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はてなキーワード: 登山とは

2017-07-28

p

危なかった。

私は"p"の次に"a"と打ち込もうとしていた。

そして"n"と打ってその後は"t"、"e"、"li"と続き、最後に"ー"を打つつもりだった。

無意識の内に、あの言葉が私を蝕んでいる。

増田は、そのステマ場所だったんだ。

そうだ。そうだぞ。昨日の仕事帰り、私は丸井に寄り登山靴を買った後、トランクスを買う筈だったのに、

気が付けば私がじっと見ていたのは

2017-07-13

https://anond.hatelabo.jp/20170713155951

横ですけど、都生まれ都育ちの都民なので、公共交通機関じゃその日のうちにたどり着けないようなところにあえて選んで旅行してる節がある。

飛行機レンタカーライド登山とか、新幹線レンタカーキャンプとか。

北海道方面阿蘇九州温泉めぐり東北温泉めぐり島原半島あたり、沖縄本島奄美大島石垣島京都日本海側~若狭福井までドライブ、パッと思い出しただけで国内こんぐらい。数は分からんよ。

サッカー見るのに車でドイツをぐるりとした。学生時代コッツウォルズに行った、オアフ島も車有った方が楽しい

でも電車とかで旅行するのも好きだよー

2017-07-03

海より山の方が偉い

国立大学には必ず登山部があり、登山雑誌は昔から財界の人から出資があるので廃刊にならない。

山で何人死のうが登山エリート趣味としてその地位を保ちつづけるだろう。

一方、海は...

2017-06-29

anond:20170619135108

家族での(本格的な)登山など決行するあたりでもこの父親ちょっと変わっている(悪い意味で)ことがわかる。

2017-06-24

虫嫌いを克服したい

虫が嫌いだ。苦手だ。

何を考えているかからない動き。

すぐ死ぬヤワさ。

でも私は登山キャンプが好きなのでいつも彼らがそばにいる。

いい加減慣れたい。

友人は虫好きなので、登山キャンプに行くと虫を観察して触ったり掴んだりする。

どんなに気持ち悪い虫でも。

ウデムシ?というかなりやばい見た目をした虫も平気で掴んでかっこいいといっていた。

羨ましい!!

虫を好きになればもうどこへだって行ける。

しかし30歳を過ぎた今から虫嫌いを克服出来るのだろうか……。

2017-06-19

父の日に、高校生の娘とカービィオーケストラを観た親父の内緒日記

 彼女小学生だった当時、サンタさんが届けてくれた「毛糸のカービィ」を期に、カービィ沼に填まり始めた娘も、この春から高校生になってしまった。表現が「なってしまった」と残念形である点は父親共通ではないだろうかと思う。

 一軒家で物置になってる部屋が3つほどある我が家なので、ちゃんと整理すれば子供部屋が作れるんだが、(ギャグではないが)今は居間彼女の部屋となっていて、ピンク色をした球体が増える一方である

 高校生にもなると父親と出歩きたがらなくなるという風評を耳にするので、いつ我が身に降り注ぐことになるか心配で仕方ないのだが、そんな娘にせがまれ大阪までカービィオーケストラを観に行くことになった。会場は別であるものの、そう遠くないところで「プププトレイン」という物販イベントも開催されていて早い時間から並びたいという。

 関ヶ原のあたりで車の調子が異常になるというアクシデントに見舞われつつも、米原駅前の打止め駐車場に車を捨て置き新快速で入阪を果たし、物販イベントの会場である毎日放送の社屋へ移動する。

 ところで米原に着く前、助手席の娘に電車時間検索を依頼したところ、「14000円もかかるんだって、どうしよう!」って困惑していて、聞けばマイバラがマエバラに聞こえたらしく、千葉前原を起点にしたせいというオチだったんだが、中部地方に住む身として交通の要所たる米原くらいは覚えなさい。

