はてなキーワード: 規則とは
コギトの原理(私はある、私は存在する)の成立条件に注目しデカルトは明証性の規則(私がきわめて明晰に判明に認知するところのものはすべて真である)を導き出す
→明証性の規則に従って導き出された事柄も四つの根拠で疑うことが出来るのでは?そしてそのように疑わしい事柄しか導きだせないなら明証性の規則を確立しても意味がないのでは?
☆「感覚は時に誤る」という根拠で明証性の規則に従って導き出される事柄を疑えるのか?
感覚が誤りを犯すように見える時、実はその時誤りを犯しているのは感覚ではなく感覚内容に余計な判断が付け加わることで誤りが生じている
ところで、明証性の規則に従う限り、こうした余計な判断がつけ加わることなくその結果感覚が誤るように見えることもなくなる
従って、明証性の規則に従う限り、もはや感覚は時に誤るという根拠で物事を疑うということが出来ない
☆<夢と現実を区別するための明確なしるしがない>という根拠で明証性の規則に従って導出される事柄を疑えるのか?
→少察5,6 で次のように解答
生涯の他の部分との連続性を明晰判明に認知できるということを我々は夢と現実を区別する印とみなせるはず。 さらに例えば数学的真理は明晰、判明に認知される限り、夢の中であろうと現実のなかであろうとその真理性が揺らぐことはない。つまり極論すれば、明証性の規則に従う限り 夢と現実の区別するための明確なしるしがない という根拠に物事を疑うことはできない。
☆ 「最も簡単な数学的真理に関してさえ人は時に誤る」という根拠で明証性の規則に従って導出される事柄を疑えるのか?
→「哲学の原理」などでは次のように解答 数学的真理に関しては公理(それ自体は証明不可能だが、直観的に真だと確信できる原理に十分な注意を払って推論・証明を行う限り 本来 誤りは生じえない
ところが人間は、公理に対する注意が保ちきれず、その結果 数学的真理に関して誤りを犯す
ところで、明証性の規則に従う限り、こうした不注意はあり得ず、従って数学的真理に関して誤りを犯すこともなくなる
それゆえ 明証性の規則に従う限り、「最も簡単な数学的真理に関してさえ時に人は誤る」という根拠で物事を扱うことはできない
「神または邪悪な霊による欺きの可能性」という根拠で明証性の規則に従う限り、の規則に従って導出される事柄をうたがえるのか?
神が欺かないことの証明
欺きは全て欠陥に基づく
⇩
ところで、存在の証明された神は「すべての完全性を持っており、いかなる欠陥からも全く免れている神」にならない
⇩
従って神は決して我々を欺かない
ギモン)邪悪な霊による欺きの可能性は?
これに対する直接的解答は与えられていない。しかし「省察4」で展開される議論を参考にすると 恐らく次のように解答可能
仮に邪悪な霊をつくったのは神だから神が邪悪な霊を手先に我々を欺いていることに
⇩
ところが神は決して我々を欺かないから
こうしたことはありえない
⇩
従って邪悪な霊が我々をを欺くことはない
→以上の議論により「神または邪悪な霊による欺きの可能性」が打ち消されることに
従って、明証性の規則に従う限り「神または邪悪な霊による欺きの可能性を根拠に物事に従うことはできない
デカルトが感じる不安→自分にこれまで何度も誤りを犯してきた。仮にこの誤りの原因が特定できないと、これから先も同じように誤りを犯すことになるのでは?
この不安を解消するため、デカルトは誤りの原因を特定する作業に取り組むことに。
このうち意思する能力は極めて大きく神における意思する能力に匹敵するほど完全。
なぜ?
