はてなキーワード: 死体とは
防護服着て、農薬射出マシン持って、背中にはタンクに入った大量の農薬をくくりつけてさ 腰には最期の近接戦闘用の刀だな
雲のようにたわめき蠢動するバッタの群れに雄叫びをあげながら突っ込むわけですよ ウオオーッ農薬射出ッ!!!!死ねえええええッッバッタどもッ!!!!!つってさ
そして無我夢中で農薬を撃ち終えたら刀を抜くわけ 男の戦いは古来肉弾戦闘で終わるものだ
そこから先はもう千切っては投げ千切っては投げ、八面六臂・快刀乱麻の大立ち回りよ
一振りで100の蝗を断ち、返す刀の巻き起こす風がさらに200を斬り捨てる そういう域の戦いだ 「払えばまたも寄せ来たり、寄すればまたも斬りまくり」ってやつですね
しかしあの歌はこう続くんだ 「剛は鬼神を挫けども 我の寡勢を如何にせん」
その通り 100万の悪辣な蝗を前に、俺はたったの一人 体力は尽き、身体の節々が悲鳴をあげているのに、目の前には減った気がしない雲霞のごとき蟲の群れ 毒殺し斬殺した死骸の上にもすぐに新しい蝗がたかる始末で、何匹殺したかさえもはっきりしない
俺は慟哭するんだ 一人の人間では蝗害に勝てないことを思い知ってね そして、ならば俺をも喰らうがいいさとばかりにそこに倒れ込む 死体が下敷きになって気持ちが悪いが、そんなことはもはや気にならなくて、疲れのあまり気がつくと眠り込んでしまう
目を覚ますとそこにはただ無数の死骸が転がるばかりで、蝗どもはもう去っている 何もなかったみたいに空が青いのが無性に悔しくて、俺は防護服を脱ぎ捨てながらまた叫ぶ、って寸法だ
新型コロナウィルスが世界的に流行してもう3か月が過ぎたが、アメリカ、ブラジル、ドイツとか感染拡大し続けてる国はいつになったら学習するのだろうか?
マスク着用、手洗い、うがい、ソーシャルディスタンスとか、感染拡大を防ぐ方法とか、Withコロナの生き方ってある程度確立されてきてて、感染縮小してる国から新たな生活様式を学べば良いのに、あと何万人死ねば理解するんだろうか?
個人の権利ばかりかざす個人主義の国から順番に滅んでいくんだろうか?経済活動を優先した結果、国全体としてどうなるか自明の理なのに、デモだの声明だのを繰り返して自ら死滅するつもりなのだろうか?
日本が感染拡大を防げてるのは個人より集団を優先しようとする個々人の意識によるものが大きい。
こういった個々人の意識とか国の在り方は3か月程度じゃ変えられないんだろうか?
私の父は世界一不器用でだめで、それでも脆いほどに優しい人だと私は知っている。
眼力が強く、冗談も言わない、笑わない、話しかけても会話は返ってこない、それから1度怒ると暴れ出し、弟と私をよく殴った。社会で上手く馴染めず仕事から帰る度に私たちに八つ当たりはザラで
自身の父ながら、父の家族や兄弟に友人、父の昔話や人となりの話も聞かされたことはなく、親父の趣味や好みも年齢もどこ出身であるかも小学六年生になるまで知らない、そんな未知な父親であったように思う。
仕事で家に帰ってくる事が少なく、また学校行事には来た事がない。親子の関係は冷え切っていた。
だが小学六年生のある日、とうとう母親に父親ってどんな人って思い切って聞いてみた。
父親=触れてはいけないもの、と思っていた私としてはかなり思い切った問い掛けである。
「おまえの父さんはな、親に捨てられて学校にも行かせてもらえず、橋の下で生活してた野生児やった」
と今ではありえない、漫画のような事を聞かされた。
最終学歴は中卒だが、厳密に言うと小卒レベルの学力で大人になってしまった子供だった、と母親は物思いに耽りながら答えてくれた。
借金を苦にした実の母親に捨てられ、近所の人に助けてもらうまで
アパートの一室で1人、それから大量のウサギ、犬、ネコ、ニワトリ、虫また、動物の腐乱死体(なぜ動物に囲まれていたかについては謎らしい)と共に糞尿にまみれ、
非常に飢えた状態で救出された後、施設から逃走し橋の下で半ば野生児のように生きたと父親談。
だがその後また施設に保護され、やがて青年になり父親は作業員として働いていた中今の母親と出会う。
母親は当時の親父とデートしてびっくりしたことが、まず服のセンスが壊滅的だったこと、また箸の持ち方やテーブルマナーが人並み以下だったこと、自分の名前すら書けず足し算レベルの計算もできず、学が無いため給料もちょろまかされている、感情の起伏が激しく癇癪をすぐ起こし警察沙汰になる といった親父の境遇と環境に、こいつを人間らしくしなければいけない と母親は強く感じたらしい。
いままで学と無縁だった親父の躾に苦労しながら、なんとか識字や計算、一般常識を覚えさせる事ができた所で、私が生まれたとの事。
