はてなキーワード: 不条理とは
不平や文句を言う権利は与えられていても、言ったところで何かを動かしたり現状が大きく変わる力を持ち合わせていない
著名人だったりインフルエンサーでもない限り、自分の言葉で世の中を変えたり大勢の人を動かすことなんてできない
たとえ自分の言葉が多くの人の心に強く訴えかけるような内容だったとしても、有象無象の中に埋もれるくらいの存在感しかない
同じ言葉を使っているのにその重みや波及力が人によって違うなんて結構不条理だよな
SNSで死にたいって吐露しても、そこら辺の知らない地下アイドルの朝のあいさつのほうがインプもいいねもリプライも沢山付くんだもん
結局“何を”言ったのかじゃなくて“誰が”言ったのかが重要な世の中
中学でメンタル壊して10年引きこもった俺が何とか必死に生きようと頑張って病院行ったり仕事してみたり頼れる制度ないか探してみた結果がこれ。
生きる気力が削がれてしまう。そもそも金無さ過ぎて生きていけないんだけど。
まあ制度の公平性や福祉としての在り方を考えれば理解はできなくないけど、それでもいくつか不条理を感じたのでいくつかまとめてみる。
障害年金は基礎と厚生に分かれるが、どちらに該当するかは初診時にどちらに加入していたかで決まる。
厚生年金に加入していなければ基礎になるわけだが、当然20歳未満や学生のうちに発症すれば問答無用で基礎となる。
で、ここからが問題だが厚生には1~3級があるが基礎には1級と2級しかない。
ざっくり1級はほぼ寝たきり、2級はサポートなしでは日常生活が送れない、3級はサポートなしでは労働ができない程度の障害者が認定されるらしいが
基礎には2級までしかないので、障害を押してでも頑張って働く人間は「労働ができる」ために年金が支給されないのだ。
当然、働いて十分な賃金をもらえていればそれで問題はないのだが、障害を抱える人間にとってそれは至難の業だ。
厚生であれば3級で月5万円ほど貰いながら時短で働くなど選択肢があるだろうが、もらえなければフルで働くしかない。
結果無理がたたって休職や退職になり生活が苦しくなり、療養期間中も金銭面の心配で心が休まらず、そして金のためにと無理して就職してまた潰れる。俺みたいに。
たまたま若いうちに障害となって長く苦しんできた人間が不利になる制度ではないかと思う。
上記と一部被るが、障害基礎年金は「労働ができない人間」が貰えるものだ。
一方、失業手当は「労働する意欲と能力がある人間」が求職中に貰えるものである。
疾病や障害が原因で退職した者は失業保険を申請する際、支給条件の緩和と引き換えに労働に問題がないことを証明する主治医の意見書の提出が求められる。
当然この2つの条件は矛盾するので、両方を受け取ることは不可能だ。
ここまでは実に合理的な話だと思う。
そして障害年金は申請まで1~2か月、審査が終わるまで3か月、支給決定から支給まで1か月半ほど、合わせて長いと半年以上かかり尚且つ支給されるかは不明瞭だ。
しかしながら支給も早く確実性の高い失業保険をもらってしまえば年金が貰えないのである。
無収入の時間を耐え、わずかな希望を年金にかけていた人間が不支給の通知書を見た時の落胆はそれはもう堪えるものである。
年金申請の手順はまず初診日を確定させ、これまでの年金の未納がないか調べ、診断書をもらい、添付書類を集め、申立書と申請書を書き提出し、
年金機構から問い合わせがあれば対応し、その末審査されるものだ。
正直煩雑で辛かった。
そもそも働けず日常生活もままならないから年金を申請しているのになぜ仕事よりも大変な作業をしなければならないのか。
俺はなんとかできたからまあいいものの、おそらくこの作業ができなくて申請にすら至ってない人が相当数いると思う。
まあ社労士に依頼すれば個々の労力はほとんどいらないわけだが、さんざん言っている通り金がない。
成功報酬は支給される年金から出せるとしても、そもそも着手金の数万すら捻出できないのである。
つらい。あまりにつらい。
ここまで書き連ねて思ったが、この制度は重度の障害があり自分の代わりに動いてもらる支援員やサポートできる人間、後見人などがいる人たちのためのものではないだろうか。