意思の本質→他から強制によることなしに自らの判断に基づいて何かを決断すること。
これを「私」は十分備えている。そしてその限界で意思の力は完全に近いと言える
⇩
こうした強大で完全な意思する能力が誤りの直接的原因になるとは
考えられない
他方、認識能力はきわめて小さく不完全だが、我々を決して欺くことがない神によって与えられたものだからこれが誤りの直接的原因だとも考えられない
→この結果一瞬デカルトは戸惑うがすぐにいい考えを思いつく
「それでは、私の誤りはいったいどこから生じるのであろうか。この1つ1つのことからすなわち意思は悟性よりも広い範囲に広がるものであるゆえ、私が意思を悟性と同じ範囲にとどめておかずに私の理解していない事柄にまで及ぼす、というこの1つのことから生じるのである」
複数のものから選べってのがあったが、違和感だか疑問だかを覚えた。
「適当」って言葉になんか価値判断が入っている気がして違和感があったんだよな。
かなっていること。ふさわしいこと。
また、そのさま。「工場の建設に―な土地」「この仕事に―する人材」」
ってことなので、上の問題は条件だけにうまくあてはまることを課しているってことか。
詳述すれば、元の図形には規則性みたいなのがあって、仮にその規則性に従うとしたら、
どの図形が「適当」かってことだろうな。
俺が混乱したのは、
その規則性を仮に正しいとするのではなく、その規則性自体が適当か評価するという課題をも含むように思えて、
そうだとすると、そこにより基礎的な目的・要求についての価値判断も問われることになるってところか。
最初に見せられて疑問に思ったのは全部黄色で一か所だけ欠けていて、
まあ俺は黄色を選ぶが、正直何色でもいいじゃんってなるな。
ふむ。そう考えると、より本質的なのは「規則的かどうか」よりも「自分のペースかどうか」と言えるかもな。
毎日規則正しく午前2時から昼の12時まで仕事してそこから寝るのが良いのに、無理矢理9時5時に合わせて仕事させるというのはクリエイティビティを棄損すると思わないか?
中小ったって企業なんだから間違いなくどこかに存在しているはずなんだけどな。
以前在籍していた会社では、入社時(新卒・中途かかわらず)に紙ベースで規則集を手渡され、在籍中イントラネットでいつでも読める状態にあり、退職時規則集を返却することになっていた。
ついでに言うと36協定を締結して労基署に提出しているようだが、労働者代表(組合がない)が誰なのか知らないし、どのような内容で締結されているのか、知るすべがない。
36協定はともかく、就業規則っていつでも参照できる状況にしておくことが法的な要請じゃなかったっけ?
中小であれこれ整いきっていないところはあるとしても、さすがにこれはOKなのか…?!
24歳、女。
その事についての罪悪感だとか、自分の不甲斐なさだとか、そういったものが自分の中で折り合いがついていないのでここに書く。
私はそこで販売職として入社。大卒で販売職か、と思われるかもしれないが、接客が好きだし、人事もとても感じが良く、良い企業に入れたと喜んでいた。
自分で言うのもなんだが、私は同期の中では学歴が高い方だし、研修中は積極的に発言し、プレゼンもよく褒められていたし、私は人事から期待されてると思った。
50代男性。売れないと、あからさまに機嫌が悪い。他ブランドをけなしまくる。舌打ちをする。あとは特定されてしまうので詳しくは言えないが、あまりにも態度が悪すぎて、百貨店をクビになったこともあるらしい。色々問題はあるものの、大きな店の店長を任されていたのは、販売員としての実力があるからである。(いくら実力があるからとはいえ、問題のある社員を大きい店の店長にしている自体、会社のおかしさに気づくべきだった)
先輩も、ちょっと変だった。
全然接客しないし、パートさんとおしゃべりばかりしていた。商品の知識は、聞いても大体分からない。
勤務中に、定時前なのに勝手に帰ったこともある。私の事を生意気生意気言い、話を大げさにして悪口を広める。
今思えば、他の先輩も非常識だったり失礼なヤツが多かったと思う。
しかし、悪いことばかりではなく、職場では私はすごく若かったから、みんなに可愛がられたし、楽しいこともたくさんあった。
その問題ある店長も、表では怖い顔しながら、裏では私のことをすごく褒めていたりしたらしい。
私は、売上も良かった。他の先輩が、本当によく頑張ってるよね、と声をかけてくれたこともある。
店長の態度は少し良くなったが、売れないと睨むなどの威圧的な態度は変わらなかった。
50代女性も相変わらず悪口を広めるし、何か聞いても「は?」だったが、もう諦めることにした。
あと一人、嫌な人がいた。
40代女性パート。表では、私の事を可愛い可愛いいうくせに、私がミスすると鬼の首をとったかのようにみんなにミスを広める。
特に、お局的パートにすぐに言いつける。肌荒れてたり、唇が乾いてたりすると、「うわー肌荒れてるねー!」とか、「唇ガサガサだね!」とか言ってくるのもすごく嫌だった。
でも、人事には今の状況は再三言ってるし、注意もしてくれていた。
店自体は好きだし、仕事も慣れたところだし、異動する気はなかった。
上司が嫌だとか、職場に嫌なヤツがいるというのはよく聞く話だし、こんなものかと思っていた。
色々辛かったけど、「こんなもの」と思って受け入れることにした。
そして仕事のやる気も下がっていき、ほぼスッピンに近い状態で出勤したこともあった。
あと、仕事で怒られて家で泣いたり、家族に当たったりすることも多くなった。
