はてなキーワード: ブルマとは
最初にブルマーについて調査した記事で、ポーランドのブルマーの映っている動画を紹介した(3:55頃から)。そのことから、自分はポーランドにおけるブルマーの存在を証明したと満足し、それ以上の調査をやめた。しかし、先日のドイツのブルマーにまつわる記事で、ドイツ語のブルマーの名称を知ったことから、そもそもポーランドでブルマーを何と呼んでいるかを調べた。
結果として、今回は具体的な名称を見つけることはできなかったが、ポーランドにおけるブルマーの年代をもう少し細かく絞り込むことができた。
ポーランドの体育の歴史は1805年にさかのぼる。医師であり化学者でもあるJędrzej Śniadeckiが、身体の訓練がなおざりにされ、精神だけの訓練が行われていることを嘆き、体育を創始した。彼の目指した水準は高く、「レスリング、さまざまな武器の使用、ダンス、ジャンプ、高い木に登る、溝をジャンプする、水泳、乗馬、走りながら馬に乗る」などが教科に含まれていた。また、どうやらそこの学校では、ポーランド語も教えられていたようである。ポーランドが分割されていた時代のことと考えれば、驚きである。
ソコルはチェコのブルマーについて記載した記事でも書いた通り、チェコの民族的体育運動協会である。ポーランドのソコウはそこから派生した団体である。1863年蜂起の失敗後、同年2月に設立された。同時期のスカウト運動とは逆に、右翼的傾向があった。それに危機を覚えた当局による迫害が続いた。プロイセン占領下のポーランドでもそうであったし、独立後、再びナチスに占領されても迫害を受けた。
にもかかわらず、ソコウはポーランドの独立運動の一翼を担ったのである。
しかし、共産主義政権が成立するとソコウは違法化され、これにまつわる情報はすべて検閲された。1989年に合法化され、1990年にソコルポーランド体育協会連盟(とでも訳せるか)
へ名称を変更、現在は80のグループに8000人を擁し、若者に愛国心や市民の義務を教える団体となっている。
なお、余談だがサッカーを庶民のスポーツとして嫌ったため、20世紀に何人かのメンバーが離脱、独自のサッカークラブができるが、これがポーランド最初のサッカーチームの起源である。
(英語版では1935年の提灯ブルマーが確認できる。ポーランド語版では1937年、提灯ブルマーでのマスゲームが確認できる)
上記の「ファクト」というサイトによれば、当時はズボンとゆったりとしたシャツを着て、女の子はドレスを着て運動した、と書かれている。またソコウ(自動翻訳では「ファルコン」と出てくる)では軍服のようなものを身に着けた、とある。ブルマーに関する記載がないことに、僕は困惑した。証拠となる映像も画像もそろっているのに、文章が見つからないのである。
ポーランド語は一言もわからないので、以下の語を翻訳し、組み合わせて検索してみた。「体操着」「紺色」「ブルマ」「短パン」「共産主義」「1960年」「歴史」「恥ずかしい」など。ここで思いがけなかったのが、中東欧の多くの言語で「体操着」で画像検索すると、女性用のレオタードばかりヒットすることだった。
Wikipediaのポーランド語版Mundurek szkolny(学校の制服)で検索したが、それらしいものはヒットしなかった。イギリスの制服に関する項で、
とあり、これは
を意味するので、検索のヒントになるかと思ったが、結局見つからなかった。
pamietam obowiazkowy stroj na wf szorty granatowe bialy podkoszulek.
