はてなキーワード: 自己否定とは
自己否定感の正体に気づいたらアッサリ克服できた。
そんな他人を呪ってまわっている連中ってのは、自分の物差しが絶対だと思いこんでるまさしく無知蒙昧な輩。
世界を測る方法は無限の尺度が有るということを何万回も説明されてなお理解できていない能無し。
無知の知にたどり着くという中学校の哲学の時間で習うレベルのことが出来ていない連中の言葉などまともに受け取る価値なし。
そんな簡単なことに気づくのに時間をかけすぎた気もするが、まあつまりは他人が無根拠に適当に当てた物差しでどんな測られ方をしようとソイツの勝手な思い込みだろって跳ね除ければいいというだけの事だったのだ。
ここに気づくと本当に楽になった。
必死に自分が立派に見える物差しを探すのもいいけど、物差しの形も目盛りの振り方もあて方も無限に存在するという事実を受け入れるほうが自分には楽だったよ。
でもこの道はこの道であらゆる価値観が絶対性を失ってしまうから、絶対的な何かがこの世界にあってほしいと思う人には向かないかもね。
それは間違いない。
感想欲しい系についての記事を全部目を通しているわけではない事を前提で。
私のこれもいわゆるお気持ち系の話なんだろうなぁと思いつつ、やり場の無いモヤりを吐き出したくて。すまない。
極小規模ジャンルだから当然の事ながら詳しい部分はぼかすんだけど、これってどこの界隈にもいるんじゃないか? と思ったんだよ。
それは「感想クレクレさん」。
これで大体察せると思う。以下注意。
「感想クレクレさん」が、私が片足を突っ込んでいるジャンルにいる。
私が心の中でそう呼んでるだけなんだけど、ジャンルでその方をフォローしてる他の人はどう思ってるんだろうと日頃から思ってしまう。
勿論ミュートはしてるけど、たまに見てしまうと「ああ、また言ってる……」となってしまうので。
感想が欲しくなるのは分かるし、感想を貰って嬉しくない人なんて基本的にはいないだろう。
昨今の感想屋の件や、感想が貰えなくて筆を折る話もRTで見かけたこともある。感想は大事だし、創作者さんたちのエネルギーにもなると思ってる。
そのクレクレさんは「感想を頂けると嬉しい」系をよくRTしてて、それに対する自分のひと言が「私も同じなの!」というもの。
多分悪くはない。悪くはないんだ。
でもね?
そのクレクレさんの発言は「私は感想をもらう立場なの」というニュアンスが溢れていて、見てて辛くなってくるんだよ。
感想がなくて辛いと嘆くこともある。
どんどん下さい、もっと下さい、気軽に送っていいですよ……以下省略。
(省略するほど、このクレクレさんの「感想へのこだわり」は強い。激しい。多分これを読んだ方は、頭の中でその3~5倍くらいを想像してもらいたい。)
私は問いたい。
感想にこだわるのに、「私の作品は感想を貰えないレベルかー」とか言っちゃったりもする。
二次創作だよ? 極小ジャンルだよ? 作品発表したら必ず感想貰えると思ってるのがおかしくない?
プロじゃないんだよ? それでお金貰ってるわけじゃないんだよ? 同人誌出したからってそれは付加価値じゃないんだよ?
感想を貰えると思っているのは、それだけの作品を書いた!って自信があるってこと?
どの発表の場であっても、「いいね」って機能があるんだから、それだけで良くない? いいねだけじゃ満足できない?
感想なんて貰えなくて当たり前じゃない?
母数が大きければそれなりに反応を貰える割合も増えるんじゃって可能性はあるけどさ?
ジャンルが狭くて濃いことに期待してない? 優しい人が感想くれないかな~ってチラチラしてるでしょ?
「感想が貰えない」って拗ねたら、ちょっと交流ある優しい人が気づいて慌てて一人くらいポストしてくれることもあるじゃない?
そういう人の事をさ、忘れてない?
自分の作品に感想を貰えたら、第三者から同意?肯定?「その作品で大丈夫!」ってお墨付きを貰ったように感じるの?
ともかく、クレクレさんがいつもいつも「感想を貰う立場」でしか発言しないところがひっかかる。
そんなに、自分の作品で誰かの心を動かしているプライドでもあるのか。
クレクレさんはたぶん承認欲求が強めな印象なんだけど、感想をもらうことに対して「感謝」というよりは、「感想をもらうほどの作品を作れた」って喜んでるんじゃないかと思う。
「感想=作品の評価」ではなくて、「感想=自分の評価」にしているようにも見える。
心を持っていかれるほど、揺さぶられるほどの興奮だから書くんだよ。
クレクレさんは、自分が誰かを惚れさせるつもりでかいてる? 多分違うと思う。
作品をかいて感想、つまり「リターン」が無い、もしくは少ないのをクレクレさんは嘆く。
けど、誰かが感想を書いたとしても、今度はその感想を書いた人への「リターン」は?