仕事に身が入らないからミスをし、それを怒られ、また仕事に身が入らなくなるという負のスパイラルであった。
その日は体調が悪いと言って休み、次の日もいけず、これはヤバいと思い精神科に行ったら「休職しなさい」ということで、それ以来この店では働いていない。
人手不足の中、私が急にいなくなったことでどんなに迷惑しているだろうと思うと本当に死にたくなった。
2週間くらいは泣きすぎて記憶が無い。1ヶ月経って、精神科の先生に働いてOKと言われたので、異動して働く事になった。
お世話になった店に、挨拶に行ったら、お局的パートに「あんたみたいなのは異動先でも生意気なこと言って殺されるわよ」と言われた。怖い。
次のお店は、人は本当に良い人だった。
生意気だなんて、一回も言われなかった。
しかし、私はうつになりかかってしまったのか、能力が驚く程落ちてしまった。
とにかく、忘れっぽくなってしまったのである。言われた指示を、最後まで聞いて、覚えて、実行するということがさっぱりできなくなってしまった。
今度の店長はすごく良い人だったが、さすがにイライラしていた。
また、通勤中や、お店に立っている時、動悸がした。
非常に疲れやすく、駅のホームでしゃがみこんでしまうこともあった。
家に居る時も、何にもないのに涙ぐんでしまう。
お客様に笑顔を向ける、ということもすごくしんどくて、ついに感じが悪いというクレームも来てしまった。
まともに働けていないし、仕事を辞めたいと店長に相談したところ、人手不足なので辞めてほしくない、退職はいつでもできるから、また休職してはどうかと言われた。
2回目の休職では、休みに入った途端、色々な抑うつ症状がいきなり治ってしまった。
今まで、期待に応えなければいけない、新卒で入った会社はなるべく辞めない方がいいという考えに縛られていたが、その限りではないのではないかと思った。
見たところ、店長は色々なことが求められるわりに見返り(給料)が少ない。
最初は、私もゆくゆくは店長となり、店を引っ張って行こうと考えていたが、これは、あまり良い道ではないかもしれない。
それに、第二新卒で辞めた人は何人かまわりにいるが、みんな普通に働いている。何とかなっている。
なかなか上手くいかなかったが、私はとある企業の営業職に内定をもらい、そこに勤める事にした。
退職について話し合った人事は、私が就活のときからお世話になっていた方だった。
私が退職をしたいというと、やはり暗い顔をした。
しかし、私の意志が固いのをみると、「分かりました、また機会があれば一緒に働きましょう」といって退職を受け入れてくれた。
短い間だがお世話になった2回目のお店にも、退職になった旨をご挨拶に行った。
社員の中には、私が一人前になったら辞めようと思っていた人もいて、帰ってこなくて残念だと言っていた。
これも自分の決断なのだが、やはり、今でもこのような退職をしてしまったことについて色々思う事がある。
規則正しい生活をしているか、食事は3食しているか、先輩が私に意地悪だったのは、私にも原因があるのではないか。
日々の生活時間を書くように言われた紙を、さも規則正しく生活しているように、雑な字で出してしまった私。
一日中やることがないのに、規則正しくなんて生活できるはずがなかった。休職中は、絶賛昼夜逆転中だった。
その紙を見た人事は、絶対、嘘を書いていると見抜いていたと思う。そういう顔をしてたから。
1回目の店では、ひどいことが色々あったけど、楽しいことも色々あって、意地悪な先輩も優しいところもあって、辞めたいとは思っていなかったこと。
2回目の店では、今度こそ頑張ろうと思っていたこと。でも、ダメだったこと。
めちゃくちゃ覚えが悪かった事。そのせいで店長を顔が引きつるほどイライラさせてしまったこと。
会社の期待に沿えなかったこと。
なんでこうなっちゃったんだろうな、どうすれば良かったのかな、と、今でも思う。
しかし皮肉な事に、あれだけ企業の専門医に「規則正しい生活をしなさい」と言われていたのに、休職中はまったく規則正しい生活はできず、新しい会社に入った今、11時に寝て7時に起きる生活ができている。
そもそも、販売職は早番遅番の日があるし、規則正しい生活は難しいのではないか。
今は、なぜか実行能力も上がり、帰ったら資格の勉強なんかしてしまっている。
資格を取ったり、上に行けば行く程見返りがドンと大きい仕事をしているからである。
思えば、もっと雇用の流動性が強くて、「新卒はすぐに辞めると良い目でみられない」などの偏見がなければもっと早く辞めたのにな、と思う。
少なくとも、いきなり会社にいけなくなったりすることはなかった。
今は体調良いし仕事もまあまあ上手くいってるから順調だけど、未だ前の会社のことは1日5回以上は考えてる。
その度にああでもないこうでもない思ってる。
学校保健安全法施行規則が改正され今年度より施行されました。座高測定の廃止の件です。
座高測定・・・廃止とはいえ名残でやるのかなぁ・・・とか思っていました。
新年度が始まり、身体計測の係の割り当ての欄に私の名前はどこにもありませんでした。身体計測では今年は何の係もありませんでした。
15年も座高を測りました。測った人数は延べ1万5000人以上です。
年度初めはお互い緊張していてまだ猫をかぶっているのですが、一瞬だけ生徒の本音が出るかもしれないときです。
浅く座ったり、背中を丸くしたりして座高を低く見せようとする生徒は
自分の体形を気にしている子なのかなぁ~?
