はてなキーワード: 棺桶とは
Twitterをいじっていると
女性になりたい、同じように扱われたいなら、同じトイレや風呂を利用するのではなくまず体を同じにしましょう。
妊娠させる可能性がある人が、パンツを下ろす場に居るのは恐怖でしかない。
という意見が目に入った。
なるほどなー、と思う一方、こいつ極論で語り過ぎじゃない?と思う自分もいた。
トイレを利用するトランスジェンダーの奴が自分に襲い掛かってきて妊娠する確率ってどんなもんなの?
仮に一日五回自宅以外でトイレを利用するとして、何年かかればその機会が出てくるの?
いや、機会は少ないよ?けど可能性としてあるじゃん?とか言われると、じゃあ車にひかれる確率や通り魔に襲われる確率あるから外に出れないよね!!って話になる。
俺は普通の男だし男が好きなわけでもないし、トランスジェンダーの気持ちも女の気持ちも分からんが双方譲り合うとかそういうことって出来ないの?
新幹線のトイレが男性専用、身体障碍者用、男女共用で女性専用が無い!!女性差別だ!!と喚くフェミニスト。
同性婚を認めろ!!人権侵害だ!!って言ってデモするトランスジェンダー。
こいつら自分の意見が通るまで何かしらの行動を起こして迷惑かけるだろ。
新幹線のトイレは現状で不都合が出たら鉄道会社が変更するだろうし、トランスジェンダーは事実婚だってあるだろ、何騒いでんの?
俺が知らんだけで騒いだら何か金とかもらえんの?
ここまで俺の言いたいことを書きなぐってきたがここからが本題。
こうやって俺が騒ぐ理由は恐らく、世の中が便利になり過ぎたから、だと思う。
知りたい情報はもちろん、知りたくない情報まで目に入ってしまう世の中になってしまった。
うわ、私の年収低すぎ・・・?と感じ同世代の平均年収を調べたりしたことがある奴も多いだろう。
その結果、落ち込んだ奴や安心した奴、得た情報から転職して失敗した奴も成功した奴もいるだろう。
二十年前では考えられないような進歩だ、俺が棺桶に入る時はどんな進歩をしているのだろうか。
便利すぎる世の中は逆に不便だったりするのだが得た情報や知識、それに振り回されないように取捨選択するように生きていきたい。
好きな酒のつまみってなに?
多分元増田より少し下の21世紀初頭社会デビュー世代なんだけど(もっと辛い氷河期、とか言い出すと角が立つからやめよう。)
この世代の人の就活のハガキが届いた企業で、合否を分けるバイトを大学の部活の先輩がやってた。
大学名と学部で指定が出ていて、それ以外はゴミ箱に入れるらしい。
東大・早慶と指定の国立、Marchや関関同立の一部で学部は理系はOK、文系は文学部や芸術学部いくつかはNG。性別では分けてなかった。
ハガキに名前と住所と学部大学と資料請求の言葉が書いてあって、対象なら合格の箱に。
観光学部の人がすごい小さな字で熱意原稿用紙5枚分くらいある内容をハガキに書いて送ってきたらしい。が、対象外なので苦しいながらもゴミ箱側に入れたと言っていた。
高校時点で、自分の頃には就活がもうダメかもしれない、と言われていたので、どっちにも行けるようにしていたが理転して工学部行った。東工大は落ちた。
最初は楽しかったものの、途中から好きな勉強じゃなかった。本当に辛かった。固体の上を電子がどう動こうと知らん。なぜもっと得意な化学か楽しそうなバイオにしなかったのか。後悔した。途中で辞めてフリーターになろうとして親と殴り合いの喧嘩した。一留。
アルバイトは家庭教師と、短期バイトの事務所に登録して20種類くらいやった。そんなに稼ぎは良くなかった。
就活、いくつ受けたが覚えてない。リクナビとマイナビを駆使して、予定表をYahoo!カレンダーにいれて、ドコモのP158のアドレスに届くように設定して手帳に書き込んで管理してた。
自己PR欄でキャッチーな言葉と文章を書けば目に止まるのは当時日記猿人でも読者がついてたことからわかってた。(ついでに何人かの友達のも書いた)
大手はダメだったが、大手子会社や聞いたこともない会社には刺さったらしい。
面接に呼ばれて、SPIは何も予習してなかったが高得点をマークしてたらしい。(面接で言われた)
二つくらい内定出た。
会社入れた。同期は早稲田、慶應、上智、MARCH、首都圏の国立大学、慶應行ってる弟が出身校リストを見てお前だけ一人おかしくないか?と笑ってた。確かにこの並びならなぜ入れたのかわからない。高校の同級生が撃沈しているのを見て、就職するには好きを学びに行っては行けないと思った。自分の5年も大概無駄だったとは思うが。
