はてなキーワード: 自死とは
格ゲーファンとして、あの配信をリアルタイムで視聴していた100人のうちの1人だ。
彼女の配信は、取り上げられていないものも含め際どい発言は何度もあったというか、正直、最近は配信するたびにあんな感じだった。
自分を強者、リスナーを弱者と見立てて汚い言葉で煽るのがお決まりで、件の170cmもそのいつもの流れだった。
低身長は恋愛対象外、という話は以前もしていたが、今回はワードチョイスも絶妙に悪かった。動画で切り取られ、瞬く間にネットで拡散してしまった。
一部の格ゲーファンの間では、もう何年も前から「問題発言ばかりするのになぜスポンサーは放っておくのか」と言われていた。
実際スポンサー企業に抗議メールを送った人もいたが、改善はされなかったようだ。
格闘ゲームは、eスポーツ需要に対して名の知れたプレイヤーの数が極端に少ない。また女性となると更に貴重なため、スポンサーとしても問題を認識していながら彼女に強く出ることが出来なかったのだろう。先輩プロゲーマーやマネージャーすら扱いに困り、手を焼いている様子は配信で何度も見られた。
そんな中、有名人の自死をきっかけにした誹謗中傷を開示請求しようというムーブメントが起き、その流れで彼女はアンチファンに対して開示請求を行った。
度を超えた誹謗中傷も多かったので当然の流れではあったが、彼女の「1やられたら100やり返す」性格は有名だったので、少し悪く言えば開示されるのではないかと委縮してしまい、それ以来批判されることはおろか話題にされることも激減してしまった。
そして身内からも格ゲーファンからもアンタッチャブルな存在になった彼女は過激化した。「私は何を言っても怒られない」と豪語するまでになった。
このようなふるまいが、「私たちの言葉を封殺するのに、彼女自身は好き勝手している」と格ゲーファンの中で潜在的な不満が大きくなったのは言うまでもない。
今回の騒動がここまで広がったのも、「調子に乗り過ぎだから、そろそろ灸を据えられるべきだ」という格ゲーファンからのカウンターから始まっている。
ここまでの大騒動に発展するとは誰も露程も思わなかっただろうが。
彼女がなぜあのように過激化していってしまったのか。昔はここまでではなかった。
新型コロナウイルスの流行を機に大会が激減し、格闘プロゲーマーは世界中を転戦する競技者からストリーマー路線への転換を余儀なくされた。
すんなり適応して多くの視聴者を集めているプロゲーマーもいれば、苦戦しているプロゲーマーもいる。彼女は明らかに後者で、視聴者数も伸び悩んでいた。
多くの人々に対して発信するスキルを持っておらず、また格闘プロゲーマーとしてはアドバンテージとなっていた「好戦的かつ負けず嫌い」という性格はストリーマーとして非常にマイナスだった。
「仕事でなければ配信はしたくない」「大会がなくなってモチベーションが沸かない」という言葉を度々こぼすようになっていたし、現在の状況、自身の中途半端な立ち位置、年齢などに不安や焦りを抱えているように見えた。
そして過激なことや性的なことを言えば簡単に視聴者の気が引けると考え、このポジションが自分の居場所だと思い込むようになった。そして歯止めが利かなくなった。月並みだがそんなところだろうと思う。
元々、「30歳になったらプロゲーマーはやめる」と宣言していたので、これを機に表舞台に出て活動することはなくなるかもしれない。
切り抜きだけでは伝わらないかもしれないが、彼女の配信は、不器用ながら優しさはあった。
コメントをすれば名前を覚えて呼んでくれて、ズバズバと物を言ってくれて、そばにいてくれる女友達のような配信であった。
死にたいと言われたとき「死ぬな」はNG、って記事のヤフコメ(https://news.yahoo.co.jp/articles/1e432e55f3c0565f3132b2a2dca7035c35b014a6)
「俺は親父に俺より先に死ぬなと言われてよかった。全ての親は死ぬなと言うべき。」「死にたいとか言われたらあたしだってつらい。」「じゃあどうすればいいの💢!?あれもダメこれもダメって😡」(記事には良い声かけの例も示されている)「杓子定規の答えより自分の言葉がいいに決まってる。この記事は危険。」みたいなコメントがいっぱいあって怖い。
「死ぬな」は逆効果って、政府もガイドラインに書いてるぐらい認められてることなのに、この受け入れなさ。何がそこまで彼らを頑なにするのかわからない。n=1で専門家に反論する。なぜ?怖すぎる。
