はてなキーワード: ニセ科学とは
京アニ事件、あれ、青葉真司容疑者は明らかに統合失調症だよね。
統合失調症は、人口の約1%が生涯の間に一回はかかる、非常に患者が多い病気。日本全体で100万人近くいる。遺伝や環境の影響は確かにあるが、可能性のある遺伝や環境要因を全部取り除いても、発症率は大きくは下がらない。つまり、予防はできない。
定期的な投薬で症状を寛解させるしかない。これも個人差が多く、投薬ですぐになおって一生再発しない人もいれば、投薬すれば症状は緩和されるものの薬止めたらすぐ再発とかいうケースもある。
だが、薬を飲めば多くの人が一時的に症状はよくなる(良くならない人もいる)。
厄介なのは、個人差が大きく、原因も治療法もとにかくハッキリしない病気だってこと。理解するのに科学リテラシーを要求される疾患。
遺伝や環境の影響はあるが、完全に遺伝や環境だけが原因ではない。遺伝や環境があると発症率が何倍・何十倍になるとかいう報告はあるんだけど、「これがそろったらほぼ確実に統合失調症になる」みたいな原因もない。以前、統合失調症は「遺伝にあまり影響しない」と書いたら、「あまり」って書いてて影響することはあるということをにおわせてるのに、「遺伝は関係するぞ!!!嘘をつくな!!!」みたいに粘着されたことがある。
薬で多くが寛解すると書いたら、これも「多く」って書いてあるのが読めないのか、「寛解する奴の比率はそんなに多くないぞ!嘘をつくな!!!」と粘着されたこともある。症状で薬を飲まなくなってしまう人の比率が非常に多い病気なので、薬を飲んだことが確認できた場合に症状がどれだけ寛解するか、の話をしているのか、薬飲まなくなってしまう場合も含めてどれだけ症状が寛解するのかという話をしているのかで、全然意味が違う。
青葉真司容疑者が定期的に投薬治療を受けていれば、あんな凄惨な事件は起こさなかったかどうか…は分からない。分からないし、医者は「分からない」としか答えたくないだろう。だが、その可能性は相当に高い。おそらく、適切な投薬治療の管理下にさえあれば、95%ぐらいの確率で、あの事件は防げたのではないか、と個人的には思っている。だが、この国の行政システムや医療システムは、統合失調症患者に投薬治療を施すサービスがとにかく弱い。彼は生活保護などの経済的なサービスは享受できたが、せっかく薬があるのに、投薬治療のサービスを国は彼に提供できなかった。そして、事件が起きた。
今回の事件で、ちゃんと統合失調症の患者に投薬治療を届けるような仕組みが出来上がればいいが、これも95%ぐらいの確度で、日本は真逆の方向に進むだろう。「真面目な青年が突然アニメやゲームで豹変」とか「幼少期の家庭環境が悪くて豹変」「被害者・被害者遺族の感情」というストーリーが大好きで、ちゃんとした科学的な原因分析をしないメディアの食い物にされ、全く有効でない対策しかとられないだろう。そして、統合失調症患者を丸ごと悪者にする自己責任論が跋扈して、「あんな凄惨な事件を引き起こす人間に、タダで薬をあげて甘やかすとは何事か!」みたいな意見が通り、統合失調症患者に薬は届けられなくなるのではないか…と思っている。
そして、5年後~10年後に、第二の京アニ事件がきっと起きて、またメディアが非科学的なストーリーを垂れ流して、世論が統合失調症患者全体に敵意を向ける…その繰り返しになるのが目に見える。
いやもう面倒くさいし適当に吐き出したいんだけど、ここ最近の日本人って何にも未来とか見てないよね。
あんまり書きたくない固い政治の話とかでも、大体の人はメディアの情報を鵜呑みにして誰かを叩く。
逆に、目の前にいる人間に洗脳されてマルチとかニセ科学とかに嵌ったりする。
まあ知識がないのは仕方ないし、高度に複雑化した現代社会において完璧な情報収集なんてのは無理ですよ。我々パンピーにはね。
