はてなキーワード: 留学生とは
お互い名前を知ってるレベルですら女の知り合いは片手に収まるほどしかいない
LINEに登録されているのは彼女を除くと一人。中国人の留学生だ。
彼女にはそういう女慣れしてなさそうな所が好きだと言われる
それゆえ束縛もされる
日本人にとって、直訳という言葉は「機械的に文法に沿って訳語を並べて、意味不明の訳文を作ること」といった印象が強い。意味が通じる翻訳をするには、意訳、つまり元の文を理解した上でその内容を自分の言葉で書き直す必要があると考えられている。
しかし英語で直訳を表わす"literal translation"は、そういった言葉ではない。もちろん、機械的に置き換えて意味の通じない文を作ってしまうことも言うのだが、"literal translation"は「原文に忠実である」というポジティブな側面を持っていて、formalで立派な翻訳という感覚を伴う。
それはつまり、「意訳」に良い印象がないということでもある。それは「意訳」に当たる適切な英語表現がないことでも分かる。
https://www.onehourtranslation.com/translation/blog/literal-translation-vs-conveying-sense-text
ここでは"literal translation vs. conveying the sense of the text"(直訳 vs. テキストの意味を伝えること)というタイトルになっている。日本人から見ると「"直訳 vs."と来たら『意訳』が来るに決まっているだろう」と言いたくなる。しかし、英語で意訳という言葉は、直訳とvs.出来るほどの市民権を得ていない。
英語の翻訳はフランス語やラテン語といったヨーロッパ圏の言語から知識を取り入れるために行われることが多く、ヨーロッパ圏の近縁語同士では直訳は有効な方法論だ。結果として、"literal translation"は立派でフォーマルな翻訳という意味合いが生じた。
対して、訳者が勝手に自分なりの表現を加えてしまうと、fidelity(原文に対する忠実さ)が欠けているという批判の対象になる。
たとえば、私は素人ながらアニメの英語翻訳に関わったことがあるのだが、海外のアニメオタクは意訳を嫌う。佐藤さんはSatou-san,斎藤先輩はSaitou-senpaiだし、学校の先生の敬称は英語だとMr.なのだが、犬塚先生はInuzuka-senseiだ。
たとえば、アニメのセリフに「ありえなくね?」と出てきたら、文字通り"That's impossible, right?"と訳すのが好まれ、意味を汲み取って"Are you kidding?"と訳したりすると、"over-translation"とか"liberal translation"などと言われて叩かれてしまう。日本人の私から見ると、とても理不尽に感じるが、彼らの感性はそうなっている。
この問題についてググっていたら「literal translationが良いというのは神話だ」という海外の人の意見を見つけた。これを言っているのが日本語の英訳をしている人だというのも示唆的だ。
日本では英語文献を翻訳するのが主なので、literal translation、直訳はほとんど役に立たず、ひどい翻訳の代名詞のようになっている。英語話者にとっての日本語の英訳でも同じだろう。
基本的に、英語圏でTranslationと呼ばれているものと、日本で翻訳と呼ばれているものは、行為としては似ているが、内実は全く異なっている。
英語圏で行われているのは直訳であり、我々がやっているのは意訳だ。英語圏でやっているのは文法ルールと訳語を覚えて他言語に当てはめ、原文を出来るだけ変えずに英語に直すことであるが、我々がやっているのは「他言語を(何らかの方法で)理解し、その内容を自分なりに日本語で作文する」という行為である
直訳が役に立たないということは、つまり文法ルールを覚え、日本語の訳語を覚えて適用しても、英語を理解することは出来ないということだ。
これは残酷な現実であるが、「いくつの文法ルールを覚え、何万の訳語を覚えても、英語を理解することは出来ない」
これは文法や訳語が不必要だと言っているのではない。文法や訳語はヒントにはなる。だが、答えにはならない。
はっきりいえば、ヒントを一生懸命集めて暗記しても、意味がない。文法ルールをいくつ暗記しようと、英単語の訳語をいくつ暗記しようと、それは英語力ではない。
身も蓋もない言い方になってしまうが、法則化出来ないなんらかのプロセスによって、英語を直接理解する能力。それが英語力だ。
