はてなキーワード: 情報量とは
今は都内に住んでいるが、高校卒業まで世話になった恩義もあり生まれ育った地元の町に定期的に寄付しているのだが、ここ数年で異様に使い勝手が良くなっており驚きを隠せない。
使い勝手が悪いとか、改善が遅いとか、とにかくいい評判を聞かないお役所絡みのIT案件としては異様ともいえる速さで便利に進化しているのだ。ここ数年のブームのおかげか、他の地方自治体もサイト構築に力が入っているので共通している要因が何かあるのだろう。(予算が潤沢についているとか、サイト運営のコンサルタントがいるとか)
役所に問い合わせて振り込む必要あり。手続きが面倒くさかったのでこの年は使わなかった。
ふるさとチョイス経由でカード払いができるようになった。返礼品の数が少なかったのでとりあえず使い道に困らないお米を申し込む。
農産物だけでなく工芸品や体験型の返礼品が一気に増えた。が、品目が増えすぎて検索性が悪くなった。
ふるさとチョイスだけでなく、さとふるや楽天ふるさと納税といった他の主要サイト経由の申し込みにも対応。
前年に増えた返礼品が、米・野菜・酒類・肉類・伝統工芸といった形でカテゴリー分けされて探しやすくなった。
さらにお米のような農産物なら生産者のインタビュー記事や、昨年度の寄付金をどう使ったかの使途報告まで載っていて情報量は申し分なし。
余談だが、今年は記事を参考にして、うちの婆ちゃんの家があるエリアで作っているお米を申し込んだ。
私の寄付金は農地の鳥獣被害軽減のための対策に使われるそうな。地元に残った同級生たちも、猿や猪の食害に悩んでいるというような話をSNSに上げていたので実際に困っている課題なのだろう。これで少しは地元に貢献できるのではないかと思う。
さて、こんなに使い勝手の良いふるさと納税サイトを運営しているわが地元、他の情報もさぞやわかりやすいのだろうと思えばそんなことはなかった。
今一番ホットな話題であるコロナウィルス関連情報は、Word文章をPDF化したであろうものを毎日手動で更新しているようであり、我々がイメージするところの旧態依然としたお役所ホームページそのままという感じである。はじめの方にも書いたが、ふるさと納税サイトの使い勝手だけが異様に良くなって、コロナウィルス情報をはじめとするその他の部分が旧態依然としている理由がすごく気になる。
ふるさと納税制度の良し悪し自体はいろいろ議論されているが、曲がりなりにもお役所IT関連の成功例には違いない。改善された要因を分析して他の部分にも適用できればお役所のIT化もグンと進むのに、ノウハウが他で生きていないのはもったいないなと思ってしまった。
専門的な事を語る際に、やたらと饒舌に語りすぎて情報量だらけの吹き出しを見ると面白さが欠ける。
別に専門的な事が必要じゃなくても、どうしてもそれを長いセリフだらけにして語りたがっている作者が居て、そういう作者の作品はあんまりおもしろくない。
わかりやすく表現できるということは舞台で何が起こっているかを上手く表現できている証拠。
といっても専門的な事を語るのが悪いのではなくて、伝える必要性のある内容をまとめるのが下手くそな作家が居て
そういう作家に限って不要な情報まで並べだすので、面白味がなくなるという結果になっている。
個人的に、情報量が多くても面白いと思った作品は、細野不二彦『ギャラリーフェイク』、
特に細野不二彦の作品は、情報量なんかは少なくてもわかりやすいので『りざべーしょんぷりーず』なんかも面白い。
最近の漫画は大して読んでいないのでわからないが、説明が長くても面白かったのは『幼女戦記』『売国機関』は良かった。
逆に多すぎてなんだかなって思うのは『名探偵コナン』