私が産まれた時、滅多に泣かない(感情が乏しい)親父が泣いて私を抱き上げたのだ、と母親に聞かされた時、あの親父があの親父が泣いて喜んだのか、とかなりショックを受けた事を思い出す。
懸命に親父が母親のスパルタ指導で様々な事を覚える中、どうしても親父が理解できなかったものがある。
いままで誰にも愛されたことも無く、実の親に育てられず、人を愛せたことも無い人間であったため、私が生まれて嬉しいことは嬉しいがどう愛していいかが分からないままであったとのこと。
小さい赤子を触れることさえも怖くなり、ある日とうとう赤子の私を床に落としてしまった事から、私が小学生になるまで私に触れることも話すことも、関わることもできなくなったのではないか と母親が打ち明けてくれた事で、いままでの親父の素っ気なさと距離に対する違和感が繋がったような気がした。
親父の社会に馴染めなさ、おぼつかない字の書き方、下手な話し方、魚を食べるのが下手なところ、情緒不安定なところ、すぐ殴るところ 全てが親父の生い立ちに起因するもので、それらは未だに勉強中であるものだと分かった瞬間、親父にもっと関わろうと思えたのだ。
ある日親父に授業参観きてよ、って言うと親父の元々大きい眼が更に開き、びっくりしたように「行ってもええんか」と呟いた。
授業参観の日、仕事抜け出して泥だらけの作業着で見に来てくれた時は泣きそうになった。おやじも照れてて泣きそうになってた。
元々絵が得意な私に、普段の拙い落書きでも絵で賞を取っても「お父さん才能ないからなぁ、おまえ凄いな」と手放しで褒めてくれたこと。
繰り返していた自殺未遂と、シンナー吸引をやめて前向きになってくれたこと
「おまえ、これ好きやろ」と、好きな漫画のキャラが使う武器を木材で本物同様に作ってくれたこと。(親父は不器用だが、手先や工作に関しては神がかり)
「寒いやろ」と手袋を無けなしの小遣いで買ってくれたが、もう中学生なのにどれみちゃんの小さくダサい手袋を買ってきたこと、
夏休みの工作を手伝ってくれるが、完成度が高すぎて親父が作ったという事がバレバレなこと、
私が生まれてからも勉学でかなりつまづいていたが、とうとう一級建築士の資格を取得できるまでに努力してきたこと、
子供の私達にはしつけを厳しくしてくれたこと、またどんな人にも優しくするようにおしえてくれたこと、
冗談が言えるようになり、人付き合いも上手く行き部下に慕われるようになったこと、
箸の使い方も魚の食べ方も綺麗になったこと、穏やかになったこと
私が大学に行き、一人暮らしすることになった時、涙を堪えようとするけど鼻水垂らしながら号泣して見送ってくれたこと、
バイクの修理まで手伝ってくれること、
あの頃歩み寄って親父の事を聞いてよかったなって思います。
あの頃逃げてばっかだったおやじも、私と向き合ってくれたからここまで分かり合えたのかなっておもう。
たまにバカで雑でアホだけど、努力してきた親父は不器用だけど世界一優しいと私は知っている。
国際刑務所研究センターによると、2018年初頭のアメリカの人口は3億2700万人であるのに対し、世界人口は74億人。
一方、世界の囚人1020万人に対してアメリカの囚人は224万人であるという。
これだけを聞くと多いようにも聞こえる。
だが一方で、日本の刑務所に収容されている人数は約5万人である。
日本の人口1億2650万人に対し、アメリカの人口3億2700万人は2.58倍である。
また、2017年実績で、人口10万人あたり殺人被害者数は、日本が0.24人であるのに対してアメリカは5.32人で22倍の差がある。
犯罪はどこまでが成立するか、どこまで警察が取り締まるかのラインがまちまちであるが、流石に先進国の警察が死体を見つけても捜査しないことは考えづらく、個別にはミスで見落とした事例はあるだろうが先進国ならば暗数は極めて少ないと考えられる。
他の犯罪も殺人に正比例して増減すると仮定するならば、アメリカの囚人は日本の56倍くらいいても不思議ではない。つまり280万人程度まではあり得る数字である。
ちなみに人口10万人あたり殺人被害者は、日本が極端に少ないのは事実ながら、アメリカ以外の西側先進国は多い国でもカナダ(1.80)、ベルギー(1.69)、フランス(1.27)、デンマーク(1.24)、イギリス(1.20)、スウェーデン(1.18)であり、
ドイツ(0.98)、イタリア(0.66)、スペイン(0.66)、韓国(0.59)、スイス(0.53)、シンガポール(0.19)なども含めたらいかにアメリカが突出しているか分かる。
横だが、努力は報われるし、絶対に守る気持ちとかさらっと言えちゃうってのが、体制はボロボロだが根性でなんとかなるししろっていう日本型ネオリベに見えるんじゃないか?
