はてなキーワード: 絶対無とは
これカタカナ表記にしたら完全にふざけてるようにしか見えんけど、あるんですよ、シモイマベップっつう苗字は
下今別府ですよ
シモの、イマの、別府だ
意味わかんねえよな
苗字ってまあそうだよな
しかし、すごいよ
アイヌ語みたいな響きだもんな
シモイマベップと申します、って言われたら、え?外国人?ってなるよな
なんかエキゾチックな響きだしな
すげえ苗字すぎる
というか、俺はつまんねえ苗字なんだけど、実際シモイマベップに生まれてたらどんな人生になってたんだろうか
タナカとスズキじゃたいして人生変わんないだろうけど、タナカとシモイマベップだったら絶対無視できない大きさの違いが生まれるよな
外国人研修生を安月給で使えないと売り上げが減って立ち行かなくなるって言ってるのとなにが違うの?他の要因でドーピングしないとその産業単体で成り立たなくなってるならもう既に詰んでるんだよ。
あと、閉鎖的な田舎とか、昭和のノリのパワハラセクハラ企業とかには
そこで今暮らしてる人たちの暮らしのためには必要なものだよねとか、ずっとそうやって生きてきた人たちが急に生き方変えられないよね、なんて絶対言わないじゃん。
結局自分たちは温泉街でいかがわしい産業に従事する当事者になることは絶対無いってこと前提に擁護してるだけだよね。いかがわしい温泉街も必要云々言ってる人が女だとして「お前も結婚に失敗したらあそこのストリップ劇場か、ピンクコンパニオンとして働くんだよ^^」
監視されてる時に政見放送見てると上司からの信憑に👺政治への関心が高い+2点でボーナスが入るらしいので政見放送ずっと垂れ流してる。
自作映画研究会の1年生が作ったようなクソ動画の乱射に精神が参りかけながらも漠然と感じたものを書くぜ
みたいな主張が得意技だぜ。
お前らのせいで色々アカンことになってるのにお前らに任せて大丈夫なのかよってツッコミが来る可能性を0コンマ0%考えていない。
圧倒的なまでのノーガードによって、「ガードする必要のあるような後ろめたさはありませんよ」アピールしてくるぜ。
こんな感じだぜ。
熱狂的な自民アンチって感じのコメントが多いがブーメランの本数はヤバイぜ。
その上で俺達だけが信用できるというアピールをかますのが凄いぜ。
勝ち馬に乗るのが当たり前になりすぎてそれが異常という感覚がもはやないぜ。
そもそも政教分離原則を破っていても大丈夫な人しか投票しないというかもはや信者しか投票しないから色々どうでもよくなってそうな感じだぜ。
言ってることは一見まともだけどコイツら自身がまともじゃないのがミソだぜ。
つうかコイツら実際に年齢見てくとマジで若い部類なんけどその若さでムーブが既に老人政治家のソレなのがマジで凄い。
昔と比べるとただただ頭悪い人がコピペで喋ってるだけって感じになってきてつまらん。
「とにかくめっちゃ金配るぜ!」
埋蔵金の話さえないけどとにかくどこからか金が出てくるらしいぜ。
多分。
「おらたちが~~~本物の政治家だっぺ~~」
「がんばっぺ~~~」
すまん。
いたはずなんだけど記憶にないわ。
曖昧だ曖昧だって批判する人いるけど、そもそも表現って曖昧なもんじゃないの。
漫画の編集とかに「う~んなんか違うんだよな」とか言ってボツにされても
めげずにまた試行錯誤するみたいなのを昔は美徳みたいに言ってたじゃん。
漫画の編集に作品描く前に何がOKでどうならボツになるか全部指定しろとか迫る奴いたらおかしいじゃん。
これだってデザイン案の時点での最低限の注意として出してるだけで、ラフ案いくつか出した中から行政が穏当な奴選ぶわけで
普通の企業や出版社がやってることとまるっきり同じだと思うよ。
そもそも曖昧だって言うけど、「露出が多かったり肉感的な描写は避けてください」とか書いてあったら
「じゃあ露出とは肌の何%まで出してたら露出なんだ」とか「肉感的とはスリーサイズ何cmまでなんだ」みたいな
「線引きできないなら制限すべきでない。境界線が分からない」って反論が来るんだろうけど、
君たち現実問題普通のキャラクターと萌えキャラの区別付いてるじゃん。
萌えキャラは髪の色がこうで声のトーンがこうで目の大きさは顔に対してこの比率……とか決まって無いけど