正直、面白かったのは最初の5巻くらいまでだった。それでもなんとなく読んでいたのだが…だんだん吹き出しばっかになっていくにつれて面白くないと感じるようになった。
情報化社会の黎明期、人同士のつながる量が加速度的に増えていくことで可視化された問題の一つだ。
当時は言葉の響きだけが独り歩きして、本そのものをちゃんと理解できた人は少なかった。
その反応は大きく分けて2つ。
「自分の言いたいことをはっきりと言ってくれた」と肯定的な反応と、「バカとはけしからん。人は言葉でわかりあえるに決まってるだろう。」と否定的な反応だ。
しかし、その反応のどちらもがこの言葉に対して大きな勘違いをしていた。
それは、「自分の話が相手に伝わらない理由は、相手がバカだからであり、そこに越えられない壁=バカの壁があるから」という理解で読み解いてしまったことだ。
「人は自分の話が相手に通じなかったとき、相手がバカだと決めつける性質がある。」ことこそが、本当の意味でのバカの壁の存在を意味している。
しかもこの時、聞き手側にも「自分が相手の話を理解できない時、説明できない相手の方がバカであると決めつける性質がある。」というバカの壁も同時に存在している。
なぜなら、人の理解というものはその人の経験や知識から成り立つものであり、それらが両者に存在していない限りは、お互いが理解しあえるなんてことはありえないからだ。
つまり、相手がバカなのではなく、相手をバカと決めつける自分がバカなのだ。
これについては著者すら気がついていなかったと思う。
だからこそバカの壁の本質を理解できないやつは全員バカだ。という論調であの本は締めくくられていた。
自分の話が相手に伝わらなかった時、自分が「相手はバカだ」と思うのと同時に、相手も「説明がしっかりできないだなんてこいつはバカだ」と思っている。
だから、あの本の本質を理解できなかった人にしてみれば、著者はバカであり、バカの壁なんて概念は無駄なものだと考えられていた。
そうして、著者と読者それぞれがそこにバカの壁が存在していることを証明してしまうという皮肉な構図に至っていたことは、あまり知られていない事実だろう。
そもそも、言語というものはコミュケーションの中でそれほど多くの情報量を持っていない。
人同士がコミュニケーションを行う上では、ボディランゲージや声のトーン、表情、目線などのほうが、伝える情報量はよほど多い。
なぜなら、言語という道具を使い始めた歴史はそれ以外のコミュニケーション方法に比べれば非常に浅く、言語だけで情報を伝えられると思っていることのほうが誤解だからだ。
残念ながらそのことを理解できている人間は少ない。妄信的に言葉で情報の全てを伝えられると思いこんでいる人がほとんどだろう。
ここまで考えてみれば、つまり本当の意味でのバカの壁とは、言語のみで自らの思考や情報を伝えられると思いこんでいるおごりのことであることがわかる。
受け手に置き換えても、言語のみで説明されても理解できるはずだというおごりがそこにある。
今だってSNS上では当たり前のように誤解が繰り返され、真意が理解されることもなく説明も釈明も許されないまま受け手の都合によって勝手に解釈が広まっていく。
しかし、バカの壁の存在を認知できているだけで、人の理解力はまったくもって変わってくる。
情報が理解できない理由を相手ではなく自分に求めることができれば、足りない情報を自ら補うことができるからだ。
自分が理解できなかった理由は相手にあると考え、誤解させた人間を責める行動を取る。
自らのバカを棚に上げて、相手がバカだと罵るだけの野蛮な行為に走る。
ただただ情報や人の人生をエンタメとして消費するだけの、消費行動のみだ。
