりに答えを出していたり、なにかしら割りきったりしているんじゃないかって。
−言っていることはすごくわかるよ。
そうだよね。だから、時間がかかった。簡単に言えばね。答えがでたわけじゃないんだ。いや、答えなんて最初っからないんだと思う。答えがあるように感じてしまうのは、僕のよくないところなんだろうね。おかげで、前に進めるようになったんだ。
−それで、なにか教訓のようなものがあるとしたら、それはなんなの?
どうだろうね、あるのかないのか。たくさんありすぎて話しきれないかもしれないし、もしかしたらなんの一つもアテになることがないのかもしれない。
一つ言えることがあるとしたら、僕は僕の幸せのために生きているということだけかもしれないな。
−本当に?
多分ね。もし僕がそんなことを言い出したらびっくりするかもしれないけど、きっとそういうことなんだと思う。自分の幸せのために生きている。そのことをずっと忘れていた。そういうことだと思う。
だから時間がかかったんだよ。自分だって、何を言っているのかよくわからないけど、そうとしか説明がつかないんだ。それに、もしそこにこだわってしまったら、うまくいくものもうまくいかなくなるかもしれない。こういうのにはきっと順番があるんだよ。
−そのことはどうでもいいって決めてたはずじゃん。
そう。そうだったはずなんだよ。でももし、自分が一番にこないといけないシチュエーションが仮にあるとしたら。それを10年も前から想像がついたと思う?想像がつかなかった。その手の生き方が存在していることに。自分はあまりに無知で無能で、世の中のコトワリに無頓着なまま、漫然と構造的な理不尽に対して敵意を向けたまま、ぼんやり暮らしていたんだよ。
−最悪だよ。そんなことが聞きたかったわけじゃない。
そう言うと思ったから時間をとったんだ。僕はバカで無知で、その割に調子に乗っていて、社会っていうのは自分を中心に回っていないと気が済まないとでも思っていたんだ。そうじゃないことを知ることがあまりに遅すぎると、なんにものこらない。
人に迷惑をかけるだけだよ。
でも、僕はどうして社会がこうなっているのか、知りたかったんだ。どうしても。
綺麗事を言いたいわけでも、なんでもない。根本的に僕は、自分の幸せのために生きている。その結果として誰かを不幸にしているわけではないんだ。それから、自分のために生きたからといって、誰かに不幸だと言われる筋合いもないんだ。
もう29になる。10年だよ。一瞬だったように思う。大学を卒業して5年だ。10年もあれば、それなりのことを考えられるようになる。社会がこれからどうなっていくのか。自分の人生がこれからどうなっていくのか。周囲の友人関係がどのように変わっていくのか。ライフスタイルがどのように変わっていくのか。その見通しを結実させるためにやらなくてはならないことをこなしていくこととか、その繰り返しから逃れられないこととか。その分、なんか大事なものを失っているんじゃないかって思うこともあった。どんどん汚れていってしまうんじゃないかと思うこともあった。そうやって僕が嫌っているような人間と同じような運命を辿ってしまうくらいだったら、いっそ全てを投げ出してやりたいとも思った。
でもね、違ったんだよ。僕が嫌っていた人たちは確かに悪魔のように見えたかもしれない。わかったんだ。まあ、本当のところはよくわからないけどね。本心ではもしかすると、人の心が本当にないのかもしれない。あるいは、失くしてしまって気付いてないのかもしれない。でもそれは必要だった。必要だったから、その現象は起きたんだ。
必要じゃないことは起こらない。
あとね、自分なりに折り合いをつけたんだよ。自分の存在に折り合いをつけるのは大変だったし、自分の存在を一般化して語ることは間違っていると認められなかったんだ。
でも、多分もう大丈夫。また何回かやらかすとは思うけど、気をつけていこうと思う。
そうだよね。でもそれでいい。それでいいんだよ。わかっても、わからなくてもいい。そういうものなんだよ。
そうだね、たしかに僕は、僕がなにかしらのロールモデルになればいいと思っていた。でも、それは必要ないってことに気づいたんだ。なんせ世界はもっとえげつないスピードで進んでいるからね。僕が誰かのロールモデルになる必要はないし、将来の僕のような存在は、きっと僕のような存在を見たからといって、どうにかなるわけじゃない。そうじゃなくて、きっと僕のような存在は、僕と同じように、誰に言われるまでもなく、このどデカくてうすら寒い国境を越えてくるんだよ。
そうして気づくんだ。そうか、そういうことだったのかって。
誰かに言われて「はあ、そうだったんですか」と納得するような類のものじゃないんだ。こればっかりは、自分で越えるしかないんだ。
今のこの世界は必要に応じてしっかり動いているよ。そのことはよく覚えておくといい。必要に応じて変わっていく環境に、どう適応していくか。その程度のことしか僕にはできないよ。
−これからどうするつもりなの?
わからないよ。だけど、今のキミのようにまたわけのわからないことを言われることになるんだ。きっとね。僕は何か物事を理解するのに、人よりも時間がかかってしまうタイプだから、そのときになってみないとわからない。
決断には時間がかかるもんなんだ。そしてそれには時間をかけていい。
さて、そろそろいくよ。
−どこにいくの?
わからない。もしかしたら、羊をめぐる冒険をするのかもしれない。けど安心してほしい。キミはこれから降り起こる数々のことに傷ついたり、ひどく落ち込んだり、人間不審になることもあると思う。そしてその傷を癒すのに途方もない時間がかかるかもしれない。もしかしたら、どうしようもなくなるかもしれない。離婚するとわかっていて結婚するようなもんさ。でもそれは僕が選んだことなんだ。キミを失望させることにはならないよ。
だから泣かなくていい。
歳食うと回りにゴロゴロいるんだよ、留年経験者も浪人経験者も。
そういう奴に限って転職上手で年収が高かったり、ちゃっかり出世してたりするから面白いもんだ。
いざ当事者になると目の前の留年が恐ろしくて人生終わったような気になるのもまあわかる。
でも人生は終わらないし、それもまた経験って割り切っちゃったほうが先に繋がるとは思うよ。
まあ俺は留年しなかったけどな
ちょっと調べてみたけど産経のデータベースだと1992年以降のものは見られるみたいだから事前にどこに掲載されてるのか確認して朝イチで国会図書館行けば9:50に写真あげるのはできると思う。ただ俺なら掲載されてる場所を確認したらそれのスクショかURLを貼って終わらせるだろうし、何より結構ツイートが消えてて状況がよく分からないしなんとも言えないな
ただとりあえず国会図書館が特別な人しか入れないっていうのは無知を晒すだけだからあんまり言わない方が良いよ。俺の知り合いは浪人中にマイナーな大学の過去問を手に入れるために国会図書館使ってたし、実際に行くと分かるけど漫画読みに来てるだけのやつもたくさんいる。