昨年叔父が自死しました。叔母からの電話で駆けつけ、説得しました。死んじゃ駄目だよ。家族もいるんだよと。言ってはいけない言葉だったんですね。でも、私にはそれが本当の心の叫びだったんです。それから1週間ほどで、亡くなりました。本当に死のうとしている人は、寄り添っても、話しを聞いてあげても、結局死んじゃいますよ。
怖い。
無知→無関心→知識の拒絶→失敗→正当化→知識の拒絶→無限ループ
この流れが怖すぎる。怖すぎ。
なんか誤解しているよな
子供を手放すな!と聞こえたのならそれは誤りだよ
少ない情報から「毒親に育てられたから」と断定したり、対面だけ気にしていると決めつけるのが一番ダメ
そんなことを自死仕様とした人にむけるとかどういう考えなのかなって思う
毒親が元増田に何らかの影響を与えている可能性はあるが、そもそもそれだけが原因かもわからない。実際に自殺未遂をして家に居場所をなくしている状況は元増田のせいというより、夫や他の家族の理解を得られていないことが原因でしょ?それを全部はぶいて母親本人だけの問題にするのって不自然だな。
何もかも母親と子供という閉じた関係だけで考えているのがおかしい。
子の幸せという単語も気になる。子がどう幸せに感じるかはこれから先の話であり誰にもわからない。問題は現在進行系の母親とその周りことだよね。そういうことを棚に上げて更に追い詰めるってなにがしたいのかな。
そしていつまでたっても「子供を手放すなってことですか!!」と勘違いしているわけだ。そうじゃないよ。子供を育てられないことは仕方のないことだ。だから無理に育てる必要はないと思うよ。
おそらく元増田は子供を手放すことを後押ししてほしいだろう。ただ、現状で増田に書いても谷底に本人を突き落とす言葉しか散見しない。
[B! 芸能] 神田沙也加 急逝直前に恋人から罵倒されていた《音声が存在》 | 文春オンライン
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/bunshun.jp/articles/-/51247
自分の気持ちを整理したくてこの文章を書いています。自分の気持ちの整理なので、言葉をあまり選んでおりません。もし、この文章を見て不快になった方が居ましたら申し訳ありません。
父親が自殺してもう何年か経ちました。何年か経ったという曖昧な書き方は、本当に何年経ったのかわからないから。
何十年も経ってない。成人式には一緒に写真を撮ったので、多分8年とか7年とか、それくらいだと思う。そんな事もわからないほど、私は自殺した父親の事を考えないようにして生活してきた。
どうでもいいからではなく、逆で、考えてしまったら生きていられないくらいだから。
父親が亡くなって、最初の数年は命日も覚えていたし、毎日のように父親の事を想って悲しくて泣いていた。めちゃくちゃ辛かったけど、父親の事を忘れてのうのうと生きていくのは違うと思ってた。それと、その頃父親の死がきっかけで、もともと不仲だった母親や妹などの家族との仲も悪化して、自分が家を出て行く形になり、その頃はもう二度と母親や妹に会わないつもりくらいでいたので、父親の事を記憶以外で思い出せないようになったら、本当に何も無くなってしまいそうで怖かったから。写真の1枚も持ってなかった。なので当たり前に動画も何もなくて、声も思い出せないし、顔もそのうち忘れてしまうかもしれないし。
だから、忘れないようにほぼ毎日父親の事を思い出しては、悲しくて泣いてた。
そんなふうに、毎日毎日泣いてた自分に当時から付き合っていた人が「泣かないで」と言ってきた。私を想ってのことだろうけど、私のことをあまり配慮してるとは思えない言葉だったと今になって思う。その人が周りの人に言いふらして、周りの人からも「泣くな」と言われ、泣かない為には父親の事を考えることができなくなった。
そうして、私は父親の事を考えなくなった。
それからもう何年経ったのかもわからなくなってしまった。命日も覚えていない。なんとなく9月だったと思う。父親の事は顔ももう思い出せない。声も思い出せないし、どんな人だったのかも思い出せない。
そうしたら、もう本当に泣かなくなった。毎日泣かずに生活できている。でもずっと、うすい膜みたいに希死念慮がまとわりついている。
父親が亡くなった日、亡くなった家で寝転びながら、もうここで死にたいなと明確に思った。今から行けば、まだ追いつけるかなと思った。