そして直訳が出来ない、つまり英語を日本語に変換して理解するための法則が導けないという事実から分かるのは、日本語を理解している我々の脳をどういじくっても、それを英語に適用することは出来ないということだ。
それはつまり、「英語を理解するための脳の回路を、日本語とは別にゼロから構築する必要がある」ということに他ならない。赤ん坊が新しい言語を習得するときのように、何年もかけて、少しずつ脳を開発していき、英語を理解できる脳を構築していくしかないのである。
どこかの英語学習体験記で読んだことがあるのだが、「留学に行った所、フィンランドの学習者と同部屋になった。フィンランドの学習者はひたすら単語帳を眺め、英単語だけをひたすら覚えていたが、それによってあっという間に英語が出来るようになっていた。だから、私も一生懸命単語帳を眺めることにした」といったものだ。
これがつまり、直訳が可能な言語を使用している脳と、直訳できない言語を使用している脳の違いだ。欧州の人々は基本的に、母国語を理解するために使っている脳を英語向けにアレンジするだけで、英語ができるようになる。我々はそうではない。
たしかその体験記の終わりは、「一生懸命英単語を覚えた結果、留学を終える頃にはかなり英語ができるようになっていた」となっていたように思う。しかし私が声を大にして言いたいのは「それは英単語を覚えたおかげではない」
日本の英語学習界には、留学神話がある。「留学さえすれば英語は出来るようになる。留学しないといつまでたっても英語ができるようにはならない」というものだ。
もちろん留学さえすれば英語ができるようになるというのは嘘だ。それはもちろん神話でしかない。「留学して、英語を使わざるを得ない環境に自分を追い込み、一生懸命英語に取り組めば英語は出来るようになる」というのは正しいが、「留学はしたものの、日本人同士で固まって遊んでいただけで、勉強はしていない」といった生活で英語ができるようになるはずもない。実はそういう日本人留学生は数多い。
しかし「留学しなければ英語ができるようにはならない」というのは真実を突いている。
日本の英語教育に従って、文法ルールを覚え、訳語を覚え、どんなに努力を続けても、英語ができるようにはならない。留学して、日本の英語教育から離れ、ただがむしゃらに英語と格闘すれば、それだけで英語は出来るようになる。
そして「がむしゃらに英語と格闘する」ためには、留学は別に必須ではない。がむしゃらに英語の本を読む事もできるし、映画を見てもいい。海外英語フォーラムに書き込んでもいいし、Lang-8で英語で日記をつけてネイティブに添削してもらうのも、アジア圏のネイティブとスカイプ英会話をやるのも良いだろう。
がむしゃらに英語と格闘することが必要なだけだ。そしてそれ以外に英語ができるようになる方法はない。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG25H1M_V20C15A5CR0000/
全国の公立中学・高校の英語教員のうち、英検準1級以上かそれに相当する資格を取得しているのは中学で28.8%、高校で55.4%だったことが25日、文部科学省の2014年度英語教育調査で分かった。政府の教育振興基本計画は17年度までに中学で50%、高校で75%との目標を掲げている。英語教員のいっそうのレベルアップが必要な状況が浮かんだ。
高校の英語教師で英検準一級が55%、半分近くが英検準一級を持っていないということだ。準一級を持ってないということは、日本の文法・単語の暗記中心の教育をする能力すら疑問符がつく。
準一級の問題は、日本の英語教育で教えられたとおりに暗記した単語を当てはめ、文法ルールにそって直訳すれば理解出来る、日本人向けの英語もどきでしかない。それが分からないということは、英語もどきを教える資格もないということだ。
もちろん教師は聖職として尊敬されるべき存在であり、それを指揮するのは霞が関文部科学省のエリート官僚であるから、自分たちが教えているのが「実際には役に立たない英語もどきです」とは言えない。「私たちは英語がよく分かりませんし、『生徒をちゃんと英語が出来るようにしろ』と言われても出来るわけありませんよ。むしろ、そんなやり方を知っているなら教えて下さいよ」などと口が裂けても言えるはずがない。
それに対して一方では「聞き流すだけで英語がペラペラに!」とか「たった100語で英語は出来る!」とか「頻出フレーズを暗記すれば日常会話はバッチリ!」とか、英語教育界はオカルトだらけである。
もちろん商売でやってるのであるから、「がむしゃらに英語と格闘しろ、それ以外ない」などと言えるはずもないのだが、そんなことを言っていても誰も英語が出来るようにならない。なんとかならないものだろうか。