 開店(入店)まで90分くらい待つ羽目になったが、何とかお目当てのグッズが手に入って娘は御満悦の様子。それはそれでいいんだが、会場に多数潜伏しているらしいカービィクラスターフォロワーさんを見つけようと、手にしているタブレットからメンションを飛ばしているのは画面を見ていない私からでも分かり、それがまた不安で仕方ない。

 キリがないので「オーケストラに間に合わなくなるぞ」と引き剥がし地下鉄に潜る。本町が最寄駅なので、梅田から御堂筋線で2駅だ。

 工夫すれば近い出口まで地下で行けるみたいだが、後ろ寄りの車両に乗ってしまったことに加え土地勘もないため、自動的に出口④に排出される。ちょうど娘と同じくらいの女の子が一人で駅員に道を尋ねていたので、「おまえの同業じゃないのか」と耳打ちすると「ちょ黙って」と叱られた。娘からカービィの映ったスマホの画面が見えたらしいので、同業であることは確定なはずだが、見ず知らずの人に声をかけること(相手からみたら声を掛けられること)自体が「不審者」という認識らしい。

 とりあえず、その女の子が先行したので、距離を置いてついて行くわけだが、中央大通りを横断することな彼女左折してしまう。「おーい、そっちじゃないぞー」と大声を出そうとするも、またや娘に制止される。今どきの若者心理構造昭和世代には理解し難しい。

 開演の30分も前に着いたんだが、会場前の公園に入場待ちの列が既に何重にも出来ており、「開演まで30分も前」じゃなく「開演まで30分しかない」に変わり、付近ランチを取る作戦未遂に終わった。

 昭和世代お節介焼きとしては、さっきの女の子が気にかかるところだが、スマホがあるのだから徒歩ナビできるだろうし、道に迷いながらも辿り着くというのも後になれば良い思い出になろうと、自分を納得させる。

 一応は今回のコンサートに備えて過去ゲームを予習しておくべく、2週間ほど前からゲームボーイを手にして夜な夜な挑み、なんとか初代と2はコンプリートしておいた。2の最後デデデをどうしても倒せず娘に攻略法を聞くと私がコピー能力という機能を使っていなかったせいだったことが判明。つまりデデデよりも前のボスまでは全て吸って吐くだけで倒してきたということになる。

 オーケストラの内容については、語れるほどの知識を持ち合わせていないので割愛するが、幾度かコックリしそうになりかけたということは内緒である。たぶん気がつかれていまい。

 初めてお目にかかったカービィ父親たる桜井氏は私の同じ歳か一つ年上くらいの、ほぼ同年代の方で、初期のカービィプログラミング上の技(メモリー節約術)を講話して下さった。PC-8001mk2からパソコンに触れていた私にとっても、その話は非常に懐かしいものがあり頷きながら聞いていた。ゲームボーイは背景との重ね合わせ処理をハード側でやってくれていたようだが、それを手動で(マスク用のビットマップ用意した上で)やっていた世代からするとちょっと羨ましい。

 コロコロカービィだったっけか、カセットの中にモーションセンサーを内蔵した型破りゲームゲームボーイアドバンスで遊びにくいということで、娘に頼まれICの天地反転をやってあげたが、最近ゲーム筐体ではあーいう着眼が不可能になっている点、21世紀になって失った物の一つに数えられる気がしてならない。

 アンコールが終わりウルウル感動している娘の横顔を見ていると、それだけで幸せな気分になるものの、会場を出たら、先ほどの物販イベントと時と同じようにメンションを飛ばし始め、父親としてはなかなか辛い。女性フォロワーさんはともかく、男性フォロワーさんにまで「会いたい」は自制してほしいと父親としては強く要望したいが、中学4年生と言っていい田舎の天然系女子高生が納得する説教を垂れる自信もないので、眼球の隅で監視するに留める。

 昼夜2回公演の夜の部を待つ人が会場に吸い込まれから公園は落ち着きを取り戻し、先ほどまで長蛇の列だった撮影向けオーケストラ看板の周囲は片手で数えられる人しかいない。看板をバックに記念写真を口実に公園から踏みだし、乗じて地下鉄の駅に足を向かせることに成功した。

