はてなキーワード: 自己否定とは
日本人のくせに白人俳優のアイコンにしている外資コンサルや外銀勤務のツイッタラー。彼らは自分の頭が良いと思っている。彼らは自分は見た目が良いと思っている。彼らは金があると思っている。他人と比較して優位性を感じている。なのに真に金持ちの人達、真に人気のある人達に対し引け目を感じている。他人と比較して優位性を感じるから、また他人と比較して劣等感を感じるのだ。彼らは表面的には鋭いことを言うハイスペを装っているが、その実は臆病で卑怯な小心者なのだ。自己陶酔と自己否定の間をいったりきたり、本当の自分を持てずに他人を否定することで自己の存在を確認している。体裁が大事なのでリスクも取れない。リスクを取れないので批評家になる。自分では自分が単なる批評家であると頭の片隅では理解しているのだがそんな自分を表面上は否定している。彼らはそのうち肥大した自己像に飲まれ消えていく。
アニメーターは、愚痴愚痴言いながら、自己否定のループにはまっていく人間が多い。周りから能力の高さを買われていても、全く評価されていないと嘆いていることが珍しくない。
感受性ばかりが高まって絵を描いているうちにアニメーターになってしまった。しかしアニメーターは下請け業務である。自己管理能力が問われる職業である。彼らはえがいていた仕事像と必要とされる能力とのギャップに驚きつまずく。
その言動をよく観察してみると、家族関係に問題を抱えている人間が少なくない。要するに、愛着障害によって、自己嫌悪と承認欲求の無限回廊に閉ざされている。
まずもって彼らは自分が嫌いなのである。理想の自分像があって、そこから外れると減点評価。当然、他者をも認めることができない。批評家になる。本人は目指すべき場所を目指しているつもりだが、実際には様々な外的評判を内面化しているに過ぎないことに気づかない。内省する力が残っていない。
彼らには大丈夫感が足りない。いつかやればできる。失敗しても次はなんとかなるだろう。その次失敗しても自分は成長している。そういった楽観を描くことができないし、自己効力感も得られていない。だからものごとに一喜一憂するしかなく、日々のちょっとした不幸を大げさに嘆いてみせたり、ほんのわずかな間だけでも自分を楽しませるためにゲームにのめり込んだりする。
彼らは自分の本当の欲求に目を背ける。理解されたい。愛されたい。しかし理想の自分がこれを許さない。自虐、自嘲。わたしも傷ついているから周りの人間を非難しても許されるはずだ、と他責も辞さない。それがまた内面に対する攻撃になってしまう。
必要とされたい。だから多すぎる仕事を引き受けてしまう。頑張れば褒めてもらえる。自分を褒めてあげることができる。そういう過去の体験がある。
過大な期待を自らに課す。期待は未来の報酬を予測したものである。つまり発生した時点でこころの借金になっている。支払うことができなければ、失望という形で清算することになる。
彼らは自己の能力を冷静に分析しないまま仕事をはじめる。ほんのわずか努力すれば届く目標にすべきである。しかし理想の自分がこれを阻む。伝説的な先人に自らをなぞらえて物語を作ろうとする。先人は目の前の仕事を終わらせ続けただけである。
人生は現在の連続である。人生の物語を先に綴ってしまうのは、資本が十分にある人間がやればいいことである。資本というのは、金融資本、物的資本、社会資本、すべてである。
彼らに必要なのはカウンセラーなのかもしれないが、それ以前にやるべきことがある。
自分の能力を遥かに超えた仕事に着手しないことである。身に付けるべき能力がないなら身に付けることである。仕事はあなたを成長させてくれるものではない。期日までに終わらせるものである。
自己実現は目的である。金融資本はその必要条件にあたる。条件を満たさずに走り出すのは愚かである。自分が嫌いだから、安すぎる報酬でも満足したふりをする。自分を愛していれば、そのような仕事を請ける道理はない。
過大な期待、経済的圧力、惰性。これらは仕事を続けるうえでのモチベーションを下げこそすれ上げるものではない。大切なのは、作業そのものに喜びがあること、仕事に意義を感じること、その先に描く未来に可能性を感じることである。これら内発的動機を、外的要因に振り回されないように用心しなくてはならない。気がつけば、日銭を稼ぐために生きがいを殺している場合もある。
繰り返すが自他問わず過剰な期待には要注意である。評価の前借りは認知の歪みを生む。自分は褒められて当然の仕事をするべきだと考えはじめる。名声欲である。認知が歪んでいると肯定的フィードバックを当然のものだとみなしてしまう。よって脳は報酬を受け取ることができない。得られた場合にも期待はさらに膨らむ。麻薬と同じである。
謙虚さが必要である。謙虚さは自己否定ではない。驕りがないということである。謙虚さは内省なくして存在し得ない。内省は自己像と現実の一致にある。つまり現実の自分を受け入れるところからはじまるのである。
作画は大変な能力の要る仕事である。能力不足であれば、仕事を請けている場合ではない。街に出てスケッチでもしているべきである。生活していくだけの金銭的報酬が得られないならば、趣味に留めるべきである。
ところで、精神が不安定になる原因は睡眠、運動、食事、社会的繋がりの欠如が上げられる。
