はてなキーワード: セックスワークとは
はあちゅうさんがAV男優と結婚したという話が話題になっている。別に知り合いでもないし、それそのものについては何も言わない。だいたい、どんな相手であっても、結婚相手の選択を他人が揶揄するなんて、常識のある人間がやることではない。
自分が言いたいのは、「me tooとか言う人間が、AV男優と結婚して良いのか?」「フェミニズムとAV男優と結婚することは矛盾しないのか?」とかいう意見について。これおかしいので、このおかしさについて指摘しておきたい。
まず、me too運動は、フェミニズムと無関係であるというのは言い過ぎであり、時系列で見ればフェミニズムの成果に乗っかる形で、me too運動があるという見方はできると思う。とは言え、歴史的にはむしろフェミニズム独立する形で、語られたことに意味があると思っているし、その2つを同一視するのはおかしい。つまり、me too運動に参加したからとしてフェミニストではないし、実際彼女の過去の発言にフェミニストとしての要素は全くないと思っている。
その上で言うと、あえてフェミニズムとAV男優の関係で言うなら、もっと注目されるべきなのは、多くのフェミニストが、セックスワーカーの人権・・・さらに立ち入って、倫理的な位置づけについて関心を持ってきたということだろう。フェミニストの一部は、セックスワークが男性による搾取の産物であると考えると同時に、セックスワーカーが「汚い」とされる倫理規範がそれ自体家父長制の産物であるとして批判してきた。そういう意味で言うと、AV男優という職業は、セックスワーカーに対する加害者であるようにAVの視聴者には見える(そのように演じさせられている)以前に、彼自身もセックスワーカーであるということを忘れてはならないと思う。したがって、AV男優と結婚するという行為自体は、実に「フェミニスト的」であるし、控えめに言っても、フェミニズムは、女性がAV男優と結婚することを批判する根拠にできる理論ではない。
したがって、「フェミニズムとAV男優と結婚することは矛盾しないのか?」というたちの悪い批判は二重の意味でおかしい。はあちゅう氏がフェミニストであるという根拠のないレッテルを貼った上で、フェミニズムと全く矛盾しないAV男優と結婚するという行為を批判しているから。
自分が一番怒りを覚えるのは、フェミニズムを自分の都合の良いように一面的に解釈した上で、フェミニズムに関係のない個人を批判する根拠に使われていることだ。これは、フェミニズムにもはあちゅう氏にも失礼だし、まして、この過程で無意識に差別されているしみけんさんが気の毒でならない。
昨日投稿したら増田の文字制限にひっかかった。8000字が限度っぽい。
前半はこちら
https://anond.hatelabo.jp/20180504170139
その後、僕はフェミニズムの文献をあさるようになった。性の問題についていけるところまでいってみなければ自分の気がおさまらなかった。僕は男性ジェンダーに批判的になり、一度は大学に「復帰」したものの、卒業しない方が政治的に正しいと考えるようになった。なにかと特権や権力を自己批判するようになり、両親は僕が宗教にでもはまったのではないかと心配したらしい。
実際、フェミニストの方と(特に、男性中心主義社会との闘争を掲げ、意図的に男性を蔑視する方と)交流することで、僕は自己肯定感や性的主体性を失っていったと思う。いいかどうかは別として、フェミニズムにはそのような攻撃性があり、多くの男性が防衛的になるのもあるていどやむを得ない。
また、僕は性欲を男性に向けるように努力し、自分が犯されたり、屈辱的な目にあうことを想像しながらアナルオナニーするようになった。