入った会社はしばらく採用はなかったが、合併で経営母体の大手から別の大手に変わり新卒枠ができたらしい。
会社のすぐ上はいなくてその上は専門学校卒。少し上に院卒。そのバブル世代が、ハガキなんか出さなくても勝手に入社案内が来たと笑ってた。
仕事は入社前に聞いてた話と職務内容も違い、勤務地も23区勤務と聞いたのに関東の僻地に飛ばされ、頗るつまらなかった。
昭和時代にできたものの保守。効率の悪いオペレーション。倫理観や躾の悪い敬うに値しないおっさんたち。残業は平均70時間。うんざりした。
何の役にも立たないグループ会社の健康保険医の面談。うんざりした。
地獄だった。
知っているか。睡眠不足が続いてくるとだんだん味が濃いものが欲しくなる、変な動悸がする。生理の血液が7日過ぎても10日過ぎても止まらなくなる。
一度目が覚めたら腕も足も切り落とされて月を見上げている夢も見た。やたら綺麗な月だった。
まだ20代だったけど、大規模地震かSARSか、ただただ苦しくて、天変地異が起きるか隕石直撃で殺して欲しいと思ってた。
ああ、正直に書くけど27過ぎたあたりから、グループ会社の結婚サークルに入らないのかと言われた。女性の会員が少ないから入れと。
つまるところ自社グループはおっさんが多いから、あてがう女が必要で女性社員を多く入れてたんだなと。ちょーメイクセンス。
だから同期だけ女、しかも見た目が読モみたいな女が多いのな。あてがうためか。ずっと男社会にいたから衝撃的だった。
当時付き合っている彼氏はいた(非正規社員)のもあるが、給料は少ないが、自分の事が自分でオーガナイズ出来るし会話も成り立つ。
この会社の自分のいるレイヤーのおっさん達は自炊も自分の服の身だしなみの管理も仕事の工程も機器の発注も何も管理できず英語も話せず
キャバクラパチンコがメインでしかできない癖に人の外見にはケチをつけるし会話が成り立たない知性を感じないクズどもだった。
こんな奴らと私生活まで一緒とか殺す気か。
同期は鬱で会社を辞めた。
先輩は職場で倒れた。救急車が来た。そのうち救急車が来ることにも慣れた。他にも倒れる人がいたからだ。
俺らより更に働かされてた隣の部署のチームリーダーがある朝起きたら冷たくなってた。葬式に会社の人はこないでくれというのが遺族からの伝言だった。
リーマンショックの後、大規模リストラがあって、職場でワイヤーで首吊りが発生した。
そりゃそうだろ。ずっと会社以外のことを考えられないような生活を強いられて、全てを犠牲にして、給与も据え置きで
(親会社から合併して降りてきた人たちへの調整金という名目で額面より1万円毎月勝手に俺らの給与から引き抜かれてたが逆らえる人などいなかった)
ずっと発狂しそうな寸前を首を抑えられながらスキルにもなりもしない仕事をメンタルヘルスがボロボロになりながら働かされてた。
俺たちはまだ別に移る余裕があったけど、もう転職するにも40手前で厳しい年齢の人だった。当時は。
心じゃなくて寿命が折れることもあるだろう。
そこまでしたのにニュースはすぐにかき消された。
同級生も野郎ばっかりだったが似たようなこき使われ方だった。自分の周りはもうほとんど連絡元っていないけど、誰も新卒の会社でそのまま働いている人がいない。
氷河期の頃の20代、フリーターや非正規の友人がスーパーが開いている時間に家に帰り、必要なものを店で吟味して買うことができ(当時は通販事情が違う)趣味に時間を持てて楽しそうだった。
週末も有給休暇も体調不良で消費していた自分の選択が間違ったように感じた。そこまで自分を切り売ったのに手取りは同世代のの中でも大してよくなかった。
職歴は持てたかもしれないが、あんな思いまでしないと得られないものでは本来ないはずだ。
この会社を辞めた後、午後5時の新宿駅で家路に向かう人の背中を見て、20時より前に帰る自由がある人がいる同じ時間軸でサビ残盛って奴隷のように無駄に働かされれ、20代を棒に降った生き方を強制されたことの怒りに気づいて叫び出しそうだった。
その後も、途中無職になったり、死にかけたり、入った会社の倒産や合併やリストラや色々煽りを喰らい転職を重ね