私が実践してきた、オススメの、実際はがむしゃらにやるだけの英語学習法を紹介しておく。
http://anond.hatelabo.jp/20170526220542
http://anond.hatelabo.jp/20170524213622
http://anond.hatelabo.jp/20170522214348
コメントを頂いた。本を読んでもTOEIC3000語が覚えられない、ということだった。
TOEICのリーディングは結構速読が必要なので、その実力が身につくまで、100万語ぐらい、500ページのペーパーバックを12冊分程度読まないと、普通は最後までたどり着かないんじゃないかと思う。12冊分を辞書を引きながら、単語や表現の感覚を感じ取りながら舐めるように読めば、どうやっても8000語程度の単語を感覚的に理解できる、生きた語彙力が身についてるはずだ。必要なのは暗記力ではなく、文を深く読み、英語表現の意味を感じとる力だ。記憶は忘れるけれど、感覚は忘れない。忘れたと思っていても残っていて、何度か同じ表現を見かければ、その都度感覚は強化され磨かれていく。
単語を覚えるというのは読書の途中で自動的についてくるもので、ピクニックの途中で摘める野イチゴのようなものだ。しかし英語学習者は読書というピクニックには出かけず、ピクニックの準備だけを念入りに行っているように感じている。「自分にはピクニックも難しい。ピクニックに出かけたらヤマで遭難するかもしれない。その時のために食料を買い込んでおこう」と言いながら、辛い奴隷労働をして腐りかけのイチゴを買い込んでいるように見える。ヤマに出ればいくらでもおいしい野イチゴが摘めるのに、ヤマに行っても腐ってて使い物にならない表面だけの単語知識を必死で暗記しているように感じている。これは本当によくないことだと思う。
もう一つコメントを頂いた。学習者は英英辞典はオックスフォードでなく、ロングマンをやるべき、というご意見だ。
辞書から得られるものは単語の理解ではなく、ヒントでしかない。ヒントを英語で貰っても基本的に英語学習者にはわかりにくい。英英辞典自体を読み物として楽しめないなら、英英辞典を見ても英和より効率が悪いと考えている。もちろんロングマンが読み物として楽しい、読んで頭に入りやすいという方がいるならその方が良いと思う。私はオックスフォードが読み物として楽しいので使っているが、面倒な時はウェブリオに走っている。
この記事は長文すぎて最後が切れていたので、二つに分割したものの後半部分だ。前半部分はこの記事と繋がりがあるようでないのだが、いろいろと書いた。 http://anond.hatelabo.jp/20170529095534
ネタがなくなったので、多分この増田で吠える英語考察は今回でしばらく休止するかと思います。今まで長文をご覧いただいた方、コメントを頂いた方、ありがとうございました。
フクロウ話の元増田だが、あれからしばらく鳴き声を楽しませてくれたフクロウがある日を境に居なくなってしまった。君が居なくなってから、僕は灰色の日々を過ごしている。いったい、突然現れて人の気を引いておいて挨拶もなく去るとかあんまりな仕打ちではないのか。君の事は色々調べた。人間はアオバズクと呼んでいるらしい。だがそんなことはどうでもいい。一般的な情報など何の救いにもならない。友人は「フクロウカフェに行けば会えるよ」と笑うが、そういう問題ではない。リトアニアからきた留学生アンジェリーナに恋をして祖国に帰られて傷心している学生に「ロシアンパブに行けば会えるよ」ってアドバイスする近所のおっさんみたいな雑な対応はやめて頂きたい。
君は既に相手を見つけてしまったのかもしれない。それならば幸せを祈ろう。でももし、狩場を探して転々としているだけであるなら、せめて週一回でもいい。あの森に戻ってほしい。声を聞かせてほしい。もし君がまたこちらに来てくれるなら、その時はホウ数アップも考慮する。野生の君の声が聞きたい。ぜひ前向きな検討をお願いする。
1883年6月、金玉均は自身にとって3回目の日本訪問の途についた。前回の訪日で会見した日本政府の高官は、朝鮮国王の委任状があれば借款に応ずることを示唆しており、朝鮮からの留学生尹致昊の帰国に際しても大蔵大輔の吉田清成はかさねてそのことを金玉均に伝言していた[5][注釈 2]。
しかし、高宗からあたえられた300万円の国債借り入れの委任状を持参して来日した金玉均に対する日本政府の対応は冷たかった[5]。300万円は当時の朝鮮における国家財政1年分に相当しており、日本の予算約5,000万円からしても巨額なものであった[5][7]。メレンドルフの妨害工作もあったが、日本政府としても大蔵卿松方正義が緊縮財政を進めているなか、財政力に乏しく政情も不安定な朝鮮に対し、そのような巨額な投資をおこなうべき理由は乏しかった[5][10]。金玉均は、日本についで、フランスやアメリカ合衆国からの借款工作にも失敗した[5]。