なにせ、昔からゲーム脳なんて大嘘に騙されて偏見を向けてくるような人間ばかりだし。仕方ない。
でも、結局のところ誰かが正しい情報を発信しない事には、誰もかも間違うしかない。
こういう事を言っちゃあ自称“マス”メディアと同レベルに思えて嫌だけど、結局は人間の9割ってのはバカな訳ですよ。
厳密には、それぞれに個性が得意不得意があるから絶対バカってわけじゃないけど……
どっちにせよ、どんな専門家でも専門外では素人同然どころか、専門内ですら分からない事は沢山あって、それなのに誰もが自分こそ真の賢者だと信じて疑わない。
そんな社会で正しい情報を拾えるのは、本当に極少数なわけです。
だからこそ正しい情報を得た人は正しい情報を発信する義務がある訳だけど、それを色々な言い訳で隠してしまう。
その背景には結局、世の多数派は真の意味で「正しい事」なんて求めてないという辛い現実があるんじゃないですかね。
なんでかって言えば、それ以上を求めるのは「疲れるから」だ。
楽に生きるなら長い物に巻かれれば良い。
……でも長い物、一般的な人間というのは結局のとこ「間違ってる」ワケで。
さっきも書いたように人間の9割はバカでしかなく、賢い人間ですら専門外は素人同然。
つまり多くの人間が信じてる事ってのは間違いである可能性が高い。
一見すると間違ってないように思える事でも、厳密にはニュートン力学のように雑な論理でしかない。
まあ、かくいう自分も今ここで相対性理論を語れと言われても無理なんだけどさ。
だからこそ、より正しい人間に従うってのは生物の生存戦略としては間違いじゃない。
問題は、その「正しい人間」が居ないってだけの話で…………それこそが、致命的なんだけどね。
なんせ正しい人間が限りなく少ない以上、誰かに従ったところで「そいつが正しい保証は無い」ってか9割がた間違ってるわけなので。間違ってる人間に従えば、どんな人間でも間違うに決まってるじゃんね。
ゲーム脳的に言うなら……上役ガチャ爆死したパーティで生き続けても、人生ダンジョン(難度インフェルノ)はクリアできませんよっと。
じゃあ、欧米人みたく個人主義で生きていくか?って言われても。
さっきも言ったように人間の9割はバカなので、自分ガチャも上役ガチャも基本は同じ人間ガチャなので、まあ爆死が基本なわけで。
なにせ、多くの人間はアメリカ大統領とかいう明らかに就くのが困難な激ヤバ職業の人間ですら「自分の感覚で考える」ので。もっと、こう背景とか考えれないのかなと思うわけです。
とはいえ有能な人間を上役にしようと思っても、どんな専門家でも専門外は(以下略)の理論たる「ピーターの法則」によって、有能な人間は無能になるまで出世し続けるんだけど。
下流工程で有能だからといって、上流工程で有能とは限らない……というか、下流工程と上流工程は似ているようで別の職業なわけで。
言ってしまえば、そんなのは生徒会長を教師に据える様なものでしかない。
教育職員免許状が必須やら年齢などの社会的な大前提は無視するにしてもだ。
確かに人を纏める力は持ってるかもしれないし、大なり小なり成績は優秀かもしれないが、少なくとも教える才能が無いと教師は務まらない。
それ以外の管理や企画進行とかの部分は大なり小なり共通してるかもだが。まあ、どちらにせよ細かい問題は多々とあるはずだ。
それなのに、今の社会では成績や年季といった物に応じて役職が定められていく事が多い。
もっと任天堂みたく、現場には現場の上位職を与えるとかして才覚を活かすような社会システムを構築しないといかんのでは。
……まあ無理か。何せアニメ監督ガチャでUR引いたのに個人の一存から平気で捨てるような社会だしな。
どうせなら別のプロジェクトに移動してもらって手厚く保護するとかしとけば良かったのにねー……おっと愚痴が。閑話休題、閑話休題。
じゃあ、どうすれば良いのか?