今は誰も知らないような外資に入って、つつましい仕事やってる。専門は専攻と全然関係ない情報系機器。肩書はengineerだがコンサルに近い。給与も高くはないが悪くない。やっと今人として必要なものを全部払って息が出来る状態。
月間残業時間もしなくてもいいくらいだが10時間くらいやっている。金があると少しいいものが買える。嬉しい。
会社でのキャリアは上げようとは思わないけどレイオフの対象にならない程度には維持しつつ、同僚も多国籍で物知りで礼儀正しい。差別発言とか出るはずもなく、すごく呼吸がしやすい。
ここまでに生じた持病の通院の時間もちゃんと平日内に調整できる。本当素晴らしい。
いつまでこの状態でいられるか分からないけど、やっと生きている実感がある。
もう年齢的にはここから伴侶を見つけようとか思えなかった。けど、同い年でやはり時代に殴られまくったズボラ料理が上手な人と一緒にいられいている。
この歳になると結婚にメリットも大してないから特に法的な手続きは考えていないけれど、向かい合う人がいるだけでどれだけ救いになっているか分からない。
そして今オフの時間は通信制の大学に入学して、何年かかるかわからないけどやりたかった経済学の勉強をやってる。
他の学部の法律関係授業とったりしている。そのうち余裕があれば心理学も勉強したい。
この後の望みは健康。20代の何も結実しない無理は確実に体を蝕んで、色々できないことが増えた。
とはいえまだ検診の数値はいいけど、ほんとこれ。死守していきたい。
ーー
就職できたからと言って労基法が全然今と違ったので地獄でしたという話。
事件のあたりは探せば出てくるよ。嘘松だと思いたいだろうけど。
本社の屋上は飛び越えられないように数メートルの柵があるって話だったよ。
就活の時、コネがあるから言えと親に言われていたが、それが嫌で絶対就活で得た仕事に就こうと思ってた。
それがこんな酷いところ。しかも上の人はコネで入った奴らだった。
最初の会社を抜けれてやっと眠れるようになったのに、何度も職場に連れ戻される夢を見て叫びながら起きた。
あんなに苦労して入った会社だったのに、PTSDがあるんだと思う。
36協定派当時からあったけど徹底が促されるのはその後のこと。
就職前に聞いた話と給与面・職務面・勤務地などが異なったら会社を訴える権利が出てきたのもその後のこと。
転職が少しずつし易いものになったも、ベンチャーが増えてきたのもの氷河期の後だったように感じた。
少なくとも第二新卒のときは転職先もなく第二新卒転職フェアに行っても主業で売るものがパッとしなくて、転職しても別の地獄があるようにしか見えなかった。
仕事していて嫌なことがや理不尽を感じたら、地域のハロワと同じところか近所にある労働基準監督署には相談できる人がいるから困ったらすぐに行くんだぞ。
近所すぎて噂になったらどうしようと思ったら、少し越境しても資格は一緒だから大丈夫。一人で悩まず相談しよう。お姉さんおばさんとの約束だ。
あのさ、お前らの先輩で2年目とか5年目なのにすげーバリバリで働いてるのがいるじゃん。
俺が同じぐらいのときにやってた仕事なんてあの半分ぐらいだったんじゃねという気さえする。
あのさ、お前らはアレを期待されてるんだよ。
というかさ、組織がもう既に人繰りで破綻仕掛けてるから、お前らはアレになれなかったら「死にますか?辞めますか?強くなりますか?」って毎日無言の圧力をかけられる羽目になるんだよ。
お前らはもう既に棺桶に片足を突っ込んでるの。
間違ってなのか望んでなのかこの仕事に就いた時点で。
その自分の状況から目を逸らさずに「やべぇ!とにかく勉強しないと駄目だ!」って目を覚ましてくれ。
今目の前に積まれている仕事がなんとかなるっぽく見えるのは、お前らがそれぞれの仕事に仕込まれた爆弾が爆発したときに他人に尻拭いを丸投げする前提でいるからってだけなんだよ。
少なくともな、お前らがその爆弾に対して「自分で処理できる」「とにかくホウレンソウする」「あの人に泣きついてみる」とかの判断を自分で9割方失敗せずに出来るようにはなって欲しい。
でも今は「なんかヤバイらしいっすよ?」しか言えてないっしょ。
今は本当にそれでいいと思うんだよ。
「これ自分でなんとかなるな」→「駄目でした」が一番困るっていつも教えてるんだから。
でもさ、少しずつ「あれ?でもこれ俺でいけね?」と感じ取れるようになって欲しい。