そしてある界隈に足を運び、男体持ちで僕に性的関心を向ける人と出会い、セックスした。そのときは緊張したが、僕は無事に(?)勃起し、相手のペニスを自分のアナルに入れ、自分のペニスを相手のアナルに入れて射精した。
たしかに性的関心はある程度社会的に構築される、つまり教育や啓発によって、自分の中の異性愛・同性愛傾向を抑圧したり強化したりすることができると思う。しかし、僕はその男体持ちの人に、前の彼女に感じた執着を向けることができなかった。二人の関係は「セフレ」だと伝えたつもりだったが、反対に、その人は僕との関係に本気になった。僕はその人に対して自分のセクシュアリティ(正しい綴り!)をはっきり伝えることができず、なしくずしで関係が始まり、深まっていった。
その人は性的マイノリティであり、IQは高いけれども安定した人間関係を続けることが難しく、広義の「弱者男性」と言えると思う。そしてアカデミックなキャリアが行き詰まり、安定した仕事につけず、セクマイ界隈の一部とも関係が悪化し、追い込まれていくことで僕への性的依存を徐々に強めていくようになった。非モテ男性が異性の恋人によって一発逆転を夢見る心理は、同性の恋人においてもある程度あてはまるのかもしれない。
その人は、フェミニズムを受け入れ積極的なコミュニケーションを取れない「おとなしいコミュ障」の僕のことしか知らない。哲学や科学の一部の分野では僕が堂々と自己表現し、ときには攻撃的にすらなれることを知らない。その人は僕に対して容赦なく感情を爆発させるようになり、僕は一度は距離をおいたものの、あるセクマイ系イベントで再会したのをきっかけに引き戻されてしまった。
僕はそのときも、もうあなたと別れたいとつっぱねることができなかった。その人は、僕と恋人関係にあることを堂々とまわりにアピールしている。僕はそのイメージに流され、僕の意思は違うのだということを言えないままに、あいまいな笑みを浮かべつづけていた。
その人は僕にさらに感情的・性的に依存するようになり、僕は強くなろう、対処法を編み出そうと必死で本を読んだ。google:別れる? それともやり直す? カップル関係に悩む女性のためのガイドは男性ジェンダーとして傷つくことも多いが、つらい関係を終わらせることができるという希望も与えてくれる。ウ・ジョーティカgoogle:自由への旅はしんどいときにつまみ読みした。マインドフルネスのモチベーションを上げてくれ、1時間程度の瞑想ならできるようになった。あと、google:ツァラトゥストラはフェミニズムは奴隷道徳だ、権力を肯定し超人を目指せ!と言っているようで心にしみた。
さて、けっきょく大学を中退した僕は派遣に登録して社会人になった。今は大手メーカーの工場で生産管理をしている。
新しい仕事や住まいがあるていど落ち着いたところで、売り専に登録した。応募はとても緊張した。メールを送ろうかどうか、一か月近く迷っていた。意を決して送信した最初の店は落ちたが、次の店はやとってくれた。
売り専で働く直接のきっかけは、セックスワークについて知り、さらに、男性ジェンダーも性的対象として消費される経験をしてみなければと思ったからだ。友人にもフェミニズムの影響でちょっとだけ売り専をやったことのある人がいた。それに、僕はなんだかんだセックスが好きで、性的関心が強く、その方向で自己実現(?)してみるよいチャンスだと思ったのだ。もちろん、異性にモテてセックス相手に苦労はしないという実現のしかたもあるが、身長が低く押しも弱く吃音気味の僕にはどう転んでもできそうにない。でもそれは性的対象としてはむしろ強みになるんじゃないか?
