はてなキーワード: 雑務とは
雑務を仕組み化せざるを得ないチームってもう死んでると思うんですよね。
子供の頃からの夢だった研究者になれて10年たったけど、やめることにした。
毎日12時間以上働いて週末も研究室に通い続けたけど、年収は600万円程度で、誰とも会わずやりたいことも何もできずに研究だけしていたら、気づいたら10年たってた。
給料を上げるか、研究以外の時間を減らしてほしいと教授にお願いしたんだけど、「頼んでもないのに勝手に長時間働いて勝手に疲れてるだけじゃないか」と言われて、急にこの10年本当に無駄だったという気持ちになった。
確かに裁量労働制で働く時間は自分で決められるけど、後輩や学生の指導や雑務を引き受けて、他の人よりはるかに仕事量は多かったけど、そういう風に思われていたんだなって。
こんなに頑張ってきたのになぁ。
今年度で研究プロジェクトが終了するので、また応募書類を準備する時期だ。
疲れた。
共産主義政党においては最高幹部がこの名で呼ばれることが多い。その筆頭である党の書記長(かつて存在したソ連や東ドイツ)や総書記(中国)は最高権力者にあたる役職の名称となっている[4]。
会議の議事をまとめる書記がなぜ役職名になったのかいくつか説があるが、ヨシフ・スターリンの地位に由来するというのが有力な説となっている[4]。ソビエト連邦共産党ではスターリン以外の党幹部は民衆への演説を重視してデスクワークを雑用とみなして嫌っており、スターリンが党の「雑務」を引き受けることになった[4]。しかし、この「雑務」の中身は地方幹部の人事や資金の調達などであり、これらの決定権を掌握したことで最終的に書記が党の最高権力者の地位になったとされている[4]。
うちの部署は明確に盆休みが設けられているわけではないが、社員の大半は夏休や年休を盆で消費している。ただ慣習的に各プロジェクトで一人は出勤しなければならないため、私は火曜日を除いて出勤することにした。といっても別に押し付けられたわけではなく、これまでの経験的に客も取引先もいない状態でする仕事ほど捗るものはないため自分から立候補したものである。入社してこれまであまり盆に休んだ記憶もなく、時期をずらして長期休みをもらっている。
しかし今年度に関しては誤算があった。これまでのプロジェクトは夏が繁忙期で、盆までに雑務が蓄積し、それを一気に取り崩す作業をしていた。一方今年度はチームが代わり、夏は閑散期。8月はそれまでもほとんど定時退社で、やっていることの大半は取引先とのやり取りだ。取引先が休みに入り、やり取りがなくなると……「無」が生まれてくることになる。
昨日までの2日間、9時に出社してメールを開いてなにも来ていないことを確認し、その後は部署全体にきていた自分と関係ない通知を詳しく読んでみたり、研修動画を見てみたり、それでもやることなくなって増田を開いたり(増田は文字だけだからヤフーニュースとかより他の人にサボっていることがバレにくい)して、17時半が早くくるのを待っていた。雑談する同僚もいなければ会議もメールも皆無。時間はひたすらに長く感じた。あと1日虚無が続くのかと思っていたら、台風で原則全員テレワークとの通告。今日は申し訳ないが朝からゴロゴロさせてもらっている。今も時間内だが、ベッドに寝転んでこの増田を書いている。今日は何通かメールきたが、それはちゃんと対応したから許してほしい。
とりあえず、来年も同じプロジェクトだったら、なにも遠慮せず休みを全日もらおうと思う。まあ、今日休みとってたとしても台風でどこにも行けなかっただろうけど…
注目の科学論文数、日本は過去最低の13位 1位中国、2位米国
増田は某国立大学の工学部で教鞭をとる40代の准教授である。その視点からの話であることはご承知おきたい。
こういう記事のブクマには政策が悪いとか選択と集中が悪いとか色々つくが、社会が構造的に「向いていない」という話を書きたくてここに書く。
みんな気になるだろうから、これを先に書く。