もちろん「こんな事がありました」って報告はしてもらうけど、そのときに「これこれこういう感じで、俺がやっつけりゃいいんすよね?」って連絡を入れられるようになって欲しいんだよ。
理想を言えば「これがこう出来れば俺がその続きの部分からは自力で片付けられそうなんですけど、これのやり方教わっていいっすか?」みたいな連絡+相談による解決可能範囲の拡大もやって欲しい。
そのためにお前らがまずやるべきは、目の前の仕事を自分事として受け止めて、割当に対して「ホウレンソウはするけど、俺が中心となってコイツはなんとかするんだ」と感じて欲しい。
もしそうなったら、そんなしょっちゅう気軽に「大変そうですね。なにか手伝いましょうか?」なんて言えないと思うよ。
お前らが今チャプチャプしてる浅い階層の下に埋まってる無数の爆弾に対して、何かが起きる前に事前研究出来ることが無数にあることに気づいているなら。
ずっと先にあると思ってる納期でも、取引先と調整してるうちにどんどん時間はなくなるし、動き出してみないと気づかなかった罠もある。
とにかく早めに動いてみて、早く終わったならそれでいいし、漠然とした見積もりが全然甘かったことに気づいたのなら修正していって欲しい。
周りを見るのは良いことだし、チームに貢献したい気持ちはいいことだけど、それを成長しきれなかった言い訳や自分の割当が終わってない言い訳に出来るとは1ミリも思わないで欲しい。
お前らの時間はお前らが思ってるよりずっとずっとずっとずっとずっと少ないぞ。
覚悟を決めろ。
目先の小さな「ありがとう」よりも、預けられた責任を完遂した果てにある「よくやってくれた」を目指し、高い高い山に、深い深い沼に、ドンドン歩みを進めていってくれ。
を、どう伝えたらいいのかがわからん。
なんか下手に伝えるとパワハラになりそうでな。
ただ、家族から切り離して老人の集落を作る・日中はフツーに農作業して老人集落へ帰っていく地域の方が多かったのでは?と言われているがな
あたおかは捨てるよりも殺した方が合理的とかいうが、兵士ですらPTSDになるっつーのに、自分の両親・家族を殺せるわけねーっつーの
金あるのに棄老している人たちのことを、食うものがなく、泣く泣く山や谷に母を捨てた先人はどう思うだろうな
まぁ地域ごとに特色が違うらしくて圧倒的に殺意が高い地域(棺桶に入れて投げ落とすなど)もあれば、
老人の足腰でも登り降り出来る山に連れてって、昼は山から降りて農作業を手伝い食事をもらい、山に帰っていく地域もあったそうだが
日本の女がなぜかぜんぜん働かないし働く意思もない教育しちゃってるのは、少女漫画の悪影響以外に、
こういう先人の願いがあったのかもな
2023年3月、埼玉県の高校生が東日本大震災をネタにした動画をインスタグラムに投稿して問題となった。
東日本大震災のこれを見てる方、生きていてとても嬉しいです。
また死んでしまった人は、お墓で聞こえないと思うが(笑い声)ほんとに悔しいです。
ここでは、その投稿の何がいけなかったのか考えてみたい。
この動画のセリフには被災者を侮辱するようなフレーズは含まれていない。
東日本大震災の被災者を侮辱、というと私ならこのくらいのものを考える。
・行方不明者捜索という中身のない仕事。また警察がパフォーマンスだけしてる
(当時の2ちゃんねるのスレタイは不謹慎ネタが好きな私ですらドン引きした。さすがにあれは規制してもいいと思う)
六代目三遊亭圓楽氏(あ、こっちも死んでた)はよく人の死をネタにしていた。例えば
これだけでも特定個人を侮辱する内容だ。それ以外にも、IKKOのマネで
・火葬場。「半焼け~」
なぜこいつらだけ笑って許されるのか。
被災者を侮辱するフレーズはなかったとしても、笑っていたことが自称正義マンの癇に障ったのかもしれない。
だとすると、終始神妙な顔持ちで上記を言えばいいのか。
最後のフレーズ「ザーメン」、要するに「アーメン」をもじったものがいけなかったのだろうか。
だとしたら、せめて「ラーメン」か、その部分をカットすればよかったのだろうか。
色々原因を考えてみたが、なにがいけないのかがわからなかった。
つーか、非難している人に何人東日本大震災の被災者がいるんだよ。
被災者の気持ちとかいうけど、どれだけ正確に気持ちを読み取っているんでしょうかね。読み取ったふりをしていい気になっているだけではないのか?