実際にやってみると、自分に性的な価値があり、それにお金を払う人がいるということは自信になった。僕を指名するひとや、リピーターになる人がいた。僕を買う人はいつも僕の容姿を褒めてくれた。年配の人はチップをくれたりご飯をおごってくれたりした。
あと、僕は中一のときに一度痴漢に遭ったことを思い出した。トラウマとかではなく、自分にはちゃんと性的魅力があったという気づきとして。
僕は男性だが、性的主体でそれ自体に性的価値はないという生き方は向いていないと思うし、男性として性的対象とされることは僕の性に合っていると思う。女性からも自分が性的対象として見られることを意識できるようになり、ファーストキスで彼女が唇を濡らしたように、僕も性的な駆け引きの手段を使っていいのだと思えるようになった。
それに、身だしなみをよくして堂々としていれば、多少のいじりにたいしても動じないし、そのうち相手も一目置くようになるという自信を得た。化粧やファッションが「武器」であり、自分を「戦闘モード」にできるという言い方を女性がすることがあるが、僕もその意味がわかることがある。また実際、その攻撃はある程度効いていて、「向こうが誘ってきたんだ」と言い訳したり二次被害を与えたりする男性は性的な駆け引きにいつも負け続けているのだろうと思う。
閑話休題。得るものは得たと思ったし、またセックスワークを続けることの危険も感じたので僕は半年ほどで売り専をやめた。いままで、僕を買ってくれた人はおおむね常識をわきまえていて、無茶なことはしなかったし「痛い」と言えばセックスを止められた。でも、どこかですごく乱暴な人に出会うかもしれない、という不安をなくすことはできなかった。新しい人とやるときはいつもすごく緊張した。
ちなみに、僕が売り専をしていると知ったとき、当然かもしれないが彼は激しく動揺した。僕がその人以外の人とセックスしていることが耐え難く辛く、またセックスワーカーという挑戦を僕がしたことで、自分が追い越されたと感じプライドが揺らいだのだと思う。
性風俗に対する強い嫌悪感に共感することは、僕には難しい。恋人が風俗で働いたり風俗に行ったりしたことが分かって苦しんでいる(男性・女性の)記事を読むと、こんなに傷ついてしまうのかとやるせなくなる。
もちろん、彼を深く傷つけたと思う。ただ、僕がその人とセックスをするそもそものきっかけは、フェミニズムやセクマイの主張に興味があったからだ。売り専をしたのもそのためであって、新しい恋人がほしかったからではない。その人は性にまつわる社会問題の知識が豊富だったので、僕の行動にできれば理解を示してほしかった。
しかしこの一件で、僕はその人に対して「治療者」として振る舞おうと決心した。僕はあなたの恋人にはなれないということをどこかで伝えなければいけない。しかし当面は、その人が立ち直るのをサポートしようと思った。
そういうわけで、やっとソープの話です。ここまで読んでくれたひとがいるのだろうか…。
僕はこうしてそれなりにセックスを経験したけど、女性の膣に自分のペニスを入れるというセックスだけは一度もしていない。ほんとうは、それは最初に僕を選んだ彼女にあげたいとどこかで思っていた。そういう執着はよくないのかもしれないが、どこかで自分はまだその人の特別な存在になれると思っていた。
しかし、バンクロフトをはじめDV関連の本をあらかた読みこみ、それはDV加害者が被害者に依存する心理と同じであり、僕と別れることをえらんだ彼女に対する甘えであり、僕自身もその人との恋愛から「卒業」しなければならない、と考えるようになった。僕がその人を傷つけたから、その人は別れることを選んだのだと理解できるようになったと思う。
その一方、売り専をやめたことへの区切りもつけたかった。僕はずっと自分を売ってきたが、同じように身体を売っている女の人が何を考えているのか知ってみたかった。それでソープに行く必要はないのかもしれないが、それ以外にチャンネルを知らないし、政治的な連帯というよりはふつうに話しを聞いて体験を共有してもらいたい。もちろん向こうは異性愛男性にサービスを提供するつもりでいるのだから、そんなことは他でやってくれと思うかもしれないが、こっちだってそれなりにお金を払うのだから時間の使い方に多少の自由は許されると思った。
それに、その目的が達せなくても、ふつうの異性愛男性がどういう性的サービスを受けているのかを体験しておくのも意味があるだろう。とかなんとかいろいろ理屈を考えて、ようやく決心して、ソープの予約を入れた。