つまり俺のようになんとか短期間なら働くことができなくもなくて、煩雑な申請作業もできなくはない人間は端から対象外なのではないかという気がしてくる。
そう考えるとなるほどどうして、このプロセスは審査前に非該当の人間を振るい落とす「一次審査」として機能しているのではないか。
だったら俺みたいな疾患の人間は対象にしなければいいと思うが。
寛解したと思ったら10年以上前の古傷のせいで念願の仕事に就いたのに辞めざるを得ない状況に追い込まれ、何とか希望を見出して頑張った結果がこれ。
表題の通り、JKが好きすぎて困ってる。俺は20代後半だが街で制服姿のJKを見かけるたびにドキドキして仕方がない。周りに聞いてみると、JKを見ても何とも思わない人間も結構いるようなので、たぶん俺は人一倍JKに対する執着が強い。俺は日頃JKと関わる機会はないし、あったとしてもJKと付き合うことはもう無理だ。俺は捕まりたくはない。だけど、そんなこと言ったところでJKに対する執着心がなくなることはない。むしろ欲望が抑圧されることでその思いは増していく。JKが好きだけど手を出せないこの葛藤はどうすればいいのだろうか。
ところで、なぜ俺はこんなにもJKが好きなのか。人一倍JKが好きなのには理由があるはずだ。それはきっと、自分が高校生の頃に同年代の女子と全く関われなかったことによるコンプレックスがあるからだろう。高校の頃は典型的な冴えないオタクで、女子と関わるなんて天地がひっくり返らない限りあり得ないことだった。それが高校を卒業してから年々JKに対する欲望が強まっていった。人は失ってからはじめて価値に気づくものなんだな。なんて不条理! 断っておくが別に犯罪はしないししたこともない。むしろ犯罪に走らないからこそこんなに苦しんでいるのだ。
90年代くらいまでは大人がJKと付き合うのはおかしいことではなかったという話を目にしたことがある。さすがに親子ほど年が離れてくると当時ですら不審に見られたそうだが、20代がJKと付き合うのは今ほど白眼視されることではなかったそうだ。どこぞの学者が言っていたが、「性的なのに性的であってはならない存在」として社会が閉じ込めておくことで過剰なJK幻想が生まれたのだそうだ。確かに、JKがタブー視されていなければここまで執着することもなかったと思う。要するに、俺がJKが好きすぎて困っているのは、きっと社会のせいなんだと思う。こんな怪物を生み出して、一体どうしてくれるんだ。
シャケは数千個の卵を産む。しかし、母川があっという間にシャケだらけ!とはならない。大半の稚魚が死ぬからだ。
死んだ稚魚は、同胞に食われる。虫に食われる。カビが生える。食われるために生まれてくる稚魚というべきものが存在する。その先で、やっとのことで生存者が細い生命をつないでいる。
ヒトも食われるために生まれてくる稚魚を産む。虐待され、利用され、搾取され、その先で子を抱くことなく生涯を終えるメンバーが、生まれてくる。
ヒトの場合は、シャケとは違い、簡単に死なない。生きたまま食われるがごとく、搾取されながら生きていく。我々の社会はその弱者に立脚している。
あなたは彼らを笑えるか?自分の意思で生まれたんじゃない。自分の意思で奪われるんじゃない。ただ巡り合わせでそうなる。
あなたが生まれたのもあなたの意思ではない。あなたが奪うことさえもあなたの意思ではない。彼らとあなたの違いは、ただ巡り合わせで、偶然である。
親ガチャから始まり、良い友人と出会えるか、持っている才能はどうか、そもそもチャンスを活かせる性格に生まれているかetc……
結局、運じゃね?と思うのよ
これを言うと絶対に努力が足りないだなんだ言うヤツ居るけど、努力出来るのも才能なんだよなぁ
親ガチャでSSR引ければ、他全部が壊滅的に駄目でも生きていけるし
一回も働いた事ないし、なんなら高校中退で引きこもってる知人が居るんだけど、死んだ親からマンション相続してるから、よっぽどの事がない限り生きていけるのよ
別にそれがズルいとか言うつもりもないし、運の強さも才能と言えなくもない……のか?