これを日本語にするとこうなる。
これが数少ない、ポーランドのブルマーにまつわる証言である。名も知らない誰かのコメントで、ポーランドのブルマーはあったのだと、映像だけでなく、言語でも納得できた。
こちらは過去のポーランドを撮影した写真のアーカイブだ。検索ワードをgimnastykaに変えても同じような写真が出てくる。
幸いなことに、写真の下には年代が記載されている。1930年代、1948年と書かれた写真は提灯ブルマーだが、1960年代を映している写真は、間違いなくショーツ型ブルマーだ。
また、こちらでは、少しダボダボしているが1950年代のブルマーを確認できる。
他にもブルマーで運動する女性の写真は何枚か見つけたが結論は同じであり、リンクをいたずらに増やしても意味がないので、割愛する。
陸上のブルマーやバレーボールのブルマーについてもある程度調べようと思った。一つには、日本のブルマーがバレーボールに影響されたという説があるからであり、もう一つにはブルマーのポーランド語での名称を探すヒントになるかと思ったからだ。
こちらでは1972年の陸上ブルマーの普及の様子を確認できる。
また、こちらでは陸上ブルマーの是非について論じているが、タイトルが「Majtki dla biegaczek」、和訳すると「陸上のパンティー」である。これがブルマーの正式名称かと思ったが、どうやら違うようである。
これ以上探しても見つからないので、調査は一段落とした。元々は体育のブルマーの調査だ。プロスポーツのブルマーとは少し違う。日本でも競技用ブルマーの浸透した年代と、学校制服のブルマーの普及した年代には、かなりのずれがある。名称の調査はともかく、この画像検索ではずれが出てくる。いずれ、競技用ブルマーの普及した年代を調査することがあれば、そのときに改めてまとめなおす。
もしかしたら、グーグルもDeepLも、単語レベルでの正確なニュアンスに関してはまだ改良の余地があるのかもしれない。また、日本語からか英語からかでも、訳語がぶれた。
それと、今回は自分の落ち度だが、系統的に単語を調べず、頭に浮かんだまま検索したので、何度も同じ単語で検索してしまった。また、サイトによっても訳語のブレがあった。気晴らしの調査であるとはいえ、ドキュメントファイルかなにかで記録を取りながら調査すべきであった。
もしかしたら、画像検索ではなく、文章で検索すべきかもしれない。たとえば、「体操着 共産主義」ではこちらの質問サイトが見つかり、ブルマーが黒っぽかったことを示唆する内容もある。
Wątek "Strój gimnastyczny " - wielkiezarcie.com
できることなら、なんとかポーランドのブルマーの名称を確認したい。
また、ブルマーの普及状況について、国ごとに調査を継続したい。
ちなみに、今回自分は並行してハンガリーのブルマー事情について調べていたのだが、思いがけないことが明らかになった。それに関してはできたら一週間以内に記事をアップロードし、共有したい。
遅れたら失礼。
ある日のことである。以前のブルマーに関する調査に物足りないものを感じていた僕は、なんとはなしに「ドイツ ブルマ」で画像検索した。すると、個人のブログで、戦後の西ドイツを舞台にした「橋」という映画にブルマーが映っているのが紹介されていた。1959年の映画であるが戦時中が舞台なので、これは明確に戦前にもショーツ型ブルマーが使われていたことを示しているようだ。Youtubeにも動画が上がっており22:48頃からブルマーの出てくるシーンが確認できる。
そんなことから、もうちょっとドイツのブルマー事情について調べたくなった。
自分が以前調べたナチスのブルマーとは、ドイツ女子同盟のものだ。
ウィキペディアによれば、ドイツ女子同盟は、もともとナチズムを信奉する少年の有志で構成されていたヒトラーユーゲントの下位組織として発足したものだが、ヒトラー政権の成立から3年後、全ての未成年男子がヒトラーユーゲントに編入されると、これに伴ってドイツ女子同盟も強制参加の団体へと変化した。