まず寝ることである。睡眠を削ってでも対応しなければならない仕事などアニメには無縁である。放送が落ちても人が死ぬわけではない。救急外来で働く看護師ではない。業務内容は、決められた期日までに自分が請けられる数のカットを納品することである。睡眠不足で仕事に臨んでも成果は下がる一方である。
スケジュールを立てる際に、1日から睡眠時間を引くことを忘れてはならない。寝る時刻になったら、どれだけ惜しくても寝る習慣をつけることである。
寝るために必要なのが運動である。全身に血液を巡らせる習慣がない人間は精神虚弱になって当然である。本当なら1日2時間は日の光を浴びて運動するべきなのである。人間という生き物は部屋に引きこもっていると具合が悪くなっていくものである。
水泳、散歩、ヨガ、プランク、スクワット、リングフィットアドベンチャー。なんでもよい。座り込んでいるよりマシである。
もうひとつ、精神虚弱の原因として血糖値の乱高下が考えられる。
まずカフェインを絶つことである。白砂糖を控えることである。血糖値が急速に変化すれば精神的変化に見舞われるのは当然である。おなかがすいてないている子どもと変わらないのである。
3時間毎に低GI食品を摂取すればよい。おやつにケーキやシュークリームをやめて、おにぎりとチキンにする。コーヒー、緑茶をやめて水か麦茶、ハーブティーなどを飲むよう心がける。依存性のあるものを遠ざける。食生活を根本から見直さない限り、健全な精神は得られないであろう。
最後に、社会的繋がりは人間の本能である。相手が制作進行だけで、しかもそれが精神不安を煽ってくるような未熟な人間なら、たちまち追い詰められてしまうだろう。
大切なのは成熟した人間と多くの繋がりを持つことである。他人を利用したり平気で嘘をついたりする人間と付き合ってはいけない。
仕事が全てではない。趣味を増やすのもよい。ただし寝ている間を除けば1日の半分以上を費やすことになるのだから、わずらわしい思いはできるだけしないに限る。仕事仲間は互いに理念があってそれを語り合える人を選ぶべきである。寂しい人間同士が集まっても何にもならない。求めていないことを互いに共有することはできないのである。
また仕事以外の時間を大切にすることができれば、業務上のトラブルに立ち向かっていくだけの精神的体力を確保できる。
1日中仕事に溺れるならそれだけの信念と根気が必要である。仕事ばかりしている人間は大抵仕事自体が好きである。情熱が桁違いである。うつになるアニメーターには無縁の話である。
かつて自分が自信無いタイプで、自信なさげな姿に勝手に強く共感してしまうってのがデカいと思う。
「あ〜そこで急に自己否定挟んじゃう感じわかる!」みたいな、実際文章にするとかなりキモくて悶えるけど実際キモいしこんな感じ。
あと褒められ慣れてない人を褒め倒したい欲というか、幸薄そうな人をやたらに楽しませたい欲というか、そういう自分のエゴを勝手に相手に投影して勝手に盛り上がっちゃう癖もあるとは思う。
明確に拒否されたことはないし、言葉では喜んでくれるんだけど、”自己肯定感が低そうな人”を選んでしまっている以上、嫌でも口に出して言うのは難しいかもしれないし、表面上のそれを鵜呑みにするのは無責任だなぁと感じてる。
仰る様な戒めでブスと言ってるんだとしても、私の結論はあまり変わらず、「その目的でブスという言葉を使う様な親の言うことは無視した方がいい」です。現に本人はその言葉に傷つけられていて、それに親は気づけないわけですから。戒めるにも、もっとまともで普通の言葉があります。親の発話の目的(戒めるたいのか貶したいのか)は論点じゃなく、言語表現、傷つけたと言う結果、それを引き起こしている親の心理や親子関係が重要です。
この人が自己否定的じゃないというのは賛成で、自分は容姿はそこまで悪いとは思っていない、彼氏もそう言ってくれている、ただ親はいちいち否定してきて鬱陶しい、という問題。
男らしさとは強い男になって女を手に入れることである。
弱い男が男らしさを捨てられないとどうなるか?
女を弱い男である自分よりさらに弱くすれば相対的に自分が強くなるので女叩きをする。女の気を引くために女叩きをする。女に断られ続けて闇落ちして女叩きをする。
強い男になろうと努力する。一番健全な方法だが無理して自分本来の性格と違う自分を演じすぎて病んでしまう人も居る。
将来は男と女で協力して生きていく人々、男同士で協力して生きていく人々、女同士で協力して生きていく人々、一人が好きで一人で生きていく人々などさまざまな生き方をする人が居ると思う。
弱い自分を認めて弱い男が好きだという女を見つけて弱い男として生きていく。
弱い自分を認めて脱男らしさした男同士で助け合って弱い男として生きていく。ただし男らしさを捨てられない弱い男同士はお互いに否定しあうので助け合えない。
弱い自分を認めて一人で生きていく。などの生き方があってもよいのでないか。
男らしさと言う洗脳から男を解放する男性開放運動はどのようにしたらいいのか。
他人を直接コントロールすることはできない。他人が出来るのは自分で自分を変える切っ掛けを与えることだけだ。
男らしくなりたいと自らの意思で思うのはよいと思うが、全ての男が男らしくなることは本当に正しいのか?