自分に自信がないのかなぁ~?
とか何らかの悩みを抱えていることも教師として把握しているつもりでした。
座高が原因で冷やかしはあったかもしれないけど、いじめにまでは発展しませんでした。
私の場合、何事もなくて何よりでした。
来年は何かの係があるのか、それともまた何もないのかわかりません。
ただ言えること、
座高測定係は無くなりました。
ひたすら繰り返すことで、頻出語句や文章のリズムが自分のものになるので似たような文章が書けるようになる。
店主の妹が”それ”を呼ぶと、厨房裏の深淵から染み出るように、その異形の物体が姿を現した。
それは一見人間のようでありながら、頭頂部を十腕形上目の胴体にも似た冒涜的な角度を持つ
白い帽子状のものが覆い、付け根からは狂気じみた青色の触手が10本生え、それ以外は-いさ
触手は不規則に蠢いていたが、私が恐怖に駆られ後退した瞬間、 鏃状の狂った先端部分が
空中で私に向けられピクリとも動かなくなり、加えて地獄めいた丸さの顔面に不釣合いな大きさの
”それ”は腰に手を当て、どこか厭らしくニヤついた表情を見せながら、脳髄に響くような甲高い声で
http://anond.hatelabo.jp/20160413011057
正のエネルギーとは必ず正しいエネルギーたりえるでしょうか。仮にそうだとしても絶賛派の持つエネルギーはそれにふさわしいものでしょうか。
恐らくその根拠としては何事も賛美することや推進することこそが正のエネルギーだという思想なのでしょうけれど、悪事や間違いを推進することは正のエネルギーと呼べるのでしょうか。悪事や間違いを批判することも負のエネルギーなのでしょうか。
そしていきなりそのような立場に立ってしまうと、議論する物事の善悪や正誤の考察をする前提をすっ飛ばしてしまっているように思われてしまいます。そしてそのような所に絶賛派ラブライバーが宗教的だとか、盲目的で妄信的だと呼ばれる所以があります。
また、そもそも私的な体験の話をすれば、アニメ1期の時点では自分もアニメの内容の嫌な部分に目をつぶりながら作品全体の動向をポジティブに応援しようとしていたのです。しかし2期以降、先述のように作品展開の裏切りと汚染が加速拡大していくのを目の当たりにし、目を覚まして絶望するしか無かったのです。
とありますが、肯定をしている様子も殆ど見受けられません。ただ踏み台として蹴落とされるべき歴史としての存在を認めているだけに過ぎないでしょう。先述のメディアミックス理論の持ち出し方にもそれが現れているように思います。
アニメ版を叩くだけの負のエネルギーを注ぐのでなく、自分の好きな初期作品の素晴らしさをポジティブに語るべきでしょう。
自分の好きな作品を褒めるために他の作品を叩く行為は忌み嫌われることを増田もご存知のはず。増田が良いと思うものをポジティブに語る事で初期作品への注目も上がるのではないですか?