感想は、片想いのラブレターだよ。書いた人が満足するためのものだよ。
「面白かったです」って導入の感じ、告白の「好きです」と同じっぽくない?
この吐き出しを書いたところで、表面上は同意されないのは分かってる。
同意したら「クレクレさんを自分は目の当たりにしたことがある、もしくは目の当たりにしてる、そしてクレクレさんうざい」ってことだからな。
同意はないだろう。
でも、多分私と同じように「ほんとこの人いつも感想クレクレばっかり言ってる」ってうんざりに思ってる人、いると思うんだ。
ここまで書いてきた私が言うのもなんだけど、そういう人を気にしてたら創作活動はできないとも思うから、「感想下さい」もメリハリだと思う。たまにはいいよたまには。
明るく言おうぜ、「感想下さい!」って。
書きたいものがあって、使える道具と、発表できる場所とがあるからだよ。
なんか言いたいことが散らかっててすまない。
つまりはそういうことなんだが、アクタージュ好きなんよ。私はね。
ちょっと前にチェンソーマンおよび藤本タツキ激推しお気持ち長文書いたんだけど、この増田に対してあのレベルの激推し文が書けるほどのバックボーンが私にはない。ただアクタージュってワードに反応して語りたく成った迷惑な早口キモオタだ。許せ。
漫画マニアなら、演劇漫画と言えば大御所も大御所、金字塔も金字塔のガラスの仮面が思いつくだろう。累も大好きだけど、あれは演劇が主体かと聞かれたら微妙なところだ。アクタージュの凄さ、面白さは、ガラスの仮面を下敷きにしながらきっちり少年漫画に落とし込む上手さ、現代性の取り入れ方だ。演劇なんてジャンプっぽくない題材で、どうやって少年漫画に落とし込むか?という方向性に疑問が行くだろう。しかし、違うのだ。元々のガラスの仮面、このガラスの仮面こそが、極めて少年漫画的で、かつ化け物じみた少女漫画なのだ。
ガラスの仮面において、しばしば主人公マヤの狂気性がクローズアップされる。どれだけ弱めても「狂気」だ。少女漫画はえてして、人間関係のドロドロを誇張含めて描きがちである。ガラスの仮面ファンも、アンチも、なんとなく読んだことがある人も、「こいつはヤバい」と思っただろう有名エピソードとして「泥まんじゅう」がある。ネタバレは出来るだけ避けるが、この狂気性はどうしても伝えたい。ガラスの仮面をこれから読む人でネタバレが気になる人はさよならだ。まあ流石に居ないだろ。
基本的には、マヤは「月影先生や速水の寵愛を受け、美味しいところを持っていく」役柄で、作中でもきちんと周りから指摘され、嫉妬される。なろう系のように「さすマヤ」状態にはならない。それこそ、ほぼ殺人未遂の石(本物)を舞台上で投げつけられたりする。まんじゅうを泥団子にすり替えられたりする。さすがのマヤも手が止まる。だが、「おらぁトキだ!」と、マヤが演じるトキになりきって、泥まんじゅうを満面の笑みで食ってしまうのだ。もはや「さすマヤ」である。あまりにも強烈過ぎる自己否定だ。彼女はマヤではなく、あの瞬間、間違いなくトキだったのだ。マヤは、自らがマヤであること、演技力がある人間であること、紫のバラの人に憧れを抱く人間であることなど、そんなアイデンティティにほとんど執着がないのだ。劇中で自分ではない何かに成った自分こそが彼女のアイデンティティなのだ。物語に没入していなければ「なんだこいつ」だし、没入してても「狂気」だ。「演劇をやりたい」という極めて明確な目標を元に、自分すらも捨て去る。演劇を主体として見ればとても少年漫画的であり、生き様としてみれば少女漫画のエッセンスがこれでもかと濃縮されている。不朽の名作だ。
さて、アクタージュの話だ。主人公の夜凪景は、いわゆる演目になりきる憑依型のアクターだ。まんまマヤである。さらにライバルキャラの百城千代子もほぼ亜弓である。そして主人公を演劇界に引っ張り上げた演出家には、いつかやりたい「幻の演目」……当然ながら「ガラスの仮面」への類似性への指摘されるし、あの名作と比較してどんな差別化をしてくれるのか、と比較される読み方をされていたと思う。ガラスの仮面を読んだことがない人も、ガラスの仮面ファンにも、ちゃんと面白いと思ってもらわなければ連載は続かない。