答えは簡単で……自分の子孫、子々孫々にとって良い社会を作ってくれそうな人に、意思を投じれば良い。
いや、もっと言えば……自分が遥か未来に生まれ変わった時に、この人が生きていれば社会は安泰だと、こういう人が増えれば世界は平和になれると思えるような人にこそ投じるべきだと私は思う。
本来の話、真に民主主義だってんなら会社の同僚であろうとも近所のオジサンであろうともホームレスであろうと、誰であろうとも……皆が正しいと思える人間なら、誰でも議員になれるくらいで丁度いい。
本人の意思を無視するのは良くないが、そうでないなら……投票し当選さえすれば誰でも社会を変えれるような社会が良いのではないか?
そして、それは社会の縮図たる学校や会社でも同様ではないだろうか?
勿論、能力なり金銭的な部分での手厚い補助は必要だとは思うし、問題があれば即座に退任できないとダメだが……そうでないと、さっき言ったピーターの法則に引っかかって爆死するので。下手したらガチのファシズムとかの危険思想国家まっしぐらだし。
でも、そういう社会でないと最終的に、能力なり人気さえ有れば、どれだけ間違ってる人間でも構わない社会ができてしまう。
それが、今のブラック企業ブラック体質を作っていると思う。特定の能力しか無い人間は、その能力の無い人間を理解しない。
……結局、今の日本社会とは成功した社会主義でしかないし、失敗した個人主義でしかない。
そんな半端をダラダラ続けて何も思わない状態は、ただひたすら不健全でしかない。
だけど、こんな事を宣う自分こそが、そんな今のダラけた日本を作ってるんだなと思うし、そう考えると自分ガチャにもリセマラ機能が欲しいと言わざるを得ない。
せめてチュートリアル期間が1年、欲を言えば再インストール期間も短期に保証されてるなら、こんなこと書く前に今すぐリセットするんだけどね……
結論から言うと、これは「福島は安全管理」という結論ありきのニセ科学である。なお、普段から科学科学と唱えている皆様にはおわかりだろうが「福島は安全」の否定は「福島は危険」ではないので注意されたい。
セシウムとストロンチウムはそれぞれアルカリ金属、アルカリ土類金属であり、化学的、生物的動態がまったく異なる。しかしながら、農産物に関してセシウムからストロンチウム量を見積もる際、これは考慮されておらず、不適切である。(そもそも考慮して見積もりを行うための理論があるのかという問題はあるが)
以下に放射性炭素やカリウムの話もあるが、こちらも骨に特異に蓄積するストロンチウムと全身にまんべんなくたまる炭素やカリウムの話を比べるのは適切でない。
そもそもが、最初は「米は全量検査しているからより安全」というロジックであったのに、いつの間にか「見積もれるから(少なくともある程度の統計学的確率で)安全」というロジックにすり替わっていることも問題である。まさに「こいつ100万で壺買うタイプ」が騙されやすそうな論理展開である。
まず、「被曝した場合にできた甲状腺がん」と「なにもなかった場合の甲状腺がん(例えば韓国のスクリーニング検査)」を比べるのは適切でない。前提が異なるからだ。例えば外的要因により短いタイムスパンで成長したがんが存在する可能性がある。それでも検査は症状が出てからでよいかどうかというのは韓国の事案などとは別に議論されるべき問題である。
次に「そもそもが被曝の程度からして甲状腺がんの発生には影響しないことは過去の疫学研究でわかってる」とのことであるが、この手の検査で期待されるのは(少なくとも検査を受ける側が期待するのは)「対象の95%に影響がなかった」ということではなく、「全員に影響がなかった」かどうかを確かめることである。例えば福島の人口から考えて4sigma - 5sigmaの統計は必要だろうが、この確率で低線量被爆に関してものを言っている文献は発見できなかった。存在するならばぜひ教えてほしい。もっとも、じゃあ99.994%大丈夫ですよと言われて全員が納得するかというのはさらに別の問題ではある。
