はてなキーワード: 背中とは
※近年まれに見る気持ち悪い内容です。読後の苦情は不可、まあ匿名だから全然いいけど
さて、BLEACHの話をしようと思う。
と言ったけれど、多分その言い方はあまり適切ではない。これはある意味わたしの一世一代の大失恋の話なのである。そう、タイトル通りです。もう2度とあんな恋はできないと思うなあ、ほんとに。
彼(BLEACHのことですが)との出会いは中学時代だった。当時仲良しだった先輩に貸してもらったことがきっかけで読むようになり、なんだこれ面白い、とめちゃくちゃはまった。
多分本誌はまだ尸魂界編の途中だったかな。とにかく藍染はまだ柔和な笑みを浮かべてるような頃だったと思う。や、死んでたくらいかな。あいつの演技はほんとアカデミー賞もらえるレベルだったよ。
それこそ中学生なので、周りの友達はその頃誰が好きだとか、あの2人は付き合ってるとか、そんな話でもちきりだった。
今みたいに大々的にオタクが人権を持つ時代ではなかったので、わたしはオタクであることをひた隠しにして生きる他なく、恋愛の話題にもちゃんと乗っかり、それらしく擬態してはいたけれど、本当はクラスのAさんBくんの甘酸っぱい恋愛なんかより、わたしはずっと一護とルキアのことを考えていたかったのだ。てか考えてたけど。
驚きの気持ち悪さだと自覚はあるけれど、事実なので仕方がない。あの頃のわたしは、なにより一護とルキアの行く末を思って胸をときめかせ、涙を流していた。
それこそ自分の恋で泣いたことより、2人のことを思って泣いたことの方が多いくらいだ。人生トータルしてもそうかも。だって当時の日記には、一護とルキアの未来を憂う病みポエムまであった。まじでやべえな、我ながら。
作品も、現世編、尸魂界編、ここまではもう最高に大好きだった。今でも一護が白哉を倒し、そこから怒涛のように藍染が天に立つところまでの流れは凄すぎると思っている。
尸魂界編の最後、ルキアが現世には一緒に帰らないと言った時だって悲しくはなかった。一護、いい表情してたから。はいはい、強がっちゃってねとは思ってましたけど。
そしてその後始まった破面編。いやそれだって最初は良かったのだ。あまりに強い敵に心を折られる一護。そこではい登場!俺の光。最高でしたね。
だけど、少しずつ雲行きが怪しくなっていった。
そして忘れもしない、第237話『goodbye,halcyon days.』
もう無理かもしれないぞ?と思った。なんぞこれ?ってなった。でも、まわりの男友達は複数名あのシーン好き!って言ってたから男からしたらいいのかもしんない。5回生まれ変わっても好きになられたいのかもしんない。まじかよ。わたしはどうせなら毎回違う男と結婚したいですけど。
ちなみにその男友達たちにはどうせおっぱいだろ!って理不尽にキレといた。情緒不安定かよ。こんなキチガイと友達でいてくれてありがとう。
ちなみにもはや言い訳になるけど、織姫のことだって最初から嫌いなわけじゃなかった。初期の彼女はすきだったよ、ほんとだよ。
いやわかってる、単純に一護のことがめちゃくちゃ好きなんだってことはわかってる。いい子……なんだとも思う……思いますよ……だけどもう鳴き声みたいに黒崎くん黒崎くんといいだしてからは、どうしてもこれは無理だ……!ってなった。
でもまあ、その後もしばらく読んだんだよね。一応最終章に入るまでは追っかけてた。でもやっぱりどうしても段々と作品自体を愛せなくなり、勝手な批判ばかりが頭に浮かぶようになった。その時もうわたしはこのコンテンツのお客さんではなくなったのだと感じた。
嫌なら見るな、まさにその言葉通りだ。だから読むのをやめた。それでも大好きだった気持ちは忘れられなくて、漫画を捨てることはまだその時はできなかった。好きだったところまで嫌いになる必要はないと思ったし、そんな簡単じゃなかったから。
そのままずっと、みないままでいた。封印してた。
だけど、何事もそうであるように、BLEACHにもやはり終わりはやってきて。いよいよ来週最終回だという噂を耳にした。さすがにどうなったんだろうと思って、ネットを検索した。あれは確か会社からの帰り道、多分木曜か金曜か。そこでわたしはいわゆるネタバレサイトが何かを元にしたんだろうネットニュースをみてしまった。
そこには一護と織姫が結婚して、恋次とルキアが結婚した、と書かれてた。信じない、信じないぞと思いながらも、多分震えてしまってたと思う。
そして来る月曜日。いやーぜーんぶ本当に本当でした。そうして想い出は、粉々に砕け散った訳だ。
ほらね?これは一世一代の失恋と言っていいのでは??自分の失恋なんてもはやほとんど覚えちゃいないのにね。
その後、捨てられないでいた既刊は全てBOOKOFFさんに売りに行きました。わたしはもういよいよ作品の読者として相応しくない存在となりましたので。元々なってたけど!