アニメ版を叩き貶める事で初期作品が注目されるのでしょうか?むしろその行為はラブライブ!作品群の全体を貶める行為となっている事実に気づいてほしいのです。
と、絶賛派ラブライバーは最終的にとりあえず批判する奴が悪なんだという方向に持っていきたがります。そこがアイドルヲタクというよりジャニーズヲタク的で、女々しく感じます。
また、批判への批判ですら批判であることや、何かを肯定する時には別の何かの否定を孕んでいることが多いことも留意しなければならないように思います。
恐らく全てを好みの問題で済ませられると考えているから脳天気に、表立って批判する奴が悪いと言えるのでしょうが、盗作問題などをはじめとした不可解な部分、問題があると指摘した部分を深く検討していただけないと原案派への本当の理解や同情は難しいと思います。
悪い所があったり、悪いことをしていたりしてもそれを批判することは悪いことだという考え方にはぞっとするものがあります。まるで盲目的な自分達を認めてほしいから目を覚ますようなことを言わないでくれと言っているかのようです。
ただ単につまらない、嫌いというだけで批判しないで済む状態であれば態々大きく批判しなくていいかもしれませんが、そのような甘く生温い状況ではないことを2期以降に強く痛感したのです。その内容の説明は既に先の記事でも今回の記事でもしていますが…。
それと、乱雑な感情や論理から導かれる暴力的な賛美や批判と、真摯な感情や論理から導かれる賛美&批判を一まとめにして考えることはナンセンスだと思います。
そのような指摘をみても、やはりアニメと劇場版のラブライブや2013年以降の作品プロジェクト全体は、積み重ねや面倒臭い決め事を破棄して、表面的で浅いつながりで結ばれた妥協と馴れ合いの間に合わせで叶えた物語が好きな人に支持された作品だったんだなと思えてきます。
好きだからこそより高みを目指したい、好きだからこそ勿体ない部分を指摘する、批判するという発想がないのでしょうか。ラブライブはもはや好きとはいいがたい作品に成り果てましたが、自分は好きな作品でも問題のある部分については批判します。好きだからこそ正直で誠実に向き合いたいからです。その点の行動をするかしないかについては好みで問題ないとは思いますが。
あえて単純化して例えれば、ピカソのキュビズムの絵画に対して『もう少し現実に合わせてもいいんじゃないか』と主張するくらいナンセンスな議論なのです。
この点は先述のレストランの例えで説明もしましたが前提のズレがあります。ラブライブの場合、写実画というには写実的から程遠く、キュビズムの方向に傾かせたというには写実的すぎるという半端な状態です。それがいいといえばそれまでですが、それが悪いといえばそれもそれまでです。
そしてそれらが地味で不規則な所を見ると、ただのミスなのではないかという気がしてなりません。また、ラブライブは芸術作品という意味ではキュビズムの絵画と同じでも一枚の絵でも一つの彫刻でもありません。ストーリー作品、キャラクター作品、物語なのです。さらにあのアニメ内でも『みんなで叶える「物語」』などと言ってしまっています。
つまり、ラブライブという作品がキャラクター性や物語性の描写の在り方について審議されるのは当然ですし、ましてやそれを無視してしまうだけでなく、無視して見る方が正しいかのように主張する態度は、作品評価をする上で致命的な怠りがあるように思います。
増田の観たかったものは、キャラクターの内面をリアルに掘り下げたドラマ。誤解を恐れずに言えば、スクールアイドル版のアイマスじゃないのでしょうか?
アイマスといっても色々ありますが、本家のアイマスやシンデレラガールズ(一応双方アニメのとしておきます)などはアニメのラブライブよりはともかく、物語性などについても、キャラクターが多すぎることや、原作で主人公であるプロデューサーの存在が軸となりすぎていることもあって内面の掘り下げについて理想には少し遠い面があります。またアイマスは原作がギャルゲー風の育成ゲームで芸能界の作品ですし、そのような物語性やキャラクター性などの部分への描写を前提する要素がラブライブより少ないことがその部分において許されやすい部分はあるかもしれません。
ただ、アイマスは声優などの外部のネタをキャラや作品に持ち込む二次創作的な風潮がラブライブより強く、そこが支持されてもいますがそこは自分にあまり馴染まない部分ですし、そこはラブライブには真似してほしくなかったのですが結果的に追従するように似たような道を歩んでいってしまった印象があります。