最近になってにわかに科学研究が大事ということになって色々な研究予算が付くようになった。工学部だと企業との共同研究のお話なんかももらえるので、えり好みしなければ研究費を取りやすい環境にある。
どういうことかというと、この手のお金は期限がついていたり使途が決まっていたり、いろいろと紐がついている。そして、必要なところには回せないことが大半なのだ。
例えば人件費。民間企業ではありえないことだが、国立大が人ひとりを無期雇用で雇うためには、退職までの予算を確保することが必須なのだ。国からの運営費交付金や寄付金のような、必ず退職まで支払われることが確実な予算で裏付けないと無期雇用の人を雇えない。民間企業なら、人を雇うときに予め退職までの給料を積み立てておくというようなことはせず、営業を頑張って給料を払うだけの売り上げを確保するものだと思うが、国立大ではそういうわけにはいかない。色々な企業との共同研究を締結し、外部資金を獲得して、その人の給料を確保する、仮にできなかったら身銭を切ると教授が宣言しても、そういう期限付きの契約では無期雇用の人を雇えないのだ。
秘書や事務職員ならまだしも実験機材を維持管理する技術職員とか、研究員とかもこの縛りを受けるので、必要な人を必要なだけ確保することができない。運営費交付金は人件費だけでなく建物や設備の営繕にも使われるのだから、やれ70年代80年代に建てられた校舎の改築だとか、光熱水費だとか、とにかく運営費交付金の増額が望めず物価が上昇し続ける昨今、大学にはお金が無いのだ。
ちなみに、外部資金をたくさん取ってきたからと言って自由に使えるわけでもない。大概の研究費は他の外部資金と混ぜて使ってはいけない縛りがあるので、例えば研究費A で岡山の学会へ行き、次の日から研究費Bで広島の共同研究先で実験をする、みたいな場合でも、いったん大阪の自宅へ帰って一晩滞在することで研究費を分けないといけない。実験機材も合わせて購入するということはできない。100万円の研究費をふたつつかって150万円の機材を買うことはできないのだ。これが研究費は増えてもお金が無い、という事情の内幕である。
昔からアルバイトに熱心な学生やサークル活動に精を出しすぎな学生は確かにいた。最近は就職活動に時間をかけすぎな学生が多い。夏休みはおろか授業期間中もインターンにかかりきりだし、ウェブテストの後で何度も面接をさせられ、いきおい、学生は疲弊している。日中の貴重な時間を研究室ではなく就活に費やし、奨学金や親からの仕送りでは足りない学生はアルバイトまでしているのだから、卒論や修論の質は落ちる。企業はガクチカとか聞く前に、理系の学生を研究室で研究させてあげてほしい。学部生の卒論は半年から1年しか期間が無いのに最後の数か月を除いて就活とまるかぶりだし、2年間しかない修士課程の1年は就職活動で消えている現状で、大学から研究成果が出ないと言われても、どうしようもない。
研究というのは、専門書を読み、先行研究を調べ、仮説を立て、手を動かして仮説を検証し、その結果を文書にまとめるサイクルである。これがきちんとできる学生であれば、どんな仕事に就いても立派に働ける。たぶん。
というか、企業の採用も、もっと必要な資格や能力を具体的に書いてほしい。今どきの学生は真面目なので、特定の資格を持っていると就職に有利だとわかればそれを取るようになる。大学だって国の資格などであれば学科免除などを取りに行って「就職に有利」みたいな売り文句で学生を集めやすい。どんな企業だって欲しい資格や能力は採用時点で分かっているはずなのだから、それくらい明かしてくれてもよかろう。
博士課程の大学院生、というのは研究を進めるうえで大変貴重な戦力である。なにしろある程度は自力で研究を進めてくれるし、そのレベルも論文として世に問えるものである。