ちゃんと見分けられてるし、着衣してようがしてまいが「うーんこれはエッチ」とかちゃんとエロさも判別できてるじゃん。
自分たちが見分けられてるのにそれをすっとぼけて「普通のキャラと萌えキャラの区別が曖昧だ!」って言うのは逃げだと思うよ。
基準を細かく決めると今度は基準ギリギリまでどこまで露出できるかとか、一見基準ギリギリだけど見方によってはエロい(トラブるとかみたいに風景と合わせて見るとエロくなってる)みたいな悪ふざけのチキンレースする奴が出てくるだろうし、
そもそもわいせつ物自体の定義が曖昧だからなかなか線引き難しいんじゃ無いかな。
(※ここは前半と矛盾してるとコメントで指摘されたけど、「線引きが難しい」というより「行政で明確な文章化するのが難しい」の方が適切だったかも。訂正します)
というか曖昧と言うよりわざと幅を持たせてるんだろうし、細かい定義を求めると今より厳しくなることはあっても緩くなることは絶対無いから誰も得しないと思うんだが。
個人的には人間の手による曖昧さの方が表現の自由は保たれると思ってるけど、定義をハッキリしろって声が大きくなると最終的には日本も公共性高いところは全部(だいぶ厳しい)機械判定で判断されて締め出されるようになるのかもね。
漫画とか買う時に書店特典とかなければ極力そこで買ってあげてる街の本屋さんがある
少し前までは商業施設の中のテナントで入ってたから行きやすかったんけど、今はそこから撤退して昔からある駐車場の無い商店街の本店でしか営業していない
応援したい気持ちはあるけど行くのにめちゃくちゃハードルが上がってしまった
少し歩いたところに銀行とか郵便局があるから記帳だけして、そこに車とめたまま歩けばいいんだけど「めんどくさいな~~~」ってなってしまう
しかも商店街の本店はかなり小さくて本の種類自体がかなり少なくなっちゃったから私の欲しい漫画なんかは取り寄せしないと絶対無くて……ハードルが……ハードルが……
TSUTAYAなら駐車場付きだしほぼ間違いなく置いてあるし……みたいな気持ちになっちゃう
図書カードが腐るほど余ってるからネットショップじゃなくて実店舗で買い物したい
ならTSUTAYAとかのチェーン店で買わずに、せっかくなんだし街のお店で買ってお店を応援したい
でもハードルが高すぎる
駐車場が無いのは最悪少し歩けばいいから目を瞑れても、取り寄せの電話をしなくちゃいけないのが……
電話して、タイトルと作者名と出版社と巻数と発売日を伝えて、入荷するか聞いて、無ければ取り寄せできるか聞いて、入荷日を聞いて、電話を切る
しかも漫画のタイトルが声に出すには結構恥ずかしい系(オタク臭い感じ)でそれを伝えるのが恥ずかしい
別に私はオタクだからオタク臭い漫画買うのはそこまで恥ずかしくないけど、わざわざ取り寄せまでするのはやっぱ結構恥ずかしい
TSUTAYAだったら置いてある本をレジに持っていくだけで済むのに……しかもセルフレジ導入してるから店員に見られることすらなくなったのに……
でもこういう数百円の売り上げの積み重ねで街の本屋さんは生きているのかな……もしこの本屋さん無くなったら結構悲しいな……
って感じで悩んでいる
もうず~~~っとうじうじ悩んでる
優柔不断なので……
来年度に研究室配属が決まると猛烈に実験が増えるんだけど、困ったことがある。実験ではコンタクトがダメでメガネでの生活がデフォになるんだよね。で、今使ってるメガネが高1のときに買った古いやつで流石に買い替えたい。そう思ってメガネ探してるんだけどメガネ選びってムズい。インターネットに転がってるメガネ掛けてる画像、ほぼ度なしなんだよ。そりゃそうだよな度入ってると明らかに目ぇちっちゃくなるから見た目が良くないんだよ。形も難しくて、最近良く見かけるのは下向きの三角形が丸みを帯びてるようなやつなんだけと、あれクソダサいと思う。イメージとしてはナイツの土屋が掛けてるような黒くて長方形の少し縁があるやつがいいな。でも土屋のメガネ、どう見ても度なしなんだよな。どうにも世の中のメガネ似合うやつのレンズ、みんな度が付いてない。
困ったな〜と思っていろんなメガネ似合う人の画像探してたら一人見つけた。東京03の角田だ。角田はイケメンの部類では絶対無いけどメガネがドンピシャだと思う。もちろん度なしの時もあるけど度入りの写真も多くてあんまり印象が変わってない。縁がしっかりめにあるとレンズ越しの歪みが軽減されるのかな。