設立の理念は、ドイツの将来を担う「良妻賢母」の育成であり、軍人教育は施さなかった。よって、健康な子供を産むためにカリキュラムは家政学ではなく、体育の方に重点が置かれた。つまり、国によって「女らしさ」「母性」「健康」が強制されていたわけである。そのせいか、略称をもじった卑猥なジョークもあったらしい。
さて、そういうわけで、軍服のような制服のみならず体育教育に使う、こちらのように黒い短パンというか提灯ブルマー姿の女性を確認することができる。写真によっては、サイズがあっていないせいか、角度のせいか、ほとんどショーツ型ブルマーのようになっているものもある。
ちなみに、こちらのサイトによれば、ブルマーを卒業すると白いワンピースになったそうである。また、色は黒であると言及されている。
しかし、写真を見る限りでは、冒頭の映画ほどハイレグではない。これは地域によってブルマーの規格に差があったのか、それとも監督の趣味だったのか、よくわからない。1930年代のThe Woman’s League of Health and Beauty(英国の健康増進団体、ヨガも取り入れている)ではhttps://flashbak.com/the-womens-league-of-health-and-beauty-nazis-pilates-and-the-birth-of-the-keep-fit-movement-4580/:title=
ショーツ型ブルマーに似た制服]で運動しているし、https://aurora-ray.blog.ss-blog.jp/2017-09-15=ドイツ女子同盟のフィギュア(オーロラモデル 1/35ミリタリー WWII ドイツ少女同盟 体操着姿 ガレージキットフィギュア ML76)]ではやっぱりショーツ型ブルマーに似ているのだが、詳細はわからない。冒頭で紹介した映画ではのんびりしたシーンであり、ナチス的な全体主義をあまり感じない。もしかしたら、ドイツ女子同盟とは別に、普段からブルマーがそれなりに普及していなことも考えられなくもない。
その後ドイツではブルマーはどうなったか。以前の記事にも書いたように、東欧ではブルマーが採用されていたことを示す写真はちらほら見つかったが、制服として具体的にいつ頃採用されていたかなどの情報は見当たらなかった。そのため、しばらく調査は暗礁に乗り上げていた。
きっかけになったのはDeepLやGoogleの翻訳である。英語のショーツ型ブルマーを意味する語の一つ「gym knickers」をドイツ語にしたところ「Turnhose」という語が出てきた。これで何かがわかるかもしれないと思った。確かにこれは「短パン」を意味する言葉に過ぎない。だが、ドイツ語のウィキペディアには、英語版とは違い、こんなことが書いてあった。
Für Frauen, Mädchen und Jungen (bei Jungen aber nur bis zum Alter von etwa zehn Jahren) gab es etwa zwischen 1960 und 1990 Turnhosen in Slipform, die zwar umgangssprachlich Turnslips genannt, im Katalog aber unter der Bezeichnung Turnhose geführt wurden. Als Material verwendete man anfangs schwarzen Doppelripp und Helanca. Passend dazu gab es auch die Turnhemden.
女性、女の子、男の子の場合(ただし、男の子の場合は約10歳まで)、1960年から1990年の間にパンティーの形のジムショーツがありました。これは通称ジムブリーフと呼ばれていましたが、カタログにはジムショーツとして記載されていました。当初、使用された素材は黒いダブルリブとヘランカでした。それに合うジムシャツもありました。
やっとのことで、具体的な年代を特定できる情報を見つけた。1960年から1990年、確かにドイツではショーツ型のブルマーが採用されていたのだ。