いやーーーでもさあなんでああなったかなあ?真咲と織姫が太陽として描写されていたから、こうなるのでは?っていう考察ブログもあったんだけどさ(いやそのブログはまじで凄いんだけど)
結局黒崎一護はお母さんを護りたかったあの日からなにも変わらなかったということでしょうか。井上織姫は母の代わりの太陽ですか?男の子は母親に似たひとを好きになる理論強すぎか??そりゃマザコン男による離婚騒動が永遠になくならないわけだよ。しかもなんだかんだ同じ世界に生きるもの同士でくっついちゃうんですか?お互いに背中を支える月のような彼女ではだめだったんですか?
うん、だめだったんだね。少なくとも、男女として生きる相手にはならなかったんだ。いやしかし、男女の辿り着くゴールが必ずしも性愛であるというのも逆に古いのか?もしかしてわたしの方が固定概念に囚われているのか?
でも最後に負け惜しみを言わせていただくと、わたしはやですけどね!!自分を護ってくれるけれど。そのために何度でも立ち上がってくれるけど!女として愛してくれるけど、家族になったけれど、それでも彼の後ろにはあの小さな背中が一生ちらつくなんて。
ふんだ。
あ、でもね!ただひとつ言っておくけれどBLEACHという作品は今でもすごいなあと思っている。めっちゃ面白い。
わたしはわたし特有のめちゃくちゃ気持ち悪い理由で読めなくなってしまったけれど、あのポエムといい、キャラデザといい、唯一無二にも程がある。
世界の多くの人よ、もしもまだ読んだことなかったら、そして暇だったなら、この何もできないGWにはぜひともBLEACHを読むといいと思う。
あの〜ところで白猫コラボやったら、唯一織姫だけがガチャで出たんですが?これは何かの嫌がらせでしょうか?しかも意外と使い勝手いいじゃねーか、育てちゃったよくそっ
こういう相談は、相手が踏み切れない事の背中を押したり、モヤモヤを晴らしてやる事が「良い回答」でそれを出来るのが良い回答者なの。
単純でアホみたいに人権ガーをしている馬鹿共は捨て置けばいいんだけど、瀧波ユカリさんが言ってることはかなり相談者内容でフィルターはかかっているが合ってると思う。
この相談者の幼馴染である14歳の少女が幸せに生きるためには大人が手を差し伸べなければいけないし、相談者もそれはわかってて自分に出来ることを教えてほしいと相談を書いているような気がする。
なんで相談者はそう思ってるかと感じたかは明らかに相手の男のことを悪く書きすぎているから。
19歳で未成年飲酒・喫煙していたり、避妊拒否したり、そして極めつけに彼女の家の状況まで書いて、万が一妊娠した場合は彼女が産むにしろ堕ろすにしろ男・親から支援を受けられそうにないと感じているんじゃないかと思う。多分瀧波ユカリさんもそう感じてる。
だから
https://twitter.com/takinamiyukari/status/1386550154992394241
https://twitter.com/takinamiyukari/status/1386597549524414467
と記している。
そしてこういう相談者が求めているのは市や県、国などの支援などや相談の方法でしかありえない。
瀧波ユカリさんが憤っておられるのは相談者の幼馴染の彼氏(君の父親の立場)ではなく間違いなく回答者。
そこを間違えてはいけない。
じゃぁ幼馴染の彼氏を悪く言う必要はないじゃないかというが、相談者の立場からみてそもそも悪い前提で相談が来ているのでそこはもう相談の前提となっているんじゃないかな。
結局核として言いたいのは
https://twitter.com/takinamiyukari/status/1386597554708570113
これだと思うよ。
手を出すやり方じゃなく先生にチクったり周りと協力して対象者を無視し続けたり体育の時間にわざとボールぶつけたりホームでこっそり背中を押したり
いろいろやりようがある
これも結構前の話になる。
「そういえばあの時、どんな気持ちだったっけ?」と思い返す機会があったので、折角なので文字に書き残しておきたい。
そうすれば胸に落ちるものも、もしかしたらだけど多少はあるんじゃないのかな?って感じで。
内容が内容なので、少し長くなるかもしれないけど、お暇な方がいらっしゃいましたら読んでやってください。
あんまり仔細に年月日を狭めすぎるとアレなので、時期は今から7年ほど前。
ちょうど今のような、若干寒さも落ち着いてきたかな?ってぐらいの春頃のお話だと思って下さい。
兄の方がとても優秀だったんで、随分と見劣りはするけれど、俺の通っていた高校のレベルからすれば「まあ頑張ったんじゃないの?」程度の大学へと入学。
その筋のマニアには結構有名な、二郎インスパイアの名店が近くにある登り坂の長い大学ですね。
あれは本当に数少ない良い思い出です。メチャメチャ美味かったな。店狭いし、オッサン怖いし、汚いけど。
オススメは小ラーメン・麺少なめ・ニンニクマシ・アブラマシマシです。
しかし高校まではチャリ通で10分だったところが、電車を乗り継いで1時間半になったのは本当によくなかった。