ワクチンや放射能のデマを信じる主婦・母親たちを口汚く攻撃する、「ニセ科学批判」界隈の人が、それと同じ熱量で、タバコは安全だというデマを流す人や、ゲーム・ネット中毒なんて存在しないと主張する人を批判するの見たことないのは、まあ、そういうことなんだろうね。
ツイートした人の真意はわからないけど、この文章は二つの意味に解釈できる。
A.「ニセ科学批判」界隈の人は、ワクチンや放射能のデマを信じる主婦・母親たちを口汚く攻撃しているのに、タバコやゲーム・ネット中毒についてのデマを批判するところを見たことがない。
B.「ニセ科学批判」界隈の人の中には、ワクチンや放射能のデマを信じる主婦・母親たちを口汚く攻撃している人もいるし、していない人もいる。そのうち、主婦・母親たちを口汚く攻撃している人が、タバコやゲーム・ネット中毒についてのデマを批判するところを見たことがない。
Aの意味だと、明らかに観察範囲の問題に過ぎないが、Bの意味だと(よく探せばそういう人もいるかもしれないが)まあおおむね妥当な意見ではないかと私には思われる。強いて言えば主婦・母親たちを口汚く攻撃しているような人は、単に攻撃しやすい対象を攻撃して憂さ晴らししているだけで、ニセ科学批判をしているのではない考える。そうだとしても、そういう意味を込めて、「」付きの「ニセ科学批判」界隈、と表現しているのかもしれない。
安心してちょうだい元増田ちゃん。あなたは死ななくていいわ。誤解なのよ。
あなたがどういう道筋でその“正しいヴィーガン”にたどり着いたのかはわからないけれど、私の知る範囲で(倫理的)ヴィーガンの主張のなかにその結論を肯定するものは無いわ。早まらないで。
功利主義に基づく倫理的ヴィーガンの観点から、あなたの誤解についてお答えするわ。
功利主義的には「苦痛の総量を減らす、または苦痛と快楽の収支がプラス(快楽が苦痛を上回る)になる」のが倫理的に良いことなのね。最大多数の最大幸福。
細かく言えば「苦痛と快楽」とは別の指標を用いた功利主義もあるけれど、動物倫理の場合はもっぱらこれ。
したがって、畜産において“飼育、屠殺による動物の苦痛”が、人類の得る利益(快楽または苦痛の低減)を上回る場合、“畜肉を食すべきではない”と判断できるわ。
逆に、動物の苦痛が人類の利益に比して十分に小さい場合、それは倫理的に許容されうるわ。
同上
ただし、たまごや乳製品はそれ自身が苦痛を感じる能力を持たないため、畜肉と比べると倫理的ハードルは低いわ。
例えばジャイナ教は非暴力が重要な教義の一つなので必然的に菜食主義だけれど、苦痛を与えずに絞った乳は飲むわ(ラクト・ベジタリアン)。
同上
衣料品の場合、動物を苦しめずに済む代替品が豊富にあるならば、あえて動物性の衣服を着るのは倫理的に肯定しがたいわね。
医薬品の場合、主に動物実験に関する問題ね。この領域は動物倫理的にかなりホットよ。
功利主義的な動物倫理においては、動物実験は必ずしも否定されないのよね。まあ論者にもよるけど。
動物実験における動物の苦痛と、完成した医薬品による人間の苦痛の低減。これの比較で後者が十分に大きければ正当化され得るってわけ。
もたらされる苦痛や死が“意思に反して”いるかどうかは、功利主義的には必ずしも重要ではないわ。
“意思に反”することで、苦痛がより増えるのであれば考慮に値するといった程度かしら。
例えば、糧を得る唯一の方法が狩猟であり、それをしなければ(人が)死んでしまう場合、狩猟による動物の殺害は倫理的に正当化され得るわ。
植物は(少なくとも痛みが神経系によって発生するという生物学的知見を踏まえれば)苦痛を感じないため、功利主義的には道徳的考慮の対象ではないのよ。
ちなみに、倫理的な考慮の対象となる立場を「道徳的地位(Moral standing)」と言うわ。
「何が道徳的地位を持つのか」というテーマは分野や論者によって異なっているわ。功利主義の場合、「苦痛を感じる能力を持つ」ことが道徳的地位を持つ条件ね。
厳密に言えば動物でも苦痛を感じない、例えば海綿動物(きわめて原始的な動物群。神経を持たない)、も功利主義的には道徳的地位を持たないと言えるのね。