もちろん、出典が明記されていない以上どのくらい正確な情報かはわからない。ショーツ型ブルマー(上ではジムブリーフと訳されている)を意味する「Turnslips」で画像検索してもまったくそれらしいものは該当しない。だが、調査は確実に一歩前進した。
ドイツでブルマーがいつまで採用されていたか、かなり具体的な情報を手にすることができた。しかし、今回のドイツや前回のチェコとは違い、ポーランドやロシアに関する情報はなかなか手に入らない。昔の記事のように確かに写真はある、動画もある。だが、文字情報が乏しいのだ。「ソ連 体操着 歴史」「ソ連 体育 制服」「体操着 1960」などと単語を変えてもなかなか引っかからない。おまけに、ポーランド語でgym knickersを訳して「majtki gimnastyczne」で検索すると、スポーツ用の下着しか出てこない。また、言語によっては体操着に該当する言葉を探しても、レオタードしか出てこないこともある。
プロの陸上選手がブルマ姿になっているものは出てくるが、学校での採用事情については、なぜかデータが少ない。
資料が見つからない理由は恐らく三つある。一つは、ロシア語やポーランド語ではブルマーを何と呼んでいたか、正確な名称がわからないことだ。チェコ語では、幸運なことに「Jednotný cvičební úbor」が「体操用の制服」といった意味で、直訳でもよかったようだが、他の国の言葉ではそうでなさそうだ。
もう一つは、そもそもネットに資料が載っていない可能性だ。国によってネットの普及した時期は異なるが、紙媒体の資料をわざわざネットに乗せる熱意や理由がないことも考えられる。
最後に、これは前述の熱意がないことと重なるが、欧米ではそもそもブルマーに対して関心が薄いのではないか。海外にも服装に対するフェティシズムはあるようだが、何がセクシーと感じるかは国によって全然違う。ブルマーフェチの人は海外では人数が少ないのではないか。
全くの推測だが、ブルマー時代末期には、ブルマーを性的に感じるあまり盗撮する者が後を絶たなかったという。それが原因で、ますますブルマーが性的だという感覚が強まった。となると、日本でブルマーマニアが増えた理由は、個人のカメラやビデオが日本で普及した時期にも理由があるのかもしれない。
ポーランドやロシアでのブルマーについての文字情報が見つかったら掲載する。しかし、いつになるかはわからない。また、東ドイツと西ドイツとでブルマーの普及に違いがあったか。このあたりも資料が乏しいが、見つけたら公開したい。
また、今まではブルマーはほぼ紺色と思い込んでいたが、黒という記録を見つけた。白黒写真の画像しか見つからなかったケースを、再検討する必要がある。
(散々暴れ回った増田糖質がまさかの休場。このまま引退か?→【今回の幕内】)
再投稿ネタを指摘する増田。横綱のパリコレを含め複数人が存在し、微妙に仕事ぶりが異なる。
ただご存じの通りブクマカはトラバも本文も読まない上、過去の再放送ネタにも平気で釣られて伸ばすダボハゼなので、あまり意味がない。
また、彼らに対して「再投稿は正当な権利」と訴える増田や、彼らをおちょくるためにわざと再投稿を繰り返す増田などが出ており、治安維持に役立っているかどうかも疑わしい。
「人生がクールポコ状態。」なるタイトルの増田を何度も投稿している増田。当初本文はほぼ全て空で、全く意図がわからなかったが、最近は申し訳程度の文章があることも多い。
なんでもかんでも「これは私たちフェミニストの総意。」で締めようとする増田。しかもフェミニズムと全く関係のない話題がかなり多い。
政権批判を繰り返す増田。といっても内容は割とまともな方で、さすがに安倍botほどの狂気度はない。なぜかブクマ数が毎回3桁と異常なほどの多さを誇る。
こいつも旺盛な自己顕示欲の割にやることなすことひたすらつまらないクソ。Yahoo!知恵袋出身。名前は自称だが、由来はもはや本人にもわからないらしい。