むしろ周りの救いはなにもないが、自己責任で根性でなんとかしろ!というのがこの30年だった。
バブルが崩壊して、企業が保身に入り金の周りが致命的に悪くなり設備研究投資もしないから産業も劣化しつつある。
じゃあお偉方は何をしたかというと、特に頭の足りないやつを起業だーポスドクだーイノベーションだ根性だーといって煽り、しばき倒すだけ。
起業やアカデミック周りには大量の死体の山が築かれている。こんな日本のもとでは手堅く確実に金を得られ、自分のみを守れる道を選ぶのが正解だと言える。
そこで夢みたいなことを言うから、中身のない空虚な夢を叫び危ない道を歩むということで日本型ネオリベと言われたような気がする。
クソデカ羅生門:トチ狂ったクソデカさを誇る門。正気を疑うレベルでデカい、というかガチで世界一デカい。碌に修理もされず、ボロボロに荒れ果てた結果、クソヤバい狐狸や世界最強の盗人(六万人)が棲み着くようになったり、死体が超スピードで積み上がるようになってしまった。
下人:下人というからには、どこぞの使用人に違いあるまい。最近、主人にクビにされたらしく、激烈豪雨の中行きどころも無く、クソデカ羅生門で超途方にくれているが・・・
ブッサイクで気持ちの悪い顔だが、清廉潔白超高潔にして、ありとあらゆる悪を世界一憎む心を持ち、最強正義を体現する男の中の男。その一方で腐った性根と史上空前に邪悪な心を兼ね備えている。大馬鹿で学がなく、クソアホ。七十二時間ほど呼吸をするのを忘れても生きていける。三千里(約一万二千米)飛び上がる跳躍力を持つ。韋駄天の異名を持つ。足は丸太のように太い。腹が減っている。天下無双にして無敵。最強下人。後に剣聖と呼ばれる。身長・体重は不明。
京都:魔都上海、大淫婦バビロン、冥府の首府パンデモニウムを超える世界最悪の罪の都にして、最低最悪のゴミの掃き溜め。超巨大地震とか破壊的辻風とか最強大火事とか極限饑饉とか云うエグすぎる災が、ここ二、三千年ほど毎日起こった結果、いまいち俺の貧弱極まりない言語能力では到底形容しきれないくらい荒れ果てた。しかしながら、クソ治安がいい。あと、クソ広い。
鴉:鳥類。超凶悪。クソデカ羅生門周辺に億単位で沢山集まってくる割には、いつの間にか数万羽に減っている。超凶悪。鼓膜破壊レベルの音量で啼きながら亜音速で飛び回る。超凶悪。死人(サイズ不明)の肉を、気が狂ったように啄みまくり、えげつなく臭い糞を垂れる。超凶悪。
主人:下人の主人。クッソ強い。えげつなくデカい家に住む。下人を永年犬のごとくこき使ってきたが、ある日突然解雇する。下人とどっちが強いかは不明。
巨大人食い蜘蛛:昆虫ではない。クソデカ羅生門の天井裏に巣をかけて暮らしている。
老婆:クソデカ羅生門の住人。最低最悪醜悪人間。檜皮色のクッソ汚れたきたならしい着物を着ており、ノミのように背が低く、ナナフシのように痩せこけ、髪はびっくりするほど短い白銀色の、豆猿のようなクソババア。超赤くなった瞼と、凶暴肉食最恐鳥のような、めちゃくちゃ鋭い眼がチャームポイント。極細喉で、針のように尖った喉仏を動かしつつ、ほとんど、鼻と一つになったタラコ唇から、凶鴉の啼くような実に聴くにも堪えない冒涜的な汚い声を発する。神速の動きで下人を翻弄する。
※檜皮色:ひわだいろ。焦げ茶に近い暗い赤色。
髪を抜かれた女:死んでる。生前は傾国の美女と讃えられるまでの美貌を誇り、八岐大蛇を四寸ばかりずつ切り刻む程度の能力を持っていたらしい。原型を想像できない程ぶつ切りにした干八岐大蛇を干巨大怪魚と偽って太刀帯の陣やらそのへんやらに売りまくる。大疫病に四回かかっても死なない程度の超絶免疫力・抵抗力を持つが、とうとう五回目で儚くも死ぬ。死後、クッソ哀れにもそのバカ長い髪を一万本ずつ見ず知らずの極悪クソババアに抜かれるハメになる。なお、髪は巨大鬘の原料として有効活用される模様。