 さて、これからどうするか。娘としては難波心斎橋あたり徘徊したいみたいだが、強い希望はないようなので、父親が主導権を握る。ずばり、海遊館だ。結婚前に嫁と来たことがあるが、今度は娘を海遊館に誘う。

 大阪港駅から随分と(15分くらいだが)歩くのは予想外だったが、特徴ある外観は20年以上たった今でも鮮明に覚えていた。

 館内では、タブレットを使って水槽の中を撮る娘 を撮る父親、の構図であったが、傍から見て親子に見えたかどうかは興味深い。(年の離れた兄妹 もしくは カップル くらいに見られていたのだとしたら嬉しいところだが、さすがにそれは自惚れすぎか)

 エイサメに触れるコーナーでは、一瞬だけ小学生に戻った娘を見れた気がする。

 見て回るのに2~3時間かるという前評判とは裏腹に1時間ちょっとで退出。母親への土産を買うというので「あいつはジンベエザメが気に入ってる」と助言してやったが、これは感謝されてよいと思う。ただし支払いは私だ。

 まずは梅田に戻るわけだが、朝から食べ物を全く口にしていないことに気がつく。

 もし米原に置いた車が動かないとなったときに備えて、車が使えずとも終電まで家に着ける時間を逆算すると、あまりゆっくりしていられないのではあるが、駅ビルの中の「カフェ ラ・ポーズ」で少し小腹を満たす。なぜその店であるかの説明割愛するが、嫁とはファミレス定食屋ばかりで、いわゆる「カフェ」には行ったことない気がする。

 20時台の新快速は朝と違って凄い混んでいたが、長浜行きのその電車米原に近づくにつれて空席が目立つようになる。「駅に着いたら運転なんだからパパは寝てて。起こしてあげるから。」と最初は気丈だった娘だったが、草津差し掛かるよりも前にウトウト始め、ついにはオーケストラの続きを見始めてしまった。長浜まで行っちゃうと後がないのだが。

 「絵師は幼い頃に頭を強打している」みたいな都市伝説を耳にしたことがあるが、この娘も小1の時に家族での登山中に滑落した経験が幸いしてか、今は絵師の端くれをしているようだ。一ノ越から黒部平に向けてタンボ平を下山中、先頭でハシゴを登っていた娘があと数段のところで手を滑らせて崖側に転落したのだ。学生時代から山をやっていた私はとっさに死を覚悟し、気を失いそうなくらい動転したが、落石の音が止んだと同時に泣き声を発してくれたのだ。1ミリたりとも動くな、と声をかけて落ちていった場所に近づく。ちょうど2階建の屋根から落ちたくらいの高さだったが、付近鋭利ガレが窪地を埋め尽くしていて、重登山靴を履いてるからこそ何とか歩けるような状態。そんな中に半畳だけ、あきれかえるほど平らな岩があって、その平らな岩の上に娘が倒れていた。これまでに見たことのない巨大なタンコブを額に作っていたが、出血もないしタンコブが出来るのは大丈夫証拠でもある。平らな岩がなかったら、落ちた場所が50cmでもズレていたら、尖った岩々が確実に娘の頭蓋骨を叩き割っていたはず。

 黒部平ロープウェイの駅まで1時間ほど負ぶって下山大町病院CTで異常なしを確認。翌日は包帯を巻いたまま登校し、そのまま9年間無欠席を続け義務教育期間皆勤賞を得るに至ったが、あのとき奇跡が起きてなかったら、いまこうして電車に乗ってることもなかったのだと思いふけっているうちに長浜行きは米原駅に滑り込んだ。

 駅に置いた車は何とか動きひとまず安堵だが、また調子が悪くなるといけないので、深夜の名神トラック並のスピードで。そういえば、嫁と結婚する前は、やたら高速をゆっくり走っていたなぁ。いまなら2時間のところを当時は3時間かけて。

 