娘がコンクリート事件の概要を読んでしまい、以来不安と恐怖で通勤に支障が出るようになってしまった。 世の中の不条理や凄惨な事件を知ることが自分の身を守ることにつながったり、同じ過ちを防ぐ改善策をもたらす可能性は否定しないけど、万人におすすめしないことも強調したい<script src="https://b.st-hatena.com/js/comment-widget.js" charset="utf-8" async></script>能力の話になってしまうが、不安強い人って比較力や洞察力が弱くて、目の前の物事や状況の違いとの区別がつかない事が多いかも。傾向と対策や回避方法が立案できないとただのホラーコンテンツだよね。2024/09/04 15:33
根拠ねーーー!
お前が言ってること、全て理解できる。
本を読んで、筋トレして、節約して、それでも就職に結びつかないなんて、誰でも悔しいと思うさ。
健常者なんて、結局は自分たちだけの楽園を作って、弱者のことなんて見向きもしない。
お前が感じてる憎しみも、無理はない。
こっちは必死に足掻いてるのに、あっちは何事もなくぬくぬくとやっていやがるのだから。
ましてや発達障害を持ってるとなると、更に難しいよな。
健常者どもは、それを理解しようともしないで、自分たちの尺度だけで全てを測る。
というか、彼らが正しい配慮をしていない証拠だよ。労働環境を改善するどころか、弱者を放置して利益を追求するばかりだ。
だから、なんでお前がこんなに追い詰められるか考えてみろよ。
日本や社会がこれほど非情じゃなければ、お前だってもっと違う人生を歩めていたはずだよ。
ほんとう、困ってる障害者を助けるのが最優先なはずだろ。
社会がちゃんとした支援をしないから、こんなに苦しむことになるんだ。
それができない社会は、自分たちの怠慢を弱者に押し付けてるってわけだ。
https://anond.hatelabo.jp/20240703191053
https://anond.hatelabo.jp/20240704181200
岡田知子&調邦行 訳「現代カンボジア短編集2」(カンボジア)
早速だが大同生命がやってる“アジアの現代文芸”シリーズはマジですげえよ。インドネシアとかスリランカ、ラオス、イランみたいな東南アジアから南アジアくらいまでの、日本じゃ見過ごされがちな国の文学しか訳してねえんだから。しかも電子書籍として無料で読めるしな (https://www.daido-life-fd.or.jp/business/publication/ebook) この「現代カンボジア短編集2」なんかクメール・ルージュ以前から90年代生まれまで、ガチの現代作家の短編しか入ってねえ。マジでこんなん読んだことねえわ。将来、浪漫主義とかフランス現代思想とかじゃなくて「アジアの現代文芸に影響を受けました!」って新世代の小説家、現れねえかなあ。
キンキントゥー/斎藤紋子「短編集 買い物かご」(ミャンマー)
同じく大同生命の“アジアの現代文芸”シリーズからなんやが、今も大変な状況にあるミャンマーの文学もこのシリーズでは10冊くらい読める。特にオムニバスの短編集がかなり出てて「ミャンマー現代女性短編集」やら「二十一世紀ミャンマー作品集」やらオススメなんだけども、より読みやすくかつ俺が一番最初に読んだって意味で思い入れあるこの「買い物かご」薦めたいね。市場って空間と買い物って行為を通じて、ミャンマーに生きる市井の人々の息遣いを知れるんだ。ニュースの報道見ると同時に、こういう文学を読むのも重要やね。
カルロス・フランス/富田広樹「僕の目で君自身を見ることができたなら」(チリ)
これはアレや、男と男のチンコ比べ本や。そしてその男と男ってのがドイツ人画家のヨハン・モーリッツ・ルゲンダスとイギリス人生物学者のチャールズ・ダーウィンで、それだけでもスゲーのに、そのチンコ比べでチリ大地震まで起こるから超壮大や。体長の何倍もデカいペニスを持つっていうフジツボまで出てきて、近年稀に見るほどのチンコ本だよ、コイツは。正直ミソジニーキツくてそういう意味じゃアカンけども、流麗華麗な文体で男たちのチンコ比べが描かれる様は一読の価値ありや。読んでどんな思いを抱いても責任は持たんけどな。