アクタージュは、必ず「この人はなぜこうなったか」「なぜそれができるか」「なぜそうするか」が描写される。つまり、描写される演技には必ず「アクター個人としての」アイデンティティが関わってくるように描かれている。ガラスの仮面のあまりにも強烈過ぎる自己否定など、微塵もない。この一点こそ、マヤと夜凪の、ガラスの仮面とアクタージュの決定的に違うところだ。ガラスの仮面ファンもニッコリ。
そしてもう一つ大きな違い、「個と組織」の違いだと考えている。ガラスの仮面は圧倒的に「個」だ。読めば分かるが、ガラスの仮面は組織が組織の強みを生かしたシーンが実は少ない。組織の良くない、ドロドロしたところの描写のほうが多いくらいだろう。マヤの理解者である、月影先生も劇団の主催ではあったものの、強烈な周りに理解されない天才、「個」だ。速水さんも明確な「個」である。強烈な個がぶつかり合う様でガラスの仮面は成り立っている。
アクタージュは、組織的なものがちゃんと組織として役割を担っている。それだけだと、ただ主人公とライバルが活躍するだけの漫画かと思ってしまうが、きちんと「組織」が役柄をもっているため、組織の存続に関する視点が本筋に関わっていく。商業的な視点も取り入れながら、きちんと少年漫画をやっている。実に現代的な視点であり、ガラスの仮面リバイバルとしても十分に面白い作品となっている。ガラスの仮面知らない人もニッコリ。
強烈過ぎる自己否定からくる演技への執着、それによって誰にでもなる、なってしまうガラスの「仮面」のマヤ、時には暴走するが、自らのバックボーンを捨てることなくリアルを演出する「アクター」ジュの夜凪。対比として美しいって書いてて思った。
どっちかのファンでもどっちも知らない人でも、片方読めば楽しめるし、両方読めば4倍楽しめる。1+1で2じゃないぞ、2の2乗で4倍だ4倍。読んでくれ、特にガラスの仮面。
聞かれてることに答える、私はこれができない。
例をふたつあげよう。
「・・・ポリポリうるさいですよね、ごめんなさい」
その状況をどうにかしたくて、さらに支離滅裂なことを話してギクシャク。地獄。
解説をいれられるならこうだ。
(ダイエット確かにしてるけど、してると言っていいほどしてない)
(確かに最近おやつもゼリーとかにしてたしダイエットしてる私に気を…)
(あっ食べてる音がうるさいんだ!やってしまった!)
「・・・ポリポリうるさいですよね、ごめんなさい」
これ数秒後に後悔してる。けど時すでに遅し。
とにかく、もう一つ例を。
「何色が好き?」
「あーーー、えっと、青、以外、いや、白とか赤が好きです!」
何色?って聞かれてんだろうが!って思う。答えた張本人、すぐにそう思ったけど時すでに遅し。またまたギクシャク。
どうか解説をさせてほしい。
「何色が好き?」
(白が好き!)
(本当に?白って答えたら印象がいいとか思って選んでない?)
(持ち物は黒が多いよね)
(赤も結構多いよ)
(白って答えて純情そうって思われるのもなんかヤダ)
(そもそも好きな色なんてなんでもよくない?)
(とりあえず青以外好きじゃん)
(白!)(いや赤だって)
「あーーー、えっと、青、以外、いや、白とか赤が好きです!」
声に出してないけど出したつもりでいるかのような返答ぶり。これこそが私のキャッチボールができない原因。気づけていないだけで、四六時中こうなのかもしれない…なんて考えると言葉を発すること自体が怖くなる。
■■■
0.1秒後に押し寄せる後悔、そして始まる脳内反省会。この間にも会話は進んでいる。見事に集中できずにまた失敗する。そして始まる脳内会議。エンドレス悪循環。
例であげた話は、どちらも何気ない、答えで何かが左右されることもない問いかけだった。
適当に「そうなんですよ!やったー!」とか「白が好きです!」とか答えていれば良かった。
私のことに興味があって話しかけてくる人なんていない。なんなら面倒だけど話しておかなきゃいけない義務で無理やり話しかけてくれる。だから適当に、そして早く会話が終わるように努めろ私。わかったな!
