はてなキーワード: 苦痛とは
今だにこのサイトよくわかってなくて間違えてブログに書いちゃったから移動した
もういい歳だし、子供を産める年齢までには相手を見つけなければ死も同然という悲壮な思いだった
今になって考えると、本当はそれほど異性にも結婚にも興味が持てなかったのだが、それよりも未婚であることで社会不適合者の烙印を押されることの恐怖がはるかに勝っていた
今でこそマッチングアプリやネット恋愛が堂々と語られているけど当時はやはり地下婚活というか、あまりに人に言えない出会い方だった
ただでさえネットで出会う人は一癖二癖あって、辟易していたが背に腹はかえられぬと、しぶしぶ登録していた婚活サイトを久々に開くと、そこにウホッいい男!と思える男が表示された。
特定避けのため詳細は伏せるが男は外国人で、日本語が達者だった
何より私の目を惹いたのは、私がかなりの旅行好きでガイドブックに載ってないようなところに行くほどのマニアだったのだがその男も偶然、同じ場所に行っていた
正直、そこに行く人間なんて日本でも100人くらいなのではというほどレアな場所だった
チャットの会話ではその話を中心におおいに盛り上がり、勝手に運命を感じてしまった
自分の第一条件としては「会話が弾む人」だったのだが、チャットではあれほど盛り上がったのに喋りの日本語はかなり下手で何言ってるかわからなかったし、そのせいで会話が全然噛み合わなかった
しかし「何がなんでも相手を見つけないといけない、さもなくば死」とすら思っていた私は本音をねじ伏せ、彼をキープリストに入れた
おそらく向こうも私をキープリストに入れたのだろう、さほど盛り上がらなかったにも関わらずその後もやり取りは続き、ディナーや団体旅行にも誘ってくれた
そんな中に起きた3.11
当時私は都内で被災した。ビルが倒壊してくるかも知れない恐怖、帰宅できないしんどさ 思い出すと結構きついので省略する
以下、長いけど読んでもらえるとありがたい
男の母国の大使館が避難命令を出し、その国籍の人間は某所にひとまとめにして待機させられたという
男からもすぐさま「大丈夫?」というメールが来て、私も心配されていることに嬉しさをおぼえた
だが同時に男は、そこで同じ母国の女と運命の出会いを果たしていた
すべてが落ち着いた翌月、私はそろそろ会わない?とメールをした
すると一言
納得いかねえ、ふざけんな
じゃあ私に連絡くれてたのは何だったの?
とにかく目標年齢である32歳までに出産しておきたかった私にとって死活問題だった
恥をしのんで言うと「これを逃したら次がない」という焦りだった
言葉も合わないし、一緒にいて楽しいわけではないが収入は平均以上で、ルックスも悪くないし家庭を築くことは可能であると一方的に思っていた
本当に恐ろしい考えだ
ただ唯一、彼の醸し出す雰囲気が何故かリラックスできて好きだったのは事実だ
何とでも言ってくれ 頭がおかしかった
ここからは本当に本当に恥ずかしい話で、今でも反省しているが私はその男に私がどれだけあなたを好きだったかという長文のメールを送り付け、レストランに呼び出した
彼女とは出会った瞬間に惹かれあい、その日のうちに付き合ったという
彼女のことはクレイジーで、優しくて、とにかく大好きだと男は言った
そんな短期間で夢中にさせる女って何?