声高に批判する相手そのものに成り下がるというのも、バカの壁に見られる特徴的な行動の一つだ。
果たしてはてなユーザーに、バカの壁を越えてこの内容の真意を理解することはできるだろうか。
結局はこうして、バカの壁の話をする度にそこにバカの壁を可視化させることでしか存在を理解させることは不可能なのだろう。
今一度一人ひとりが自らの心にそびえるバカの壁の存在を見直すべきときに来ている。
人にはバカの壁が存在していて、相手に話を理解させることも相手の話を理解することもそもそもできないのだ。
だからこそそのまま情報の一つとして受け止めて、その情報を役立つものへと活かしていく。
それができる人だけがバカの壁を越えた向こう側に行ける人なのだろう。
これすらできる人にはとっくにできていることで、できない人だけがバカの壁の内側に取り残されているという皮肉でしかないのだが。
いまのはてなを憂い、向こう側に行きたい人にだけ届いてくれることを切に願う。
※蛇足
かつて士郎正宗氏は無知の知ではなく「不可知の知」であると置き換えていた。
人は何かを知れば知るほどに、知ることができないことを知るのだという。
そしてその時の自分は、それがコミュニケーションにおいても同様なのだと悟った。
どれだけ理解を深めようとも、最後まで理解することも理解させることもできないのだと。
それならば、そもそも理解を深めることだけを目的にすることはナンセンスである。
そこには最後まで取り払えないバカの壁があるのだから、相互理解はそこそこに、目的や行動を優先すべきだと悟ったのだ。
そこに少しでもヒントがあれば吸収し、利害がなければ自分には関係のない情報なのだと切り捨てるようになった。
確かコミック版攻殻機動隊のあとがき(BLACK MAGIC M-66だったかも)だったと思うが、他にも人生は螺旋階段を登るようなものだとか、士郎正宗氏の哲学の一部を垣間見ることができてとても興味深かった。
第1話を観たときは、すごい! 綺麗! と感動したけど、なんか6話か7話辺りから急速に崩れてきているような? しかも、なんか変だな? と思い始めた原因が作品のクオリティではなく日本語版の尺? 毎話もっと長いのを日本アニメの標準的な尺内に納めるためにカットされてるのではないかと思うのだが、よくわからん。
しかも砂漠に舞台を移した途端に作画クオリティまで落ちるし、何故か冒頭に前回のあらすじを3分入れ、終わりに中国の無形文化遺産の紹介を3分入れるようになってしまったので、本編は15分にも満たない短さになってしまった。
かといってすごくつまらないかというと微妙というか。まぁ、ストーリーがなんかよくわからなくても、異文化さが目新しい感じがするし、BL的に美味しいシーンがあるから、それだけ見て面白いもん観たなっていう気がするのかな。
Twitterには毎回絶賛のツイートが流れてくるけど、マジでそれで良いと思ってんのか謎だなって思う。
原作を読んだら面白いかもしれない。日本語版原作小説、早く出版されないかな。
中国アニメ。この夏までアマプラで放送されてたやつの続き。中国語で英語字幕あり。だけど、中国語の情報量の凄まじさに、英語字幕が瞬く間に消え去るので全然追えない。原作小説履修済みでなかったらきつかった。日本のアニメとは違って、本編が長い。40分くらいある。
きっと来年辺りにはアマプラに日本語版が来るんだろうけど、これまた天官賜福みたいに圧縮されてちんぷんかんぷんアニメに変貌するんだろうな的……。
ところで、この本国版魔道祖師、YouTubeで観たんだけど、そのチャンネルが公式配信のチャンネルなのか偽物なのか、よくわからん。去年の暮れに二期まで配信していたチャンネルと違うような?