 15年の中で、今日ほどに幸せ父の日はなかったように思う。カービィありがとう。なぜか感謝したい。

2017-06-04

http://anond.hatelabo.jp/20170604000908

最初ヨガって書いた増田だけど、ヨガはただの例え。別にヨガじゃなくてアニメでもいいし数学でも登山でもいい。

乗り気じゃない人間相手価値観押し付けているという意味

2017-05-31

ベーシックインカム需要供給を全く理解してない議論

http://anond.hatelabo.jp/20170530233914

ベーシックインカムが導入されて、楽しく遊んでいる人がすごく増えたとしよう。それはすごくいいことで、社会全体の幸福が増えるならばそれに越したことはない。

しかし、君が楽しんでいるピアノも、登山グッズも、アニメも、誰かが汗水たらして作ってるわけだ。

彼らにもベーシックインカムが導入されたとしたら、どうだろう。ピアノ職人も、登山グッズメーカーも、アニメーターも働かなくてもいいなら働かないわ~、となるだろう。

そうするとどうなるか。ベーシックインカムによって大量に暇な人が出てきた結果、「僕も、私も、ピアノやりたい、登山したい、新しいアニメが見たい!」みたいとなるのは目に見えている。それなのに生産者がいなくなり、ピアノ不足、登山グッズ不足、アニメ不足、あらゆる生産活動が足りなくなり、需要供給を大幅に上回ることになる。

そうなると、物の値段は上がらざるをえない。ピアノ不足、登山グッズ不足、アニメ不足、その他あらゆる不足が社会を覆い尽くす。

そうすると再現のないインフレハイパーインフレがくる。こんなのはマクロ経済の基礎だが、この程度のことでも、説明されないとわからない人が大量にいるのが理解できない。

2017-05-30

メイドインアビス4巻までを読んでの感想

つくしあきひと氏の絵を初めて見たのは15、6年前のことである


当時から彼は特異な才能を持ったイラストレーターの一人として知られていた。当時は彼を含む様々なイラストレーター達が、個性的イラストホームページ上にアップロードしており、言わばその時期というのはネット上で活躍するイラストレーターの方々にとっての『黎明期』であったのではないかと今にして思われる。

まりは僕自身もそんな黎明期――『夜明け』の目撃者の一人であったということだ、何てことが言えるのかも知れない。


まあ、『ワシが育てた』とかそういうことを言いたいわけじゃないけれど。


とにかく当時は、センスに溢れるイラストレーターさん達が、その実力をアンダーグラウンド世界において遺憾なく発揮していたということである。あるいは彼らは一種の探窟者であったと言うことができるかもしれない。今となっては(つくしあきひと氏を含む)その一部だけしか生き残っていないという辺りも、あるいは彼らと強靭な探窟者達との共通点と言えるのかも知れない。


さて。

というわけで第四巻を先程読み終わった。素晴らしい巻であった。

深淵を辿って降りていく人の中の、もっとも先を行くもの、白笛の『黎明郷』のエピソードが続いている。


度し難い、とは正にこのことだろう。黎明郷の生命力秘密というのが何なのかについては敢えて口にしないが、その身体に相当な業(ごう)やらメカニズムやらが秘められているという事だけは間違いあるまい。

彼らのような人間現実にはそう存在しない。まあ一部の創作家とか、何らかの事柄に関する探求者といった人々は、ひょっとしたら白笛達のような度し難い探求者としての一面を持っているのかもしれないが、幸いながら僕はそういう人物との関わりを現実世界で持ったことが無い。大抵そういう人々というのは生活をする中で周囲の人間尊厳を食い潰していってしまものらしく、彼らの英雄譚を他人事として安全距離で聞いている内はむしろ幸せであるものの、まあ隣り合わせで生活していくとなってはこれは到底耐え難い事柄と言えるのだろう。パトロンや近親者を精神の淵にまで追いやった何人かの著作家のことを、僕としては数人思い出してみる次第である


ところで、彼ら『降りる者』の対比として容易に思いつく存在としては、『昇る者』――つまり登山家存在があると思う。作中において『黎明郷』の功績の一つに「新たなルート開拓」などが挙げられていたが、これは恐らく現実存在する登山家家業を匂わせるような表現だったのではないだろうか。