私は劣等感を刺激されまくった
SNSでは男とまだ繋がっていたので、相手の女との様子が上がってくることがあった
女は体がデカく髪がボサボサで化粧っ気がなく、骸骨のような顔をしていて笑うと歯茎が飛び出るなど、お世辞にも美人とは言えなかった
だが恵まれた家庭で愛されて育ったようでSNSで親からもコメントが付いていたり、笑顔を絶やさず、学歴は欧米の超エリート大学卒業し日本の外資系企業で約2000万程度の年収を得ているらしかった
収入もともかく、男にみそめられるために無理して自分を押し殺し無理して男ウケするファッションや化粧をしたり、理解ある女を演じようとして失敗を重ねていた私とは正反対の女だった
しかも毒親育ちでつねに不幸感しかなく、心から笑ったことなんて数えるほどしかない私とは天地の差だった
「誰かと結ばれれば幸せになれる」そう思い込んでいたのに、見せつけられたのは「もとから幸せな人同士が結ばれる」という光景だった
お前みたいな毒親育ちとは世界が違いまーす、そう言われているような錯覚に陥った
ともかく、ありのままでメロメロに愛されている様子のその女が大嫌いだった
しかも私は結婚相手とは休みのたびに旅行に行きたかったのだが、二人が頻繁に旅行していたのもグサリと刺さった
そして二人が交際してから3ヶ月後には結婚をほのめかすような投稿が上がってきて、1週間ほど寝込んだ
冗談みたいな話だが、それから3年ほどガチで病んで食事が喉を通らなかった
重度の鬱で寝てばかりいたが、這うようにして出勤してた
よせばいいのに、SNSで男とその女に繋がるような情報を検索しては、幸せを見せつけられて落ち込むという時期が続いた
付き合ってもないのに、まるで10年つきあったラブラブの彼氏に捨てられたような感覚だった
これは失恋ではなく、自分が完膚なきまで否定された悲しみだったんだと思う
風の噂で、男は今はその女と家庭を築き子供を日本で育てているらしい
良かったですね
あれから散々もがいたが、これを遥かに上回る衝撃的な出来事(大事な存在との突然の別れが複数回、鬱でクビになりかける等)が続き、この件が自分の中で薄らいでいった
心理的ショックから逃れようと心理学や潜在意識の世界に興味を持ち、大学に入り直して勉強した
大成功もしておらず相変わらずの毎日だが、あの時期よりも確実に世界観が広がったと思う
そしてアラフォーになった今も独身だが、これで良かったんだろうなと思う
何より、本当は非婚主義者である自分を怖くて認めることができなかったのだ
実際、ラブラブだったのに離婚した夫婦が周囲に多いし、ネットを見ても結婚しなくて良かったと思わざるを得ない話がゴロゴロ転がっている
当たり前だけど同じ文字数の文章であれば日本語の方が圧倒的に早くインプットできるよね。
なんとか読み返さずに英文を読む練習をしてるけど、それでも日本語に比べると蟻のようなスピードでしか読めない。
なまじもともと読書好きでかなり速読もできる分、英語では一語一語おっかけて文構造を想定しながらでないと意味が読み取れないのが苦痛でならない。
さらっと読み流す事はできないでもないけど、読み流すと確実に内容を半分以上取りこぼしているし、結局面白くともなんともない。
一方的に投げかけられるこの「責任」というものは、往々にして論理整合性に乏しいからだ。
自分の行いを棚に上げ、
それらしい論調で物を言えない弱い物側を叩くことが嫌いだ。
そして私は、この叩く側の立場にいる。
どう考えても関わる全ての人が悪くても、
本当の意味での「責任」は無視され、損害のなすり付け合いになるこの瞬間が、
この構造に心底疲れを感じる。
そして金銭の発生という面で違うこともわかる。
決して分かり合えない瞬間が来ることもわかる。
それでも、各陣営が己の非を認め合い、
等しく責任を分散するような世界であって欲しいと思ってしまう。
弱者をいじめて全てが成り立つなら、一生そうしてればいいんじゃない?