今でも、父親という文字を打つだけで泣けてしまう。おとうさん、と呼んでいた。おとうさんと文字で打つだけで泣いてしまう。それくらい、整理が未だついていません。
もっとちゃんとずっと、父親の事を考えて、覚えていて、整理をつけるべきだったのだろうかと思う。それとも、もう忘れてしまって楽しく生きて行くべきなのだろうかとも思う。でも、後者を選んだけど、それは叶わなかった。
父親の事を忘れたけど、楽しくは生きられなかった。
それからずっと死にたいと書いたけど、死にたいと漠然と思っているだけで、明確なきっかけなど無いので実行する事もなく。しかし無理やり楽しく生きようとする人生なので、意味とかないから終わってもいいかなという状態。
そこそこ年齢も重ねてきたので、たまに身体に今まで体験した事のないような異常が起こったりするんだけど、そういう時、やっと死ねる?と思ってすこし嬉しくなってしまう。
死ぬ理由が欲しい。父親の事を普段忘れてしまっているので、本当に意味もなくただ、漠然と死にたいなと思って生きている。理由のある希死念慮なら、解決策ってありそうなんだけど(例えば、借金が…とかそういうの)本当になんの理由もなく漠然と生きていたくないのでどうしようも無い。
どうするべきなんだろうか。もう疲れてしまった。母方のおばあちゃんがまだ存命なので、おばあちゃんだけは悲しませたくないなという思いだけはあるので、それが最後のストッパーになってる。
自分は長女だった。多分、父親は長女の私の方がかわいいと思っていて妹よりも可愛がってくれようとしていたが、妹からすればおもしろいはずもなく、私も妹に気を遣い父親に甘えられずにいた。今更、もっと父親に甘えておけばよかったと思う。未だに父親に甘えたい子供のままになってしまっている。ずっと進めない。
どうしたら楽になるんだろう。ずっと苦しいし、解決するはずもないし。
誰も助けてくれるはずもないし。
https://anond.hatelabo.jp/20211226230142
上の記事を書いた増田なのだけど、思っていたより反響があったのでブコメに上がっている疑問点に可能な限り答えたいと思う。内容の重複するコメントが多かったので、要旨を丸める。
Q 本当に死にたい人間はこんなに精力的になれない、婚活も結婚もしようとしないはずだ。
A 友人は、婚活をしていたし、結婚もしていたし、国内外の旅行にも行っていたし、資格の勉強をし、亡くなるほんの数か月前に簿記2級に合格するような知性とバイタリティを持っていたし、貯金もあった。だが、死んだ。
活動的であるかどうか、「自分が生きると思わせてくれる何かがあるかもしれない」という一縷の望みに賭けて努力する(婚活や資格取得)かどうかということと、死にたい気持ちは全くの別物であることを理解されたい。寧ろ努力した結果、報われなかった、あるいは何らかの果実を得たものの「やっぱり生きたいと思えなかった」と落胆することで死に一歩近づくことがある。
そしてこれは言っておかなければいけないことだと思うけれど、「本当に死にたい人間なら」というのは、単に「私の観測範囲内では」という話に過ぎない。実際のところ、死にたい人間も多種多様だ。
希死念慮者は死によってでしかその意思が肯定されないのか、それは違うと思う。希死念慮者は、「死にたいという気持ちを抱えた生きた人間」だ。単に自分の想定に沿わないからといって「ニセモノだ」という話をされたのでは、サバイブした事例の話は出来ないことになってしまう。
Q 2019年に破産の申請が通り、仕事がうまくいかなかったにもかかわらず2020年にはバイクを買って数か月も働かずに旅に出られるだけのお金が貯まるのか?
A 裁判所から破産の決定が下りたのは2019年だが、相談をしたのは2018年であり、相談時点で全ての債務の返済及び利息の加算は停止する。その為、2年近く給与を貯蓄し続けることが出来た。仕事がうまくいかなかったのは、単に自分の無能さに嫌気がさしているということ。私は歩合の無い普通のサラリーマンなので、無能でも減給になったりはしなかった。
A 実際ひときわ美人だから。もはや生きることにうんざりしていた私は、「まあ、この人でも良いかな」みたいな妥協をしてまで他人と付き合う気はなかった。なので、ひときわ美人だったことはやはり俗っぽいけれど重要な点だったと思う。しかし最も重要なことは、このエントリは妻も監視しているということ。
Q 2020年年末から「新潟経由スタートで南下」し「冬の北海道をバイクで走破」は、積雪によって不可能ではないか?