僕はどちらかといえば、同性や異性に性的サービスをする方が向いているような気もするし、もしそういう仕事があればやってもいいと思う。しかし僕の性的価値がある間に異性に体を売るサービスが一般的になることはなさそうだ。映画google: 娼年を見たけど、お金を払ってあんな乱暴なセックスはしないだろう。まだファンタジーの域を出ていないし、誰か貞操逆転世界な方向でもうちょっとリアルな作品をつくってほしい。
そういえばソープに行く前に、何を思い誤ったかYou Tubeに落ちている女性向けシチュエーションボイスを一晩聞いて「予習」した。本番でまったく使えなかったが、こういうサービスなら僕にもできると思う。
もう少し言うと、異性愛男性がリラックスして射精するというのは分かるのだが、異性愛女性がリラックスしてペニスを入れさせるというのがサービスとして成立するのか?成立しないなら、どういう男性がどういうサービスをするなら成立するのか?そういう需要をホストクラブとかの風俗がどの程度満たしているのかも、ぼくにはよくわからない。レズ風俗が成立しつつあるように、やはりケア役割は女性にとっても女性の方が向いているのかとも思います。
そのときは、男性性欲は男性で解消してもらうのが理に適っているのではないかな…。文句はソクラテスを論破してから言ってください。
増田さん本人への言及というよりは、トラバやブクマを見て思ったこと。ブクマでは書ききれなかったので追記。
なんだか元記事への反応を見ていると、「風俗に行く⇒病気もらう可能性があるんだからいけない」って言ってる人が散見されるんだけど、それはセックスワーカーの人を病原菌と見なす態度のようにも見えて違和感を感じてしまう。
もっと言えば、増田さんの彼氏が取ったような「セックスワーカーの人を汚いもの」と見なす態度と同根ではないかと思えてしまうからだ。
もちろん、セックスワークをしている以上は性病にかかる可能性が一般人よりも高いという考えは自然だと思う。だけどセックスワーカーの人たちはそういうリスクを意識した上で、こまめに検査を行っているしセーフセックスも心がけている。
潜伏期間が長い性病があることも考えれば、「素人」とのセックスの方が危険性が高いかもしれない。そしてこの「素人」の範疇には、もちろんパートナーだって含まれうる。
そういう危険性を可能なかぎり減らそうと思えば、結局のところ「過去に性的経験がない人が望ましい」という価値観に至ってしまって、「処女厨は生物学的に自然な欲求」みたいな考え方と紙一重になってしまわないかなという懸念がある。
それにそもそも、とくに危険なセックスをせずに暮らしていたって病気にはかかるし、その病気をセックスを通じてパートナーに感染させる危険性だってあり得る。
だったら「セックスから病気に感染する」ことを回避する考え方って、最終的には、「病気にかからなくて健康な相手とのセックスが一番」的な考えに行き着いてしまうんじゃないか。それはやっぱり「処女厨」ないしは「体が強くて子供ぎょうさん産める女 or 健康的でたくましい男がやっぱいいわー」的な考えとそんなに変わらないと思う。
もちろんこういう考え方は極論で、単に「風俗で性病にかかったパートナーから病気をもらうことに対する拒否反応が強い」という話なのかもしれない。けれどそういうことなら、病気の感染リスクとはまた異なる次元の話だと思う。
ちなみに私は、だから「風俗に行くのが問題ない」ということを言いたいわけでは一切ありません。増田さんの彼氏はヒドいことをしたと思うし、そのことについて各人がそれぞれの感想を抱くこともまた自由だ。
いわゆるフェミニズムの思想潮流の中に自分を位置付けられるほどは勉強してない。
F1公式の発表は以下だ。
we feel this custom does not resonate with our brand values and clearly is at odds with modern day societal norms. We don’t believe the practice is appropriate or relevant to Formula 1 and its fans, old and new, across the world.
「私たちは、この慣習が世界中の、これまでのそしてこれからのファンにとって適切だとは思わない。」
この台詞を言わせたのは「フェミニズムの圧力」「騒ぎ立てた人権屋」なのか?