あのアホ客を「悪気はなかった、故意ではなかった」「防護策がないのが悪い、道の狭いのが悪い」「叩きすぎ」(全部実際のブコメであった)と言ってる連中って、
池袋暴走事故の飯塚被告にも「悪気はなかった、故意ではなかった」「誤操作を防ぐ装置がないのが悪い」「叩きすぎ」と同じように擁護しててのかね。
先日の2園児死亡事故でも「ガードレールがないのが悪い、道の狭さが悪い」「叩きすぎ」と擁護したのかね。
絶対してないよね。
アホ客が若い女だから同情心全開に発揮してるだけで、高齢じいさんやオッサンがやらかした上記2事故では同情して擁護なんてしてないよね。
「飲酒運転は故意だ」…そうだね、自転車の進路妨害してデカイ看板掲げたのも故意だね。トラック運転手も事故を起こす故意はなかったよ。
まして飯塚被告なんて「高齢である」だけが原因で、アホ女のように若く認知能力も十分にあったわけでない(=責任能力はより低い)のに、今回と比べ物にならないくらい叩かれてたよね。「自分がやらかしたときの想像して地獄だった」なんて想像力豊かなブコメがスター集めてトップブコメになったこと、あったっけ?
「人が死んだから重大だ」…そうだね、今回は運良く死者はいなかったけど、いてもおかしくない規模の事故だったね。死者の有無は運でしかないよね。運の良さ悪さを本人の責に帰すの?
結局、今回のアホ客が「若い女だから」同情されて他責にする責任転嫁ブコメがたくさんついて増田も人気集めるし、
池袋暴走や2園児死亡事故はじいさん、オッサンだから同情心など呼び起こさず叩かれるんだよね。
今回の事故を男女逆にして考えたらよくわかるよ。
「女性自転車競技でアホ男がレースも見ずに看板で進路妨害して大規模落車、何十人もの女性選手たちが腕の皮が裂けてて流血したり、肺破裂したり、骨折したりと重症を追い、今回のレースでリタイヤどころか選手生命まで絶たれてしまった。アホ男は手当も謝罪もせず現場から逃走。
そんな事故が起きたとき、「叩きすぎ」なんて増田やブコメが人気集めるなんて事が有るか。かけてもいいが絶対無いね。今回と違って女性選手への同情ブコメが殺到して、やらかしたアホ男は叩かれるばかりになるよ。(そういや今回は純粋な被害者である男性選手達への同情ブコメはほとんど無いね)
結局のとこ、女にばかり同情が集まるという性差別なんだよね。
韓国発のドキュメンタリー映画『狼をさがして』が間もなく日本で公開される。金美禮(キム・ミレ)監督の2020年の作品で、原題は『東アジア反日武装戦線』という。映画が描くのは、1974年から75年にかけての出来事――「東アジア反日武装戦線」(以後、「反日」と略す)を名乗る人びとが「連続企業爆破」を行ったこと――とその背景である。
描かれる時代は、アジア太平洋戦争で日本帝国が敗戦してから30年近く経った時期に当たる。活動を担ったのは、敗戦から3~5年経った頃に生を享けた、当時は20代半ばの若者たちだった。いわゆる「団塊の世代」に属する。その彼ら/かの女らは、敗戦以前に日本がなした植民地支配および侵略戦争の責任を問うた。同時に、戦後過程はすでに30年近い長さに及んでいるにもかかわらず、日本がその過去を清算することもないままに、改めて他民族に対する加害国と化している現実に警告を発した。手段として使ったのは爆弾だった。
その標的はまず、戦前は絶対無謬の存在として日本帝国を率い、戦後は「平和」の象徴となった昭和天皇に向けられた。だが、「お召列車」の爆破計画が実現できなくなった後は、戦前・戦後を貫いて繁栄する大企業に的を絞った。
戦後日本を象徴する言葉は、長いこと、「平和と民主主義」だった。それは新憲法を貫く精神でもあると多くの人びとが考えていた。
天皇の戦争責任が問われることも裁かれることもなく始まった戦後は、「一億総無責任体制」となった。この体制の下では、日清戦争以降、断続的にではあっても半世紀もの間(1894年→1945年)アジア太平洋地域で戦争を続けた近代日本の実像を覆い隠し、この戦争の全体像を、最後のわずか3年半の「日米戦争」に凝縮して象徴させることが可能だった。広島・長崎の「悲劇」を前面に押し出し、米軍占領下の沖縄は辺境ゆえに無視して、日本全体があたかも戦争の「被害国」であるかのようにふるまった。「反戦・平和勢力」の大勢も、そのことに疑いを持たなかった。