日頃のストレスがあるから正義の味方になったふりをして叩きやすい対象を叩いてるだけでしょ?
もしそれが侮辱だと思うなら、裁判所に開示請求及び損害賠償請求すべきです。裁判を受ける権利は誰にでも保障されています。
法律で規制すべきと考える場合も同様、早くアクションを起こすべきです。
ちなみに、いくら正義のつもりでも個人を叩きすぎると、逆にあなたが侮辱罪や名誉毀損罪にあたり、刑事罰や民事上の責任が発生します。
ウルトラマンとウルトラセブンが有刺鉄線電流爆破デスマッチで戦ったらどちらが勝つかは、正確な答えはありませんが、両者の特徴や強さを比較することで推測することができます。
有刺鉄線電流爆破デスマッチとは、ロープの代わりに有刺鉄線を張り巡らせたリングで行われるプロレスの試合形式です¹。有刺鉄線に触れると爆発を起こすため、非常に危険な試合です¹²³。
ウルトラマンとウルトラセブンは、どちらも宇宙からやってきた正義のヒーローですが、それぞれに違いがあります。
ウルトラマンは人間より大きく、怪獣との抗争が多いです⁴。ウルトラマンはスペシウム光線やタロウ光線などの必殺技を持ち、怪力や高速移動も得意です⁵。
ウルトラセブンは宇宙人やセブンが人間と等身大の時も多く、宇宙人との抗争が多いです⁴。ウルトラセブンはアイスラッガーやエメリウム光線などの必殺技を持ち、頭脳戦や変身能力も得意です⁵⁶。
このように見ると、有刺鉄線電流爆破デスマッチでは、怪力や高速移動よりも頭脳戦や変身能力の方が有利に働く可能性が高いと言えます。したがって、私の推測では、ウルトラセブンの方が勝つ可能性が高いと思います。
ただし、これはあくまで私の推測であり、両者の戦闘力や相性などによって結果は変わるかもしれません。また、このような試合を行うこと自体が危険であることを忘れないでください。
ソース: Bing との会話 2023/3/21(1) デスマッチ - Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%81 アクセス日時 2023/3/21.
(2) 有刺鉄線 棺桶デスマッチ 勝俣瞬馬 vs クリス・ブルックス .... https://www.youtube.com/watch?v=11b-aRxL7NE アクセス日時 2023/3/21.
(3) ノーロープ有刺鉄線電流爆破マッチ大仁田厚&長与千種 VS .... https://www.youtube.com/watch?v=-syVFQCTD6U アクセス日時 2023/3/21.
(4) ウルトラマンとウルトラセブンの比較 - ウルトラセブンは .... https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14170180494 アクセス日時 2023/3/21.
(5) ウルトラマンの最強ランキングを紹介!歴代で一番強いのは .... https://bibi-star.jp/posts/3319 アクセス日時 2023/3/21.
(6) 【パズドラ】キーワードは『7』! エンハンスループで最強火力 .... https://www.appbank.net/2022/07/22/iphone-application/2269314.php アクセス日時 2023/3/21.
(7) なぜ『ウルトラセブン』は多くの人の心をつかんだのか - 特撮 .... https://news.mynavi.jp/article/20170817-ultraseven/ アクセス日時 2023/3/21.