また、道徳的地位は持つ/持たないの2択ではなく、強弱も存在しているわ。功利主義なら苦痛を感じる能力の程度ね。
例えばエビ1匹を殺すより、ヒト1人を殺した方が倫理的に悪いと判断できるわけ。
これは個々の人間にも適用でき、健常な成人を殺すより新生児や重度の知的障碍者を殺す方が倫理的に悪くない(もちろん両方悪いが、比較すればそうなる)。
功利主義者がリベラリスト(の一部)、特に障碍者支援者などから嫌われるのことが多いはこれが理由ね。
同上
命を奪うかどうかにこだわってるようだけれど、功利主義的に重要なのは苦痛よ。死は苦痛の一形態たり得る資格を持つというだけ。
自然破壊につながる水道水やミネラルウォーターを飲むべきではない わかる
んー?ここら辺は倫理的ヴィーガンよりも環境主義的ヴィーガンの主張に似てるかしら。
でも環境主義的ヴィーガンの場合、畜産や養殖(の一部)による環境負荷を語ることが多いから、ヴィーガンの主張としてはあまり見ないわねこれ。
水資源の利用による環境破壊はあるにせよ、この書き方だと曖昧過ぎるのよねえ。元増田ちゃんもうちょっと具体的にお願い。
なお、功利主義的に答えるなら、その営為で発生する苦痛が人間の快楽(または苦痛の低減)を上回らない限りOKってことになるわ。
地球温暖化に寄与している二酸化炭素は化石燃料などの地下資源由来で、地上で吸って吐いてした分はほぼ無関係よ。
陸上の炭素循環は(長期的に見れば)収支が釣り合っていたのだけれど、地下に封印されていた(炭素循環の外側にいた)分の炭素が放出されたことで、プラスに傾いちゃったわけ。
家計で言うなら年収200万円(手取り)で年間支出が200万のご家庭に、月々1万円の副収入が加わって年12万円の余裕ができましたって話よ。呼吸は年収に含まれ、支出は炭素固定(主として光合成による)で、化石燃料が副収入。
ちなみに、畜産による温室効果ガス放出(主としてメタン)への寄与はけっこうな割合(確かCO2換算で全体の約14~18%くらい)。あなたが牛ならゲップをやめるのは倫理的かもしれない。
全部わかる
あら?もしかして徳倫理学の方だった?功利主義は結果主義の一分野なので“気持ち”なんてほとんど関係ないもの。
徳倫理主義は、雑に言うと「動機が善ならば善」というもので、良かれと思ってやれば善であるっていう素朴な倫理なのよね。
最近は見直しが進んでるって話だけど、あまり勉強してないから詳しくないのよ。この分野。
呼吸し、水を飲み、命ある動植物を自然から奪い、貪る者は悪魔だ
みんな死のう
死なない者は悪魔だ
功利主義からはまず導かれない結論なので、やっぱり徳倫理主義なのかしら。
でも、良かれと思って“呼吸し、水を飲み、命ある動植物を自然から奪い、貪る”なら、徳倫理主義的には善なのよね。
ここまでは功利主義の観点から答えてきたけれど、やっぱり本人の倫理的観点も考慮しなきゃ片手落ちよね。
でも困った。元増田ちゃんがどんな倫理的基盤でヴィーガンになったのか、わからないわ。
最初の方の考えは倫理的ヴィーガンに対するよくある誤解またはジャイナ教当たりの非暴力主義とPlant thoを混ぜこぜにした感じ。中盤は環境主義っぽいけど問題視する部分がズレてるし不明瞭、後半はさっきも言ったけど徳倫理学っぽいけどなんか違う。
うーん、ネットからいろんな主張(誤解や曲解を含む)を集めてきてパッチワークした感じなのかしら。
ヴィーガンへのバッシング目的で書かれたなら「藁人形乙」で済むけれど、真剣に悩んでいるなら誠意ある回答が必要よねえ。
けっきょく“正しいヴィーガン”が何なのかはわからなかったけど、変な結論から脱却するための私的おすすめ方法を3つほど挙げてみたわ。
良ければ死ぬ前に試してみてちょうだい。チャオ!
辛いならヴィーガンなんてやめちゃっていいと思うの。割に合わないわ。もし心苦しいなら減肉食主義(Reducetarian)くらいから始めてみたら?
私も環境主義的観点(スパイスとして功利主義も一振り)からSemi-vegetarianやってるけど、あまり縛り無いから楽よ?