って何回も言い聞かせても、ボールを投げかえせないでいる。辛い。
■■■
接客が好きで、お客さんとの会話は上手く、そして楽しくできていた。
高校までは死ぬほどコミュ障だったけど、たくさんの接客系アルバイトで克服したと喜んでたのに社会にでた途端これ。
どうやらマニュアルがあれば、正解不正解に支配されてる頭の私は上手くやれるらしい。
私自身についての正解がないから、会話の間に正解を探して頭の中で会議をしてしまうのかもしれない。
それぞれの正しさを持つたくさんの私が、正しい私にしようとしている。
そうだとしたら、私は私のことが分からないという漠然とした悩みにも納得できる。
■■■
私は誰なのか。っていう答えのない自問を昔からずっとしてる。
何が正しいのか分からなくて、最終的に私の話し方や笑い方も忘れて、私でいることが怖くなり、人を避けて生活してる時期もあった。
そんな時でもアルバイトが楽しかったのは、私の在るべき正解があったからだったんだろう。
最近気づいた。
他にも、考え方は日々変わりゆくものなのに、「この私は私じゃない」と変わった私を否定する私にも苦しめられる。
正解なんてないのに、こんなことに振り回されてるなんて厨二かよ、、とも思うんですけど、それが正にはなってくれない。
■■■
この「好き」という感情は私自身のものだろうか。世間で流行ってるから好いているような気がしているんじゃないか。もしくは好いていれば何かで有利になるとか、そういう利害的な思考の末路なんじゃないか。
とりあえず、私はとてつもなく捻くれていて、自己否定的で、面倒な性格をしているということだけは分かる。こんな私と私は生きていくしかないから、適度に悩みながら適当に生きていこうと思う。
嘘です、適当に生きていけるようになることが夢です。
みなさんもどうか、そつなく適当に生きてってください。
例えば文章が下手だ、といえばその人のプライドが反応してうまく書こうとする。
お前の書ける曲はセンスが悪い、と言われたら腹を立ててセンスを身に着けた挙げ句、嫌味なやつになったりする。
人の意見に振り回されるのと、人の意見を取り入れることは全く別だ。
誰の目から見てもすごい人間、立派な人間になろうとする時間を取りすぎると、その間に老人化してしまう。
こうした人は自分がやりたいことではなく、他人の望んだ人生を歩いてしまう。
他人がああだこうだと指図することをいちいち気にして他人が欲しがるものを手にし、
他人が称賛するものを客観評だけで良いものだと脳死しつつ判断する。
両者は対称的だ。朝倉は何があっても大抵は気にならない。
瓜田は逆にガリ勉的だ。
あらゆる知識を最大限の努力により後学で仕入れることによって視聴者にパフォーマンスをアピールする。
瓜田は朝倉を大物になると褒めそやしつつ、悔しいという。
ただし詳細は少し見誤っている。
朝倉の強さやブレなさは意志の強さに求められるだけでなく、泰然自若さにもあるからだ。
何者の評価も気にしないどころか、自己否定的なコメントですら改善項目として取り入れてゆく。
「痛みながらも参考になるから取り入れる」ではない。傷まないのだ。
事実彼は試合前にナーバスになったこともなければ、少年時代の喧嘩中にも感情的になったことがないという。
この柔らかさが彼の頭の良さにも直結している。
瓜田は基本的に、他人に言われたから「こんちくしょう」と思いつつ頑張った人だ。
実際そうした側面は動画の端々に見える。
朝倉とのスパー後に「さんざんバッシングされたが、今は格闘技頑張ってる」
というアピールを入れたり、「ごちゃごちゃ言うやつはやらないやつだ」と、
一方の朝倉は「いや、否定的なやつでもいいこと言ってることもあるんでそこは参考にします」
などと飄々としたコメントを残す。まるで人を食ってる。
腹が座っている? 意思が強い?
それだけだろうか。彼は柔らかいから強いのだ(格闘家として、という意味にとどまらない)。
彼をインタビューする人たちはどこか恐る恐る伺うように聞く。
回避性パーソナリティ障害は、自己否定が強く、失敗や批判を極端に恐れ、対人関係や社会活動において臆病になってしまう障害だ
診断を受けたのは回避性パーソナリティ障害と気分変調性障害
長いことうつ症状と付き合っている
過干渉の母親とネグレクト父親のもとに育ち、小学校・中学校・高校では理不尽な難癖をつけてくる教師達に勉学と道徳を説かれた
当時、容姿が悪く性格も捻くれた私にとって勉強は唯一誇れるステータスだった
特に決定打となる具体的なきっかけは無かったが、明らかに肉体的にも精神的にもエネルギーが枯渇していた
徐々に学校にも通えなくなっていき、しまいには実家の自室に籠りっぱなしになっていた
毎朝自室に起こしに来る母親に対して「胃が痛い」「頭が痛い」「動けない」と言い続けるのは苦痛だった
「気のせいだから学校に行きなさい」とまくし立てる母親に対して、口が裂けても「死にたい」だなんて言えなかった
高校は、当時の担任(私が唯一感謝している先生)が尽力してくださったおかげで不登校ながらもなんとか卒業できた
最初の数カ月こそ解放感にハイになっていたものの、すぐにまた引きこもりに戻ってしまった
親に金を出して貰ってまで一人暮らしの引きこもりをやっていること、