ところが、である。ちょっと考えてほしいのが博士課程の魅力だ。日本の博士課程は、基本的には学費を納入して「学ばせてもらう」スタイルである。その分研究テーマの自由度は高いし専門性を高めやすい。一方で、ある程度経済的に恵まれていないと、3年間の生活をどう工面するかという問題が常に付きまとってしまう。最近は、学振の特別研究員のような昔からある登竜門的に限らず、各大学の工夫や国の政策で博士課程進学者を経済的に援助する仕組みが整い始めている。とはいえ、それらに通らなければ学費や生活費を調達せねばならないし、採否の通知は年度末か入学後なので、まったく安心できない。どれほど優秀であろうと研究に向いていようと、金がない学生は就活するしかないのだ。
さらに、就活に際しても博士課程は買ってもらえない。就活サイトを見ればわかるが、技術職採用でも研究職採用でも、博士号持ちの人の初任給は明示されない。修士課程の初任給しか書かれていない。これを見た学生は、修士号持ちと博士号持ちの初任給は同額だと理解する。聞くところによると、博士号持ちの初任給は修士号の入社三年目くらいかそれ以上らしいのだが、書かれていない情報などあてにできないので、就活する側からみると前述の理解となる。これでは、博士号を取っても何も良いことはなさそうである。
欧米ではではの出羽守だが、海の向こうでは、博士課程というのはプロジェクトから人件費を支給される研究員である。仕事の扱いだから労基法にも守られる。しかも、博士号を取れば仕事の口も増えるし給料も上がる。
ドイツなんかに行くと、博士号持ちは英語さえ話せれば仕事に就けるが、修士号まではドイツ語を話せないと仕事がない。Dr. と表札に書けるオマケはさておくにしても、それくらい社会的な扱いに差があるのだ。もちろん、給与の出どころである研究プロジェクトが終わると別のプロジェクトで雇われるまで博士課程を続けられないとか、プロジェクトの元締めである指導教員と相性が悪いと人生大惨事になるとか、いろいろなデメリットもあるが「博士課程の研究員」という仕事に就いている扱いなので、無理だと思うとみんな中途採用で企業に転職したりする。それくらい、普通の仕事の扱いであれば進学者も増えるだろうし、博士号を取っておけば食うに困らないくらいの扱いになってくれれば、みんな喜んで進学してくれるんじゃないかと思うがいかがだろうか。
大学に安定的な予算が十分ないために人を雇えないという話を最初に書いたが、そのツケをどう払っているかというと、パーマネントの教職員が頑張って回している。いや、有期雇用の教職員にやらせることもあるけど。来年度には任期切れで退職するような教員に入試問題を作らせたりされてよいものか?高校への出前講座とかアウトリーチ活動が必要だと言われたときに来年退職する先生を送り込んで誰が進学してくれるのか?定年退職した技術職員の後任は予算不足で雇えませんでした、となったときに機材の修繕を誰がやるのか?それでなくても、学生の就職や研究指導の面倒は必須である。
というわけで、大学の先生は講義以外にもやることがだくさんあるのだ。とても研究をしている場合ではない。雑務と呼ぶ人もいるが、講義や研究以外にも誰かがやらねばいけない仕事なのだから「雑」はないだろう。とはいえ、昔は若手の教員がやっていたような事柄も、若手ほど任期付きになってしまったのでシニアの教員がやらねばならなかったり、幸運にも無期雇用を勝ち取った若手に集中してきたりするので、DXで仕事の効率が2倍になっても仕事は3倍に増えるのだ。偉い先生方は偉い先生方で、改革と称して新しい企画を立てないと予算をくれなくなったので、朝令暮改もいいところのマイナーチェンジでお茶を濁したような企画書をいかに気宇壮大に書き直して追加予算をゲットするかに時間を使っている。夏休みも暇かといえばさにあらず、老いも若きも科研費などの外部資金の申請書と格闘している。倍率が10倍近くても、何とかして手に入れないと満足に研究ができないのだから仕方がない。