ヴィーガンからは偽善だなんだ言われるかもしれないけど、まあいいじゃない。自分が納得すればいいのよ。
(2) 勉強する
ヴィーガンやるなとは言わないけれど、何かしらの倫理的または論理的支柱がないと厳しいと思うの。
元増田ちゃんの考えを見るに、あまり一貫した基盤を持っていなさそうだし、環境問題についても詳しくなさそう。体系立てて学ばないと混乱して変な結論にたどり着いちゃうものよ。
いろんな視点、論者ごとに調べてみて、自分に合う立場のものを探してみるといいわ。まずは模倣からよ。
おすすめはピーター・シンガー。「すごいなあ。ぼくにはとてもできない」ってなるわ。
(3) 食生活的ヴィーガン(Dietary vegan)になっちゃう
食事だけヴィーガン。健康目的が多い。一番気楽なタイプのヴィーガン。動物倫理とかうっちゃってる(またはつまみ食い)。毛皮のコートも着ちゃうかも。時たまニセ科学に両足突っ込んでるから注意。
やめたいときにやめられるし、始めたいときに始められる。亜種として一時的ヴィーガン(Part-time vegan)なんかもあるわ。
「ちょっと一週間くらいヴィーガンになるかー」とかできちゃう。「それヴィーガンなの?」という気持ちに蓋ができるならおすすめ。
でも、これはいくつかの意味でおかしいと思う。この記事は、多くの人がワクチンを摂取するべきであり、そうしないのは不道徳である、という考えに基づいて書かれている。だが、私にはそれが自明の前提とはどうしても思えない。
そもそも、自分の身体に何を入れ、何を入れないか、決めてよいのは自分だけだ。自分の身体は自分だけのもの。当たり前だろう。これが身体にペニスを挿入してよいかという問題であれば、ほとんどの人がそれを決める権利は自分にしかないと答えるはずなのに、どうして同じ理屈がワクチンでは通用しないのか。
公益のために注射針を刺して弱毒化された抗原を身体に入れろ、なんて、他人に強制してよいこととはどうしても思えない。毒であることが問題なのではない。私はそれがほとんど無害であり極めて低い確率でしか副作用は起こらずおおむね安全であることを知っている。そうではなくて、自分の身体に何を入れるかを他人に指図されるべきではないということだ。
今回はワクチンにすぎないかもしれない。でも、次が行動監視用ナノマシンだったら? 治安の良さは公益だ、やましいところがなければ入れられるはずだ、公益のためのナノマシン接種拒否は不道徳だ。そう言われたらどうする?
自分の身体に何を入れるかを決めてよいのは当人あるいはその親権者だけだ。それを他人に強いるのは不道徳である(もちろん、説得はしてよい。ワクチンの安全性を説き、公衆衛生の重要さを熱弁するのは自由であろう。相手の自由を損なわない範囲においてだが)。
(この立場は、アメリカの反ワクチン運動を紹介しているWIREDの記事でも紹介されていた。私はニセ科学に傾倒した反ワクチンはばっかじゃねーのと思うが、「政府は自分たちの子どもの体内に入るものを強制すべきではない」という主義主張は自由主義者として大いに頷ける)
それでも、そのような自由は公益のために制限されてもよい、という主張もあり得るだろう。では、ジョセフ・ヒース氏の住んでいる国ではどうだか知らないが、我々が住んでいる日本という国においてその理路は成り立つだろうか?