職場と学校は、絶対に自宅から近い場所を選びましょう。近い場所にないのなら、あなたが引っ越してしまいましょう。(経験則)
そんなこんなで深夜までゲームやらアニメにうつつを抜かしては、中途半端な時間に目覚めて、一限は余裕でアウト。
気付いた母親に叩き起こされて、仕方なく起床。もそもそと着替えて、遅刻前提の移動。
それで素直に大学まで向かえばいいものを、「途中で行くのも面倒くせえな」と地元のカラオケで朝割フリータイムしてたり、本屋で立ち読みしてたり。
入学当初からそんなんだから、とにかく授業内容は良く分からないし、眠くて眠くて仕方なかった。
何よりも人見知りだったもんで、良くも悪くも自由な大学形式の授業とサークル活動に、いまいち馴染めずにいた。
大学は少中高と違って、能動的に働きかけないと友達はできないもんなんです。あの頃の俺に教えてやりたい。本当に。
夢見ていた大学生活は、俺にとってはただの眠気との闘いに成り代わっていたのである……。
そんなんで仲の良い友達も全然いないもんだから、授業サボりまくって、図書施設のビデオ設備で「ロード・オブ・ザ・リング」とか「戦場のピアニスト」とか見てたな。
いや、完全に余談でした。すみません。
とにかく、こんなカスの具現化みたいな大学生活を送らないよう、新入生の皆さんは頑張ってください。
話を戻します。
俺が小学校に上がるぐらいの前に、うちの母親は一度離婚している。だから俺は種親の顔をほとんど覚えていない。
「自分はママとパパと話すけど、ふたりは全然しゃべらないなぁ」とか「やたらと関西の実家に行ったり、親戚の子がうちに来るのはなんでだろ?」とか。
そんなことを子供ながらに思ってたんだけど、今思い返せばそういうことだったんだと。
そんなこんなで気付いたら第一の父親が消えて、俺が小学校二年生ぐらいの時に、新しい父親が来た。
そりゃ向こうも腹を据えて、血の通ってない兄弟二人を抱えるわけだから、多少の上っ面は確保してくるには違いないんだけど。
一緒にお風呂に入れてもらったことが嬉しかったのを覚えてる。そんな第二のお父さんの背中には、ご立派な龍のモンモンが彫られていたけど。
仮初でも、その人は優しくて良い人で、色んな場所に連れていってくれたりした。なんかホテルが多かったな。海ほたるとかもよく連れていってもらった。
多分これまでの人生25年、その人が来てからの数年が一番幸せだったんじゃないかな?
中学に上がる前ぐらいの、それぐらいの間。ホントに幸せだったと思う。ボンボンもボンボンで、当時Xbox360でCOD4のネット対戦してたの俺だけちゃうかレベルで。
俺も兄貴も母親も父親も、心から「家族」を感じてた最後の瞬間だったと思う。
で、俺が中学に上がった頃に、第二の父親が手掛けていた事業が一気に傾いてしまったと。
これは直接見たわけでもなんでもないけど、父親の元同僚の方に聞いた話なんで、間違いないことだと思います。
そっからの酒乱っぷりたるや本当に凄くて、中学生ぐらいになると俺も兄貴も(特に俺は)夜更かしをするようになってるから、
ベロンベロンの状態で帰ってきた泥酔親父に、子供相手に何を言い出すねんみたいな絡み方をされだして。
うわぁ、イヤやな……って、毎日夜になる度に鬱になってたのを思い返します。寝てたら寝てたで起こしにくるし。逃げようないやん。
この一言が本当に忘れられなかった。シグルイのあの人ばりに、(この傷は二度と戻らんな)と泣きながら感じたのを覚えてます。
しかもこれ確か、母親の目の前だった気がするんですよ。なんか二人で揉めてて、俺が仲裁に入るじゃないけど、間に入ろうとしたらこうなったみたいな。
酔うと貯め込んだ本質が出るタイプの人っているじゃないですか。つまりはそういうことだったんだな、と。
それ以降、父親と心を通わすことは一切なくなった。もちろん話したりってことはあるけど、他人みたいなことで。
そんなこんなで、それでも気付いたら中学生になって、高校生になって。
第二の父親は家からはいなくなって、お金だけを入れながら、たまに連絡を取るぐらいの関係になって。
小中校まではすごい楽しかったんですよ。面白い友達もいたし。なんで急に大学でダメになったのか、不思議だなぁ。
母子家庭であんまり余裕のある生活じゃないけど、塾にも行かせてもらって、奨学金も出る。
大学にも行けるんだと思えば、ちょっとぐらいの家庭内のゴチャゴチャがあるぐらいで不幸ぶんなよ、俺よりひどいやつなんて山ほどおるぞと自分で自分を戒めたりもして。
そして母親の様子がおかしくなりだしたのは、このあたりだったと思います。ちょうど俺が大学受験を終えたぐらいの時分。
深夜、お腹すいたなーと思ってリビングに行くと、母親がワインと大き目なビニール袋みたいなんを用意してて、一人で黙々と飲んでて。
で、ちょっとなんか変な感じがして、母親の目から。据わってるって言えばいいのかな。とにかく、明らかに普通じゃないけど、普通を装うとしているのが伝わってくるような、そんな感じで。
無言でいるのも変なので、「なにこれワイン?家での飲んでるの珍しいね、いいやつなの?」みたいなことを訊いた覚えがあります。
うちは父親の件もあったので、母親とはすごく仲良しだったから。