A 年末という書き方が悪かったと思う。これは「12月」と読みかえて欲しい。当時、新潟から日本海沿いに寒波が下りてきていた。私は寒波から逃げるように日本海を南下したので、日本海では積雪に遭遇していない。九州では、大分の九重連山で積雪に悩まされたが、それは乗り切ることが出来た。また、東北・北海道については春に入り雪解けを待ってから上陸したので、「冬の北海道を走破」はしていない(春季でも所どころ積雪はあったが)。
A 実際に行動を起こした(自殺未遂、友人の自死、発信し続けたこと)という点において、漠然と死にたいと思うだけで気付いたら理解ある彼くんが人生をリードしてくれたという案件とはフェイズが違うと思う。
が、「人間を救えるのは人間しかいない」と結んでいるように、一度袋小路に陥り自力では抗えないほど閉塞してしまった人生は、理解してくれる(しようとしてくれる)他者によってしか救われないと思う。犬も歩けば棒に当たるみたいなことが伝わってくれれば嬉しい。
Q 首を吊っても縄が切れることはあり得ない。
A 私の場合、購入して数年経った中型犬用のロープを用いたので、劣化していたことと、そもそも中身がスカスカだったこともあり切れたのだと思う。また、これは私が体験談を聞いた範囲での話だが、縄が切れて首吊りが失敗する事例は割とあるようだ。
Q 「遺書は、私に書かされたものではないことを示すために、自宅に届いた携帯料金の請求書の裏に書かれていた」ってどういうこと?
A 友人がわざわざ自宅から持ってこなければ、通常、携帯料金の請求書は手に入らない。そういう紙の裏に書くと、遺書が自発的に書かれたものである(私に無理やり書かされたのではない)という事実を裏付ける証拠になる。
Q ホテルで死のうとするなんて、ホテル側に迷惑だと思わないのか?
A 誠に申しわけございません。
Q 実話? 創作?
A この種の疑問に回答しても栓ないと思うけれど、実話。読んでくれてありがとう。
ひとの自死に関する内容です。つらい気持ちの人は読まないでください。
身近な人が亡くなった。知り合いよりは近く、友人と呼べるかは悩むくらいの距離感だった。
好きか嫌いかで言ったら、その人のことが好きだった。優しくて気配りができて、しゃべり方がきれいな人。それにユーモアがある。芸術に明るくて、色々な楽しみを教えてくれた。
そんな故人に対し、自分自身は優しくないし気配りもできないしわがままな人間だ。あの人は我慢して表面に出さなかったただけで、私の接し方が死を選ぶほどに嫌だったかもしれない。
交通事故で相手が傷を負った場合、過失度合いが低くても警察の取り調べがある。
今回の原因は交通事故じゃないが、人が死んでいるのだ。私があの人を死へ追いやった一部なら、ちゃんと調べて、逮捕して裁いてほしい。勝手な人間なので自分勝手なことを言うが、人ひとりいなくなった責任を自分だけで背負うことができない。
といったことを考えては消しなんとか日常生活をやっている。私のところに警察は来ない。
自分は恥知らずなので、従来人に相談するのは得意だ。悩みがあったら何でも家族や友だちに話してしまう。
だけど、この話については、おいそれと話すべきじゃないと感じている。自死はたぶん伝染するからだ。
生きていて何かの要素が満たされると、日常の選択肢に死が登場するんだろうと予想している。
今の所私の日常の選択肢に死がポップしてくることはまったくないが、自分が悩み相談をすることで、相談相手の「何か」にチェックが入って死を選択可能になるおそれがある。だから、今の自分は爆弾を持ってるみたいだなと思う。友達に爆弾を渡せない。
通話で色んな相談ができるカウンセリングサービスを使って、全然知らない人に話を聞いてもらうのが良いのかな。知らない人なら爆弾の威力を軽くして渡せる気がする。
この日記を書いたのもそういう理由です。もし、読んでくれた人の中に、これまでの人生で爆弾を受け取ってしまった(けどなんとか処理した)人がいたら、どうしたらいいのか、アドバイスを欲しいです。寝て起きたら全部うそだったって言われても、ほんとに絶対に怒らないから、こんなのはウソなんだよって言ってほしい。