どうも私にはそうは思えない。
間接的にはあると思う。
つまり、「modern day societal norms」の醸成に影響しているという点において。
ここからは憶測だが、F1公式の考える「modern day societal norms」にしたがった自分達のあり方が何なのか、というと、
性別と年齢とに関わらず誰もが参加できる「the glamour and spectacle of the Grand Prix」なのだと思う。
客層を限定するメッセージを発しすぎるという判断なのではないか。
(女性だって美しい女性を見るのが好きだと感じる人は多いだろうが、単純にターゲットの問題だ。)
こう考えているブコメが多数あったが、私はそうは思わない。
認めないのは
「性的魅力を、本人の自由意思に基づかず要請されたり搾取されること」で、
目指す理想の世界は
「その人の性的なことを、社会による強制や圧力を一切感じずに取り扱える世界」
だと思っている。
現にセックスワークに従事する女性の権利擁護はフェミニズムの範疇だ。
たとえば性行為を対価にお金を稼ぐ自由は尊重されてしかるべきだと思っている。
もちろん、若さと美しさを披露することで対価を得ることも当然、市場原理に保証されてしかるべき自由だ。
フェミニズムが、それらの行為自体を悪と見なしているように見えるのは、
それらが本当に自由意思で行われているか、疑わしいことがあるからだ。
たとえばセックスワークに望んで従事している、と笑顔で言い切る人がいたとして、
その影には本当にたくさんの要因が含まれることがある。
それはわかりやすいものを挙げてしまえば貧困であり、教育であり、環境であり、
その人個人の性体験であり、社会的な「性的魅力の取り扱い」に関する要請であり、
そしてそんなカテゴリワードが意味をなさないほどに、個人のいりくんだ感情と生育かもしれない。
そこに明確な線引きをすることなどできない。
フェミニズムの名のもとにずかずか入り込むことは許されない。
それでも、その人になにかを強制するものがもし何かあるならば。
もしあるなら、ひとつでもなくなってほしいと願わずにはいられない。
それが起きる社会についてかんがえるし、
それをさせている何か、誰かがいないかと考える。
私にとってのフェミニズムはそういう、自由と抑圧について絶えず考え悩む姿勢のことだ。
私は、私個人の経験から、性にまつわることの有形無形の「自由意思以外」を感じとってきたので
理想の世界があればいいのにな、と思っている。
私は「その女性が、自ら望んでグリッドガールとして働くこと」それ自体には一切の批判はない。
だが、同時に「グリッドガールという役割を作り出す社会そのもの」には疑問を投げ掛け続けると思う。
逆にいうならば、グリッドガール自身が、自分達の美しさと若さがブランド価値に寄与するのだと堂堂と言ってくれるなら、
そしてそこに内面化された抑圧ではなくて彼女たちの自由意思を信じることができるなら、
多いに祝福すると思うし、私が本当に望むのはそうした社会だ。
「それしかできないかわいそうな女性が仕事を奪われた」という構図で話したがる人がいる。
まず第一にこの話が「人権団体」の働きかけによるものだとはどこにも書いてないし、
第二に、グリッドガールは「それしかできないかわいそうな子達がようやく得た仕事」ではない。
彼女たちが美と若さを売り物にするための市場がひとつ消えてしまったのは事実だ。
グリッドガールを夢見ていた女の子がいたら気の毒だとは思うが、
小人プロレスの都市伝説になぞらえて語るものでもまたないのではないか。
だが同時に、グリッドガールは弱者ではない強者だ!ともいえない。
「美しさを競い続け、選ばれ続けるために努力し続け、そしてその先に待つものがなにか」という問題について踏み込むとき、
そこには「誇りをもって美しさから対価を得ていたのに、フェミニストに仕事を奪われたかわいそうなグリッドガール」という弱者像とは別の
「美しさを対価にお金を稼ぐことの苦しさと弱さ」は浮かんでくる。
美しいグリッドガールと嫉妬に歪んだフェミニストが叩きあうという構図をお望みのかたはたくさんいるようだった。
フェミニストは「男性=強者」から「女性=弱者」を守りたいと叫んでいるのに、
ほんとうはグリッドガールを抑圧する「強者」なのだ!という転倒の痛快。
そこにあるのは、普段「社会と女性」の構図でフェミニズムが叫んできた構図のパロディである。
フェミニストという醜いモンスターとグリッドガールという美しい虐げられた弱者ならば
自分達に関係なく、そして美しく弱いものを心置きなく応援できて、
普段から気にくわなかったフェミニストたちを存分に叩けるのだ。
きっとさぞ楽しいのだろう。
だから、特に声明には書かれていないフェミニストは引きずり出され、
さらに関係が疑わしい「人権擁護団体」(誰なのかはよくわからない。架空のそういう人たち)を叩き、小人プロレスを引き合いに出している。
そういう人たちがたくさんいる。
グリッドガールがなくなることが正しいとおもうか?