ちなみに、大学によって、また学部学科によって異なるが、国立大の教員が競争的資金なしに受け取れる、平たく言うと自由裁量経費みたいなものは、年10万~30万円くらいである。国際学会の参加費が10万円を超え、海外の論文誌の投稿料も10万円くらい取られるこのご時世に、である。どれほど世紀の大発見をしようとも、世に問うためには論文化して論文誌に掲載されねばならず、掲載されるためには投稿料を払わねばならないのだ。そして、その投稿料ともらえる経費がほぼ同額ということは、外部資金が無ければ研究 XOR 投稿という選択肢になってしまう。日本の論文誌であればもう少し安く、数万円で済む。ただ、そういうところに掲載されても「注目の科学論文数」にカウントされることはない。これが現状である。
それにしても、研究をして論文を書いて世に問うためには先立つものが必要で、それが外部資金が無ければ全く足りていない、という状況であるにもかかわらず、外部資金を取るためには論文を世に出さねばならないというのは何とも困ったものである。このあたりの必要経費と割り当て予算のアンバランスはどうにかならないものだろうか。
というわけで、大学の先生というのは、外部資金が無ければ研究ができないために年中予算の確保に腐心しており講義や学生指導は当然やるのだから、研究をしている暇はない。その先生を雇うお金はもちろんそれを支えるスタッフを雇う予算すら、外部資金のようなひも付き予算からは支出できないために全学的に人手不足の状況で、この傾向は悪化こそすれ当面改善する気配はない。代わって研究の主力となりえるのは博士課程の大学院生くらいだが、日本人の学生ほどこっち方面のキャリアに魅力を感じずに就職してしまう。それどころか就職活動は過去にもまして無暗と時間を食うような仕組みになってきており、研究活動でスキルアップさせようもない。これが日本社会の現状である。
小中ともにろくな先生ではなかった
小学校の先生はワイのことは可愛がってはくれたけど、正直、教師&社会人としての質はあまり高く無かった
ただ、ワイ個人にはとても良くしてくれたので、何かあったら名誉を傷つけるようなことは言わないであげたい
教師&社会人としての質がゴミだったのはもちろんの事(実際、刑事事件で捕まったとんでもねー奴もいるし)、
特に可愛がってくれたわけでもなかったので、名誉を守ってやる必要性ねーなって思ってるけど、
キッズならともかく、中年が遠慮なく言いたい放題言うと、え〜ヤダーあの人ー💦ってなるので、
何かあったらよく殴られたことだけ言おうかなって思っている。べつに殴られたはくらいはいいよなぁ、殴る方が悪いんだし
しかし、あの当時のワイは殴られて、なぜ訴えると言う発想がなかったのかと非常に悔やまれる。思い出したら腹立って来た😡
高校はなんか知らんけど前世で命を救った?レベルで非常に良くして貰った
教師としての質も異常に高くて、今でもそのご恩に報えていないことに、ちょっとモヤっとなったりする
(もちろん教師全員ではなく8割くらいはゴミだったが、数人ガチ聖人がいた)
・・・と、こんな経験をして来たので、べつに公立小中学校なくていいのでは?(名推理)ってなるんだよなぁ (高校はガチ聖人いたのであっても良い)
確かに今も付き合っている友達の1人は小中で出来たわけだが、別になんらかの子ども集める施設であれば同じ結果になっていたと思う
たぶん程度差はあれど、似たような思いして来た人が多いから、教師の待遇上げろって言われても、
ハァ???????????塾講師呼んできてオンライン授業でも受けさせておけやボケ!!!!!!!!!!ってなるんじゃねぇかなって
なので、小学校の教育は大事だよ~~~人生の基盤だよ~~~~親のフォローを受けられる子ばかりじゃないんだから~~~って言ったて、
家が荒れてるなかで、あの小学校・中学校だったら、今頃檻の中だわ😅としか思わんわけ
まぁ小学校の先生はワイ個人には良くしてくれたから、無理矢理良かった探しをするなら、ワイの通ってた小学校は何かのモデル校になっていて、
発言すること自体にインセンティブがある取り組みがあって、どんなどうでもいいことでも臆せず言えるようなったのは、もしかしたら小学校の影響もあったかもしれない
(でも、同じ小学校出身で同じ中学に進んだやつは、中学校行ったら発言しなくなったので、元の性格の方が強そうな気もしないでもない)