自分より遥かに成績の悪かった連中がAOや指定校推薦で難関大や医学部に行き、未成年飲酒の様子をSNSに垂れ放蕩の限りを尽くしていること、
心が進学を望んでいるのに体が言うことを聞かないこと、
全てが酷だった
それでも進学を諦めたくなかったので一人暮らしで浪人生活を続けていたが、翌年遂に進学を放棄し、引きこもりニートが完成した
ずっとバイトを探しているが、ここで回避性パーソナリティ障害が真価を発揮している
まず、一番求人件数の多い接客業であるが、厄介な客1人にでも出会おうものならすぐに辞表を叩きつけるであろうことが目に見えている
10代にして大人達の醜さに触れ、理不尽さへの耐性が異常に無くなってしまっている
コロナ禍においてマスクの欠品が相次いだ時、マスクが無いからと店員にキレる客が社会問題となっていたが、もし私が店員だったらすぐにでも自死していただろうと思う
接客がダメなら事務系か?とも思ったが、求人サイトで事務系として募集している仕事内容にはだいたい電話応対が含まれている
それを省いたとしても残る求人件数は数少なく、社名を検索すれば悪評が湧き出てくるようなものがほとんどだ
私は某求人サイトでヒットした事務系の求人の社名を全て検索し、ああでもないこうでもないと虱潰しに探していったら全てダメだった経験がある
頭のどこかには「やってみたらなんとかなることもあるだろう」という考えはあるのだが、それよりも「失敗が怖い」という感情が遥かに上回ってしまう
あらゆる職種に就こうと思えず、かといって今更進学を目指す気持ちにもなれない今、本当に行き場を失い、詰んでいる
誰だって失敗は嫌だ、ただ逃げているだけだ、甘えだ、そう思われるかもしれないが、
私にとってこの問題はそんな言葉で片付けられるほどのものではないのだ
人の感情を矮小化する行為ほど無礼なものは無いと私は思っている
10代にして人への信頼、新たなことに目を向けるエネルギー、ここぞという時に踏ん張る力、自己肯定感、
あらゆる人生の楽しみを失ってしまった私は、これから先どうすればよいのか
私はもう疲れてしまった
なにを正当化しているんだ?
あなたは全方位に反骨精神を示しているつもりで、結果誰に対しても二枚舌で接してきたにすぎない。
年齢にそぐわない芯のなさを「自分の独自の個性」とごまかしているに過ぎない。
大人になったら?
みんなに認められなくても、私はいくら何でも死にたくはありません。
最低限度、生きてはいたい。
僕は僕を他の人に認めてもらいたいのではありません。
僕は自己肯定できるから、別に良いのです。誰から排除や差別されようと良いのです。
ただ、それでも増田に書くことですら、読んで欲しいんです。
そこに何が書いてあるのだろうか?と、その文章を読んで欲しい。
同意でも反感でも何でも良いです。
全く関係のないように見える世界の事柄ですらも、こういう意見もあり得るのだと読めるように書きました。
僕のことなどどうでもいいんですよ。
同じ考えを持っているという意味じゃない。
私はそこそこはその辺のリテラシーは多少はある方だ。
その、性差別やら貧困搾取ということではなくて、何か失敗をやらかした時に、自身がその失敗を認めざるを得ない状況で、自分を責める以外に方法がない時、あの辛さはほんとに逃げたくなる。
ところが、批判者は逃げるのを許さない。問題と向き合え、駄目な自分と向き合え、反省しろ、自分を変えろ、と責め立てる。
お前は甘えているんだ、何様だと思っているんだ、しっかり考えろ……。
「はい、はい、仰るとおりです。申し訳ございません。二度といたしません。すみません。私が悪かったと思います……」
でも、それでも「お前は分かっていない」と見られ、言われるものだから、言われていることをわかろうとし、必死で考えて、「そうかも知れないですね」と捻り出した返事を、「かも知れないじゃないだろ?」とさらに怒られる。
分かってないから、「かも知れない」と分かってないことを吐露しているのに、分かってないことを責め立てられる。
それで、「分かりました」とでも言おうものなら、「嘘を付くな! 分かってたらそんな事をするはずはないだろ!」とこれまた責め立てられる。
こうして道を塞がれ、退路を断たれ、責め立てられることを許容し、ボコボコにされなければならなくなる。
自分が悪かった、ということを認めよ、というのはこういう構図なのである。そして、これを延々と「あの時お前は悪いと認めたであろう」と十字架まで背負わされるのだ。
私は社会でいろいろな人に怒られたし、こうした体験を何度も繰り返してきた。
その度に謝罪し反省し、それでもなお、色んな人からガンガン怒られる。
多分そんな人は珍しいどころか、そんなダメ人間は世界に私くらいしかいないような気にもなる。
それでも死んじゃ駄目だ、挫けちゃ駄目だと何とか踏ん張って生きている。
逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ……
その繰り返しは今もなお続いている
オタクのみんなー!わかってるなー!?一緒にぶち上がっちゃおう!!せーの!」
…夢見りあむは地下アイドルのオタクなので、オタクの好きなものが分かる。
よっしゃシンデレラ!