わからない。
わからない。
けれど確信しているのは、上記のようにみにくいプロレスを望む人の声にのせられて、ファイティングポーズをとる必要はないということだ。
私は、できれば自由について話したい。
自由について、美しさや若さや性を売る自由について、その価値と市場について、それが売り手にとって苦しみをもたらさないための社会について。
それがいくつもいくつも積み重ねられて、次の「modern day societal norms」の話ができることを真剣に望んでいる。
http://anond.hatelabo.jp/20160207011039
『男女の性欲の質が違い過ぎて議論が噛み合わない罠』
つらいけど真実の一端があるのかなとも思う。
男の価値が経済力だけというのも極論を言えば正しいかもしれない。
触られたくないところを触られたような印象があった。
私も幼い頃は父が大好きで
ああでもいま思い出すとウゲッと気持ちわるくなることもあった。
ほらオチンチンだよーとか言って私に握らせようとしてた。
なんていって石けんで泡作ってペニスに乗せて遊んでた気がするけど。笑
べつにこの程度なら性的虐待ではないと思う
けど気持ちわるいことには違いない。
脱線したけどそれはともかく
両親はとなりの私の部屋に聞こえるくらい大声で口げんかしてて
私は精神年齢の成長が早かった(ようするにエロ耳年寄だった笑)ほうなので、
両親の派手な口けんかの内容をなんとなく理解できたんだけど
ようするに母は私を産んだあとに父とまったく性交渉をしていなかったらしい。
お前がやってる家事なんて家政婦やとえば済むことだぞ!とか
まあけんかがエキサイトしてるときの言葉尻をつかまえてもしょうがないけど
とにかく母が体を許さないというだけで
と心の中でちょっと苦笑してた。
でもこれって父にとっては深刻な問題だったとおもうんだよね。
それは承認欲求であって性欲ではないと指摘する人もいるとおもうけど、
承認欲求と性欲って複雑にまざりあってて簡単にはわけられないと思う。
私も交際相手が自分を求めなくなってきたらそろそろ関係も潮時かなと心配になる。
本当は65歳くらいまで一緒にいた方が法的に何か有利だったらしいけど
とにかく私が社会にでるくらいまでの間はおたがい我慢しようと
その間はおたがいに何をしようと関知しないということになっていたらしい。
自分も中高生になってからは父親とまったく会話しなくなってたし
上に書いた性虐待?とけんかの記憶もあって父=汚らわしいと思っていた
結果として父は家庭ではまったく喋らなくなっていた。
少なくとも外見は人付き合いのいい人だったから女性にモテただろう。
たぶん父はそのあとも不倫してたのかもしれないし、
あるいはセックスワークのお世話になっていたのかもしれない。
その手や口で家に入ってたのかな、と考えるとゾワゾワするけど
母は典型的な箱入りで育てられたと自分で言ってたから、そのせいか
出産のためにはしょうがないと父と関係を持っていたのかもしれないし
父にふつうに恋してたのかもしれない。
まちがいなく父は母が知っている唯一の男性だ。
どちらにしろ自分が生まれてまもなく両親の関係は冷えはじめていて
母は父に体を許さなくなっていたし、
父も子供という責任?重荷?がなければいつでも離婚したかったのだろう。
定年退職の1週間後に別れを切り出した。
おそらく父はもっと早く別れを決意しただろう。
だけの味気ないものとは信じたくないと思う
私も信じたくはない。
そこにどんな美しい信頼関係があったとしても、
おたがいの汚い部分を許しあう関係を築きたいとは思う。
でも私には明らかに性(的接触への)嫌悪があって
私の「性欲」には男性に触れられることより
精神的・経済的に支えられたいという身勝手な気持ちがまざってるから
