はてなキーワード: 死体とは
「小児性愛も、動物性愛も、死体性愛も、誰にも迷惑をかけない限り普通の人と変わらない。LGBTを排除してきた歴史を繰り返してはいけない」という言明は時に必要だろう。人間は歴史から学ぶことができるのだから、何も0から理論組み立て始める必要はなく、類似した歴史に習うのは人間として当たり前の営みだ。そこにLGBTを持ち出したからと言って、決してLGBT差別にはならない。
しかし「LGBTなんて、小児性愛とか、動物性愛とか、死体性愛と変わらないだろう」という言明は、ただのLGBT差別でしかない。これを否定することは、決して小児性愛や、動物性愛や、死体性愛を差別することにはならない。形式的な論理構造が同じでも、「それによって言いたいこと」がまるで違う。そこに載せようとしている社会文脈がまるで違う。
一部の人々の間で、小児性愛、動物性愛、死体性愛をまとめて「PZN」と呼ぶことが流行っているらしいが、それは全く推奨できない。「PZNだって、LGBTと同じだ」という言明は、一見すると前者のようにも見えるが、これははっきりと後者だからだ。なぜなら、「LGBTPZN」という言葉そのものが、LGBT排除のための長い歴史の中で生み出された「人工的な差別用語」だからだ。これの恐ろしいところは、「元からあった言葉が、差別的に使われ始めた」用語ではないという点にある。この言葉は「LGBTを排除する」というただ一点に特化した言葉であり、100%が差別意識の塊だ。このような文脈を持つ言葉を擁護することはできないし、知らなかったでは済まされない。
「LGBTPZN」という言葉が肯定的に使われる場面があるとすれば、それはLGBT側の当事者によって積極的に使われる時以外にないだろう。LGBTの立場から、「LGBTなんてPZNと同じだって?いいじゃないか!PZNだって俺たちの仲間だよ」のように言明して見せるのは、時に政治的に有効なこともあるだろう。そのような場面が、将来的にないとは言わないが、今のところ私は観測したことがない。それを以って被差別的立場であるLGBTを責めることもできないだろう。
マイノリティの権利を主張する時に、戦うべき相手はマジョリティだ。別のマイノリティではない。むしろ、マイノリティはマイノリティ同士団結しなければ、マジョリティには勝てない。マイノリティ同士で喧嘩したり、「あいつらはいいのに俺らはダメなのか」と、くだらない嫉妬心を燃やしている場合ではない。
デンゼル・ワシントン氏の素晴らしい行動を称賛するツイートに対する、町山智浩氏の引用RT
「LAで黒人男性を撃とうとする警官たちをデンゼル・ワシントンがとめた。彼が介入しなければひどいことになっていた」
イコライザー……。 https://t.co/wapM7RlHVa— 町山智浩 (@TomoMachi) May 28, 2020
デンゼルの行為は
「ホームレスの黒人男性を気にかけ警官に保護を求め、適切な対応がされるまでその場で男性に付き添い、物資を支援をした」
といったところ。
警官と男性の間で口論があったという説もあるので、これも正確と言い切る気はないが…
ともあれ引用先ではこのニュースを「もしも彼がいなかったら男性は撃たれていただろう」と過激な言葉で賞賛しながら紹介している。
(ツイート主がshotという言葉を使った理由はツリーで話している。
ミネアポリスでの事件を受けて、最悪の事態の起こりうる社会を批判をしている、といったところ)
そしてそれを町山氏は引用RTで、「黒人男性を撃とうとする警官たちをデンゼルワシントンがとめた」とまるで日本語訳のように、嘘を添えて紹介してるわけだ。
これじゃ「撃とうとする警官」がいたことになる。もはや別の事件じゃないのか?
こんなもの、英語が全く読めないのに格好つけて英文をRTしたのでなければ、わざとやってる。
警官たちの死体の山にならなくてよかった。— 町山智浩 (@TomoMachi) May 28, 2020
とくる。
死傷に発展する事件にヒートアップさせないために、冷静な第三者としてデンゼルは間に立ったのでは?
実際に人が亡くなって過敏になってるときだからこその気遣いではないのか?