キュート!クール!パッション!ピンク!ブルー!オレンジ!ジャージャー!」
…私は地下アイドル知識はあまりないがMIXというやつなのだろうか。地下アイドル現場でこのコールをされているのはありふれた光景なのだろう。
「全力ダンシン 喉枯れシンギン
…りあむの思う尊いアイドル像。全力で踊って喉が枯れるくらい歌って、そしてファンとチェキ会などの交流。
「無茶振り上等 繋がり退場」
繋がり退場→りあむはオタクとの繋がり(恋愛)をする地下アイドルも見てきたということだろうか。尊くないと憤るのが目に浮かぶ。
…地下アイドルはバイトもしなきゃ生きていけない。そこも含めて頑張っている推しが尊いという意味だろうか。
…自分のファンに対して言葉。尊くないアイドル(りあむ自身のこと)を応援しているファンなんて推し変するしDD(誰でも大好き)だしどうせこんなもんと思っているのが透けて見える。
「どうせ僕に No No人権
…尊くない自分にはアイドルにおける人権はない。人権欲しいな。という言葉。
人権=尊いアイドルであるということなのだろうか?それとも人権=本物のファン?
「BURN BURN みんなが燃やせば
…炎上で注目を集めて、今の地位まで上り詰めたりあむ。りあむは尊くなれはしないが、注目を集めてチヤホヤされたいのも事実なのだ。ワンチャンをもう掴んでいるのでは?
「大体ここにいるみんな本気で愛してるぞー!」
…愛してるぞー!とは言うものの尊くないアイドルを推しているファンをりあむは本気で愛しているのだろうか。それとも何もせずともチヤホヤしてくれるからやっぱり愛してるのか。
「お願い死んでくれ!夢は夢で終わってくれ!」
…お願いシンデレラパロディ。死んで欲しいのは夢見りあむ自身。尊くない自分は死んで欲しい。
お願いシンデレラで言う"夢"とはトップアイドルのことだろうが、ここで言う"夢"とはなんだろうか。
「誰もが死んでくれ 夢から今目覚めたくない」
…夢から目覚めたら新たなストーリーが始まってしまうので目覚めたくないのだろう。りあむはなんの夢を見ているのだろうか。尊くないのにファンがたくさんいるこの現実=夢?
「なりたい なれない あの子も あの子も あの子も うん CALLーーーーー!!!」
それとも"あの子"は自分の立場になりたいだろうけどなれないということか。後者だとしたら悪趣味過ぎるな。あの子は尊いアイドル。自分は尊くない。でもファンが多いのは…?
手首をかけて ゆびきり(げんまん!)」
浮気、されるんだろうなぁという諦めも感じる。
責任とってくれるんだろうなー!」
…ファンのおもちゃとしての振る舞い。尊くないアイドルである自分はファンに媚びて繋ぎ止めるしかない。
「ガチ恋をすればいいじゃん 最前管理すればいいじゃん どうせぼくを全然見てない」
…ガチ恋ですら自分を全然見てないと言い切れる、りあむの自己否定感。りあむにとって自分にガチ恋している時点でオタクとしてアウトなのだろう。理想の夢見りあむ像を押し付けられたくもないように聞こえる。本当のりあむを見つけられる人間はいるのだろうか。
…アイドルじゃなくともぼくを愛して欲しい!というりあむの傲慢さが垣間見える。アイドルとかアイドルじゃないとかじゃなくて本当のぼくを愛して欲しい!チヤホヤしてくれ!
「会いたい」って願ってくれて
…ワンチャン=何もせずとも尊いアイドルになるということなのか。あんまり努力はしたくないけど尊いアイドルにはなりたい!
なれないよなぁ。
「もし思うことができたなら…そう、できたなら…
ー自己嫌悪」
…そんなことはりあむが1番分かっている。尊いアイドルにはなれない。そういう考えがよぎる自分に自己嫌悪する。
「お願い!死んでくれ 夢は夢で終わってくれ
…こんな自分はもうアイドルじゃない…というりあむ特有のやみモード。尊くない…尊くない…死んでくれ。
「誰もが死んでくれ 夢から今目覚めたくない
なりたい なれない ぼくだけ ぼくだけ ぼくだけ うん CALLーーーー!!!」
…尊いアイドルにぼくだけなれない。シンデレラガールズは夢見りあむ以外全員尊い。
(ガチ恋口上略)」
…ガチ恋しているファンでも、ぼくを見ていないと言い切った後でのガチ恋口上は悲しさすら感じてしまう。
期待なんてしないけど ハニー(ハニー)
甘やかして」
…尊くないアイドルの自分を否定し続けるとりあむ自身が壊れてしまう。尊くない自分を受け入れることにした。成長。
「チヤホヤ チヤホヤヤ チヤチヤホヤヤ チヤホヤヤ なでなで×5
チョローーーーイ!!!」
…だからオタク!ぼくをチヤホヤしてくれ!清々しいまでの尊くなさ。最高で最低の尊くないアイドル夢見りあむの完成。
「お願い!死にたくない 夢は夢で終わらせない
みんながぼくのアイドルだ!