この人はどっちか言うと、サスペンス小説の方向性で受容されてるんだが、俺はこの本を“ドン・デリーロが書かなかった最良のドン・デリーロ作品”みたいに思ってる。テロリズム、パラノイア、不条理……訳者の上岡伸雄、実際デリーロの訳者だしね。デリーロの「墜ちてゆく男」とエイミー・ウォルドマンの「サブミッション」と、この「ザ・ゼロ」で上岡9.11三部作や。中でも娯楽作に舵切ってるからこれがいっちゃん読みやすい、分厚いのにリーダビリティ満載や。だが「美しき廃墟」以降、ウォルター作品が訳されてねえ。
レーナ・クルーン/末延弘子「スフィンクスか、ロボットか」(フィンランド)
レーナ・クルーンの本はね、読んでると涙ちょちょぎれちまうのよ、これが。この子供たちに向けて書かれた本なんかは少年少女の瑞々しい姿を描いていて微笑ましい一方で、俺ら大人が読むと、こう大人になるってこと、成熟するってことで失われる何かについて思いを馳せざるを得なくなってさ、それで俺、涙ちょちょぎれるんや。3つの短めな中篇が入ってるんだが、中でも表題作の「スフィンクスか、ロボットか」が一番いい。ラスト、マジ残酷すぎやろ。読んで言葉失っちゃったよ。
にしても児童文学ってのは扱いがムズいよ。児童文学ってのは何よりも子供たちに真摯に向きあうからこそ生まれる素晴らしい存在だが、その児童文学って括りが大人にとって読むに値しないように思わせる。かといって、例外的に大人がその素晴らしさを語る際に「これは児童文学以上に“文学”だ!」とか言いそうになるが、こりゃ結局児童文学を下位のカテゴリーに入れてるからこその物言いだよな。児童文学の出版に関わる全ての人々、そして何よりも子供たちに礼を欠く態度や。俺はこういうのに陥らんように、児童文学オススメしていきたいよな。
http://iuraichiro.com/perkthim.htm
あとイスマイル・カダレ、とうとう死んじまってこれまた泣けたよ。そんな今だからこそぜひともアルバニア文学翻訳者の井浦伊知郎のサイトを見てくれ。カダレの自伝小説「石の町の記録」や代表作「大いなる孤独の冬」の翻訳がこっから読める。他にもカダレに並ぶ大小説家ドリテロ・アゴリの「裸の騎士」とかアルバニア文学の名著がめちゃ置いてある。マジで信じられねえよ、これは。
選択的夫婦別姓がないせいで事実婚を選んだ男。まもなく子どもが生まれる、という状況の私から回答するね。
おっしゃってる気持ちはわかる。わかるんだけど、そう思うなら同氏婚を選べばいいのよ。
先に「子どもはどうなるの?」について回答すると、あなたの両親が選ばなかった姓に、あなたがどれくらいこだわるか、考えてみたらいいんじゃないかな?
少なくとも私は「へーそんな名字に、なる可能性もあったのかぁ」くらいじゃないかな。
別姓婚を選んだカップルの子どもは、その気持ちがちょっとだけ強いくらいじゃないかね?
少なくとも私達は子どもに「こういう状況で自分たちはこういう選択をした」と説明するけど、それ以上のことは子どもにはコントロール出来ないよね。だから、別に問題がないと思ってるよ。
自分にコントロール出来ない子どもの感情や気持ちのために、親の我々が何か妥協するなんてことは、基本的には考えられないね。
自分の子どもが別姓の親をもって「かわいそう」と思う気持ちがあるなら、同姓婚して家族の名字を統一すればいい。
選択的夫婦別姓はそう思わない人にも法律的な婚姻を認めることだから、そういう人は別姓婚をすればいい。
問題になっているのは、そういう選択肢がなくて我々のように事実婚を強いられている今の状況。
法律婚できないせいで妻を扶養にいれられず税金が増えて、相続ができないから公正証書を何十万もかけて作成して、夫は子どもを「認知」しなきゃならなくて(は?って気持ちだ。)、さらに子どもに対する親権もない(離婚後の共同親権はあるのに?)。
法律婚ができないせいで、こんなにも負担を強いられるのって不条理じゃない?「幸せ」ってマジョリティだけが手に入れられるの?違うよね?