ところで、作者(本記事執筆者)はさっき(五万行ほど前)「Supreme Dragon Slayerにして傾国の美女」と書いた。しかし、それはクソバカ珍妙男がクソデカ羅生門の中に広がるクッソ空虚な宇宙的暗がり、いわばダークマター(暗黒物質)の中でクッソ長い髪をした巨死骸をおぼろげにも傾国の美女と思い込んだだけで、クッソ長い髪=女、女=傾国の美女、したがってクッソ長い髪=傾国の美女というクソアホ三段論法を駆使して生み出された偶像(アイドル)かもしれないのだ。起きがけの頭で冷静に考えてみると、そもそも女ではない可能性すらある。
※太刀帯の陣:たちはきのじん。東宮坊の武官(皇太子を警備する公務員)である帯刀舎人(たちはきのとねり)が、御所を警備するための詰所。
作者:『クソデカ羅生門』の作者。控えめに言って天才もしくは狂人。その行方は俺含め、マジで誰も知らない。原作の構成をメタクソにぶっ壊してない辺り、芥川龍之介と『羅生門』への極限までに強い、ハチャメチャに妄執じみたリスペクトをそこはかとなく感じられる気がしないでもない。
芥川龍之介:『羅生門』の作者。日本の小説家。1892(明治25)~1927(昭和2)。芥川賞は、直木賞と並んで有名な日本の文学賞。
https://anond.hatelabo.jp/20200611020005
ワイも、いや、ワイは、
『ネコしんでる!』『ウワーしんでる!』とギャーギャー騒ぐ妻と娘からの失業中の男に向ける視線のみの要請で、ウチの裏庭の、浴室の窓の下にナゼかワザワザ死んでくれた名も知らぬ猫の死体を、(ほな明日朝ちょうど生ゴミ回収の曜日やから家のに混ぜこんで出しそうでとくわ)とやはり無言の諦めと共に勝手に了承して、盛夏の気温の上がる前の早朝だが汗だくで、二重にしたゴミ袋を両腕で拡げ、倒れている死体の下の土ごと持ち上げ、先に集めておいた家庭ゴミの袋の中に上から放りこんだ。
四肢をぴんと突っ張って伸ばしたままで固まった死体は、針金と鋳物でできた剥製みたいな物を連想するくらい、ガッチリと固く重たかった。
・・・ナンマンダブを口の中で呟いたくらいで何の弔いもせず、騒がなかった(死体に気づいていなかった?)息子に後日ちょっとこぼしたくらいで、だれにもどうしたかは言わず、何かあったら自分だけに降りかかるようにしたかったし、覚えていると祟られそうに思ったので、なるべく忘れようともしたのだが。
この世界の人間は二つに分けられる。死んだ猫の重みを知っている人とそうでない人である。
数年来の友人に向けてこの文章を書いている。あるいは、見せずにしまっておくかもしれないけれど。
この話を始める前にまず記憶というものについて書いておきたい。人間にも二種類いるように、記憶もまた二つに大別できる。つまり、忘れても思い出せる記憶と、忘れてしまったきり思い出せなくなる記憶である。
記憶というものは原理的に忘却の可能性を含んでいて、それがどんな尊い記憶であれ、厳然と忘れられうるのである。とは言え、尊い記憶は大体忘れた後でも思い出せるのだ。
例えばそれは親愛なる友人に関する記憶だったり、あるいは情愛を抱いた誰かに対する記憶だったり――そういう類の記憶だ。
これから話す記憶は、恐らく後者に分類されるものである。死んだ猫の重みに関する記憶は、恐らくは一度忘れてしまえば二度と思い出せない記憶である。つまり、その記憶は僕の人生においてそこまで重要な記憶ではないということになる。
タフな人生を生きようとする人間の功罪の常で、僕は重要な記憶とそうでない記憶を峻別することができる。多くの場合その判断は極めて正確だ。
僕は自分にとって重要な物事とそうでない物事を多くの場合峻別できると思っているし、何よりも、自分にとって重要な人間とそうでない人間を峻別できると思っている。そこが功罪なのである。人間は自分にとって重要な人間とそうでない人間を並置し、比較し、時に冷徹に判断する。いざという時に切り捨てることのできる人物と、そうでない人物を頭の中の整理棚に分類する傾向がある。とは言え僕は冷酷な人間を自認してる訳ではなくて、基本的に分け隔てなく親切に接することをモットーにしてるのだけれど。それでも、自分にとって大切な人物とそうでない人物は分けて考えなくてはならないと考えている。