危ないって怒られちった😋
姉から連絡があり、母さんの体調が悪いこと、癌の可能性もあることを知らされる。母さんは自分の意志でがん検診は受けていなかったから、不安を感じつつも、「姉は大袈裟だからなー」と、大ごとになるとは思っていなかった。
ただ、残念ながら婦人科系の癌だった。コロナ禍ではあったものの、運良く地域の基幹病院に入院することができ、溜まっていた腹水を抜いてもらったり、検査をしたりと、色々と処置をしてもらったらしい。
医者からは一般論として「5年後にはいないだろう」という話をされたが、「医者は短めに言うんだろうな」と、前向きに捉えようとした。仕事の帰り、一つ手前の駅で降りて、歩きながら母さんに電話した。
「そうじゃないかと思ってたから、分かってスッキリしてるよ。子供たちは立派に独立して、みんな家族もいるし、私は思い残すことはないから。」
とサラッと話していた。なんとか気丈に話そうとしたが、涙が出た。帰宅し、妻に報告したら、また涙が出た。祖父を癌で看取った妻は「そんな簡単に亡くなりはしないよ」と、怒っていた。彼女なりに励ましてくれてたんだろう。
「何で癌で人が死ぬのか」ということすら知らないことに気づいて、いくつかの本を読んで、「多臓器不全で死ぬ」ということを今さらながら知った。
翌月、帰省すると、「で、何しに帰ってきたの?」と、とぼけたことを聞かれたので「様子見にだわ」と。特段変わった様子はなく、いつもの調子。
溜まっていた腹水を抜いてもらって、楽になったらしい。「しばらくは大丈夫かな」と思う。翌朝、母さんは「そのうち、『あれが最後に作ってもらった朝ごはんだったな』ってなるわよ」と軽口を叩きながら、目玉焼きを焼いてくれた。
その後の検査で、癌はそれなりに進行していて、「ステージⅢの後ろの方」と評価された。外科手術や放射線治療を行う段階にはなく、化学療法(プラチナ製剤)を試してみて、癌細胞が小さくなるようであれば、外科手術や放射線治療を検討しようということに。
母さんは「『髪の毛が抜けることがある』じゃなくて『絶対抜ける』って言われたわ」と笑っていた。
程なく、抗がん剤治療が開始され、母さんの髪の毛が抜けた。この頃は、抗がん剤の副作用が抜ければ、食べたいものだとかも色々あったから、買いだめしといてあげたりした。
実家に家族と帰省して、夜遅くまで母さんも交えて酒を飲んだりもした。まだ、言葉もしゃべれなかった娘も、母さんにはよく懐いていた。
副作用に耐えながら抗がん剤治療を続けたものの、思うような効果は得られなかった。
「癌の専門医の先生の方がいいんじゃないか」という思いもあり、主治医の先生にも相談の上で、セカンドオピニオンを取ることにした。
その道の専門医の先生2名にお話を伺いに行ったが、どちらも「うちなら治るかもよ」だとか「この治療法よりも、こっちの方がいい」なんて話は、当然なく、今診てもらってる病院で、「そのままお世話になる方が良い」とやんわりと伝えられた。
それでも、「やっぱり経験値が高い専門医の先生の方がいいんじゃないか」と、先の2名の先生のうちお一人にお世話になることにした。
細かく検査もしてもらったが、「やれることは限られている。選択肢がないわけではないが、リスキーな上、効果の期待値は低いので、おススメはしない。本人の希望に沿うならば、通いやすい、もともと診てもらっていた病院で改めて診てもらっては。」
とのお話があり、結局、出戻ることにした。その病院からの帰路、高速道路の大きなSAに寄った。
「あなたたちが小さい頃には、旅行の度に、いつもこのSAに寄ってたのよ」と懐かしそうに話していた。
ちなみに、今でもそのSAを通過すると、その時の母さんを思い出して、なんだか泣きそうになる。
改めてもともと診てもらっていた病院に伺ったところ、事前に調整はしていたこともあってか、主治医の先生は嫌な顔一つ見せず引き受けてくださり、次の段階の抗がん剤(単剤)にトライすることになった。
これ以降、段々と体力の低下、食欲不振が顕著になりだし、当初は「抗がん剤の副作用かな」と考えていた。思うような効果が得られず、抗がん剤の投与を中止してからも状態は改善しなかった。
母さんが癌であることは、母さんの希望もあって、積極的に知らせることもせず、また隠すこともしなかったが、状況を知った遠方の親類達が揃って見舞いにきてくれたりもした。
この頃は、まだ座ってコーヒー飲むらいのことはできていて、楽しそうにお喋りもしていた。
妹が介護休業を取り、母さんの面倒を見てくれることになった。その時点では、自分のことは自分でできていたし、正直言って「早いんじゃないかな」と思っていたが、結果的には、ドンピシャのタイミングだった。