思い返せば、極度のマザコンだったんだと思います。特に兄貴が遠方の大学にいってからは、実家には俺と母親の二人だけだったから。
とにかく変な雰囲気だったから、「お酒家で飲むの初めて見たかも!俺もひとくちもらおっかなぁ」みたいな、おどけてなんとかしようみたいなムーブをした記憶があります。
「いいよいいよ。飲んでみな」と、母親が余裕で許可をくれたことも結構意外でした。酔ってたのかな?分かんないけど。
ド深夜、テーブルライトだけつけたリビングの机、ワイングラス、謎の大きなビニール袋。
なんかすげえヤバイことになってんのかな?と。
なんでだろう、このあたりから薄々感じ取り始めたというか、そんな気がしました。今までにこんなことなかったよな?って。
そして寝て起きたら、横に母親がへたりこんでるんです。体育座りを右斜めに崩したみたいな恰好で。
俺は一瞬、本気で死んでると思った。でも慌てて抱き付いたら、ちゃんと体温も呼吸もしてたので、本気で安心したのを覚えてます。
えっえっ?ってなって、どうしたん?って聞いたら「いや、ちょっと……」みたいなことで、手元を見たらスカーフ?とハンカチを束ねて作ったような、首吊り用の縄?があって。
正直ワインのときから厭な予感はしてたから、メチャクチャ驚いたし、なんで?ってなった。
「それはだめだって、それだけはだめだよ。これからどうすんの?」って泣きながら問い詰めた記憶があります。
人間、本当に近しい人であれば、ちょっとした行動から、「なんとなく自殺しそうだ」というのが分かるものなんだって思いました。
マジでここらへんの記憶が、ずっと頭からこびりついて離れない。身体を下ろした時よりもキツかったかもしれない。
未だに良く分からない。要するに母親は、部屋のドアノブに縄を引っかけて、首吊り自殺をしようとしたんだと。
しかも俺の部屋のドアノブだった。誰のだったらいい、ということじゃないけど。この時には、兄貴はとっくに外に出ていたはずなのに。
首元を見たら、真っ赤っていうか、うっ血したようなアザになっていて、「失敗しちゃった」みたいなことを半笑い、作り笑いで言っていたような記憶があります。
未だに後悔しています。
あれだけ明確に希死念慮を見せていたにも関わらず、なにもできなかった。
母親がこのとき、俺に助けを求めていたのかは分からない。あるいは本当のショックを与える前に、「私は死ぬからね」という予告をしたのかも分からない。
兄にも周囲にも連絡をしなかった自分の愚かしさ。せめて身内だけには言うべきだった。
でも、言ってもどうにもならないんじゃないか、言われた側に負担を強いるだけになるんじゃないかと、どこかで想ってしまっていたのも事実です。
「母親が自殺をするかもしれない。どうか助けて下さい。」この言葉を俺はいったい誰に伝えればよかったのか、いまでもわからない。
救い方があるとしたら、それは俺がどれだけ母親が好きで、愛していて、感謝しているかということを、心変わりするまで何度でもいうことしかなかったんじゃないかと。
ちょっと早めに授業が終わったのか?サボったのか。正直どっちでもいいけど、俺は家に帰った。
なんだかすごい胸騒ぎがしてた。兄も俺も家にはいない。家にいるのは母親だけ。
ただいまとドアを開けた瞬間、やはり自分の部屋の前で、足元に椅子を置いて、スカーフで作った縄を首にかけて、うなだれて扉にもたれかかる母親を見つけた。
凄まじい衝撃と同時に、「やっぱりこうなった」とどこかで思う自分がいた。
首にかけているスカーフは素手では取れなかったので、キッチンからハサミを持ってきて、片方の刃で切り落とした。
抱き抱えた母親の身体は、思い返せば想像よりもずっと軽かった。
「誰か、誰か助けてください」と今までにいったことのような言葉を金切り声で叫びながら、居間の上にあおむけにさせて寝かせた。
兄は大学二年生で、本来なら学生寮にいたはず。この日はたまたま里帰りをしてきて、何かを読みに本屋にいってくるといっていた記憶がある。
もしかすると母親は、この日を待っていたのかもしれない。兄弟が揃う日じゃないと死ねないと思ったのか。分からない。
「ママが首を吊ってた。いま俺が下ろしたけど、意識がない。救急に連絡するから、すぐに帰ってきてほしい」
と言って、すぐに電話を切った。兄は「わかった」とだけ言っていたような気がする。
家の場所を伝えて、どうか助けてくださいというと、すぐに救急車と救助隊の方々が来た。
俺は人命救助の方法とかがまったく分からなくて、もしかすると心肺蘇生とか、胸骨圧迫とか、本当はいろいろなやりかたがあって、
待っている間にそれができていれば、母親を助けられたんじゃないかと思う。
でも本当に現実を現実として受け止められてなかった。頭がヘンに冷静だったのは、「こんなことになったけど、きっと助かるよな」と無根拠に信じ込んでいたからだと思う。
ハサミで深く切った指から血が流れていることに気付いた。痛みはまったく感じなかった。
俺「こんなんなっちゃったな」
兄「俺、これからどんな顔して顔あわせればいいかわかんないわ」
俺「そうだなぁ」
こんな会話を、兄弟で悠長に会話していたのをハッキリと覚えています。