…死にたくない=好きなことをしている自分を否定したくない。尊くないことを受け入れたりあむはこれから何を夢見るのだろうか。
尊くない自分を推してくれるファン。自分のことは見ていなくても、ぼくを肯定してくれるオタク達がぼくのアイドルだよ。というメッセージ。
「(お願い!死にたくない!)
(夢は夢で終わらせない!)
(だいすこ!クッソすこ!)
うんCALLーーー!!!」
…オタク歌唱、りあむコール逆転部分。尊くないアイドルとそれを応援するオタクの集大成。
よっしゃみんなでー!
※ブコメその他がためになったので追記した(2/23 18:23)
※あとこの投稿は「最底辺に落ちれば自信が出るからそうしろ!」とかいうものでは一切無いです。そういうニュアンスが出ちゃってたのは大変申し訳ない。少しでも浮上してるならそれに越したことはないし下がれなんてとんでもない。この投稿は助言でもなんでもなくて、自分はこうだったなぁという糞自分語りに過ぎない(最後のオナニー以外)からそれを踏まえていただければ大変うれしい
自分も自己肯定感はそこそこ低い方で、 増田と同じく学生時代は自分以外の全員がド有能の聖人に見えてたんだけど、増田のもちょっと違う気がするんだよな。
「私と仲良くしてくれる人は何を考えているんだろう、こんなグズに優しくしてくれる聖人たちに何を返せばつりあうだろう」
そう、ここまではほぼ一緒。でも俺の場合はこの次の段階があって、
「こんなに有能な聖人が言ってる事をグズの俺が否定する権限はない」
って理論が発生するんだよな。
少し場面を想像してほしいんだけど、数少ない友人と会話してる時、案の定おれの「俺なんてゴミやし……」とかいう発作が起こるよな? グズの俺と違って友人は有能の聖人だから、まぁ「いやそんなことないよ」とか、たまに「増田の〇〇なとことか凄いじゃん」とか言ってくれる。俺の脊髄は(いやいやそんなことなくて俺はゴミでぇ……)とか反射しそうになるんだけど、"グズの俺が否定する権限はない"ので、お世辞であれその言葉を甘んじて受け入れないと絶対におかしいんだよ。ここで「いやそんなことはない、私はゴミだ」と言える時点でまだそこそこ自己肯定感あるから安心していいと思う。向きはともかく、自分の思考や理論を相手のそれより強いと思えてるから。
逆に自分が否定された時はそもそも自己肯定感が最底辺なのでノーダメージ。ゴミな自分は有能な他の全人類に否定されて当然だし不当でもなんでもない。当たり前の事を当たり前に指摘されただけなので悲しくもならない。でも[ゴミと友人になってくれる有能な聖人]とただの[有能]だと前者のほうが優先順位が高いので先述した友人の言葉が消えるわけではない。仮に消えたら聖人の友人に失礼極まりないのであり得ない。周りに当たるなんて選択肢はどうやっても発生しない。
このマインドを続けてると、基本的に肯定感が正の値になることはあってもマイナスにはならない。ふとした拍子に2とか3くらいゲージが溜まってちょっとウキウキな気分の時だと、理不尽な否定と正当な批判の切り分けなんかも意外にできるようになったりするので、ただでさえ鉄壁の防御力にさらに磨きがかかる。余裕ができると「ほんとにちょっとだけなら"俺の〇〇なとことか凄い"んじゃね……?」とか思えてきたりこなかったりする。
要は、自己肯定感低いアピールは人が多いところでやると時に不快感を撒くことになるから、基本控えめにしてある程度自己評価あるフリでもしてたほうが周りの人を尊重してることになるし、結果的に自己評価を見つめ直すことにも繋がる。理論的に考えればそういう考えに落ち着くのが真っ当じゃね?っていう話ですわよね。
まぁなんというか、自己憐憫って蜜の味なんだよな。だから癖になってるひとも多いと思う。今は夕方一人外で歩いてる時とか、中高の時に毎回テスト最下位で赤点で居残り勉強してた時間とかを思い出して「相変わらず俺ってゴミだなぁ」とか思いながら自己否定オナニーして自己憐憫欲を解消してる。もちろんオナニーは心の上での比喩だけど、めっちゃ気持ちいいからおすすめしたい。
珍しくブコメが色々ためになったので(自己肯定に溢れた感想)、お礼と言うにはおこがましい自分語りだけど返事をさせてもらいたい。
oratansu よく「最底辺に落ちたのであとは上がるだけ」みたいなコメントする人いるけど、それ以上に落ちるかもしれないのによく今が最底辺だと定義できるなあという感想しかない
読み直すと「死ぬこと以外はかすり傷!(ドン!)」とかいうどっかのゴミ自己啓発本と同じ台詞言ってるように見えてめっちゃ恥ずかしい。ごめん。(自己啓発本は悪だって言いたいわけじゃないんだけど、なんというか基本強者の理論だと感じちゃうんだよね)