それを、勝手に「撃とうとした」ことにして悪役にした警官を、俳優が殺す、なんて状況を想起させるジョークにするとは…
指摘のリプライはついていたし、おそらく英語は読めるはずなのに、訂正の気配もない。
政治ツイートはもうどうだっていいから、俳優の素晴らしい行動を捻じ曲げるようなふざけた人間が、専門家ヅラして映画評論家と名乗ることのほうをやめてほしい。
まあ頓珍漢な批評を書いたり、
田舎に住んでるんだけど、郊外よりも田舎の小動物たちは山から降りて道路でよく車に轢かれているので出退勤しながらよく死体にでくわしている。所詮は事故なのだが。タヌキ、ネコ、ハクビシンなどなど。
東京などの人たちが、動物愛護の運動をしていたりしてもなぜか冷めた目で見てしまっている。救いようのない命ばかりだからだ。
そして人間が山に入ればクマに襲われたり、ハチやヘビの毒に遭ったりする。都会に住むと忘れてしまうけど、田舎ではヒトもそれ以外も関係なく死は生と隣り合わせだ。
この度の解釈改正(「桜を見る会」めぐる首相告発を不受理 東京地検:朝日新聞デジタル)によって、以上の犯罪の告発はできなくなりました\(^o^)/
殺していい?3匹いるもいるんだけど全て今すぐ殺したい。
我が物顔で砂地に座ってるの見ると殺意わく🐱
猫対策にトゲ?置いたりするのも景観悪いし、それでも入ってきた時どうしたらいいかわからん。
前の家のジジイが野良猫用に餌あげたりベッドみたいなの用意してるんだよね。3匹分。本当にどうしようもない。まぁもう80歳とかだろうから、現代では野良猫に餌あげちゃダメなんだよ、とか言ってもしょうがないし、角が立つから言えないよね。
猫には悪いけど死んでもらうしかないのかな?🐱🙏毒エサ置いて、もしうちの庭で死んでたら、死体😓は向かいの家の駐車場に置いておけば解決するし、これが一番労力少なくすむのよな。😓
少し休んだらまた仕事に戻る
仕事中は当然Twitterとかネットを見てはいないけれど、だからこそたまにインターネットを見ると、政治に怒っている人ばかりが見えて、なんだかおそろしい
正直こっちは、やってくる患者の対応にせいいっぱいで、定年延長とかどうでもいい
コロナ前はこんなに怒ってる人ばかりじゃなかった
どうやら政治と安倍さんが悪いっていうことらしいけど、いろいろ不満はあれど、海外の医療系の人たちの話を聞くと、日本はなんてマシなのかと思う
不満はたくさんあるけれど、他国より酷いとは思わないし、かなり前から分かっていたのになぜ医療体制がよくならないんだ!とか叫んでいる人を見ても、現実として、そりゃ無理だろ、としかおもえない
逆に今騒がないで落ち着いた後で、反省と総括をして、これから医療従事者にはこういう対応を~体勢を~という方向に持って行って欲しい
叫んだところで検査員は増えないし、医療従事者も増えないし、「ちょっと熱があるかも、ふあん!」っていう患者は減らないんだよ
言い方が難しいのだが、ちょっと山に籠もっていて、帰ってきたら、今まで普通に町歩いてた人たちがプラカードもって「政府死ね!」って言ってるみたいになってて、なななななに、どうしたの?なんでこんなに荒れてるの?
え、この前まで平和なツイートしてた人が今政府批判しまくってる、え、猫ちゃんの画像で癒やされたかったのに、猫ちゃん画像より、定年延長で盛り上がってる
という感じ
なんかつかれた・・・
とくにはてなの政府批判がドン引きレベルで、普通に、今の政治はどうなっているかを見たいだけなのに、安倍批判ばかりでクラクラする
いや、与党支持とか安倍シンパなわけじゃないけどさーその時によさげな政党に入れるだけの浮遊層だけどさ
昔のはてなはここまで特定の政府を棍棒で殴るようなところじゃなかったよな…前はせいぜい檜の棒で、たまに棍棒登場したけど、そんな頻繁じゃなかった
今は記事に政府とか安倍とか入ってると、大量に棍棒持った人たちがぼっこぼっこに殴ってる感じ。こわい。
いや、そんなつもりじゃなくない?って書き込みにも「おまえらみたいなやつが!」とかいってぼっこぼこにされてる。ほぼ日の人の書き込みとか、そこまで棍棒で殴られるほどか?Twitterでちょっとでも何か言うと、「みんな棍棒は持ったな!いくぞ!」ってなっているような
それだけ政府に怒ってるんだ!って言いたいんでしょ?わかる。
しかし自分の周囲ではそんな政府に怒ってる人がいないので、はてなはもともと偏りのあるクラスタではあったが、磨きがかかっているというか、今は棍棒を持ってる人たちが怖すぎて、逃げていった人も多いんじゃないかなと思う
て、書いたら大量に棍棒持った人に虐殺されるんだろうなーわたしも。
次に山から下りたときには少しは平和になっているといいけど、多分棍棒に殴り殺された私の死体の残像が残ってるだけなんだろうなあ
今までのインフルエンザへの警戒の薄さはなんだったわけ?ってなってるんだわ。
コロナが未知だからっていうのは分かるよ。データが少ないから警戒するに越したことはないし一斉に広まれば医療崩壊の心配が大きいのもわかる。
でも結局、実際問題として、インフルエンザの方が人死んでるんだろ?