1884年5月、金玉均は失意のうちに朝鮮に帰国した。朝鮮では、以前にもまして大国清の勢力が猛威をふるい、朝鮮国の重臣たちはそれに追随し、開化派の活動はいっそうせばめられていた[5]。清とフランスの緊張関係の高まりから、5月に遼東半島に移駐することとなった呉長慶にかわって野心家の袁世凱が実権を掌握し、朝鮮王宮は彼の挙動に左右された[5]。これに危機感を覚えた金玉均らは国王高宗を動かそうと計画した[7][10]。高宗もまた閔氏の専横に心を痛め、朝鮮の将来に不安をいだいていたのである[7]。
清仏戦争の直接原因となった1884年6月23日のバクレ伏兵事件(英語版)
1884年6月、ベトナム領有を意図するフランスとベトナムでの宗主権を護持しようとする清国との間で清仏戦争が勃発した[10]。清越国境付近のバクレでの両軍衝突が引き金となったが、この戦いで劣勢に立った清国は朝鮮駐留軍の半数に相当する約1,500名を内地に移駐させた[5]。独立党は、これを好機ととらえた[10]。日本もまた、壬午軍乱以降、無為にすごした失地回復の好機とみて清国勢力の後退を歓迎した[5]。井上馨外務卿は帰国中の弁理公使竹添進一郎に訓令し、10月に漢城に帰任させた。竹添は軍乱賠償金残金の寄付を国王に持ち掛ける一方、金玉均ら独立党に近づいた[5][11]。
竹添進一郎
金玉均らは11月4日、朴泳孝邸宅に日本公使館の島村久書記官を招いて密談をおこなった。集まったのは、金玉均、朴泳孝、洪英植、徐光範、島村の5名であった[12]。そこで金玉均は島村にクーデタ計画を打ち明けているが、島村はそれに驚きもせず、むしろ速やかな決行を勧めるほどであったという[12]。かれら独立党は3つのクーデタ計画案を検討し、同年12月に開催が予定されていた「郵征局」の開庁祝賀パーティーに乗じて実行にうつす案が採用された[12][注釈 3]。金玉均は11月7日に日本公使館をおとずれ、竹添公使にクーデタ計画を打ち明け、そのとき竹添から支援の約束を得ている[12]。
金玉均は漢城駐在のイギリスとアメリカ合衆国の外交官にもクーデタ計画を相談した[12]。かれらは、金玉均のえがく理想に共感し、清国よりも日本を頼るべきことについても理解を示したが、しかし、決行については清国の軍事的優位を認めて、これに反対した[12]。金玉均はさらに、それとなく高宗にも計画の内容を伝えて伺いを立てた[12]。高宗もまた、清の軍事力を考えると不成功に終わるのではないかとの懸念を伝えたが、金玉均はこれに食い下がり、フランスと連動して動けば充分に勝機はあると訴えた[12]。高宗は、これを諒とした[12]。
しかし、クーデタに動員できる軍事力といえば、日本公使館警備の日本陸軍仙台鎮台歩兵第4連隊第1大隊第1中隊の150名と、陸軍戸山学校に留学して帰国した10数名の朝鮮人士官学生および新式軍隊の一部にすぎなかった[5]。この人数では、半減したとはいえ、なお1,500名を有する清国兵および袁世凱指揮下の朝鮮政府軍に対抗するのは無謀といってよかった[5]。
何日か前に、近くの高校で外国人留学生が日本人男子高校生を「YAKUZA」呼ばわりして激怒し、留学生を暴行する事件があったらしい。
はてな匿名ダイアリーを外国人も見ていると思うので言っておくが、「YAKUZA」は日本人に向かって軽々しく言って良い言葉ではない。むしろ、れっきとした日本人に対する最大級の差別語である。
韓国人に向かって「犬野郎」「キムチ野郎」呼ばわりするのと同じだ。
事実、彼らは厳しく法律で行動などが制限されているし、事実アメリカで言う黒人のように蛇蝎のごとく嫌われている以前に奴隷階級である。
性同一性障害で数年前に性別適合手術を受けて戸籍性も女になった。
しばらくそんなことも忘れてた折り、ふと思いつきでTwitterでキーワード検索したら、純女(業界用語で「生まれつき女性」の意)からと思しき辛いツイートがたくさん目に入った。
曰く、「生理もない妊娠・出産もできないクセに女の仲間入りして知ったような口を利くな」と。
そんなの貴女に言われなくても、皆さんと同じく思春期の頃からずっと苦しんできたよ、180度逆向きに「何で私はそれが無い側なんだ」って。
私だって、いやMtF(Male to Female,男性として生まれたが女性として生きることを選んだ人)は皆思ってるよ、「好きでこんな身体に産まれてきたんじゃない」って。それは生理とかを疎ましく思う貴女方だって同じでしょう?