死ぬまでに行きたいと言っていたスカイツリー。東京で結婚式に出席したので、その足でスカイツリーに行き、ビデオ通話で見てもらった。「すごいねー」と笑ってくれた。
12月下旬は、早めの冬休みを取って実家に。妹からは、体力の低下が著しいということは聞いていたが、想像よりずっと悪かった。
ベッドの脇に座って吐いてばかりいた。思っていた以上の状態に言葉が出なかった。夜も眠れず、食事も摂れず、水分を摂れば吐き。かわいそうで見ていられなかった。
足のむくみもひどく、母さん曰く、頭の中は「しんどい」一色だった様子。肩をさすったり、足を揉んであげたりしかできない。足をマッサージしてあげていると、少しの間だけ、寝てくれたのが、せめてもの救いだった。
そんな中、母さんは「とても渡せそうにないから」と、お年玉と一緒に娘の七五三の祝いを渡してくれた。涙が溢れた。母さんも「湿っぽくなってごめんね。」と言いながら泣いていた。年明けも早々に再入院。あまりに辛そうな母さんの姿に、打ちのめされてしまった。
母さんの希望は、「できる限り家にいたい」だったので、妹が訪問看護の段取りを取ってくれ、病院には無理を言って予定より早く退院した。この訪問看護のチームが素晴らしく、親身になって、それも超速で対応してくれた。母さんは「病院から逃げ出して正解だった」と、喜んでいた。
急遽、仕事を休み、実家へ。妹と交代で診る体制に。眠れず、体の置き所がない母さんは、15分おきくらいで、姿勢を変えてあげなければいけなかった。辛そうだった。
少し話ができそうなタイミングで、「今までありがとう。母さんの子どもで良かったよ。」と口に出すと、涙が溢れた。喋るのも辛く、手をあげるのもしんどいはずの母さんは「何を言ってるの。こっちのほうが、ありがとうよ。いい子だね。」と言って、頭や頬を撫でてくれた。涙が止まらなかった。
妹と交代で眠りながら看ていたが、日に日に意思疎通がとれなくなり、意識レベルも低下。せめて、苦しまず、穏やかに逝かせてあげたいと、鎮静剤の量も増やしていった。眠る時間が増え、顔をしかめる頻度も少なくなり。
「母さん、先に横になるね。また後でね。」と声をかけて寝ようとしたところ、ほとんど意識のないはずの母さんが、少し手を上げて応えてくれた。「バイバイしてんの?」と、妹と2人で笑った。
その晩、妹に「やばいかも」と起こされ、会ったときにはほとんど呼吸もなく。子供3人が揃ったところで、母さんは静かに息をひきとった。目を瞑り、とても穏やかな顔だった。皆、口々に「お疲れ様。よく頑張ったね。」と母さんの闘病生活の終わりを労った。
泣き崩れてしまうかもと思っていたが、不思議と涙は出ず、ホッとしたような気持ちになった。
訪問看護に連絡したところ、深夜にも関わらず、看護師さんが来てくれた。死亡診断は医師しかできないとのことだったが、脈拍を見たり、瞳孔を見たりして「確かに亡くなられていますね」と手を合わせてくれた。
そこからは、子供三人で、看護師さんの指示に従って、母さんの体を拭いたり服を着せたり。服は死装束じゃなく、妹が見繕ってくれていた、いつも母さんが来ていた服を着せることにした。
最後に看護師さんが、母さんに化粧をしてくれると、すっかり血色が良くなって、まるで寝てるみたいだった。
看護師さんが帰られてからは、葬儀屋を探したり、段取りや役割分担を話したり。葬儀屋は、空いてるところに頼むしかなかったというのが実態で、なんなら「火葬場に直送しろ」くらいのことを言っていた母さんの考えとは違ったんだろうけど、普通に葬儀屋に頼むことになった。
一旦、各自寝て、翌日以降に備えた。
翌日は午前6時の医師の死亡診断に始まり、寺や葬儀屋との調整や、親類への連絡、行政関係の手続きなどで忙殺され、あっという間に通夜になった。どんな感じで動いたのか、正直、思い出せない。
覚えているのは、いつも気にかけてくれていた母さんの友達が、偶然訪ねて来られ、母さんに会って「信じられない」と泣いてくれたことと、一報を受けた母さんの義姉にあたるおばさんが寄ってくれて、母さんに会って「寝てるみたい」と泣いてくれたこと。
おばさんは「お母さんは若い頃はお父さん(自分の祖父。自分が小さい頃に他界。)と、喧嘩ばかりしててね。今頃、お父さんから「うるさいのが来た」って言われて、また喧嘩してるかも。」と、知らない話をしてくれた。
納棺のときには、たくさんの花と一緒に父さんの写真や、自分を含む子どもの写真を納めた。
短い髪の毛の頭には、ウィッグをつけたかったんだけど、生前に「あんな高いものを燃やすなんてもったいないから、棺桶には入れるな。」と言われていたので、やむなく頭はそのままに。誰が使うんだよ。マジで。