ゴミだけではなく、聖人みたいな まさに聖職者にも(高校でだが)出会っているので、学校は恵まれない子の人生の基盤だよ論に、ほんのちょっと興味もあって、
滅私奉公で、オンライン教育に尽力されたり、学業不振者をフォローされたり、限られた予算で障がいを持った子の可能性を広げようとしている先生方もいるのは存じてるし、
映画『みんなの学校』みたいな取り組みは素晴らしいなぁと思ってるけど、
聖人・先生と呼ぶに値する人だけ給与を3倍にして、あとのゴミはクビにしろがめっちゃ正直な気持ちなのよね
まぁ、どうしようもない先生にも生活あるだろうから、クビはやりすぎにしても、
どうしようもない先生の能力で出来る範囲のことだけやってもらうと誰も嫌な思いしなくて不幸がないよね
それこそ、基本は塾トップ講師のオンライン授業で、それでも理解できない子に個別フォローだけするとか、学校関係・授業準備関係の雑務だけやってもらうとか、
素晴らしい取り組みをしている先生だけ的確に評価することは、現実的には不可能なので、聖人・先生と呼ぶに値する人に報いようとを考えたら、全員給与3倍くらいにする他ない
あと、競争が働く仕組みが無いと残念ながら優秀な人材を得るのは難しいので、やはり給与を3倍くらいに上げるしか無い
福祉・教育分野にいがちな聖人にだけ頼ってたら、公共教育はどうにもならなくなるだろう
しかも今年は同じ学年の担当で、何なら4月から斜め前の席でいる。
近いと色々見えてきて、まぁなんでこんなやつと付き合っちゃったんだろうなって感じ。
去年の私は先生になったばっかりで何もわからなかったし、別の学年で絡みもなかったから騙されたけどまじであいつは変なやつすぎる。
そもそも激務の教員で、絡みがないのに新人にやけに話しかけてくる暇そうなやつは、よっぽどの世話好きのフレンドリー野郎か、仕事しない上に他に相手をしてくれる人もいない可哀想な人だわ。完全に後者。
若いってだけでもてはやされたり、いじられたらするのに、元カレに関しては誰も何もないし、何ならみんな目を逸らして苦笑いするあたり察したわ。
教育実習生に話しかけに行ってそのまま数時間居座って会議サボったり、職員室でスプレーして香水の匂い撒き散らしたり、勤務中に普通に居眠りするし、朝の打ち合わせ始まってから出勤して、校長が話してる中ご飯食べるし、まずクラスも学校の仕事やらんし、えっ何のことやってるの?授業だけ??年齢も経験も下のやつが何人もこんなに働いてるのに???まず授業もこだわり強いくせによくミスるよね。確認してるの????
てか普通に間違えたり、悪いことしたら謝れよ。なんですぐ言い訳するの?意味がわからないんだけど。
若手が動けとは言われるのまじ私だって嫌だけど、お前は動かなさ過ぎだよ。なんで暇なお前がやらなくて忙しい学年主任とか他の先生が雑務とか、誰でもできる生徒に呼びかける仕事してるわけ??職員室で呑気に音楽聴いてるんじゃねえよ。
テストのための教室整備ぐらいやりなよ、クソ汚いのを何で隣のクラスの先生が掃除してるの?まず生徒指導もなんでやらないの?生徒に嫌われるのが怖いわけ??指導担当の先生の前ではいい顔するくせに、いなくなった途端に人に押し付けてきて普通に普通に引いたんだけど。
気まずいから必要最低限喋らないし、何なら喋りたくない。話したところで話つまらないし。
まじ久しぶりにLINEきて付き合ってた黒歴史実感したわ。しかもLINEの内容お前のミスったやつの尻拭いの依頼かよ。まずミスったなら謝れ、そしてちゃんとお願いしろ。さも当然のように頼んでくるな。そして私のやった仕事、ミスをバレるのが嫌だったからかわからんけど勝手に消すな。
あー別れてよかったし、付き合ってる時も変なやつだなと思ってたけどまじで恥ずかしい。何も尊敬できない。
生徒に普通に今までの恋愛歴を報告してることとか、付き合ってすぐ匂わせしたことも、何なら別れた報告もして、次の狙ってる彼女候補(3人)について話してたことも、全部生徒から聞いたよ?ほんとにやめたほうがいいよ。