タイトルどおり、子供が欲しくないというより、子供を産んだとして育ててその子が中学あたりでボロカスにいじめられたりしてこの世に絶望したら申し訳ないし色々あって世界を憎悪して無敵の人にさせてしまったら子供にも世界にも申し訳ないし、もし優しい子に育っても社会に出てひどいパワハラを受けて自死を選んでしまうほど苦しませたら申し訳ないと思って子供作ろうと思えない 。
多分私の今までの人生がどちらかといえばしんどかったことが原因の一つになってると思う。私自身が中学でいじめられてたし容姿悪く言われたし高校も全員から見下されてたしたくさん傷つく事あったし、26歳の今メンタルの薬飲んでるし。
すぐその場で言い返せないヘコヘコしてて舐められやすい人間だからすぐ馬鹿にされるし雑に扱われるし見た目も良くないし。
人を殺したことないけど(てか殺したことあったらここに書き込んでる場合じゃない)高校の頃に駅で同い年くらいのカップルや幸せそうな人達を見かけると妬ましくて、何かが起きてこいつら電車に轢かれますようにと本気で願ってたしその人達が轢かれる姿を想像して何度も気分良くなってたから正直無敵の人の気持ちもわかってしまうんだよ。無敵の人のニュースを見るたびに人を殺したことはマジで悪いことだとは思うけど同時に犯人のつらさに共感してる自分がいるんだよ。
生まれてから生きるまで嬉しかったことよりも辛かったことのほうが多い。鬼束ちひろの月光の歌詞のこの世界に堕とされたってところすごく共感できるし。
こんな私のクソ舐められやすいブス(でもブスにも舐められやすいブスと舐められにくいブスがいるよね、私は舐められやすいブスだと思う)言い返せない弱気感情高ぶるとすぐ泣く遺伝子を持った子供が不憫で仕方ないと思えて子作りできないよ。
でも産まないまま年を取ったら後悔するんだろうなぁと思い現在26歳だよ。
旦那の遺伝子もあるけど旦那も優しすぎるしよく泣くから、優しすぎる人はパワハラやいじめなどの標的になりやすいから危険だよ。旦那自身は特にパワハラや職場いじめは受けてないけど…。
旦那の顔は眉毛が困り眉で目が垂れ目だからこの遺伝子を受け継いでも弱そうに見えてこの世界に生きるゴミどもに標的にされちゃうかもしれない。
でもかといって自分と真逆の強そうな男もなんかDVとかしそうだから旦那と結婚してよかったとは思うんだけど。
あと私の身長170で旦那の身長180で男が生まれた場合は良いとして女の子が生まれた場合はどうしよう絶対身長高いこと気にしちゃうよ。あと旦那の顔は男だといいけど女の子だとかわいい部類に入らないよ。可愛くないだけで女はたくさん苦労するの私知ってるよ。もし女の子が生まれたら幼いうちに整形してあげよう。幼いうちに子供を整形させた親がニュースになって批判されてたけど悪いのは本当に親なのか?と思うよ。ブサイク女なだけで酷く接する世界が悪いんだろ。お前ら一人ひとりの認識の問題なんだよ。私はあのニュース親に共感したよ。
男が生まれた場合は容姿はまぁ身長あるから大丈夫やろ!!と思っても、学校や会社でひどい目にあって無敵の人になって人殺しになってしまったらどうしようという不安があるよ。まぁ無敵の人になるのは女もあるとは思うが…。
あと暴力的な引きこもりになったら親の力じゃ男の子はどうしようもできないよ。
こんな汚れたクソ人間共ばかりの世界に産み堕としてひどく心を傷つけて最期に自死を選ばせるほど苦しませてしまったら、産んだことを申し訳なく思ってしまうよ。
どうやったら子作りにプラスに考えられる?
だとしたら羨ましいよ。
私は生まれたから仕方なく生きてるよ。長文の遺書を書いたことも人生のうちであったけど私が死んだら旦那が悲しむから生きてるよ。あと死ぬのは痛そうだから。でもそもそも生まれなければ痛くないよね。子供が自死を選んでしまったとして、死ぬために痛い思いさせちゃうのも可哀想だな。
まだ26歳で旦那も2個上だからあと数年はゆっくり考えられるけど結論が見える気がしないよ。子供に会いたくてもこんな汚れたクズ共が蔓延る世界に産み落としたくないよ。こんな世界に産んでごめんってなるよ。じゃあ生むなと??
子供には会いたいよ
聞きたいこと、みんなはどう考えて子供産んでるの??