それでも、アイマスの原作はゲームであるという絶対的な軸があり、キャラクター的にもその区分けを比較的大事にしているので、ラブライブよりはファンの棲み分けがしやすくなっているように思います。
自分はラブライブを応援する以前にアイマスが好きだったのですが、アイマス2の騒動で距離をとるようになりました。あれも作品公式の運営への不信感を感じる騒動でしたけれど、その後アイマスは先述の区分けのおかげでなんとか致命的に沈み込むことはなく持ち直していったように感じています。また、当時のファンの多くが大きく問題視して糾弾したのも現状に対して盲目的で内容に興味があるのか疑問を抱いてしまうラブライバーの多くとは違う点でしたね。あまり高く評価するつもりはないのですが、結果的にはアイマスの場合はファンの意思がある程度「プロデューサー」として作用し反映されたおかげかもしれません。
対して、ラブライブに期待していた広い意味でのコンテンツの在り方は前回の記事http://anond.hatelabo.jp/20160330020728で言及した通りですが、そこでも述べた通り、ラブライブというプロジェクトはファンの意思や存在を「みんな」の中から排除したものだったという気がしてなりません。
京極監督と花田さんは物語性の軛からラブライブ!を解き放った。漫画や小説では表現できないアニメならではの特徴を最大限利用してアイドルを表現したのです。
アニメならではの特徴を利用したとしても、アニメでも表現できることを怠りすぎていたので批判されていることも考えていただきたいように思います。
物語性を「軛」と表現していますが、それは致命的な配慮の怠りで思い上がりですね。絶賛派は似たようなことを言うのである意味信頼できますが苦笑します。
別のとある絶賛派の人はキャラクター描写について批判する人をキャラクター至上主義はダメと批判したりしていますが、裏を返すと絶賛派は表現至上主義なわけです。
また、キャラクター性や物語性の描写の拙さを批判する人達は別にアニメの表現や演出のあり方を否定していません。
対して絶賛派はあの表現と演出さえあれば物語性やキャラクター性の描写は不要だ、ない方がいいくらに否定的に捉えているわけです。表現や演出をそれらの免罪符のように扱っているのですから。
しかし、先述の例えのようにシリーズアニメにおいて表現演出というのはキャラクターや物語性の拙さを打ち消す免罪符に足るものではありません。
まあメタ的に、「アイドルやアイドルファンというのは実はこんなに狂気的で下らないものだ」というのを、アニメ全体を使って表現したというのであれば、それはある種のテロリズム的芸術として評価できるかもしれません。
そういうものはオリジナル作品で勝手にやったのであればそういう作品性も面白い、有意義だと手放しでいえた可能性があったと思います。しかし、元々の作品の指針としてコンセプトが違う原案が存在する作品を預かりながらそれを行い、それらを生かしたとは到底言い難い状態にある作品となったので好き嫌いを超えた善悪の問題で批判しているのです。
超現実的であったり表現主義的であったりする要素を作品にあってはならない要素だとは思っていませんし、何度もいうようにそこを特別に批判しているわけではありません。
せっかくのシリーズアニメ作品で、物語形式だったのですからそのような最重要の部分を十分生かして欲しかったのです。
そして批判派の多くは勝手なミュージカルをするなとか急に踊り出すなとかいうのを言っているのではなく、そのような表現主義的な意図があるとは思えない単純な所でもただのミスではないかというような違和感を抱く描写があり、その点への指摘や批判すら絶賛派が、全ては芸術的な表現だからそれでいいんだというように無理矢理擁護してしまうためにうんざりしているのです。
仰っているような表現方法などに特化しただけのものでいいのならオリジナル作品や、またはそれこそ、PVだけ作っていてくれればよかったと思います。
それに対して「いやあの形のアニメだからいいんだ」と主張する場合の理由は、おそらく知名度が上がりやすく人気が出やすいからでしょう。