自分が虐げられる側に立たないという自信があれば、一生好きにしてろよ。ほんと。
せき にん 【責任】
①自分が引き受けて行わなければならない任務。義務。「━を果たす」「保護者としての━」
②自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い。「━をとって辞職する」「だれの━でもない」「━の所在」「━転嫁」
③〘法〙法律上の不利益または制裁を負わされること。狭義では、違法な行為をした者に対する法的な制裁。民事責任と刑事責任とがある。
スーパー大辞林3.0 編者:松村 明 三省堂編修所
自分は夏休みの宿題とかギリギリまでやらない人間だし、その宿題も間に合わないし、試験勉強もほぼノー勉で生きてきたからマジで自宅で集中して仕事や勉強ができるタイプじゃない。
テレワークが始まった当初、サボり癖が出てこのままじゃヤバい!って思ったから、今まで自宅のパソコンで仕事させられてたけど、「ノートパソコンがゴミスペックだから自宅で仕事できません出社させてください」ってお願いして毎日出社してた。
出社なら通勤時間の間に気持ちリセットできるし、人の目があるからスマホも触らない。それによって強制的に集中できる。
でも年始に会社から社員全員に管理されたノートパソコンを配布されてそれでテレワークしてくださいってなった。
テレワークで、毎日終業したら作業報告メールしなくちゃならんのだが、集中出来ずにスマホいじってるから当たり前になんも出来てなくて今まで誤魔化しながら報告してたんだけど、
流石に今日の作業量が少なかったのか、いや、それとも自分だけずっと作業報告の内容が薄かったのか?とにかく上司から「テレワーク何か不具合ある?」ってメール来た。
なんて言えばいいんだチクショウ
自分でも給料泥棒の自覚あるし、そんなことはしたくないと思っている。けど、どうしてもテレワークじゃ集中できないんだよ。
テレワークのメリットなんて自分にとっては「通勤時間が無いし家から出ないから身支度しなくていいのでたくさん寝られる」くらいしが無い。
毎日通勤の苦痛を感じても良いから出社したいけど、「自宅だと集中できないから出社させてほしいです」なんて、コロナがとくに流行ってる今言いづらすぎる。しかも先月コロナ陽性になったからなおさら言いづらい。
どうしたらテレワークで集中できるんだ。
どうしたらいいのかわからない。
妊娠5週目からつわりが始まって、日々少しずつ症状が悪化している。吐きつわりと食べつわりの両方を感じていて、なにかを食べていないと気持ち悪いのだけど、食べたら食べたで吐いてしまう、そんな状態。
まだ妊娠2ヶ月。つわりはまだ終わらないし、ピークはまだ先らしい。これがあと何週間も続くの?信じられない。
正直、耐えがたい苦痛。耐えるけど。耐えるしかないだけだから。
わたしの母も祖母も、その母も、世界中の母親たちが個人差あれどみんなこれを乗り越えてきたなんてすごすぎる。
今一番つらいのは、これを仕事と両立しないといけないこと。実際、両立できていない。今日は会社を休んで、ベッドとトイレを往復しながらこれを書いている。
溜まっている仕事のことを考えている。あれも、これも、全然手をつけられていない。このままほっぽって休んでいるわけにはいかないから、明日は仕事しないと。でもきっと、明日は今日よりもっとしんどい。そう考えると涙が止まらなくなる。ホルモンバランスの変化で涙もろくなっているみたい。
しばらく仕事を休みたい。今すぐ仕事をやめたいわけじゃないけど、この体調だと出来て1日2〜3時間が限界。もう今は自分の体と、お腹の赤ちゃんのことだけを考えていたい。
今は個人情報の問題があって難しいと思うが、私が子供の頃は、担任の先生から必ず年賀状が来ていた。
よく考えたら、年賀状代はおそらく私費なんだろうし、40人分近く印刷するのだって、それなりに手間がかかる。
そんなふうに、プライベートな費用と手間まで費して、教員というのは本当に大変な職業だと思う。
その点ではむしろ、教員が生徒に向けて年賀状を出す習慣というのは、無くなった方が平和なのかもしれない。
さて、年賀状は来たら基本的に返信するものである。私も担任の先生に返信していた。
そして、担任から外れた次の年からは、感謝なのか慣習からなのか、年賀状は自分から出すようになった。
すると、いつ辞めるかが問題になる。私の場合は大学生になってようやく辞めた。
逆に言うと、大学生になるまで、担任だった先生への年賀状を延々と出し続けていたのだ。
初めてもらった年賀状は幼稚園の先生からだった。なので、一番長い先生だと10年以上やりとりを続けていたことになる。
そんなに長くやりとりが続いて、微笑ましいことだって?