さて、そんなこんなでこの記憶は恐らく僕の人生においてそこまで重要な記憶ではないと、僕ははっきりと峻別している。
大した記憶ではない。道の真ん中で白い猫が轢かれていた。静かな初夏の日和だった。
その肉体の損傷は一見して分からないが、恐らく内臓が酷く傷ついたのであろう、鮮血が周囲には広がり、血溜まりを作っている。既に絶命している。絶命してからどれくらい時間が経ったのだろう? 正確なところは分からないのだけれど、多分一時間と経ってはいるまい。白い猫はまだ綺麗だった。制限速度の高くない、幹線道路から外れた細い道路だったことが幸いしたと見え、多くの車はゆっくりと車を走らせていた。つまり、道路の真ん中で横たわる猫を、更に醜く変形させる前に、彼らはハンドルを切ることができたのだ。
猫は口と目を半開きにしていた。その筋肉の運動はとっくに停止している。
僕は当時学生で、自宅への帰路にあった。青々と晴れた日だった。白い猫の横を通り過ぎる時、僕は猫のことを横目で見た。
猫のことしか頭になかった。アパートからその猫のいる場所までは数百メートルの距離があって、僕はあらゆる意味で当事者ではなかったにも関わらず保健所に連絡をした。住所をある程度正確に伝えて、電話を切った後にキッチン棚を漁り、そこから掃除用のポリエチレン製手袋を取り出した。
再び自転車に乗って猫のところに向かった。数百メートルの距離。時間はそれほど掛からず、辿り着いた時には猫は最初のままの姿勢を保っていた。相変わらず見える範囲には傷一つなかった。
僕は歩道に自転車を停めて、車列(鮮血を目の当たりにし、おっかなびっくりハンドルを切って迂回する車列)が十分に途切れたタイミングを見計らって、猫のところに駆け寄った。それで、僕は猫の脚を掴んで、車に引かれる心配のない路端へと引きずった。
そう、引きずったのである。
抱きかかえた訳ではない。単に引きずったのだ。鮮血が道路に擦れて跡を作った。
猫は筋肉が弛緩した所為か失禁――脱糞していて、その茶色の飛沫がポリエチレンの手袋に付着した。
そこには愛情は無い。僕の人生に残留するべき温かい思念というものは存在していない。
だから、この記憶は決して僕の中に残留し続けることはないだろう。人生のいずれかのタイミングで忘却され、その後決して思い出されることはないだろう。
僕は猫にそれ以上傷ついてほしくなかっただけである。
猫が道路の上でぐしゃぐしゃになっている姿を見たくなかっただけである。
ある種の同情みたいなものはあった。でも、それは決して愛情ではない。僕は見ず知らずの猫に、しかも既に生命の無い猫に、愛情を抱ける類の人間ではない。
僕は猫を引きずって、車に傷つけられる心配の無いように、路側帯の辺りまで移動させると、手を離した。そして、そのまま保健所の車がやって来るのを待ち続けた。
初夏の晴れた静かな日和である。時折、眼前を通り過ぎる車の運転手がギョッとした顔で、猫と道路の中間辺りから続く血痕を見遣るだけである。僕は猫から少しだけ距離を空けて、偶に、盗み見るように視線を向けた。本来の当事者である近所の主婦達が歩道で、遠巻きに何かを話している。さっきの僕の行動を彼女らは全て見ていた。
やがて、彼女らの内の一人の若い主婦が僕のところにやって来て、保健所には一応連絡したんです、と言った。僕は短く返事をした。
彼女は元の場所に戻っていって、相変わらず主婦達と何かを喋っていた。僕は、その場で保健所の到着を待ち続けた。
やがてやって来たのは、ゴミ処理車であった。内部に回転する鉄塊こそなかったものの、それは紛れもなくゴミ収集車であった。
この後の描写についてはあっさりしたもので、その車中からスタッフが二名降りてきて、主婦らに挨拶をした後に黒いビニール袋を広げ、手早く猫をその中に入れた。そして、車両の収集スペースにその袋を入れると、瞬く間にその場から去っていった。