今年のうちには死のうと思っていたのだが、あれよという間に結婚していた。妻と出会ったのはほんの半年前のことだ。
そうして2021年ももう終わりに近付いてきたところで、希死念慮もとりあえず脇においておけるレベルになっていることに気付いた。
経緯をはてぶにでも簡単に書き残しておくことで、誰か必要な人に届けば良いと思う。
私はかなり重度の希死念慮の持ち主だ。
元来、基本的に薄っすら死にたい気持ちを抱えて暮らしてきた。健常の人には中々理解されないことだが、「生きているだけで苦痛」なのだ。
学生時代も挫折の連続でそれはそれなりに辛いこともあったけれど、普通のサラリーマンとなり受験や就活といった目下の目標を見失った後は気を紛らわすようなものもさして見当たらず、ずっと「一体、何のために生きているんだろうか?」という気持ちに苛まれてきた。
趣味でも、仕事でも、誰か大事な人の為に生きなければいけないでも、何でもいい。生きる苦痛を贖うだけの理由が必要だった。
そして特に趣味はない。そういうものを探す努力もしてみたが、見つからなかった。元々無能の社会不適合なので、立身出世を夢見て仕事にまい進することも出来なかった。婚活をしてみたけれど、お恥ずかしいことに誰にも愛されることは無かった。
誰にも求められず、自分さえ何のために生きているかわからないまま東京で過ごす日々は着実に心を擦り減らしていった。
婚活で出会う女に金を遣っているうちに貯金の残高もなくなり、やはり自分のように価値のない人間が愛されるにはカネが必要なのだと思った。そして、はやりの言葉でいえばFIREをしたいと熱望するようになった。
リスキーな投機を繰り返し、あっという間に2千万円という多額の債務を抱えてクビが回らなくなった。
首を吊った。失敗した。縄が切れたからだ。次はもっと丈夫な縄でやろうと誓った。
いずれにしても、「実行できた」。希死念慮を持つ者の中でも、思い描くことと実行することには大きな隔たりがある。「オレは本当にいつでも死ぬことの出来る人間なんだ!」という思いを確かにし、ずいぶん勇気づけられた私は、破産手続きをすることにした。
法テラスに連絡して弁護士と破産手続きを進め、裁判所から「お前の破産を認める」という通知が来たのは2019年も半ばに差し掛かった頃で、私は30歳になっていた。
「破産」という言葉の強さに、「これが不幸の底だったら良いな」と少し楽観的に思っていた私だったが、そこから坂道を転がり落ちるように不幸が立て続けに起こった。
職場で上司に暴力を振るわれ警察沙汰になったり、身内が亡くなったり、別の身内がニュースになるような事件の当事者になったり、海外で車にひかれ、その勢いでインフルエンザに罹り入院したりした。短い期間に事故って負傷したり損害を負ったことも一度や二度ではない。
もちろん仕事がうまく行くようなことはないし、婚活をしたって破産者で更に未だ債務のある人間を愛する異性なんているはずもなかった。
そうして鬱々としているうちに、そういう態度に愛想の尽きた友人たちの多くは私の下を去り、余計に孤独を深くした。
もう何をやってもこの人生は上手く行かないと悟り、いい加減に死んだ方が良いと思った私は、前回の失敗を活かしAmazonで丈夫な大型犬用のリードを購入した。
そんな折、婚活仲間として意気投合し、一緒に遊んでいるうちに希死念慮を打ち明け合うようになり親しく付き合っていた友人から連絡が来た。私の数少ない、大事な親友だ。
それは、「一緒に死のう」という申し出だった。「さもなければ一人で死ぬ」という話だった。
結局、思うところあった私はその申し出を断った。その代わり、友人の自死を看取ることを約束した。
看取る。つまり友人が自死に失敗したときには、私が殺すということだ。
私も自殺をしくじった人間だ。自殺の恐ろしいところは、死それ自体ではない。失敗して、欠損した心身で生き残ってしまうことだ。
少しでも苦しまずにいけるよう、寄り添っていたいと思った。何があっても味方でいると誓った友人が君にはいて、クソみたいな人生だったかもしれないが、孤独ではなかったと思っていて欲しかった。
そして友人は死んだ。ホテルの一室で首を括った。傍らには私がいた。
私は、服役することを覚悟していた。調べる限りにおいて、類似の事件はみんな実刑になっていたからだ。
しかしそうはならなかった。友人が書き残した遺書に、しきりに私のことを庇うような言葉が書かれていたからだ。遺書は、私に書かされたものではないことを示すために、自宅に届いた携帯料金の請求書の裏に書かれていた。
そして遺書には、友人の大事な人に私がメッセージを届ける役目を託すという旨が書かれていた。