薬がある、よく知られてる、でも死んじゃうんだろ?
どうしてコロナでは医療崩壊して、インフルエンザだと医療崩壊しないの?
死体の数はインフルエンザの方が多いはずでしょ?冬の間コロナ+インフルだった事は分かるけどさ。
結局 未知への恐怖>実際の死人の数 っていう感情論なの?
確かに小学校の頃、クラスで何人かがインフルエンザになると「学級閉鎖」とかいうコマンドが発動したことはあるよ。
でもそれ以上のグレードになるとどんどん減少して、ましてや社会人でその手のコマンドが発動されるなんて聞いたこともない。
新生活様式とやらでは、インフルエンザも警戒を強くした方がいいと思うんだよね。少なくともコロナが完全終息するまでは。
だって「インフルエンザだと思ったけどコロナだったかもしれんわ」みたいなことが世界で起きてる訳じゃん。
コロナ自粛ってただのわがままだろ。なんで僕がそのわがままに振り回されなければいけないんだ。
前らは鎖国だの攘夷だの大義名分を振りかざしているけれども、徳川幕府になろうが明治政府になろうがどのみち地方の貧農でしかないような人が、なんで幕府や政府のために命がけで戦ってくれると思ってるの?
コロナなのに遊び回ってる人たちを見てみんなこう思っているはずだ。
『誰の目にも今は自粛するべき時だと分かりきっているのに、遊びに行く奴はよほど頭が悪いのだろう』と。
でも、それ以前に『そもそもコロナ自粛自体に承服していない人』もいると言うことをわかってほしい。
今、自粛によって僕から当たり前の日常が奪われたのだ。これは重大な問題だ。僕はカラオケに行きたいし、プロ野球を観たい。簡単に言わないでほしい。
今ここで僕が野球を見たいという気持ちとお前が生き残りたいという気持ちがぶつかっている。この対立軸を整理して考えていきたい。
コロナなのに遊びにいきたいというのはわがままだということは認める。でもコロナだから自粛してほしいというのも、もう一方のわがままだ。なんでこっちだけわがまま扱いされてそっちは社会正義扱いされてるか。そこが不満である。
まるで文化祭の合唱コンクールや体育祭の応援合戦で絶対優勝したいクラスの中心人物たちと、クラスの辺境にいる帰ってゲームしたいオタクの構図だ。
僕はわがままが悪いことだと思っていない。言いたいことは言ったほうがいいし、その上でお互いの利害を調整して、譲れるところと譲れないところの落とし所を探っていくのが社会ではないだろうか。
ところが、一方がたまたま『正義』を名乗ることに成功してしまったら、際限なく一方のわがままだけが増長することになる。
これは良くない。
だから僕は、『どっちもただのわがままでしょ』と言い張っていくスタンスである。
これはただのわがままである。僕が自粛したくないというわがままと同列に扱われるべきわがままだ。
確かに、もしかしたら僕がコロナを持っているかもしれない。僕が遊び回った結果誰かが死んでしまう可能性が僅かにある。でも、はっきりいうが僕とお前は完全に他人だ。知らない誰かだ。お前が死なないために僕がそこまでしないといけないのは全く納得いかない。
『自分の大切な人が死んでほしくない』はより自分勝手なわがままである。高齢の両親が心配なんだろう。でも、それはみんなが当たり前の日常を送ったら死んでいたはずの人ということである。放って置いたら死んでた人を救うためになんで周りが気を使わんといかんのだ。お前は自分の力で守れない命を守るために他人に責任をなすりつけている。ヒーローになりたいなら一人でやってほしい。
ちなみに僕は家族が嫌いでとっくに絶縁しているので、特に死んでほしくない人とかいない。友達もいない。子供もいない。結婚もしていない。彼女ができたこともない。少々知らない誰かが死んだって困らないのさ。
コロナ自粛派は様々な理由をつけて「これはただのわがままではない。より上級の命題だ。よってお前の遊びに行きたいというわがままに優先するべき事案だ」と言い張るだろう。