僕はそれを見届けた時にやけに安心したのを覚えている。これで、道路の上にもんじゃ焼きのような物体が出現する可能性はなくなったのだと、そう考えていた。僕はそのまま自宅に戻り、猫の糞の付着したポリエチレンの手袋を処理した後で、日常のルーチンに戻っていった。
多分、この記憶は僕の人生に残留することはないと思う。単純に、この話の主旨は、僕が猫の死体の重みを知っているという、そのことを主張する他にない。教訓と呼ぶべきものはそこにはない。
しかし僕自身にとっては多少の教訓と呼ぶべきものはある(どっちだよ)。
多くの場合、我々の性向とか心の働きのバイタル部分に作用するのは、僕がここまで延々と語った記憶の類ではなく、誰かへの愛情の記憶であり、誰かからの愛情の記憶である。
そういうものを欠くと、我々のバイタル部分は鈍化する。必要以上に鈍化し、何らかの問題を引き起こさずにはいられなくなる。記憶というものを二種類に大別した時に、我々の性向に最も強く、最も好影響を与えるのは、明らかに「思い出しうる」方の記憶だ。そのことに疑いはない。
とは言え、最近の僕は少しだけその考え方を改めることになった。
これまで僕が延々と語ったこの記憶は、凡そ間違いなく僕によって忘れ去られるだろう。そして、二度と思い出されることはないだろう。このテの予想が外れることは僕に限ってまずあり得ない。この記憶は僕のバイタルとは無関係なのだ。この記憶によって僕が行動を規定されたり、何らかの関連行動に走るということは――この文章を書いていることを除けば――まずあり得ない。僕にはそのことが手に取るように分かる。
でも、と思うのだ。
この記憶は、翻って言えば、忘れられるまでは僕の記憶に残り続ける(トートロジー的な文章だ)。僕は、そのことに少しだけ意義を感じてしまいそうになるのだ。
記憶には二種類ある。忘れられた後に思い出しうる記憶と、そうでない記憶である。前者に比べれば、この世の中においては後者の記憶の方が圧倒的に多い。この世界の殆どの記憶は後者、つまり他愛のない記憶によって構成されていると言っていい。それらは例外なく忘れ去られる運命の途上にある。
それでも、と僕は思う。
その記憶は、忘れ去られるそのタイミングまで、じっと待っている。
僕の記憶の中で息をしている。
猫の視線の色を、僕は今のところ忘れていない。奇妙に硬直した、黄色い瞳。
多分、僕の記憶の中に、未だ留まっているところの猫は、待っているのだろうと思う。
僕が猫のことを忘れ去るその時を。
じっと、誠実に、待っているのではないかとそう思うのだ。
絵とかではすげえ見るけど夕方に海行ったことない。そもそも海に全然行かない。眩しそう
ゲームやってるとかなりよく使うけど、西洋の真剣って生で見たことない
地味に人が死ぬとこ見たことない。祖父母の死体は葬式で見たけどあくまで死体だしノーカン
ブダペストの動物園でコモドオオトカゲ見たけど全然ドラゴン感なかった
Wikipediaには「福岡市香椎の海岸で発見された男女の情死体に疑問を持った2人の刑事の事件捜査を活写し、F・W・クロフツらによって確立されたアリバイ崩しのスタイルを継承したミステリー長編。著者の最初の長編推理小説であり、松本清張ブームを巻き起こした作品である。」とある。
今から30年前、すでに、「点と線」は松本清張の傑作と言われ、映画化などもされていたが俺はそもそもミステリーが好きではなく、まったく読む気はなかった。
食わず嫌いはよくないと思い、いよいよ読み始めた。するとこれがなかなか面白い。
ただ、途中で、「これって飛行機使えば、アリバイ崩れるんじゃないかな?」とちょっと引っかかったが、「まあ、飛行機がない時代背景なんだろうな」と、ワクワクしながら読み進める。
ところが、「あ! 飛行機を使ったのか! それなら間に合うぞ!」というトンデモ展開。
そんな俺におすすめのミステリーを教えてほしい。新コロナのせいで、読みたい本がなくなってしまったんだ。
シャーロック・ホームズとか、アガサ・クリスティーの作品は、なんとなく話の筋を知っているので、勘弁。