私はふと思い出したよ、今いるラボでの同僚たちについて。
彼らのバックグラウンドはいろいろあるし、ここにはチャイニーズやアラブ系の留学生もいれば移民二世のホームグロウンな連中もいる。
特に風当たりが強いムスリムも、自分の意志で来てる留学生ならまだ差別的な取り扱いに耐えられるかもしれない。でも移民二世はどうだろう?
彼らはどれだけ国家に国旗に忠誠を誓ったって「あいつらはムスリムだ」ってまるでテロリスト予備軍に見られてるんだ。好きで異邦人としてここに生まれ育ったわけでもないないのに、自らのルーツとは異なる地なのにあえて信頼してきたまさにその国家に、その国民に裏切られ続けてるんだ。
私たちだって構造は多分同じなんだろう、好きでこの身体に生まれ育ったわけでもないんだ、だからこそその生まれ持ったのとは異なる性別にassimilateしてきて、でも結局は相手からまさにその生まれ持ったルーツを理由として拒絶されて。
それがどれだけ尊厳を傷つけられて屈辱的なことかわかりますか?わからないならかまわないです。私は彼らの痛みが、苦しみが、切ないほどにわかるんです。そして何もできないから、あまりに苦しくて居たたまれないんです。そうやって苦しんでる人がこうしてどこかで一人の「女」としているんだ、って皆さんに知ってくれていれば私はそれで十分です。結局は肌感覚じゃないとわからないでしょうから。
転入生だか留学生だかで、いきなり忍者学校に放り込まれていた。
もちろん、周りの生徒ができることもできやしないのだが、
「お前は今まで外で学んだことを活かせば良い」とどこかのアニメのような優しい対応を受ける。
この学校、バスに長いこと乗った先の奥地にある(という設定)で、当然ド田舎なのだが、
カフェテリアでプロテインが売っていたり、外人の先生がいたりと、妙なとこだけ現代的である。
なぜだか知らないがストーリーらしきものもあり、学校に仇なす敵との戦いと、
失われたはずの名刀が実は存在していてそれを探す、という二本立てだった。
残念ながらゲームで言うところのチュートリアルと探索の段階で目が覚めてしまったので、
日米欧、欧の中でも各国違う仕組みでシステムがまわっているのを見るけど、
なかでも日本は本当にうまく回っていない感は外から見ていても感じる。とても日本社会的な特徴がよく出ているかなとも思う。
財務省は、高齢者サポート以外の予算を一生懸命締め付けるための因縁を各省庁につけて回っているんだけど、
文科省はグローバル化とか大学改革とか、それを実施するためのお金として削られる分を取り返そうとしている。
財務省はそこに根拠を求めるから、文科省が偉い教授陣に提案とかグローバル化のロードマップとかの作成をお願いする。
すると、
> もっと偉い教授陣が集まる教授会で何が議論されているかと思えば、やれ大学改革だ、グローバル化だ、
> 大学院授業の実質化だ、オープンコースウェアだ、アクティブラーニングだ、学位プログラム化だ、
> 単位互換制度だ、デュアルディグリーだと、文科省の顔色をうかがいながら、
みたいな現象が起きる。
ただ、大学運営の方針を決めたり戦略を作ったりすること自体は世界中のどこでもやってる。
ここで、日本で一番特徴的だなと感じるのは、年功が高い人というか総合力を重視する規範がものすごく強くて、
そういったロードマップ作成を、年功の高い人だけでやろうとすること。
だいたい良い人材が腐らなければ、年々研鑽していくこともあって、
年功が高い人の方が(その組織委内での)総合力が高くなるのは当然の帰結だけど、
それでもある一点で評価すると年功の低い人でも年功の高い人を圧倒することは当然ある。
「他はだめだめなんだけど、ここは素晴らしい」という人材がいたとき、
「あいつは未だ未だ」「こういうところが足りてない」など、"欠点がない"ことを資質として求めちゃう。