回文になっていない回文から始まる増田。水曜日以外もすいすいようび。超長文だが日に二度以上の連投は行わず、概ね無害で愉快な存在。しかしあの文体とテンションは別の意味でヤバい。
「雑誌『映画秘宝』の記憶」というタイトルの、ナンバリングのついた記事で関連する人物を批判している増田。内容自体はそこまでヤバくないのだが、投稿数がすでに60近くになっている。
その名の通り寿司とギャルに情熱を燃やす増田。タヌキックマスターの生みの親でもある。特定増田にはきわめて珍しく、とにかく明るく前向きな性格。今でも稀に増田に出没する。
ここ最近は投稿が見られないものの、スパムが暴れていた頃にも一度消えて戻ってきたことがあり、現時点で引退と断定はできない。
なお、以前の投稿に「kokorohamoe」なるアカウント名が含まれていたが、この増田と同一人物かどうかは不明。当該人物によるブログは最近まで更新が続いていたが、現在は見られなくなっている。
排外主義や政治家などを理由に挙げ「ニュージーランドへの移住はおすすめしない」増田。他にもニュージーランドのあらゆる問題を指摘していた。
ただし、専門家を名乗る別の増田から内容にツッコミが入ることもあった。
増田は「何かにつけて人間性センターが表示されてうっとおしいのでやめてみた」らしく、現在はnoteに引っ越している。
俺は地球王になるのだ
圧倒的科学力があれば良い。
例えばスタートレックに出てくる反物質エンジンで反重力で不思議なレーザーで亜空間通信でフォースフィールドな兵器を作る
ホワイトハウスに横付けし降伏勧告、逆らえばズドン、天安門でもやる
うひゃひゃ
愚問だ
結婚前にドライ体得し結婚後はご無沙汰だが、今でもたまに前立腺がうずく。
ともかくセックスとは別次元の快楽を知っている俺が今更美少女集めてセックスして楽しめるわけがない。
恐らく秒で飽きるだろな。まぁいい。
凶悪犯とか集めて殺し合いさせるの。
オマエラにもダイジェストくらいは見せてやるよ。
年季が開ければ里に返してやらねばならないが、俺の性癖をペラペラ喋られても困る。ハズい。
セーラー服やブルマやスク水のコスプレさせられてケツ穴にエネマグラを挿入しアヘってる王様に陵辱された。
しかし小さくて早かった、とかとか。
仮に一ヶ月に10人の新人を入れるとしてもスタメン50人くらいで十分で
毎月10人が引退で入れ替わることになる。
50年続ければ6000人
そんなことよりも俺は命を狙われ続けるだろう。
熟睡もできない、食い物になにか入っていないかとか。
そこで考えた。
俺の心臓にセンサーを付け停止検知したら大虐殺シーケンスが作動する旨を周知する。
さしずめ人類の半数が死んじゃうくらいの。
つまり俺の突然死は世界が道連れ、暗殺など企てるバカはいないだろう。
ブラフとナメる奴もいるだろうからたまに誤作動で数億人くらい殺す。
だが考えてみりゃそこまでして地球王として君臨してなにが楽しいのだ。
普通に飲み屋の小娘と浮気したり、たまに妻には出張と偽りアナニーを楽しむので十分じゃないか。
庶民最高。
それよりもどうせ地球王として君臨するならいい人になって褒められたい。
戦争や民族、宗教の争いを無くして互いに価値観を認められるような社会を作る。
奴らは多産。
文化や経済が成熟すると少子化になるはずだがイスラムだけは増え続ける。
仮に世界から貧困撲滅、公衆衛生改善を行うとイスラム人口が爆発する。
いくら産んでも厳しい自然環境で淘汰され人口均衡する時代なら良かったが。
マズい。
そこで地球政府としては宗教の自由は保証するがイスラム教は例外的に禁止するしかない。
あと中国とインドは人口多すぎなので一度ちょっと調整する必要はあるだろう。
これくらいいい人だと寝首を襲われる心配も無い。
熟睡できる。
やめとくわ
あれだけブルマーについて調べたのだから、しばらくはブルマーに対する知的関心も収まるだろう。そう思ってはいたものの、何となくツイッターでブルマーと検索したときに、ヨーロッパの女の子のブルマー姿を目撃し、疑問が再発した(画像はこちら。フェチの人のアカウントにつき注意)。結局、東欧のブルマーの普及っていつからだったんだ?