自由を制限し、義務化するのなら、当然その負担は最低限にまで低減されなければならない。だが現実にはどうか。インフルエンザワクチンの接種は自由診療であり、無料でないばかりか保険すら利かない。風疹ワクチンの未接種が話題になったが、ある世代の男性に限っては無料になったとはいえ、多くの人にとってそれは保険外診療として打つものである。
公益のために義務で打てというなら、その負担は最低限のものであるべきだ。高い診療費を払ってわざわざ病院の診療時間に打ちに行く手間とカネを惜しんでいったい何が悪いのか。保険診療にすらなっていない現状で接種は道徳的義務なんてちゃんちゃらおかしい。
公益のために自由を踏み躙るなら、当然それによって被る不利益は最低限度であるべきだろう。高い代償を払ってこれこれのことをしろ、そうしなければお前は反社会的な行動をしていることになるのだ、道徳をわきまえた市民ならばこのくらいの代償は払えるはずだ、などと恫喝してくる国家や社会は、正直かなり胡散臭い。
それでも、ワクチン接種費用程度ならたいした実害はないじゃないか、という反論があるかもしれない。なるほど、もしもあなたが貧困層でなければ、確かにちょっと痛い出費程度で済むだろう。だが、問題はその「義務」はどこまで拡大されるのかということだ。今あなたが遵うべきだと言っているその「公益のための義務」が、いつの間にか「兵役」になっていなければよいのだが。
そして我々が住むこの日本国は、経済的自由主義の名の下に医療費を着々と削っている。小泉純一郎以来この国の福祉は自由主義の旗の下で掘り崩され、削られてきた。このような状況で「道徳的な義務」などというものが持ち出されることには警戒した方がよい。国家が市民の生活に対して負う義務を年々縮小しながら、市民に対して「公益」を根拠に負担を迫ってくる。冗談ではない。なぜもらえるかどうかわからない年金を払い続ける人びとが、そんな「公益」とやらを慮って差し上げねばならないのか?
経済的自由主義で公的サービスを縮小するのなら、民間の自由も拡大させなければ筋が通るまい。もちろんそこにはワクチンを接種しない自由も含まれる。逆に民間の自由にある程度制限を加えようとするならば、失われた自由に見合うだけの大きな政府を実現してもらわねば困る。
感染症にかかった人間が不用意に出歩いてウイルスが拡散され、流行が広がってしまう。なるほど悲劇だ。だがそういう悲劇が起こる度に、公衆衛生を錦の御旗のごとく掲げる人びとは、大元の罹患者に向かってバイオテロだのと心ない言葉を浴びせかける。彼もしくは彼女もまた、病気の犠牲者であることを忘れ去って。
たとえば敵国の社会を壊滅させることを狙ってウイルスや炭疽菌を散布するような意図を持ったテロリストは、道徳的な非難の対象となって当然だろう。だが、不幸にも病気にかかってしまった状態で不用意に歩き回ったという、ちょっと迂闊だった程度の人が、患者が、そこまで非難の対象とされるのは絶対に間違っていると考える。それは犠牲者非難とかいうやつじゃないのか。犠牲者非難を許してはいけない。
病気は人間の意志を超えたところに存在し、運やら体質やらの本人にはどうしようもない状況に付け込んで罹患させる。そのような感染症の患者を、運悪く感染し不用意な行動を取ってしまったという理由で、バイオテロだの加害者だのと責めるのは道徳的に間違っている。そして、道徳的に間違っている主張をしている人間の言うことに従わない人間がいることは当然である。
少なくとも私は、このような言説を振りまく一部の反・反ワクチン派の醜態を見て、風疹ワクチンは絶対に打たないと心に決めた。政策の失敗によってワクチン接種の機会を失っただけの、なんの責任もない特定世代の人びとを加害者呼ばわりする連中に腹が立ったからだ。風疹の流行をめぐって吹き荒れた犠牲者非難の言説は本当に醜悪だった。あれを見てしまった以上、風疹ワクチン接種に加担することはできない。
以上、反ワクチンが必ずしも道徳的に間違っているとはいえず、むしろワクチン接種の強制こそが道義に反していることを示した。自由主義者として、そして犠牲者非難を憎む者として、私は反ワクチン主義にも聞くべき理があると主張する。なるほど彼らは科学的にデタラメなことを信じ込んでいるのかもしれない。だがそれは、彼らにワクチン接種を強要する側の道義的な正しさを裏付けるものではないのだ。むしろその強要こそが、反ワクチン論者に三分の理を与えているのである。