なぜなら、担任の先生が年賀状を送るのは、おそらく「学級通信」の延長みたいなもので、
担任としてのコミュニケーションを円滑にするためであろう。そうであるならば、担任と生徒の関係が終わったあとは、
こんなに長く年賀状をやりとりするなんて望んでいなかったんじゃないかと思うのだ。
年賀状でしか接点の無い単なる一生徒から、10年以上も年賀状を送り続けられて、果たして嬉しかったのだろうか。
「○○高校に行きました」と報告されても、多数居る教え子の一例でしかないのだ。
そんな多数の中の一情報に「嬉しい」と感じられるものなんだろうか。私が教員なら無理だと思う。
それに、この件で何が一番たちが悪いかというと、私自身の対応の仕方だ。
大学生になるまで担任だった人に年賀状を出し続けるというのは、そもそも私の本意ではなかったのだ。
他人と年賀状をやり取りできる嬉しさで、10年以上も会っていない人に年賀状を出し続けたわけではなかった。
具体的には、「担任だった先生に年賀状を出さないなんて礼儀を失している」と親に怒られるんじゃないかと思っていた。
担任の先生を想ってではなく、親に怒られるのが怖いという一心で、出したくもない年賀状を出していたのだ。
先生も年賀状を作るのは手間だったろうが、当時子供だった私には、年賀状作りなんて冬休みが憂鬱になるほど面倒な作業だった。
30代を終えようとしている私が子供の頃は、PCなんて普及していなかった。
そのため、自分で干支のイラストをクーピーで書き、「高校では○○部に入り、云々」みたいな近況を知らせる文面を考え、
ペン書きなので、書き損じにならないよう(つまり、無駄になったと親に怒られないよう)、必死に気を使って書き付ける。
そんな、夏休みの工作みたいなことを大学生になるまで毎年繰り返していた。
高校3年生の受験シーズンでも、受験時のナーバスな時期だからこそ、親に怒られるなんて絶対に嫌だと思って、
干支の絵をお絵描きしていた。そしてそれを、例えば幼稚園のときの先生に送っていたのだ。
こうして、改めて今になってよく考えると、本当に頭のおかしいことをしてたんじゃないかと思う。
高校生になっただろう相手(男性)が、小学生みたいな干支のイラストで毎年年賀状を送りつけてくる。
きっと、なんでこんな稚拙な絵を延々と送り続けてくるのか、新年早々の疑問になっていただろう。
などと客観的に考え出すと、我ながら恥ずかしいことをしてきたと、枕に顔を押し付けて叫びたくなるほど後悔する。
受験勉強をセーブしてまで、やりたくも無いお絵描きを10枚近く、きっと存在しなかった親の怒りを恐怖するために書き続けていた。
そう、この恥ずかしい行動の原動力は「親への恐怖」だったのだ。ここがいまだに、自分のことながら意味がわからない。
どうして、そこまで親に恐怖していたのだろう。別にそこまで仲が悪いわけでも無かったのに。
12月になると、特に希望もしていないのに、親から毎年無地の年賀状を10枚渡されて、
それを無駄にすると怒られると思ったから?それにしたって、「もう高校生だから」と断ればよかったのだ。
本当に、私は頭のおかしなことをしてたと思う。「親への恐怖」という妄想で、かつて担任だった人々に迷惑をかけた。
まあそれでも、大学生のときには、担任だった先生への年賀状を辞めることができた。
大学生になったので、塾のバイトを始めて給料が手に入り、年賀状くらい自分で買えるようになる。
当然、親から年賀状をもらう必要も無い。「年賀状は自分で買うから」と、ようやく断ることができたのだ。
そして、自費で年賀状を買う段になって気づいた。気づいたことは2つある。
まずは、それなりの額を出せば、イラストが付いた年賀状が買えるのだということだ。
それまで、イラストと挨拶が書かれた年賀状は、大人が業者に頼んで大量注文しないと手に入らないものだと思っていた。