それはともかく、ずっとお堅い無表情で通していた藍忘機が、魏無羨が余所見をしている隙に微笑みを浮かべるようになっていて良い、ような気もするし、原作ではそこまで表情緩んでる感はなかったな……と、すっかり原作厨と化したいけない感想を覚えたりした。シュエ・ヤンのキャラ造形が思ってた以上に可愛くて驚きだ。
なんか見たことのない動画配信サイトで3話まで無料(期間限定かな?)だったので、第1話だけ観た。
舞台は香港。役者も中国人。シナリオは日本版とほとんど一緒。ちょっと設定変更もある。日本語版だと春田は母親と同居していたけど、香港版では独り暮らしで、結婚して実家を出た姉が田(ティン……春田にあたるキャラクター)の面倒を見ている、ということになっている。
役者が美男美女ぞろい。黒澤部長にあたるKK役の俳優さんめっちゃダンディー。
登場人物の動きやしゃべり方、表情までもが日本語版の完コピですごかった。田と牧のじゃれ合いは日本語版よりも可愛いかもしれない。イルミネーション芸もちゃんと派手になされている。
香港が舞台とはいえ中国だからなぁー、BL表現はないのかなぁー、と思ったらKKは普通に田に告白したし、2話での牧のお風呂突入事件もあるみたい? 意外とまだ自由な香港、なのだろうか。
時々、異文化を感じて面白い。例えば牧が自己紹介するとき「阿牧です」って言ったりとか。へー、自分から名前に「阿」を着けるもんなんだね。お箸の持ち方も日本とは違う。でも外飲みでへべれけになるまで酔っ払うって、香港でもありなのか? そんなことができるのは日本位だって、前に何かで読んだけれども。
「春田、好きだー!」
が、
になるの、くそ笑った。
BL漫画。1話はシーモアの期間限定無料で読み、3話以降は雑誌で読んでいたのだが、ただ第2話読みたさのためだけに、電子版の発売も待たずに本屋に走って買ってしまった。BLとは思えないシックな表紙で、堂々とレジの人に表紙を見せられるやつ。だが、帯の裏ページ側に、
と書いてあって、親切心で裏表紙を向けてレジの人に差し出すと、とんだセクハラになってしまう…………自動レジ、使ったよ!
読み逃していた第2話に、けっこう重要そうな伏線のようなものがあった。私、いままでこれ知らずに読んでいたって、ヤバいな……。
帯と裏表紙にちゃんと書いてあることなので言っちゃうと、このお話は、欠点のひとつもないイケメン国語教師の佐田が事件に巻き込まれて不慮の死を遂げるも、マッドサイエンティストの間宮のせいでゾンビ化して一命をとりとめる、というストーリー。非日常的な日常系といった感じ。
BLだけどエロはあまりない。せいぜい佐田の下半身がよく見えるくらい。悲愴なあらすじだけど、鈍い佐田とツンデレの間宮が、噛み合わない会話をしたりお互いに諦めたり譲歩したりなどして距離を縮めていくようないかないような話で、案外萌えがある。
恋愛漫画としての萌えというよりは、二次創作的な萌えだ。何気ない仕草や一言で萌えの最大瞬間風速を叩きつける感じの。キャラクターがしっかりしていないと、そういう類いの萌えは立たないから、1からキャラを構築していく商業BLではできない芸当なのだけれども、朝田ねむい先生はそれがすごく上手い。キャラや世界観を簡潔に分かり易く表現することに長けてる作家さん。
例えば、『20代の酒に酔った若者が、路上で30代の会社員に刃物で襲いかかる』というニュースがあったとする。
これに対して、情報量が少なすぎて分からないと言った人がいた。
それを読んで情報量が足らないというのは、何が足らんのかと。
これが分からないという人がちらほら居る。
もっと普段から会話や読書をした方が良いというのは、前述した程度の事ですら理解できない人がいるからって事。
普段から他人とのコミュニケーションも取らず会話らしい会話もせず、読書もろくにしてないから読解力すらない。