以前の調査でも、チェコやポーランドにもブルマーが存在していることまでは調べたが、言語の壁もあり画像検索にとどまっていた。ならば、まとまった時間が取れたことだし、しっかり調べてみるべきではないだろうか。元々チェコ文化には文学や音楽を通してなじみがあることだし。ドヴォルザークいいよね。
社会主義政権下では、制服を着て体育の授業に出るのが義務であった。
体操服としての制服は、第一共和国時代(1918-1938)にはすでに一部の学校やソコル(後述)で必要とされていたが、社会主義の時代になって初めて一斉に普及し、広く統一されたものとなった。
男子は白いタンクトップに赤い短パン、女子は短い袖に青いスエットパンツだった。この強制され対象は階級のない社会主義の未来の象徴だった。これは1965年、チェコの3回目のSpartakiada(東側の体育祭、後述)のためにデザインされ、70年代から80年代にかけてが最盛期であった。1985年のSpartakiadaではチェコ国旗の三色を再現するため、赤いブルマも導入されたようだ(ここは誤訳かもしれない)。
女子の短パンはお尻の周りゴワゴワとまとわりつき、ウエストは高く、太ももにはゴムが入っていた。ブルマーによく似ているが、体育の授業のたびに太ももに跡がつくくらいきつかったという。
ちなみに、この時代の運動靴は後に普段使われたり、バレーダンサーがはくようになったりしたそうだ。のちに、ポーランドなどに輸出もされたらしい。
Jednotný cvičební úbor: noční můra děvčat za socialismu - ExtraStory
https://www.abczech.cz/Jednotny-cvicebni-ubor-P7035300.html
プラハで創設された民族的体育運動協会。現チェコの国民性の形成に重要な役割を果たしたと言われる。元々はハプスブルク家からの独立を目指す意図を持っていた。
ソコル設立の動きは他のスラヴ系民族にも波及し、1908年にスラヴ・ソコル連盟が設立された。チェコ以外にもスラヴ諸国の連盟が加入し、1912年にはプラハで全スラヴ・ソコル祭典が開催される。1926年には180,000の観客を収容可能なマスゲームの上演のためのGreat Strahov Stadiumが完成。
両大戦間にソコルはより発展するが、ソビエト連邦では活動を禁止された。ナチス下では解散させられるが、戦後協会は再建される。しかし、共産党政権下では東欧諸国のソコルは事実上活動を禁止され、協会は国外で活動を継続した。1948年にプラハで開催されたソコル祭典の集団演技には98,000人の学童と273,000の会員が参加し、2週間にわたって行われた大会の中で共産主義政権への反発が露にされた。
チェコスロバキアではソコルの活動が停止した後、社会主義的な演出を施した「Spartakiada」というマスゲームを中心とした体育大会が1955年から5年ごとに行われるようになった(後述)。
なお、もともとは同じユニフォームの着用、マスゲームの参加は過去には民族主義による開放感をもたらしていたが、関心が多様化した社会ではそれらの行為は拘束として受け止められているそうである。現に、上から国民を教育しようとしたこの運動はあまり成果が出ず、徐々に管理主義的になっていったという。民族の自由を求める戦いも、完全にクリーンというわけでもないらしい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%B3%E3%83%AB_(%E9%81%8B%E5%8B%95%E5%8D%94%E4%BC%9A)
ソビエト連邦がスポンサーになったスポーツの大会である。ソビエト連邦はもともとオリンピックに対抗し、これを補完しようとしていた。国際Spartakiadaは1928年から1937年に5度開催されたが、のちにこれは東側ブロックの国ごとのイベントになった。名前はスパルタクスから来ており、プロレタリア国際主義を象徴する。貴族的・資本主義的な(古代)オリンピックとの対比になっている。
その後、チェコでは大規模場マスゲームを指す言葉にも転用された。これは先述のGreat Strahov Stadiumで5年に一度開かれた。規模は非常に大きく、1960年は75万人が国中から参加し、200万人がイベントを目にしている。
1955年から5年ごとに開かれたが、1970年はプラハの春で中止、1990年はビロード革命で中断され、小規模な形で再開した。
1994年以降ソコル祭典は6年ごとに開かれているが、祭典のマスゲームやパレードに参加する会員の多くは過去のソコルに馴染みが深い高齢者で占められているらしい。
https://en.wikipedia.org/wiki/Spartakiad_(Czechoslovakia):title]