それが、大学生協に並んでいたのだ。これは、本当に救われた!という気分になった。
そんなの、コンビニやスーパーにも並んでるから大学生にならなくとも気づくだろ、と思われるかもしれない。
しかし、私は大学生になるまで、ろくにコンビニに入ったことが無かったのだ。
その理由は、私の家ではお小遣い制度が無かった(金銭は必要なときに必要なだけもらえる)というのが大きい。
学級帰りにコンビニに立ち寄ってパンでも買って帰ってくる、みたいなことをするお小遣いが手元に無かったのだ。
スーパーにしたって、中学生以降は親と行動するのが恥ずかしくなるわけで、ろくに立ち入ることが無かった。
まあ、そもそも田舎に住んでいたので、自宅から歩く距離にはコンビニもスーパーも無かったわけだが。
話が横道に逸れたが、とにかく、金を出せば年賀状に稚拙なイラストを載せなくてもよいと知ったわけだ。
そして、もう一つ気づいたことは、そもそも論になるが、担任への年賀状に意味はあるのかということだ。
それは大学生になって、担任というシステムから解放されたのが大きい。
(いや正確には、学年全体での担当教授は居た気がする。しかし、有名無実というか空気みたいな存在だった。)
大学では、自分の知識は多くの教員がバラバラと与えてくるものであり、担任という唯一の存在に依存する必要が無い。
(まあ、ここについても、研究室に配属されるようになると、考えはまた変わってくるわけだが。)
そう考えると、それまでの「担任」という人々に、こんな10年も経ってまで感謝を示し続ける必要があるのか疑問になってきたのだ。
そういうわけで結局、大学一年生のときに年賀状は完全に取り止めた。
ちなみに、当時は実家暮らしだったため、自分が年賀状を出していないというのは、親にも当然バレるはずだった。
正月以降に、毎年来るはずの担任の先生たちから年賀状が全く来ない、という形でバレるはずであり、戦々恐々としながら新しい年を迎えた。
しかし、親には怒られなかった。
今考えれば、親に怒られるなんて全て私の妄想だったので、当然の結果だったわけだが、当時は心の底からホッとした。
まあ、そこからようやく「親への恐怖」が自分の妄想であることに気づくようになり、
前述のとおり、これまで稚拙な年賀状を出してきたことをトラウマに感じるようになってしまうわけだが。
結局、自分の妄想で他人を振り回してしまったわけで、その点は今でも申し訳なく思っている。
そして何より、自分自身も稚拙なイラストを書いたり本当に苦痛だった。
そんなお互いに苦痛な習慣を、自身の勘違いで長年続けてしまったのは本当に黒歴史だ。
リアルな相手にはとても言えないけど、黒歴史な思い出は文章にしてちゃんと客観視しないと、
いつまでも「思い出しアー」になって苦しむことになる(実際、毎年年末に思い出して苦しんでいる)ので、一通り書き出した。
あとはこうして、匿名掲示板に記して供養としたい。
ちなみに、年賀状はトラウマになったので、大学生以来誰にも出していません…
となれば、お話し的にはキレイな展開なんだと思うが、高校のときの友人との年賀状は、数枚ながらもまだ続いている。
大学生の頃は、年賀状なんか一生出すもんか!とも思っていたのだが、卒業すると就職で散り散りとなり、お互いの近況を知りたくなった。
現在であれば、それはLINEか何かで実現できるのだろうが、15年以上前の話なので、そこはやはり年賀状でのやり取りとなった。
携帯メールはあったんだけど、何かこう、正月だとかのきっかけがないと、お互いやりとりしないよね。
って、やっぱり私も古い人間なのかも。
まあとにかく、子供の頃は色々やってしまったけれど、年賀状を誰かに出す習慣はまだ潰えていない。