結局、戦略策定とか高尚とされるお仕事は年功高い人がとるので、大学の業務リソースは変わらない中、よそ者とか若い人に、
> 生産性の低い学生(留学生含む)を手厚く面倒みながら、自分は事務書類に追われ、試験監督したり、
> クラス連絡会とかオリエンテーションとか企画して、引きこもりで出てこない学生の両親に電話相談したり、
> 大学説明会、オープンキャンパス、市民講座とかに駆り出され、はては高校訪問などの営業まで
してもらわないといけない体制が出来上がる。
長期戦略を作る方の話に戻ると、年功が高い人になると、人生の"あがり"が見えている人が自然多くて、
「10年後なんて俺には関係ない話」と口にしちゃう人がマジでいるし、
戦略策定も"欠点がないように"実施項目は並べるんだけど達成目標の議論は避ける。
「ベンチャー活用」とか実施項目は踊るけど、その帰結については書いてないでしょ?
年功高い人の会議でも同様の議論(↓)があって、これまで前述のことは本当に陳腐だと感じられるかもしれないけど、
結局のところ、地方は結局「若者」を排除して自ら衰退するですね。
さらにこういったものを作る有識者会議だと「高度な日本の技術を輸出」とか、
日本に本当に有意性があるかどうか不明なことが世界を圧倒しており、
しかも世界がそれを欲しがっているというクールジャパン前提の実行計画が立つ。
他方で、極端な例を挙げると欧州小国だと官僚組織の部長(局長の次席)に30歳ちょっとで就くことがあったりして、
そういう人にうまく仕事をさせて、組織の利益にしようという目標意識も運営側に強い。
欧米だと博士課程の学生に勤続年数5-6年のサラリーマンと同じ年収を渡して仕事をしてもらうのもよく聞く話ですよね。
日本だったら、そんな社会経験ない人に良く任せるなーって感じするよね。
でも、欧米の友人もP300くらいの研究提案書(ロードマップ)なんて作ってポジション取りに行ってるし、
どの増田が元なのか理解していない通りすがりの増田なんだけど、その通りだなと思う。一種のトラウマで、これを解消することはものすごく難しい。
私自身、昔は人そのものが嫌いで、一人が良いとずっと考えていた。今は、解決はしてはいないものの「信用できる人、できない人を見分ける努力はしよう」と思えるようになった。
どうやったか。成長するにつれ、単に沢山の人と会う羽目になっただけである。そうすると「大部分の人は怖い」と考えることはどうも不合理だな、と気づいた。そして「大部分の人は好い人であるが、中には怖い人もいる」と変わったわけだ。
一方で、外国人を身近に感じたスタート地点は大学の留学生たちだ。留学できる人なんてのは基本的にはある程度良い家庭で、良い子に育ち、優秀だ。
だから第一印象がとても良いわけだ。この刷り込み(悪い方向で受けるとトラウマ)は強烈で、そうそう覆せない。目で見て、実際に会って感じた外国人像は、テレビやネットの「悪い外国人がいるんだよ」という2次元の情報程度では「外国人はヤバイ」と変換されることはない。
しかしここで、良い人だと思っていた友人の外国人から突如裏切られたらどうだろうか。反応は人によって様々で複雑だが「みんな良い人だ」から「みんな悪い人だ」に180度転換することもある。
冷静に考えれば不合理である。しかし「良い人だと思っていた外国人に裏切られた。だったら他の外国人も裏切るに違いない」という理屈付けでその思考を正当化するだろう。
もし「怖い外国人」やら「怖い異性」やらが、自分が会って目にしたものではなく、単にネットやテレビから得た情報のみによって醸成された場合、同じくネットやテレビの情報で「良い外国人」「良い異性」を沢山見ることで解決するかもしれない。とはいえ、ネットやテレビはその特性上「良くない情報が目につきやすい」ので、テレビやネットの情報の海から一度離れる、ということも有効だと思う。