ここまではすごくハッキリ覚えているのに、ここから先があいまいなのが不思議で、不思議で。
確か夜の病棟に運ばれて、「自意識が戻る可能性はない」と言われたこと以外は、実はほとんど覚えてないんです。
翌日の病室の面会で、意識のない母親を前に過呼吸になるぐらいに泣いてしまったことを覚えてます。
そして「自意識が戻る可能性はありませんが医療を続けますか?」というような旨を医師の方に伝えられて、「もういいです」と伝えたことは覚えてます。
そしてずっと病院に居るわけにもいかないから、家に戻って、母親のいない家で過ごして。
三日後か四日後、電話の連絡で「お母さんは亡くなりました」と同僚の方から連絡をいただきました。
母親の死に目に会わなかったのは、自分にとって幸運だったのか、不運だったのか、未だに分からずにいます。
わからない、本当に今でもわかりません。
あのワインの日から、自分に何が出来たかをずっと考えています。
間違いなくサインとなっていたあの日、ちょっとでも行動を起こす勇気が自分にあったのなら、もしかすると母親は今も生きていたのかと。
落語の定席は自粛要請を受けません、というのに批判が割とあって、まぁ個人的には批判も、ある程度は仕方ないだろうなぁ…としょんぼりするほかないのだが、寄席を開いている側としては死活問題だろうとも思う。
増田は落語好きなのだが、寄席には元々あまり行かない。近所で落語好きが席亭やってる小さい落語会やホール落語に行くのが中心。これには個人的な理由があって、寄席だとあんまり好みじゃない芸人のもなんとなく見ちゃうことになるのが、あんまり楽しくないからだ。そういうのが好きな人もいるからこれは良し悪しではなく単なる好みの問題。
で、定跡の寄席(一年中やってる寄席)って実は少ない上に大して儲からない絶滅危惧スペースで、そこで芸人が得られるお金は微々たるものである。実際にいくらなのかは知らないが落語家さんがそういうマクラや雑談をするし、キャパシティや普段の稼働状況なんかを鑑みても「あんまり儲かってなさそう…」というのは容易に推察できる。定席の寄席に出てるだけだと全然食えないと思う。
寄席に出る芸人の主な収入源は寄席ではなく、営業やいろんな場所で行う落語会なので、寄席が閉じてしまうこと自体が彼ら芸人の日々の生活に直撃するわけではない。が、落語会やお笑いイベントが行われる場所は主に公共ホールだったりするので寄席よりも強く自粛させられるため、すでにホール落語は続々と休止が決まっている。こちらの方が実際には芸人たちにとってはクリティカルヒットになるわけだ。
去年の初めての自粛の後は、解禁後も寄席は閑散としていたと聞く。この10年ぐらいは東京はかなりの落語ブームで寄席も盛り上がっていたのでコロナの影響は深刻だよなぁと思っていた。それでも再開して少しずつ客足も戻ってきたらしいよと聞いていたのだが…コロナの影響で、営業(ホール落語とかも含めて)がままならなくなっている芸人たちも、寄席を開いている席亭たちの収入も当然大幅に落ちていると思われる。
絶滅危惧スペースで大して稼げるわけでもなく、これを書いている増田自身が「あんまり行かないんだよな…」と思う寄席ではあるが、落語や演芸文化にとって大事というのはとても理解できる。
席亭(芸人の出番を決めたりもする)の人脈力だったり、ショーケース機能(営業や別の落語会に呼ばれたり)だったり、自分を目当てに来ているわけではないカラい客を相手にするという若手の修業の場という機能だったり、こういう諸々をまとった空気感。寄席がつぶれると、こういう機能とともに、文化を醸成するための有象無象な「空気感」がなくなる。一度なくなった後に取り戻すのはかなり難しくなるだろうから、まぁ、寄席の側からしたら「文化だし必要だし」という言い方になるんだろう。
大阪では長いこと定席寄席がなかったこともあって、上方落語はすごく面白いのに、繫昌亭ができるまでの長い期間、沈んだ期間を過ごしていたらしい。関西の人にとっての落語家は三枝と仁鶴と、その他いろいろタレントやリポーター、みたいな感じだったと。最近はようやく中堅若手で面白い上方落語の人が続々と出てきているし大御所たちも落語を元気にやっておられる。
そして江戸落語がしばしば、すごい面白い落語家を生み出しているのは、定席が続いて存在しているからというのは大きい。批判もあろうが、どうせ(特に池袋は)ガラガラだろうし許してやってほしい。
一方で、実は江戸落語の界隈も、クラスタ認定はされてないが芸人の陽性者をこの1年で何人か出している。前座や若手だけでなく真打も。私が好きな師匠も感染を発表して、重症化しやすそうなタイプだったので凄く心配していて、今は無事に回復しておられるので安心した。とはいえ、まぁ、「文化だから開き続けるぞ」と宣言するからには、できる限りいやそれ以上に芸人たちの感染対策を、彼ら芸人自身がしっかりやってほしいと願うのだ。じゃないと、批判が増えてしまうだろうし何より何かがあった時にその芸人さんの芸が見られなくなったらすごく寂しすぎる。
で、話は変わるようで変わらないのだが、相撲である。相撲は相撲部屋クラスタも出しているし亡くなった力士もいる。なのに深夜まで飲んでた麻雀やってただのと報道をされている。反省がない…という悲しさ。