1960年の安保闘争の時にも、1965年の日韓条約反対闘争の時にも、戦前の日本帝国がなした対外政策と関連づけて現在を分析する言動はほとんど見当たらなかった。すなわち、日本社会は総体として、近代日本が持つ「植民地帝国」としての過去をすっぽり忘れ果てていたと言える。
1960年代後半、この社会・思想状況はゆっくりとではあっても変化し始める。日本は、高度経済成長の過程で目に見える形での貧困は消え失せ、急速に豊かになった。この経済成長の最初の基盤となったのは、1950~53年の朝鮮戦争による「特需景気」だとする捉え方が常識となりつつあった。
時代はあたかも米国のベトナム侵略戦争の渦中で、沖縄を軸に多数の米軍基地があり、インドシナ半島に輸送される米軍物資の調達地でもある日本は、再度の「特需景気」に沸いていた。近くに住むアジアの民衆が苦しんでいる戦争によって自分たちの国が総体として豊かになっていく――この際立った対照性が、とりわけ若い人びとの胸に突き刺さるようになった。
加えて、米国でのベトナム反戦運動は、黒人や先住民族(インディアン)の権利回復の動きと連動していた。植民地主義支配が人類史に残した禍根――それが世界じゅうで噴出する民族問題の原因だとする意識が、高まっていった。
「東アジア反日武装戦線」に所属した若い人びとは、それまでの歴史像と世界像が一新されゆくこのような時代のただ中にいた。彼ら/かの女らは、日本の近代史と現在が孕む問題群に、「民族・植民地問題」の観点から気づいたという意味では先駆的な人びとだった。
「重大な過ち」の根拠を探り続けた歩み
「反日」はこうして獲得した新たな認識を、すぐ実践に移そうとした。当時刊行された「反日」の冊子『腹腹時計』から鮮明に読み取れるのは、次の立場だ。「そこにある悪を撃て! 悪に加担している自らの加害性を撃て! やるかやらないか、それだけが問題だ」。政治性も展望も欠いた、自他に対する倫理的な突き付けが、行動の指針だった。「反日」が行った、1974年8月30日、東京・丸の内の三菱重工ビル爆破は、8名の死者と385名の重軽傷者を生み出す惨事となった。
「反日」にはひとを殺傷する意図はなかった。事前に電話をかけて、直ちに現場を離れるよう警告した。だがそれは間に合わなかった。しかも、なぜか「反日」は三菱爆破の結果を正当化し、死者は「無関係な一般市民」ではなく「植民地人民の血で肥え太る植民者だ」と断言した声明文を公表した。映画の前半部で、この声明文がナレーションで流れる。
多くの人びとはそこで「引く」だろう。半世紀前の当時もそうだった。それゆえに、彼ら/かの女らは、日本では「テロリスト」や「血も涙もない爆弾魔」の一言で片づけられてきた。
その責任の一端が、「反日」そのものの言動にあったことは否定し得ないだろう。だが、実はそこにどのような内面の思いが秘められていたのかということは、路傍の小石のように無視されてきた。そんな渦中にあって、獄中の彼ら/彼女らは初心を語ると同時に、自らが犯してしまった重大な過ちの根拠を探り続けた。獄外には、その試行錯誤を〈批判的に〉支え続ける多様な人びとの存在があった。映画『狼をさがして』は、これらの獄中・獄外の人びとの歩みを74分間の時間幅の中に刻みつけている。
画面には登場しない「主人公」のひとりは、「反日」狼部隊の大道寺将司である。彼は2017年5月、長らく患っていた多発性骨髄腫で獄死したが、死刑が確定してのち、彼はふとした契機で俳句に親しむようになった。生前4冊の句集にまとめられたその作品は、人間関係も自然とのふれあいも極端に狭められた3畳間ほどの独房にあっても、人間はどれほどの想像力をもって、ひとが生きる広大な世界を、時間的にも空間的にも謳うことができるものかを証していて、胸を打つ。それは、ひとを殺めたという「加害の記憶と悔悟」を謳う句において、とりわけ際立つ。