思うに、『探窟家』の存在が度し難いとするならば、『登山家』の存在もまた相当程度には度し難いと言えるのかも知れない。

例えば、世界中の八千メートル峰の全てを無酸素で登頂した伝説的な登山家ラインホルト・メスナー」は、登山中に弟を亡くし、自分自身も数本の指を喪った。挙句、そんな地獄登山から帰還した後で、実弟の死を巡ってメディアパッシングを受けている。

付け加えて言えば、登山家という職業は命を喪うに易い職業でもある。

エベレスト登頂ルートの途上には、幾つもの死体が未だ腐ることも許されず凍じ籠められている。


先日、伝説的な登山家の一人であるスイス出身のウーリー・シュテック文字通り伝説となってしまった。伝説登山もまた、探窟と同じくして度し難い……まっこと度し難いスポーツの内の一つなのだ、実際のところ。


さて、この作品はたくさんのインスピレーションを読者に与えてくれる。

何らかの深淵を追い求める中で、人は人間としての尊厳いかに保っていられるのか、あるいは、いかに失ってしまうのか。

そして、各々の探窟行の果てには何が待つのか。

『成れの果て』となってしまったたくさんの人々は、一体何を語るのか――


そういう意味でもこの作品は優れている。まるで膨大な歴史を辿り、旅をしているような感覚を味あわせてくれる――。弐瓶勉氏の『BLAME』を読んだ時の感覚と似たものがあるかもしれないが、あの作品とこの作品はまた別物である。こちらにはこちらのユニークさがあって、それが読者の好奇心を掴んで離さないのだ。


これからも彼らの数奇で危険に満ちた探窟行に期待したい。

2017-05-29

Googleしょうもないサイトデフォルト除外としたい

最近登山に興味を持ったので、ネットで調べてみた。

登山 初心者

という検索ワードで調べると分かるのだが、

https://www.google.co.jp/search?q=%E7%99%BB%E5%B1%B1+%E5%88%9D%E5%BF%83%E8%80%85&rlz=1CDGOYI_enJP663JP663&oq=%E7%99%BB%E5%B1%B1+%E5%88%9D%E5%BF%83&aqs=chrome.1.69i57j0j5j0.5771j0j4&hl=ja&sourceid=chrome-mobile&ie=UTF-8

ほとんどがdena的な工業サイトのみ。

オルタナティブロックではないが、ちょっとこのブリトニースピアーズとかマライアキャリーボンジョビオアシスといった産業ポップや産業ロック流行っていた80〜90年代彷彿させるのをどうにかしたい。

私としてはニルバーナピクシーズ少年ナイフが聞きたいのである

要は本物がほしい。

偽物やまがい物に時間を取られたくない。

たくさんのセミプロライターが仕方なく日銭を稼ぐために作った、法律対策が施されたコンテンツより、サイト管理人が熱い思いで作ったサイトを読みたい。(日銭を稼ぐのはいいが、私はそういうサイト特に読みたいとは思わない。仕方なく作るくらいなら、本人の熱い思いサイトを作ればいいのにと思ってる。)