今はさすがに年賀状はコンビニで買ってきたものを使っているけれど、その印刷された文面の端っこに、
先日パートナーに「君は美容以外の趣味とかないの?」と言われた。
美容も趣味の一環だと思っていたが、一般的には趣味認定は受けづらいらしい。
(ここで言う美容は美容外科や審美歯科、美容皮膚科にかかったりコスメや自宅ケアなど全般)
1日5-6時間は趣味に費やしていたが、それが高じて仕事になってしまったので趣味とは言えなくなった。
むしろ仕事になってしまったので、当時の趣味に関わることは全て仕事関係にカテゴライズしている。何より昔ほど手放しで楽しむことはなくなった。仕事なので。
齢30をとうに過ぎて、今から新しい趣味を探すのは少し億劫だ。
好きなことならある。料理やセルフジェルネイル、大学で認知心理を学んでいたので精神医学の医療論文を読んだり、洋服も好きだ。
元々グルメ関連も好きで定期的にミシュラン掲載店やいわゆる銘店的な所に行ったりお酒も楽しんでいたが、今のパートナーがさほど外食に興味が無いこと、コロナ禍、自分の減量のためにすっかりグルメ関連からは手を引いてしまった。
音楽や映画は仕事関連にカテゴライズされるし、ゲームやネトフリなども特にハマるものはない。
友人ももちろんいるが、一人の時間が比較的好きなので、月2-3回遊べればいいと思っている。
スポーツも子供の頃色々強制的にやらされていたせいかむしろ苦痛な方だし、筋トレは好きだが体型を保つための義務感があるので趣味ではなさそう。
パートナーからすると、美意識が高いだけで基本的には無趣味に見えるみたいだ。
自分でも何か趣味があればいいなと思ってはいるが、中々見つからない。
なんで生きてるのかよくわからない私のような人間にとってみれば、世界がどうなろうといい。
お金もなければ、 子供もいないし、恋人もいたことないし、誇れる仕事についてるわけでもなく、家があるわけでもない。
私の将来にだってなんの期待も持てない。無敵の人ってやつに近いかな。
生きていく苦痛の中で、でかいイベントだけが世の中を撹乱して、現状を世界を変えてくれる可能性がある。
実際コロナにはそういうのを期待していたけれど全然大した事なかった。
取って代わってくれるなら戦争でも大地震でも宇宙人襲来でもなんでも結構だよ。
唯一期待できるのは日本が徐々に終わっていくことだけだけど。
なんとなくだけど、こういう鬱々とした気分は、日本の将来性とかとも連動してる気がする。
でも自分自身は親に無理に選ばされ、社会人になってからかなりの毒親と気づいて縁を切った今
でも周りは憧れてその仕事に就いたから、喜んで働いてるような人ばかりだ
やりたくなさも興味もないけど、精一杯頑張ればスキルもついて楽しくなるだろうと思ってはや5年
全く楽しくないどころかもう死にたい
医者にかかっても、一時的なストレス以上に本質的生育環境的なものが理由の苦痛なせいか、薬もろくに効かない
自分のために生きようとしても、生まれてこのかた何年も縛られつづけた観念がそう簡単に解けるはずもない
こういうののご多分に漏れず、人と関わるのが苦痛で誘いも断り続けた結果、孤独だ
心から信頼しあえる人間関係が欲しくてたまらないけど、うまくいかない
具体例としてゆたぼんの親が思い浮かぶが、ゆたぼんやゆたぼんの親のことは詳しく知らないので、あくまで「子供を学校に通わせたくない親の気持ち」という抽象について考えてみたい。
この話をするうえで反出生主義の中核をなす命題「人類の総苦痛量を最小化するべき」は補助線になると思う。
学校教育現場に小さなイヤなこと(掛け算の順序、前近代的なスポーツ指導)や大きいイヤなこと(いじめ、教師による淫行、死亡を含む重大事故)など、いずれにせよ苦痛が存在することは周知の事実なわけだ。