では二次元情報ではなく実際に目の前に存在する外国人から裏切られたらどうか。これは間接的に説得されても解決しない。
どうすればよいか。これは最初の例の通り「悪くない外国人」と実際に会っていくほかない。トラウマってのはやっかいで、頭で何とかしようと思ったり、人から変えなさいと言われても変えられるもんじゃない。
だからここから先は増田が「どの程度外国人について理解したいか」ということが重要になる。動機が必要なわけ。「別に外国人のことなんか知りたくない」場合、外国人にわざわざ会いたくもないだろうし、これから先も悪印象が変わることはないだろう。異性の場合はどうだろう。「別に知りたくない」というわけにもいかない、知りたいよね?(ゲス顔
「町中でとても良い異性に出会ってしまった」「めっちゃ良い外国人をネットで見かけた」という偶然は期待薄である。もし「このままではいたくない」と思うのであれば、自分自身で動く必要がある。
怖くない人か怖い人かを見分ける方法は、これまた少しずつ「怖くなさそうな人」に会って自分で学んで感じ取っていくしか方法はないのだから。
日本人男性の反応が恐ろしい
とくにバンクーバーで殺された日本人留学生の事件の時のコメントがいまだ忘れられない。
「俺らには警戒するくせに白人にホイホイ股を開くま~ん(笑)ざまあwww自業自得www」
「日本で甘やかされてるくせに『日本は男尊女卑!日本の男はクズ!』ってほざいてる日本女への当然の報い。海外の厳しさと日本の男の優しさがわかったか」
「日本女はモテる!ってホルホルしてるけど実際はイエローキャブっていってすぐヤレるって思われてるだけなんだよwwwww」
「被害者叩きガーって発狂してるま~ん(笑)この被害者は叩かれて当たり前。かわいそうにで済ませず叩いてやることで次の犠牲者を出さないようにしてやってるんだ感謝しろ」
等々…
これらを見てわかることは、彼らは中韓だけでなく欧米、および欧米に憧れる日本人(女性)をも見下していること、そして明らかに娯楽でやっている自分たちの被害者叩きが正しく、正義だと本当に思い込んでいること、そしてすごい被害者意識に駆られているということだ。
それに引き換え、事件のあった国の人々は「我が国の男が日本人に申し訳ないことをした」ととても素晴らしい(と言っても当たり前の)反応だ。
外部刺激に対して生物が反応して動くことを走性といい、てんとう虫が重力に逆らって枝を登ることを「負の走地性」と言ったり、羽虫が光源に向かって飛ぶことを「正の走光性」と言ったりする。
「正の走西性」は、先ほどテレビを見ていてたまたま今シーズンのテラスハウスがハワイでやっていることを知り、西洋へ憧れる日本人を揶揄して私が勝手に思いついた言葉である。
しかし、なかなか良くできたコンテンツだと思ったのである。もちろん番組の内容が良いという意味で言っている訳じゃあない。純ジャパ(純粋な日本人)が少なからず抱いている西洋への憧れを絶妙に突いてくるな〜と思ったのだ。
これまでのテラスハウスは国内で撮影されていたようだが、今回の舞台は海外で、しかも日本人にとって近くて遠い、想像がギリギリまだ及ぶ範囲で、画になりやすい南国ハワイというのが絶妙なチョイスでやるなと感じた。
国内では表現できなかった非日常がハワイにはあり、それがまた視聴者の憧れを強いものとすると思う。ファーマーズマーケットでフレッシュなフルーツを食うとか。
キャストも全員?ハーフで英語ペラペラ。ウェーイ系の人間が憧れる日本語の中に英語を織り交ぜて話すあの感じ。欧米かぶれの純ジャパ留学生がみんなやるやつ。
その中にも女慣れしてないけどギターが超絶うまいとかいうキャラもいて、モテない男も微妙に自分を重ねつつ妄想ができる。「自分がああなりたい」と「あんな人を相手に恋愛がしたい」のどちらの面から見ても、若い視聴者の憧憬・妄想をこれまで以上に強く掻き立てていることと思う。