確かにラブライブというコンテンツは人気が出て欲しかったですし、知名度さえ上がれば元のままで高く評価されることが可能なポテンシャルは十二分にあったと感じていましたが、絶賛派が表現主義的に評価するアニメを、あの形でアニメ化しなければならなかったとする根拠を考えると、人気が出た作品のファンを名乗りたいという表面的な所に帰結していくように思います。
今となってはアニメ化せずに人気が出なくてもアニメPV付きシングルがもう何曲も出ていた方がただのファンとしてなら幸せだったなと感じます。
表現方法などが優れているとしても、前の記事でも言ったようにかつての作品の在り方とそれらの表現手法などは両立できたでしょうに、最初からしない道を選んだことを批判しているのです。
また、それがオリジナリティに溢れていたならまだしも、元々の原案に沿うことを拒絶しながら他の無関係の作品は平気で参考にして適当になぞらせるようにストーリーやキャラクター設定を(前回の記事で説明したような)稚拙な配慮の下に歪ませてしまったことが甚だしく受け入れがたい問題点なのです。
先生の言うのはどうらやら「県の生徒指導連盟」らしく、それをぐぐってみても何も出てこないです…県のサイトは出てくるのですが、生徒指導のページが見当たりません。
生徒指導連盟は活動はしているようです(そのような旨のニュース記事が出てきた)
県そのもののメールフォームはあるのですが、一介の高校生が急にメールを送ったところで動きがあるのでしょうか、もし送るなら従ったという前提のもと何故そのような規則を定め採用したのか尋ねたいですね…
お前らが漏らす漏らすというから漏らさないための秘訣を教えてやる。
・●をする曜日を決める
・前日の夜に下剤を飲む(プルゼニド・カマなど、量と種類は要調整)
・下剤を飲んだ後寝るまでに2Lの水を飲む
・当日の朝食はいつもより多めに
・浣腸を使ってすべて出し切る(軟●~泥状●まで)
・出し終わったらそれ以上出ないように下痢止め(タンナルビンなど)を飲む
・脂っこいものは食べない
・運動はし過ぎずしなさ過ぎず
・酒はあまり飲まない
俺はこれらを守ったら月2回だったのが2ヵ月に1回に減ったぞ。増田は漏らしすぎなんだよ。
警備業法に記帳されている教育(新任30時間・現任教育上期8時間・下期8時間)は義務付けられています。1級の検定保持者や警備員指導教育責任者の有資格者じゃなく普通の隊員がこの新任教育や現任教育を受けないとその後の半年の警備の仕事には就けないです。受けないと業務に就けなくなり経済的に死活問題になる教育です。
そこで教育する会社の選任警備員指導教育責任者が嘘を云ってはいけないですよね。その中で「現場で警備業務以外にタッチするな!」選任警備員指導教育責任者が云っていました。この事はこの会社の建前だったのでしょか?
昨年の11月に建設の現場でそこの職員の指示で保安要員で行っている警備員に看板の雪下ろしさせたり路上を竹箒で掃かせたりといった事をさせていました。その時問題あるからその事を現場の警備員の責任者に云ったのですが、一向に改善せず、この事を某所にメール送信したら警察が動いたことでユーザー(お客様)の建設に迷惑をかけた事で2月25日に警備会社に呼ばれに解雇予告通知書を部長から出されました。ただ地方公務員も問題があったから動いたのでしょう。私は最終的に職を失いました。
この件を匿名で労働基準監督署に問い合わせしたら公益通報者保護法に該当すると云っていました。
役所の推進につきましては、日頃から特段のご配慮を賜り厚くお礼申し上げます。役所の窓口です
。
ご意見をいただきました、交通誘導員についてお答えいたします。
本件につきましては、交通誘導に支障とならない範囲で警備会社の指示、交通誘導員の判断により看板の雪下ろし等を行っていたことを確認いたしました。この行為につきましては、警備会社の指示であるため「労働派遣法」に違反しておらず、かつ行為自体も「警備業法」に違反していないことから問題はありません。
また、某所による指導についてですが、某所へ確認をいたしましたがそのような事実はありませんでした。
引き続き、適切な道路管理に努めてまいりますので、ご理解とご協力をお願いいたします。
ただ警備会社がこういった事を指示したら不味いですよ。
以前、役所の安全大会で警備業協会の部長が「警備業務以外でケガした場合は労働災害保険適用されない」と云っていました。
YAHOOへの質問・警備会社が現場に行く警備員に業務以外の看板の雪降ろしや竹箒で路上を掃かせたりする指示を出したら問題無いでしょうか?