今の自分の絶対値的なこの場所が最底辺、というよりは"自分=ゴミ"の図式が無条件で成り立っちゃってるから、落ちたところで自動的に認識が再修正されるので特に何も感じない、というほうが正確だろうか。こう書くとより救いがない感じがするな。でも気は楽。弊害は未知数なのでオススメはしない。
fukazawakyoko これ、元増田もそうだけど最底辺感がないんだよな。能力が低くてガチで自己肯定感が低いというより、どっか余裕のある人が考えた自己肯定感の低さって感じ。
あ~やっぱそういう感じ出ちゃってるよなぁ。言い訳させてもらうなら、現状、そこそこ自信というかなんだかんだ俺もそれなりに大手を振って生きてていい(≒他の人間も大した理由があって生きてるわけじゃない)って思えるようになってるから、この立場から何書いても薄っぺらいってのはあるかも。一時期は何言われても「おっ悲しいなぁ(諸行無常)」みたいな感情しか湧かなかったから、這い上がろうという気力も湧かなかったのはホントのところだとは思うけどね。
コメントにも出てきてるけど"余裕"は本当に大事だと思う。これが枯渇してるとホントに何も考えられなくなるし、シンプルに周りにも迷惑がかかる(その迷惑で自分を卑下する必然性もないんだがそう考える余裕も無くなる)。自分の少しの余裕がどこから湧いてきたのか考えると、やっぱカウンセラーとか薬ってことになっちゃうのかなぁ。ラッキーだったのは、「精神科に行って薬まで出された自分は欠陥人間だ……」とか、どうしても先生を信じきれずに(orあってない先生をずっと変えなかったりして)ネットのメンヘラ界隈的な場所ででくだをまいちゃったりすることはなかったって点だろうか。一応心理学専攻で、治療に対してそんなヤバい行為だとは考えてなかったってのもあったし、治療受けるのってどんな感じなだろう……!みたいな好奇心が少し先行してたのも大きい。
でもカウンセリングや薬ってなんだかんだお金かかるし、1割負担にするのもちょっと抵抗感ある人もいるかも知れないから、こういうのも含めた余裕を考えると俺もまだまだ序の口ってことなんだろうなぁ。保険で色々試せるのおもしれえなぁとか、ビンシャリってこれかよ草、みたいなノリは万人にできるものではない。
Caerleon0327 自分よりできない人を見たり、自分より大変なことになっている事象(例えば、今回の新型コロナパンデミックとか)見て、それと比べて自分の目の前のことはマシだと慰めている
この理論で生きてると、自分よりできない人が他の場面で自分より高い性能を発揮する現場を目撃すると総崩れになるから注意したい。そこで「できないように見えた人にも得意なことがある」なら「できない自分にもなんかいい点がある(≒自分をある程度認めないとその人の優れた点まで否定する事になる)」と考えを反転して良い感じにしてたんだけど(これも自己啓発の謎理論っぽくてキモいな)、まぁこれもある程度の余裕がないと出来ないことだよなぁ。
自信がない状態から立ち上がれるかどうかは周辺環境に左右されまくる、ってのは本当そう思う。そこにつけ込まれると色々厳しい。弱ってる人間につけ込んで追い打ちかけてくるゴミなんて生きてる価値無い、社会に害を振りまく俺以下のゴミじゃん、って思えれば楽なんだけど、そう思えるまでが長いんだよなぁ。これを個人でどうすべきかはちょっとわからない。今の自分はそういう人間の屑を見るとめっちゃイライラする性格と化したからそれに関係する仕事をしてるんだけど、そういう支援もまず最初に人の目に触れないと始められないし……難しい。
aeka そんな言葉遊びしてる次元じゃないんよ。「自分なんてクソで…」などと人様に聞いていただこうなんておこがましいこと思ってるようじゃまだまだ下がいてだな…いやこんなことわざわざ衆目集まるところですみません。
俺もすまん(挨拶)。寧ろそれを伝えたい文章だった。俺の作文力の無さが光る。そう、自分が糞という意思をもってる時点で自分を肯定できてるから、そんな奴らの言うことなんて何の参考にもならない。これはポジティブ思考でもなんでもなく、ただただそれを出来ない自分が沈んでるだけで、良い事はなにもないから安心してほしい(?)。
アドバイスなんて身の程知らずなことは一切できないけど、それこそカウンセラーがダイレクトに助けられる数少ない場面な気がする。先生は仕事だから聞くのは毎日のことで一人が増えても大差ないだろうし、自己開示はただするだけである程度意味がある。今は心療内科もいっぱいいっぱいだから難しいかもしれないけど、それに準じた相談をできる場所は結構あって、意外と人のいない穴場もあったりするからちょっと頭の隅に置いておくのも悪くないかもしれない。