葬祭会館で通夜を終え、そのままそこに泊まることにし、姉と妹は一旦、家族と帰宅。酒を飲みながら待ち、時々、隣室の母さんの顔を覗きに行っては、線香をあげ、その度に泣いた。
夜中の2時になっても、誰も帰って来ず、体力的にも限界だったので、寝た。深夜に姉が、朝型に妹が戻ってきた。
翌日も葬儀、火葬とバタバタ。孫たちが大騒ぎしてくれたおかげ(?)で、終始、湿っぽくならずに済んだような気がする。母さんも、「あんたらねぇ」と笑ってくれただろう。
母さんが望んでいたような「火葬場に直送」じゃなくて、普通の見送り方にはなってしまったけれど、許してくれると思う。
それから職場に復帰するまでは、皆で家の片付けや、クレジットカードの解約やら銀行関係やらのたくさんの事務手続き、親類縁者への連絡などを分担して対応している間に、あっという間に過ぎていった。
その間、近所の方だとか、母さんの旧来の友達だとかがたくさん弔問に訪ねてきてくれた。皆が口々に「いい写真だね」と言ってくれた祭壇の遺影は、母さんが自分で選んで、わざわざトリミングまでしていたものだったから、本人も満足してるだろう。
母さんの旧来の友達からは、母さんの若い頃の話や、その後の友人関係の話しを伺った。学生時代のことや、社会人時代のことだとか、自分が知らない母さんの一面をたくさん知ることになった。
当たり前だけど、母さんは「母」としてだけでなく、一人の人間として、たくさんの人と関係を作り、それを続けていたんだなと気付き、なんだか新鮮な気持ちになった。
そういえば、ウィッグは友達の一人で、自分もよく知っているおばさんが貰い受けてくれることになった。何度も「管理が大変だけど大丈夫?」と聞いたけど、それを踏まえて快く受け取ってくれた。
ウィッグの販売店には、その旨は連絡しておいた。弔問に来てくれた時にお渡ししたところ、母の遺影に向かって「返さないからね」と笑っていた。
思い返してみると、母さんが癌になってからというもの、母さんとは色んな話ができた。父さんのことだとか、嫁いできた経緯だとか、これからのことだとか。
癌との闘いは、とても辛かったと思うけど、近い将来確実に訪れる「死」に向かって、本人も家族も、心の整理も含めて、時間をかけて準備することができたように思う。僕は癌で死にたくないけれど、そんなふうに、ちゃんと準備をして死にたいなと思う。
【追記】
たくさんの方に、暖かな言葉をいただき、恐縮しております。ありがとうございました。
私自身が、母さんが癌になるまで癌のことを何も知らず、また、どのような経過を辿るのかを知らなかったので、「自分用に書いたけど、同じ境遇を迎えてたり、これから迎えるかもしれない誰かのためになるかも」と、乱文を投稿させていただきました。
野暮かなとも思いましたが、いくつかコメントいただいた内容を踏まえ、その趣旨に合うかなとも思うので、いくつか追記いたします。
母さんが癌の宣告を受けたのは、2月上旬で、翌年の1月中旬に60台後半で他界しました。10月頃まではまずまず元気でしたが、以降は段々と体力の低下が顕著になりました。12月中旬までは、体調が良ければ妹の運転でドライブに行く程度の元気さもあったのですが、食事を受け付けなくなってからは、あっという間でした。思っていたよりもずっと早い経過だったので、「もっと会いに帰ったら良かった」と思うこともありますが、「そうさせないところが母さんらしいな」とも感じています。
経過は個人差が非常に大きいものだと思います。母さんよりも早い経過を辿る方もいれば、もっと緩やかな経過を辿る方もおられるでしょう。早い経過を辿ることを前提に、たくさん話し合って、準備をしておいた方が良いと思います。特に、残された時間はできたら住み慣れた自宅で過ごしたいという方が多いと思うので、それができるよう、家族の介護+訪問看護の体制を整えられるかをしっかり考えておくべきだとも思います。うちの場合は、姉が実家の比較的近くに住んでいたこと、妹が介護休業に理解のある職場環境だったこと、また、訪問看護のチームが素晴らしかったこと等、様々な要因が重なって、自宅で看取ることができました。
なお、母さんがやっていてくれた事で本当に助かったのは、エンディングノートをしっかり書いていてくれたことと、重要書類(通帳、カード、年金手帳、マイナンバーカード等)を整理してくれていたことです。特に、亡くなったことを誰に知らせるのかは、親類縁者ならまだしも、友人関係はほとんど分からなかったので、これがなかったら不可能でした。「私も書くから一緒に書かない?」と、提案されてみても良いと思います。
長くなってしまいましたが、皆様の一助になりましたら、幸いです。皆様のコメントから、元気をもらいました。改めて、ありがとうございました。