正直ね、スマホが普及している現在で、常に触ってないと落ち着かないような中毒症みたいに情報端末をいじくっている割に
かんたんな文章も読み解け無いというのは、ちょっとどうかと思うんだよ。
かんたんに検索して回答が出てくる世の中も悪いんだろうけど、わかりやすく書いてある文章ですら理解できないっていうのは
いったい何のために情報端末を持っているんだと思うのね。
ヤフコメなんかは、もう全然記事を理解してない人らばっか。あそこの人たちは小学校以前からやり直したほうが良いレベル。
たまに増田にもそういう人が湧くけど、どっちかっていうと増田の方が頭が良くも悪くも良い。
本当にね、もう少し本読むなり会話するなりして理解力を深めたほうが良いと思う。
─追記─
増田で言及してくる人は、大体が煽ってくるか読解力の欠如を証明するような人が多いんだけど
自演してるのかな?って内容で引用してくる人は話にならないのよね。
6人の言及でまともに言及出来ている人が半分で残りの半分がどうしようもないろくでなしっていう事だけはわかった。
やっぱりこういうのがいるから駄目なんだろうなあ。
『見出しで何が起こったかが分かるだろう』という話に対して、『場所』『性別』『知り合いかどうか』という見出しに不要な話を持ち込んでいた。
こういうのを【馬鹿】というんだなあ。
このご時世、気軽に旅行にも行けない。
そんな中、友人間で流行っているのがdiscordでの思い出語り。
過去に友達と行った数々の旅行やお出かけの写真や動画を見返して懐かしみ、
「また行けるといいな」なんて言いながら、
その日がそう近くないことはみんなわかっているので、ちょっとしんみりして通話を終わる。
ふと思った。
100年後の俺がもし生きていたら、
老衰しきってもはや友達もお互いに五体満足に動けなくなっているかもしれない中で、
せめて過去に縋るときにはこの頃をこそ再び振り返るのではないか?
今まで撮った写真や動画は歴代のスマホ・ガラケーの中にたくさん詰まっている。
容量にすると多く見積もって1TBくらいになるだろう。
例えば向こう10年程度を想定するなら、適当なクラウドストレージにぶち込んでおけば
たまに見返したくなった時の思い出くらいは問題なく満足できるだろう。
ただし今俺が求めているのは、
・今まで撮ってきた思い出のすべてを
である。
たとえば、両親が財布に幼少期の写真をプリントしたものを大事に抱えていることがあるかと思う。
または結婚式のアルバムだったり、写ルンですで撮った褪せた写真の束なども実家なら存在するだろう。
白黒の文字のみを記録するのであれば紙媒体でも100年程度もつかもしれないが、
こと写真において破れたり色褪せたり滲んだり折り目のついたものではもはや満足はできない。
それに1TB分の写真・動画であり、物理媒体に保存した場合はたとえばこれからの引っ越しの際などに
ググったらちょうどいい記事が見つかった。
https://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/1508/26/news007_2.html
紙媒体にも触れていて、結論からすると電子媒体では100年後に残すことは難しいらしい。
続く記事にも、このあと触れようと思っていたクラウドストレージの問題点(データは保証されない、サービスの予期せぬ終了など)があり、
結局はたとえば今ならSSDかHDDあたりにぶち込んでおいて、
適宜マイグレーションを行いながら後世へとつなぐしか方法はないように思える。
ただ、これにも実は懸念があり、
例えば現在主流の圧縮形式、拡張子が100年後も現行で使われているとは限らないためその部分もマイグレーションが必要になり、
そしていつかはマイグレーションすらできないタイミングが発生しうるということだ。
その時俺はどうするのか?
もはや記憶の中の美化された各々の顔や声だけを頼りにするしかないのか?