あと職場の飲み会で消えたと思ったら知らない女に声かけてるのやめろ。まじ病気だぞ。あと会費払ってないだろ。私を含めた幹事が負担したぞ。
あーーーー思い出すと色々でてくる。職場での秘密の恋()だったせいで全然話せないけど、まじで無理すぎる。最近は強めのエンターキー押す音さえイライラする。エンターキーがかわいそう。
とりあえず去年の今頃の私に言いたい。同じ学校のやつで、評判悪いやつと付き合うな。LINE交換するな。
早くブロックしたい。
おひとり様最高という風潮がしっかり根付いてきた昨今だけど、実際におひとり様で老いて死んでいったサンプルはまだ少ないと思っている。
なぜなら、おひとり様最高という風潮は最近出てきたもので、それを謳歌している女性はまだ寿命から程遠いところにいるからだ。
ロールモデルもいないのに、何がどう「最高」なのかはわからないがとにかく今「おひとり様最高」という状態の女性は増えている。
しかし独身の女性は35歳になると少し様子が変わる。自分の縄張りがはっきりと存在していないタイプほど特に。
地方出身で一人暮らしをしていて恋人やパートナーのいない女性は職場を居場所、縄張りとするために働く。
職場で自分は必要とされている人間であることを証明するために激務も耐える。
でも、実際には男ほどは働けない。男ほど責任やプレッシャーのある仕事は出来ないし、与えられない。
だからどうでもいい瑣末なことを重要であるように誇張して長時間かけて努力を周りにアピールする。雑務や掃除もどんどん引き受ける。
簡単に感謝される、簡単に成果の出るものを選んで進んで行い、ライトな感謝をされることで自分は今この場のみんなにとって必要な人間であると思い込む。
こんな感じで年収300万円前後の、うだつの上がらない、特にモテない、でも透明人間みたいに暮らすことは耐えられない独身女性が出来上がっていく。
このタイプの女性のやっかいなところは、少しだけ美人なところだ。
大体が目も当てあられないブスというわけでもなく、普通と評するにはすこし綺麗な人だったりする。
学生時代はどのコミュニティにいても粗末な扱いを受けないで済む程度の顔や体型、それに若い年齢バフもかかってちょっとちやほやされていた層。
そんな女性たちも35歳を過ぎると、しっかりとおばさんになっていく。
本人たちの中では「粗末な扱いをされない程度には見た目がきれいである」「見た目について悪く言及される機会がなかった」自認がずっとありつづけるので、35歳すぎて360℃しっかりおばさんになっても、美人がする他人への振る舞いしかできない。
だから多少横暴だし、声も大きい、文句も多く、そういった振る舞いをしても男が許してくれると思っている。
実際に、職場だとわざわざ揉める必要もなく、そんな面倒を率先して請け負う人も現れない。
こうして「昔は多少美人だったんだろうけど、年齢による劣化やキャリア形成ができなかったことを自認できないおつぼねおばさん」が出来上がる。
この世には、上記のようなおばさんばかりではない。
なんとなく存在感は薄いし、目立たないけど雑務ではない専門性のある仕事を粛々と行い、感謝されることにこだわらない、さらっとした印象のおばさんもいる。
世話焼きなわけでもなく、人当たりは良いので色々と質問や相談もしやすい、建設的な回答をくれるからコミュニケーションストレスがない。
そういったおばさんはきっと若い頃からそういう気質だったのだとも思う。
粛々と勉強をし、人と交流し、心を許せる人を見つけ、もし気が合わないことがあってもなんとなく穏便に交際を進めて、静かに結婚していく。
既婚女性の中にも狂ってしまった人多々はいるが、独身女性で上記のようなさらっとした印象のおばさんというのはもっと珍しいと思う。
と、いうのを感じる。
御局様とは縄張り意識が高いにも関わらず、集団への責任も取れないのに群れの長扱いをしてほしい欲求を捨てられない人間のこと。
20代半ばまではなんとなくうまく付き合えていた同僚が、そういう狂いに少しずつなっていくことが、少し、さみしい。