私の手を握ることもキスすることもなく常にそばにいて
自分が落ち込んだときやイライラしたときに支えてくれる男性がいるなら
それに越したことはない。
でもいままでの少ない恋愛経験でもどんなに優しそうなパートナーでも
これからもそんな人は現れないにちがいない
ごめん、たぶんそれが女の「性欲」だと思う。
女性の身体的魅力や男性の経済優位性?が関係ないと言い切るのは
あまりにも現実を無視した理想化された男女関係じゃないかと思う。
そう思い知らされた。
鈴木大介氏の著作『最貧困女子』(幻冬舎新書、ISBN-13: 978-4344983618)を読みました。
売春などを生業としつつ、風俗の世界からも、福祉からもの世界からも排除されている女性たちに関する本です。
もちろん、現在のことを書いた本です。
感想を書こうと思ったら、ぜんぜん指が進まない。
読んだ直後はそうでもなくって、スラッと書けると思ってました。
何がそうさせたのか?
それは、たぶん全編に渡って通奏低音にように響く、著者である鈴木大介氏の絶叫ではないかと思います。
”本音を言えばルポライターとしての僕の心情は、もう限界だ。”(p.210)
当事者である女性たちに共感するのではなく、彼女たちのことを、見てしまった者、知ってしまった者としての苦しみが吐露されていました。
自分自身、短い間でしたが、かつて風俗業界の周辺で働いていたことがありました。
そして、どこでも、あっと言う間に「適応」という名の心の麻痺を完了させました。
風俗の世界で、絶え間ない選別が行われていることを知っています。
障害者福祉の世界で、それまでの生活の中で培ってしまった「面倒くささ」ゆえに居場所が見つけられない人を知っています。
そのことに対して、「そういうもの」と思ってしまった自分がいます。
仕事をしてお金をもらうため、そんな自分を維持するための防御として。
本の全編に渡る絶叫は、鈴木氏の「適応」しないぞ、という叫びのように思えました。
とはいえ、本の記述は決して感傷的ではなくあくまでロジカルです。
ロジカルでないと、見えなくなってしまうのが、最貧困女子だからです。
幼少期には、家庭からはじき出され、それと連動して児童福祉から「見捨てられ」、
少女期には、地元の女子グループからはじき出され、何より地元からはじき出され、
そんな絶え間ない選別と排除の結果、最貧困女子が生まれていると、鈴木氏は書きます。
丁寧に記述することで、鈴木氏は「でもそれって自己責任でしょ」というエクスキューズを封じているように思えました。
自己責任論は、ありとあらゆる立場から発せられていて、そのひとつでも「あり」としてしまえば、最貧困女子の存在が見えなくなってしまう。
個人的に読んでいて辛くなったところは、彼女たちの成功体験と失敗体験についてのところでした。
失敗体験の話からいきましょう。
”だが問題は、その補導時の対応だ。基本的に、警察の少年課や地域の少年補導員、児童相談所などは、万引き少年少女の補導時には親や施設の先生などの保護者を呼び出すという、杓子定規の対応しかしないことがほとんどだ。確かに少しは話を聞いてくれるから、少女としても、『この人は頼れるかも』と淡い期待を抱くが、最終的な対応である『保護者の呼び出し』『虐待する親のいる家や居心地の悪い施設への送還』は、彼女らにとっての裏切り行為となる。これがいけない。”(p.88-89)
緊急的に福祉の対象となるべき状況にあるにもかかわらず、当事者自身が、頑なに福祉による救済を拒否する心情の根底には、上記のような幼い時期の失敗体験(福祉や行政は助けてくれない)が横たわっている。
失敗体験は、強力に刷り込まれて、福祉による救済への反発力として働きます。
次に成功体験です。