相撲も落語もそうなのだが、彼らの中に感染がおこる原因の一つに「タニマチ」の存在があるのではと思ったのだった。相撲も落語も「タニマチ」と俗称されるような人たちがいる。取り巻きというか私的スポンサーというか。落語会の後に打ち上げをやって若い者に栄養をつけさせたり、場所の後にパーティーをやったり、タニマチ側の慶事やイベントがあったらゲストで来て「お相撲さんがきてる、わー」と言われたり、ちょっと軽い一席をやったり、お姉ちゃんのいる店に一緒に行っておねえちゃんを驚かせてゲラゲラ笑ったり、そういうことをしていたりする。こういうのは徐々にすたれていっているという話も聞くのだが、こういう「場」を通して感染が広がるのはあり得るよなぁと思うのだ。
個人的にはこの「タニマチシステム」は好きじゃなくて、それは私がタニマチをやれる財力がないから嫉妬しているのは大いにあるが、芸や理屈が「内向き」になることと背中合わせだよなと思うからだ。一方でタニマチに食わせてもらった若手時代、とかタニマチに金出してもらったから部屋が持てた、みたいな話も聞くのでむげに否定もできない。ただ、コロナのことがあるから、徐々にすたれていっているという流れがそのまま加速して、別の方向(例えばYoutubeで課金とか)に流れていくといいなぁ…と思ったりする。
じゃあお前の背中で試してみろよ
前回の記事より3ヶ月後、一念発起して結婚相談所に登録した。残念ながらそこで結婚相手を見つけることはできなかったが、別ルートから恋人ができたので、その経緯を記録する。これは、前回あたたかな言葉をかけてくれた方々への報告でもある。
また、結婚相談所で結婚こそできなかったものの、相談所の対応がとても親切であったことも残しておく。この記事が見知らぬ誰かの背中を押せたら嬉しい。
それなりに人口の多い県に住んでいるため、結婚相談所の候補を絞ることから始めた。自分には持病があるが、そうした様々な事情を抱えた人も歓迎してくれる場所をネットで3つまで絞り込んだ。そのうえで実際に担当者から話をうかがい、成婚率などの具体的なデータと制度を確認するとともに、担当者の人柄もチェックした。
穏やかな方が多かったが、コンプライアンスの観点から不安になってお断りしたところもあった。面談の場所として指定された店が商談禁止だったのだ。目くじらを立てることでもないのかもしれないが、少しでも不安を感じる要素は排除したかった。
結局、一番信頼できそうな方の相談所に登録することにした。自分の給付金10万円はここで使い切った。ついでに紹介された写真屋さんでお見合い写真も撮ってもらった。
多くの結婚相談所はNNRやIBJといった連盟に加入している。大きな違いがあるわけではないが、後者のほうが会員数は多く(2万人と6.5万人という違いがある)、株式上場もしているとのことだった。
仲人制度も存在していたが、それ以外の仕組みはマッチングアプリとよく似ている。つまり、こちらから気になった女性の写真をクリックし、自己紹介を閲覧したうえで「いいね!」する。表現こそ「いいね!」ではなかった気がするが、本質的には同じである。向こうもこちらに関心を持って「いいね!」を押せばお見合いが成立し、直接会うことができる。
マッチングアプリとの最大の違いは、「いいね!」を押すたびに必ず短文でもいいので手紙を書くことが要求されることだ。正直なところこれが大きな負担だった。というのも、マッチングアプリと同じく月に30回ほど相手に「いいね!」ができるが、マッチングアプリはお気軽にボタン一つでできるのに対し、こちらは文面を毎回考えないといけない。それでお断りされるのが続くと精神的に極めてしんどい。文章にはおのずと気持ちがこもる。しかし「ごめんなさい」の返事もなく、断られたことが無慈悲にアイコンで表示されるだけである。
一応、お見合いパーティも存在していたが、コロナ下で頻度が月に1度あるかないかで倍率は高い。しかも、いざ足を運ぶと男性2人女性2人という状態で、マッチングしづらかった。安上がりな街コンのほうが良かったかもしれない。
これは自分がえり好みしているからかもしれないと考えて、隣の県の女性も含めて「いいね!」をし、対象年齢も5歳年上にまで広げた。しかし、梨のつぶてだった。婚活を始めて3か月、見た目収入か持病か理由はわからないが、女性から必要とされていないと感じた自分は完全に心が折れた。
行き詰まった自分は、大学時代に親しくしていた女性にメールした。そのアドレスが生きているかどうかはわからなかったが、どうしてもメールを出さずにはいられなかった。何かに引き寄せられるように、久しぶりに会ってお茶でもしたい、と綴った。
幸い彼女からは返事が来て、懐かしいので会いたいと言ってくれた。結婚相談所の担当者さんに「実はある女性と再会していい雰囲気になっていますが、どうやって告白したらいいでしょう」と厚かましくも相談したら、とても丁寧なお返事をいただいた。
前回、マッチングアプリで音信不通になった女性とのデートで、何が悪かったかを自分なりに考えた。