きっと寂しいのだと思う。
寂しいという感情は、自分の存在価値が認められていないと思った時に起こる。
けど多くの人が他人を認められるほど精神的な余裕を持っていない。
また、他人に認めてほしいという願望とは「他人の物差しで生きること」を意味します。
批判や不満ばかり言ってしまうのは貴方自身の劣等感が原因です。
自分は他人と比べて劣っていると思うから他人を攻撃して批判しないと自己を肯定することができないのです。
最終的に自己愛がゼロになり他人を傷つけないと生きていけなくなる。
見る角度を変えれば善人にも悪人にもなる
勝手な思い込みによって、根拠のない劣等感を育てる暇があるなら、自分のことだけにフォーカスし、自己鍛錬に集中した方が有意義だと思いませんか?
他人と比較する癖がなくなれば、他人を批判する癖もなくなり、自分を裁くこともなくなります。つまり、不安になることも、孤独を感じることも、自己否定することもなくなるのです。
人は皆 仲間です。全ての人を愛せる人間になりましょうよ。
私は、子供の時期に誰もが持つであろうその身体から溢れんばかりのエネルギーの多くを、自分の欲求を抑圧し我慢し諦めること、感情を封じること、自己を否定することに使ったと思います。当時の私には、それが唯一自己を守る術でした。しかし、それで失ったものはとても大きく、守れたものは、私が生きているという事ぐらいだと思います。私は今頃になって当時の私がいかに辛く、苦しかったかを思い図る事ができるようになりましたが、当時の私は声をあげて助けを乞うことや、自分の意思や要求を他人に伝える事がほとんどできませんでした。そもそも自分の感情に対するアンテナがかなり麻痺していて、自分が何を欲しているのか分からなかったと思います。そして今でもその影響は尾を引いています。やりたい事は何なのか。嫌な事は何なのか。それらが分からないまま、大学に入って、大学生活を送って、気づいたら自分の感情や欲求とは全く別方向に進んできてしまっている。確かに心の奥深くで沢山の感情が存在していましたが、それを私は蔑ろにしていました。これまでに膨大な死んでしまった感情がいたであろう事を思うと、やりきれない思いが込み上げてきます。虚しくて仕方がない。この頃は、生まれた感情の一つ一つを見逃さないように気をつけて、そしてすくい上げて、大事に向き合っていくように努めています。それでもやっぱり見逃してしまったり、手ですくった水のように、ポロポロとこぼれていってしまうものはあります。
また、生きている感覚が薄く、生きる事への執着心が薄いです。頻繁に自己破壊衝動や絶望感に襲われます。積み上げたものを一瞬で壊してしまう。なのでその延長で人間関係にも困難を感じています。今やっている努力を自分で水の泡にしてしまう。ああ、つらい。楽になりたい。一瞬で楽になれる方法はみなさんもお分かりの通りすぐそこにあるんです。ただ、でも、私なんかが楽になっちゃいけないと、自己否定感が私に訴えます。死ぬのは怖いし。お前はつらくても生きる事を努めなくてはいけないと。でも、そうやってそれを我慢した分、別の方向にそのフラストレーションを向かわせる。本当に抑圧する事はできない。溢れ出てしまうものがある。つまり生きながらにして、生きたくないという自分の欲求を満たす。それは自分を傷つける。努力を台無しにする。そして自己を憐れむ。
私が本当に自由に自分を肯定して体を動かせるようになったとき、全能感を得たとき、私は死ぬんじゃないか。その可能性を自分で否定できない。
まあ結局のところ、私はこうやって自分の不幸話に酔いしれているだけなんだ。そして誰かに哀れんで貰いたいだけなんだ。そう言いながらあわよくばシンデレラストーリーのような幸せが自分に訪れないかと淡い期待をもったりしている。そんな救いようのない無価値人間。そう言いながらやっぱり自分に何の価値もないということを受け入れたくなく、価値のある立派な人間だと思いたい・思われたいという物凄い欲求を持っていて、そう言いながら自分は価値という基準で他人を優劣の視点で見てしまっていて、生物は無条件に生きる価値があるというような教説や誰もが救われるというような話は到底信じられないという救いようのない汚れた心を持っている。
私みたいになってない人が憎たらしい。無邪気に人生を楽しもうとしてる奴らが、希望を持とうとしてるやつらが、生きることに意味を見出している奴らが、活き活きとして見えるアイツらが憎らしい。何故、私はこんな状態になっているのか。何故、悲しいはずなのに涙が出ないのか。何故、こんなになっている自分を受け入れてしまう自分がいるのか。ああ、これが末那識か。どこまでいっても自分が可愛くて仕方がないという無意識。これがあると見出した仏教者はすごいな。ほんとその通りじゃないかな。