YAHOOの答・警備業務中はさせたらダメです。現場の交通状況によっては受傷事故の原因にもなりかねないですから。ただ作業開始前や終了後に自主的に行うような指導を行うと取引先からの会社や、その本人の評価に繋がってくると思います。
こういった解答が来ました。
企業の社会的責任(きぎょうのしゃかいてきせきにん、英語:corporate social responsibility、略称:CSR)とは、企業が利益を追求するだけでなく、組織活動が社会へ与える影響に責任をもち、あらゆるステークホルダー(利害関係者:消費者、投資家等、及び社会全体)からの要求に対して適切な意思決定をすることを指す。CSRは企業経営の根幹において企業の自発的活動として、企業自らの永続性を実現し、また、持続可能な未来を社会とともに築いていく活動である[1][2]。企業の行動は利益追求だけでなく多岐にわたるため、企業市民という考え方もCSRの一環として主張されている[3]。貢献度の指標としては功利主義的なSROI(社会的投資利益率)を挙げることができる。数値指標はピグー税に議論されるような検証不可能性という問題が残る。
そこで、無責任な企業を発見し淘汰する消費者世論の社会的責任(consumer social responsibility) 、あるいは市民の社会的責任(citizen social responsibility)が必要不可欠と考えられている。社会的責任投資(SRI)はより直接的に評価する。国際標準化機構(ISO)では、対象が企業(corporate)に限らないという見地から、社会的責任(social responsibility、略称:SR)の呼称で国際規格 ISO 26000 を2010年11月に策定した。日本語にも翻訳され、JIS Z 26000 「社会的責任に関する手引」として2012年3月に制定された[4]。
企業コンプライアンス(きぎょうコンプライアンス、regulatory compliance)とは、コーポレートガバナンスの基本原理の一つで、企業が法律や内規などのごく基本的なルールに従って活動する事、またはそうした概念を指す。ビジネスコンプライアンスという場合もある。「コンプライアンス」は「企業が法律に従うこと」に限られない「遵守」「応諾」「従順」などを意味する語だが、以下では主にこの語を使う。なおRegulatory complianceは直訳すると「規制追従」という意味になる。
今日ではCSR(corporate social responsibility の略。企業の社会的責任履行)と共に非常に重視されている概念、仕組みである。
2000年代から、法令違反による信頼の失墜や、それを原因として法律の厳罰化や規制の強化が事業の存続に大きな影響を与えた事例が繰り返されているため、特に企業活動における法令違反を防ぐという観点からよく使われるようになった。こういった経緯から、日本語ではしばしば法令遵守と訳されるが、法律や規則といった法令を守ることだけを指すという論もあれば、法令とは別に社会的規範や企業倫理(モラル)を守ることも「コンプライアンス」に含まれるとする論もある(後述の「コンプライアンスとモラル」参照)。また、本来、「法的検査をする」といった強い実行性をもっている。
以前、社会人になってしばらくくらいの頃に、仕事がキツくて学生時代の友人に愚痴ったことがあった
その仕事は夜勤や不規則な呼び出しが多く、しかも俺のいたところは時間外をちゃんとつけてくれなかった
でもその話を聞いた友人は、「まーそういう仕事だし、仕方ないんじゃねーの?」って感じで
俺は「ああ、自分の仕事は友人にさえ辛さを聞いてもらえない、本当に最底辺の奴隷仕事なんだ」と思って絶望したもんだ
結局、体を壊してそこは辞め、今はもう少しまともな職場で働いているんだが
今度は友人の職場がブラック化してしまっているらしく、SNSを見ると徹夜や休日出勤を繰り返しているようだ
自分の経験もあるし、友人には「仕事より体の方が大事だ、やりかけでもいいから休め」と伝えているのだけど
俺の言葉は友人の心に届かないようで、行動に変化が見られない
ここに至ってようやく気付いたよ
昔俺が愚痴った時に友人があんな反応をしたのは、俺の仕事に対する理解がないからじゃなくて
だから自分がブラックの中に放り込まれても、「これはおかしい」と思えないんだ
男が女の生理に関することに関わるのはなんとなくタブー的でキモい行為に思われるが
まあ自分の周囲の女性全員の生理周期を記録するのは現実的に困難だし
万が一そんな記録をしていることが外に漏れたら社会的に抹殺されるリスクもある
なのでまずは自分のパートナーの生理周期だけでも把握するようにしよう
パートナーであれば生理が始まったことを知るのは比較的容易だろう
それがわかったらすぐにスマートフォンのカレンダーに記録するんだ
女性はホルモンバランスによって体調、メンタルが大きく変化する
特に生理一週間前にもなると普段は明るいあの子が超絶メンヘラになり、些細なことでキレたりすることが多々ある
にも関わらず意外と自分の生理周期を正確に認識している女性は少ない
たいてい体調などの主観的なフィーリングで生理周期を管理している
そうすれば
と仏の心で許すことができるだけでなく
場合によっては本人に
「今の気持ちは生理前でホルモンバランスが乱れているせいなんだよ」
と伝えてやれば、ホルモンによって乱された感情による短絡的な言動を抑制することもできる
たいていカップルでどこか出かける場合は男の側が予定を組むことが多いのでこれはかなり有効だ
さらにそれだけではない
生理周期を把握するということは排卵周期を把握することでもある
嫁は普段あまり積極的でない俺が稀にセックスを求めるのことがあることを不思議に思っているが
ちなみに逆に避妊に利用することも可能だが
生理周期(≒排卵周期)が不規則になることもあるのであまりおすすめはしない