1つにはデート時間が長かったことが考えられる。出典を忘れてしまったが、長いデートは男性の想像する以上に女性にとって体力的にしんどいらしい。また、初めてのデートはお茶をするだけでもいい、とも聞く。音信不通になった女性は体力のあるほうで、昼間から夜まで映画を見て水族館を見てご飯を食べて、みたいなデートを繰り返していた。しかし、それが早く飽きられる遠因であったこともありうる。そのため、デートではできるだけ長居し過ぎないことを心掛けた。
もう1つは告白の場所が悪かったのだろう。無理して雰囲気を作ろうと夜の公園とか慣れない店を選ぼうとしてうまくいかなかった。また帰り際に告白しようとするとあわただしくなり、きちんと言葉を選べない。今回は自分のくつろげるなじみの喫茶店で告白した。無理に帰り際にロマンチックな場所を選ぶよりも、デートの途中でもいいので自分がアウェイにならない場所を選択するのがいいらしい。その点、1人であちこち出かけていたのが役になった。それでもめちゃくちゃ緊張した。
彼女と交際できてとても幸福だ。彼女ほど素直な女性を自分は知らないし、彼女ほど喜ばせてあげたいと思える女性はいない。
今まで試みてきたマッチングアプリ、街コン、合コンなどでのみじめな失敗も、すべてを教訓にしたことで今がある。言い換えるならば、自分の行動にはすべて意味があったように思う。結婚相談所で失敗したことさえ、相談員さんから背中を押してもらえるというプラスの結果を得た。恋愛・結婚市場における自分の価値などどうでもいい。彼女がそばにいてくれれば、他人の評価に意味はない。
また、下世話な話をすれば、彼女は結婚するまで深い仲にはなりたくないらしい。でも、自分もそれでいいと思う。愛する人との親密な触れ合いはさぞ気持ちのいいことだろうと思うが、それがなくたって彼女がニコニコしていれば十分だ。
ここに至ることができたのも、友人とここでの励ましのおかげだ。優しい言葉に深く感謝し、ここに筆をおく。
キスもできずに別れました。
2022年10月末、再び結婚相談所に登録、婚活頑張ってます。
プロポーズして受けてもらえた! 頑張ってよかった!
俺もなかなかの弱者男性だったけど、これまで複数人と交際し、今は結婚を前提に交際している彼女がいる。
何をやってそこまで至ったのかを伝え、弱者男性を抜け出したいと思う人がいれば、参考にしてもらいたい。
●容姿
・身長160cm以下
・5.5頭身
・一重
・豚鼻
・がりがり
・重度の近視と乱視
●家庭
・両親は仲が悪い
●経済
●性格
・陰キャ
・人の目をみて話せない
・人の成功を妬む嫌なやつ
●友達
いない。作り方知りたい。
②やったこと
●容姿
・ニキビ対策:イソトレチノインの服用 ※副作用めっちゃあるんでリスクを覚悟する必要があります!
まず肌が汚いことがコンプレックスだったので、この薬のおかげで別人の肌になれて、生きている世界が変わった
本当に効果があった。今でも正面から鼻の穴は見えるけど、全然よくなった。
・がりがり:筋トレ
肩幅が広がって顔が小さくみえるようになった。
なによりも精神面で強くなれた。戦う土俵違うけど、イケメンより重いの持てるし!とか思って頑張った。
メガネをかけているせいで目が小くみえることに気づいて、コンタクトに変えたら、すごい評判がよくなった。
それと、一重をかっこいいという女性が増えたことも影響していると思う。
●家庭
・特に何もしていないが自分が変わったことで家族も変わった気がする
●経済
・決められた金額返してる。当たり前だけど、ちゃんと返せてる自分でいることで自信になる
●性格
・おっぱぶに通って頑張って話した。キャバは女性によって全然話してもらえないからだめ。
おっぱぶいって、人気の女性ではない人を指名してドリンクいれて、会話をメインにすすめていく。
女性は指名やドリンクいれると喜んでくれるし、会話のほうが楽だからつまらない話でも付き合ってくれる。
③期間
上記のことをやり始めて2年くらいで彼女ができた。きっかけはジムだった。
以上です。
何でもできそうになった日じゃなくて、少しは何かできたかもしれない日の話。
母方の祖父母はどちらも素晴らしい人だ。いつも穏やかにしていて、人格者で、思慮深く優しい。みんなからも当たり前のように愛されていて、毎年昔の教え子(夫婦である芸事の教室をしている)からの年賀状や誕生日プレゼントが大量に届いてお酒が飲み切れないと笑っている。
そういう人が僕のおじいちゃんとおばあちゃんだった。そんな彼らから僕はまた当たり前のように愛されていた。会う頻度は少ないけれど、わかる。会うたびに見せてくれる笑顔や、優しかったり厳しかったりする言葉、とにかく彼らがくれるものすべての細部に愛が籠っていた。
当たり前のように愛してくれて、だから僕も彼らのことが大好きだった。
でも僕は傍目ではいつも彼らによそよそしくしていた。わざとしていたわけではなく、、つまり、話し方もちゃんとした甘え方もよくわからない、親の背中に隠れる子供のまま礼儀正しさだけ身に着けてしまったんだと思う。彼らはそういう僕を分かってくれているのかそうじゃないのかよくわからないけれど、とにかく驚くべきことにそれでも優しかった。当たり前だけど申し訳なかった。僕は受け取った分の 1mm でも返せているのかな? といつも疑問で、だからいつからか二人が笑いかけてくれるのもなんとなく気まずかった。