ということは子供を学校に通わせることは確実に子供を苦痛にさらすことになる。
子供を苦痛にあわせるのは悪であるから、学校に通わせるべきではない。
という具合に、反出生主義は出生以外のものごとに応用することが可能な理論なのだな。
まあ子供産んでる時点で反出生主義者ではないので、たいていの親は子を学校に通わすわけだが。それだけに、ゆたぼんの親は稀有な例といえよう。
飲み会のロールプレイが苦痛な人、苦痛ではない人、無駄に思う人、思わない人、いろいろいるわけだけど、
オナニーするときは毎回女の人がボッコボコに殴られたり、奴隷のように扱われたりする映像を見ている
レイプモノも嫌いじゃないけど、だんだんと女の人も気持ちよくなってくるみたいなのは無理
ひたすらに苦痛を味わっているのを見ないと興奮しない
オンナにも賢者タイムのようなものはあって、毎回イッたあとは「こんなもので興奮する人間はアタマがおかしい。ミソジニー拗らせすぎじゃん」と冷静におもう。
そして数秒後に「私も同じか」と気づく
この上なく便利なドラム式洗濯乾燥機だがアホには使いこなせない
なぜなら全て放り込んでボタンを押せば完了するものではないからだ
洗濯機に放り込む前に乾燥できる・できないものを分ける必要がある
もちろんおしゃれ着・汚れが酷い・漂白が必要とかも分ける必要があるが、それは従来の洗濯機でも同じだ
洗濯乾燥機の場合は乾燥機にかけていいものなのかを考えないといけなくなる
頭の良い人は「最初から乾燥機にかけられるモノだけ買えば良い」というユニクロ一色作戦を思いつくだろうがアホには無理だ
サイズ・色・合わせ・暖かさ・価格などなど考えることが多い衣服の買い物に選択しやすさなんて持ち込めるわけが無い
なので洗濯乾燥機を買って便利になると思ってもアホにとっては作業が一つ増えてしまうだけで
最終的には乾燥機の使いどころが分からないから全部干すことになって宝の持ち腐れになる
好例はうちの妻だ
食洗機もほぼ同じ理由だが使い方が難しすぎてアホには使いこなせない
食べ残しは取らないといけないしなんなら少し予洗いしないといけない
食洗機は高温になるし洗剤はアルカリ性なので使えない食器もそれなりにあるからそれらを除外しないといけない
コップを上段に置くときは気をつけて置かないと水が溜まったままになったりするから工夫も必要
「難しすぎて使えない」ということで敬遠されて結局全部手洗いしている、という事例がある
これはうちの妻ではなくて妻の友達だ
ロボットという割には赤ちゃんレベルでサポートが必要なロボット掃除機
床に寝転がって生きている生き物にとってはライフラインを一度破壊されることに他ならない
結局、床に散らばっていたモノがダイニングテーブル・リビングテーブル・ソファの上に分散されて置かれるようになってちっとも片付かない
そのくせ「掃除機はかけてるから大丈夫」という謎の安心感からその他が汚れまくる
床はチリ一つ無いが汚い部屋が出来上がる
そのほかにも段差があったら掃除してくれないし定期的にダストボックスからゴミを取り出さないといけないなどアホにとってハードルが高い
全ての事象を一つの理論で解説できるわけではなく複数の理論で解説してなおかつ例外があるからだ
なので一つの理論で全てを解説しようとするようなエセ科学がアホには分かりやすい
同じようにボタン一つで全てできます、などという家電は存在しない
例えば「タオルと下着と靴下だけ夜に洗濯乾燥機能を使用する」というルールを作ってしまえば乾燥機が無い状態よりも少し便利になる
(この提案に「下着と靴下は一緒に洗いたくない」と言われて却下されてしまったわけだが)
食洗機もロボット掃除機も電子レンジもテレビも「使える人向けの機能」は拡充されているから、使えるようになれば便利になる
ただそこにアホは含まれていない