読んだ結果あまり身にならなくても良い。

dena的なサイトを読んで後悔するより7の70倍ましである

そこでだ、

提案がある。

こういうサイト駆逐されるのを待つのは、それまでの多くの時間を失う。

ここは素直にGoogleの設定で、不要サイトを除外としておこうではないか

http://yamahack.com/

https://retrip.jp/

こういうサイトブラックリストとして、検索除外したいのだが、どうすればできるのか教えてほしい。

また、もうやってる人がいたら、リストを公開してくださらいか

はてなidブラックリストとかくだらないものより100倍役に立つこと請け合いである

みんなでこういう産業サイトフィルターを作ることこそ、インターネット集合知という懐かしい、しか本質的ビジョンの実現であるのではないだろうか。

ちなみにギガジン音楽で言えばグリーンデイ)はセーフ。

はてなブックマークも、くるりとかと同レベルなのでセーフ。

ただ任天堂ステルスマーケティング状態になってるのはいただけない。

くるりビーズタイアップするのは違和感がある。

いや違う、X JAPANの顔をGLAYが立ててるのと同じ嫌悪感があるというのが正しいかも知れない。

自社の顧客を優先したいのは分かるが、純粋な読者を巻き込まないでほしい。

はてな運営の人たちさんに告ぐ。

2017-05-28

妙に山に行きたくなる

休日になると、妙に山に行きたくなる。

といっても登山をするわけではない。

普通に車で通れる峠道をひたすら走り、ちょっとした駐車場に停めては、景色ぼんやりと眺める。

それの繰り返し。

いつからか、毎週のように、近場のいろんな場所へ行くようになった。

俺は何がしたいんだろう。

登山系ジジババへもの申す

山登る元気あんならさ、行き帰りの電車で席譲りせがむの辞めてくんない?立ってろや。

こちとら週末出勤で、これから意思に反して体力消耗しに行くっつうのに。

おまえら好きで疲れにいくんだろ?

立てや。

あげくの果てに帰りの電車で酒飲みながらぎゃあぎゃあ騒ぎやがって。

2017-05-24

高尾山トレラン=マリオカート

トレラン自体には興味がないわけではないが、

高尾山集団で走る方々のみっともなさから手を出せない。

彼らは気づいていないのだろうか。マリオカート並みに顰蹙をかっていることを。

1. マナー無視

 登りを無視し「すみませーん」などと声を掛けながら無理やり下ってくる。

 タイムを気にしているのでしょうか。

 混雑している6号路とか稲荷山を下るのは、表参道とか歌舞伎町集団で駆け抜ける珍走団並みに顰蹙かってますよ。

 タイム目的であれば、深夜の高尾山もしくは奥多摩ハセツネコースでやっていただきたい。誰もいませんから

2. 鈴と声がうるさい

 高尾山で熊よけの鈴はいりませんから一般的登山客にも言えますが。

 トレラン特有なのが、「下り〜」とか「登山客いますー」的な良くわからない掛け声。

 熊よけはマジで不要だし、単純にうるさい。

 自転車ハンドサイン的なものはないのでしょうか。

 鈴鳴らして声を枯らしたいなら、奥多摩マイナーコースなどを駆け抜けていただきたい。

3. なぜ集団

 山を駆け抜ける喜びについては強く共感できるが、なぜ集団なのかが理解できない。

 大人部活動的な「頑張ったね!」の共有が目的なのでしょうか。

 しかも、ポイントごとに休憩しているので、1日に何度も抜かされるのが鬱陶しい。

 二度と会わずに済むように、ひたすら駆け抜けていただきたい。

※本投稿は、ソロの方に向けたものではありません。

 高尾山奥多摩出会ソロランナー達はみなさんマナーがあることは承知しています

 あくまでも、団体ハイキング客の多いコースを駆け抜ける団体トレランに向けたものです。

 トレランって自己との戦いと個人的には思っているので、客観的に見たトレラン集団のみっともなさに

 気づいていただくことを目的としています

 

 

 

2017-05-19

円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれ出自壬生氏。

目次 [非表示]

1 円仁人物

2 遣唐使の渡海の困難

3 天台山を目指すが…

4 在唐新羅社会の助け

5 五台山巡礼

6 長安への求法

7 帰国の旅の苦難

8 関連文献

9 脚注

10 関連項目

11 外部リンク

円仁人物像[編集]

794年延暦13年)下野国都賀壬生町現在壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主から儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄理解者であって、多くの弟子最澄師事させている。

※生誕地については

美加保ノ関(藤岡町三鴨の都賀字館)

手洗窪(岩舟町下津原

壬生寺壬生町

などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。

また、美加保乃関は万葉集歌人によって和歌も詠まれており

下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ

あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと

石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に 今日やとまら

下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん

この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。

安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇延暦13年、廣智菩薩大慈寺住職とき南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市史跡指定されている。