祖父母のことだけじゃない。何もかも勇気がなくて。先延ばしにして。僕はそういう人だって分かってたからもうなんでもいいかなと思うことも多かったけど、それでも祖父母のことだけはずっと僕を非難していた。多分、僕に本当に大事に思える他人は少ないから。大事になんてできてないけど。
何でもできそうだ思った夜が何度もあり、同じ数だけ何もかも無理だと感じた朝があった。
そういう日のうちに、あるキャスを聞いた。
「親みたいにずっとお世話になっていた人に会いに行って、ご飯を作ってくれたときに、お皿を洗えて(ほんの少しでも恩返しできたみたいで)良かった」という話だった(わたしの語彙...)。
こう書くとよくある話かもしれないけど、僕は彼女(キャス主)が僕のように何にもしてこなかったような人ではないことを知っていた。つまり恐らく彼女が会いに行ったのも、連絡を取ったのも普段の積み重ねの延長上にあって、、
でも普段からそうしていたとしてもまだ「お皿を洗う姿を見せられて良かった」なんて思うんだと、そう思った。それからたまたまそのとき彼女を少しだけ身近に感じていたのもあった。普段から尊敬する彼女の中に素朴なものを感じて、うまく言えてないけど、とにかく僕にも何かできるし、躊躇ってることがあるなら前に進みなよって言われてる気さえした(なにかこちらに語りかけてくれたわけではない。多分周囲にいい影響を与える人ってこういう人のことを言うんだと思う)。それでその日は遅かったので明日とりあえず祖父母の家に電話してみることを決めて寝た。
翌日よくわからない時間に起きて、頭が回りだしたのは午後。その日は休日だったけど夜にちょっとしたプレゼンをしなければならず、その資料作成をしていた。
正直めちゃめちゃ忙しくて、明日でいいかなーと思ってた。ぼんやり考えていたけど電話をして何を話したらいいかいまいちわからなかったし、ちゃんと話すことを考えてまとめる時間が欲しかった。
ただ、キャスの彼女がまたお世話になっていた人に連絡を取ったっていうツイートを見たとき(確かにまた連絡を取りたいと言っていた)、見て、作業に戻ろうとしたけど、うまくできなくて、スマホを手に取ってたまたま充電がなかったことに気づいて逡巡した挙句財布を持って公衆電話に向かった。
一度、電話番号を覚えてないことに気づいて戻った。話すべきことは歩き出せば意外にもすぐ決まった。国道沿いのコンビニで車のうるささに辟易したけど一度深呼吸して、右耳を袖で塞いで左耳に受話器を当ててダイヤルした。僕から祖父母彼らに掛けること自体は初めてはなかったけど、自発的なものは初めてだった。
正直すぐには意味があったのかどうかもわからなかった。言いたかったことは1割も伝わったかどうかわからないし、そもそも僕が電話を掛けた意味を相手はすこし取り違えて理解したようだった(大学を辞めたことの謝罪をしたかったのだと思われたみたいだった。もちろんそんなことが一番言いたかったことではない)。
こんなんで僕は少しでも彼らを大切にできたんだろうか? その片足でも上げられたのかな。そういうことをぐるぐると考えていた。
でも最終的に、少なくとも僕がこのきっかけを後悔することを彼らは望まないよな、と思った。僕は間違いなく愛されていて、それには自信があったから。
3歳から母子家庭となり、叔母が我が家にやってきた。こういう状況で育ててくれた母親には本当に感謝してる。
叔母は5歳児くらいの知能はある。顔の表情や発言内容、声から一発で知的障害を抱えてるとわかる。
身だしなみに無頓着で風呂や衣服は家族が気をつかえど、口臭が酷く何か言葉を発した数秒遅れて周囲に腐敗臭が漂う(歯医者に月1行ってるのに)。顔の表情筋は死んでおり頬が垂れ下がり、声は甲高く耳障りに響く(話す内容は幼稚)。背中が曲がり背虫になっている。
誰かの助けがないと生きていけないはずなのに、祖父母は叔母に何も教えなかった。
人と上手く接する術を教えなかった。
世話されて当然という状況で育ったからだ。5年前に死んだ祖父母は医者に叔母が20歳には死ぬと言われてたし可哀想だったんだろうな。
叔母は「誰かと一緒に生きていく」ができず「世話されて当然で生きていく」しか知らない。
叔母が祖父母の仏壇に手を合わせることはない。毎週、俺が仏壇の花を買ってきて変えてることを知らない。命日を知らない。
仏壇に出して下げた後の御膳やおやつは食べていいことは知ってる。
先日、叔母が母の財布から無断でお金を抜いていたことが分かった。誰かと一緒に生きていくために必要なはずのピースが1つまた欠けた。
叔母に「人の財布からお金をとる意味分かってるのか?」と聞いた。
「〇〇くん(俺の名前)の財布からはとってないもん」と返答があった。
彼らだって望んでこうなったわけじゃない!!
この子に気付かされることが沢山あるんです!!
弱者に寄り添って生きていこう!!
さくらーふぶーきのー!!
サライーのそーらへええええええええ!!!!!!!((
みんなで素敵な社会にしていこうね。