彼は名前が思想に反して極右的だしアイコンの写真の人物は有名な(親に殺された)ネトウヨなんでアカウントの存在そのものに敵を揶揄する意図があるんだろうが、はてサ=反差別の立場にありながら、こどおじだから差別していいし敵の死体だから雑に扱って敵に対する攻撃に使っていいって考えだろうか。
それではてサ達からも普段よくスターをもらってるので敵を効果的に攻撃できれば死者の冒涜もオッケーとみんな考えてるってことでいいんだろうか。
臭い。と帰宅した妻に言われてキッチンを探すが、臭いの発生源は見つからない。三角コーナーではピーマンのへたが萎びているだけだ。排水口は昨夜掃除したばかりで、念のために開けるとヌメリはない。
ゴミ箱は午後の陽気に蒸れて臭い始めていたが、不意に鼻をつく甘い腐臭が本当にここから発しているのか、蓋の隙間から中を嗅いでみても確信が持てない。
ちょっといい加減にしてよ、これじゃ晩ご飯食べる気にもならない。向こうの部屋で着替える妻からクレームが飛んでくる。そこらじゅうをひっくり返しても、動物の腐乱死体のような臭いの発生源はわからない。
まさか、と思い、サンダルをつっかけて玄関から外に出る。マンションの共用通路を歩きながらそれとなく各戸の前で鼻から息を吸うが、恐れていた臭いはしない。
部屋に戻ると、妻はこちらを見ようともせず無言で片付けをしている。
さっき探したよ、と言い終わる前にいいから探して臭いの、と叩きつけられる。
言われてみると、臭いかもしれない。
ゴミ箱の蓋を外すと、例の臭いが立ち昇る。中に手を入れて探ると、あった。小さなレジ袋を縛ったものから、むせかえるような腐臭がしている。
袋の中身は、一昨日のお昼に食べた甘エビの尻尾だ。毎日1時を過ぎるとスーパーの惣菜コーナーで寿司に値引シールがつく。最近知ってからその時間帯に買いに行っている。
「なにそれ」
「え、エビ」
「なんでエビがそこで腐ってるの」
あなたが出勤した後、私は昼下がりに割引の寿司パックを買いに出てお得感に浸っていたのだよ。とは言えない。
季節を考えずに痕跡を残したのはまずかった。どれほど小さくても肉片は肉片で、暖かくなった途端に腐り始めたのだ。
緊急事態宣言が出てから私は在宅勤務となったが、妻は千代田線で通勤した。朝、私の顔を見ると彼女はマスクの奥からため息をついて出て行った。毎日、毎日、マスクすらしていない乗客もいる電車に詰め込まれて、感染の恐怖に怯えながら、町屋から赤坂までの距離がどれほど長く感じられるか、家にいるお前にわかるか。面と向かってそんなふうに言われることはなかったが、気まずかった。
悪いのは私なのだろうか。お前の健康が大事だから、今は仕事になんか行くな、減った収入はおれが稼ぐから気にするな、とでも言えばよかったのだろうか。言ったとしても、ようやく正社員で転職した仕事を辞めるのに彼女は同意しただろうか。
いや、一日働いて、疲れて帰ってきたら家じゅうが腐臭に満ちていたことへの説明が今は必要だったか。そういうものはどこかにあったか。そもそも可能か。
「鼻がもげそうなんだけど。こんなに臭いのに、一日中家にいてなんで気づかないの。ほんっと無神経だよね。おかしいんじゃないの」
彼女は勢いよく窓を開ける。
ずっと家にいるからこそ鼻が慣れて臭いに気づかないのだが、指摘するとますます怒りを買うだけなので、謝罪して一階のゴミ置き場まで袋を捨てに行く。
夕食はレンジでチンするだけでいい。だいたい午後、作業と会議の合間に作る。毎日、私が夕食を用意しておくことがいつの間にか暗黙に期待されていた。在宅勤務は座りっぱなしだと身体がつらくなってくる。ちょっと頻繁すぎるくらいに立ち上がって、野菜を切ったり鍋の火加減を見たりするくらいの方が、疲れが溜まらない。だからこれはこれでよいのだろう。
妻は無言で酢豚をつついている。適切な話題。腐臭を打ち消す、賑やかな話題。
運動不足解消のため、夕食後は隅田川沿いを走ることにしている。馬頭観音を過ぎて尾久の原公園まで来ると、夜は人気がなく暗い。対岸の足立区に建つマンションの灯りだけが黒い川面に揺れている。