警察から解放された私は、確固たる希死念慮を携えて、友人に託された遺書に書かれた内容を遂げていった。遺族や友人に会い、顛末を伝えた。
会うのを拒んだ人もいたし、友人の死で心が落ち着くのに時間を要した人もいたが、おおよそ「これ以上はもうできないな」というところまで遂げるのに、半年以上の月日を要した。
私は友人にとって特別な存在になることができた。それだけでもう、苦しんで生きた甲斐があったというものだ。そしてもう私の生きる意味も役目を遂げた。
ここから先にあるのは、更に苦しく孤独な未来しかないと思った。私自身の心ももう、本当に限界を迎えていた。
もういつ死んでもいいと思っていたが、最後にせめてやり残したことを全て終えてからにしようと思った。
職場から逃げ出し、仕事を放り出した私は、ブログにこれまでのことの経緯を書き残した。ずっと書きたいと思っていた小説も書き上げた。それはほとんど誰にも読まれることはなかったけれど、別にそれで良かった。
そしてバイクを買って、旅に出た。行きたかった場所を見尽くし、この国の何処を探しても希望の無いことを確認して、そして、友人と同じホテルの一室で、ドアノブに首をかけて一人で死のうと思った。
不幸中の幸いなことに、破産してから特に散財していなかったお陰で手元にはいくばくかのカネが貯まっていた。コロナ禍のお陰でホテルも安かった。
東京から一旦新潟に出て、冬の日本海を南下し、九州を一周し沖縄へ行った。東北を抜け、北海道を反時計回りに一周し、小樽のフェリーに乗って新潟に戻り、東京へ帰って来た。
大雨の日も雪の日も、風の日も氷点下の日も、宿が見付からない日もあった。凍った道も崩壊した険道も通ってきた。スリップして転ぶことも凍傷で手足が紫に腫れる日も、腱鞘炎や捻挫で痛みに堪えて走った日もあった。だが、東京で死んだように生きるよりずっとマシだった。とにかく前に進み、少しでも多くの景色を見て、希望が無いことを確認しようとした。
そうして全ての都道府県を見て回り、日本を一周し終わったのは、今年2021年の春頃だ。
数か月にわたる旅の間、SNSにその模様を呟いていると、当地に住むフォロワーの人たちが声をかけてくれて物資を提供してくれたり、ご飯を奢ってくれたり、宿をとってくれたりした。
本当に有難いことだったが、それでも今後に希望を見出すようなことは無かった。
多くの人は「生きて欲しい」と言ってくれたけれど、だからといって彼らが私の人生に責任を負うこともなければ、依然として私は孤独だった。
日本中を探し回っても希望が落ちていなかったように、今後そういう類のものが現れることは無いだろう。それを確認し尽くした、と思った。
旅の間見たどんな絶景も私の心を埋めることはなかった。景色は、しょせん景色でしかなかった。
旅が終わって数日もしないある日、近所に住んでいるというフォロワーの方から連絡をもらい、会うことにした。
私は彼女のことを何度も見たことがあった。ひときわ美しく、人前に立つ仕事をしている人だった。
彼女は、「あなたのファンです」と言った。ブログも、Twitterも、配信も、全部追っていて、そして旅が終わる頃になって、私の生活を追えなくなるのがイヤになってしまったらしい。そして彼女は、「私は、あなたの人生に責任を負う覚悟があります」と言った。
だが、私はブサイク陰キャコミュ障無職借金破産非モテ希死念慮の役満人間である。彼女のような聡明で美しい女が、私のことを好きになるはずはない。分かり切っていた。
しかしまあ、騙されても奪わるもののない私は、彼女の言うがままデートを重ねた。そうして数か月経った頃、気付いたときには結婚し、主夫になっていた。
だからといって希死念慮がすぐに消えるわけもなく、「自分はきっとこれからも生きていけるのだろう。妻と一緒なら乗り越えていけるのだろう」と思うのにはそれなりの紆余曲折と妻の説得があった。だが結局、女に拾われて節操なく生きることになってしまったことに変わりはない。
人生は塞翁が馬みたいな感じだ。こうなるのには奇跡のように途方もない強運が必要なのは間違いないが、しかし一つ言えることは、私は、「ぎりぎりまで死ぬのを延期していた」ということだ。
私はこの人生をもはやどうでも良いと思っていたが、ひとまず「とりあえずこれをやる」というものを探し、死ぬのを何度も延期した。
死ぬ前に、小説を書き上げようと思った。仕事を放り投げて旅に出ようと思った。ブログを書こうと思った。Twitterやキャスをやろうと思った。とりあえずなるべく他人と会おうと思った。
そうして何度も何度も死を僅かずつ、ほんの少しずつ延期していなければ、妻が私を見つけることは無かっただろう。