その主張の問題点を指摘して、やっぱりコロナ自粛はただのわがままに過ぎないことを明らかにする。
医療崩壊なんてしない。お医者さんも看護師さんも定時になったら帰ればいいのだ。それで何人死のうがお医者さんも看護師さんも悪くない。
例えば、電車に轢かれて四肢がバラバラになった死体を、お医者さんが直せなかったとして、誰も文句言わないはずである。それは医者の怠慢ではなく『現代医療の限界』である。
そうであれば、お医者さんが定時で帰ってしまったがために誰かが死んだとして、なぜそれを『現代医療の限界』と割り切れないのか。
『お医者さんが残業で診療してくれれば死ななかったかもしれないのに!』なんて、都合が良すぎである。他人に何を期待しているんだ。それこそただのわがままである。
医療関係者は普通の3交代制を引いて、定時になったら病人が何人いようとさっさと帰るべきだ。それで誰かが死んでもしょうがないで済ますべきだ。
確かにそれはそうかもしれない。僕はそう思う。でもおそらくお前は本当はそんなこと思ってない。
僕は昔から8時間寝ている。野菜と肉と魚をちゃんと食べている。毎日運動している。お酒は飲まない。タバコ吸わない。嫌いな人との関係はバンバン切っている。会社に歩いて行ける距離に住むことで満員電車を回避している。
絶対お前の方が健康を粗末にして生きている。これをしていない奴が健康を持ち出して僕を批判するのはおかしくないだろうか。
突然だが、救急車に道を譲らない車が多すぎると思う。僕は運転中であろうと歩行中であろうと絶対に緊急車両に道を譲っている。でも譲らない人が大半である。多分この投稿を見てキレてるお前も普段は救急車に道譲ってない。お前は本当は人命を軽視しているんだ。
救急車のためにたった30秒待たない奴のために、なんで僕が一ヶ月もカラオケを我慢しなきゃいけないのか。
だから、人命や健康に関することはわがままと一括りにせず例外に扱うべきだという主張は納得するが、この件にそれを持ち出してくるのはお前の自己欺瞞だろとも思う。
コロナ自粛派はみんなのために言っている。コロナ自粛反対派は自分のことだけを考えている。そう思ったはずだ。
そもそも、みんなのためという理由で人の自由を奪っていいのであれば、では年金暮らしのジジババや介護が必要な方にはさっさとお隠れになっていただいたほうがみんなのためではなかろうか。お前が腎臓をもっと優秀な人に分け与えたほうがみんなのためになるのであればお前は肝臓を差し出すんだろうな。
年金ぐらしのおじいさんおばあさんも、生きていれば様々なことでみんなのためになっている、などと軽薄な功利主義を唱えるのはやめてほしい。教養がない。一番大事なことはそこではない。みんなのためだからといって個人に我慢を強いるのは限度があり、絶対に超えてはいけない一線があり、その先のことをどうするかについては本人の意思決定を尊重するべきだ。それがこの社会の約束である。
そもそも、僕がカラオケに行きたいというのは『みんな』に含めてもらえないのだろうか。野球を見たい人が野球を見れないのは『みんな』の問題ではないのだろうか。
僕は大変優しい人なので、みんなのために自分が犠牲になることはやぶさかでない。しかし、だからこそ「みんなのため」を誰かが勝手に決めていることに対して腹が立つ。
先に断っておくが、僕は大変な紳士であり善人だ。
定食屋さんでは必ず『いただきます』『ごちそうさまでした』という。
スーパーの店員さんにも必ず敬語だ。怒鳴ったりクレームをつけたことは一度もない。レジでは必ず『お願いします』『ありがとうございました』という。
職場でも全員に敬語だし、いわんや誰かをいじめたりいびったり口撃したことなんて一度もない。いつもニコニコしている。
読みたい本は必ずお金を出して買っているし、聴きたい曲は必ず各種有料サービスを使って作者にお金が回るようにしている。
あくまで、これはこの問題の構図が完全に不公平であるという点を主張しているのであって、僕の人格がおかしいからだとかいって済ますのはやめてほしい。