映画でも紹介される「危めたる吾が背に掛かる痛みかな」もそうだが、他にも「死者たちに如何にして詫ぶ赤とんぼ」「春雷に死者たちの声重なれり」「死は罪の償ひなるや金亀子」「ゆく秋の死者に請はれぬ許しかな」「いなびかりせんなき悔いのまた溢る」「加害せる吾花冷えのなかにあり」「秋風の立ち悔恨の溢れけり」などの秀句がある。
「反日」のメンバーの初心と、結果としての重大な過ちを冷静に振り返るこの映画を制作したのは、韓国の映画監督キム・ミレとその協力者たちである。ふとした機会に「反日」の思想と行動を知ったキム・ミレ監督がこの映画を制作したのは、「人間に対する愛情、その人間を信じること」からだったという(「『狼をさがして』――金美禮監督に訊く」、東アジア反日武装戦線に対する死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議=編『支援連ニュース』420号、2021年3月6日)。社会的正義のために、加害国=日本に搾取され殺された東アジア民衆の恨みと怒りを胸に行動した結果、数多くの人びとを死傷させてしまった、つまり自らが加害者になったという事実に向き合ってきた「反日」メンバーに対する思いを、かの女はそう語る。
だが、その裏面には、次の思いもある。彼らは「長い期間にわたって、自らのために犠牲になった人々の死に向き合って生きねばなりませんでした。苦痛だったかもしれませんが、幸いにも『加害事実』に向き合う時間を持つことができたのです。8名の死と負傷者たち。それがこの作品の制作過程の間じゅう私の背にのしかかってきました。しかし、彼らと出会うことができて本当に良かったと思います。この作品は、私に多くのことを質問するようにしてくれたからです。どう生きれば良いのか、今も考えています。」(キム・ミレ「プロダクション・ノ-ト」、『狼をさがして』劇場用パンフレット所収)。
74~75年当時の「東アジア反日武装戦線」のメンバーからすれば、韓国の人びととの共同作業は「見果てぬ夢」だった。日本の自分たちが戦後の「平和と民主主義」を謳歌している彼方で、韓国および北の共和国の人びとは、日本の植民地支配を一因とする南北分断と内戦、その後の独裁政権の下で呻吟していたからだ。
そんな時代が40年近く続いた後で、少なくとも韓国では大きな体制変革が起こった。表現と言論の自由を獲得した韓国の新世代のなかから、こんな映画をつくる人びとが現われた。キム・ミレ監督は、この映画が日韓関係の構図の中で見られたり語られたりすることを望まないと語る。過去を振り返ることをしない社会は、前へ進むことができない。日本も韓国も、どの国でも同じことだ、と(前出『支援連ニュース』および2021年3月18日付「東京新聞」)。
最後に、もうひとつ、肝心なことに触れたい。この映画を際立たせているのは、女性の存在だと思われる。
刑期を終えたふたりの女性が、生き生きとしたその素顔を見せながら、獄の外から窓辺に寄ってきた猫との交友を楽し気に回想したり、かつて自分たちの闘争に大きく欠けていたものを率直に語ったりする。前者の年老いて元気な母親は、娘が獄に囚われてから、娘と自分たちを気遣う若い友だちがたくさんできたと笑顔で語る。二人は自宅の庭を眺めながら、「アリラン」を歌ったりもする。
キム・ミレ監督らが撮影する現場に付き添う姿が随所に見える女性も、長年「反日」の救援活動を担ってきた。撮影すべき風景、会うべきひとについて、的確な助言がなされただろう。
死刑囚の獄中書簡集を読んで、あんな事件を引き起こしたひとが自分と変わらぬ、どこにでもいるふつうの青年だと知って、縁組をして義妹となったひとの語り口もごく自然だ。女たちの運動を経てきたと語るかの女の言葉を聞いていると、獄中の死刑囚である義兄とは、媚びへつらいのない、上下の関係でもない、水平的なものだったろうと想像できる。
そして、もちろん、韓国人のキム・ミレ監督も女性だ。弱い立場にある労働者の現実を描いてきたかの女は、男性の姿ばかりが目立ち、男性優位の価値観が貫いている韓国労働運動の在り方に疑問を持ち、スーパーで働く非正規の女性労働者が大量解雇に抗議してストライキでたたかう姿を『外泊』(2009年)で描いた。日本でも自主上映されたこの作品に脈打っていたフェミニズムの視線が、『狼をさがして』でも息づいていることを、観る私たちは感じ取るだろう。