15歳のとき、唐より最澄帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい最澄師事する。奈良仏教の反撃と真言密教興隆という二重の障壁の中で天台宗確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。

814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。

性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。

遣唐使の渡海の困難[編集]

836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

上陸である唐の開成4年7月2日日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

天台山を目指すが…[編集]

最後遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝勅許必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分新羅僧だ」と主張しているが新羅言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。

在唐新羅社会の助け[編集]

当時、中国山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅社会の助けを借りて唐残留成功不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝設立の赤山法華院で聖林という新羅から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日4月28日の58日間)。

五台山巡礼[編集]

840年、五台山巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山客死した霊仙三蔵)。法華経密教整合性に関する未解決問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。

長安への求法[編集]

当時世界最大の都市にして最先端文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅長安絵師・王恵に代価6千文で描かせる。

台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。

しばらくして、唐朝帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。

帰国の旅の苦難[編集]

当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安悪化不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁長安暮らしを支えた長安在留新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。

この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。

円仁が無事生きている」という情報日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。

この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワー研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。

目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺松島瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草浅草寺もそのひとつ岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。

後に円仁派は山門派と称された。(円珍派は寺門派、両者は長期にわたり対立関係になった)。

2017-05-13

モバマスSSみてたら、アイドルが他キャラに「師匠と呼ばせてください!」

って言われてる場面があった。

……。師匠って登山師匠かなあとしか思えん、モバマスでは。

よって、その言われたアイドルがまるで登山家のような印象を抱いたまま、

そのSSを読んでいたのであった。

2017-05-06

http://anond.hatelabo.jp/20170506102721

とりあえず風雪のビバークとか読んでから言おうな。

昔は登山自殺行為だったぞ

冷静に見てみれば登山趣味なんざ悪趣味環境破壊の最たるもん

冷静に見てみれば登山趣味なんざ悪趣味環境破壊の最たるもんだからな。

自動車の為の道路で何千本以上もの木々植物を切断、破壊し、自動車環境破壊排ガス騒音撒き散らして、これまでたくさんの木々植物自然生物たちを殺して整備した駐車場に停めて、

登山道という名の環境破壊で作った道で自然鑑賞オナニーする。自動車趣味登山趣味は同じぐらい悪趣味と言える。

2017-04-21

趣味な人って道具どうやって収納してる?

趣味が多い。ぱっと思い浮かぶだけで、

ロードバイク

登山

ジョギング

パソコン

オーディオ

ピアノ

・酒

カメラデジタルフィルムどちらも)

料理

DIY

これだけある。うーん、我ながら多い。まあ言うほど多くはないし、熱中具合は分散されているのでどれも大してうまいわけではないが、数が多い。

そしてどの趣味も多くの道具を必要とする。

例えばロードバイク自分で整備・改造をしようと思って工具やパーツをいろいろ買っていたらいつのまにかメチャクチャ増えた。グリスやオイルとか、外したけどまだ使えるパーツとか、特殊な工具がどんどん増えていく。タチが悪いのが特殊な工具。「後ろのホイールから歯車を外すためだけの工具」「スポーク張力を調節するためだけの工具」みたいなわけわからない工具がどんどん増えていく。2年に1回くらいしか使わないけど、2年に1回使うから捨てられない。言っておくがまだまだ増える予定だ。

カメラだって、交換レンズ5本、デジタル一眼レフ2台、コンパクトデジカメ2台、フィルムカメラ4台くらい持っている。この量というのは、写真趣味の人からすると別に大して多いわけではない。しかし多趣味なので、これが趣味の数だけ、つまり×10くらいあるわけだ。そして趣味も道具もまだまだ増える予定だ。

最近、うちに来る友達や親に「おまえんちは物が多い」と言われる。確かに。物が多い気がする。狭いワンルームにこれだけの趣味の道具を詰め込めば当然そうなる。我ながらゴチャゴチャした部屋だ。