あっ反知性主義者だ
こういうトラバが速攻でつくわけだろ? こういう言説を(たとえ自分宛てのものじゃなくても)見る度に、絶対にワクチンは打たないぞという決意を固めるよね。
権利と他の権利は常に対立するもので100%の正義は存在しないところではあるが、我々は武装する権利や他者を傷つける権利を行使することはできない。
他人を傷つける権利を行使できないというなら、身体に注射針を刺すことを強要することはできないという結論になるはずでは。医者の行為も傷害罪の構成要件に該当することはご存知ですよね? 正当業務行為だから違法性が阻却されるだけで。そして医者にかかる患者は医療を受けることに同意しているわけですが、ワクチン接種を拒否する人たちの身体にワクチンを打つことを強要しようとしたら当然彼ら彼女らの身体への侵害となります。他人を傷つける権利を行使してはいけないというならまずワクチン接種の強要をやめるべきでしょう。
そもそも感染症を他者にうつしてしまうことは基本的に他者への加害ではないわけで。それを加害と呼ぶのなら人より感染症への抵抗力が弱く生まれついた人間としては全力で抵抗せざるを得ないですね。そのような言説を振りまく人間の言うことに従わないという消極的抵抗を今後も続けていきたいと思います。基本的にめんどくさがりなのでデモとかも意義は認めるものの参加したことはないのですが、これはコストのかからない良い抵抗方法だと思うので加害者呼ばわりバイオテロ呼ばわりに憤る人たちにオススメです。
長期海外出張を終え、久しぶりの帰宅。妻に会うのも一ヶ月ぶりだ。
「ただいま」
「お帰りなさい」
そう言う妻の顔がどこか生気がない。一ヶ月間ずっと一人だったせいだろうか。
「何か飲む?」
「いや、いいよ、自分で入れる」
そうして水を飲もうとしたら、蛇口に浄水器らしいものが。これは何かと妻に聞くと、水素水発生器だと言う。水素水! いまどきこんなものを売りつけるやつがいるのかと驚いた。呆然としていると、妻が普段より少し高めの声で言った。
「水素水はお肌にもとっても良いんだよ。どう? 前よりピチピチになったでしょう?」
そんなばかなことがあるものか。水素水の効果について信頼できるデータは何もない。妻は悪徳商法か何かに騙されたのか。
ふとキッチンを見回すと、何か一ヶ月前と違う。
「あれ、電子レンジは?」
「この前の粗大ゴミの日に捨てたよ。知ってる? 電子レンジはマイクロ波という有害な放射線を出して人体に良くないんだよ」
「知らない? EM菌というとても体に良いものが入っているんだよ」
妻の顔をじっと見る。肌は前よりだいぶくすんでいる。いや、というよりも何かにとりつかれたかのようだ。私の知る妻はこんなのではなかった。妻に久しぶりに会えた喜びが、いつのまにかいらだちに変わっていた。なぜこのようなことになっているのか。
しかし、せっかく久しぶりに会えたのだ。あれこれいらいらしても仕方ない。気分転換のために、普段よく行くスーパーに行こうと妻に告げた。
「あそこのスーパーはだめ」
「なぜ?」
「福島県産の野菜を売っていたの。放射能で汚れている野菜を売っているお店なんか信用できない」
その言葉で、私のいらだちはついに怒りに変わった。普段はそういうことはないのに、思わず妻に対して声を荒げてしまった。(祖母が福島出身で、福島には愛着があるから、その意味でも自分が傷つけられた感じがした。)
その後、妻の机の上を見ると、「砂糖は危険」やら「化学調味料は有害」やらといった書籍やパンフがたくさん置いてあった。本当に好きだった妻が、ニセ科学によっておかしくなってしまった。この先どうすれば良いだろうか。
キクマコセンセは基本ニセ科学界隈の人で気持ちは野党寄りの人です。そいで、ニセ科学界隈の人は基本的に対立相手を説得可能な人と見做してない。つまり、与党陣営と財務省の人らを説得可能と思ってない。
だから味方であって説得可能なはずの野党はこうすべきだ。とか考えてる。
それなのに、野党のほとんどは、日本の借金が。とか、財政立て直し。とか財務省といまだに同じように言ってるのが許せないわけです。立民とか。
共産党も消費税の代りに法人税や累進課税強化とかで、消費増税とベクトルが逆になっただけで根本的に減税して経済活性化とかハナから考えてない状態なんすよ。維新とかは完全なデフレ脳で論外でヒドい。
今年も花粉を水に変えるマスクが販売されてるけどニセ科学連中の批判がさっぱり聞こえてこないな