走りながら、レジ袋の中で腐っていた甘エビのこと、こちらを向かない妻の背中を思う。もうだめなのだ。一時しのぎは。暑くなると、あらゆるものが腐りはじめる。エビも、人間関係も。いや、あらかじめ茹でたエビならどうか。ちらし寿司にのっている薄い車海老のような。明日はちらし寿司にしようか。そうだ、それがいい。1時過ぎまで売れ残っていれば。
倉庫では犬を飼っていた。
しかし、倉庫に行く用事がなく犬のことは気掛かりではあったが放置していた。
暫く振りに倉庫に行くと犬は餓死していて、その体は半分溶けていた。
どうすればいいのだろう。
悩みながらも始末することができず放置した。
以来、俺の後を馬がついて来るようになった。
自分は少し強迫性があって、外出の際に火の始末や家の戸締りをきちんとやったという確信はあるものの、心のどこかでその確信に自信が持てないでいて何度も確認せずにおれなくなる。
この夢も、倉庫を借りたことなどないし、犬など飼ってなどいないのだけれど、なぜか自信が持てずにいて、本当は倉庫を借りて犬を飼っていたのではないかという気持ちが心の底に残っている。
鳥葬なつかしい。数年前にはてなブログでチベット現地で鳥葬を見た人が大量に写真あげて印象に残ってる。
でもあれをみて美しいとは思ったけど、カタルシスはなかったな。だってすでに死んでる人の葬式だし。
久しぶりに探してみたけど、当時見た時よりもあっさりしてるな(でも普通に死体のってるから見るのは自己責任でね)
「小児性愛も、動物性愛も、死体性愛も、誰にも迷惑をかけない限り普通の人と変わらない。LGBTを排除してきた歴史を繰り返してはいけない」という言明は時に必要だろう。人間は歴史から学ぶことができるのだから、何も0から理論組み立て始める必要はなく、類似した歴史に習うのは人間として当たり前の営みだ。そこにLGBTを持ち出したからと言って、決してLGBT差別にはならない。
しかし「LGBTなんて、小児性愛とか、動物性愛とか、死体性愛と変わらないだろう」という言明は、ただのLGBT差別でしかない。これを否定することは、決して小児性愛や、動物性愛や、死体性愛を差別することにはならない。形式的な論理構造が同じでも、「それによって言いたいこと」がまるで違う。そこに載せようとしている社会文脈がまるで違う。
一部の人々の間で、小児性愛、動物性愛、死体性愛をまとめて「PZN」と呼ぶことが流行っているらしいが、それは全く推奨できない。「PZNだって、LGBTと同じだ」という言明は、一見すると前者のようにも見えるが、これははっきりと後者だからだ。なぜなら、「LGBTPZN」という言葉そのものが、LGBT排除のための長い歴史の中で生み出された「人工的な差別用語」だからだ。これの恐ろしいところは、「元からあった言葉が、差別的に使われ始めた」用語ではないという点にある。この言葉は「LGBTを排除する」というただ一点に特化した言葉であり、100%が差別意識の塊だ。このような文脈を持つ言葉を擁護することはできないし、知らなかったでは済まされない。
「LGBTPZN」という言葉が肯定的に使われる場面があるとすれば、それはLGBT側の当事者によって積極的に使われる時以外にないだろう。LGBTの立場から、「LGBTなんてPZNと同じだって?いいじゃないか!PZNだって俺たちの仲間だよ」のように言明して見せるのは、時に政治的に有効なこともあるだろう。そのような場面が、将来的にないとは言わないが、今のところ私は観測したことがない。それを以って被差別的立場であるLGBTを責めることもできないだろう。
マイノリティの権利を主張する時に、戦うべき相手はマジョリティだ。別のマイノリティではない。むしろ、マイノリティはマイノリティ同士団結しなければ、マジョリティには勝てない。マイノリティ同士で喧嘩したり、「あいつらはいいのに俺らはダメなのか」と、くだらない嫉妬心を燃やしている場合ではない。