これは多趣味な人に共通の悩みだろうけど、多趣味で部屋もきれいな人はどうしているんだろう。不思議しょうがない。四次元ポケットでも持っているんだろうか。掃除はしているので不潔な部屋だとは思わないが、ここまでゴチャゴチャしていると将来結婚したときに嫁に物を捨てられそうだ。皆どうしているんだろうか。

2017-04-07

http://anond.hatelabo.jp/20170407132837

テレビ小説も、野球登山ゴルフも全部当たり障りのない趣味だと思います

当たり障りのある趣味というのは、倫理道徳・衛生・人間性と言った観点から万人によく思われるとは限らない趣味のことでしょう。

公の場では当たり障りのない趣味を言えっていうけどさ

最近若い子はテレビ見ない人多いし、大賞の小説が売れてるとは限らないし、野球より登山ゴルフする人周りに増えてきたし、やっぱり自分の一番の趣味を言っていくしかないんじゃないですかね。

2017-04-04

登山歴の浅い毛塚優甫教諭

http://anond.hatelabo.jp/20170401185157

https://mainichi.jp/articles/20170403/k00/00m/040/118000c

雪崩に直撃された先頭の1班は、大田原高などの教諭2人と1、2年生それぞれ6人の計14人で、うち2年3人と1年4人、登山歴の浅い毛塚優甫教諭(29)の計8人が死亡。

高体連登山専門部委員長大田原高山岳部顧問の猪瀬修一教諭(50)は、事故後の会見で「絶対安全だと思った」としている。

絶対安全なので、表層雪崩予測する「弱層テスト」を行う必要は無いと判断し、

絶対安全なので、雪崩や巻き込まれた際の対処法の説明必要ないと判断したのかね。。

2017-04-02

死ぬ覚悟をして山に入るな。生と死の分岐点を読め。

http://anond.hatelabo.jp/20170330230830

私は大学部活から登山を始めた。

1年目の夏山合宿の後、冬山のシーズンが始まる前に先輩から必ず読むように言われた本の一つに、「生と死の分岐点」という本があった。

この本は、アルパインクライミングの事例が多いが、山と死について考える大きなきっかけとなった。

筆者はドイツ山岳会の安全委員会委員長を務めるクライマーであり、登山者が転倒、滑落、ロープワークのミス落石雪崩、雷、天候の急変などで事故にあった事例を分析している。

死亡した、生還した人は、事故の直前に何を行ったのかを、事故の状況を図や写真、時には遺体写真も交えて紹介している。

雪崩のケースについても、「生と死の分岐点」(続編の方であったかもしれない)の中で、雪崩に巻き込まれた中、死亡した人と生還した人の違いは、ヤッケのフードをかぶっていたのかや、ザックの背負い方が違ったなど、直前の彼らの行動の些細な違いを分析し、どのように行動すべきかを分析している。

この本には、どんな小さな岩場やちょっとした雪渓であっても死ぬ時は死ぬ、と書かれており、山に行くことが非常に怖くなった。

これらの知識もなく山に行っていたことが怖くなり、ロープワーク、クライミング、山岳気象、読図などを必死勉強するようになった。

山岳部に入る前、私にとって山は町を隔てるものであって、そこに登ることを楽しむ人たちがいるとは想像すらしなかった。

登山をしたことがない人にとって、なぜそんな危険なのに山に入るのか理解することは難しいだろう。

なぜ山に入るのか。これは各登山者それぞれに違った魅力を感じているため、一般的には説明できないのだろう。

山に入る人には、死ぬ覚悟をして山に入ってほしくない。死ぬ気で頑張るような愚かなことはやめてもらいたい。

死を恐れるべきだし、山を恐れるべきだ。

同じ山に同じ時期に入ったとしても、些細なことで死ぬ確率は急激に下げることができる。

十分に準備をして、それでもビビりながら山に行ってほしい。山に敗退はない。撤退生還すれば成功である

2017-04-01

http://anond.hatelabo.jp/20170401193507

成る程ねえ、なんで登山部ってどこの地方高校にもチョコチョコあるのかなって不思議だったんだよな

登山が盛んでないところほど出場校数が少ないので、全国大会に行けてしま確率が高い

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