誰か助けてくれ。
ちなみに26歳です。
「普通の人でいいのに!」であらゆるSNSにて阿鼻叫喚を巻き起こした冬野梅子先生の新作「まじめな会社員」を読んだ。相変わらず圧倒的情報量でぶん殴ってくる凄まじい漫画。連載というのだから毎週身が持つか心配である。才能があるが、絵に描いたようなイケメンではないサブカルっぽい男性(芸能人で例えるなら星野源、仲野太賀みたいな雰囲気)に秒で恋をし(しかも中身ではなく肩書きに眩んでいる)、恋愛経験の浅さから普通の男女が仲良くなる手筈を踏まず暴走して自爆するの、身に覚えがありすぎて眩暈がした。
自分も拗らせまくったサブカル女で、容姿がよろしくなく恋愛経験はペラペラ、家の都合で地元を離れられず地方で冬野梅子先生的暮らしをしていた。地方といっても中途半端な政令指定都市のため、それなりにおしゃれっぽい場所はポツポツと存在する。東京からUターンしてきて、クリエイティブ的活動しながら地方でゆるく暮らそうみたいなコミュニティもある。だけど、東京と比べてあまりに規模が小さいため、「一方的に恋をして自爆」をすると速攻で噂が広まってしまう。なんとなく行きづらい場所ができると、コミュニティが小さいため連鎖して行けるおしゃれプレイスがどんどん少なくなっていく。あとそういう地方コミュニティでオシャレ男性の彼女ポジの人って、もちろんもれなく美人だけど、「誰々と浮気してる」とか「誰々から略奪した」みたいな噂が飛び交っててもツユ知らぬ顔でDJイベントに我が物顔でいるようなタフな人である。私はそうはなれなかった。
どんどん行ける場所が少なくなる中、頼みの綱であるマッチングアプリには改造車とピースサインしているようなマイルドヤンキー(死語)しかマッチしないし、たまに飲み屋とかイベントとかで同年代と出会いがあっても普通に既婚者で不倫のお誘いである。(地方は結婚が早い)望んでいるオシャレ暮らしもできず、恋人もおらず、仕事も凡庸で、まじで気が病みそうだったので死に物狂いで転職活動して今東京で暮らしている。実家とは縁が切れかけたけどなんとかなった。年収も上がった。
東京に来てびっくりしているのは、地元では県に一個しかないようなオシャレスポット・コミュニティが、各駅レベルであること。これでは、一個でしくじっても、次々!と明るく切り替えられるよな。冬野梅子先生の漫画に湿り気とか暗さがないのって、「まあこのコミュニティ無くしても他があるし」っていう東京特有の気楽さが全体に満ちていることだと思う。地方ではこうはいかない。
本当に上京してよかった。あのまま地方にいたらどん詰まりで狂ってた。あと才能ある男と付き合って自分もなんかそのコミュニティに入ってサブカルロンダリングしようみたいな気持ちが消え失せて、自分自身が面白い人になろうと思った。(コロナ前に)あちこち顔を出して作った縁で細々書いてるエッセイが形になりそうなので、なんか似た文体の人間見つけたらほくそ笑んでやってください。
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66492
伊東乾はメンタリストDaiGoを批判し、例えば「科学的に完全に間違ったことを『科学』を標榜して垂れ流してしまう。こうしたタレントの放言を真に受けて、後遺症を背負い込んでも、誰も補償してくれません」と書く。この「垂れ流し」とか「タレントの放言」などの修辞には、敵意を込めた罵倒だという以外には、情報量がなにもない。つまり「これこれの主張は科学的に間違っている」と書けば済む話なわけだ。これは単に一例であって、伊東乾の文章は全編がいつもこの調子。
で、メンタリストDaiGoの、どの発言が、科学的に間違っているのだろうか。驚いたことに、何度読んでもそれがわからない。自分なりに伊東乾のお気持ちに好意的に寄り添って推理する限りでは、「新型コロナウイルス感染症の脅威を死亡率で計るのは科学的に間違い。重要なのは後遺症」と言いたいのかも知れない。しかし「死亡率と後遺症のどっちが脅威か」なんてことは、経済やインフラや個人の価値観やが絡む高度に複雑な問題であって、科学で一意に結論が出る話とは思えないんだけど。