家と地元からはじき出された女の子は、路上に出ます。さしあたって必要なものは、毎夜の安全で温かい寝場所(居場所)です。
それを与えてくれる人間は、まず第一に買う男であり、風俗のスカウトであり、アウトローなセックスワークの関係者たち。
(ああ、また書くのが辛くなってきた。)
彼女たちが、そういう方法で居場所を確保できたことは、成功体験となります。
失敗体験と同様に、成功体験も、強力に刷り込まれて、肉体と尊厳を犠牲としてその日その日をやり過ごすことへの親和力として働きます。
ただし、その対価の価値が「若い女だったから」に過ぎないので、年齢を重ねたり、さらに若い女性が現れて相対的な若さを失ったりすることで、簡単に崩壊してしまうものです。
障害者福祉、特に就労支援の世界で、よく言葉にするのが、まさに成功体験と失敗体験です。
社会に出たことのない人や、何らかの事情で社会からはじき出された人に対して、自信と経験を身につけてもらう方法として、とにかく小さいことから成功体験を積み重ねるということをします。
それを繰り返すことで、社会へ出る(戻る)ための基礎体力をつけてもらいます。
とはいえ、本当にそれがいいのかどうかは、当人にしかわかりません。
支援する側として、この手法ですら相手によっては押し付けではないかと思ってしまうこともあります。
彼女たちのケースに目を通すと、成功体験と失敗体験は、(それが外野の人間が望んでいるベクトルと正反対だったとしても)やはり強烈に人の心に作用するものだと、図らずも証明されてしまったような気がしました。
この本で鈴木氏は、後半で風俗やセックスワークで働く女性を分類し、状況を少しでも改善するための方策を提案しています。
幼少期には、子供たちが、夜でも居ることができて、ご飯が食べれて、ゲームができて、年長者になってもウザくならない(重要!)、シンプルに「居たくなる居場所」を作ること。
思春期には、街で出てしまった少女たちを「家に帰す」に終始することのない、「『少女自身による独立』への意思」を尊重した支援を行うこと。
また、少女たちが恋愛に依存しやすいことを肯定して、自爆的な失敗をしない恋愛ができるような「恋活」の重要性。
そして、それら全てを踏まえた上で、支援の制度が整わない間の、苦肉の策としての「セックスワークの脱犯罪化・正常化・社会化」。鈴木氏は、本文中で、明確に未成年者のセックスワークを「非人道的」と否定しているので、まさに苦肉の策として提案しています。
そして鈴木氏は、これらの提案を、専門家でもない一介の記者が考えた稚拙な提案と、何度も何度も前置きしながら書いているのです。
その前置きの中からも、冒頭に書いた鈴木氏の絶叫が聞こえてくるようです。
よくはてブやツイッターなどでメタ視点で「これは良いリトマス試験紙」という発言を見かけるけどこういう勝利宣言ってバカみたいだよ。
どうも左翼の人に多い傾向が見受けられるけど、なんで物凄い上から目線で人をふるいにかけて「馬鹿と賢い人が分けられましたよ(喜)」って言えるんだろうか。
もしくは「敵と味方がこれでわかりますね(ドヤッ)」なのかな。
この発言している時点で馬鹿だと思うことにしているけど。
「このネタで、お前が俺並みにわかってるかどうか俺が判定してやるよ」的な使い方は確かにイラッとくるかも。
でも、たとえば2つの価値体系が交わるところで発生するような具体的問題に対して、各人がどう考えるかという
「リトマス試験紙」もあって、それは結構おもしろい。自分自身も含めて試験される感覚といえばいいのかな。
最近話題のトピックで言うと、言論の自由とヘイトスピーチの関係とか、女性の人権とセックスワークの関係とか。
どっちを取るかだけじゃなく、どれぐらい考えて答えるかで、その人のひととなりが見えたりする。