そして妻の人生もまた尋常なものではなく、私に共感を覚えるような深い悲しみを抱えている人だった。そして友人の死と、私がその死に向かい合っていたことが、パズルのピースのように奇跡的に当てはまり、ネットの海から掬い上げられた。
自分のことを特別にして求めてくれる誰かに愛され生きることは、思っていた以上に私を楽にしてくれた。
妻は、私が友人のことを悼み続けることを許してくれるし、妻にとって私は、今のところ良い主夫として何とかやれているみたいだ。来年の春には新しい職場で働くことが決まっている。きっと無能者扱いされると思うけれど、きっと大丈夫だろうと思えるくらいにはなった。
だから死にたいなんて甘えだとか、問答無用に生きるべきだとか、大事な人が悲しむだとか、生きてることに感謝しろだとか、そんなトンチンカンなことを言うつもりは毛頭ない。
一度「死ぬ」ルートに入った人間を掬い上げるのは本当に困難だし、何の代償も支払うことなく他人の人生を救うことなんて、基本的には誰にも出来ない。
私は、自分が友人にしたことを後悔していない。友人のことは救えなかったし、最期に孤独にしなくて良かったと今でも思っている。
だけど、もしこれを読んでいる人の中に死にたいと思っている人がいたら、死ぬ前に、何か言い訳をしてみて欲しい。
明日はマックの新商品が出るから今日はとりあえず生き抜くだとか、私みたいにお金と体力が尽きるまで放浪してみるのも悪くない。映画を見まくって、芸術に触れて、ときには創ってみて、食って寝て、会いたい人に会って、未練が残らないように、ギリギリの本当にギリギリまでやることを見付けて、やり尽くして、それでも未だ死にたいと思うのなら、好きにしたら良いと思う。
その最期の一瞬までに、これを読んだあなたのことを誠実に見てくれている誰かがいて、手を差し伸べてくれることを切に願う。
そしてあなたの大切な誰かが自分の前から去ろうとしているときは、遠慮がちに手を差し伸べてみて欲しいと思う。
最初は感情論抜きって書いてたけど、書き終わってから前提が感情論なのに気付いたからタイトル変えた
今回は治療の見込みがなく金銭的、ないしは苦痛から本人が痛切に死を望んでいる難病患者をそのカテゴリとする
ただ生きるのが辛いだけとか借金塗れで生きててもしょうがないと本人が思っているだけの層は座っててくれ、数行後で拾うから
その安楽死が必要であろう層って多くても精々一万人かそこらじゃないかなと個人的に感じているわけだ
これでも少し盛ってる、もっと少ないんじゃないか、少なくあって欲しいと思っている
エビテンスは無い
感覚で書き連ねているが、この数字感覚が正しいと仮定したなら個人的には安楽死賛成派になってもいい
でだ、その超少数派のために安楽死を解禁した場合何が起こるかといえば、必要ない層がばったばった死ぬのが火を見るより明か
「自殺は絶対にしたくないけど国が許すなら死にたい」層がどれだけ制限を設けてもあの手この手で潜り抜けて死ぬんだよ
ただ生きるのが辛いだけだったり借金塗れでどうしようもなくなったけど自殺は絶対にしたくない層な
で、そういう層を含めた消極的死にたい層、下手したら総人口の1%くらいならいくんじゃねっていう話
ただでさえ人口減だの少子高齢化だの言われてるご時世に100万人死ぬかも知れない手段の提示は流石にやべーだろ
1人2人ならどうでもよくても、その数に率先して自死を選ばれたら連日ニュースがお祭り騒ぎって寸法だよな
その危険性考えたら安楽死の実現とか間違いなくできねーし、日本って国はその土壌が仕上がってるんだよ
多少は問題あっても普通に生きていけるけど、合法的に死ねるなら死ぬわって層を産み出しすぎちまってるんだな
感情論で言えばさ、手の施しようのない病を患って毎日苦しんでその上金もかかる、もう死にたいって人が安らかに眠れるなら一つの選択肢としてあり、と思ってしまうんだよ安楽死
でも認めた結果何が起こるかって考えてしまうと、そういう人達には耐えてもらう他ないんだなあってなる
そんなことをふと思った
まあこの話頭からケツまで出てる数字にエビテンスひとっっっっっっっっっっつもないんだけど
だって死刑囚とかそれこそ100人いくかいかないか程度しかいないんじゃね?
全員死んだところで何一つ影響ないじゃん
死ぬのってすごい楽じゃん、自殺しなくても国が正式な手続きで自分を殺してくれるとか最高かよって俺は少し思ってしまうし、
実際そう思って死刑目当てに犯罪やるクズとかも一定数いて、たまにニュースになるわけだし
そういう連中がいることを考えると、刑務所の暮らしが無味無臭で退屈なものって前提な上で反対派になるわ
何もない毎日って普通に死にたくなる、死刑相応の連中にそういう人生を死ぬまで過ごさせて欲しい
毎日が虚無だと死が救いになり得ると思う