伊東乾の文章から「素人の垂れ流し」「テキヤ」「ペテン師」「おかしなコンテンツ」「生ぬるい若者のどうでもよいお喋り」「中途半端に上ずった若者のご託」「陳腐なクリシェ」「うわごとのような早口でまくしたてる」「メディアを濫用するマインドコントロール商法」などの無内容な雰囲気レッテル貼りと、執拗な学歴マウンティング(発言を批判するなら人格ではなく発言内容を批判してくれ。発言者が中卒のお笑い芸人だろうが学位取得者だろうがそんなことはどうでもいいんだよ)をすべて削ると、びっくりするほどに内容薄い。自分の理解では
・「新型コロナで怖いのは死亡率以上に後遺症」
・「メンタリストDaiGoのやりかたは麻原彰晃に似ている」
・「発想はナチスと一緒」
ちなみに「執拗な学歴マウンティング」の「執拗な」は、無内容な雰囲気レッテル貼りではないですよ。9ページの論考の中で、p1「私もかつて教えたことのある大学の理工系で卒業、大学院修士課程を中退しているようでした」、p2「学卒/大学院中退はサイエンスでは『素人』」「大学・大学院で物理を学び、ここ四半世紀は地味なサイエンスと地味な芸術音楽を両輪に、研究大学でコンテンツのラボラトリーを主催する一教官として言えるのは」p3「修士を取れないというのは、能力的な問題というより『やらなかった』怠惰を意味する場合が多い」「学卒レベルのアマチュア了見で」p5「サイエンスを標榜して無学位という時点で『科学は偽物』と見ます」などと書いてることを、「執拗」と表現しています。
「ホームレスなんて死ねばいい」というメンタリストDaiGoの主張と、それを批判する伊東乾の主張を比べれば、自分は圧倒的に後者を支持します。しかしながら、まあそれはそれとして、「(ホームレスなんて)邪魔だしさ、プラスにならないしさ、臭いしさ、治安悪くなるしさ」と「素人の垂れ流しだしさ、テキヤやペテン師みたいだしさ、生ぬるい若者のどうでもよいお喋りだしさ、中途半端に上ずった若者のご託で陳腐なクリシェだしさ」を見比べると、伊東乾ってメンタリストDaiGo以上に雰囲気話法だなー、と、どうしても思ってしまう。
家族には理解されず、なぜ仕事を辞めたと責められた。友人にも相談できなかった。
人をどう頼ったらいいのか分からない。誰も信じられない。
食事を摂ることも風呂に入ることもままならず一日中泣きながら布団に籠っていたが、多少は回復したようで、食事を作ったり散歩をするほどの元気は出てきた。
誰かの話を聴いていたいし、社会に触れていたい。
しかしテレビやラジオはノイズが多すぎて、すぐに拒絶してしまった。
時間を持て余しているので漫画アニメゲーム映画小説等のコンテンツを手に取ってみたが、物語がまるで頭に入らない。
薬漬けの脳は考えることをすっかりやめていた。
何気なくYouTubeを開いた時に目に留まり、今までは興味を持たなかったVtuberの動画を見始めた。
Vtuberと言ったら美少女のイメージだったけれど、それは人の形をしていなかった。
人間だけど人間ではない存在は心への負担が少なく、食事さえ拒否をしていた脳にもするりと入ってきた。
負の感情以外をすっかり忘れ去っていたけれど、配信を見ているうちにいつしか笑うことを思い出した。
その親しみやすさは時に弊害ともなるけれど、Vtuberは二次元のフィルターを通すことで発信された情報をまろやかに届けてくれる。ごく稀だが、コミュニケーションをとる事もできる。
この辺はスゴイよかったなって思った
しかしこの辺を褒めるのってプロの料理人に『ボクより包丁上手いですね😆』っていうのと変わらないので
それ以外のよかった点を捻り出そうと20分くらいは考えたけど・・・うーん・・・マタギ編は良かったな。すぐ終わったけど
ただやっぱりとにかく絵は上手い。情報量は多いのにごちゃごちゃせず常にスッキリして見やすい絵作りで気持ちいい&快適(疲れない)
あとのっぺらぼう辺りからダレたが宝探しネタもわかりやく民族ネタも説教っぽさが無くポップでオサレでよかった
プロ(商業作家)なら誰でも出来るレベルではないというか、ジャンプで連載を持つ猛者たちの中でも頭ひとつ抜けてると思う
情報量の多さwwwwwwwwwwwwwww
だっせーwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
そんな小難しいことほざいてるから本質が見えないんじゃねーのー???????????wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww