はてなキーワード: 規則とは
タイトル通りなのだが、色々調べて不思議な気持ちになったので書いておく
うちの祖父母は双方90歳こえて元気にやってる信心深い夫婦で、先祖代々名古屋の昭和区の興正寺の檀家をやってきている。
・http://www.asahi.com/articles/ASHCN7T68HCNOIPE025.html
うちの祖父母は、割と熱心な檀家でもちろんこういった問題があることは知っているものの、
「おっさま(名古屋弁で坊さんの意)や若様が、考えもなしにそんなことするわけにゃーて。みんな信じとるもんでだいじょうぶ」
と何を心配しているのかも最早よくわからんが、何か達観した様子でこの手の騒動をみていた。
信仰の自由を尊重し、まぁ好き勝手やってくれと思っていたが、この手の問題には眉を潜めていた。
興正寺(U住職) と プレハブ寺(高野山から派遣された稲沢市のA寺のM住職)が要は対立しているのだが
このM住職というのが、元々15年ほど前に興正寺で働いていた住職だと祖父母から聞かされた。
解雇された M住職・N住職・U住職というのは うちの婆様界隈ではみんな知っていることらしいが
興正寺への寄付を懐にしまい、自分の寺の修復費用に充てるなどを何度も繰り返しており
それを現職のU住職は見て見ぬふりをしていた。
・・が、余りにも目につくようになりU住職の代替わりが近いタイミングで解雇と相成ったらしい。
(興正寺は名古屋で一二を争う大きな寺で、名古屋市近郊の坊さんがたくさん働きに来るのだとか。雇用形態などの仕組みはよくわからない。)
祖父母は檀家総代などをやっていた為、プレハブ寺側のM住職とも面識があり、最近偶然出くわした際に以下のような会話をしたらしい。
90超えの老人のいうことなので、どこまで正確かはわからないが。
M住職「◯◯さん、今のままあちらさん(興正寺)を支援なさるんかね。高野山を敵に回したってことになりますよ」
祖母「私は、あんたさんがやってきたことをよく知っとるから、あんたの支援はできん。興正寺は興正寺。高野山は高野山。私は興正寺の檀家。」
M住職「私が興正寺の代表になった時には、◯◯さんには色々やめてもらわなきゃいかんね・・」
母と興正寺に相談にいったらしい。M住職が、興正寺の代表になることはあるのか?と尋ねたところ
興正寺「M氏が、規則にない住職代行を名乗ってまで興正寺に取り入ろうとしている目的は、数年前の不始末を消すことでしょうから。そんなことは私達は本山が何を言おうと許しません」
肝心の質問にストレートに答えないあたり、坊主というのは流石な生き物である。
祖父母は、興正寺の戦後の再建などに大きく力を貸したようで、寺を守るという意識がものすごく強い。
もう3人しか生きていないが、茶飲み友達などは、M住職が興正寺を入ることを本気で拒んでいる。
「墓に入るなら興正寺と決めていたのに、Mが代表になったらと思うと恐ろしくて眠れない」と言うのだ。毎晩眠れないらしい。
祖母に色々聞いてみたところ、何十年も前に、祖父に隠して興正寺に寄付をしていたらしく それをM氏に渡していたのだと言う。
寄付をすることにより、なんかに寄付人として名前が掲載されるはずだったが、本来載るべきだった名前が載っていなかったそうだ。
祖母の周りでもM氏経由で寄付をした人たちだけが、寄付人として 名前が載らなかったようで
M氏が横領したのでは?と言う噂もたったが、目を瞑っていたようだ。そして、10年ほど前、解雇されてホッとしていたそうだ。
それが現在、興正寺の目の前にプレハブ小屋をたて、住職代行を名乗っている。数年前なら檀家がそんなことは許さなかったが
力を持った檀家も高齢化には勝てず、M氏のことを知る人が減ってきたところで今回のこの騒動のようだ。
ちなみに、祖母と祖母友人の寄付総額は、私の年収の倍以上だ。バカらしくてめまいがした。
私としては、もういい歳なんだし好きなことやってていいよ、と思うものの、
祖父母にとっては興正寺が宝のようなもので、檀家であることに誇りを持っている。その趣味やめろとも言いづらい。
・・が、余りにもタチの悪い趣味である。金も時間もかかるし、何より登場人物が銭ゲバ坊主だらけである。
そもそも高野山と興正寺の関係もわかっておらず、祖母の話を話半分で聞きながら興正寺周りの噂を探していたところ、不気味なブログをみつけた。
どこまでが事実かわからないが、ここにある坪単価や値上げ額などは事実。
8 :名刺は切らしておりまして:2013/02/06(水) 11:11:52.08 ID:sdFlk7sq
お寺が朝鮮人に乗っ取られたら、だいたいこうなる
お前らも気を付けろよ
この書き込みを思い出して、いやな寒気がした。
それらが何なのかがよくわからないが、家族のように大切なモノだと私と母は解釈した。
祖母はここ数日で急激にやつれた。
毎日困るくらい元気そうだったが、ここ数日全く元気がない。
調べてみたり近所の人らに話を聞いてみたが、正直よくわからない。
「興正寺はU住職じゃなきゃ困る。」と近所の人は言うが、ネット上で記事になっているのは「U住職は悪」という内容ばかり。
私としてはプレハブだろうと興正寺だろうと構わないのだが、坊主が老人が眠れなくなるような事言うなよ!と怒りが湧いてくる。
なんか誰かに聞いて欲しかったのでとりあえず書いてみた。
リア充の論理は、ノリの論理。他人をディスって偉そうにする感じ。
水素水のノリに近い。嘘でも自信満々に言えば通用する。そういうノリがリア充論理。
じゃあその対極はいつも非リアだといわれる。
俺はそうじゃないような気がする。
非リアという論理もあるだろうけど。
気合だ!とか、愛!とかではなく、システムで平和を維持する。そういう会社とかお役所みたいなノリの論理。
俺は、どーもリア充ノリというのにコダワリすぎてる。
自分がリア充にいじめられて冷遇されてきたから、非リアとして振舞ってしまうが。
どっちかっつーと俺は保守ノリがしたいんだと思う。
あのさあ
出てきた杭を出てきたからって打ってるわけじゃない
出てこないでってお願いした上でそのお願いの意味を支払ってあげてるわけ
「失礼します」
巫女装束の娘が増田家(四)新参家臣、増田典厩の部屋に入ってきた。
「あっ、も、もうしわけありません!」
巫女はあわてて飛び散った衣類を拾い集める。
典厩へ向けて高く突き上げた袴がUFOのように不規則な動きで揺れる。
娘を部屋に呼び戻し、目的の文書を持ちだしていたことを確認した増田典厩は言った。
「でかした。我が娘よ。御館様のため、歩き巫女として情報収集にあたるのぢゃ!!」
同様の娘が増田島中に散っているのだった。
前回
http://anond.hatelabo.jp/20160606192640
次回
http://anond.hatelabo.jp/20160609123450
中間報告
「ズートピア」を見た。
結果、少々がっかりしてしまった。「理性」と「野性」というキーワードが引っかかってしまった。(地元には吹替版しかないのでオリジナルの表現は確認できていないけども)
社会差別、偏見モノのストーリーとして見ればよかったのかもしれない。
トランスジェンダーのガゼルが、作中でカリスマ的シンボルとなっているところを見るに、制作陣の意図として設定されたテーマは「一見ユートピアに見える中に残る差別偏見とのたたかい」みたいなやつだと思うよ。
私は理性/野性で読んだので批判的ですが。
○理性と野性
(理性/野性とも、理性/本能ともいえる。英語だと「savage」が使われているらしい。「野蛮」だ。)
・・・・・・・「理性による野性の淘汰」をこの時代にわざわざやります?
残念だったのは、「理性」「野性」の判断基準が恣意的であることに対して、さしたる言及もない点。
作中に言及されている「野性」の部分って、肉食動物の側だけなんだよ。
「(多数派である)草食動物への害になりうる野性」のみが、「野性」として取り上げられている。
草食動物だって、「野性的」で「野蛮」で「非社会的」な行動を取るだろう。
群れを維持するために弱い個体を追い出したりするというような。
そうしたことに、少しは言及されていてもよかったのに。
「草食動物が90%の社会だから、肉食動物の怖さにだけ、敏感だ」みたいな位置づけが欲しかった。
非対称的で、ひどく残念だった。
そして、ああ救われねーな、と思ったのが。
肉食動物の野生状態の描写が「凶暴」一辺倒であるかのように描かれ。
そして、肉食動物である彼ら自身が、野性の克服を「是」としているところだ。
野生に「戻った」カワウソが、彼の奥さんを認識できなかったりとか。
そして、「理性ある」状態の奥さんに、「あんなの夫じゃない」と言われてしまったりとか。
彼らにとっても、野性・野蛮は憎むべき敵なのだなという位置づけが、ひどく残念だった。
理性/野性の構図が一貫して変わらない。自明視されていて言及されない。
理性は善で、野性は悪。
あまりにも。
あまりにも不足が大きすぎるのではなかろうか。
○タイトルについて
タイトルは明らかにユートピアないしはディストピアを意識してのものだろう。
いわゆる「ユートピア(ディストピア)」にまつわる言説を、なんらかの形で昇華するのかな、という期待もあった。
「ユートピア」といえば。
元をたどればトマス・モアの「ユートピア」に連なる一連の「ユートピア文学」だ。
「人工的で、規則正しく、滞ることがなく、徹頭徹尾『合理的』な場所」だ(wikipediaより)。
だから、高度に機械化され、監視機能が発達し、そのなかで主人公が公職に付いた時点で、
過去の「ユートピア文学」らの批評を加味した、なんらかの言及がなされるのではないか・・・・・・という期待をした。
作中内に、理性/野性が取り上げられ。
理性が善で、野性が悪。
「ユートピア(=ディストピアに転じうるもの)」への、なんらかの批判がなされるのではないかと、期待した。
・・・・・・・・・・・・・・・・そ ん な こ と は な か っ た 。
理性によって作られた社会。
理性の肯定。野性の克服。
「それだけ」だった。マジで。
理性的で合理的な「ユートピア」が、「ディストピア」に転じうるってもう言及されているのに。
「理性」ゴリ押し。
それってどうなん。
つまらん。
愚痴終わり。
これ、字幕版見たら変わるかな。
でも県内にないんだよな。
県外までいく気力は、今のところ、起こっていない。
どうも不規則生活といっちょまえにプレッシャーなんかを感じてしまったせいか、PMSがひどくって。
生理開始の1週間前くらいから大体不調が起きるんだけど、その1週間終わって生理がきたら3日目にはもう不調は全部去ってるサイクルで生きている。
なのに生理が1週間こなくて。妊娠するようなこともしてなくて。
その一週間が地獄だった。血は出ないのに生理痛、むくみ、お腹の張り、悪寒、生理痛、頭痛、生理痛…。
免疫力も生理中と同じく下がってたみたいで、扁桃腺が腫れてくるので喉も痛い。
結局一週間後、生理が終わってて良いと思ってハードな仕事を入れてた当日に生理がきた。
もう最悪。
で、三日目。
生理が止まった。
おかしい。私は大体6日は出続けるのに…。
とりあえず寝て、身体を回復するよ。
終わったのでしばらくは楽なはず。あーもうなんだったんだ。来月もこんなんなら病院だなぁ。
ある日の風呂あがり、浴室の引き出しを開けるといつもは分けて重ねられていたパンツとTシャツが、1つずつ交互に縦にして並べられていた。
わかりづらいかもしれないが、パンツがP、TシャツがTだとすると、PTPTPTPTPTPTPTといった感じに上から見て並んでいたのだ。
それぞれ畳んで立てられているので、本棚に本が並んでいるような感じといえばわかりやすいかもしれない。
すると、当たり前だがそこに残っているパンツとシャツは、PTPTPTPTPTPTという規則性を崩さずに並んでいることがわかった。
Tシャツは丸首とVネックがあるが、特に選んで着ることはない。
ただ、パンツだけはその日の天候や運動量によって少し選びたいときがある。
以前のように重なっているときは探すのが面倒だったが、今は上から眺めればわかるから便利だ。
着替えを済ませてから嫁さんに聞いてみた。
「あの収納面白いね。一度にシャツとパンツが同時に取れるし、パンツ探してる時に便利だよ」
すると、
「そうなの。洗い終わったのは右から足していくから、基本的には左から取って行ってね」と返答があった。
「わかったよー」と返したものの、腑に落ちない点もあったので少し仕組みを考えてみた。
PTPTPTPTPTPTPTの中から、PTを取ろうがTPを取ろうが連続さえしていれば残りは必ずPTPTPTPTPTPTになる。
しかも、その後に追加するときも、端とかぶらないように並べればPTPTPTPTPTPTPTの規則性が崩れることはない。
さらに右から追加するというルールさえ決まっていれば、左に近いものを使っていれば使用頻度の偏りも起こりづらくなる。
重ねて収納していたときはいちいち全部を引っ張りだしてから古いものを下から重ねていたが、これなら片側から追加していくだけだから片付けも楽だ。
さらに考えてみると、例えばこれが3種類以上のものであっても規則正しく連続さえしていれば、その途中ランダムに連続するn個を抜き出したとしても残りの規則性が失われないことがわかった。
なんだこりゃ。まるで数列の授業のようではないか。
どうしてそんな発見ができたのか不思議になって聞いてみることにした。
すると返事はこうだ。
「いつも買ってるインスタント味噌汁の袋の中がこんな感じに味噌と具が交互に並んでて、どこをとっても味噌と具になるからすごい!って思ってたんだ」ということらしい。
そういえば我が家の朝食の味噌汁はいつもインスタントだ。味噌汁くらい作ればいいのにと思っていたがこれはなかなかに思わぬ恩恵である。
そう思って戸棚を開けてみると、早速お茶碗とお椀が交互に重ねられていた。
嫁さんが言うのには、今度はホワイトシチュー、ビーフシチュー、カレーと、白米、バターライス、バゲットとで、交互に1人前ずつパックして冷凍庫にしまい込もうとしているらしい。
それならまとめて作っておけるし、気分が定まらない時にちょっとしたガチャ感覚を楽しめそうだ。
考えればさらなる応用ができそうだ。今後の展開に期待したい。
いや規則で決まってたとしたら、守るべきでしょ。
エスペラントの合理性は主に「学習上の合理性」であることを指摘しておきたい。
人称による屈折の変化がないのも、発音が単純なのも、長い単語も厭わないのも、学習効率を狙ってのことだ。フランス語の不規則動詞の分厚いリストを見ても、不規則動詞は覚える負担が少ないと言えるだろうか。発音が単純かは異論があるだろう。エスペラントには比較的多くの子音がある。もちろん上級者は基本語 malvarma の代わりに kolda とか frosta(厳寒の) を使ってよい。長い単語しかないわけではないのだ。
語順の自由の合理性は学習上の合理性に留まらない。文の途中に節が割り込んで文意がとりにくくなるのを防ぐ効果がある。英語では主語を節で修飾すると、主語と動詞の間に節が割り込む形になってしまう。それを解決するために、受動態を多く用いるが、エスペラントでは語順の自由があるのでさほど多用しないで済む。エスペラントはラテン語とは違い、格は対格しかない。対格を忘れても意思疎通に支障が起きない程度の冗長性は持ち合わせている。
むしろ明確な要因がないのに発症するのが従来の「うつ病(内因性うつ病)」という概念だったはず。
規則正しい生活、健康的な食事、適度な運動、ストレスマネジメントなどは、日々を快適に健やかに過ごすためには役立つと思うけど、
☆「神または邪悪な霊による欺きの可能性」という根拠で明証性の規則に従って導出される事柄を疑えるのか?
→これに対してデカルトはまず神の存在を証明しなおかつその神が欺かないということも証明することで疑えないと答えようとする
①何ものも無から生じることは無くそれが存在するためには原因を持たねばならない
②その場合、原因はそれがもたらす結果の実在性よりも大きな実在性を持たねばならない
③なぜなら、仮に原因が結果よりも少ない実在性しか持たないとしたら
結果の実在性の1部が無から生じたことになるがこれは明らかに①に矛盾するから
④ところで我々のうちには神(無限で独立していて全知全能で万物を想像した完全なもの)の観念が生まれつき存在する
⑤当然、この神の観念も原因を待たねばならない
⑥なぜなら、仮に我々に神の観念の原因だとすると、実在性が低いもの(我々)が実在性が高いもの(神の観念)を作り出したことになるが、これは明らかに②に反しているから。
⑧したがって 我々の外に神が存在し、それが我々に神の観念を送り込んでいると考える他ないし、またその限りで神は存在すると言える
「私」の存在の原因は?
「両親またはそれ以外の神より不完全な存在」 「神」
「私自身」はどうか?
① 仮に「私自身」が「私」の存在の原因だとすると、その場合。「私自身」は無から「私」をつくり出したことになる
↓
ところで無から何かを作ると 私ということ以上に困難なことはないから、こうしたことが出来るなら あらゆる完全性を自らに与えることもできるはずだしその結果「私」は神そのものと化すことに
↓
ところが「私」は神ではない
↓
↓
従って「私」を存在させるためには ある瞬間の「私」を次の瞬間の「私」へとつなげてゆく力がなければならない
↓
ところが「私自身」ににはそんな力がない
↓
従って「私自身」は「私」を存在させることはできないつまり「私自身」は「私」の存在の原因ではありえない
↓
「両親またはその他の神より不完全な存在はどうか?
仮に「両親、、、、」が「私」の存在の原因だとするとその場合、今度は「両親、、、」に関してその原因が問われることに
↓
その場合、私同様不完全な存在である「両親、、、」をそれ自らの原因だと考えることはできないから、さらに別のものに原因を求めることに
↓
しかしその場合も同じことの繰り返しとなり、その結果いつまでたっても最終的な原因にたどりつけず 不合理
神はどうか?
↓
従って「神」が「私」の存在の原因であり
その限りで神は存在すると言える
ラカンに従う限り、私というものの形成の出発点は鏡に映し出された自分の身体像であるということに
↓
従って私というものの形成においては身体が重要な役割を演じている。
他方、デカルトの議論においては身体が軽視。これはやはり問題では?
↓
これは超自我の核として
他者が不在 あれはあきらかに大きな
また我々自身が時に陥りがちな誤り
そしてそのように他者の目意識して思い描かれる自分の姿を通して輪郭が定まる以上私の形成には他者が深く関わっている 他方、デカルトの考察においては、他者が不在 これは明らかに大きな誤り
だし、我々自身が時に陥りがちな誤り
出題 最初と2回目hz除外
B デカルトは最初、まず四つの根拠に基づいてすべてを疑っていくが
その根拠の一つが"夢と現実を区別するしるしがない"というものであったでは残りの3つの根拠はどういうものか、全て記せ← 必ずでる
D 神はなぜ我々を欺くことがないとデカルトは考えたのか?
E
F
重要そうなところをヤマ貼っておく 何か書いておけば部分点があるらしい